迷子の飼い主

・・・第一章・・・

『動物はね死期を悟ると姿を消すのよ』そんな母の言葉が犬を見ると時々甦る。


まだ中学生だった頃、飼っていた犬がいなくなった。
長年面倒をみてきた私たちの前からなぜ消えたのか!
私はまるで恩を仇で返されたような裏切られた気分だった。
そんな私の心を母はこの言葉で慰めてくれた。
腹立たしさと苦い思いがいつまでも喉元にひっかかっていたので私は出ていった犬を探しに行くこともなく、
すぐに犬のことを過去に追いやった。


あれからもう30年も経つ。
私は結婚し子供を産み、ひとり娘はもう二十歳になる。
脱サラした夫と小さな食料品を扱うお店を構えて10年になる。
小さい店ながら一千世帯ほどのマンションに隣接しているため 利用客は多い。
買い忘れの調味料や野菜、独身生活に欠かせないレトルト物やパン、
クリーニングも取り扱っているので大きなスーパーにはない細やかさで常連客も増えてきた。


マンションは公団の敷地なので余裕を持って建てられていて、
同じ規模の集合住宅に比べても圧倒的に緑が多く、マンション内に公園がいくつもある。
マンション敷地の中央と四方に公園が設けられていて、私の店は西側公園の出入り口付近にある。


私の店とは反対の東側公園出入り口付近にも店があるが、
ここは昔ながらの「タバコ屋」が子供のオヤツや雑貨を置いている程度なので、
食料品の買い物になると私の店の利用が多いというわけです。

さすがに師走になると日の入りも早く、今日はまた一段と寒い。
いつ白いものが落ちてきても不思議じゃないほど冷え込んでいて
時折吹く風が脳細胞までしびれさせるようだ。
こんな日は客も少なく早く店を閉めて 温かいコタツの中に潜り込みたいと心底願ってしまう。

夕方5時を回った。あたりは薄暗く 
店先の商品を一部店内に引っ込めようかと外に目をやると一匹の犬が目に入った。
いつからいたのだろう。
どこにでもいそうな耳のピンと立った茶色い雑種の犬だ。
このへんは緑が多いこともあってマンションのゴミ漁り目当ての野良犬も少なくないが、
あの不似合いな真っ赤なリボンのついた首輪をみると飼い犬なのだろう。
やせ細って手足の長い一見鹿のような身体に、あのリボンがなんとも滑稽だ。
飼い主は近くにいるのか犬は一箇所から動く気配がないのでおそらく待っているのだろう。
『冷えるわねぇ〜〜!!』と常連の奥さんが大声を上げて入ってきて私は犬のことをすぐに忘れてしまった。


立て続けに数人の客があり、主婦独特の無駄話などをし終えて時計を見ると6時半、
8時の閉店まであと1時間半だ。
今度こそ店先の商品を中に入れてしまおうと寒さに挑戦するような気持ちで扉を開けると、犬がまだそこにいた。
薄暗さでわからなかったが、よく見ると繋がれているわけない。
それなのに一匹でこの寒風の中じっと座っている。


『おまえ どうしたの?誰か待ってるの?』と返事など期待するわけもなく話しかけてみると
おどおどした目でひどく怯えている。
座って『こっちにおいで』と呼んでみたが、相変わらず目をそらし その場を離れない。
犬にいつまでも構っているわけにもいかないので さっさと商品を店内に運び込むことにした。


外は一段と冷え込んできた気がする。
外気に触れている皮膚から一瞬のうちに体温が奪われていく。
商品を入れるとガラス戸を閉めて犬に背を向け、

レジ近くのヒーターに急いで助けを求めて走り寄ると私はまた犬のことを忘れた。


手を温めるとすこし気持ちに余裕ができてきた。
閉店30分前の7時半だ。
もう半分シャッターを下ろしてしまっても今日は構わないだろう。
本格的に閉店準備をしようと再び勇気を振り絞って扉を開けると 犬はまだそこにいた。


『おまえ まだいるのかー。困ったねぇ〜』と犬に近づいてみると
驚いたように腰を落としシッポを脚の間に巻き込んだまま犬は動き出した。
マンション側にではなく、すぐ近くの交通量の多い幹線道路側に向ったので 犬に近づくのを止めた。
あちらに出たら戻ってはこれないだろう。
食料品を扱っていることもあり、長く犬を飼っていないので犬が何を好むのかわからないが、
はるか昔に飼っていた犬が魚肉ソーセージが好きだったことを思い出した。

 
店内に急いで戻るとバラ売り魚肉ソーセージを1本手に取り、
かじかんだ手で魚肉ソーセージの皮をむき 外に出ると犬はさっきまで居た場所まで戻ってきていた。
やれやれと思いながら魚肉ソーセージを一切れ犬の近くに投げてみた。
犬は見向きもしない。
魚肉ソーセージはコロコロ転がると犬の近くの道端のゴミと化した。


しかし飼い犬がこれほど人間を恐れるだろうか?
もしかしたらこの犬は虐待されていたのかもしれないという疑惑が浮かんできた。
この犬は愛されていなかったのかもしれない。
残りの魚肉ソーセージをエプロンのポケットに仕舞い、私は再び閉店準備を始めた。

・・・第二章・・・


『犬なんか飼うんじゃなかった』


私は25歳。結婚して1年半、見知らぬ土地で夫だけを頼りに生きている。
夢があった。愛する人と結ばれて愛する人の子供を産み、幸せに暮らしていくというだけのささやかな夢。
だが、生理が止まる度に期待に胸を膨らませ 産婦人科の診察台の上で足を広げる度に絶望感に苛まれていた。
集合住宅という他人へ無関心が一層私を孤独に追いやる。
子供のいない私は主婦たちの集まりにさえ入っていけなかった。
夫は類に漏れず、釣った魚にエサはいらないとの如く私に興味を失った。
会社から帰宅して食事をすると黙ったまま何の会話もせずに寝てしまう。
私は誰とも話すことなく過ごす日々が続き、精神的不安定に陥っていったが そんなことに夫は気付かない。
もしかしたら気付いて持て余していたのかもしれない。
休日であってさえ夫との会話は次第になくなっていった。

淋しさを紛らわせるために犬を飼い始めた。実家にはいつも犬がいた。
犬なら簡単に飼えると思っていたのに室内で飼ったことがなかったので戸惑うことばかりだ。
何度教えても尿と便をそのへんでしてしまう。
後片付けに追われ、子犬を叱っていると気分はどんどん落ち込んでいくばかりだった。
犬の身体が大きくなる度に私の中の不安がカタチとなって膨らんでいくような錯覚を覚えた。
こんなハズじゃなかった。
犬がいることで夫に置いていかれたような淋しさが倍増してしまった。
犬なんか飼うんじゃなかった!!
毎日そう後悔した。

夫は今朝も私と目を合わすことなく出ていった。
私も玄関で見送ることもしない。
どちらからとはなく避けて生きている。
笑顔で話しかけられない自分にも 話しかけてくれない夫にもひどく腹が立ちイラついていた。
犬の小さな鳴き声さえ勘にさわり、手を上げてひどく叱ってしまい そんな自分が余計惨めになっていく。
そろそろ夕刻だ。今日は寒いから早めに散歩を済ませ、夫の好きな鍋物でも作ろう。
今日こそ目をみて話せるように。。。

私の住む棟はマンション中央部にあり、散歩はいつもマンション東側の公園付近で済ませている。
公園近くにタバコ屋さんがあって その店には犬を外に待たせてよく買い物をしている。
知り合いのいない私に 唯一気楽に話しかけてくれるおばあちゃんがいる。

いつもの公園に散歩に出ると犬は私の思い通りに歩かない。
いつものように怒声を犬に浴びせながら 無理やりリードを引っ張り歩かせる。
そろそろ『待て』と『来い』を教えたいのでリードを一旦外し、
数歩離れた場所で呼んでみるが犬は小さな虫や風に飛ぶナイロン袋が気になるようで一向に私の声に反応しない。
犬の近くまで行きイラついてまた怒ってしまう。


本気で言ったわけではないし犬がその言葉を理解するとも思えないが 
幼い頃私が母に言われた言葉『付いてくるな!おまえなんか いなくなってしまえ』と言い捨て
背中を向け数歩歩いて振り向くと・・・なぜかそこにいるハズの犬の姿がなかった。
一瞬何が起こったのかわからなかったが とにかく犬がいない。
どこかに隠れているのか 私は小さく犬の名を呼んで犬の気配がないと近くのベンチに座った。
時計を見ると5時過ぎだ。犬なんだから そのうち帰ってくるだろうと大して心配もしなかった。


10分過ぎても20分待っても帰ってこない。
いったいどこをウロついているんだ。
嗅覚の優れている犬だから一人で部屋のある棟に帰っているかもしれないと思い、
30分待っても姿が見えなければ一旦家に(部屋に)帰ることにした。


家に帰ると6時だった。
犬の姿はこの棟の近くにもなかった。
どこに行ってしまったのか・・どこに行こうが構わない。


あんな犬 別にいなくてもいい。

・・・第三章・・・


『おまえなんか いなくなってしまえ』


意味などわからないが、彼女が私を嫌いなことだけはあの冷ややかな目でわかった。
彼女はいつも怒っていた。
私が動く度に彼女は怒りまくった。
歩くことさえ怒っていた。
彼女は私が好きではないのだ。
私だって・・・私だって彼女なんか好きじゃない!!
『お前なんかいなくなってしまえ』そう言い放つと彼女は私に背を向けた。
気がつくと私は彼女とは違う方向に向って走り出していた。
どう走ってきたのかわからないが知らない場所に来てしまった。
ここはどこだろう。。。なんだか昔来たことがあるような気もするけど思い出せない。
もう暗くなった景色の中にそこだけ明々とした光が灯っている。
ここより先に進もうとしたが何かがブレーキをかける。私はその光の近くに座り込んでしまった。
何度か光の中から女の人が現れて 私に話しかけてくれたが、怖くてよくわからない。

・・・第四章・・・


あんな犬 別にいなくてもいい。


自分以外、音を発するモノのない部屋で時計の音だけが虚しく響き、次第に心音とかけ離れアンバランスになっていく。
『本当にそれでいいのか』と短針が問い、
『今ならまだ間に合うかもしれない』と長針が希望を与え、
『急げ』と秒針が攻め立てる。
針が進むたび大切なものが手の届かない場所へと離れていく恐怖がじわじわと広がっていく。
居たたまれず弾かれたように玄関に向うが
懐中電灯のある場所を思い出して緊急避難用のものを収納してある棚を開き 
中から懐中電灯だけを手に握ると靴を履く時間さえ惜しまれて つま先だけ履いて外へと飛び出した。


『こんな時どうすればいいんだ』
『どこを探せばいいんだ』
『どうやって探せばいいんだ』
頭の中の疑問に身体が答えてくれた。
犬の名を呼ぶ小さかった声は次第に大きくなり、足が犬と歩いた場所へと導く。
広い場所や道は何度通ってもみあたらない。あとは外灯が作る闇の中だ。


躊躇することなく木の生い茂る建物の陰に入っていくと
枯れ葉や投げ捨てられたゴミが懐中電灯に反射して生き物のようにうごめく。
木の枝が容赦なく顔に罰を与え、ぬかるみが足枷をはめる。
何度も膝をつき、その度に手放したものの大きさが 全身に圧し掛かってくる。


『お願い!私にあの子を返してください。
もう一度チャンスをください。やり直させてください。
もう二度と手放したりしません。もう二度と・・・約束します』
犬と同じ四つん這いで闇を進みながら 何かにそう懇願せずにはいられなかった。

・・・終章・・・


ガラガラと店のシャッターを下ろす音に紛れて、人の声がする。
下ろす手を途中で止めて耳を澄ますと確かに若い女性の声のようだ。
振り向くとさっきまで座り込んでいた犬の耳が後ろに倒れて
まるで小さな蚊の鳴くような声を鼻から出している。
犬の身体はシッポの動きにつられてユラユラと揺れ始め、
たまりかねたように犬は立ち上がると身体を低くくしたまま 
ゆっくりゆっくり声の主に向って歩んで行く。
逸る犬の気持ちとは裏腹にお尻が勝手に左右にくねくねと揺れるため
進む速度にブレーキをかけているようだ。
犬が進む度にアスファルトの道路に湯気の上がった一本の筋が伸びていく。
この数時間のためらいや淋しさを道に捨てていくように犬はオシッコを漏らしながら女性に向って行った。

彼女と犬は道路の真ん中でまるで何十年かぶりにでも出会ったかのように
その場に座り込み抱き合い大声を出して泣いていた。
彼女が放り出した災害時にでも使えそうな大きな懐中電灯が転がって溝に落ちていきそうになり、
私は急いで懐中電灯を拾うと彼女と犬に近づいた。
彼女はこの寒さの中どこを探し回ってきたのか、
髪やコートに枯れ葉やゴミをいっぱいくっ付け、膝下は泥で汚れている。
緑の多い場所なので木の陰や建物の陰を懐中電灯を持って探し回ったんだろう。
『よかったですね』と拾った懐中電灯を差し出しながら話しかけると、
彼女はようやくそこで我にかえったように立ち上がり、
『あっ すみません。』と涙と鼻水でグシャグシャの顔で私に目線を移し懐中電灯を受け取る。
それから興奮冷めやらない様子で
『良かったです。本当に良かったです』と涙をこぼしながら言葉にならないような返事をした。
『何時間も店の前に座っていたので どうしようかと心配していたんですよ』と
私の見ていた犬の姿を彼女に話して聞かせると
彼女は何度も礼を言って頭を下げてから『さあ お家に帰ろう』と犬に向かって優しく話しかけました。
彼女は犬の首に持っていたリードを付けるとコートの前を開け、
柴犬よりやや大きめの犬を胸に抱くとコートの前をぎゅっと合わせ 
まるで宝物でも包むようにして犬を大切に抱えて帰っていきました。
その間の犬の得意そうな顔といったら、さっきまでの怯えていた犬とはとても思えません。
『なんだおまえ ちゃんとこんな飼い主さんがいるんじゃないか』
そんなことを心で呟きながら 彼女と犬が帰っていく後姿を見送るといつしか白いものがチラチラ舞っていました。

ああそうだ。
運命を分けるのはいつも一瞬だ。
大切なものはその胸に抱えて決して離してはいけなかった。
私も探しに行けばよかった。
必死であんな風に犬を探しに行っていたら 
犬との思い出の最後のページを破り捨てずに済んだのに、
あの子も帰ることができずに私をずっと待ち続けていたのかもしれない。
店の前で震えていたあの犬の姿が 昔の犬と重なって切なくなった。


ーーーー終わりーーーー



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