幕末・明治維新略史

HOME > マルクス・エンゲルス抄録





◆マルクス・エンゲルス(紹介)

 岩波文庫や大月書店の文庫本の輪読の報告を中心にしましたが、引用が多すぎてもご迷惑がかかりますので、概要の紹介という方針です。どうぞ興味やご関心をお持ちいただいて、是非とも岩波文庫や大月書店のもとの本を読まれることを期待し、お勧めいたします。●のページを探して下さい。

マルクス『経済学・哲学手稿』(1844)

エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)

マルクス『哲学の貧困』(1846)

マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(1846)

マルクス『資本論』(1867~94)

エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』(1884)

エンゲルス『反デューイング論』(1878)

資料に戻る

◆マルクス『経済学・哲学手稿』(1844)

 労働者が富を生産すればするほど、彼の生産が力と範囲を拡大すればするほど、彼はそれだけますます貧しくなる。

 労働が商品を作ればつくるほど、彼はそれだけますます安い商品になる。物的世界の価値増大(フエアヴェルトウング)に正比例して、人間世界の価値下落(エントヴェルトウング)が進行する。

 労働者が労働対象をよりおおく生産すればするほど、彼はますますすこししか所有できず、ますますひどく自分の生産物たる資本の支配下に屈服する。

 労働者が骨身を惜しまず働けば働くほど、彼が自分のむこうがわに創造した疎遠な対象の世界はますます強力なものになり、彼自身、つまり彼の内面の世界は、ますます貧しくなり、自分のものとして彼に属するものはますますわずかなものになってゆく。労働者の現実性剥奪である。労働は宮殿を生産するが、労働者のためには貧民窟を生産する。《pp.●-》

 

◆エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)

 貧民街を訪問した時に、ロンドンに溢れる文明を実現するために人間性の最良の部分を犠牲にしたこと、2、3の少数者が力を完全に発展させるために、何百もの力が無為に放置され、抑圧されていたことに気がつくのである。すでにロンドンの雑踏がなにか人間性に逆らう物を持っている。

 数十万の人がすべて同じ本性と能力を持ち、幸福に成りたいという関心を持っているのに、誰も他人には目もくれずにすれちがって行く。この残酷な無関心、私的利益への孤立化。今日の社会の根本原理が大都会で露骨に現れる。《pp.●-》

 労働者の堕落のいま1つの原因は、刑罰として労働である。自由意志による生産的活動が最高の喜びであるなら、強制労働こそ最も残酷で屈辱的な苦痛である。労働者はお金の為にやすみなしに単調に働く、しかも精神的仕事をする余地はないが、大きな注意力をうばう。《p.●》

 主婦が工場で働くと、家族を解体させてしまい、家族を土台としている今日の社会状態では、夫婦、子供にも堕落的な結果をもたらす。

 生まれた最初の1年間にも、自分の子供の世話をし、普通の愛育さえ子供に示す暇もない母親、自分の子供の顔さえ殆ど見ることさえできない母親は、これらの子供にとっては母親であるはずがない。

 彼女は必然的に愛育に対して無関心となり、愛情もなく、優しい心使いも無く、自分の子供をまるで赤の他人のように取り扱うにちがいない。

 このようにして成長した子供はたった一人の孤立した生活しか知らないので、うちとけた家庭的な気分にさえなれない。これがさらに家族の崩壊を促進する。

 子供たちはたくさん稼ぐようになると、両親にある決まった金額を食費および部屋代として支払い、残りの金は自分自身の為に使い始める。これがしばしば14、5歳ころから始まる。子供は、両親の家を下宿屋と考え、気に入らなければ別の下宿屋ととりかえる。

 多くの場合、家族は主婦の労働によって解体されるのでなく、逆に、妻が家族を養い、夫は家にいて子守をし、掃除をし、料理する。ほかの社会関係が変化しないのに総ての家族関係がひっくり返されてしまう。《下pp.●》

 

◆マルクス『哲学の貧困』(1846)

 疎外は単に結果のみでなく、生産という行為・活動のうちにもあらわれる。労働の外在化である。

 労働を営むあいだ、自分が肯定されていると感じないで否定されていると感じる。自由な肉体的精神的なエネルギーの発揮でなく、肉体をそぎ、精神を荒廃させる。

 だから労働者は労働を離れてはじめて我が身にかえったくつろぎを感じ、家にいるようにほっとする。

 この結果、人間はわずかに自分の動物的な諸機能において、即ち、飲食や生殖において、あるいはせいぜい住居とか、衣装とかいうことにおいて、自由な活動を営む自由を感じ、かえって、人間的な諸機能においては、ただの動物としてしか自分を感じるにすぎないのだ。

 飲食や生殖などは、もともと人間的機能である。しかし、これらを人間の種々の他の活動から切り離して、それだけをたった一つの最終目的にまつりあげてしまうほど抽象化してしまったとしたら、それらといえども動物的になる。《pp.●-》

 「ゆたかな人間というものは、同時に人間的な生活表明の全体を必要としている(ベデユルフテイヒ)人間である。いいかえれば、自分に固有な実現を内的必然性として、必要(ノート)としてみずからのうちに現存せしめているような人間のことである。《p.●》

 消費者の思量は彼の手段と欲求とに基づく。いずれも彼の社会的地位によって決定されこの地位はまた社会組織全体に依存するのである。たいてい欲求は直接に生産から、あるいは生産に基づく事物の状態から生ずる。世界の商業は殆ど全く、個人的消費の欲求ではなく、生産の欲求にかかっている。《●章●節》

 

◆マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(1846)

 「人間の存在とはかれらの現実的な生活過程である。」

 「道徳、宗教、形而上学その他のイデオロギーおよびそれらに対応する意識形態は、もはや独立性の見せ掛けを持たなくなる。・・・物質的生産と物質的交通とを発展させつつある人間が、かれらの現実とともにかれらのの思考および思考の生産物をも変えてゆく。

 意識が生活を規定するのでなく、生活が意識を規定する。

 第一の見方では生きている物としての意識から出発するが、第二の現実的生活に対応した見方では現実的な生きた諸個人そのものから出発し、そして意識をただかれらの意識としてのみ考察する。」《pp.●-》

 「他人との共同体において初めて各個人は彼の素質をあらゆる方面へむかって発達させる手段を持つ。従って共同体において初めて人格的自由は可能になる。

 「一つの情欲が固定的に成るかどうか、すなわちそれが我々にたいする排他的な力に成るかどうかということ、このことは物質的な境遇、『わるい』世間的諸関係がこの情欲の正常な満足および他方では情欲総体の発展を許すかどうかにかかっている。」 《p.●》

 今日では「一個人において一つの欲望が他の総ての欲望を犠牲として満足されることができるということ、このようなことは『あってはならない』ということ、このようなことは多かれすくなかれ今の世界の総ての個人においておこっているということ、そしてこのことによって殊に全体の自由な発展が不可能にされるということ。」

 共産主義者たちは「自分達の情欲や欲望のこのような固定性を廃棄しようなどとは考えもしない。

 彼らはただ、これら総ての欲望の正常な満足を、すなわち、<完全な満足>欲望そのものによってのみ制限されるような満足を彼らに可能にするような、生産および交通の組織に向かって努力する。」

 「もしこの個人の生活する境遇が彼に他の総ての特性を犠牲としての1つの特性の一面的な発展だけしか許さないならば、もしそれが彼にこの1つの特性だけの発展のための材料と時間しか与えないならば、この個人はただ一面的な発展にしか到達しない。」 《pp.●-》

 

◆マルクス『資本論』(1867~94)

 労働日は1つの最大限度を有する。それはある限度以上には延長され得ない。この最大限度は、二重に規定されている。第1には、労働力の肉体的限界によって。休息、睡眠、食事、身を清め、着るなど、肉体的欲望を満たさねばならぬ。また精神的限界がある。労働者は精神的および社会的諸欲望を満たすための時間を必要とするが「これらの欲望の範囲と数とは、一般的な文化状態によって規定されている。」《●-●-●》

労働力の価値はこの商品の生産したがってまた再生産に必要な労働時間により規定される。

 労働力は生きている個人の能力として存在するのみであるから、その生産はかれの生存を前提とし、労働力の生産は彼自身の再生産又は維持であり、そのためには、一定量の生活手段を必要とする。一定の国にとって、一定の時代には、必要なる生活手段の平均範囲が与えらている。世代的補充のため、労働力の再生産に必要な生活手段の額は労働者の子供の生活手段をも含む。 《●章●節》

 資本の集中の過程で、「窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大する。」《●-●-●》

 

◆エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』1884(大月書店)

 「唯物論的な見解によれば、歴史における究極の規定的要因は、直接的生命の生産と再生産とである。

 しかし、これはそれ自体さらに二通りにわかれる。一方では、生活資料の生産、すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具の生産、他方では、人間そのものの生産、すなわち種の繁殖が、これである。

 ある特定の歴史的時代およびある特定の国土の人間の生活がいとなまれる社会的諸制度は、2種類の生産によって、すなわち、一方では労働の、他方では家族の発展段階によって、制約される。労働がなお未発達であればあるほど、またその生産物の量が、したがってまた社会の富が乏しければ乏しいほど、社会秩序はそれだけ圧倒的に血縁の紐帯に支配されるものとしてあらわれる。(p.●)

 

◆エンゲルス『反デューイング論』(1878)

 「近代的な平等の要求は・・・むしろ、人間であるという右の共通の性質、人間の人間としての右の平等から、人間はみな、あるいは少なくとも一国家の市民または一社会の成員はみな、政治上ないし社会上平等の資格を要求する権利を持っている、という結論を引き出す」

 原生的な共同社会では共同体の構成員の間の権利の平等が問題であり、婦人、奴隷、外来者はこの平等から除外されていた。

 キリスト教は平等に原罪をになっているという平等を認めたが、これは奴隷と抑圧されたものの宗教としてのキリスト教の性格にふさわしいが、間もなく司祭と俗人という対立が固定化された。

 ゲルマン人により複雑な社会的政治的なヒエラルヒー(階層制度)が出来た。

 手工業からマニュファクチュアへ移行する際には、契約当事者として平等の権利をもって工場主と交渉する自由な労働者がいること、ある商品の価値はその中に含まれる社会的に必要な労働により計られる限りにおいて、あらゆる人間労働は平等であるということ、これらの経済的諸関係が自由と平等の権利を要求する。《pp.●-》

 

マルクス『ゴータ綱領批判』1875.(A.セン『不平等の経済学』より)

 ここで問題にしなければならないのは,それ自身の基礎のうえに発展した共産主義社会ではなく,反対にまさに資本主義社会から生まれた共産主義社会であるしたがってこの共産主義社会は,あらゆる点で,経済的にも道徳的にも精神的にも,それが生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ烙印として残しているそれゆえ,個々の生産者は,彼が社会に与えたのとちょうど同じだけのものを-控除を行った後で-取り戻すのである…….個々の生産者は,(共同基金から彼の労働を控除した後に)

これこれの量の労働を供与したという証書を社会から受け取り,この証書をもって消費手段の社会的貯蓄の中から,彼の労働と等しい量の労働が費やされている消費手段をひきだす……

 したがって,平等な権利とは,ここでもやはり-原則的には-ブルジョア的権利であるとはいえ,原則と実際とがつかみ合いの争いをすることはもはやないそれに,等価交換とはいっても商品交換の下では単に平均的にみれば成立しているにすぎず,個々の場合にも等価交換が成立しているわけではない

 このような進歩にもかかわらず,ここでの平等の権利は常に残存するブルジョア的な制約に絶えず服している生産者たちの権利は彼らが提供する労働に比例している平等といっても,それは労働という平等な尺度によって測定が行われることを意昧するに過ぎないのである

 しかしある人が肉体的または精神的に他の人より優っていれば,同じ時間により多くの労働を提供できるし,あるいはより長い時間労働することもできるそして労働が尺度になるためには,長さか強度かによって規定されなければならないそうでなければ,労働は尺度ではなくなる.ここでの平等な権利は,不平等な労働にとっての不平等な権利である誰でも他の人と同じように労働者に過ぎないのだから,この平等な権利はいかなる階級差別も認めない.だがそれは労働者の不平等な個人的天分と,したがってまた不平等な供給能力を,生まれつきの特権として暗黙のうちに認めているだからそれは,すべての権利と同様に,内容においては不平等な権利である権利とは,その性質上同じ尺度を適用する場合にのみ成りたつところが,不平等な諸個人(彼らが不平等でないとしたら,彼らはなにも相異なる個人ではないことになる)

も同じ尺度を適用すれば測れるが,それはただ,彼らを同じ視点のもとで特定の一面から捉えるかぎりにおいてであるたとえば上の場合,諸個人はただ労働者として把握され,労働者としてしか彼らの資源はいっさい認知されず,他のすべてが無視されることになる……

 しかしこのような欠陥は,長い苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では,避けられないものである……

 高度に発達した共産主義社会では,すなわち諸個人が分業に隷属することがなくなり,それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなった後,また労働が単に生活のための手段であるだけでなく,生活にとってまさに必要となったのち,さらに諸個人の全面的な発展につれて彼らの生産諸力も成長し,協同組合的な富がそのすべての泉から溢れんばかりに湧きでるようになった後-そのときはじめてブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ,社会はその旗にこう書くことができる各人はその能力に応じて,各人にはその必要に応じて!