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エピソード・ワン

夜明けて間もなく、
街がまだ鳥たちの囀りと新聞配達の足音だけを
許している時間帯にそっと家を後にする。
暗闇の中から刻々と街が姿を現し、
朝陽の暖かさだけが春を告げている。

私の胸には自分以外の温もりがあって 
それがモゾモゾと居心地悪そうに動いているために、
寒さなど気にならない。
誰に向かうでもなく優しい笑みを浮かべ
大事そうに胸を両腕で包みながら
広場へと向かう足取りが妙に軽い。

昨夜の雨で土の地面は湿気を帯びているが、ア
スファルトのあちこちはすでに乾き
青々とした空が わずかに残る水溜りに揺れる。

昨夜、午前零時過ぎにベットに入り、
うつらうつらと心地よい雨音に
意識が遠のき始めた頃、雨音に混じって何か聴こえる。
なんだろう?
聞き逃してしまいそうなほどの小さく微かな声
枕に頭を落としたまま、ぼんやりと聞いている。
寂しそうな哀しそうな、
それでいて誰もが逆らえない幼い者から
発せられている独特の信号。

眠りの準備に入っていた筈の頭はすでに 
その鳴き声にハッキリと意識を集中しはじめていた。
雨音がする。子犬が鳴いている。雨音する。子犬が呼んでいる。

呼んでいる?!!

意を決して起き上がり、パジャマを着替えると外へと向かう。
霧雨かと思っていた雨は 
意外なほど大きな音をたてて地面に踊っていた。

コンクリートの建物が並んでいると音が反響して場所の特定が難しい。
ましてや雨音がジャマをしている。
子犬の鳴き声は 「クオォ〜〜ン クゥ〜〜ン」という鼻で鳴いている声なので
外で聞いているにも関わらず、どこなのか見等もつかない。

雨の中 散々走り回って探してもみつけられずに
諦めて出発地点である団地中央の公園に戻ってきた時、その声が
ようやく近くで発せられた。

居た!!

やたら頭だけ重そうな貧弱な子犬。
ちゃんと雨を避けて 公園近くの棟の階段で座り込んでいた。
『こんな時間にどうしたんだい?』
優しく抱き上げ ふと 自分がどうするつもりだったのか考えていなかったことに気付き
苦笑してしまう。
傘も持たずに飛び出してきてしまって、こっちの身体も冷え切っていた。
小さな命に問うてみる。
『うちに来るかい?』
それが昨夜の出来事だ。
子犬は我が家へ着いても食べることより遊ぶことより
人肌の温もりを求め、おそらく数日ぶりの深い眠りを貪っていた。
そして新しい朝がきて、私と犬との生活が始まった。

早朝の広場には 当然誰の姿も見当たらない。
そっと子犬を下ろしてみるが、腰を落としたまま歩こうとしない。
不安で動けないのだと言わんばかりに 頭だけ忙しくキョロキョロ動かしている。
その仕草が愛しくて、もう一度抱き上げ 広場をゆっくりと歩く。
連れがいるというだけで 朝の散歩はこれほど頼もしい。

しばらく歩いた所で、前方から怒声とともに 
3匹の犬が私たち目掛けて走りこんでくるのに
気がついた。
急いで子犬を抱き上げたが
犬たちは アッという間の速さで
私の足元数センチの位置に立ち、
3匹で激しく吠え立て、唸り、
広場中央あたりにいた私は 
いつの間にか柵のある広場端まで
ジリジリと追いやられ 
逃げ場を失って途方に暮れた。
胸には幼い命を抱えているので両手が使えない。
一匹ならまだしも3匹同時にかかってこられたら対処のしようもない。
万事窮すかと 今にも飛び掛ってくるであろう犬たちに身構えながら
神にも祈る気持ちで一瞬 目を閉じた。

そして その一瞬に事態は変わった。

目の前に 犬がいる。
いや正確には犬が一匹増えている。
それなら 更に状況は悪いハズなのだが、
先ほどまでウルサイほど響いていた3匹の声がしない。
今 どこからともなく現れたその犬は 
私と3匹の間に立ち、私に背を向けたまま
3匹を正面に低く、小さく唸った。
それだけだった。
たった それだけで、あの威勢よく吠え立て、
私を脅していた3匹は
どことなく怯えたように スゴスゴとその場を離れていった。

なにが起こったのかわからなかった。
立ち尽くしたままの私に
『大丈夫ですか?』と声をかけられて、
ようやく そこに人が現れた。
この犬の飼い主さんらしい。
飼い主さんは『おいで』と私の目の前の犬を呼び、
犬をリードに繋ぐ。

『私が走ったんじゃ間に合わないと思ったので
犬を放したんですよ』と
飼い主さんは 犬の頭を撫でながら 話してくださって
ようやく恐怖で停止していた私の頭脳が働きはじめて
事態が飲み込めました。

この飼い主さんと犬によって危ういところを私は助けられたのだ。

それにしても この犬の存在感をどう表現すればいいのだろう。
柴犬である。そういえば 先ほどの3匹も柴犬だった。
でも明らかに違う。全体の雰囲気がまったく違う。
どっしりと落ち着いていて物静かで何にも動じない雰囲気がする。
体重は10キロ程度なのだろうが 太りすぎでもなく痩せすぎてもいない。
毛艶も目の輝きも 見るからに素晴らしい。
それでいて どんな大きな相手にも負けないんじゃないかと思わせるほどの
雰囲気が漂っていて、実際 あの3匹を相手にしたとしても
この犬が勝っただろう。いや おそらく最初から勝負はついていたからこそ
あの3匹は逃げだしたんじゃないだろうか。
そして飼い主さんへの忠実さ。
でもなぜ、この犬は あの3匹を追い払ってくれたのだろう?!
飼い主さんによると、あの3匹は団地隣の一戸建ての飼い犬で毎朝同じ時間に自由に放されているらしい。
そして 気弱そうな一人歩きをみつけては、今日のように3匹で吠え立て脅すような悪さを繰り返しているとのこと。

恐怖のあまり すっかり忘れていた胸に抱いた子犬が『降ろせ』とせがみ、
その柴犬の前に子犬を降ろすと 
初めてその柴犬の表情がわずかに動き、
尻尾を小刻みに振ってくれた。
どうやら受け入れてもらえたようだ。
子犬は大喜びで その柴犬にまとわり付いている。
子犬はその柴犬が大好きになり、そして私は
『子犬をこんな成犬に育てたい!!』と
目標をみつけた。

この朝、幾つもの時計が同時に動き始めたのを感じました。
実際には 前夜、子犬の呼び声に
家を飛び出したところから
私の人生は 方向を変えたに違いない。
誰にも それぞれの未来予想図があって 
みな それに向かって歩んでいる。
だけど昨日の時点で 
私の予定に犬は入っていなかった。
子犬との時計、柴犬との時計、あの3匹との時計
そして この後 幾つもの時計が
賑やかな音をたてて軽快に過ぎていく。


今 私の隣に一匹の老犬がいる。
あの雨の夜、私を呼んだ 過って子犬だった命である。
ある日気付くと君の時計は速度を緩め、
そして今 その針を休めようとしている。
陽だまりの中で眠り続ける君の中で、
この16年間がさざ波のように緩やかな弧を描き
繰り返していることだろう。

私は 良い飼い主だったろうか?
私は ちゃんと君を愛せただろうか?
君は幸せだっただろうか?

君が幸せだったかどうかは わからない。

だが 私が幸せだったことだけは事実であり 
あらがえない真実だ。