島(こうやぎじま)に 

 

               

 

 「アレ」の正体

 

その時、急に胸がドキドキして来た。

はるかな記憶の中の風景を思い出す。

確か、この潅木の茂った小高い丘の上の岐路を右に廻りこんで下った先には、今だに「アレ」がいるのだろうか?

車はスピードを落してゆっくり、ゆっくりと坂を下った。

そして次の瞬間、目の前にパッと広がる潮の香りの中に「アレ」はまだ其処に居たのだ。

私はなんと66年ぶりに「アレ」と再会した。そう「アレ」だ。

 

平成二十五年の十月、私は思いたった様に、長崎市内に住んでいる昔ながらの極親しい知人を訪ねて、香焼島まで車で連れて行ってもらった。                    

昔は離島であったが、現在では海を埋め立てて陸続きになっている。広い産業道路が作られ、まるで別の町だ。キョロキョロとあたりを見回す。やがて、三菱造船の赤いドックヤードを見やりながら、あの浜、長崎市香焼町辰の口へ向かって走った。そして、今、眼の前に広がる光景は・・・・・。

 

その昔私が4歳の頃、伯母(母の姉)の嫁ぎ先はその砂浜に面して立つ家で、縁側からは浜全体が見渡せた。

物の無かった頃でも海の幸には恵まれて、魚はもちろんゆでたミナ貝、海草からトコロテンなど作ってたべさせて貰った。だから、遊びに行くのは楽しみであった。だが、ひとつだけ、どうしても越えなければならない場所があった。

それは、迎えに来てくれた伯母に手をひかれた、4歳の私は、その坂をまわりこむと、突然、浜の浅瀬の奥の海中に現れる大きな、ある岩島が恐ろしくて、いつも、伯母の後ろに大急ぎで隠れなければならなかった。

その岩島はまるでカラス天狗の様な三角の顔をして、眼は二つ大きく黒くくり貫かれていて、眼光鋭く私をにらみ付けていた。その恐怖たるや尋常ではなく、子供心に深く刻み込まれていたのだった。「怖い」

 

この度、この香焼島を訪ねる目的の一つは、長い間、氣に掛かっていた、「アレ」の正体を見届けたいと思ったからだ。

それにしても・・・・・。

今、目の前に広がる風景は、なんとまあ、はるかな記憶と違っているのだろう。

66年と云う歳月に、あんなに高く威圧的に見えていた岩も、今や侵食されて、なんのことはない普通の岩島に成り果てていた。

記憶していた場所も浅瀬の奥ではなく、土台となる岩礁は完全に海中にあった。

その岩の上部にはまるで髪が逆立ったように潅木が何本か生え、黒くえぐられた2つの眼は、もはや、それらしき跡を残してはいるが、ただの岩の形を呈しているにすぎない。    「なぁーんだ」。子供の頃あんなに恐ろしかった「アレ」は「コレ」???

ドキドキ感もどこへやら、本当にガッカリしてしまった。 

大人になった私の目線の先には、岩礁の上部に建てられた赤い小さな灯台がある極極小さな島と並んで、そのカラス天狗岩があり、足元を波しぶきが洗っている。今見てもきっと恐ろしいに違いないと勝手に思い込んでいた私は、その光景をしばし呆然と眺めるのみであった。正体見たり・・・・・

氣を取り戻してみると、島に吹く十月の風は気持ちよく、潮騒の音はどこか懐かしさを感じさせてくれた。そして、次第にその音は、カラス天狗岩が「私は昔からこのままの姿でしたよ」「それを貴女が怖がっていただけでしょう」と云っているようにも聞こえた。そうかも知れない・・・・・。

階段状にコンクリートで護岸された浜の波うち際に寄せる海の色は、昔のように青く澄んでいて、美しい。 

近年、このあたりの海は、海水浴場として、又、ダイビングスポットとして若者たちに人気が有るとのことだった。 

私の記憶の中の「アレ」は刷新された風景となったが、あのカラス天狗岩の島は、並んで立つ岩礁上の赤い小さな灯台に灯をともしながら、これから、何年も何年も氣の遠くなるような年月を刻んで行くことだろう。

 

浜の前の伯母の婚家は、何代も代替わりしていていると思われるが、同じ所に今もあった。伯母のご主人は海軍中尉であったが、昭和十九年、東シナ海洋上にて、撃沈され、船もろとも沈没。戦死されていた。まだ結婚後間もなくで、子供も居なかった為、終戦から数年後、伯母は嫁ぎ先を辞していた。

 

疎 開 者

 

昭和二十年三月二十五日。名古屋大空襲有り。

先日の中日新聞の戦後70年の特別記事の中でその日時が特定できた。

名古屋市の東区に有った三菱重工の工場めがけて、B29からバラ撒かれた焼夷弾が北区光音寺町一帯も焼き尽くした。私の生家もこの時焼失したそうだ。

その夜、生後6ヶ月の私は、母の背中にくくりつけられて防空壕の中にいた。母の言によれば、泣きもせず、暗い壕の中で眼だけクリクリと動かしていたとの事。その時、すでに父は昭和十八年の十二月に応召されて北方の戦線にあった。

 焼け出された母と私と、母方の祖父母の4人は、すぐに戦時下、大変な思いをしながら列車を乗り継ぎ長崎へ。さらに長崎港の大波止桟橋から小さな船を乗り継ぎ、伯母、(母の姉)の嫁ぎ先を頼って、二十年四月、その島、香焼島に疎開者として暮らすことになったのだった。

 

香焼島は島の周囲15qの小さな島で、長崎市の中心地から、海を隔て直線距離で10qという位置にある。島の最高峰は遠見岳、標高120mだ。

この島は炭鉱の島で、主に明治三十一年より海底炭鉱の拠点として、掘削が続けられていた。

私達家族4人は、伯母の知人のツテで、炭鉱の町の棟割長屋の並ぶ、いわゆる「炭住」と呼ばれる長屋の一角を借りて暮らせるようになったのは幸いであった。

祖父は村の役場にある配給所に勤め、母は炭鉱事務所で事務をとり、祖母は小さな島の段々畑でさつまいもを作った。

 

私のいつごろの記憶か定かでは無いが、ある時何棟もある炭住長屋にけたたましいサイレンの音が響いた。その音を聞くや、大人たちは、はだしのまま、一斉に事務所の前の広場に走った。坑内で落盤事故が起きたのだ。

私も祖母に手を引かれてその場に行くと、広場にはむしろが掛けられた何人もの人が寝かされていた。むしろから、はみ出している真っ黒な足が何本もみえた。

そのむしろにすがり付き、泣き叫ぶ人々を見ていた。私は子供心にも、何か大変なことになったのだと云う事を感じていた。終戦後のことゆえ、十分な作業環境も守られず、劣悪な環境のまま、海底深く掘り進む事だけが課せられていたのだろう。

 

 運命の日・昭和二十年八月九日午前十一時二分

 

私は確かに、この香焼島に居たのだ。

長崎の町は広島についで、世界2個目の原子爆弾が、米軍の目標の長崎市街地より3qずれた市内松山町地内にて投下され、炸裂し、半径2・5qに及ぶ地域が壊滅した。一瞬にして7万8千人が死亡し、7万6千700人が負傷した。2次災害は大変なものになった。70年後の今も後遺症に苦しむ方々が少なくない。

 

ここ、香焼島でもものすごい衝撃で、生後11ヶ月になっていて、部屋のなかをヨチヨチと歩いていた私はそこにバッタリと倒れてしまい、母はびっくりして、私を抱きかかえ外に飛び出したそうである。

その後どうなったのか? さすがに私の記憶はない。

その場に居合わせた母を含めた祖父母も亡くなってしまったので、今や、当時の事を知るすべも無い。

 二十年八月九日私は確かに長崎市のほんの近くにいたのに、何故、原爆の被害からまぬかれて、生きてこられたのかは、長い私の人生の中の謎であった。

今回この原稿の資料集めのために、インターネットで長崎、香焼島を検索していたら、思いがけず、この謎が解けた。ネット上には原爆投下から15分後に香焼島から撮影された写真が掲載されていた。

それは、ものすごく大きなキノコ雲が空を覆っているもので、私はこの写真を見たとき思わず、絶句した。写真の説明によれば、巨大なキノコ雲の下の爆風はその時の風向きに左右され、東へと流されて行ったとあった。香焼島は長崎市街より、西南の方角だ。そうだったのか。だから、私達は被爆から逃れられたのかと。

3・11の東日本大震災時の福島の原発事故の時も風向きによる被ばく線量が地域の明暗をわけた。正にそれと同じであった訳だ。

そして、昭和二十年八月十五日。生後11ヶ月の私は、その小さな島で終戦を迎えた。

 

「軍部と時の政府が始めた無謀な戦争により幾万の命が犠牲になったことだろう。

今の政府は、私達が生きてこられたこの、70年を覆し、又、戦争をする国に変えていこうと閣議決定をした。今や、少子化が大きな問題になっているこれからの時代に、誰を戦場に送ると云うのだ。またもや、戦場で尊い命が奪われて行く時、今の為政者達はどの様にその責任を負うのであろうか。この先を思うと心が震えて仕方がない。」

 

  ポリオに罹る 

 

昭和二十二年の三月の初め頃、私はポリオ、いわゆる小児マヒに罹った。戦後、大流行したポリオ患者はまたたく間に北海道から日本列島を南下した。

こんな小さな南の島にさえポリオは広がったのだ。症状ははじめ風邪のようで、高熱が続いた後、熱がさがると同時に四肢のマヒが起こる。ポリオは急性灰白髄炎と呼ばれる。

私も最初は風邪と診断されたが、熱が下がった時には、自分で、歩く事も、立ち上がる事も座る事も出来ない身体になっていた。ただゴロリと横たわっているだけであった。

自分では動くことも出来なくなった私は母におんぶされ、祖母に付き添われて、浜から手漕ぎの小船にのり、少し沖に出て海上で船上から垂らされた縄梯子をつたって定期船に乗り込んだ。長崎の町に行く交通手段はこれ以外には無かった。

母から昔聞いたところによると、戦後まもなく、しかも被爆後まもなくのことで、当時大きな病院といえば旧海軍、もしくは旧陸軍病院しか無く、私は旧海軍病院で診察を受けたのだった。そして、小児マヒの後遺症と診断された。医師は小児マヒ(ポリオ)の後遺症が残った子供達の写真を見せながら、この子は一生歩く事も、座る事も出来ないと告げられたとのことであった。

母も祖母もがっくりと気落ちして、どうしたら良いのかも思いつかぬまま、又、私を背負い港の桟橋から船に乗った。少し時間が過ぎた時、松葉杖をついた少女を連れた母親が祖母に声をかけてきた。「その子どげんしたと? 自分で歩けんと?」

母と祖母は、私の病気のことの始終を話したそうだ。すると、その母親は自分の娘を指して、この娘も前は歩けんでした。ばってん、長崎の骨接ぎさんに通うようになってようやく、ここまでになったとよ。あんた達も私に騙されたと思って、その骨接ぎさんにこの子を連れて行ってみらんね。」と言う。母と祖母はわらをも掴む思いで、取って返し教えられたその骨接ぎさんに私を連れて行った。

 

骨接ぎさんでは、私をうつ伏せに寝かせて頭と肩を頭の方へ、両足は足先のほうへと引っ張りながら、お爺ちゃん先生が私の身体にまたがり腰に手をかけ「エイッ 」と言う掛け声と共に3人がかりで思い切り引っ張った。「ボキッ」とすごい音がした。この事は良く覚えている。きっと後から思い出したように泣いたと思うが、施術の一瞬はあまりの速さで泣くこともわすれていたのだろう。卵の白身で練った緑色の膏薬のような物を貼ってもらって帰ってきた。

 

それから六ヶ月間、仕事のある母に代わって祖母は私を背負い、毎日、手漕ぎの小船から定期船に乗り移り長崎の町まで通ってくれたのであった。この骨接ぎでの施術が早い段階でのリハビリとなり五ヶ月を過ぎた頃から,少しずつ座れるようになり、ついに立ち上がり歩けるように成っていった。それと連動するように両手も動かせるようになったのは、孫の身体をなんとか治してやりたいと思う祖母のガンバリのお陰であった。感謝 !!

しかし、後遺症は全てが回復した訳ではなく、左半身の軽いマヒと左足首から足先にかけて骨の未発達の為、左足は爪先立ちが全く出来ず、片足飛びも出来ない。足の力が弱いと言う障害が70歳の今でも残っている。ポリオの後遺症は筋肉への神経伝達系が侵され断絶が起きる。私の場合、比較的体力があったことと、全部失ったのではなく、いくらかは繋がっていて成長と共に、回復出来たと今年、ポストポリオ症候群と診断された大学病院の医師から説明を受けることができた。

 

  おとうさんが来た

 

敗戦後ロシアの捕虜となり極寒のシベリアへ送られ、森林の伐採などの強制労働を強いられた中、なんとか命を繋いで、父は二十二年の八月舞鶴港に復員して後この香焼島へやって来た。父、その時33歳であった。

生まれて初めて父に会った日の出来事は今でも鮮明に覚えている。

母達は父の帰還を泣いて喜んだ。 父はもともと眼が大きかったそうだが、 痩せてひょろっとした身体に何だか眼だけがギロッとしていて、「陽子か?」と言われたが怖くて、私は母の後ろに隠れていた。「おとうさんってこの人?」私にはにわかには受け入れがたいことだった。

 

早速の祝膳を用意しようにもまだ物の無い時のことだ、そこで、今朝まで私がくず米をばら撒いて育てていたニワトリが犠牲になった。朝、この島にたどり着いた父は午後から例のニワトリの首を絞め、羽根をむしり、首を切り落して逆さに吊るし血抜きをした。何故だかおそるおそる私はその一部始終を見ていた。哀れ私のニワトリは、もはや美味しそうな鳥なべとなりお膳に乗っていたのであった。

父は何日間かをこの島で過ごして、名古屋での生活の目途を立てるべく、母を伴い名古屋に戻って行った。

そうして、私は祖父母と伯母と母の亡くなった兄の子供、つまり、従兄(5年生)のお兄ちゃんとで昭和二十四年の暮れまでをこの島の「炭住」の一角で過ごしたのであった。

 

平成二十五年十月二十七日 稲佐山

 

香焼島を後にして、又、長崎の市街地に戻った。

平地の少なかった港の中はずいぶん埋め立てられていて、なんと、あの「出島」も埋め立てられた陸地の中にあり、長崎県美術館や桟橋近くには長崎水辺の森公園が広がっている。港から、ここかしこを見上げれば、三方の山のかなり上の方まで、住宅が建ち並んでいる。本当に坂の街なのだと思う。

 

午後3時ごろには陽が傾きかけて来た。急いで市内で港

稲佐山:1000万ドルの夜景

を一望できる標高333mの稲佐山にある展望台に上った。この稲佐山からの眺めは神戸、函館と並んで、日本三大夜景に数えられ、1000万$の夜景といわれている。

 

夕日に反射して、島々が影のように見える。島と島を結ぶ長いアーチ形の橋が銀色に光り、その先に小さく見える造船所の赤いドックヤード。  「ああ、あそこだ。」

数々の思い出が又、フラッシュバックしてくる。

 

鹿児島枕崎の出で藩士の末裔、自分のことを死ぬまで「おいどん」と云っていた祖父。士族の娘と言う内に秘める強さをもった「薩摩おごじょ」であった祖母。「ようこちゃん、いもあめのできたとよ。ご近所に配ってこんね」祖母の声がする。メリケン粉をまぶした、祖母の作るいもあめは、甘くて美味しかったことを思いだす。

 

今、話題の軍艦島(端島)はこの香焼島から近く、天気の良い日は島の一番高いところから、軍艦島が見えたようだ。鉱山の閉山と共に軍艦島が無人島になったように、香焼島のあの棟割長屋の炭住はモルタルのアパートとなり、鉄筋アパートとなりやがて、閉山と共に、建物も無くなり、人も居無くなり浜風が吹き抜ける野原になっていた。今は、その一角に沢山のソーラーパネルが並んでいる。私の思い出の地は、正に、今は昔の物語になってしまっていた。  だが、そこは私の人生の原点を育んでくれた懐かしい処。

 

私は稲佐山の上から、さらに陽が傾いて島々がかすんでいくのを、俯瞰していた。

さらば、「香焼島」さらば。もう、二度と訪れることは無いだろう。私の旅は終わった。        完             

          平成二十七年九月三十日

 

 

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