稿

    
   若           
                  

 

  アメリカが原爆を広島・長崎に投下して70年が経過しました。
  被爆者はこの間「ふたたび被爆者をつくるな」と、叫び続けています。
   今年5月には核不拡散防止(NPT)再検討会議も開かれましたが、現在、地球上には1万6千発を超える核兵器があり、1800発が何時でも発射できる状態にあるといわれています。
  当時、ドイツが原爆開発に着手しているとの情報からアインシュタインなどの提案で、全く秘密裏に原爆の開発を目指すマンハッタン計画が進められ、世界から7万人の科学者と20億ドルの資金が投入されました。現在の円換算にすると約130兆円と言われています。
写真1. きのこ雲 米軍撮影

  第2次世界大戦後の処理を話し合うポツダム会談が始まる前日、「手術は今朝、実施された・・」の暗号文がトルーマン大統領に届きました。それは1945年7月16日ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で原子爆弾の爆発実験に成功した知らせでした。
  1945年8月6日の深夜、3機でテニアン空港から飛び立ったB29(エノラ・ゲイ号が原爆投下:操縦士の母親の名前)は時速420Km、広島まで2700Km余りを6時間30分かけて到着、8時15分、島病院上空600mで人類史上初めて原爆が炸裂しました(写真1)。

  3日後には長崎に原爆が投下され3個造った原爆をすべて使い果たしました。その年の暮までに広島・長崎で24万人余の人々が原爆で亡くなり、広島の場合、65%が老人、子供、婦人、10代で学徒動員された一般市民でした。


      
   写真2. 原爆ドーム
   上空で炸裂した原爆の表面温度は7000〜8000℃、太陽の表面温度は6000℃と言われていますからそれ以上のものすごい熱線で、地上の爆心地では3000~4000℃です。原子雲の下にいた人々のことを想像して下さい。島病院から西北250mには世界遺産に登録の原爆ドーム(元産業奨励館)があります(写真2)。原爆はパラシュートで投下されたと思っている被爆者は多いのですが、実際に投下されたのはラジオゾンデ(原爆が投下された時の気象状況を測定し、米軍に知らせる気象観測器)です。4個(1個は開かなかった)投下されたうちの1個のラジオゾンデがわが家の上空を通過して、爆心地から約20km余ある大毛寺地区に落下しました(写真3)
  
我が家は爆心地から400m弱、今の平和公園の中でしたが、父が兵隊に召集され、爆心地から約10Km離れた母の実家の近くに転居していたので現在があります。 1945年8月6日の深夜、3機でテニアン空港から飛び立ったB29(エノラ・ゲイ号が原爆投下:操縦士の母親の名前)は時速420Km、広島まで2700Km余りを6時間30分かけて到着、8時15分、島病院上空600mで人類史上初めて原爆が炸裂しました(写真1)。
3日後には長崎に原爆が投下され3個造った原爆をすべて使い果たしました。その年の暮までに広島・長崎で24万人余の人々が原爆で亡くなり、広島の場合、65%が老人、子供、婦人、10代で学徒動員された一般市民でした。
上空で炸裂した原爆の表面温度は7000〜8000℃、太陽の表面温度は6000℃と言われていますからそれ以上のものすごい熱線で、地上の爆心地では3000~4000℃です。原子雲の下にいた人々のことを想像して下さい。島病院から西北250mには世界遺産に登録の原爆ドーム(元産業奨励館)があります(写真2)。原爆はパラシュートで投下されたと思っている被爆者は多いのですが、実際に投下されたのはラジオゾンデ(原爆が投下された時の気象状況を測定し、米軍に知らせる気象観測器)です。4個(1個は開かなかった)投下されたうちの1個のラジオゾンデがわが家の上空を通過して、爆心地から約20km余ある大毛寺地区に落下しました(写真3)我が家は爆心地から400m弱、今の平和公園の中でしたが、父が兵隊に召集され、爆心地から約10Km離れた母の実家の近くに転居していたので現在があります。
   
写真3.パラシュート落下地点の碑
熱線と爆風は音よりも早い猛スピードで広がり、10秒たらずで直径4Km範囲の広島市内を一瞬にして破壊しました。当時、放射線の知識は全くありませんでした。口、鼻、皮膚などから体内に入った放射性物質は次々と人々を襲い、被災した人々だけでなく、身内や知人を探して市内に入った人たちも直接被災した人たちと同様、吐血し体中に紫の斑点症状があらわれ、次から次と亡くなっていきました。
  戦争中とはいえ、普通の市民生活を営んでいる人々の頭上で突然、原爆が炸裂し原子雲の下にいた人々を想像してください。
母は被災した方たちの救助活動に連日参加し、その時の様子を時々話してくれました。水を求める被災者に、手を持って抱きかかえ水を飲ませるのですが、持った手の皮膚が「ヌルッ」と剥けてしまうこと、次々と亡くなる方を一か所に集め、身元確認などすることもできず、ガソリンをかけて火をつけると「ギャー」と叫ぶ声がした。救助と言っても医薬品は何一つなく、暑い夏ですから一夜にして傷口にウジが湧き、イタイイタイのうめき声に箸で取り除くことしかできなかったことなどを話してくれました。
   被爆者は放射能の影響から生涯逃れることは出来ません。
   体内に入った放射性物質はDNAを傷つけます。そのことは次世代にも影響があると言われていますが、それが原爆に起因するとして科学的に実証することは、今の医学では出来ません。 
   被爆者は最も手を差し伸べてほしかった12年間、何の援助もなく、逆に、結婚差別、就職差別、偏見などに苦しみました。
   梁に押しつぶされている親を、目の前で見殺しにして逃げたその後の人生、助けを求める友を見捨てて自分のみが生き伸びたことに苦しみ、目が飛び出して歩いている人、全身の皮膚が垂れ下がり手を前に幽霊のような恰好をして水を求めて避難している人、この世の地獄を見た被爆者は、生涯脳裏から離れることはなく、その後の人生を耐えて歩まなくてはなりませんでした。
   被爆者であることから、好きな相手に思いを告げることが出来ないで結婚をあきらめた人、幸いにして結婚をしても子供をあきらめた人、被爆者であることを隠して結婚したため離婚した人・・私は全ての被爆者はPTSDと思っています。
 親は特に子供が娘である時、被爆者であることを隠し通した人は少なくありません。自らも被爆者を名乗ることはありませんでした。何のメリットもないからです。ましてや、人前で被爆の実相を語るなど、とても耐えられることではありません。人前で語る被爆者は5%と言われていますが、私の経験ではそんなに多くはありません。子供も結婚し孫も生まれ、生活が一定に安定し、自分自身も高齢となり、この体験は誰にもしてほしくないとの思いから、10年位前から少しずつ語る方が増えてきたと思います。
 被爆者は現在18万人余、1955年が一番多く、当時の半分以下となり平均年齢は80歳を超えました。東京の被爆者は6000人余、被爆2世が7200人余でついに被爆2世が多くなりました。被爆者の定義は以下、4種類です
 1号被爆:原爆投下時に広島・長崎市内にいた人
 2号被爆:原爆投下から2週間以内に広島・長崎の決められた地域に入った人
 3号被爆:原爆放射能を身体に受けた人を、近隣の地域で治療や看護にあたった人
 4号被爆:1~3号被爆者の母親の胎内にいて、広島1946年5月31日、長崎6月3日までに生まれた人。
以上に該当する人が被爆者と認定されます。当時、母26歳、私は3歳、妹2歳の3人が我が家の被爆者です。
  化学兵器は非人道的兵器として、国際条約で使用が禁止されています。核兵器は化学兵器に比べて遥かに非人道的兵器にもかかわらず、世界には核兵器使用禁止条約はありません。唯一、核兵器を話し合う場が5年に1回開かれるNPT再検討会議ですが、ここでは核の使用禁止もなく、まして廃絶など話し合われません。核兵器の縮小、管理、平和利用の3つの委員会でしかありません。しかも、米国、ロシア、英国、フランス、中国の5か国だけが核を持ってもいいというおかしなものです。インド、パキスタン、北朝鮮の3か国はNPTを脱退し、5か国以外に4か国が核を持っています。イスラエルはNPT加盟国ですが核兵器保持を否定も肯定もせず、実際は80発の核を保有していると指摘されています。
  核があるから平和が保てるという核抑止論を克服することが重要と考えます。
  20世紀に2回もの世界大戦を経験した人類は、この負の遺産から脱却しなくてはいけません。21世紀に生きる人々は国際ルールに従って、話し合いで紛争を解決すべきです。武力からは決して平和は生まれないことを学ばなくてはいけません。2001年9月11日ニューヨークで大惨事が発生し、時の大統領は直ちに報復を叫び、アフガニスタンに武力介入しました。その後、イラクにも武力介入を拡大しました。現地に平和が訪れたでしょうか、逆にイスラム国と言った新たな武装集団が生まれました。
   写真4.植樹アオギリ2世樹

  原爆投下直後、広島では75年間草木も生えないと言われましたが、翌年の春、青々とした若芽を見て、人々は生きる希望を持ちました。広島には170本の被爆樹があります。その一つ、広島原爆資料館の前にあるアオギリから取った種を育てたアオギリ2世樹を各地で植樹しています。近くの中学校でも植樹しました(写真4)
  現在、161か国・地域、6779都市が参加する平和市長会議(日本:1580都市)は、その75年後の2020年までに、核兵器廃絶を呼びかけ、私たちも取り組んでいます。
しかし、被爆者に残された時間は多くありません。後、5年で願いが実現するでしょうか。NPT会議の最終合意文章は、核保有国の合意が得られず採択となりませんでしたが、非人道的兵器であるという事を、核保有国も含めて認識が一致しました。これは従来にない重要な一歩で、この輪が世界に広がっています。
   核兵器は決して人類と共存できません。核兵器のない世界は私たちの願いであると同時に人類共通の課題と思います。
   一日も早くその日が来ることを願ってやみません。
「ノーモアヒロシマ ノーモアナガサキ ノーモアヒバクシャ」の言葉を、自由と民主主義と同じように、普遍的価値のある言葉として、世界共通の財産にしたいと考えています。この言葉には3つの意味があると思っています。
   1.決して報復をしない思想
   2.死者をいつまでも忘れない思想
   3.世界のどこにも第2、第3の広島・長崎をつくらない友愛と連帯の思想
  1954年、若き政治家中曽根康弘、財界の正力松太郎などでウラン235から2億3千5百万円の原子力発電予算が初めて計上されました。
   この年には水爆実験で汚染されたマグロが第5福竜丸によって焼津港に水揚げされ、全国で大きな社会問題となっていました。被爆後10年足らずの時期、人々の中にある核アレルギ―に対し、毒は毒を持って制すかのように米国原子力潜水艦用に開発されたエンジンを、平和利用の名で、国・事業体が一体となって進められたのが原子力発電でした。安全神話にどっぷり包まれて・・。
   2011年3月11日、福島第1原子力発電所で、あってはならない事故が発生しました。被災者の方々の事を思うと心が痛み、決して忘れてはいけない人災です。放射性物質の収束は目途が立っていないばかりか、現に、大気中、海水に大量の放射性物質を放出し続けています。世界の英知を結集し一刻も早く解決を願わずにはいられません。
   そのような中、川内原発が8月に再稼働されました。避難計画も不十分と指摘され、何よりも福島原発過酷事故の原因も含め未解決の中、再稼働が今後も次々と進められようとしています。
   もうすぐ満杯になると言われる使用済み核燃料、その核燃料廃棄物の処理方法も今の科学技術の到達点では見いだせず、ガラス固化にして地中深く10万年も閉じ込めるだけです。プルトニュームの半減期は2万4千年、後世にこのような危険な物質を私たちの世代が残していいのでしょうか。10万年後の人類は、今の私たちの言葉が理解できるでしょうか。原発に頼らない環境に配慮したクリーンエネルギーに、一日も早く転換することが求められていると考えます。
   寄稿の機会を頂いたことに感謝申し上げます。
  世界で5000万人、アジアで2000万人、日本で310万人の尊い犠牲の上に平和憲法があることを胸に。
   2015年8月15日 70回目終戦日
                                       東京都八王子市在住 上田紘治

写真5.帽子を被って、NYで被爆者を先頭に国連近くの
          広場まで行進する筆者。

   私事で恐縮ですが、被爆の実相を伝える被爆者の体験を、核保有国語にして出版することを今後のライフワークと考え、当面、ロシア語、中国語、英語を考えています。昨年、日本では初めてのベンガル語による体験集を発刊しました。また、原爆被害の実態を伝えるため、2010年核不拡散NPT)再検討会議に参加し、被爆者を先頭に国連近くの広場までのデモ行進しました(写真5)。同年、NYにあるマルチンルータ高校生の前で被爆の実相を話しました(写真6)。国内では。宮上小学校、他校で証言を行っています(写真7)。 

    編者注:
  旧知の友人である上田紘治さんは、原爆被害の実態を伝えることに尽力され、この春には中国語・日本語併記の「証言」集を出版されます。

  先輩である上田さんの魅力を感じることが我々の活力源になればと思い、ねんりん原稿を依頼しました。

        

写真6.マルチンルータ高校での講話     写真7.宮上小学校での証言