Rev.008





事故紹介

(Traffic Accident)





バイク


1.日時・場所

 1990年1月17日(水)、それはまさしく湾岸戦争が起こるちょうど1年前のことである。会社を定時に終え、買ったばかりのシンセ(T3−EX)用オケヒットのPCMデータFDを求めて、楽器屋にバイクで向かった。

 そこには、目的とするFDは入荷していなかったが、代わりに非売品のデモFDが待っていた。それはシンセからKyon^2の歌声が聞けるという物で、凄く刺激的な物であった。そして19時過ぎ、店を後にして家路へと向かったのであった。


2.状況

 「非売品のユニークなFDが入手できた。」そのエキサイティングな気分のまま、バイクを操っていた。渋滞していた国道の路肩をバイクはすり抜けていった。「ガツン。」「しまった!」そのときには既に時遅し。どうやら、左に少し寄っていた車に気付かず、そのバンパーにHitしたらしい。

 目の前には、路肩の縁石があり、ヘルメットが道にこすれる「ガリガリ」という音が響く。やがて滑っていた身体は止まり、縁石に腰掛ける。どうも右足が痛い。派手な内出血かと思いきや、足が関節以外のところで曲がることに気付く。「足が折れた! 救急車を呼んでくれ!」


3.病院へ

 救急車は一旦目の前を行きすぎてから、Uターンして目の前で止まった。救急車の乗り心地は、とても誉められた物じゃない。それは、ただの車であり、想像していたようなクッションが効いて滑らかに走る乗り物ではなかった。そして、見知らぬ病院に着いた。

 そこには、テレビで見るような大きな無影灯があった。状況を聞かれた後、放射線室で何枚もレントゲンを撮り、診断が言い渡された。「右足下腿骨折」で、後日(2日後)骨固定の手術を行う」と。ギプスで足を固定された。自分で出来ることは何もなく、ただ身を任せるのみであった。


救急車


4.眠れぬ日々

 その日の夜は、事故を起こした自分が情けなく、一晩中頭の中で「反省文」を書き続けた。痛みより精神的なショックが大きく、眠れなかった。

 その2日目は、CTスキャンなどの検査が続いた。ホントの痛みが襲ってきたのが、その日の夜。翌日の手術が速く訪れて、ひたすらに楽になれることを祈っていた。

 3日目は手術の日。その日の夜は、術後の発熱により、よく寝れなかった。結局、3日間も眠れぬ日々が続いたのである。


5.初めての手術

 血管確保のための点滴を始め、腰椎麻酔の前準備として筋肉注射がされる。そしてお迎えのストレッチャが来る。そのまま手術室前まで行き、手術室用のストレッチャに乗り換え、無影灯のある手術台へ。腰椎麻酔されると身体がポーっと暖かくなる。そして下半身の感覚がなくなる。

 手術は2時間ぐらいだったと思う。下半身麻酔は、上半身には全く影響しない。手術中は目隠しされたが、音や振動がよく分かる。手術は繊細な作業だと思っていたが、金属による骨固定のため、ドリルやノミ、金槌が使われる。さながら、日曜大工の世界である。


6.そして退院

 病院の生活にも慣れた。ただ、日に日にイベントは減り、リハビリとテレビだけが日課であった。夜はひたすら長かった。バイク修理の見積書が送られてきた。それは軽く10万を越えており、修理でするまでもなく、廃車となった。そして1ヶ月以上が経った。

 退院の前日は、ちょうど湾岸戦争が終結する1年前であった。家の風呂に入れる。ベットでなく、布団で寝れる。キーボードも触れる。下界はただただ自由で、清々しい世界であった。


7.抜釘

 骨を固定するために入れた金属の棒を抜くことを「抜釘(ばってい)」と言う。それは、1年以上自分の身体を支えた身体に一部であり、レントゲンでしか見たことのない「黒い陰」でしかなかった。それがこの身体から出てくるときが来たのだった。そして出てきたのがこれである。
固定用金属釘
金属釘の上部
 長さは33cm。ステンレス製の棒の断面は、クローバ型をして、裏側は閉じてなく、隙間がある。上部が少し曲がっている。この部分が骨から飛びだした格好で埋められ、先端の穴に引っかけて抜くのである。
金属釘の先端

 先端部は鋭くなっており、固定用のねじが刺さっていた。このネジもステンレス製で、6角ネジになっていた。




 ということで、今となっては当時が伺える物は、このステンレスの棒しかない。事故後、なぜか車に乗ることには抵抗があったが、バイクは別だった。そして、2台目のLEAD50に今日も乗るMEであった。

 もっと、具体的に痛い話を書いても良かったが、男性に限ってこの手の話に弱い物である。事故の話はこの程度に留めておこう。



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