しで     の 
        中屋(なかや)
        現在、静岡県島田市在住
                          元青年海外協力隊ボランティア
                          元JICAシニア海外ボランティア
                          大学入学資格検定試験合格
                          静岡大学工業短期大学部電子工学科卒業

 

ドミニカ共和国へ赴任
中米のカリブ海と大西洋を仕切るように列島があり、そのなかに、コロンブスが初航海時に上陸したイスパニオラ島がある。列島の中では二番目に大きい島で、ドミニカ共和国が東側三分の二を占め、ハイチ共和国が西側の残りを占める。島の東の海上にはプエルトリコ、西にはキューバが浮かぶ。
   そのドミニカ共和国で、私は一年間暮らした。「いつかは、中南米のスペイン語圏で生活してみたい」と憧れ続けた末に実現した滞在だった。周知のとおり中南米は治安の悪い国が多いことで知られるが、それでも一度は行ってみたかった。
   赴任直前に、長野県駒ケ根市にあるJICA訓練所で二か月間の語学集中訓練を受けた後に赴任した。ドミニカ共和国での私の滞在期間は二〇〇九年三月から二〇一〇年三月までの一年間で、JICAシニア海外ボランティアの一員として電子工学分野の技術者の身分で、ドミニカ共和国の北部地域にある第二の都市サンティアゴ市において、職業訓練校の電子科に勤務した。(中南米にはサンティアゴの地名が多い)
   職場での私の役割は、電子科の指導員(教師)の技能向上に協力することだった。一人のカウンターパート(協力相手の教師)と組んで、私が得意とする実習教材作りで協力し、学習の効率化を図ることに取り組んだ。残念ながら、今回は一年だけの滞在となり、十分な結果を出せずに終わった。
   スペイン語は上達しなかったが、憧れていた「スペイン語圏に住んでいる」との喜びを実感しながら、有意義で、とても充実した日々を過ごすことができた。
   ドミニカ共和国から帰国してから、後任者に水野善允さんが選ばれ、その縁で知り合うこととなった。
中南米に憧れて
   スペイン語との最初の出会いは、メキシコとキューバを発祥とする音楽、ボレーロ[Bolero]が日本でも流行り、名曲の「時計」(時計をとめて:原題[El reloj]エル・レロホ)を初めて聴いたとき、その旋律に引き付けられたことに始まる。
   中南米に行ってみたいと思ったきっかけは、記憶が正しければ中学生の時に始まったTVスペイン語講座を見てからだった。番組の中で紹介される中南米の風物が楽しみだった。スペイン語の響きが好きで、挨拶言葉は覚えたが、語学の才能に乏しい私は、むしろ毎週の珍しい映像を楽しんでいた。
   成人してからもスペイン語圏で暮らす夢は消えずにいた。ところが、異国で暮らす可能性など皆無の環境にいた私は、ラジオのラテン音楽番組でボレーロが流れるのを唯一の楽しみにするしかなかった。
住めば都
   三二歳で青年海外協力隊への参加を決め、選考試験を受けた。専門技能と基礎英語能力ともに試験に通り、合格した。しかし当時は、中南米での電子技術分野の募集は少なく、代わりに、北アフリカのチュニジア共和国が任地として提示された。一瞬迷いつつも、フランス語圏に属するチュニジアへの赴任を決めた。(正式には、テュニジアが正しい和訳名)
   チュニジアへ赴任してみると、結果的に私の性に合っていた。それで、任期を延長して4年間滞在した。さらに、その後も専門職として公私に渡り、断続的に7年半を過ごした。アフリカ圏にありながらも、高い教育水準、飲める水道水、停電のない安定な配電などが整った、暮しやすい国だった。
私が滞在した時期のチュニジアは、警察力により治安が保たれ、夜中に出歩いても何も起こらない平穏な社会だった。チュニジアは観光立国であり、過激派を徹底して取り締まっており、当時は、とても安全な国だった。暴力組織がなく、暴走族も居ない、外国人には、住みやすい土地だった。
   もっとも、‘八五年には、イスラエル軍が、チュニス近郊にあったアラファト議長率いるPLO本部を空爆して大型爆弾四発を投下し、衝撃波が街中に轟く大事件が勃発した。私の職場にも強烈な衝撃波が襲い、肝を冷やしたことがあった。
   大変だったことでは、辛いチュニジア料理の所為で胃が常に荒れたままで、複数回の食中毒にかかったり、事故で二度命拾いしたりと、幾多の強烈な思い出をつくる滞在だった。
   日常のなかで、チュニジア人の良い習慣を目にする機会も多かった。一例では、市中で喧嘩が始まると、周囲の人たちが必ず即座に割って入り、仲裁することで直ぐに治まる光景を幾度も見た。「日本もこうだといいな」と思ったものだ。
   他では、体の不自由な人がバスに乗る際、バス停ではない場所で停まり、次には、居合わせた乗客の誰かが率先して道案内を買って出て付き添い、降りる際には、バスを待たせて通り掛かりの通行人に託す、感動的な光景を目撃した。
   チュニジア滞在中の楽しみは、古代カルタゴ遺跡や、彼のローマ帝国時代の、現存する世界第二位のコロシアムや、水道橋を眺めて二千年程前の世界に思いを馳せることだった。サハラ砂漠に広がる、雄大な砂の海の絶景にも魅せられた。
夢が叶った日々
   二六年を経て遂にドミ共(ドミきょう:私たちは任国を略語で呼んだ:カリブ海に浮かぶ人口7万人のドミニカ国と区別が必要)への赴任が叶った。到着日から一月間、現地語学訓練があり、安ホテルに滞在した。最初の夜、FMラジオを点けると、音楽専門局からボレーロの名曲が次々に流れてきた。それらを聞きながら「スペイン語圏に居る」との実感が湧き、夢ではない嬉しさに、思わず目頭が熱くなった。
   ドミ共で暮らし始めると、他の近隣諸国よりも治安は良いとはいえ、市中に点在する低所得者層が住む危険地域に近づかないように指示された。また、南米と米国をつなぐ麻薬密売ルート上にあり、麻薬が出回っていることが問題となっていた。それで、私たちは二〇時以後の外出を禁止された。
   かつてチュニジアで暮らした際、外出時には常に危険回避の意識を持ち、時々後ろを振り返り、安全を確かめていた。新たな任地では、より現実味を持って習慣付けた。
 幸いにもサンティアゴ市の私のアパートは治安の良い閑静な住宅街の中にあり、アパート周辺の生活は問題なかった。住んでみると、イスラーム文化とは大きく違う、キリスト教文化の社会は、私に新鮮な感覚を与えてくれた。ラテン文化の濃いドミ共には開放的な雰囲気があり、日本人の私にとって、宗教面の制約をあまり感じな いで済む気楽さがあった。

懐かしいボレーロは如何ですか
 さて、日本では暫く前にFMのラテン音楽番組が終ってしまった所為で、ボレーロが聴けず寂しい限りだ。しかしインターネット時代になり、Youtubeで探すと、いつでも鑑賞できる環境が整い、嬉しいことだ。歌詞もネット検索できる。
   ソラメンテ・ウナ・ベス、ベサメ・ムチョ、ある恋の物語など、好きな方は多いだろう。かつてのラテンコーラスの懐かしい演奏を聴くことができる。しかし、お薦めしたいのは原曲の旋律の美しさを最大限に引き出しながら、現代的な新しい解釈の演奏に衣替えした、名曲の数々だ。
   検索の際、ボレーロとすると、クラシックの名曲が出るので、検索では、boleros exitos(ボレーロ人気曲:の意味)または、baladas y boleros(バラードとボレーロ:の意味)などの単語を入力すると選びやすい。一覧画面を出してから、適宜選んで聞きながら、脇の画面で類似演奏を選ぶとよい。
 私が最も気に入っている演奏では、メキシコを拠点に活躍しているルイス・ミゲルという四〇歳代の歌手が、懐かしい名曲のすべてを新感覚の洗練された曲にかえて歌っている。彼は、メキシコの世界的作曲家、アルマンド・マンサネロが作ったアドーロを初めとして、名曲の数々を歌っている。
   馴染みのある歌手では、スペインの有名なテノール歌手、プラシド・ドミンゴがボレーロを歌っており、聴きやすい。

 

異国に住んで、自分を見つめ直す
  赴任するまで私にとっては縁がなく、名前すら思い浮かぶことのなかったチュニジアとドミニカ共和国という、ともに人口一千万人程の小さな国での滞在は、先進国に滞在した場合とは違う感覚で任地の風物を観察吸収できた日々だった。
   実際に生活してみると、それぞれの国に生きる人々の日常生活や文化、宗教の違いを見聞できた。住んだ国の、真似たい良い面や、ほほえましい光景を知ることができた一方で、日本では既に改善されている様々な問題点も見え、「自分が日本に生まれ、日本で育ったことを心底ありがたい」と実感することもできた。それらのすべては、異国で生活したからこそ実体験できたことであり、自分の知識となった。
   わざわざ途上国で暮らしてみたいと思う人間は多くはないし、また関心も薄いものと思う。日本人にとっては馴染みの薄い異国での暮らしは、人と違う経験であったからこそ、自分を磨くには「持って来い」の場だった。
   私にとって最も良かったことは、自分を人と比べる必要がなくなったことだ。異国体験は、人と比べようもないし、比べる必要もない。任地で得た知識や記憶は、私にとっての強みとなり、私の個性を伸ばしてくれる材料となった。
 以前は意識するしないにかかわらず、何事につけ、他人と自分とを比べざるを得なかった。しかし、異国生活で得た体験と、日本を離れ、長期に渡り外から日本を見つめ直すことで得た認識との両方を獲得したことで心に余裕が生まれ、今では何事も冷静な目で見ることができるようになっている。

 

治安を守るものは
 今、中東を賑わせている大混乱の報を見聞きするにつけ、チュニジア滞在中、平穏な社会だった、かつての日々を思い起こしながら、先日事件に巻き込まれた日本人を含む観光客の方々の冥福を祈らずには居られない。
   治安の良し悪しは、人が築き上げるものであり、かつてのチュニジアのように、警察力で強引に抑え込むしかないのだろうかと思ったり、遠い未来に、誰もが我欲や金銭欲にとらわれることなく、のん気に暮らせるような夢の社会が出現するまで待つしかないのだろうかと考えたりしている。

 

今実践していること
   海外生活をして日本を改めて見直した時、「日本社会が便利になり過ぎて、日本人は、昔の良き日本を忘れてしまった面があるのではないか」と気づくことがあった。それは、買い物時の「客から店員への挨拶や会話の少なさ」だ。
   それで、この二〇数年、個人店に入るときは自動呼び鈴があっても「御免下さい」と声を掛けて入るようにしている。また、スーパーマーケットや、その他、どこでも、店の会計で「こんにちは。お願いします」と、挨拶言葉とともに商品の入った籠を渡すようにしている。
   支払時も、渡す金額を伝え「一二三円ちょうど出します」「千一円で見て下さい」「一万円を出してもいいですか」などと伝え、渡す金額に間違いが起きず、店員の負担が少しでも軽減できればと思い、声で伝えるようにしている。明細を受け取る時も、「ありがとう」と一言伝えている。毎回、声を出していると、それが習慣になってしまう。
   フランスやスペインを旅した際に見掛けた光景では、客が店員に、パリではボンジュール、マドリッドではオラーと先に声を掛けてから、売り場で商品を手に取り、会計で支払うことが常だった。それを眺めながら「国境が陸続きの国々では、戦争が頻発した時代から、どこの誰か分からない環境があり、声を掛け合うことが大事だったのだな」と理解した。

 

夢は叶うもの
   スペイン語圏での暮らしを、長年夢見続けていた。その結果、ある日、機が熟したと思える日が訪れ、実行してみようと思った。そして運良くドミニカ共和国へ赴任する機会を掴むことができた。任地に着いて思ったことは「どのようなことでも『こうありたい』と願い続けていると、いつかは実現するものだ」との先人の言葉は、やはり真実であり、「希望は持ち続けるものだ」との思いだった。
   わずか一年の滞在だったとはいえ、スペイン語で生活できた日々は、私にとって何よりも楽しい思い出となっている。その御蔭で、今、私はとても穏やかに、豊かな気持ちで毎日を過ごすことができている。
             (二〇一五年七月七日記)
   拙著紹介:チュニジア奮闘記 彩流社刊
                                 二〇一三年二月発行