ん   私の回顧録                                       

                                田 中 曽 子

 平成二十八年一月十日、最愛の夫が七十一歳で旅立った。文集は、当初「夫婦」のタイトルで、二人の出会いから夫婦になる迄を書き始めていたが、その最中に夫に胃癌が見つかった。昨年四月に胃の全摘手術を受けたが、その時点で末期癌である事が分かり、余命一年との辛い宣告であった。家族との話し合いの結果、様々な状況から本人には余命については、知らせないこととなった。
 何事も前向きに取り組む夫は、半年後には驚くべき回復を見せ、ひょっとしたらこの人は、乗り切ってくれるのでは・・・と小さな期待を持ってしまった程、ごく普通の生活ができ、二人の幸せな時間が過ごせれた事を、今も心から感謝している。会社のOB会のパーティーには、毎回嬉しそうに出かけて行き、また、高木 寛氏をはじめ地域の皆さまとの食事や呑み会、日帰りバス旅行には必ず夫婦で参加し、食べて、呑んで、歌って、踊って…忘れられない至福の時を過ごした。
 月日が経てば経つ程別れが近づく…という残酷な現実に直面し、文集どころではなくなった。そして、ついに別れの日が来た。夫の葬儀から数日経ち、悲しみのどん底に陥った時、私にとって偉大だった夫の事を文集に書き残し、夫を偲びたいという思いが強くなり、タイトルも変更して、夫へ感謝の気持ちを伝えることにした。
 昭和四十三年、当時名古屋駅前の大名古屋ビルヂングに支店をおく、大手建設会社に入社した私は、その年の秋、名古屋支店最大と言われる工事現場の事務に配属された。

名古屋駅前から桜通りに、地下街や地下駐車場を建設するという大工事であったが、先発隊として配属されたのは、所長以下七名ほどで、その中の土木の社員に望月千年さんという青年がいた。
 現場事務所は、桜通り沿いにある何年も使用されていない銀行の建物で、広いフロアー、広い通路、食堂と台所、二階には和室が何部屋かあり、営業していた頃はさぞ賑わっていた事と推察された。
 現場は、日を追うごとに次々と社員が配属されて来て、五十人以上の大世帯になった頃には、名駅前のロータリーや桜通りの地下は、地上からは想像もつかない巨大な工事現場になっていた。事務所では、ロータリー部、直線部、機械、資材、事務等々担当ごとに ≠ェでき、出入りする連業者の人数も多く、常に活気にあふれていた。
 さて、ここで望月さんについて触れてみたいと思う。彼は連業者さんたちから「監督さん」と呼ばれ 必勝 ≠信条とする負けず嫌いな性格であったが、それと同時に憎めない一面もあり、事務所では人気者であった。

ある朝出勤すると、巨大な柱の近くで何か確認しては、自分の机をガタガタ移動させている。何をしているのか聞くと「所長から死角になる場所を…」と笑いながら言う彼に、楽しい人だナーと、心の中の扉が少し開いた感じがした。更にある日の昼休み、事務所で同僚達と雑談している彼の話を、聞くともなしに聞いていると、「ギターが…」とか、「ヤマハの講師を頼んで…」とか、よくわからないが、私が趣味としているギターの話である事だけは確実だった。そしてその翌日、同じく昼休みに事務所でギターを弾いている彼がいた。思いきって「私もギター好きです。」と声をかけると、会社のギタークラブに入っていて、ヤマハの講師を頼み、週一回練習しているとの話に、思わず私も入部したいと申し出た。彼は、どんな腕前か知りたいから、一度ギター持って来ナ…という事でその頃家で好んで弾いていた
 ラ・クンパルシータ ≠弾いたところ、よし! 来週から入って…この入部がなかったら、単なる土木屋と事務員で終わっていたかもしれない。
 ギタークラブの練習は名古屋支店の一室であり、ヤマハの先生から爪の長さや、奏法などの指導を受け、独学の私には思い込みや知らない事も多く、勉強になった。
 講師が来られない時には、ブラスバンド部出身の望月さんが指導に当たった。そして、十五人ほどの部員が一斉に弾き始めてまもなく、突然タクトが止まり、彼の声が響きわたった。「列目のきみ 弦の音が下がってるよ。」すごい()だと思った。
 当時彼は、千種区の南明町にあった独身寮に入っていた為、ギターの日は一緒に帰ったり、練習の後、同じく当社の一室で行われている卓球の方へ行ってしまう事もあり、一緒に帰れない日は、何となく気持ちが沈んでいる自分に気がついた。
 この現場に配属された年の暮れは、暖房として使用していた何台かの温風ガスストーブの風が、作業靴についてきた土や砂を事務所中に吹き上げていた。乾燥している上に、季節の風邪も加わって、皆、喉の痛みや咳に苦しめられ、湿度の調節に振り回されていた。私はもちろん、望月さんも例外ではなかった。比較的仕事が早めに終わった日の事、「何か温かい物飲んで帰ろう…」と思いがけなくお誘いがあり、喫茶店で彼のおススメのオレンジエードをご馳走になった。体中がホカホカし、喉も楽になった気がした…が、残念ながら二人共咳と涙目。仕事の疲れと体調不良で口数も少なく、「あんたも頑張ってるね。」と言ってくれた位で地下鉄へ…。 車中お互い会話もなく、彼が池下で下車する際に「じゃあ… 」と一言。タイミングの悪い事この上なく、私は今もこれ  初デート とは認めていない。
 こんな訳で、ギタークラブが縁で話す機会が多くなった二人だが、大きなギターケースを抱えて一緒に歩いていたり、事務所の廊下で練習する姿に、噂が立つのは時間の問題だった。ある日、望月さんを人一倍かわいがっていた直属上司から、「二人怪しくないか?」と言われ、その頃純真そのものだった私は、困った、どうしよう…という思いが先に立ち、その日から事もあろうに、望月さんを避ける様になったのである。何と心の狭い人間だったかと、我れながら呆れてしまう。そして、事件(●●)(?)は起きた。
昼休み、私達事務の机の電話が鳴った。相手は男性で、事務所へ行きたいが、どのあたりかと聞く。必死に道順を説明する私。ところが、私の説明の最中に失礼にもその男性は、「ぷっ!」と吹き出し、声をあげて笑ったのだ。その声は受話器の向こうばかりでなく、事務所の中からも聞こえる。何げなく振り返ると、ロータリー部の机の前で受話器を持って笑っている彼がいたのである。一本してやられた私だが、なぜかその瞬間、たまらなく嬉しくなり、私も声をあげて笑っていた。これが二人の恋の突破口になったのは、言うまでもない。
 それからは 計りごとは密なるをもって ≠フ精神で、深夜作業が多くなった彼とのデートは、昼休みの正味三十分…。 カトレヤ ≠ニいう喫茶店の合図は指一本。さらに遠い喫茶店は指二本。大勢の工事関係者の前でも、素知らぬ顔で楽しい合図を交わしていたのだが、後になってわかった事は、うまく騙していたと思っていたのは私達で、周囲の人達は、全てお見通しだったそうである。
 工事が本格的になってくると、事務所の二階の和室に木材が運び込まれ、いく部屋かの個室が作られた。望月さんの様な独身寮にいる人や、独身者の一部の人は、二階の個室に引越した為、地下鉄で一緒に帰る楽しみは消え去った。
 交通量の激しい名古屋駅前は、当時ロータリーの中央を市電が走っており、最終電車が通るとレールを外して地下の工事をし、翌朝の始発電車が通る迄にレールを元に戻すという時間との闘いの工事であった。ロータリー部担当の望月さんは、工程によっては深夜作業が多く、朝、工事の引継ぎをして自室で眠り、夕方から朝迄…の夜勤が続いた。当然ギタークラブも欠席が多くなり、会う時間が少なくなった分、事務所での手紙の交換が心の支えとなった。
 「交際」発覚後は、事務所ではお互いさらりと接していたが、毎月行われる 締切り ≠ニ称する時期が近づくと、いつの間に入れたのか、私の事務机の引出しに数量と単価の未計算の伝票がしっかり入っていた。そして、よろしく頼むのメッセージの代わりに、あきらかにパチンコの景品と思われるキャンディーの入ったケースが押し込まれていた。
彼の方を優先する為、自分の仕事はそのたびに残業となったが、好きな人の役に立っているという満足感で、心はいつも快晴だった。
 配属されて一年半が過ぎ、竣工を十月に控えた昭和四十五年二月、父が一か月間海外へ行く事を機に、両親の希望で私は退職する事になった。
 退職した事で、外で気楽に会える様にはなったものの、私達には暢気にはしていられない大きな問題がのしかかっていた。養子問題である。私が小学五年生迄は、父の姓「田畑」だったが、跡取りがいない「田中家」は終わってしまう為、母方の祖父は父を説得して母の田中家に入ってもらい、小学五年生の途中から私は田中曽子になった。小学校でも同じクラスだった高木 寛氏をはじめ何人かのクラスメイトは、私の両親が離婚し、私は母親に引き取られたと思っていたらしい。
さて、次は一人っ子の私が「田中家」 を考えなくてはならない時を迎えた。単なる恋や愛の悩みとは異なり、重大な責任と望月さんへ申し訳ない想いで、夜ごと枕を濡らした。望月さんも私以上に悩んだと思う。偶然ながら彼の母親も一人っ子で、父親は婿養子。しかも私達が知り合う前から次男である彼が両親と一緒に暮らす事になっていた。しかし彼はこの後根気よく親と話し合いを続け、寒い冬から春になり、桜が葉桜となった五月、両親、兄姉夫婦、弟…彼の家族に会う為、二人は車中の人となった。最後に訪問したのは、彼のすぐ上の姉宅であった。その頃は、すでに夜のとばりもおり、富士の裾野は宝石をちりばめた様に光り輝き、言葉も出ない程の美しさだった。一緒に姉宅へついて来て下さった  お母さんが、「向こうの部屋からの夜景もいいわヨ !」と私を連れて行き、帰名の列車の時刻が迫っていた為か、お母さんは私に一気に話してくれた。 「千年が一人娘を好きになってしまったから、私も一人娘で事情はわかるから許したの。明るい娘さんの様だから安心しました。」嬉しかった 
 地下街ユニモールと地下駐車場が華々しくオープンした翌日の、昭和四十五年十一月十二日、私達は大勢の方々に祝福されて結婚した。彼と彼の家族の理解で、田中家が続いている事、田中千年になってくれた事を、四十五年経った今も感謝の気持ちでいっぱいである。私達には長男と長女、四人の孫も誕生し幸せな人生だったと振り返っている。
 
天国のあなたへ…
 山ほどの幸せを有難う。抱えきれない愛情を有難う。
優しくて逞しく男らしかったあなたを私は誇りに思います。もし許されるなら、遠くない将来、あなたの故郷に移り住み、毎日一緒に霊峰富士のお山を眺めて過ごしたい…私の現在の心境です。     どうぞ安らかにお眠り下さい。  


旧三年O組の皆さまへ…
亡き夫へ届けとばかりに、一気に書きあげました。
余りにも急な別れに、一時は寄稿をやめようと思った時もありましたが、水野善允氏からの励ましの言葉や、印刷を待っていて下さるご好意に甘えようと決心し、夫との想い出を全部 文集 ≠ノぶつけさせて頂きました。
 文集としてふさわしくない内容だったり、冷静さに欠ける表現が多々あるかと思いますが、どうぞお許しください。
              

   1.1968年作業服姿の望月さん              2. 朝のお掃除                                                                                                                                                   正面は昔の名古屋駅
                                   

                      

       3. 事務所にて                4. 1970年3月 父の帰国の出迎えに   5. 退職していた私は母と                                      仕事を抜けてきた望月さん               和服姿で出迎えに


                                 

  

6. 1970年6月  正式に結婚が    7. 1970年7月23日      8. 1970年7月大阪万博にて                          決まり、我が家でお祝いを         私の生まれ故郷木曽福島の    望月さんの両親も来名                                                                                              お祭りへ


         

     9.1994年8月   10.定年退職で皆さんが送別会を開いて下さい  11.町内のお祭りのビンゴ 
       旅行先にて    ました。サプライズを企画され、妻の出現  ゲームで夫はメロンを
    
            を夫は知らされていませんでした。功労賞  もらいました                                                        の花束は私に・・・

         


12. ペアールックでデュエット         13. あるパーティーで。夫婦   14. 会社の仲良し3人組とその妻達。
                   揃って和服が好きでした
    常に6人で食事会や旅行三昧。
                                    いい時代でした。土産物売り場
                                    で買った三度笠を被る夫



                              


     16. 毎月のように知人、友人が遊びに(呑みに)来て                    18. 2015年8月 孫たちと  
      いました                                                      地域の夏祭りへ

    17. 2015年7月  鮎を食べに岐阜県へ
                                            夫が選んだペアールックで


                     

  19. 2015年10月       20. 2015年11月
         21. 2015年11月12日   
     20kgやせても              蟹を食べに福井県へ
         結婚45周年を祝って乾杯
                                                       2人で祝う人生最後の記念日になりました