! Bienvenido  a  Republica  Dominicana !

 

コロンブスが一四九二年に発見したドミニカ共和国(ドミ共)はカリブ海に位置し、面積は九州の1.5倍の5000?、人口一千万人、人種はラテン系民族、公用語はスペイン語、主要産業は農業(砂糖)、鉱業(ニッケル)、観光です。首都サントドミンゴから北西に160q、高速バスで約2時間の位置にあるサンティアゴ人口約九十万人のドミ共第2の都市です。亜熱帯気候ですが、緑が多くて暑さをしのぎやすい街です。商工業は発達していますが、工業技術や経営・生産管理技術の遅れは否めません。

私は日本国際協力機構(JICA) のボランティア(SV)として二〇一一年四月から2年間ドミニカ共和国サンティアゴ市の職業訓練所(北部INFOTEP)に派遣されました。日本とは大きく異なるこの国の現状にこの2年間驚かされ続けました。

不快に感じる驚きもありましたが、我々が未知であるために感心、感動する驚きも多くありました。これらの経験を記載した「ドミ共報告」を、知人や友人に送りました。ドミニカ共和国を少しでも多くの人達に理解してもらうことがボランティアとしての私の役目の一つであるからです。同一の趣意から、この報告書(一部改訂)をここに掲載しました。

 

第1報 サントドミンゴでの生活

三月二十四日に日本を発ってから間もなく1カ月が経過します。毎日が目新しいことの連続で大変忙しい日々です。

首都サントドミンゴに着いた次の日(土)に赴任地のサンティアゴへ日帰り見学、月曜日からドミ共JICA事務所でオリエンテーション、事務所職員との会合、市の主要施設見学、大使館表敬訪問等の行事、また、銀行口座開設、携帯電話購入、インターネット接続、語学訓練の開始と続きました。

語学実地訓練で旧市街モデロ、コロンブス公園、カテドラル、中華街などへの買物ツアー、公園パルケミラドールの散策などをしました。先輩SVらによる歓迎会でCOMO EN CASAへ、衣服やプリンターの購入でスーペルメルカード(スーパー

マーケット)シレナへ行ったりもしました。

食事はポジョ(鶏の丸焼き)などの肉食中心で我々に合いません。数多くあるファーストフード店は日本より割高です。

交通はそれほど不便でなく、道路網はかなり整備されていますが、危険を避けるため、我々は無線タクシーか、歩きです。

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第2報 サンティアゴでの生活

先日まで暑い日が続いていましたが、ここ数日過ごし易い気候になってきました。朝方は少々寒いくらいです。サントドミンゴでの1ヶ月間のホテル暮らしが終わり、サンティアゴへ移動し、INFOTEPで仕事を始めます。職場の同僚およびサンティアゴに在住するJICA関係者の助けを得て、仕事を遂行したいと考えています。

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ドミニカに来て半年余が過ぎた今もスペイン語を聞き取ることがほとんどできません。スペイン語研修を日本出国前に3カ月間、サントドミンゴで1カ月間受け、現在家庭教師をつけて家内と共にスペイン語会話を勉強しているのですが。ただ、ドミ共に二十名近くいるJICAボランティアとしばしば会いますし、私の勤務先INFOTEPの先生や私のマンションの住民の幾人かは片言英語を話せますので、スペイン語を聞き取れなくても多少気楽な生活をしています。我家は6階建ての4階にあり(写真3)、広いリビングダイニングと3つの寝室、バスルーム2つ、女中部屋もある広さ150u以上の大きな新築の建物です。家賃は900米ドルです。北側を除く3方向に窓があり、一日中どこかの部屋に陽が入ります。周りは緑が多くて風通しも良く、エアコンなしでも過ごせます。気温は30℃前後で、今の日本より涼しく、近くに危険地帯があることを除けば、住み心地は非常に良好です。しかし停電はしょっちゅうで、室内にある自家発電機インベルソールがフル回転しています。断水もあります。一時は大家の
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使用料未払いと守衛の嫌がらせで2昼夜水道が止まりました。この水道水は風呂や洗濯、水洗に使えるだけです。料理には5ガロン(約23リットル)入りのボテジョン(飲水可)を2日に1本使います。1本20ペソ(50円)で持ってきてくれます。飲み水はミネラルウオーターです。果物や野菜は種類も量も非常に豊富で安価です。日本の店頭で見るよりも2倍以上も大きいマンゴーやパパイア、アボガドやナランハ(ミカン)などが毎朝食卓に乗ります。民家の庭木に生るアボガドは3個100ペソの安さです。パブリカやナス、ユッカ(芋)、カボチャなどの野菜も安価で旨いのですが、大量の農薬が使われている生野菜は食べませんでした。

周りを海に囲まれているので魚は豊富かと思いましたが、シガテラ病が怖いためか、地元の人達はペス(生魚)もペスカード(死んだ魚)もあまり食べません。我々は日本で毎日のように魚を食べていたのですが。刺身が恋しいです。

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ドミ共の警備体制は詳しくはわかりません。国際警察や 陸、海、空軍、他の4つの組織がドミ共を警備、防衛しています。交通整理の警官を時々見かけますが、パトカーや救急車はほとんど見かけません。交番はないようです。銀行やスーパー、大きなビル、高級店等にはライフルを持った数名の警備員が必ずいます(写真4)。彼らは民間人です。高級住宅街では各家の入口に守衛がいます。わが家の防犯体制はかなりしっかりしています。

3人の守衛が昼2人、夜1人の二十四時間体制で勤務しています。四方を高い塀で囲まれたマンションの一方は車が出入りするオートロックの自動ドアーとなっており、その手前に寝起きの
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できる守衛室があります(写真5)。すべてのガラス窓に鉄柵を設けること、玄関と裏出口には鉄格子を設置すること(写真6)、玄関と寝室の鍵は3重ロックにすること、1、2階と最上階を除く階に住むことなどがJICA規定により義務付けられています。わが家にはセキュリティーシステム(SECOM)も装備されていて外部からの侵入を防止しています。

私のマンションはこのように一見厳重に見えますが、現実は隙間だらけ。これで安全が保たれているのですからドミ共も案外暮らし易い国なのかもしれません。油断は禁物ですが。

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ドミ共はかなり危険な国だと言われていますが、私は今迄危険な場面に遭遇したことがありません。被害にあった時は警察ではなく、JICAに連絡することになっています。   

 

第3報 交通事情

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猛暑もやっと峠を越し、台風襲来の時期となりました。サンティアゴ市は暑いとは言え、30℃を超えることはほとんどありません。ティホンやハリケーンが2、3度来ましたが、たいしたことはありませんでした。

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ドミ共の交通事情は良いとは言えません。首都では地下鉄(写真7)が、都市間を高速バス(写真8)が走っています。月1回サントドミンゴへの往復に利用する高速バスは日本の高速バスと同様の快適さです。電車や市バスなどの交通機関はなく、危険なためにJICAから乗車を禁止されているグアグア(写真9、10)やコンチョ(写真11)が走りまわっています。距離には関係なく、グアグアは15ペソ(約35円)、コンチョは20ペソです。タクシーは150〜200ペソと高く、危険の多い夜間に利用されます。我々は昼間もタクシーを利用しますが、安全なタクシーと闇タクがあるので気をつける必要があります。流しのタクシーはなく、電話で呼び出します。我々の乏しいスペイン語会話能力でもなんとかタクシーを呼び、目的地まで行ってもらえるようになりました。タクシーの運転手は陽気で、しばしば楽しませてくれます。

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コンチョには地元の若い女性や学生、女子高生さえ一人で乗ります(写真12)が、危険はないようです。5人乗りですが、前席に3人、後ろに4人の7人を乗せて走ります。地元の人たちの重要な交通機関ですが、一方向にしか走りません。目的地に行くには、 停留所も無いコンチョを乗り継がねばなりませんが、道路状況が分からない我々には乗り換えが大変難しい乗り物です。

市内を多種多様の車が走りまわっています。日本の車がほとんどです。4輪駆動、ステーションワゴン、ランドクルーザーなどの大型高級自家用車が多数走っています(写真13)。新車も走っていますが、目に付くのは年式の古い車です(写真14)十年以上前の車が堂々と走っています。それもフロントガラスが割れ、車体はボコボコでつぎはぎになっています。マンホールの蓋が開いている穴ぼこだらけの悪い道路状況のためか、小型車はあまり見かけませんし、軽自動車は走っていません。バイクはかなり走っていますが、不思議な事に自転車は見かけません。ドミニカ人は体を動かすのが好きではないようで、自転車を漕ぐ気はないようです。バイク3人乗りはざら(写真15)で、必ずしもヘルメットを着用していません。



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自動車運転教習所はないようで、運転のマナーは悪いですが、私は衝突事故現場をまだ見たことがありません。大事故でない限り、「まあまあ」で瞬時に済ませてしまう風土のようです。 

市内には舗装の悪い片道2車線道路が何本も走っていますが、朝夕は通勤ラッシュで停滞します。主要な交差点にのみ設置された、80秒と長い信号切り替え時間が原因のようです。主要道路でも信号が無い箇所が多く、人々は必死の思いで道路を走って横断します。中央分離帯へ行くのも大変です。

このようにドミ共の交通事情は良くないのですが、ドミニカ人はのんびり大らかです。悪い状況をすぐに改善しようという考えはありません。

 

第4報 カリブ海クルーズ

 

 

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 日本では寒い日が続いているようですが、ドミ共は25℃前後の涼しさです。ドミ共に来て10カ月が経過しました。 ドミ共派遣JICAシニアボランティアの2人と我々夫婦の4人で念願のカリブ海クルーズに行ってきました。料金は乗船1500ドル、諸費用300ユーロ、自宅から600qの出港地までタクシーで7000ペソでした。昨年末十二月十九日夜ドミ共の東南端La Romana 出港しました。昼間は観光、夜は航行の毎日を過ごし、二十六日に戻りました。乗船したコスタルミノサは偉容な大きさの船(写真16)で、二OO九年建造、排水量92600トン、乗客数2826名。客室1130、レストラン4、プール3があります。日本の豪華客船飛鳥Uは50000トン、乗客数800名です。先

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日地中海で座礁したコスタコンコルディア号(Yahoo検索 “豪華客船”参照)はコスタルミノサと同型のイタリア 船籍豪華客船です。この船が座礁する

とは全く想像できませんでした。

 

Catalina Island, Tortola, St. Johns, Pointe a Pitre, Fort de France,  St. Maarten, Casa de Campoの島々を巡りました。乾季であるにもかかわらず、快晴には恵まれませんでした。観光客は市内散策やオプショナルツアーに参加し(写真17)、沈み行く夕陽に見とれ(写真18)、 船内で日光浴や長椅子で歓談し(写真19)、のんびり時を楽しんでいました。夜は毎晩豪華なショー(写真20)やエンターテインメント、バーやカジ ノ、ミニコンサートや映画、ダンスや集団ゲームに興じていました。我々は1日目にボートで小島に行き、貸し切りの砂浜で遊びました(写真21)。 長椅子に寝そべりながらの昼食を楽しみました。2日目以降は市内を散策して買い物をしたり、ツアーに参加しました。夕方5時頃に船に戻り、船内を探索したり、ショーや映画を見に行き、バーで飲んだりしました。活発に行動して楽しむつもりが、ゆったり過ごす大人の楽しみ方になりました。

食事はお酒を除いてオールインクルーシブでした。朝は食材豊富なバイキング、昼と夜はフルコースで、料理を選ぶのが大変でした。素晴らしい料理でしたが、毎日同じようなメニューに多少閉口しました(写真22)

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船内はフランス語、スペイン語が主です。毎朝部屋に配られてくる新聞やチラシは英語もありましたが、複雑な内容を理解できず、情報を的確に把握できませんでした。もっと語学力があれば楽しみを満喫できたのですが。ツアーコースも詳細に調べて選べばもっと楽しめたのですが。市内観光も散策以外の別の楽しみ方があったのではと思いました。

最終日に出かけたツアーはフランス語による案内で殆んど理解できませんでした。ツアーバスは最後の見学地の海岸に我々を降ろして去ってしまいました。そのバスにカメラを置き忘れた私たちは、近くに停泊中の船に急いで戻り、カストマーサービスにカメラ紛失を届け出ました。スタッフはテキパキと対応してくれました。3度4度とカストマーサービス、ツアーオフィスへ足を運んだ結果、カメラの戻る可能性が出てきました。先日ルミノサの船長からカメラを送るとのメールが届きました。ドミ共は郵便物の遅延、紛失が多いので最善の方法で郵送するとのことでした。デジカメが、多くの人達の手を煩わせて、驚いたことに2カ月後に手元に戻ってきました。コンコルディア号の座礁、スタッフらに渡した私の職場INFOTEPの名刺が効いたのかもしれません。ドミ共は治安上必ずしも住みにくい国ではないと思いました。

 

報 INFOTEP

! Feliz  Navidad !  ! Feliz  Ano  nuevo !

 

 

多忙な日々の1年半が過ぎ、帰国まで3カ月を残すのみとなりました。私の赴任先INFOTEPは本部と四つの地域事務所などから成ります。日本の旧職業訓練所のドミニカ版と言った教育カリキュラムをもつ、国内に広く知られた施設です。14〜30歳を中心に幅広い年齢層に対して技術訓練を無償で行い、技術者を養成する国家レベルの中核機関の一つです。職員数は約700名で、教員の多くは非常勤講師です。学生総数は約2000名です。INFOTEPJICAボランティア受け入れは一九九一年から始まり、現在まで約60名が派遣されています。 

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私の配属先のINFOTEP Norte(写真23)は職業訓練校と、INFOTEP傘下の企業に対して経営指導を行う企業支援部から成ります。訓練校は電気・電子、機械、自動車、通信、情報、工業デザインなどの工学系講座、ホテル・観光、裁縫、料理、手工芸などのサービス系講座、変わったところではテレビ番組、看護師など、40以上の講座が開設されています。講座は1日4時間、4〜6カ月で終了し、午前、午後、夜間、週末の4部制です。午前と午後の両方を受講する学生もいます。

 

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共通した指導資料がないこと、教科書がないことが課題となっています。INFOTEP Norteの今年の卒業生は約700名で、盛大な卒業式が行われました(写真24、25)。写真に見られるように、学生の半数近くは女性です。経済的に比較的恵まれた環境にある彼女達は美人でスタイルも良く、センスの良い服装に身を包み、はにかみの心も持ち合わせています。彼女達は自信に充ち溢れ、男性たちと対等に付き合ってい

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ます。ドミ共は女性中心の社会となっています。
  
私のINFOTEPでの活動は多忙です。赴任時INFOTEPから要請された項目の一つの教官への技術指導に重点を置き、「太陽光発電」をテーマに、
この6月から毎週木曜日午前10時から12時までセミナーを開講しました(写真26)。現在は「PICマイコン」のセミナーを行っています。帰国直前まで続く予定です。いまだにスペイン語に苦しんでいますが、読み書きと話すことはなんとか出来ますので、先生達の了解を得て授業を進めました。質問はセミナー開講に尽力し、毎回同席して頂いた先輩SVにお願いしました。授業(8週)では太陽電池などについて概説しました。実習(8週)では、太陽電池パネルの製作と中型ソーラカーの製作を行いました。製作部品の現地調達には苦労しました。海外から購入もしました。INFOTEPの周辺は危険地域であり、歩いて10分の距離の大型家具店オチョアへ買物に行くのを公式的には許可していません。自分一人で出かけてもそれ程の危険は無いのですが。先生たちの就業時間中に、オチョアへお伴をお願いするとしり込みされます。先日は校長の判断でINFOTEPの車で行くことになりました。私の毎日の通勤もINFOTEPの車を出してもらっています。先輩SVを始め、皆様からの協力がありました。学生と共に作製したソーラパネルは信じられないことに、ブラジルで開催された国際展覧会「FETEPS 2011」に出品されました(写真27)。日本から持参した組み立てキットの小型ソーラロボット(フゲテス)(写真27の机の上にあります)を先生や学生たちに見せると興味を示し、何処で買えるかと聞いてきました。「フゲテス、フゲテス」と言うINFOTEPの女性所長の説明にコスタリカからの女性主体の調査団は大喜びで、大きな体をゆすってフゲテスを追いかけまわして楽しんでいました。このフゲテスをソーラ

 

パネルと ともにドミ共の産業技術博覧会EXPO CIBAOに出品しました。INFOTEPの学校見学会では新館一階玄関の特等席に、実習で作製したソーラカーとフゲテスが並べられました(写真28:黄色のシャツの学生が説明し操作しています)。多くの見学者が集まった時に太陽が雲隠れして、フゲテスが動かなかった

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のには参りましたが。

我々が作製したソーラパネル、ソーラカーやフゲテスがドミ共の人たちの興味を引き、私のボランティア活動の目的の一つである太陽光発電普及の格好の材料になったのではないかと自負しています。

 

報 帰国報告

 満開の桜とどんより曇った空、杉花粉に出迎えられて三月二十三日に帰国しました。ドミ共と違って日本は寒く、雨模様でした。成田に着くや否やくしゃみと鼻水でした。カリブ海に浮ぶ楽園ドミ共は真っ青な空と真っ白な雲、澄んだ空気、年中気温25〜30℃の快適な自然環境でした。治安は良いとは言えず、大変でしたが、有意義な2年間を過ごしました。

初めての長期海外生活で食事に苦労しました。外出には注意を払いました。陽気で人懐っこい現地の人々とは最後までスペイン語に苦しめられたお付き合いでした。帰国前の半年は太陽光発電セミナーなどの行事に追われ、4s瘠せて帰国しました。帰国したその日に近くの温泉に行きました。翌日から刺身や寿司などの和食と、ロン(ドミ共の酒)ではなく、日本酒の毎日を過ごしました。

ドミ共でのボランティア活動の疲れが残り、休養を余儀なくされました。魅惑の国モロッコで太陽光発電の普及に努め、カサブランカやマラケシュ、サハラ砂漠で見聞を広める計画はとん挫しました。現在は、体力回復のためにジョギングを始める気楽な生活を送っています。

英会話に励み、また海外に行かれればと思っています。