一里塚を52ケ所としました
 甲州道中の一里塚、一般的には53ケ所です。長野県内の一里塚が江戸からそれぞれ46里から53里と説明されているために53というのが動かしがたいところです。しかし、このページで紹介するのは下諏訪近くの富部を52番目としました。

 日本橋から下諏訪まで53里11丁ということで間に53個の一里塚とするのは尤もです。しかし、1里=3.927kmですが、甲州道中の一里塚は平均的に約4.0km間隔のところが多いようです。53里11丁=209kmの間に4km毎なら52個でも納得できます。よって江戸から53里のところの一里塚が52番目というズレが生じてもおかしくありません。

 甲州道中、当初は甲府までで、1610年頃に中山道と合流する下諏訪まで延長されたようです。韮崎の北西にある六里塚跡・七里塚跡は、甲府から計測した位置のものです。一里塚の総数を53個とするには、この2つを入れ、その間には無いことにするといいのですが、台ケ原一里塚までが近すぎます。これらを東京の給田にある新一里塚(内藤新宿の高遠藩内藤家下屋敷を基点として三里目)のようなものとして考えると52ケ所とすることで前後の距離関係からも一致します。52としたことで、長野県内にある一里塚の説明とはひとつズレてしまいますが、ご了承下さい。ここに記載した一里塚は(峠道など不明な箇所もありますが)、隣りとの間隔が概ね3.5km以上、4.5km以下ですので、矛盾はしないと思われます。

 一里塚が築かれた記録がない半蔵門近くを1番目と数えるのも本来は正しくないのかも知れませんが・・・。


   甲州道中の一里塚 一覧

 1 隼町   11 竹の鼻  22 上鳥沢  33 石和  42 台ケ原
 2 追分(内藤新宿)  12 散田村新地  23 殿上  34 板垣  43 鳥原(松原)
 3 笹塚  13 駒木野  24 下花咲  35 上石田(荒川橋)  44 教来石(山口)
 4 高井戸(上北沢)  14 小仏  25 丸山(下初狩)  36 竜王  45 平岡
 4.8 給田(新一里塚)  15 底沢  26 白野  37 志田  46 塚平
 5 仙川  16 与瀬(貝沢)  27 黒野田  38 韮崎  47 御射山神戸
 6 小島  17 藤野  28 笹子峠  39 祖母石  48 大池(木舟)
 7 常久  18 塚場  29 日影  40 円井  49 茅野
 8 本宿  19 大椚  30 横吹  40.5 武川(六里塚)  50 四賀神戸
 9 万願寺  20 荻野  31 等々力  41 三吹  51 片羽
10 日野台  21 恋塚  32 南田中  41.5 三吹(七里塚)  52 富部

 
 赤塗り 塚が存在する(復元含む)  緑塗り :標柱や説明板などが何かしらある    無 色 :何も無い 



詳細  (右とか左という表現は、江戸から下諏訪に向って歩いた場合で記述しています)

東京都

 1.隼町

 甲州道中は半蔵門(麹町御門)からスタートという見方もあり、日本橋から1里の地点には初めから一里塚は築かれていないようです。明治期に日本橋より一里の標柱が隼町一番地(半蔵門の交差点から100mほど南の旧半蔵門会館前(現グランドアーク半蔵門))に建てられたという内容の記述が東京府史料にあるので、とりあえずここを一里としますが、古地図と重ねると内堀沿いの日比谷に向う車道・歩道付近が旧道のようです。半蔵門付近がたまたま約4キロ地点のため、その後の一里塚と距離的にズレがないとも言えます。

 国立劇場前 内堀沿いの歩道 


 2.追分(内藤新宿)
 新宿通りを伊勢丹本館などある新宿三丁目の交差点(青梅街道と甲州道中の追分)で左折し、明治通りを100mほど進み国道20号(甲州街道)に新宿交差点4丁目で右折する辺りに一里塚があったようです。時の鐘で知られる天龍寺境内とも云われています(ただし、天龍寺がこの地に移転してきたのは天和3年(1683年))。分間延絵図では、街道沿いではなく、街道と玉川用水の間には家々が建ち並び、玉川用水を越えた脇に一里塚が描かれています。塚は榎が枯れた際に崩され平地にしてしまったそうです。宝永7年(1710年)、そこに稲荷を勧請して建てたのが子安(子育?)稲荷大明神。近くに現存する雷電稲荷神社のことなのかはまだ調べていません。

天龍寺 時の鐘 追分道標 道標説明 路上の古地図  新宿4丁目交差点


 3.笹塚
 京王線笹塚駅付近の国道20号の右(北)側に笹塚の説明板があります。説明板は国道沿いの歩道ではなく、交番前の路地を挟んだ向かい側にあり木の陰で見つけづらいです。この辺りの街道両側(南北)に直径1mの盛土があり、その上に笹(竹?)が茂っていたことから笹塚と呼ばれていたそうです。はっきり一里塚としているわけではありませんが、距離的にも笹塚=一里塚なのでしょう。

説明板(2005年撮影) 説明板(2012年撮影) 付近地北側 付近地南側


 4.高井戸(上北沢)
 京王線上北沢駅近くの国道20号と首都高速道路が分かれていく辺り(鎌倉街道入口交差点付近)、国道20号の左(南)側の16kmポストがあるところに一里塚の説明板があります。1里は4kmではなく、3927mなので、もう少し東側のような気がしないでもありません。桜上水駅近くの国道20号に「一里塚」というバス停があります。今井金吾さんの今昔三道中独案内によると桜上水駅近くの国道沿いに一里塚が示されています。また、平成10年(1998年)東京都教育委員会発行の「歴史の道 調査報告書 第五集 甲州道中」の史跡・文化財等の説明に、「桜上水駅近くの杉並区下高井戸1-20にあり、歩道側に説明板が立つ」と書かれています(ただし、本文には北上沢5丁目辺りとしている)。しかし、分間延絵図では覚蔵寺や宗源寺の西に一里塚が描かれています。鎌倉街道が野道という扱いなのかは不明です。桜上水にあったのは下高井戸宿に置かれた新一里塚の跡だと思われます。

説明板 16kmポストと説明板 桜上水の一里塚バス停  分間延絵図より


 4. 給田(新一里塚)
 
上北沢の一里塚跡から3キロほど西に進んだ給田町の交差点(国道20号ではなく旧甲州街道)の先の右(北)側の民家の前に新一里塚の碑があります。新といっても明治3年に建立されたものです。品川縣により内藤新宿(現在の新宿御苑内にあった高遠藩内藤家下屋敷)を起点として甲州街道に建立されたため、元の一里塚とは800m程度ずれています。新一里塚の道標は、幡ヶ谷村、下高井戸宿、給田村、国領宿、染谷村、番場村の計六ケ所に配られたましたが、現存するのは給田の一つのみ。一度は世田谷区立郷土資料館に寄付されたそうですが、昭和59年(1984年)に元の位置に近い現在地に碑のみ復元されました。

 付近地  新一里塚の碑  説明板


 5.仙川
 京王線仙川駅近くの国道20号の仙川駅入口交差点の角にあるコンビニ前に石碑があります。往時、塚は左右にあったようですが、木立はなかったとされています。

石碑 付近地


 6.小島
 京王線調布駅から旧甲州街道を西に3分程度歩いたところ(小島町1丁目交差点手前)の右側に石碑と説明板があります。石碑の裏に説明板とほぼ同様のことが彫られています。駐車場が立体になってますね。この駐車場、えの木駐車場という名ですが、一里塚のエノキという意味のようです。一里塚ファンには何だか嬉しいですね。

 2001年撮影  2012年撮影  石碑裏面  付近地


 7.常久
 ここから三箇所の一里塚は、江戸初期に甲州道中とされていたルートにあります。のちに甲州道中となったルートの南側で、品川道など江戸期より以前からあった街道が利用されていたようです。常久の一里塚は、京王線多磨霊園駅の少し東府中駅寄りにあり、品川道の一里塚とも記されています。2001年のときにあった木がなくなっていますね。また、お隣の本宿一里塚が描かれた「武蔵名勝絵図」の参照板の掲示が加わりました。

2001年撮影 2012年撮影 石碑裏面  付近地(2012年撮影)


 8.本宿
 JR南武線西府駅(2009年開業)近くの日本電気府中事業場の敷地内にあります。会社の中なので見学するには、総務課の許可が要ります。2003年に見学に行きました。正門からまっすぐの道が旧道のようです。右側(北側)の塚が現存していると言っていいのでしょう。府中市のいう「跡」という表現の解釈が微妙です。

一里塚 塚と石碑 説明板 NEC正門(2012年)


 9.万願寺
 ここも初期の甲州道中ルートになります。多摩都市モノレールの甲州街道駅と万願寺駅のほぼ中間、中央自動車道の南側でモノレールの北側にあります。付近の旧道を厳密にたどることは出来ませんが、現在の道路を斜めに横切るルートのようです。現在の歩道から見て一里塚の裏手が旧道で、それっぽく整備されています。今あるのは南塚で現存ということですが、実際には平成に整備されたものが残っていると言えるのでしょう。昭和の時代には民家の庭にあったはずなので、この大きさのまま保存されていたとは思えません。北塚は昭和43年に取り壊されたそうです。

2005年撮影 2012年撮影 左側が本来の旧道  説明板


10.日野台
 日野台にある日野自動車の敷地の西端に説明板があります。説明板は右(北)側ですが、左(南)側には昭和30年頃まで一里塚があったそうです。説明板の記述には実際に一里塚があった場所は90m西とあります。説明板を民家の前に建てられるのは嫌がれるのでしょうね。以前は字一里塚という地名だったそうです。

 説明板  説明板の付近地


11.竹の鼻
 浅川を大和田橋で渡り、旧甲州道中を約500mほど進んだところにある竹の花公園に一里塚跡の石碑と説明板があります。日野台一里塚からは3.5kmもありません。八王子(横山宿)は当時から街だったので、適当な場所がなかったのかもしれません。武蔵名所図会には「一里塚 船森の中にあり。近世はその塚の上に稲荷祠を祀りたり。日野の原に一里塚ありて、ここまで一里なり。又、ここより散田村新地に一里塚あり」と明記されているそうです。

 付近地  石碑  石碑裏面  説明板


12.散田村新地
 場所が定まっていないためか、石碑や説明板の類はありません。以前、千人町と新地(現在の並木町)の境は、枡形でした。東から来た場合、国道20号の長房団地入口の交差点で右折するのが旧道です。右折といっても斜めにで、その痕跡が国道から曲がるところと次に左折する手前に残っています。
 八王子市横山事務所付近に一里塚があったという文献もあります。横山事務所には市指定天然記念物のオオツクバネガシという大木が立派な盛土にあるため、一里塚っぽく見えますが・・・。分間延絵図でも長安寺より西に描かれていますが、その解説書では、「地元ではこのあたりに一里塚があったという伝承はなく、地蔵堂あたりにあったとしている」と記載されています。長房団地入口の交差点の西側、現在では銀杏並木の真っ直ぐな道が続いていますが、かつては丘があったようで、曲がり角に地蔵堂があったようです。横山事務所付近にも地蔵堂があったようですが、枡形付近の地蔵堂を指すようです。今昔三道中独案内には、はっきりと「道が北西に曲がる角にあるのが一里塚跡」とあります。
 ただし、この曲がり角だと駒木野一里塚まで4.5kmと距離が開きます。日野台と竹の鼻が短い分の帳尻合わせでしょうか? 曲がり角と横山事務所は旧道ルートで750mほどの距離となります。ちなみに、竹の鼻と横山事務所は4.3km、横山事務所と駒野木は3.8kmとなり、横山事務所説も一理ありです。
 また、独案内には「万治(1658〜1660年)以前の甲州道中は、大体いまの中央線の辺りを通っていたらしい」との記載があります。一里塚って江戸初期にしか造られていないのではという疑問もあります。

 長房団地入口交差点  旧道跡と改修石碑  改修石碑 八王子市横山事務所


13.駒木野
 ここも跡を示すものがありませんが、小仏関所(元々は峠にありましたが、江戸時代初期に駒木野に移されました)を過ぎ、念珠坂を下り、小仏川に近づく辺りということです。

 小仏関所前  念珠坂  推定付近地


14.小仏
 登山道に入る手前の駐車場付近と言われています。分間延絵図の解説には「小仏宿字保和蔦で街道を横切る小仏川に架かる保蔦土橋の両緑にあり、現在この跡が確認される」とあります。歴史の道調査報告書には、「小仏峠の最後の道筋は、先の地形図(明治21年二万分の一地形図)を見る限り大きくは変わっていない。峠直下で谷の斜面に取りつくあたりに、甲州道中の武蔵国内での最後の一里塚があった。」とあります。大高利一郎著の「街道を歩く 甲州街道」では、「峠の少し手前、南側の少し開けた辺りに一里塚があったというが、いまは何の印もない。」と書かれています。

 付近地の駐車場  甲州道中歴史案内図より



神奈川県

15.底沢

 神奈川県には何故か歴史の道調査報告書がありません。他の文献でも底沢一里塚の記述は見かけませんが、小原宿活性化推進会議(相模湖観光協会)発行の甲州道中歴史案内図に登場するようになり、標柱も建てられました。ただし、付近地という扱いで、ここではありません。設置場所はJRのガード(長久保架道橋)手前。木柱に一里塚下と書かれているように、実際には見上げた木々の奥(中央高速道より奥)のようです。

付近地 JRカードと標柱 小原宿一里塚下 甲州道中歴史案内図より


16.与瀬(貝沢)
 国道20号が一瞬だけ中央道の北側に位置するカーブにあるラーメン店の裏手の古道が整備されたことにより、貝沢を渡り一里塚跡の前を通るようになりました。沢付近の道は安全とは言い切れないので、国道から分かれる舗装路を登り、後戻りするのもありかと思います。

標柱 木札(現在なし) 甲州道中歴史案内図より
 貝沢


17.藤野
 昭和55年(1980年)に設置された立て札には「一里塚の榎の木」と記載されていたようです。現在、現地の説明板にはここが一里塚という記述はありません。エノキの説明として「昔は一里塚に植えられた」という表現にとどまっています。国道に歩道がない区間があるため、安全上の理由からか、JR沿いの道を旧甲州街道として案内していることに要因があると思われます。その曲り道に位置する藤野中学校のところに一里塚の記述があります。さらにJR沿いに似非一里塚の標柱が建ってます。これはよろしくないのでは? 50年後、鉄道沿いに一里塚があったと伝承されそうな気がします・・・。

 本来の一里塚付近  エノキの説明板  藤野中の説明板  似非一里塚 似非一里塚付近 



山梨県

18.塚場

 疱瘡神社の裏手にあります。以前から裏の竹藪とは云われていましたが、最近整備されたらしく、一里塚への案内標識も出来ました。また、以前の説明板には江戸から18里・17番目の一里塚と記載されていましたが、現在の説明板には18番目となっています。底沢が認知されたことによるのでしょう。上野原市内の以降の一里塚も同様に新しい説明板では○番目が変更になっているようです。上野原市の指定文化財ですが、山梨県からは指定されていません。

 疱瘡神社  説明板 案内表示 現存する一里塚


19.大椚
 以前から一里塚跡として説明板は存在していましたが、2007年に新たに駐車スペース付きで碑と説明板が設置されました。その記述によると、実際の一里塚は、この場所より手前(東寄り)のようです。独案内および歴史の道調査報告書の地図によると、現在の碑の少し西の、元の説明板があった辺りになっています。高速道付近の道筋は変わっているのですが、分間延絵図のカーブの具合でも、この辺りのようです。東側説は何を根拠としたのでしょうか? 前後の一里塚の距離からは東寄りにあるべき位置関係です。

旧説明板の付近地
(2002年1月撮影)
付近地(2009年撮影) 碑と説明板 実際の推定地の地図


20.荻野
 現代の国道20号から最も離れた一里塚だと思われます。野田尻宿を過ぎ、西光寺の裏手を進み、舗装されていない道を通った後、県道沿いにあります。荻野です。萩野ではありません。塚は現存していないと言っていいでしょう。

付近地 説明板(2002年撮影)


21.恋塚
 山梨県の指定文化財に登録されています。君恋塚とも云われるようです。左側(南側)の塚が現存しています。右側(北側)は道路拡幅の際に削られてしまったそうです。

一里塚(2000年9月撮影) 一里塚(2002年1月撮影) 説明板(2002年撮影)


22.上鳥沢
 現在、標柱が設置されているのは鳥沢駅近くですが、本当にこの場所なのか定かではありません。鳥沢小学校のコノテガシワの巨木付近とも言われています。分間延絵図の道のカーブからは、現在の標柱の場所が相応するようです。標柱は甲州古道復活プロジェクトとして設置されたものです。

 付近地  木柱  鳥沢小学校付近


23.殿上
 標柱には猿橋と書かれています。これが地元の人々を含め記憶に残ると「猿橋」が正式になってしまうのかも知れません。鳥沢と同類のものですが、こちらの位置は阿弥陀時付近のカーブするところなので、ほぼ正しいと思われます。

付近地  標柱


24.下花咲
 塚らしき形状のものがありますが、復元されたもののようです。大月市の指定文化財になっています。その大月市のホームページに「明治十三年からの国鉄中央線の工事によって壊され、現在ではその場所だけが市の史跡として指定されています。」と書かれています。

 復元一里塚  付近地  説明板


25.丸山(下初狩)
 この丸山一里塚は山梨県歴史の道調査報告書に記載があり写真まで掲載されているので、あたかも一里塚があったような印象がありますが、本当に一里塚があったわけではなく、下花咲一里塚から一里に当たる付近に丸山と称する丘が遠目に一里塚のように見えるので、そう呼ばれていただけのようです。分間延絵図の解説書によると、『「甲斐国志」によると、下初狩村ははじめ笹子川の北岸にあったが寛文十二年(1672年)の大水害によって民家がすべて流失したために、その後南岸に移住し、北岸の旧地を古宿と称することになったという。』と記載され、絵図には笹子川の北側に古一里塚が描かれています。現在の源氏橋より西で、日の出鉱泉の辺りではないかと云われています。また、丸山の駒形権現社らしきものを探すと、砕石工場のため一般者が通行できない道を登ったところにある山の頂に見える祠が該当するようです。

 旧道沿いの石碑群  旧道から丸山を(西→東)  国道から丸山を遠望(東→西)  日の出鉱泉付近


26.白野
 鳥沢や猿橋(殿上)と同様の木柱なので、同時期に建てられたと思われます。こちらは道祖神付きだから格上でしょうか? 初狩から歩いてくるとJR線が頭上を横切る付近の国道に歩道が無くなる場所から天神峠を越える道があります。中央道が建設されたため、一里塚前に出る道は残っていないようです(未確認)。一般的には、歩道がない国道を進み、登山道を示す地図などがあるところを登ってJRを潜り、中央道の手前にあります。白野宿内説もありますが、分間延絵図では標柱の場所のようです。

 歩道がなくなる地点  旧道らしき道  一里塚跡への入口  2008年1月撮影  2012年7月撮影


27.黒野田
 普明院の門前の石碑には日本橋より二十五里としっかり刻まれていますが、二十七番目とします。近くに国道の107kmポストがあります。

 石碑  木柱  付近地


28.笹子峠
 場所は全くの不明です。笹子駅方向から国道沿いに来た道が県道に分かれ、西に向かう県道の富士急山梨バスの新田下バス停付近から北へ向かう道が旧道です。私がここを歩いたのは2005年で、このときは道筋は分りにくかったですが、最近のマップにはルートとして記載されているものもあるようなので、多少は整備されたのかもしれません。
 山梨県の歴史の道調査報告書には、その旧道が県道に出る少し手前を笹子峠の一里塚としています。ただし、この位置だと黒野田からは3キロしかなく、次の日影まではショートカットコースのかつての旧道を想定しても5キロはあります。距離的には矢立の杉付近が中間点に相当しそうです。矢立一里塚としている文献もあるようです。
 実際に黒野田側から歩いたときの時間では、笹子峠のトンネル手前が中間でしたが、これは峠を越えた後の方が、現代はショートカット出来るルートが少ないことも要因です。
 分間延絵図では矢立の杉よりも峠側に描かれています。三軒茶屋付近(明治天皇御野立所付近)という意見もあります。独案内によると黒野田宿と駒飼宿の距離は二里五町三十二間となっていますので、笹子峠区間に一里塚は一か所のはずですが、山間部は進行も遅くなるので、実距離的には短めで設置された可能性もあり、実は笹子峠区間で2箇所に一里塚があり総計53になるということはないでしょうか? ちなみに天保国絵図では峠近くに一箇所のみです。

 旧道入口付近  推定付近地?  県道に出る手前 矢立の杉


29.日影
 笹子峠を越えた後も、所々旧道と言われるショートカットコースがありますが、麓に近い部分は一般的には車道を下ってくることになり、天狗橋を渡り左折すると駒飼宿となります。一里塚は、その天狗橋を渡った後、宿場とは反対方向に向かって行くとあります。最近は動物除けの柵が設置されましたが、入ってもいいようです。入口から3分程度でしょうか、コンクリートの道がなくなってから50mくらいのところです。ほとんど人が通らないので、現地に行くのは年々困難になりそうです。標柱には「甲州街道の往来が盛んなころ、憩いの場所として道標があった所」と書かれています。
 歴史の道調査報告書の地図には、この木柱の位置を一里塚としていますが、道筋の推定と現状の第5図では、国道20号に合流するところ(ガソリンスタンドの辺り)に一里塚跡の記載があります(文章では全く触れられていません)。でも、この大和橋西詰の交差点から次の横吹一里塚までは3キロもないので、駒飼宿の手前が正しそうです。この影響なのか、日影と横吹の間に一里塚があるとして、総計53に合わせている文献もあります。

 旧道出入口  途中の道  一里塚跡木柱  笹子峠方向へ


30.横吹
 横吹の集落を抜け、国道に合流して500mほどのところの畑の中に、2001年に標柱が建てられました。塚はないので甲州市の文化財には指定されていませんが、ここから10里も一里塚跡を示すものがないので貴重です。標柱には「横吹の一里塚は、旅人がその日の行程を知る道標であり、疲れを癒す休憩所でもありました」と書いてあります。

付近地  標柱  標柱裏側


31.等々力
 正確な位置は不明ですが、等々力交差点から万福寺の参道の間付近だと思われます。写真は等々力交差点の近くですが、約200m西側付近が横吹と南田中(ここの位置も不明ですが)の中間くらいになりそうで、ほぼ1里の間隔です。天保国絵図では等々力村と上栗原村の間に描かれています。

等々力交差点の少し西側


32.南田中
 ここも跡地を示すものはありませんが、昔の絵図には描かれており、南田中村の日川の土手近くに在ったようです。

推定付近地


33.石和
 この付近の分間延絵図には鎌倉街道に通じる道(現在の県道304号から国道137号)には一里塚が描かれていますが、甲州道中にはありません。かつては、甲運橋のところを笛吹川が流れていたようです。天保国絵図では笛吹川を渡り、少し左に折れる手前に一里塚が描かれています。現在でも第二平等川に架かる甲運橋が石和町市部と川田町の境です。前後の一里塚の位置が定かではありませんが、推定位置と比較しても前後ほぼ1里の位置に当たります。

 甲運橋  東京道の道標 天保国絵図より


34.板垣
 分間延絵図では、酒折宮参道と善光寺参道の間に描かれています。天保国絵図では、善光寺参道より西に描かれていますが、分間延絵図の方が精度は高いですし、前後の一里塚の推定値との距離からも、参道の間が有力だと思われます。

推定付近地


35.上石田(荒川橋)
 荒川橋付近と言われています。天保国絵図には荒川のすぐ西に描かれています。荒川という名が示すように雨が降れば大水になるので、その傍に造ったのだろうか?という疑問はあります。しかし、分間延絵図の解説に「雨が止むと涸れて水がなく、ほとんど忘れたような状態になる。」とありますので、一里塚普請の人がここに来た時にどういう状況にだったかにもよりそうです。おそらく大水により早々に無くなってしまったのでしょうけど。国道が鍵の手に曲がるところにある甲府市指定文化財のサイカチの木付近という意見もあるようです。このサイカチが樹齢300年ほどということは、貢川(工川)は氾濫しなかったのでしょうか? 水辺に生える樹だから水に浸かっても大丈夫なのかも知れません。

 荒川橋架替中(2012年)  推定付近地 東から  推定付近地 西から 天保国絵図より


36.竜王
 詳細は不明ですが、踏切を渡った後付近と言われています。前後の一里塚との距離的にその辺りということなのかも知れません。竜王新町一里塚と命名した方がふさわしそうですが、元は竜王村の一部ということなので、竜王一里塚とします。踏切名は第一信州往還踏切。この付近では甲州街道=信州往還のようです。韮崎以北では、七里岩の上を通る原路(はらみち)と呼ばれるのが信州往還です。

 甲州道中は線路横断  第一信州往還踏切


37.志田
 碑や説明板はありませんが、載っている文献も多いので甲斐市(2004年までは双葉町で市ではなかった)で場所を精査し、何かしら設置して頂きたいものです。歴史の道調査報告書の本文である道筋の推定と現状には「調査によれば、県道沿いの双葉西小学校の西・塩崎農協給油所の辺りが一里塚跡という」と記載があります。小学校から北西に200mくらいの舟形神社の参道近くのようです。そう記載されているので、私もずっとその辺りと思っていました。立派な木が石垣付きであるのですから間違いないかと。
 しかし、同じ歴史の道調査報告書の街道沿いに残る文化財等の地図では、小学校の東南を一里塚としています。また、分間延絵図で調べると、双葉西小学校から東南200mくらいと推定されます。もちろん、小学校は記載されていませんし、舟形神社もありません(舟形神社の石鳥居は室町時代のものとして山梨県の指定文化財に登録されているのに、分間延絵図にないのは何故?)。神社仏閣は移転している可能性もあるので、厳密にはその歴史も調べなくてはなりませんが、移転していないと仮定して、分間延絵図に登場するのは東から光性寺、東川を土橋で渡り、光善寺、そのすぐ西側に道の両側に一里塚、ほんの少し左に曲がり、右に曲がり、左に曲がった北側に諏訪大明神、左に曲がった先の北に妙善寺があり、右に曲がります。光性寺は現在の光照寺、諏訪大明神は諏訪大神社と思われます。光善寺は現在ありませんが、分間延絵図の解説書には、「光善寺(興禅寺)跡にある三界万霊塔(石柱)寛政5年(1793年)の建立」とあります。街道沿いに現在もある三界万霊塔の西側が志田一里塚と断定できるのではないでしょうか。

 舟形神社参道付近地 三界万霊塔 三界万霊塔付近地  推定付近地


38.韮崎
 ここも碑や説明板はありません。分間延絵図によると、穴観音の参道の少し北西に両塚が描かれています。

 推定付近地  推定付近地


39.祖母石
 正確な位置は不明です。ルートもほぼ国道20号に沿って穴山橋で釜無川を渡るものと、桐沢橋付近で釜無川を渡り徳島堰沿いに進むものがありますが、天保国絵図には唐沢が釜無川に流れ込む付近の国道20号に相応する場所に描かれており、姥婆石付近になります。しかし、ここだと韮崎からちょっと距離があり過ぎます。前後の一里塚(いずれも推定ですが)との距離的には桐沢橋の少し北の旧道と国道が接近する辺りになります。歴史の道調査報告書では距離の推定から赤地蔵の少し北西としています。

 推定付近地  推定付近地  姥婆石


40.上円井
 今昔三道中独案内や歴史の道調査報告書、分間延絵図にも記載はありませんが、天保国絵図には徳島堰と甲州道中が交わる地点に描かれています。こんな特徴的な場所なら間違いないと思うのですが。1838年の天保国絵図は、既に無くなっている一里塚もすべてプロットされています。編纂にあたり、既に無いところは1里に相当する場所を記す決まりがあったようですが、幕府による国絵図事業なので全くの適当ではないと思います。

 推定付近地  天保国絵図より


40.5 武川(六里塚)
 「旧甲州街道一里塚跡」と書かれているのだから、誰しも一里塚跡と思って当然でしょう。しかも、横吹一里塚から10里(横吹は見落とす可能性が高いので黒野田からだと13里)も標柱や説明板がないので、疑う気も起きないのでしょう。上円井の一里塚が徳島堰のところだと仮定すると、この場所まで約2キロです。甲府より六里という距離は正しく、甲府城は板垣一里塚と上石田(荒川橋)一里塚の中間辺りなので距離的にも一致します。
 なお、徳川堰沿いルートだと、下円井の逆断層近くとこの場所に一里塚があっても丁度よい距離になります。

 石碑  付近地


41.三吹
 六里塚と七里塚に挟まれた位置に本当の一里塚があったと思う人は少ないでしょう。しかし、歴史の道調査報告書には、六里塚も七里塚も登場しませんが、三吹の一里塚として、「道中絵図にも大武川を渡り、少し行った道の左右に描かれている」とあり、地図には場所も示されています。分間延絵図にも記載があります。一里塚は両塚で木立はありません。大武川を渡り、西に万休院が描かれています。

 推定付近地


41.5三吹(七里塚)
 ここから台ケ原一里塚の石碑まで約2キロです。この矛盾を説明する資料が見当たりません。台ケ原の石碑が出来るまでは疑うことはなかったのでしょう。しかし、今でも一里塚跡としてカウントされていることには疑問を感じます。台ケ原は甲州道中の宿場だったことを観光地としてもアピールしているので、色々と見ていると時間が経過し、七里塚から近いとは気づきにくい面もあるのでしょう。あくまでも甲府から七里の地点であり、江戸初期に造られた一里塚が存在していたわけではないと思います。建立者が個人名なので行政が設置したものではないようです。

 石碑  付近地


42.台ケ原
 台ケ原宿の松坂屋旅館の向かい側に2005年に石碑が出来ました。説明に江戸から43里10町余とあるので43番目としたいところですが、私のページでは42番目とします。六里塚と七里塚は帳尻合わせに数えられている気がします。

 付近地  石碑  石碑側面


43.鳥原(松原)
 分間延絵図に描かれています。解説書に現在位置は不明と書かれていますが、絵図に字松原という地名や七面之社があり、道のカーブから推定すると、松原公民館付近に相違ないと思われます。

 推定付近地  現代の案内図  分間延絵図より  般若堂


44.教来石(山口)
 分間延絵図にも記載はありません。独案内や歴史の道調査報告書にも全く記載がないのです。しかし、天保国絵図によると山口番所と国境橋の中間付近に描かれています。前後の一里塚の距離的にも合致するので、この辺りにあったとしておきましょう。

 山口番所手前(南東→北西)  推定付近地(北西→南東)



長野県

45.平岡
 長野県内、この平岡が江戸から46里となっています。距離は正しいのでしょう。でも46里が46番目とは限りません。私のページでは45番目とします。元は東寄りにあり、これは現存する一里塚ではありません。分間延絵図の解説書および長野県歴史の道調査報告書に、「右側だけの片塚である。現在、碑がある所は耕地整理の際に、約10m国道沿いに移されたものである。」とあります。石碑には「築キタル塚ナリ」と刻まれているので、石碑が建立された昭和37年には現存していたのかも知れません。
 今昔三道中独案内に「右之塚は左の誤りであろう」とありますが、これは国道を旧道とみているからだと思われます。

南側から 北側から  東側から 石碑 石碑側面


46.塚平
 石碑に「重修一里塚」と刻まれているので、その名称でも知られていますが、何度も修復した一里塚という意味のようです。土地としては塚平と呼ばれる地区に位置します。片側とはいえ、本当に往時のまま現存しているものならば、富士見町による説明板があっても良さそうなものです。富士見町の指定文化財ではありません。

2004年10月撮影 裏側から 2013年11月撮影 石碑


47.御射山神戸
 甲州道中で両側に塚が残るのは唯一ここだけです。富士見町の指定文化財ですが、長野県としては指定されていないところが不思議です。ちなみに一里塚で長野県指定文化財になっているのは中山道の御代田一里塚のみです。

2002年8月撮影 2004年12月撮影 石碑と木柱 説明板


48.大池(木舟)
 石碑と説明板もあり、国道20号からも辛うじて確認可能です。しかし、川向うなので、近づくには回り道が必要となります。分間延絵図でも川向うに描かれています。説明板には「また近年この付近の耕地整理が行われたため当初の位置とは変わっている。」とあります。次の茅野の説明板には、ここの一里塚を「金沢木舟の四十九里塚」としています。

コンビニ付近より遠望 国道より 説明板と石碑 石碑 分間延絵図より


49.茅野
 ここも現在の甲州街道から少し離れているので見逃しやすく、かつ見つけ難いです。本来の旧道は、この付近で中央本線を横切るルートだったようです。金沢宿から茅野へ向かう方向だと、中央道を潜り、宮川交差点の手前の新田中(しんでんなか)バス停近くの小路を線路方向入り、さらに民家の裏のようなところにあります。読みづらくなっていた説明板は新しいものに更新されましたが、文面と場所はそのままです。

 路地から民家へ  民家の裏に碑  石碑と説明板  新しくなった説明板


50.四賀神戸
 ここからの三か所は、旧道沿いにあるので見つけやすいです。でも旧道が分かりづらいかも・・・。五十一里塚と書かれているので、50番目とすると紛らわしくなってしまいますね。江戸から51里は正しいのだと思います。2012年10月から、かりんちゃん子バス(ジャンボタクシー9人乗り)が通るようになりました。向かいの盛り土は一里塚では?

 石碑  説明板  一里塚バス停  謎の盛り土


51.片羽
 上諏訪駅に近い旧道沿い、吉田の松から少し西の左側、民家の脇にあります。ここも五十二里塚と書かれていますが、ここでは51番目です。江戸から52里の一里塚です。2014年に訪れると石碑の裏が駐車場になっていました。

 石碑  説明板  裏が駐車場に 付近地 2014年撮影


52.富部
 石碑の横には五十三里と刻まれていますが、説明板は五十三里ではなく、53番目と書かれています。おそらく長野県では、53から数え始めたのではないでしょうか。武川付近の六里塚・七里塚を数に入れた方が説明上は楽になりますね。説明板の記述に「道の中央を測って」とありますが、本当にそうなのでしょうか? それほど厳密なものとは思えません。丁度53里の地点に53番目があると厳密だと信じてしまうかも。

 石碑と説明板 石碑  説明板



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