認    人の    

      折 

 七十歳まで生きて、しまった !!
 友人の中には、自分で自分の人生の定年を決めて、すでにこの世を去っていった者もいる。彼らから見ると、私はずいぶん長生きをしたことになる。  
  芥川龍之介が好きだった私は、三十歳までは生きていないだろうと漠然と思っていた。三十歳になった時、あと一年間、頑張って生きてみようと思った。「死とは生きながら死ぬことである」という禅の言葉を私なりに解釈して三十一歳まで生きた。三十一歳になった時、同じようにあと一年間、頑張って生きてみようと思ってさらに一年間生きた。その繰り返しで現在まで生きてきた。生きてきた。

  私達が小学生の頃は、卒業式の時には多くの学校で「蛍の光」が歌われていた。「蛍の光」は卒業時に今でも歌われているのであろうか。歌われているとしたら、どれぐらいの数の学校で歌われているのであろうか。「蛍の光」の歌詞の第一(一節)と第三(三節)では、まるで歌詞の調子が違うように思える。第三節は立身出世のススメである。立身出世を現代風に言い換えれば、 起業家タレ ∞ 技術革新の波にうまく乗り、オーナー経営者になれ ≠ニいうごとくである。
  私は立身出世には縁遠い存在で生きてきた。また、「寄らば大樹の陰」という生き方も、私の性格と合っていなかった。結局、アウトサイダー的な生き方をしてきた。晩年は多少腰を落ち着けて、研究者・教員という立場にあったが、それでも、アウトサイダー的な立場に変わりはなかった。
  私は二十五年ほど前に緑内障であることが分かって以来、眼科に通い続けているが、まじめに通院していても緑内障の進行速度を遅らせるだけの効果しかない。ここ数年は、かろうじて残っていた見えるところで、見たり書いたりしてきたが、今年の春先には、わずかに残っていた見える部分も緑内障にやられ、文字もやまかんで書いている次第である。文字を見ながら書いて精神を集中していく私は、文字が読めないと(自分で書いた文字が読めないと)精神が集中できない。従って、以下の文章は思いつくままの老人のたわごとである。
  今年(二〇一五年)は戦後七十年となる。そのため各メディアは八月十五日(一九四五年八月十五日は日本が戦争に負け、第二次世界大戦が終わった日)に向けて、様々な報道をしてきた。報道内容は戦争の悲惨さやむなしさが中心であった。他方、国会では(同時期に)、新安保法案が審議されていた。同法案の内容は、地球の裏側まで自衛隊(日本軍)が行って、アメリカの軍事行動を支援できるようになっていた。米軍のために、核兵器すら運ぶことができるのである。だが、同法案はあっさりと国会を通過してしまった。七十年前の戦争体験は風化したのである。
  
新安保法が成立したのは、戦争体験の風化以外に国際情勢の変化を挙げることもできる。
   解釈改憲および新安保法により、日本は自衛隊(軍隊)を地球の裏側まで派遣することができるようになった。 日本人を守るため 日本国民族を守るため 友軍を助けるため と言って、今や世界有数の軍事大国となった。また、日本は隠れた核保有国ともいえる。原発で出来たプルトニウムの合計は原爆数千発を作る原料となり、人工衛星を打ち上げるロケットは超優秀なミサイルとなっている。
 第二次大戦(アジア・太平洋地域での戦争はアジア・太平洋戦争とも言う)で日本を守るために死ぬまで戦えと言われて次々と戦場に送り出された人々は、特攻隊として、ひめゆり部隊として突撃し、死んでいった。日本が制空権を失って南方の島々に残された人々は、上陸する敵兵に突撃して死んでいった。大陸で戦っていた人々も、敵味方を問わず、多くの人々が死んでいった。
                          
  我々が誕生した時(一九四四年春〜一九四五年春)、すでに日本の敗戦は濃厚であった。それでも戦争指導者たちは死ぬまで戦えと言い続けた。では戦争指導者たちはその時、どういう状況であったであろうか。
  
戦争末期になると、天皇は「三種の神器」をどこに隠そうかと思案し、また、アメリカが天皇制を残してくれるかどうかを探っていた。多くの将軍や、戦争を推進してきた政治家や官僚、そして政商たちは、自分達が戦勝国側の軍法会議に掛けられるかどうかを心配し始めた。他方で、戦争指導者たちは、もし米軍が上陸した場合、あるいは占領された場合、カフェの女給などに米兵の相手をさせ、上流階級の子女は早く長野県や東北の山奥に逃がすことなどを話し合っていた。
 欧米先進国に遅れて近代化した日本は資源と市場を求めてアジア諸国に進出した。それを阻止しようとした英米諸国などと日本が闘った戦争がアジア・太平洋戦争である。そして皮肉なことに、今や日本は、保安官アメリカの助手(イギリス)の助手を務めている。        
今、日本では積極的な平和主義という言葉が一部の人々によって唱えられている。積極的平和主義は、相手が空母を持ったら、日本も空母(日本はすでに実質的に空母を持っている)を持つことではない。積極的平和主義が軍事大国になることを意味するならば、戦死した人々に申し訳ないではないか。
  四十年ほど前に新聞に投稿されていた短歌をうろ覚えながら次に記しておく。     
   「病しを背負い、狂いし兵の手を引き、丘を下りぬ

        白旗に従いて」                                            
   「行商で一人疲れて寝る夜は、戦死せし息子の魂が招く」

  「泣くなと言いて征きにし夫よ 思わず泣きたくなる夕暮
                
     にれの花匂う」
 リーダーに必要なものは「洞察力」「冷めた情熱」「責任」の三点である。先の大戦の指導者の中枢部にそういう人が果たしていたのだろうか。そして今の権力者にそういう人がいるのだろうか。
   私が誰かに、七十歳まで生きてきて「良かった」か、あるいは「しまった」かと問われたら、私の答えは「‐‐‐‐‐‐‐‐‐」である。