エピソード・ワンワン『野良母さんの宝物』

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1991年

6月の小雨の夜、一匹の白い中型犬の雑種は幾つかの命を産み落としました。

生まれた子犬たちは次々と胎盤を舐めとられ、胸元に抱えられていく。

 ここは 何万坪もあろうかという、ある建設会社の資材置き場の片隅で

その隣には高い金網を挟んで、まるで長方形の箱を均等に並べたように

大型団地が立ち並んでいます。

団地の周りには手のつけられていない広大な土地が団地を取り巻くように広がっていて

眠ることのない夜の街から切り離されたように、不似合いな静寂が残されている。

 出産を終えたばかりの彼女も、彼女の親も ここで生を受けました。

ですが、彼女の中に親や兄弟、仲間の記憶はないと思われます。

彼女が成犬になるのを待たずに、親や兄弟、仲間たちは一斉に姿を消し、

彼女だけがこの地に残されました。

理由は彼女・・つまり この野良母さんを見れば すぐに納得できます。

野良母さんは私の知る限り、そこにいたどの犬よりも臆病で警戒心が強く、

人間を最も嫌っていました。

声も上げなければ、陽のあるうちに姿を現すようなマネもしない。

そしてそれが野良母さんの命を救い、野良母さんだけを 

この地に残した一番の理由なのだと私には思えました。。

夜半から早朝までの数時間が野良母さんの世界であり、

唯一彼女が走り回る姿を目撃できました。

但し、運がよければです。

人の気配を感じるとすぐに身を潜めてしまうので

ほとんどの場合私は、団地の資材置き場を一望できる自室の窓から

野良母さんの姿を望遠鏡を片手に追い掛けていました。

そして野良母さんの親や兄弟や仲間たちの歴史も ずっと見続けていました。

私が彼らの存在に気付き、見守り続けて野良母さんは 3世代めになります。

 野良母さんは食料を団地のゴミ置き場に頼っていて、

姿を消した他の犬たちは その場で袋を破り食べはじめていたのですが

野良母さんだけは、自ら作った獣道を利用し必ず袋ごと自分のテリトリーに

運び込んでから ゆっくりとあり付いていました。

野良母さんが これだけ慎重に行動していたにも関わらず、団地住民のうち

特に犬を飼育している数名が彼女の存在に気付いて 

私と同じように遠くから見守っておりました。

 関わってはいけないことを承知していましたし、

過去には一度もそうしたことはしませんでした。

ですが、出産をしたことにすぐに気付いてしまった私は、

迷った挙句に野良母さんの獣道にそっと食料を置いておくことにしました。

おそらく あの身体では栄養分が足らず、お乳もろくに出ないような気がして、

じっとしてはいられなかったのです。

決して近づかず、私自身の姿も見せないように気遣ったつもりでしたが

慎重な彼女が気付かないわけもなく、私の置いた物にはしばらくクチをつけませんでした。

いったい何日後だったのかは すでに記憶が曖昧なのですが

ある日から 獣道の食料は姿を消すようになり、それ以後 何度置いても

ちゃんと次の朝には 無くなっていました。

そして時折 聞こえてくる子犬独特の甘い鳴き声が 

私を独りよがりな幸せな気分にさせてくれていました。

 そんな毎日がしばらく続いた、ある早朝のこと。

私の犬(ペコ)との散歩で、資材置き場と団地を隔てる金網の近くを通りがかると

はるか遠い物陰に元気に転げまわる子犬たちの姿を確認できました。

ただ、やはり均等に乳を飲めないせいか、子犬たちの成長は これが同時期に生まれた犬なのかと

思えるほどの差で、自然の摂理に従い、大きい子はより元気に大きく、

そして小さい子はか弱く、細く、やがて

生まれて間もないほどの小ささのまま、動かなくなっておりました。

 

 いつものように、子犬たちの遊んでいる声を遠くで聞きながら、

金網の側を通り過ぎようとした時

楽しそうな様子が羨ましかったのか、

ペコが蚊の鳴くような小さな声で子犬たちに向かって呼び掛けました。

それに気付いた子犬が一匹、猛ダッシュで金網めがけて走ってきます。

もちろん 物陰に潜むように子犬を見守っていた野良母さんは 子犬の前に回り

急いで止めに入りましたが、時は遅し、中でも一番身体の大きく好奇心旺盛な子の

勢いを止めることはできませんでした。

野良母さんのその時の慌てようは ものすごくて、まるで宝物を取られた子供のように

その場で地団駄を踏んでいるように見えました。

あの いつも冷静な野良母さんが この時ばかりは 子犬のように感じられ、

「ああ そうか」と野良母さんの年齢を ふと思い出しました。

彼女は この時おそらく2歳になっていなかったと思います。

そして ペコをめがけて走ってきた この一番大きな子犬を 

私は「チビワン」と呼ぶようになりました。

チビワンはその後 私とペコが金網の側を通るたびに姿を見せるようになり、

ペコとチビワンは金網を挟んで友達になったようでした。

数日すると 野良母さんも諦めたのか

何も言わず、すこし後ろで、こちらを見守るようになり、

この頃から野良母さんは 私の姿が見えても隠れなくなりました。

もちろん この金網の存在が野良母さんにとって、 

人間との「隔たり」だと確証があってのことでしょう。

しかし その確証の崩れる時は間近に来ていました。

事件が起こったのは、子供たちが長い休みに入った日の午後。

団地に木霊する緊急事態を告げる子犬たちの悲鳴と子供たちの騒ぐ声、

窓から見えたその光景に私の怒りは膨れ上がり、

思わず その場で『やめてー』と叫ばずにはいられなかった。

小学生の男の子たちが金網を乗り越え、ホウキや棒を振り回して子犬を追い回している。

そのまま部屋を飛び出した私の脳裏には、何度か目撃している子供による動物へのイジメが

次々と思い出されていました。

子猫が藤棚の上に置き去りにされたり ゴミ箱に閉じ込められるなんてのは よくあることで

ひどい時には爆竹で追い回されたり、ボールの代わりに投げられていたり、

バットで叩いているのも見たことがあります。

そしてなぜか、その横にいる井戸端会議に夢中な母親たちは それを止めようとしない。

一度子供に注意をして母親たちの反感を買い、それ以後私は クチを噤んでしまった。

今 これが悪いことだと学なければ あの少年たちは

いったい いつ学ぶのだろうと 薄ら寒いものを感じながら。。。

子犬たちの元へと急ぐ私の胸は、最悪の事態しか想像できませんでした。

私が金網前に駆け付けた時には、子供の泣き声と母親たちの叫び、

あたりは騒然としていて人垣まで、できていました。

どうやら一番大きな子犬のチビワンが 少年に噛み付いたらしいのですが

怪我の程度などはわかりません。

泣いている子供の親とおそらく同じように金網を乗り越えた少年たちの親たちが口々に

『噛まれた噛まれた』『これだから犬は・・』『汚い・・』『怖い』と

一斉にしゃべっていました。

事は即座に役所に通報され、間も無く野良母さんの宝物は一匹残らず その姿を消しました。

野良母さんは どうしただろう。。。

いえ 実のところ野良母さんの心配だけは 私はしていませんでした。

彼女のことだから、きっと この事態をどこかの物陰に隠れ

過去そうだったように、やり過ごしたに違いない。

それでも野良母さんの姿が、それきり見れなくなって

序々に不安は蓄積されつつありました。

季節が変わり落ち葉が足元を通り過ぎるようになっても 一度も見かけることがなく

犬飼いの人たちの間で『やっぱり捕まったんじゃないのか』と囁かれ始めたある満月の夜、

真夜中の散歩でペコが やたら後ろを気にするので 振り返ると

遠く闇の中に なにやら白い影が見え隠れしています。

知らんフリをして そのまま歩くと 白い影は遠く距離を置いて付いて来るようだ。

点在する外灯の下で それが野良母さんだと確認できた時には「やはり」という気持ちと

安堵の気持ちで ペコとふたり喜んだものだ。

それから毎夜、真夜中の散歩に限り、野良母さんは 

私とペコにつきあってくれるようになりました。

といっても 相変わらず 遠く距離を置きながらで、

振り向くと顔を背け、目を逸らし、時には姿を隠しましたが、

それでも 角を曲がり、私とペコの姿が見えなくなると

急いで その角まで追ってくるのです。

時々、待ち伏せするようにその角から、ふいに私とペコが顔を出すと

また急いで隠れてと、まるで なにかのゲームでもしているようでさえありました。

そして 毎夜 私の住む棟の前まで送ってくれると、

私たちが棟に消えるのを確認してから何処かへ帰っていきました。

野良母さんとの距離は その後も それ以上は縮まりませんでしたが、

それ以上は離れませんでした。

私はその関係をひどく気に入っていて、

毎晩 野良母さんとの奇妙な散歩を楽しんでいました。

 

そして季節が桜の頃になると、私たち一家は この団地を離れることになりました。

気になるのは やはり野良母さんのことです。

できれば連れて行きたい。うちの子にしたい。

でも失敗すれば、野良母さんを遠ざけてしまう。

わずかの距離にさえ近づいてはこない犬です。

ペコにさえ寄らない犬です。

引越しの日が近づくにつれ、野良母さんのことばかり考えていました。

迷った挙句、主人にも協力してもらって野良母さんを捕まえることを試みましたが

あえなく失敗。

ただ それを野良母さんは怒るふうでもなく

相変わらず距離を置いて 私とペコの背後にいました。

なぜ一度の試みで諦めてしまったのか、このことを 現在に至るまで

私は後悔しない日はありません。

この地を離れることが野良母さんの幸せに繋がるかどうか

自信がなかったせいなのかもしれません。

 そして・・・

いよいよ引越し当日が来てしまいました。

昼には会えないことなど承知していましたが、この団地での最後の散歩に

ペコと金網の側をゆっくりと歩くと、そこには我が目を疑いたくなるほどに

白い影がゆっくりとなんの迷いもなく金網に近づいてきます。

犬と暮らす人のいったいどれだけの人間がこれほどの奇跡に遭遇できるのだろう。

犬の秘められた能力を信じずにはいられない光景が目の前にある。

野良母さんは 鼻を金網にピッタリくっつけ、そしてペコも金網に鼻をくっつけ

二匹の犬の間に距離などなく ただの針金が存在するだけでした。

それから二匹は 数分高く細く哀しい声で鳴き合いました。

何を話しているのだろう?お別れをしているのだろうか?

そんなことがあるんだろうか?

自問自答しながら それでも その光景は それ以外の何も感じさせませんでした。

もう二度と会えないことがわかっているんだね。

さよならを言うために来てくれたんだね。

胸が熱くなり涙が頬を伝い、私はひたすら 野良母さんの最後の姿を

この目に焼き付けることに必死でした。

初めて手が届くほどの至近距離で見る野良母さんの目の色は

青みがかった綺麗な瞳をしていた。

この金網がなければ すぐにも私の手元へ捕まえられる距離にいながら

やっぱり この金網がなければ野良母さんは来てくれなかったかもしれないと思い直す。

 出発の時間に急かされ、後ろ髪を引かれる思いで私はその場を後にしました。

野良母さんのことを共に見守っていた友人から

彼女が完全に姿を消したことを告げられたのは それから一年後のことでした。

野良母さんは私の瞼の中に 今もあの頃のまま居ます。

私は大きな幸せを あの場所に置き去りにしてきてしまった。

我が家に2匹目の犬が現れなかった理由は野良母さんが本当は

うちの子になるべき命だったせいなのかもしれないと今でも思っています。
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