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岳水大季

 巌あつまり岳をなし、甘露生み出す水つきぬ  広きこと大宇宙のごとし、四季の巡り止むことなし



英 国 社 会 保 障 略 史(2013.12.10 追加)

1) 11世紀から封建国家になる.国王と国内の地域の支配者の貴族,貴族と従士などが主従関係(土地保有を認めてもらう代わりに戦争の時,騎士を連れて参戦する).(市民革命まで)

2) 15世紀末~16世紀前半に資本主義的生産様式の基礎ができる.

3) 15世紀末から絶対王政.国王は封建貴族からも市民からも制限を受けず、勝手に戦争し、そのために課税したり、迷惑をかけたりした。(重商主義,マニュファクチャー)

4)16世紀前半,宗教改革(イングランド教会成立(新教),イギリス国教)

5) 17世紀半ば市民革命.(議会派が王党派にかつ。議会が法律を作るようになった)

6) 18世紀末~19世紀初めに産業革命(工場制手工業から機械制大工業へ).

7) 1830代から自由主義.新興の商工階級と労働階級の支持を得た政党が勝つ.(自由放任主義。規制緩和して自由な経済活動)

8) 19世紀末から帝国主義.保守党の労働者保護政策、自由党のリベラル・リフォーム

9) 1914~1918 第1次世界大戦

10) 1929から世界大恐慌

11) 1939~1945 第2次世界大戦

12) 戦後,福祉国家

13)1979年、サッチャー首相就任、市場原理主義(規制緩和)、国営企業の民営化、福祉削減

14)1997年、ブレア首相、市場中心でもなく、大きな政府でもない第三の道



 中世の人たちは長い間、閉鎖的な村落内だけで生活していたが、ヨーロッパでは、ノルマン人の移動、武者修業者、巡礼および十字軍への参加などが原因となり、近世的な商業のおこりとなり物資の移動が始まった。最初はイタリヤ人で、たとえば十字軍の軍需物費を輸送する帰りには、東洋の物資を積んでかえり、それらの物資はヨーロッパで珍重された。13世紀から15世紀には多くの商人が国内を商いのために旅行し、貴族は臨時あるいは定期に市場を開き、そこでの物々交換から次第に商品の種類も増加し、そこに都市が発生し、国王も財政的理由から、都市に特権を譲渡した。

 商人たちはそこで自分たちの利益を守るためギルドの組織をつくり、他の市民の参加を排除するとともに、ギルドに所属する人たちは交際を親密にし、日常生活を支えあっていた。例えば未亡人の世話、あるいは救貧院のベッドを契約して、病人を収容するなど。この商人ギルドのほかに、同一の都市の同一の産業に従事するすべての職人の結社ができた。クラフト・ギルドである。これは12世紀ごろからあったといわれるが、当初の目的は一般に製品の規格を維持する監督にあったが、これを商品の製造高を調節する機関の役割として認めた。14世紀には集会所をもつようになり、礼拝堂や救貧院を付設したものもあった。しかし時代がすすむにつれて職人が親方になることをますます困難にした。また15世紀末にはそのなかの豊かな成員だけが役員会をつくり、排他的な権力をもつようになった。

 これらのギルドから市会の委員の多くが選出されたので、ギルドの事務機関と市役所とがひとつのもののように扱われたこともあった。このように都市の住民の間にはいくつかの差別があったが、しかし局外者に対しては結束して抗争した。その都市における貧民対策のひとつは、乞食を抑圧することであった。すなわち労働力のないライ患者、盲人、老衰者、病人への施しを浪費ときめつけて、市外へ退去するように命令し、応じない者への刑罰を、14世紀のロンドン市は布告している。また飢饉には穀物を配給している例が多くあり、またロンドン市長はその後、市営の穀物倉庫を設け任意の寄付によってそこへ穀物を買入れておくことをはじめた。13世紀ごろには、ギルドが救貧院と養育院の管理を都市にまかせるようになった例がみられる。なお施設外の施与は、老齢者への無差別給付から始まった。都市の発達と人口の移動がはげしくなると、救貧事業は都市の負担では維持できなくなり、国がそのために対策を治安維持のためにも、たてなければならなくなってくる。そうして救貧法が登場するのである。(重田信一『社会事業史』福祉事務所制度研究会,昭和52年度版,pp.16-)

◇『ギルド』について(1389年、リンカーンの仕立て屋ギルドが、リチャード王に提出した報告書。)

 当ギルドは西暦1328年に設立された。全兄弟・姉妹[会員]は聖体の祝日に行列に加わらねばならない。正会員になるには、加入費として大麦4分の1ポンドを納入せねばならない。…ギルドの会員が貧窮に陥って生活の資がなくなった場合、彼はギルドの資産から毎週7プフェニッヒ受け取る。会員が当市で死に、埋葬の為の金を遺していない場合、ギルドは死者の身分に応じて費用を用立てる。…ギルドの親方が誰かを徒弟として受け入れる場合、徒弟はギルドに2シリング支払う。…祝日には兄弟・姉妹は、祈りの他に3つの深い鍋と6つの水差しを持参すること。鍋のビールは最も必要とする貧者に与えられる。…ギルドの各兄弟・姉妹はギルドの職長が要請した時は、慈悲の喜捨として毎年1プフェニッヒを払う。その金はギルドのビールの貯えからの1びんと合わせて、喜捨人が特に必要と考える所に与えられる。」(訳者注。補足「織物工や左官屋はギルドに入らなければこの都市で同業者になれない、という規定を持っていた。中世の連合体は自衛と隣人愛を同時に実践している。リンカーンは1349年のペストで人口の60%を失い、以後回復していなかった。…人口5400人といえば、1377年の時点でイングランド第7の大都市であった。」(A.ボルスト『中世の巷にて(上)』1973,pp.303~)

◆(1) イギリスは羊毛生産国から毛織物生産国へ転化する。14C半ばには在英のフランドル人の毛織物職人の保護政策をとった(原料羊毛の輸出の抑制や毛織物製品の輸入の抑制)。

 以前は、都市ギルドの手工業、商業資本の問屋制家内工業(農村)などの中世的形態により生産していた。14世紀後半から農村の富裕な農民層が近代的工業(マニファクチャー・工場制手工業)を発展させ始めた。またこの頃、クラフト・ギルド内部で本来のギルド員たる親方と終生これに成れない職人・小親方との階級的対立が激化し、職人(小親方)がギルド的独占の都市を嫌い、農村へ移住し、半農半工で毛織物を営利的に製造し始める。これと、領主直営地の囲込(価格が上昇した羊毛生産のため農民を土地から駆逐し、牧羊地化した)や期限付き借地化や賦役の金納化などが封建社会の荘園制やギルドを解体させた。封建家臣団の解体や土地囲込により低賃金労働者や浮浪者が増加した。14世紀末に農奴制は消滅し、15世紀には自由な自営農民が相当存在した。 こうして15世紀末~16世紀前半に資本主義的生産様式創出の基礎が起きた。病気、障害、高齢などで働けなくなったときに、助けてくれるものがなければ、浮浪者や乞食になって施しをもらって生きるほかなかった。 

 貴族は没落するか資本家に転化し、没落した小市民や貧農は都市工場や農村大経営に、賃金労働者として吸収される。直ちに工業労働者に成るとは限らず、絶望的なルンペンプロレタリアートになったり、かなり後まで小市民として存続した。階層分解.

◆(2) 重商主義(定義はあい昧。15世紀末又は16世紀末から市民革命、市民革命から産業革命まで)。重商主義的政策。初期産業資本(マニファクチュアー資本)の本源(原始)的蓄積の機能を持つ政策。17世紀後半から、印度綿布など競争的外国製品の輸入禁止、輸出製品の質の規制、麻・木綿・紙・ガラス・陶器などの保護育成、浮浪者や孤児をワークハウスで労働者として錬成。(重商主義時代の官僚は産業育成にとって行政指導は必要という信念を持っていたが、アダム・スミスは批判した。1571年 イングランド議会はフェルト製の帽子を着用せよという法律制定。 1665年死者は毛織物の喪服で包まねばならないという決議。 1700年 東洋産の絹やキャラコの着用を禁止。 伊賀 隆『経済学に何ができるか』)

◆(3) マニファクチュアー(工場制手工業) a)独立手工業者が同一の資本のもとで1つの作業所に結合される。車匠、馬具匠、指物匠、鍛冶などが一作業所に結合され馬車を作る。b)同一資本の作業所で就労していた労働者の作業を分割し、体系的な分業にする。紙、針、活字のマニファクチュアー。

 いずれも作業が専門化し熟練度が向上し作業切り替えの時間のロスが減り道具の改良も進む。個々の労働者の作業は単純化する。従来からの熟練や熟練労働者の力は依然大きいが、不熟練労働者が発生し、後の産業革命による機械制大工業の準備となる。15C~16C半ばまでを初期マニファクチュアー、16C半ばから産業革命までを(本来の)資本制マニファクチュアーと呼ぶ。後者は資本制生産過程の特徴的な形態を示す産業資本である。イギリスでは農村の半農半工経営で、小囲込地の中で家族や賃金労働者の労働により生産。周辺の貧農・日雇い層を問屋制的な下請けとして組織するが、規模拡大に伴い中心工場での賃金労働者の割合を高めた。これはまた、小生産者の階層的分解である。

◆(4) 封建社会の中から生産力の増大に対応して、資本主義的生産様式が現れ社会全体を支配してゆく過程で、批判が出てくる。

 ①封建的支配体制から利益を得ている人(王、貴族、商人、ギルドの親方など)や、封建制をそのまま維持したい人と、ある程度改革するが手に負えぬほどの資本主義体制の成長には抵抗する人などがいた。彼らは変革を阻止しようとするが、その際に、旧体制の農民の保護を守ろうとする側面もあった。

 ②封建制で収奪されていたが、新しい体制でも収奪される地位の人(都市の職人、農村の貧農)。収奪されたが生活していた共同体はギルドや共有地利用権などにより彼らを保護する機能を持っていた。しかし、資本主義的変化はこれらを破壊した。生活を守るために共同体を守れという反対論。様々な立場があった。ア)封建的収奪者も自分達の利益を守るために唱えた。イ)農民は場合によっては直接の封建的収奪を排除して、むしろ絶対王権を支持することもある。ウ)都市職人や農村貧農は、固有の意味での農村共同体から既に切り離されていて、ギルドも親方への上昇を妨げていた。だから、むしろ失われた共同体への郷愁や小所有者的性格から変革に反対。エ)その場合でも農村共同体の中でも自分の土地を幾らかでも持っているかどうかで郷愁の程度や性格がかなりちがう。

 ③小所有者や小市民。資本主義を原理的には支持するが、自由と平等が両立せず、競争の落伍者になりつつあるのを感じた。そこで私有財産そのものに反対なのではなく、結果の不平等に反対し政治的な権利の制限を主張。自由で平等な小生産者の社会を理想とするという意味での小市民的急進主義者であり、資本主義の出発点の自由平等の基本的権利を確認し、それを基礎にして現実を批判。民主主義の原理の徹底という方向に成りうる。《水田 洋『社会主義思想史』現代教養文庫 pp.7-》 


◆救貧法が整備される前、特に宗教改革以前は、救貧は教会の役割であった。修道院やギルドなどで自発的に「貧しき人々」への救済が行われていた。中世キリスト教世界では、貧しいことは神の心にかなうこととされ、そういう人に手を差し伸べることは善行であった。

 死後、天国に召されるためには生前の善行が必要とされ、教会へ多額の寄付をするとか貧しい人に喜捨をすることが求められた。貴族の中には全財産を教会へ寄付してしまい放浪の旅へ出るものもいた。余裕のある者は、その寛大さを誇示するためにも積極的に自発的救貧を行った。また市民たちは競って貧民に文物を与え、それが市の誇りとされた。まずしい農民には安い地代で農地を提供することも多かった。

 ところが宗教改革は、こうした救貧のありかたを一変させた。マルティン・ルターは『ドイツ貴族に与える書』(1520年)で「怠惰と貪欲は許されざる罪」であり、怠惰の原因として物乞いを排斥し、労働を「神聖な義務である」とした。都市が責任を持って「真の貧民」と「無頼の徒」を峻別して救済にあたる監督官をおくことを提唱した。カルヴァンは『キリスト教綱要』でパウロの「働きたくない者は食べてはならない」という句を支持し、無原則な救貧活動を批判した。

 イングランドにおけるプロテスタンティズムの流行は貧しいものへの視線を変容させ、貧しいことは怠惰のゆえであり、神に見放されたことを表すという見方が広がり、都市を締め出された貧民は荒野や森林に住みつくか、浮浪者となって暴動を起こすようになった。

 こうした状況から、救貧行政制度の必要性が意識されるようになった。イギリスでは1531年に王令により貧民を、病気等で働けない者と、怠惰ゆえに働かないものに分類し、前者には物乞いの許可を下し、後者には鞭打ちの刑を加えることとした。1536年には成文化され救貧法となり、労働不能貧民には衣食の提供を行う一方、健常者には強制労働を課した。産業革命が加速する18世紀まで、健常者の「怠惰」は神との関係において罪として扱われ、救貧院の実態は刑務所そのものであった。(ウィキペディア「失業」「救貧法」)




◆ 1349,50,60,労働者規制法。(1349年のペストで農村労働力が激減,供給不足)労働能力ある者への施与を禁止、農業労働者の定着を狙う。対象は無産貧民ではなく規制された労働条件での労働を拒否する日雇い労働者である。1388,労働能力ある乞食は強制的就労、労働不能の乞食は出生地、現住地で救済。この後も貧民は益々増加した。

 1531 労働不能の乞食を許可した。

▼(マルクス『資本論』(岩波文庫)第7編第24章第3節15世紀末以来の被収奪者に対する血の立法。労働賃金引き下げのための諸法律。(向坂訳)pp.303-)

ヘンリー8世、1530年。老齢で労働能力のない乞食は乞食鑑札を輿えられる。これに反して、強健な浮浪者には鞭打ちと拘禁とが輿えられる。かれらは荷車のうしろに繋がれて身体から血の出るまで鞭打たれ、しかる後に、その出生地または最近3年間の居住地に帰って『労働につく』ことを誓約せねばならない。何たる残酷な皮肉!ヘンリー8世の27年には前の法規が繰り返されるが、新たな補足によってさらに酷くされる。再度浮浪罪で逮捕されれば鞭打ちが繰返されて耳が半分切り取られるが、累犯3回目には、当人は重罪犯人及び公共の敵として死刑に処されることになる。

エドワード6世、その治世第1年なる1547年の一法規は、労働することを拒むものは、彼を怠惰者として告発した者の奴隷となることを宣告されるべきものと規定している。主入はパンと水と薄いスープと適當と思われる屑肉とをもって、その奴隷を養うべきである。彼は、いかに厭わしい労働をも鞭と鎖とで妓隷に強要する権利を有する。逃亡14日間に及べば奴隷は終身奴隷の宣告を受けて、額か背にS字を烙印され、逃亡3回目には国家の反逆者として死刑に処される。主人は彼を他の動産及び家畜と全く同様に売却し、遺贈し、奴隷として賃貸することができる。奴隷が主人に逆らって何かを企てれば、やはり死刑にされる。治安判事は告訴に基づいてかかる徒輩を探索せねばならない。浮浪人が三日間無為に徘徊していたことが発覚すれば、出生地に送られ、赤熱の鏝で胸にV字を烙印されて、そこで鎖に繋がれて街路上その他の労役に使用されねばならない。浮浪人が虚偽の出生地を申し立てた場合には、その地の住民または団体の終身奴隷とされ、S字を烙印される。何人も、浮浪人からその子供を取上げて、男は二四歳まで、女は二○歳まで徒弟としておく権利を有する。彼らが逃亡すれば、この年齢まで親方の奴隷とされ、親方は彼らを鎖に繋ぐも鞭打つも意のままにすることができる。すべて主人は、その奴隷の首、腕、あるいは脚に鐵環をはめて、識別しやすくし、また自分のものなることを確實にしておくことを許される。この法規の最後の部分は、ある種の貧民が、彼らに飲食を給しかつ仕事を与えようと欲する地区または個人によって使用されるべきことを規定している。この種の教区奴隷はイギリスでは19世紀に入っても長くroundsmen(練り歩くもの)の名で保存された。

エリザベス 1572年。鑑札のない14歳以上の乞食は、これを2年間雇おうとする者がない場合には、烈しく鞭打たれて左の耳朶に烙印されねばならない。再犯の揚合は一八歳以上であれば、これを二年間雇おうとする者がなければ死刑にされるが、三回累犯の場合には容赦なく國家の反逆者として死刑にされる。同様な法規としては、エリザベス18年の法律13号及び1597年のものがある。

ジェームズ一世。放浪し乞食する者は無頼漢及び浮浪人の宣告を受ける。輕罪法廷における治安判事は、彼を公然鞭打たせ、初犯は6ヶ月、再犯は2カ年入獄させる権限を与えられている。入獄中は、治安判事が適当と考える度びに、適当と考える数だけ、彼は鞭打たれねばならない。…矯正し難い危険な浮浪者は、左肩にR字を烙印されて強制労働を課され、再度乞食中を逮捕されれば、容赦なく死刑にされる。これらの規定は18世紀の初期に至るまで有効だったが、アン12年の法律23號によって初めて廃止された。■

 1563 労働者の就労放棄の禁止、雇い主の不当解雇の禁止。(浮浪者予防のため)      

 1572 浮浪者処罰および貧民と労働不能者救済の法律。

 1576 貧民の就労促進と怠惰の回避のための法。労働能力ある貧民の強制的就労。

 1598 浮浪人乞食処罰法 矯正院を設置し浮浪人乞食は上半身を裸にし体が血で染まるまで公衆の面前でむち打ちした後,出生の教区に送還し強制労働させた.

1600 ロンドン東インド会社設立《1602オランダ東インド会社設立,1604フランス東インド会社設立》

●1601 エリザベス救貧法。国家的救貧制度.労働能力なき貧民は在宅または施設で救済。扶養能力なき貧民の子弟は徒弟奉公(教区徒弟。男子24歳女子21歳若しくは結婚まで就労を強制).労働能力ある貧民は強制的就労、それを拒否すれば浮浪者の刑務所へ。治安判事が任命した貧民監督官が救貧税の徴収と救済の業務に当たった。教区住民と土地所有者に救貧税を課税し、救済資金とする。教区の救済責任。

 ジェームズ1世(1603-25)放浪し乞食をする者は無頼漢および浮浪者の宣告をされ、公然と鞭打たれることもあり、矯正しがたい危険な浮浪者は左肩にR字を烙印され強制労働を課され、再度乞食中を逮捕されると死刑にされた。これら浮浪者や乞食を処罰する法律は1714(?)に廃止された。

●市民戦争(1642-49年ピューリタン革命 42年に議会派と王党派の武力闘争が決定的になる.議会派は進歩的貴族・独立自営農・商人・手工業者・産業資本家層などで清教徒,王党派は封建的貴族・それを支持する農民層で国教徒.議会派の中心のクロムウェルが優勢に立ち,1644年マーストン=ムアの戦い,1645年ネーズビーの戦いで王党軍を破り,王は捕らえられて1647年,議会に引き渡された。王は逃亡する。49年にチャールス1世を暴君・反逆者・虐殺者・国賊として処刑。クロムウェルらが共和制をうち立てた。)中に貧民が増加し、ロンドンに乞食浮浪者が集中。救貧法では教区毎の課税なので負担が激増したため、出生地や以前の定住地へ戻す命令を出す。

 1651 ホッブズ『リヴァイアサン』(▼彼は、コナトゥスには自己保存の傾向があり,人間におけるこの傾向を自然権(natural right)と呼ぶ.自然権によって,人間は,① 獲物を得るため,② 安全を獲得するため,③ 名声を求めて,侵略を行う.万人の万人に対する戦いの状態である.このような自然の状態は自己保存に不利であり,このような状態を調整するために,法律があり,それによって統治する強力な国家がなければならない.(http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/cont-exp.html)誰も弱い国家の言うことなんか聞きません。そこで国家は、主権という、絶対に不可分、不可侵な権力を持つべきだ。専制君主を正当化)社会契約説的国家観(人々の合意により、秩序を確保するための権力行使を認める。)→のちに租税利益説につながる(救貧税は救貧活動による秩序安定、不動産所有安定化により正当化される。税負担の応能・応益原則とは別) 

 1662 定住地法(労働者が他の教区に移住した時、要扶助者になる恐れあれば、前の居住地へ強制送還できる)。借地農(農業資本家)には低賃金労働者確保に有利だが、新興工業都市では貧民の労働力を必要としていたので、厳格にはやらなかった。

 1688名誉革命 クロムウェルは対立派を追放し,独裁体制を固めた。厳格なピューリタニズムに基づく彼の独裁政治は,やがて国民の反発を招く。1658年クロムウェルが死ぬと,フランスに亡命していたチャールズ1世の息子が王位につく(チャールズ2世)。これが王政復古。チャールズ2世はフランスと結んでカトリックと絶対王制の復活をはかった。この過程で王権に寛容なトーリー党(地主,僧侶を代表)と批判的なホイッグ党(ブルジョアジーを代表)が成立し,のちの2大政党制の基礎が形作られた(トーリー党が保守党の前身)。チャールズ2世を継いだジェームズ2世も専制的な政治を行い,カトリックの復活の意図も見られた。1688年,議会はジェームズ2世をフランスに追放,かわって王の長女メアリとその夫でオランダの総督オレンジ公ウィリアム3世を王として迎えた。これが名誉革命である。メアリ2世と共に王位についたウィリアム3世は,即位にあたって議会が提出した「権利の宣言」を承認し,1689年「権利の章典」として法律となった。名誉革命によって,王権に対する議会の優位が確立したため,ウィリアム3世は議会の多数党の代表者によって内閣を組織させ(1697),政党政治が始まった。議会が立法・徴税・軍事権握る。

 1690 ロック『統治論第2編』98『市民政府論』(人間は理性的だから、自然状態の中でも他人の生命・財産を侵害しない。ロック的自然状態では、大地の広大さ肥沃さ、資源の豊富性ゆえに、人々は同じものを取り合う必要がない。他人と同じものをめぐって争う、あるいは他人が占有しているものを実力で強奪するよりも、未開の大地で無主の自然を新たに獲得する方が、安全確実で容易である。人民には生命・財産・自由を守る自然権がある。各人が契約によって共同社会を形成。政府が人民の信託を裏切りその人権を踏みにじるなら、人民はこれに抵抗し政府を変更する抵抗権をもつ。名誉革命を正当化。チャールズ2世の専制政治に反対して失敗しオランダに亡命、名誉革命で帰国。米の独立革命やフランス革命に大きな影響)

(17世紀のオランダでは、 両替商が505種類の金貨と341種類の銀貨を扱わねばならなかった。 この頃1609年に設立されたアムステルダム銀行が、両替商や商人の持ち込む貨幣をその正味の重量に従って預金額にする、 というサービスを始めた。 預金を払い戻す場合はその逆で希望する貨幣で支払ってくれる。 このサービスを利用すれば取引はアムステルダム銀行の預金口座を通して決済される。この預金口座が鋳貨にかわって貨幣の働きをするようになった。 1694年に設立されたイングランド銀行は、 鋳貨や地金を預金として受け取り、その受取証を発行したが、 これが銀行券で貨幣に代わって取引の決済に用いられるようになった。 )

(▼フランス 17世紀後半ルイ一四世の財務大臣の役割。コルベールは、商業の拡大(そして貿易黒字の維持)が国の富の鍵だという重商主義ドクトリンを信じていた。かれの政策は特許企業を甘やかし、商工会議所を作り、資本を輸出や輸入代替産業に振り向け、関税の保護障壁を作り、フランス領での外国人の交易を邪魔し、等々。 国内商業は、かれの見方だと、国の富には何も影響しない。フランスの農民や小製造業者たちは、中世的な町の商人・職人ギルドの息苦しいくびきにとらわれたままだった。地域間の財や移動に関する制限や国内関税も、そのままだった。とんでもなく逆累進的な税金(金持ちのほうが税率が下がる!)はさらに強化された。特権地主の富裕層や教会は課税を逃れ、大輸出入業者は報奨金で甘やかされ、税負担はかわいそうなフランスの農民や町の小規模職人たちに一層重くのしかかった。コルベールはフランスの輸出入産業と港湾を結ぶことが必要なので道路等の公共事業を行った。コルベールは忌み嫌われた賦役、つまり百姓が封建領主(いまや国)に対して無償で提供すべき労働を復活させ、地元農民やその労働家畜を無理矢理道路の維持に狩り出した。http://cruel.org/econthought/profiles/colbert.html)(彼の「大きな政府、高い税金、公共投資への高い依存、商品、市場、労働など幅広い分野での多くの規制など」が2009年のサルコジ大統領の政策の原型だという論者がいる。)


 1707年,イングランド王国とスコットランド王国が合併し,大ブリテン王国(the United Kingdom of Great Britain)が成立。

 1720 「わが製造業を奨励することによって貧民に多くの雇用を与える法」(インドのキャリコ使用禁止。毛織物産業保護)

 1722 ワークハウス テスト法(ナッチブル法)。院外救済(救貧施設に収容しないで救済する)の抑制。教区に労役場を作り救済を求める者を収容したが、老幼、障害、疾病を問わない混合収容施設で貧民から嫌われた。拒む者は救済しない。

 ●木綿工業で機械化,工場制大工業へ.当時は綿工業はインドが盛んだったがイギリスがこれを導入し国産化を図った.1733 飛びひ発明(紡績機械の発達の始め)。1765 ワット蒸気機関発明。1768 水力紡績機発明。1785 力織機発明.

●産業革命(▼インド綿工業を絶滅させるため、ダッカの職人はイギリス人によって両腕を切り落とされ、両目をくりぬかれた。インド最大の綿工業の中心都市ダッカの人口は18世紀末の15万人から1840年ころには2万人に減少した。インド人は怠け者だとかカースト制度が悪いとイギリス人はいうが、崩壊しかけていたカースト制度を復活しインド人を互いに憎しみ合わせ、自立化の努力を始めれば弾圧するような力が強められていた。 産業革命が工場制生産に代表される資本主義的生産方法を作り出したが、その推進力となった綿工業は、その原料供給部門において非資本主義的で非人道的な奴隷制生産による綿花栽培によって支えられた。これは資本主義における世界的規模での二重構造である。ヨーロッパの市民社会では個人の自由、平等、博愛を建前とするから奴隷の存在そのものが市民社会の理念と矛盾した。しかしイギリス政府は1783年まで奴隷貿易奨励政策をとり、教会も奴隷貿易を支持した。角山 栄『産業革命の群像』清水書院,昭和59. pp.32-35)

▼エスピン=アンデルセン『福祉資本主義と三つの世界』pp.42-45「商品化以前と保守主義の遺制」

前資本制的な生産者、農民、職人、多くの人々にとって生活のために主に依存するのは賃労働による収入ではなかったという意味では商品化は欠如していた。家計はたいてい自足的に成り立っていた。封建的な労役はある程度までは相互的な関係であり、領主の側はパターナルな庇護を提供すること期待された。都市の生産者は一般にギルドや友愛組合に加入することが義務づけられた。貧困者は通常は教会に頼った。このように、多数の人々は生きていくためには支配的な規範や共同体組織に依存することができた。そして自由放任的な救貧と異なり前資本主義的な社会扶助は寛容でしかも慈悲深いものであった。

保守主義的イデオロギーの特質は、諸個人の商品化は道徳を低下させ、社会的な腐敗を招き、原子化と無秩序を引き起こすという考え方にあった。諸個人は競争し相争うようには生まれついておらず、その自己利益を権威あるものや支配的な制度委ねるようにできている、と考えるのである。封建的な理念は、商品というステイタスに対して正面から対立するものであった。すなわち、市場は主要な原理たりえず、賃労働は人間の福利にとってはさほど重要なものではない、というのがその考え方であった。

同業的な組合は前資本主義的あるいは前商品的な取り決めが大きな役割を果たしている第二の類型である。組合は都市において熟練工や職人の間で、身分を固定化し同業への参入、メンバーシップ、価格、生産を独占的にコントロールするための手段としてつくられた。こうしたギルドや友愛組合はまた賃金と社会福祉の問題を一体化し、障害をもったメンバー、寡婦、孤児の面倒を見た。組合のメンバーは商品化されていたわけでも労働市場に出ていたわけでもなかった。彼らの立場は組合における地位によって規定されていたのである。ギルドは親方も職人もメンバーとしたし、地位とヒエラルキーを承認した。しかし階級は受け容れなかったのである。ギルドが廃止された時、その多くは共済組合へと組織替えをした。ドイツでは、共済組合とそれに続いて生まれた社会保険法に古き封建精神が受け継がれた。こうした共済組合が主に特権的な熟練労働者を対象としていた。

しかし、同業組合モデルは主に大陸ヨーロッパの保守主義的な支配階級が好んだものでもあった。彼らはこのモデルを資本主義経済が発展していくなかで伝統的な社会を維持する道と考えたのである。すなわち、個人を市場による個人化と競争から守り、階級対立の論理からも切り離し、有機的な全体と一体化させていく手段として捉えたのである。

保守主義が、道徳性、忠誠心、伝統などを前提にしてではあるが、社会権を承認するものであるという事実は、国家主義の伝統からも明らかである。(*つまり、保守主義者は、個人を分断化させ、しきたりを解体する自由主義者に反対だった。そして、自分たちだけでなく社会成員全員の生活を守ろうという気持ちを持ち続けたといえる。)■

《フランス1758 ケネー『経済表』国家・社会の富の源泉は農業生産にある。自然法に基づいて、農業生産の増大のためには経済活動の自由が必要で、「レッセ=フェール」をスローガンに掲げ、経済活動に対する国家の干渉・統制(重商主義)の排除を主張した。「医療は万人のものである」と考える医師ケネーは「農民や庶民が豊かになれば医療を受けられる。農民や庶民が生み出す富を王侯貴族が搾取するのはおかしい」と考えるが、ルイ16世時代の恐怖政治では、公表できない。 そこで秘密結社を作って勉強し、庶民が豊かになるための「経済表」を作った。A.スミスと友人》

●1759 アダム・スミス『道徳感情論』自愛心に対抗できるのは理性、良心,内部のもの。全力で競争してよいがフェアプレイでなければならない。観察者の同感を得るように行動すべきと主張した。お金儲けをするのはよいとしても、あくどい金儲けや詐欺まがいの駆け引き、見本とは違う粗悪品を売りつける、カビが生えたり腐りかけたものをごまかして売りつける、お金を借りても理屈をつけて返さない、弱みにつけ込んで高い金利でお金を貸す、等々、自愛心に委せるとろくなことにはならないのが普通の人間だが、そういうことにブレーキを掛けるのは、周囲の人の眼だ。それが自愛心と両立する倫理に正しい社会をつくるということであろう。

《▼フランス 1762 ルソーは、「人間の平等を基盤にした社会をどのようにして創出する」かについて論じた『社会契約論』を1762年に発刊した。『社会契約論』のルソーの思想は、社会の「すべての不平等の除去」にあった。その根幹は、「人間の自然状態は、家も家財も家族もなく、誰にも干渉されないで一人で孤立して生きる」自然状態を前提に、「その中から生ずる障害を除去する必要から、人々の協力関係が生まれ、自然に家族や国家などの社会が発生、社会的人間へと移行した」という、人間そのものの歴史観にあった。ルソーは、当時のヨーロッパで自然状態が「弱肉強食の状態」と考えられていたことに対して、「自由で平等な状態」と思考した。社会に「不平等が発生した」のは、本来、「自由・平等だった自然状態」から「相互関係と関与・介入の中で生きるようになる社会状態」に移行した時点であり、ここで人間は、お互いの能力が比較され、その結果、「支配と服従」といった「不自由かつ不平等」の誤った歴史が誕生したと主張した。つまりルソーは、こうした自然状態から社会状態への移行は、「人間の意思」によるもので、その意思とは「契約」であり、その基礎は「自由・平等」という究極の価値を前提とするものであると理解する。そして社会は全員の約束、いいかえれば「契約」によって創設されたのだから、全員が社会の構成員(契約の当事者)であり、社会の全体である国家もまた、社会の構成員全員からなり、それらの人々全員が主権者となる。この主権の象徴が、「自由・平等」であり、その担い手は、国家の構成員全員となるとの論理を展開、その上で、主権を維持していくために、全員による定期的な集会の開催が不可欠となり、さらに政治への常時参加が求められると、ルソーは展開する。構成員全員が政治に常時参加によるシステムの実現こそが、社会の「不平等」を除去する唯一道であるという結論を導き出したのである。ルソーによって初めて樹立された民主主義の本質である『自由と平等』に立脚する「統治者(治者)と被統治者(被治者)の同一性」は、ルソーの没10年後の1789年8月26日にフランス国民議会が議決した「人と市民の権利の宣言」(フランス人権宣言)によって実現される。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ruso.htm

(*ルソーの社会契約論は、人間は互いに助け合っている社会の中に生まれ、育ち、連帯精神を身につけていく、という人間観社会観とは相容れない。市場原理優先の考え方にはなじむが、社会による生活保障という考えが出てきにくいものと言われることもある。逆に「人生の目的は、人間の幸福(felicite)です。」という彼の考えは現代経済学の批判になるという意見もある。)

●1776 アダム・スミス『諸国民の富(諸国民の富の性質および諸原因に関する一研究)』(労働が価値を産む,自愛心に基づく行動が公共の利益を増進する,「見えない手」による調和,自由放任がよい,政府の役割(社会防衛、司法、公共事業).)

 1782 ギルバート法(有能貧民の雇用斡旋や院外救済)労役場は労働能力のない貧民の収容施設に。

 1787 奴隷貿易廃止協会設立

◇1789 フランス革命,人権宣言(▼この宣言において保障されていた人権は、「市民権を持つ白人の男性」に対してのみである(Homme=「人」=「男性」、Citoyen=「男性市民」)。これは、当時の女性や奴隷、有色人種を完全な人間として見なさないという観念に基づくものである。ウキペディア「人間と市民の権利の宣言」).

 1789 ジェレミー・ベンサム(1748-1832)『道徳および立法の原理序説』功利主義。苦痛,快楽,測定可能、加算可能,効用の社会の総計で判断する(ただし、不平等でも総計が増えれば正義にかなうのかという批判がある),「最大多数の最大幸福」が道徳的であり社会改革の原理(立法者・指導者の倫理。ただし少数の弱者を無視しているという批判がある)。(王や貴族の利害ではなく、個人・人民に基礎を置いて政策判断し社会を変えるという発想といえよう)

 1793 友愛組合の奨励と救済に関する法律(通称ローズ法)(給付を老齢・疾病・病弱・寡婦・児童に限定)当時の友愛組合は短命で結成と解散を繰り返していたが有用性は認められていた.

《1793 フランス 『山岳党憲法における人および市民の権利の宣言』(実現はしなかった)第21条 公の救済は神聖な負債である。社会は不幸な市民に労働を与え、または労働する事のできない人々の生存の手段を確保することにより、これらの人々の生計を引き受けなければならない。》

●1795 スピーナムランド制度(パンの価格が上昇して農業労働者の実質賃金が下がったとき、扶養家族数に応じて不足分を給付した。農業労働者の低賃金が問題とされ内乱の危険があり,賃金補助で妥協成立.対フランス戦で穀類値上がりしたので農業資本家は負担増に耐えた。1834年まで続く。この時期に,イギリスの多くの地域で,賃金への補助金に加え,様々な児童・家族手当を導入する試みがなされた.これは低賃金労働者の収入を引き上げるためのものであった.翌年、ヤング法として全イングランドで実施。▼これは土地なし労働者を工業都市へ追いやったはずの困窮を緩和したもので、労働力を純粋な商品とすることを防ぎイギリス資本主義の足かせだったとポランニーはみる(エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』p.40)。ベーシックインカムに類似している.フィッツパトリック『自由と保障-ベーシック・インカム論争』)

●1798 マルサス『人口の原理』内容は貧困論。救貧法撤廃論。2公準(生活資材は必須、情欲は不変)2比率(食料の増加率と人口の増加率)を前提にする。食料と人口のアンバランスが生じる。それを解消する力が働く→飢餓、貧困は当然発生する、死亡率上昇、人口法則。貧困は国や制度が悪いからなのではない)。救貧法は、庶民から税を取り上げて救済するから、庶民を貧しくする。家族扶養できないのに結婚し人口を増やす(*検証されていない)ので貧困者を増やす。晩婚を推奨。(批判あり、社会全体では食料不足はない。配分方法が悪い)

 1799 団結禁止法(フランス革命の影響を恐れる)。

●1802  工場法《綿織物機械に雇われ、綿織物工場に雇われている徒弟などの健康と風儀に関する法律》。(紡績工場での児童酷使を地主・貴族が攻撃)児童の労働条件を改善(徒弟の夜間労働を12時間以内とし、1804年までには廃止。読み書き算術を教え、年1回衣服を支給。工場の換気改善。月1回教会へ出席。ほか)。監視制度と罰則規定不備により効果無し。

 1811-12 ラダイツ機械打ち壊し運動。労働組合が禁止されていても労働者の暴動などが生じた例。●次第に計画的な運動を目指すようになり、居酒屋(パブ)で話し合った。初めは共済組織を作り、病気、葬式、失業などの時に資金を出し合い助けあった。最初の労働組合は大工、建築工、紡績工の組合とか職業別の熟練工で組織した組合(クラフト ユニオン)。

▼18世紀の国の内外の混乱の中で疲れはてた貧民の多くは何とか一日を無難に過ごせばよいと言う投げ遣りな雰囲気の中にいた.私生児や棄児が増加した.1739 私設の捨て子養育院設置.1767 ハンウエイ法(救貧院児童の死亡率が高かったので,院児を強制的に農家に公費で6歳まで預ける).しかし成長した院児が北部の水力紡績工場で教区徒弟として酷使された.工場法で保護. 議会では1788年から、煙突掃除に児童の使用禁止が議論された(1875年に立法化).1756 民間の海員協会が非行少年を船員見習いに送り出す事業開始.1788博愛協会が犯罪に走る恐れのある児童を小舎制で収容する事業開始,1800年には法律によって同様施設を各地に設置.19世紀初頭に浮浪児のための貧民学校(読み書き,計算,職業指導)ひろまる.少年刑務所に代わって敷地内に仕事場,住居,印刷所,製パン工場など.1854 矯正学校法,1857 授産学校法.

 産業革命以前には慈善学校があった,1693 キリスト教知識普及協会発足.日曜学校は主に労働児童を対象,読み方を教え月謝なし,1780年にレイクスがグロスター市に設けたのが最初.1833年には155万人が利用.週日制学校は宗派によって1811年貧民教育振興国民協会,1814年には大英国及び海外学校協会が設置された.1833年に民間団体による学校設置に国庫補助公布約束.1839年枢密院教育委員会は工業地帯の住民が無政府的精神を持ち革命的暴力として結集することを恐れ世俗的教育は国家の任務とした.1870年私立学校への助成金支給,公立小学校設置.1894年精神薄弱児教育実施,1895年教育法で特殊学校設置認める(1914年以降実施).

 19世紀後半,貧しい乳幼児の死亡率が農村で40-60%、都市で70-90%と見積もられ,もらい児殺し事件が世論を喚起.1872年乳児の生命保護に関する政令出す,私生児法を修正し未婚の母の援助額を引き上げ.1889年幼児虐待防止及び幼児福祉法制定.1908年総合的な「児童法」制定し,乳児の生命保護,児童虐待防止を図る.(重田信一『社会事業史』pp.47-)

▼糸曽義夫「産業革命と自由主義」大野真弓編『イギリス史』山川出版社

p.225 産業革命時代とその余波の続いた1840年代以前のイギリス資本主義は未だ安定し確立した社会秩序となっていなかったが、その指導者達は蓄積される富と増大する生産力を自己の使命達成の証拠として見なし自信に溢れていた。低賃金、苛酷な労働強制、工場都市の不潔と疾病も富の蓄積と使命の達成のためにはいささかも意に介しなかった。自由に放任せよ。自由行動をとらしめよ。しからば生産は川の流れのように増大し国内に富をもたらすであろう。政府も労働階級もこの川の流れを阻止する勿れ、富の増大を阻む勿れ。これが資本家、企業家の信念であった。生産の無限の増大のためには資本が蓄積されねばならなかった。貯蓄と節約は最高の道徳となり、(*それに対して)労働者への賃金は消費されて結局のところ資本蓄積を阻害するものと考えられた。したがって賃金は可及的に低くしなければならないし、労働の密度を強化し、その時間を可及的に長くしなければならなかった。更に当時は多くの企業が株式の形態をとらなかった。民衆は容易に投資に応じなかった。生産が増大すればする程企業主は資金に悩んだ。企業主は自己の財産を担保にして高利の資金を調達するか、あるいは労資双方の節約と禁慾と低賃金によって資本を拡大する以外に方法は無かった。禁慾と節約が最高の道徳となり、その結果低賃金も正当なりとの道徳観が支配した。労働階級の悲惨が雇傭主によって一顧をも与えられなかったのはこのような事情の下においてであった。(*のちにアルフレッド・マーシャルが賃金引き上げが長期的には、生産性向上に寄与し利潤を増やすから企業にとって望ましいと言わなければならなかった訳がここにある)

p.228 1848年のチャーティスト運動の消滅のころから、1870年代までは、まさにイギリス資本主義の黄金時代であって、労働階級もまたその利益にうるおい、その生活水準は上り、労働不安は解消したから、労働階級自身、資本主義的秩序を容認し従来の資本主義に反抗した態度を棄てて、資本主義の中に合法的に堅固な地位を築こうとするに至った。そして従来の暴力的労働運動ないし社会革命思想が衰え、労働階級もまた自由主義の一部となった。1850年代に開始した新しい協同組合主義運動、友愛協会運動(共済組合)、新しい労働組合運動、そして穏健な議会改革運動がそれであった。

p.231 イギリスの海外投資総額は1875年12億ポンドに達し、資本の蓄積・労賃の騰貴・生活水準の上昇をもたらした。

p.234 1850年頃から1870年代初めまでのイギリスは、「ブルジョア的宇宙の造物主」であるといわれた。当時のイギリスは世界の工場であり、世界の運輸業者であり、世界の銀行であり、世界の手形交換所であった。ところがイギリス資本主義の地位も、1873年に始まるいわゆる「大不況」と共に著しく動揺した。アメリカおよびドイツの資本主義の急速な発展と共に、イギリスは世界資本主義の唯一の中心ではなくなった。


◇1813 ロバート・オーエン『社会に関する新見解』性格は社会により与えられる.(ニューラナークで紡績工場経営.10歳未満児童の学校設立.10時間労働。従業員のための集合住宅は世界遺産)

 1814 スチーブンス蒸気機関車試運転 《1814 ナポレオン退位

《1815 プロシア王国・オーストリア王国等がドイツ連邦を結成》

 1816 (貨幣法によって金を本位貨幣とし、 44年のピール条例で金をただひとつの本位貨幣と認め、貨幣単位を金の重量に結び付けた、 かつ法定平価(貨幣単位と金の重量との関係)を固定することにした。第1次大戦で停止されるまで金本位制度が維持され、 1925-31年の間だけ復活された)

●1817 デヴィッド・リカード『経済学および課税の原理』(3階級,低賃金改善は労働供給の抑制で)

 1819 木綿工場法(9歳以下児童の就労禁止、16歳以下児童の労働は12時間以内で夜業禁止。治安判事の監視を強化。国際競争力を弱めるとか貧民の子弟に余暇を与えるのは悪徳を誘うという批判あり)

 1820 マルサス『経済学原理』

 1821 ロバート・オーエン『社会制度』教育と環境が重要,人の結合と協力が必要,自由意志と自己責任の観念が協力を奪い貧困・不幸を生む.

 1824  労働者団結法(団結、組合活動を合法化.自由放任主義を求める実業家が規制を嫌ったため)

 1825 経済恐慌おこり銀行、会社多数が倒産  1829 最初の近代的全国労働組合結成される

 1832 選挙法改正(農村中産階級・都市新興市民階級に選挙権、有権者が6倍に。大都市・新興都市などの議席増やす。)産業資本家が政治上の主導権を握り、自由放任的な政策重視。



 1833 工場法。9歳未満の児童の使用禁止、9-13歳未満の児童は週48時間以内、13~18歳は10時間30分以内。9~18歳未満と婦人は夜8時30分-5時30分の間は使用禁止。工場医、工場監督官の設置。綿工業、羊毛、など繊維産業に適用。(*社会政策。労働力の循環を守る)

●1834 改正救貧法(当時,有能貧民の院外救済で救貧税負担増大し批判高まった.J.タウンゼントは個人主義的貧困罪悪感を主張(貧困は勤勉、労働の自然的動機となり、また、下賤、劣等な役目を果たす人間が居るのは自然の法則だと主張1817年(『資本論』1-7-23p.151).救貧委員会の調査報告書では救済を受ける「貧民pauper」は独立心を欠き道徳的に堕落しているが,独立労働者は低所得でも優越性を持つことを強調し,悪いのは救済制度とした)。低位性原則(劣等処遇原則)、全国的統一制度。病人、老人、障害者、児童、妊婦、孤児らも有能貧民と一緒に収容し、生活を厳しく規制した(餓死寸前の食事)ので、ワークハウスへ入ることは救済でなく懲罰になった。スピーナムランド制度廃止。(ベンサム主義者,劣等処遇避けようとして貧民が自力更生するはずと考えた,自由主義的)

 ロバート・オーエンの指導で全国合同労働組合を結成。労働組合の全国的組織化の始まり。

 1836-37 鉄道熱さかん。44-46 第2次鉄道熱 《1845 フランスで鉄道ブーム》

 1837-1901 ヴィクトリア女王
 1839社会主義者ルイ・ブランが『労働組織』の中で資本の排他的占有を「資本主義」と呼んだ。

◇1842 チャドウィック 『大英帝国における労働人口集団の衛生状態に関する報告書』疾病が多発している労働階級の住宅の一般的状態,下水施設,道路の清掃,水の供給,土地の排水の効果,家屋の換気不良・過密,疾病の費用と排水施設・清掃・給水対策の費用,住宅の改善や作業場の換気・粉塵の予防による労働者の健康に対する雇い主の影響ほか.

 1844マンチェスター近郊ロッチデールで28人の織物工たちが出資して「ロッチデール公正開拓者組合」を設立(生活協同組合のはじまり)


▼ディズレーリは1832年ころの政界進出時は「我が国の良い制度を全て残すという面においては保守派であり、悪い制度は全て改廃するという面においては急進派なのだ」といっていたがなかなか当選できずに保守党員となっていた。救貧法改正反対と10時間労働を要求するチャーティズム運動の「人民憲章」(1838年)は保守党とホイッグ党(自由主義政党)ともに拒否した。だがディズレーリはチャーティズム運動を支援した。1844年に保守党ピール内閣を批判した政治風刺小説『カニングスビー』、翌年その続編『シビル』(労働者やチャーティストの悲惨な生活を描き出し、富裕層と貧困層は階級の上下というよりも、もはや「二つの国民」に分断されている状態であると皮肉り、格差社会の弊害を説いた)を出版した。
 1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。アイルランドの食糧事情は危機的状態となったのでピール首相はただちに穀物法の穀物関税を廃し、安い小麦を国外から買い入れてパンの値段を下げようと考えた。しかし地主が多く所属する保守党内から激しい抵抗を受けた。ディズレーリは「穀物の自由貿易はイギリス農家を壊滅させる。また自由貿易にしたところで穀物の価格は下がりはしない」としてピールを批判した。結局ピールは野党ホイッグ党と急進派の支持で穀物法を廃止できた。穀物の自由化によってイギリス農業の衰退は起こらず、貿易の拡大によりイギリス農家の利益は増え、農業労働者の賃金も上がった。穀物価格の低下は国民の福祉に貢献し自由貿易は神聖化していった。
 イタリア統一戦争問題をめぐって自由主義が活気づく中、ホイッグ党の二大派閥、急進派、ピール派が合同して「自由党」が結成された。
 ディズレーリは「政治家がまず考えるべきことは国民の健康」と主張して、社会政策に力を入れた。労働者階級の貧困への同情は変わってはいなかった。1874年に工場法改正で57時間労働制を定め、また最低雇用年齢も10歳に引き上げる改革を行った。1875年は労働者住宅改善法を制定して「都市の住宅状況の公共の責任」を初めて明記し、地方自治体にスラムの撤去や都市再開発の権限を与えて、都市改造を促した。1875年、「主人及び召使法」を近代的な「使用者及び被使用者法」に改正し、雇用契約における使用者と被使用者の間の通常の債務不履行は刑事訴追の対象外とした。さらに100くらいあった既存の公衆衛生に関する地方特別法を一つにまとめた「公衆衛生法」を制定した。水道、河川の汚染、掃除、道路、新築建物、死体埋葬、市場規制などについて規定し、都市の衛生化を促進した。(「ディズレーリ」ウィキペディア)
1845 ▼19世紀半ばの英国においても、産業革命に基づく資本主義の発達の過程で、富める階級と貧しき階級の間の溝が広がり、その状況に関する流行語が生まれた。それが「二つの国民(The Two Nations)」である。「二つの国民」は英国の作家ベンジャミン・ディズレーリの小説『シビル、あるいは二つの国民』(1845)に由来する。この本の中で、彼は英国が上流階級と下流階級の「二つの国民」に分裂している現状を非難し、上流階級が率先して社会改良に乗り出さなければならないと説く。経済に対し政治介入を行い、この状況を緩和する必要性を述べたディズレーリは、当時、後に保守党と呼ばれるトーリー党の国会議員。自身の支持基盤を固めるために、労働者階級や中産階級に向けて社会改革を進め、また君主制などの伝統的体制を擁護する姿勢をとっていた。こうしたディズレーリの政治は、エドマンド・バーク以来の保守主義を修正した「温情主義(Paternalism)」であり、現在に至るまで保守主義の政治手法の原型である。ディズレーリは首相として1867年第二次選挙法改正に踏みきり、保守党の支持層を拡大した。彼は相対主義や自由主義、平等主義という民衆の価値観には反対し、宗教や古典教養、家族制度など伝統的な価値観を擁護した。けれども、支配基盤を確固たるものにするために、民衆の要求に一部温情を示した。
ディズレーリの修正点は、従来の保守主義が世襲貴族制に固執したのに対し、資本主義における階層を肯定したことである。その一方で、ディズレーリの「二つの国民」には、バーク以来の保守主義が明確に見られる。バークは、上位の階級に属する者は、革命に訴えてしまう民衆の不満を臨界に達する前に察知し、率先してよりよい社会へと改良すべきだと語っている。「二つの国民」もこうしたノーブレス・オブリージュ流の政治観を受け継いでいる。しかし社会派の文豪チャールズ・ディケンズはディズレーリの「二つの国民」論を認めなかった。ノーブレス・オブリージュ流の政治認識の前提自体をディケンズはミステリー仕立ての長編小説『荒涼館(Bleak House,)』(1852-53)において痛烈に批判した。佐藤清文「二つの国民と貧民墓地」http://eritokyo.jp/independent/sato-col0017.html 
《フランス ▼田中拓道「『連帯』の思想史のために―19世紀フランスにおける慈善・友愛・連帯、あるいは社会学の起源―」p.102 1830~40年代に「社会経済学」という思想ができる。貧困問題への対応は財の再配分や労働の供与ではなく、上層階級のパターナリズムによる貧民の「モラル化」を重視(*日本なら風儀の感化、教化か)。例えば慈善団体、相互扶助団体、パトロナージュ、家族など多様な中間集団を通じて労働者の「モラル」を向上させ、また「貧困相談員」を介して様々な方策を組織化するという統治である。社会統計の利用とともに観察が重視された。「モラル化」の手段として「労働」が重視され、そこで、労働能力ある貧民と労働能力のない貧民が区別された。国家は直接に介入する主体とはみられず、諸中間集団を結びつける機能とみられた。社会経済学は1848年2月革命で挫折した。■

 1845 フリードリッヒ・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』(貧困が健康破壊、人間性破壊につながる)

 1846 穀物法廃止(商工階級が地主階級の経済的特権を打破)、自由貿易開始。

 1848 マルクス&エンゲルス『共産党宣言』

●1848 ジョン・S・ミル『経済学原理』(救済そのものの効果,救済に依存する効果,生存権)

 1848 工場法(女子、年少労働者は10時間労働)。 1848 公衆衛生法

《米 貧民救済における地方主義.1848年連邦政府に対して,州が精神病院を建設する際に国有地を提供する法案が出され,1854年に上下両院を通過したがピアース大統領が拒否権を行使した.理由として,憲法に根拠条文がない,連邦の介入は州権の侵害,精神病者への援助が貧民一般への援助に拡大する恐れがある,連邦の介入が慈善心の源泉を枯渇させるなど.これにより連邦政府が貧民救済に関与する道が完全に閉ざされた.貧民救済を地方の責任とする植民地以来の伝統を再確認.右田ほか『社会福祉の歴史』p.103》

1850代 それまでは土地を失った農民や仕事を失った職人などが慣れない仕事や悪い労働条件や惨めな生活に不満をもって暴動や革命騒ぎを起こした。それにかわり、都市で成長し新しい教育と職業訓練を受け新しい考えを持った労働者が登場。社会の枠の中での議会主義、改良主義の基調。50年代から70年にかけて英国経済が繁栄し利潤、賃金とも向上した時期である。労働組合の新モデル運動。比較的高給の熟練工の職業別全国組織。高い入会金と組合費を徴収し、豊富な積立金で共済活動。ストライキより団体交渉や仲裁を重視。資本主義的秩序内での合法的地位めざす.友愛組合と協同組合が相互扶助組織として注目される.

《エルンスト・エンゲル『ザクセン王国における生産及び消費事情』(1857)(『ベルギー労働者家族の生活費』(1895)所収)帰納法によって発見された命題 「一つの家族が貧乏であればあるだけ、総支出のいよいよ多くの分け前が飲食物の調達のために充当されねばならない」「栄養のためにする支出の尺度がその他の点で同じ事情のもとにおいては、一般に、人口の物質的状態の誤りない尺度である。」》

 1852 スペンサー『発達の仮説』1862~96『総合哲学体系』社会進化論。(無機的物質が進化し生命となり、それが進化し精神を持つ存在=人間となり、それが結合して社会となる、未開社会は複雑な社会へ進化する。適者生存が進化の原動力だとして自由放任主義を主張した人。)  1858 サミュエル・スマイルズ “Self-Help”(中村正直訳『西国立志編』明治4年)    1859 ダーウィン『種の起源』

▼当時ロンドンに夕食供給所,スープ供給所,慰問グループ,無料宿泊所などがあったが,相互の協力には無関心.1860 困窮者救済事業団。1868 被救済貧民化および犯罪の予防事業団。1869 慈善的救済の組織化および乞食の抑制のための事業団,1870にこの事業団の略称をCharity Organization Society とする。慈善の対象を救済に値する貧民だけとし、値しない貧民(仕事嫌い、堕落者、泥酔者など)には慈善を拒否し、救貧法の低位性原則に委ねる。私的慈善と個人的援助で救貧法から救い出し、独立した市民として自立させたい。人格の優れたものが貧困者を感化する(★慈善を受ける人をさげすむ見方が広まった)。自助能力強化で貧困脱出.公費による失業者事業、学童養育などには反対。(後の1910に慈善的努力の組織化と貧民の境遇改善のための事業団、1946に Family Welfare Association 家庭福祉協会となる)。(重田 前掲書)

 1860代 ロンドンや大都市のワークハウスは障害者、老人、病人などで満員。医務官が巡回した。疾病貧民収容の養育院病院をロンドンに作る。

 1860年代末から公私関係論で、COSの平行棒理論。(救貧法による価値なき貧民の救済を主とする公的社会事業と価値ある貧民の救済の慈善組織化運動を主とする民間社会事業は、異なる範疇のケースを扱い、2本の平行な棒のように協働はしない。ベンジャミン・グレイ(1908)著作あり) 

 1867 選挙法改正(都市の労働階級は大部分が有権者に。農業労働者はまだ)

●1867~94 カール・マルクス『資本論』(必要労働時間、剰余労働時間。G-W…P…W'-G'。労働力再生産費用、不払い労働、生産手段の所有者、資本の有機的構成の高度化、相対的過剰人口、窮乏化)

《フランス1867 ▼パスツールによる1867年の発見は、伝染病の拡散が細菌を媒介して起こることを明らかにした。それは、人びとが好むと好まざるとにかかわらず、相互に依存関係にあるという事実とともに、伝染病の源泉となる貧民・下層階級に対して、集合的な監視と予防が必要であることを明らかにした。こうした考え方が社会に応用されるとき、人びとは相互に依存関係にあり、社会が不可避に抱え込む「リスク」の影響を、互いに蒙り合っている。したがって、「リスク」への集合的な保障のみならず、その原因があらかじめ管理され、予防されなければならない。田中拓道

◇1871 ジェヴォンズ『政治経済学理論』,1871(オーストリア)メンガー『国民経済学原理』,1874(仏ローザンヌ)ワルラス『純粋経済学要論』。(経済学の限界革命といわれ、従来の古典派に対して新古典派と呼ばれることになる.生産者は個人親方中心から企業組織中心へ移っていく.そこで合理的人間性に基づく分析は消費者対象に移っていった。限界効用による分析の重視。古典派は、商品生産に用いられた労働の大きさが商品の価値であるという考え(労働価値説)を基礎としたのに対して、新古典派は商品を1単位追加して消費することで追加してもたらされる心理的満足である限界効用を中心にした理論を基礎にしている。)

(▼糸曽義夫「産業革命と自由主義」大野真弓編『イギリス史』山川出版社

p.246 1832年第一次選挙法改正により新興工業都市に多数の議席が与えられた。しかし、州選挙区や地方の小都市の選挙区では、依然として地主や工場主などの名望家が議席を占めていた。名望家というのは、財産と教養をもち、それによって一定の地域社会において声望を得、この声望にもとづく権威のゆえに、その命令に対して服従を見出し得る人々―地域社会の支配階級に属する人々である。イギリスにおいては中世末以来「ジェントリ」とよばれる地主階級の人々が、地方において治安判事その他の役職を無償で引受け、地方自治の中心的存在として地主支配の体制をつくり上げて来た産業革命後、工場主などのブルジョアジーがこの名望家層の仲間入りをした。

19世紀なかばの総選挙では、半分近くの選挙区で、実際に投票が行なわれることなく、選挙区内の有力者の間の相談によって、地主などの名望家が無競争で当選していた。競争が行なわれた場合にも、1872年までは秘密無記名投票ではなかったので、農民は地主の、雇人は雇主の意向通りに投票せざるを得ない場合が多かった。買収も盛んで、脅迫や時には暴力さえ用いられた。このような名望家支配の体制が長い間続いていたのは、教育と交通とコミュニケーションの手段の発達が十分でなかったため、それぞれの地域社会が互いに孤立し、なかば独立した状態にあって、それぞれの地域における名望家の威信と勢力にぬきがたいものがあったからである。

ところが1840年代以降、全国に鉄道、新聞、教育が普及して、一般民衆の政治意識が高まると共に、名望家支配は次第に崩れて来た。イギリスの工業化はますます進展し、ますます多くの人口が工業都市に集中し、先ず大工業都市において新しい気運が現われて来た。

1867年のいわゆる第二次選挙法改正により、多数の都市労働者に選挙権が与えられると、政党は彼らの票をつかむため新有権者層の組織化に乗り出さなければならなかった。これまでのイギリスの政党はいわば「名望家のクラブ」に過ぎなかったが、選挙権の大衆化と共に「組織された大衆政党」へと発展してゆくのである。「全国自由党連盟」が結成された。これに対抗して保守党も組織づくりに努力した。

1884年のいわゆる第三次選挙法改正により、農業労働者や鉱山労働者にも選挙権が与えられ、イギリスの選挙権は次第に普通選挙権に近いものとなった。1885年の有権者数の五分の三は労働者であった。そしてこの年の議席再分配法により、一選挙区一議席の小選挙区制が原則となった。

p.248 農業不況と相まって、農村地域における地主=ジェントリの経済的社会的政治的地位は次第にくつがえされた。また株式会社制度の発達により、金利生活者はもはや土地に投資するよりも、株券や証券を買ってその配当や利息により生活するようになった。このようにして名望家支配の体制が崩れて来た。選挙はもはや単に名望家が議席を獲得するチャンスではなく、政党とその指導者が大衆組織を動員し、演説会や新聞を利用して有権者大衆に訴え、大衆を操縦して思う方向へ引きずってゆこうとする傾向が現れて来た。時代はちょうど帝国主義の時代で、指導的政治家が大衆を帝国主義の側へ動員しようとしていた。そのため積極的に社会政策を実施して、有権者大衆を政治の受益者とし、既成の政治体制内に組み入れようと努力する時代となった。)

●1873大不況。その後永続的に英国経済は不景気の底に沈む。1896年までデフレ。従来の自由放任主義に対して人々が不信感を抱くようになった。労働者の保護立法の主張現われた。労働立法を主導したのは保守党(▼社会権に関しては社会主義と保守主義の分裂は必ずしもそれほど深いものではなかった。(エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』p.50)このページの糸曽義夫「選挙法改正」参照。このサイトの佐藤清文の「温情主義」参照)。1874年工場法、76年海員法など労働者の労働時間の短縮、雇用・賃金の保障、権利の拡大に貢献した。国家が民間労資に介入した。自由党は従来の自由放任政策のままだった。この大不況の後、イギリスではニュー・リベラルによるリベラル・リフォームと、フェビアン社会主義がさかんになる。
(▼帝国主義・金融資本の時代となる。北村行伸 「今の状況は大恐慌より1873年世界不況に似ている?」http://www.ier.hit-u.ac.jp/~kitamura/PDF/A230.pdf

英国は1858年にはインドを植民地化するなど領土を広げていきました。米国は1869年には大陸横断鉄道が開通しています。 また1867年にはオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立、1870年にはフランスが第三共和制に入り、1871年にはドイツ帝国が成立。日本の明治維新も1868年でした。

1870年代というのはいわば、グローバル化が進展し、先進国が資本蓄積と対外投資を積極的に行い、科学技術の発展を背景に鉄道、電信・電話などを中心にした第2次産業革命が勃興した時期でした。国際的な金融市場の連動性もこの時期から始まっています。

1873年当時は、ベルリン、パリ、ウィーンなどでは首都建設ラッシュが起こり、住宅バブルも発生していたようです。また、それまでロシアや中央ヨーロッパの農民たちが生産し英国に輸出していた小麦や牛肉が1870年代には米国中西部やカナダ、アルゼンチンの農民からの輸出にとって代わられ、農産品価格は急落しました。この背景には、長距離輸送を可能にする技術革新があったようです。1869年には米国のニューヨーク証券取引所で、すでに金や鉄道株への投機が行われています。また米国の鉄道業自体も流入してくる資金を元に多角化経営を行い、事業を広げすぎて、多くの鉄道会社が経営不振に陥っていました。

このように金融市場も実体経済もかなり不安定な状態にあった1873年5月1日、ウィーン証券取引所で鉄道株下落に端を発したパニックが起こり、瞬く間にドイツ、ベルギー等に広がっていきました。軍需生産と鉄道・造船の分野で拡大を遂げたドイツの重工業は大打撃をうけ、1874年には銑鉄生産量が21%減少、その価格も37%減少しました。英国の輸出は1872から75年にかけて25%縮小し、鉄鋼生産の稼働率は20%程度まで落ち、鉄鋼価格も60%下落しました。

1873年9月8日には米国のウォール・ストリートにパニックが伝播し、多くの金融機関が支払い停止に陥りました。さらに9月19日のニューヨークでの鉄道株の下落が株式市場の全面的な株価暴落を引き起こし、翌日から10日間も証券取引所が閉鎖される事態に発展しました。このパニックは実体経済へも波及し、ニューヨークの失業率はじつに50%にまで達しました。

大不況下で起こったことは次のように要約できます。倒産した会社を吸収するかたちで、分散していた資本が少数の大企業に集約され、製造業中心の産業資本から金融業を軸にした金融資本に再編成されるようになった。新しい市場を開拓し、国内生産の低迷を打開する目的で先進国が植民地争奪に繰り出した。)


1874年に第二次ディズレーリ内閣が発足した。ディズレーリは「政治家がまず考えるべきことは国民の健康」と主張して、社会政策に力を入れた。労働者階級の貧困への同情は変わってはいなかった。1874年に工場法改正で57時間労働制を定め、また最低雇用年齢も10歳に引き上げる改革を行った。1875年は労働者住宅改善法を制定して「都市の住宅状況の公共の責任」を初めて明記し、地方自治体にスラムの撤去や都市再開発の権限を与えて、都市改造を促した。1875年、「主人及び召使法」を近代的な「使用者及び被使用者法」に改正し、雇用契約における使用者と被使用者の間の通常の債務不履行は刑事訴追の対象外とした。(「ディズレーリ」ウィキペディア)


●T.H.グリーンは自由党が自由放任政策を放棄するように主張(内面は自由放任でよいが、国家は人格成長の条件を整備し、妨げるものを除去する役割がある。労働時間を制限し、危害不衛生の設備を取り締まり、両親の児童に対する教育に干渉して国民普通強制教育法案を通過させ、飲酒に制限を加え酒類販売業を取り締る。これらは労働者、児童又は飲酒者の人格の成長のために、その障害を除去することを目的とする。貧困にあえぐ労働者の生活改善を、自己実現の条件の改善として提唱。(『政治義務の原理』1879年)。河合栄次郎『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』日本評論社、昭和15年、pp.714-717。T.H.グリーンは、隣人への愛が神への奉仕の道であると教えたが、これはキリスト教徒と労働者問題を結びつけた。もっとも強く影響を受けたのは、アーノルド・トインビーである。彼は労働者教育に着目し、労働者の隣保事業に先鞭をつけた。その遺業を継ぐためにトインビー・ホールが建設され、初代館長のバーネットもグリーンの感化を受けた。また、門弟のバーナード・ボサンケはフェビアン協会と連絡を取って講演をしたりした。(pp.728-729)

 1870- 医療救済には救援抑制原理が消滅。養育院病院を市民にも開放。19世紀末になると次第に救貧法の救済は労働者から敬遠されるようになる.劣等処遇で救済水準も低く救済に値しなくなる.

 1875  公衆衛生法。それまでの関連法を統合。マルクス『ゴータ綱領批判』「各人はその能力に応じて,各人にはその必要に応じて」    1877 ヴィクトリア女王がインド皇帝を称する. 

 1880  雇主責任法(業務災害は雇主の責任)

●《ドイツ (先進国の租税利益説を否定する財政論.国家あっての国民だから国家目的に従うべきという有機体的国家観に対応する租税義務説).1837年 F.リスト『政治経済学の国民的体系』で財政経費の生産性を主張(「諸々の法律や公の制度が直接的価値を生産しないとはいえ、しかもそれらは生産力を生産する…」p.177).1855ディーツェル『公債論』で社会資本,防衛,治安維持,労働者保護のための政府経費は「生産的」と主張.シェフレは、財政は経済的能力に応じた課税によって、私的需要を充足する手段の均衡ある分配を実現すべきという社会的原則を提唱.1883ワグナー『財政学』.▼ドイツ正統派財政学は財政経費の生産性を認め、古典派経済学の財政の3ドグマ(政府は必要悪,課税前の市場による所得分配を課税後も保証する中立性、公債排撃の均衡財政)を否定.租税政策に所得分配の不平等の是正の役割を認める.(神野『財政学』pp.42-).1871 プロシア王国中心にドイツ帝国成立》

●《ドイツ新歴史学派 http://yanagi.web.infoseek.co.jp/het03/schmoller.htm(2010.5.28掲載中)

 19世紀半ばのドイツ・マンチェスター学派はスミスやリカードウ以上に経済への国家干渉を嫌っており、国家の役割は国防と治安に限定すべきであると考えていた。そのために、彼らの国家観は「夜警国家」と呼ばれる。リストによって生み出されたドイツ歴史学派は、学問の方法の相違を強調することで、ドイツ・マンチェスター派に対抗した。ロッシャーは、個人を超える有機的な社会を対象とする「経済学」を構築しようとした。

 1873年に結成された社会政策学会に結集した歴史学派を、それ以前のロッシャーたちと区別するために、「新歴史学派」と呼ぶ。その代表がグスタフ・シュモラーである。階級闘争による社会変革という主張には賛成せず、国家による社会政策をもって社会の調和を生み出すべきだと考えた。主著『一般国民経済学綱要』(1900-04)。『国民経済、国民経済学および方法』(1893)
 1871年にドイツ帝国として統一され、ドイツは産業革命がほぼ終了し、プロイセンの経済的基盤は、重工業資本家層とエルベ東部のユンカーたちとの妥協であった(鉄と小麦の同盟)。リストが予想したように、工業化の進展は労働運動を激化させてゆく。シュモラーは国家という全体に規制された個人(=国民)という前提から出発する。国民とは、言語と血統、慣習と道徳によって統合され、多くの場合はさらに法と教会、歴史と国家制度によって統合された多数の人間集団であって、彼らは、他の諸国民とよりもはるかに緊密な紐帯によって結び付けられている。シュモラーは現実の人間が国民という複雑な社会関係に規制されている個人であるがゆえに、そこから経済社会を演繹できないと批判する。シュモラーが重視した経済学の方法は、帰納法である。具体的には、歴史と統計を重視した。歴史の中で個人のエトス(倫理的生活秩序)を形成してきた。単純な損得勘定だけで実際の経済活動が行われているのではないとする。シュモラーは「分配的正義」を復権させる。国家こそが「分配的正義」を実行する代表者であり、社会政策の価値判断を下しうる唯一の主体である。ここには政策指向の強い新歴史学派の性格が良く現れている。一般的には、当為sollenと存在seinとの区別が主張されるが、シュモラーはその区別を意識的にその境目を排除しようとしたのである。1874年に、階級間によこたわっている分配の不平等を批判している。階級の形成について、財産の不平等が教養の不平等を生み出し、それが後の世代にまで引き継がれる「原罪」と見なした。この不正義を是正するために主張されたのが、不労所得の排除と所得の再配分である。シュモラーの方法は後に、科学への倫理的判断の混入としてウェーバーによって非難されることになる。
 1873年に社会改良を指向する学者によって「社会政策学会」が設立される。その中心は、シュモラー(1844-1931)であった。新歴史学派は、社会政策学会に象徴されるように、非常に明瞭な社会改良という目的を持っていた。彼らももともとはイギリス的な自由主義経済学(ドイツ・マンチェスター学派)の支持者であったが、次第に社会問題の存在に目覚め、国家的な干渉を支持していくようになる。社会政策学会には、大学教授、開明的な官僚・企業家、労使協調路線をとる労組指導者たちも参加していた。ビスマルクは社会政策学会を支援し、逆に社会政策学会はプロイセンの立憲君主的官僚主義を支えていく。社会政策学会の社会政策的な指向はドイツ・マンチェスター学派から「講壇社会主義」と揶揄されるが、社会主義革命を防止するという目的を持っていた。社会政策とは、官僚主導の上からの改良により階級間の利害関係に国家的な干渉を加えて(例えば、失業保険)、社会を安定させる政策である。労働者を主体とした下からの社会主義運動に対しては弾圧を加え、他方では、政府による上からの社会政策によって労働者と資本家との対立を緩和する。これが社会政策学会を基盤にしていた新歴史学派の試みであった。新歴史学派は、19世紀末には工業関税論や農業保護関税を支持するようになりその役割をほぼ終えた。■》

●《ドイツ帝国 新生ドイツ帝国はフランスから得た賠償金によってグリュンダーツァイトと呼ばれるバブル景気に沸き、新会社設立が相次いで別名「泡沫会社乱立時代」とも呼ばれた。同時に所得の不均衡も進んで社会不安の原因となり、1878年5月に皇帝暗殺未遂事件が起きている。

1878 社会主義者鎮圧法制定 1883 疾病保険法(84実施)、84 労働者災害保険法(85実施)、89 老齢廃疾保険法(年金に相当 91実施) ビスマルクの意図は領邦国家の「家父長的」権威的福祉政策に近かったが、次第に「権利」になった。▼1883年健康保険法公布。(ドイツでもはやくから相互扶助をおこなう共済組合があって、1854年には鉱山で強制加入させた。健康保険法はこれを一般の労働者に強制適用し、雇い主にも保険料を負担させた。ビスマルク型ともいう)。保険者は疾病金庫で財源は労使の拠出のみ.労働者の病気や怪我にたいして13週間にかぎり治療費を支給し、賃金をもらえない間は傷病手当金を支給。▼1885年工場労働者災害保険法施行(保険者は同業事業主組合,財源は事業主拠出のみ.13週間たっても傷病がなおらないとき、業務上の災害に限って、費用の全額を雇い主が負担して医療費や年金を支給する。このころには無過失賠償責任の原則が認められ、雇い主側で、その災害が労働者の故意または重大な過失にもとづくものであることを立証できないときは、賠償の責任はすべて雇い主にあることが法律に決められていた。ビスマルクは、業種別に雇い主の団体を作らせ、保険の形式で賠償する方式をとった)。▼1889年には強制養老および障害保険法制定。保険者は各州の保険庁で国庫負担は補足的な定額制.70歳以上高齢者や障害者に対する年金支給。(▼ビスマルクが年金給付に対して国家からの直接の補填をおこなった。エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』p.26)ビスマルクは、最初の社会保険計画を導入しようとした時、二正面からの戦いを強いられた。一つは市場での解決を優先する自由主義者との戦いであり、いま一つはギルド・モデルないし家族主義を主唱する保守主義者との戦いであった。ビスマルクは国家主義の優位を望んだ。ビスマルクは、国家が社会給付に関する財政運営と分配に直接当たるべきであると主張したが、その時ビスマルクが狙っていたことは、労働者を職域ごとの基金や貨幣関係のいずれにでもなく、君主の家父長的権威に直接むすびつけることであった。現実には、彼の企ては妥協を余儀なくされた。1891年年金法では、ビスマルクが意図した国家恩賜金はほんの部分的に盛り込まれたにすぎなかった。実際、後に創設された年金システムは、ヴィルヘルム1世期に導入された大半の社会プログラムと同様、自由主義(保険数理主義)と保守主義的コーポラティズム(強制的職域制)に部分的に譲歩した国家主義として解釈できよう。(同書pp.66-67)ビスマルクは30歳前後には保守的政治家だった。50歳前にプロイセン首相になると、経済政策では自由主義を貫き、営業の自由や保護関税の廃止を進め、また鉄道、銀行、郵便など国民経済の発展に必要な制度を整備した。ドイツの資本主義はこれにより飛躍的な成長を遂げ、封建社会から市民社会への移行を促進した。ビスマルクの社会政策は保守主義者にも受容された。自らの考えを国家社会主義と称した。》

●1880代 労働組合の新組合主義運動。不況と共に社会主義団体が生まれ、未熟練労働者を産業別に組織した。入会金や組合費は安くし、共済活動よりも社会保障的な制度充実を要求。賃金闘争を重視しストライキを避けない。

 1884 フェビアン協会設立(名称は,ポエニ戦争のとき決戦を避けて漸進戦法でハンニバルを破った,古代ローマの将軍ファビウスの名に由来する。議会主義的社会主義.大陸では革命主義のマルクス主義が盛んだった)。★選挙法改正(農業労働者・鉱山労働者,男子に普通選挙権.民衆は労働条件の改善や都市の生活環境の整備を求めるようになり「高価な政府」の始まりとなる).★ロンドンでバーネット夫妻を中心としたトインビー・ホールが最初のセツルメントとなる(セツルメント運動の中で28歳で死んだトインビーをしのぶ)。児童,労働者の教育,公衆衛生,救済等の活動を実施.(重田)

 1884 アフリカ分割に関するベルリン列国会議

 1885 A・マーシャル「cool head but warm heartを持ち,周囲の社会的苦難と格闘するためにすすんで持てる最良の力を傾けようとする…そのような人材の数が増えるよう」最善を尽くすと講演。(弟子のうち「古典派」を継いだのがピグーで、反発したのがケインズだった)。

 1885 医療救済による資格喪失を回復する法律。投票権の回復。1890代- それまでは老齢貧民にも有能貧民同様にワークハウス テストをしたが、90年代から他の貧民と区別し寛大に院外救済し低位性原則を適用しなくなった。院内救済されている児童、老人に新聞、書物、おもちゃなどを許す。


▼ 1886年に自由党の新急進派チェンバレンとホイッグ派が合同して「自由統一党」ができた。1886年総選挙で保守党が過半数をとれず「自由統一党」がキャスティング・ボートを握った。1886年~92年の保守党第二次ソールズベリー内閣の政策の多くはチェンバレンとの影響を受けた。1887年に「配分地法」が制定され、小作農に土地を配分し自作農を増やすことが目指された。1888年には「地方自治法」が制定されて行政州ごとに代議制の州議会が設置され、イギリス地方自治制度の基礎が築かれた。
 1891年から1892年にかけて「自由統一党」は「労働綱領」を掲げた。その内容は鉱山や危険労働を行う労働者の労働時間の制限、労働争議を仲裁する裁判所の設置、ドイツのビスマルクの社会政策をモデルとした労災保険や年金保険制度の創設、地方自治推進、外国移民の制限などを柱とする。ただこの綱領は財源の裏付けがない点に批判があった。保守党やホイッグ派に近い存在になっていたチェンバレンとしては地主貴族や有産者層の負担ではなく、社会政策の財源として植民地獲得に目を付ける。チェンバレンはこの頃、帝国がなければ労働者の賃金もありえない、と語っている。
 1895年、保守党と自由統一党が合同して「保守統一党」政権が発足した。

 1895年の日清戦争で「清」は巨額の対日賠償金を負い、ロシア帝国とフランスから借款を余儀なくされた。両国はその見返りとしてロシア資本の満洲・北中国進出、フランス資本の南中国進出を強要した。阿片戦争以来の「清」のイギリス一国による半植民地状態が崩壊し、列強諸国による中国分割が開始された。ロシアは1898年に遼東半島の旅順と大連を租借地として強奪し、北中国における軍事的優位を確立した。英国のチェンバレンは中国分割において利害関係が最も近い列強国と同盟を結ぶことを示唆した。1900年の義和団の乱でロシアが満洲を軍事占領した。その後、イギリスはロシアの満洲・朝鮮半島への野心を恐れていた日本との同盟に向かうことになる。
 思想的にはチェンバレンの社会主義はフェビアン社会主義への過渡期的政治家とみられる。フェビアン社会主義者のように中央集権・官僚主義体制ではなく、地方自治を強化して地方自治体による社会政策を推し進めた点で「自治集産主義者」に分類する評価もある(「チェンバレン」ウィキペディア)
○1886-92保守党内閣

◇1889-1903 ブース『ロンドンの庶民の生活と労働』(市民の30%が貧困階層.貧困階層の70%は低賃金・不規則就労,10%は飲酒・浪費・怠惰など,20%は病気や大家族が貧困原因)

 1890 恐慌.アルフレッド・マーシャル『経済学原理』短期と長期

《ドイツ帝国 社会党鎮圧法廃止.1891 デンマーク 無拠出年金制度制定(受給しても選挙権喪失しなかった)

 1891 初等教育法(授業料廃止)

○1892-95自由党内閣  1894 8時間労働法声明

○1895-1905統一党内閣

1896 ホブソン『失業者問題』の中ではじめて「失業unemployment」が使われたらしい。ドスタレールp.402。

《1896 ▼フランス レオン・ブルジョワ『連帯』 
広田明http://wwwsoc.nii.ac.jp/seikeisi/sm08_hrota.pdf20080628 2009.6.6 普通選挙制度により、政治的には主権者だが、市民の大半が経済的には準従属状態を余儀なくされ、貧困問題pauperismeに脅かされていた。「労働権」を巡り自由主義者と社会主義者が真っ向から対立していた。自然的連帯に代わる社会的連帯は、自由主義と社会主義をより高い見地から「総合synthese」することによって、国家介入を容認しながら同時に個人の自由をも否定しない《社会進歩》の道を明示し、それを法律的に保障するとされた。社会の共通ファンドをすべての構成員の間に公平に分配する補償的正義を通じてフランス大革命の理想を実現するために、レオン・ブルジョワは《準社会契約》の概念に訴えた。社会的連帯すなわち義務としての連帯によって正義(社会権droitsocial における価値の平等)を実現すべきであり、その結果として最後に自由が保障される。このような形で社会主義の要請(正義の実現)と自由主義の要請(自由の保全)を「総合」した連帯主義は、第三の道を提示した。国家は、社会の保全(軍事・司法・警察)という固有の機能を果たす以外に、社会立法の制定を通じて、まず各人の適性に応じた《すべての等級での無償の教育》を保障し、さらに「精神の育成と陶冶の必要性」の観点から労働時間を制限することによって各人の完成に欠かすことのできない余暇を保障し、最後に社会的リスク(労働災害、老齢、疾病、障害、失業など)などに対する保険者となるのである。国家が国民の生活保障に関して果たすべき役割はここまでである(国家介入の限界の明確化)。国家がこのような社会連帯の諸制度を発動させるなら、あとはアソシアシオンの社会的義務が、各人をして、私的イニシアチブから生まれた連帯の諸制度(共済組合、協同組合、労働組合、社会教育の諸制度)に参加するように促すであろう。

レオン・ブルジョワが1893 年にその初代委員長に就任したところの下院社会保険・社会的生活保障委員会は、1902 年に《社会的連帯の原理》をこう決議した。「社会的連帯は、法律で定められた当事者に対して権利を承認し、権利を主張する手段を与えるという点で慈善と根本的に異なっている。社会的連帯の原理は、保険assurannce と扶助assistance の二つの形態によって実現される。保険について。その目的は、すべての国民に対して、自己の個人的収入による老齢、障害年金を獲得する手段を設定することである。扶助について。老人または障害者がなんらかの理由によって収入を奪われた場合に、かれらを扶助するために介入することは国民の厳格な義務である。社会的連帯の負担に対してすべての国民が拠出する義務は、これらの諸前提の必然的な帰結である。」(田端博邦訳)。このように、フランスではレオン・ブルジョワの連帯主義の主導下で社会的連帯を基本原理とし社会保険と社会扶助をその制度的実現とする福祉国家構想が誕生したのである。
福祉国家原理が成立するためには、ルソー『社会契約論』の《ひとは生まれながらに自由である》という人間観ではなく、《ひとは生まれながらに社会の債務者である》との人間観から出発して社会問題を解こうとした連帯主義が必要だった。》

●1897  ウェッブ夫妻『産業民主制論』ナショナル・ミニマムと国民的効率の向上。cf 1908,1920年

 1897 労働者保護法.労働者賠償法(雇主の無過失責任)。1901 タフ・ベール判決(タフ・ベール鉄道会社のストで組合の損害賠償責任を認める.労働者の危機感高まる)

《1898フランス 労働災害補償立法(工場主が無過失でも労働者を救済。工場主はそのために保険を作る。1905年には、被害労働者が直接、保険機構に保障を請求できる。災害補償の集団化)▼田中拓道「フランス福祉国家論の思想的考察」エヴァルドによれば、1880年の労働災害補償法案で提起され、1898年に法制化された「職業的リスク」の概念は、それまでの個人責任原理、あるいは近代自由主義原理の転換の嚆矢となった。この概念は、責任の根拠として、個人的「過失」ではなく、集合的「リスク」を措定しようとするものである。それはおよそ以下の論理から成る。第一に、工場での事故は、個人の行動にかかわらず規則的に起こる集合的現象で、産業に「内在するリスク」である。第二に、事故の原因は、しばしば複雑すぎるため特定できない。重要なことは、事故が統計的に見て正常な範囲内で起こったのか、異常な範囲で起こったのか、ということである。第三に、職業的「リスク」はあらかじめ「進歩」と不可分なものとして予測され、産業の「進歩」によって補償されうるものである。こうした「リスク」概念は、1905年から10年において、老人、退職者などへと拡張されていった。すなわち「リスク」は、工場労働者のみならず、人間の生のあらゆる側面を覆う概念となり、個人の生は、集合的秩序の維持・発展という観点から把握されるようになる。こうした見方に従えば、退職者や高齢者とは、社会が一定の確率で抱える「リスク」である。自由主義原理を転換させた社会保険の論理は、「リスク」とともに、「連帯」という概念によって基礎づけられている。パスツールによる1867年の発見は、伝染病の拡散が細菌を媒介して起こることを明らかにした。それは、相互に依存関係にあるという事実とともに、伝染病の源泉となる貧民・下層階級に対して、集合的な監視と予防が必要であることを明らかにした。こうした考え方が社会に応用されるとき、人びとは相互に依存関係にあり、社会が不可避に抱え込む「リスク」の影響を、互いに蒙り合っている。十九世紀末に「連帯」を新たな規範として唱えた論者は、個人的「権利」よりも、社会的「義務」を強調した。例えば、デュルケームやブルジョワによれば、個人は社会の産物であり、各人は社会化の義務を負っている。自由とは、社会化を通じて、各人が自己の能力を最大限に発達させることとして理解される。

《1898 ニュージーランド扶助式老齢年金導入,65歳以上、資産調査あり、25年以上居住者、定額年金)

 1899-1902 ボーア戦争  1900 TUC(英国労働組合会議)と社会主義団体(独立労働委員会,社会民主連盟,フェビアン協会)が同盟し労働代表委員会を結成

《1900 メンデル法則の再発見  ウィーン大学で実験物理学を学んだメンデルはエンドウ豆の交配実験を行い1865年に遺伝法則の論文を発表。当初は無視され1900年に評価された。あいまいだった「遺伝」を科学的知識にした。》

◇1901 ロウントリー『貧乏研究』ヨーク市調査(貧困線,貧困原因(低賃金52%、多子22%、主たる稼ぎ手の死亡16%),ライフサイクル、最低生活費ロウントリー方式).オーストラリア連邦成立

 1902 教育法(地方税でグラマースクール,技術学校,高等小学校を設立し中等教育の機会を奨励)

 1903 体位低下に関する部局間委員会(報告書は貧困,栄養不足,不健康状態について見解)

 1905 失業労働者法(1904年に保守党内閣が提案、1905年に自由党内閣で成立したもの。失業者は救貧法の外で職業紹介など。貧民ではなく労働者を対象にして、その失業に対して国家が責任を負うことを認めた、という評価もあった。COSは地方税でまかなうと社会主義化するといって反対し、慈善の資金を使うことになった)。失業者は怠け者や貧民ではないから救貧法の外の救済が求められる。当時の社会保険支持論(労働者は無料の福祉的サービスは貧民のための救貧法のようだからと言って、わざわざ有料にしてもらっていたという。また友愛組合の伝統もあり、拠出に抵抗はなかったようである)。

 1905年までに連合王国には300以上の給食慈善組織があり無料の食事提供.(労働者は救貧法を嫌い、無料の給食は救貧法のようだと言ってこれを嫌うものが多かったと言われる)

 《日本は、日清戦争明治27年に勝って清国から賠償金を受取り、これを基金にして、 1897(明治30)年から金本位制度を確立。1917(大正6)年まで20年間続いた。純金750ミリグラムを1円というのが法定平価、 1ドルは2.006円であり、 これが金平価。》

○1905.12-08自由党政権,(リベラル・リフォーム始まる.国家の役割の変更)

《1904-5 M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』》

 1906  労働代表委員会から29名の議員が当選。英国労働党に改称。労働争議法(ストライキの合法性、損害賠償の免責。タフ・ベール判決覆る)。 1906  教育法(学童給食)。 07 同(学童保健)

 《1906 ハーヴェスター基準(Harvester Standard)1906年にオーストラリア連邦裁判所が最低賃金決定のための最低生活費の基準として宣言した。文化社会に生活する人間として考えられる平均労働者の通常の必要を考慮して、合理的な楽しみが可能となるような、5人家族の不熟練労働者の最低クラスの生活費を計算したもの。》 1906 イタリア パレート最適『政治経済学提要』   1907 ニュージーランド連邦成立 

○1908-1916 自由党内閣(アスキス首相,蔵相ロイドジョージ)

 1908 無拠出老齢年金法成立(救貧法とはちがい、権利として支給した。無拠出、資力調査で所得制限あり、年収に応じて年金額が異なり均一給付ではない。20年以上イギリス国民であった70歳以上のもの。受給資格喪失規定(道徳性の要求が含まれている;医療救済以外の救済を受けているもの、有罪判決を受けたもの、罰金以外で入獄したもの、貧民または犯罪的精神異常者、以前から習慣的に働き得ず自己およびその扶養者を養い得ないもの、入獄経験者は出所後10年してから)。1909.1実施)。炭鉱規制法(8時間労働)。

●1908シドニー・ウェッブは、①最低賃金を含む雇用条件②余暇とレクリエーション③健康・衛生的環境と医療サービス④教育の4つの分野で政府と自治体がナショナル・ミニマムを維持することが近代社会に必要な社会的基礎であると演説。(*水準の最低限というミニマムではなく、ニューリベラルの政府の出現のもとで、国家が国民生活に関与する最低限の範囲としてのミニマムだと思う。)

 1909 職業紹介法。賃金委員会(Trade Board)法(最低賃金)。労働交換所法(斡旋所)

◆1905 救貧法及び失業者に関する王立委員会.(当時の救貧局長は劣等処遇原則復活と救貧法以外のサービスを救貧法に吸収することを希望).●1909  救貧法委員会報告 (救貧法の低位性原則は貧民の状態は最低の独立労働者の生活よりもless eligibleでなければならない、というものであったが同時に適切な救済としては、少なくとも肉体的健康を維持できるものが要求された。しかし1890年代以後、 社会調査は、最低の独立労働者の生活は肉体的健康にさえ有害であることを示したから、 低位の給付による求援抑制という伝統的方針に疑問が出された時期であった。同時に、失業者の増大は有能貧民を増加させた。政府は苦しみながら現状維持を続けていた。)

 多数派も少数派も救貧法制度を改革し、救貧委員会、教区連合、一般混合労役場などの廃止と有能貧民ではない貧民の大部分には、低位性原則が不適切である、という点で、また1834年法の被救済貧民pauperという範疇が非現実的であるという点では一致。多数派は、抑制の要素を減らしケースに応じた処遇の多様化などの改良と、私的慈善(Voluntary Aid Committeeによる予防的治療的扶助)と公的扶助(Public Aid Committee)の統合を主張した。●少数派は、救貧法の外の「予防の枠組み」(例えば公的病院・失業労働者法(職業紹介・職業訓練)・精神病や精神薄弱のための施設・無拠出老齢年金など)が貧困の予防のための制度として有効であるのでこれらをさらに充実させ、その上で救貧法を解体することを主張した。多数派のVACとPACの統合案は、対象者の被救済権を社会的に確認するというものではなかった。B.ウェッブら少数派は、最低生活の維持は国民の社会的権利である(*「救済を受ける権利Right to Reliefが十分確保される限り、適切な救済を承認する義務が問われる」p.569)と主張し、これが後まで強い影響を持った。報告書はロイド・ジョージのリベラル・リフォームにはほとんど影響を与えなかった。(小山路男『西洋社会事業史論』pp.212-)

 1909  住宅および都市計画法(提案理由 この法案の目的は、人々に対して、その保健・道徳・性格および全体的な社会環境が改善されるような生活条件を提供すること。要約すれば、人々が健康な家庭、美しい住宅、快適な町、堂々たる都市、爽快な近郊地帯を獲得することを目的)

 1910 蔵相ロイド・ジョージにより累進的で現代的な「超過所得税」が導入された。(ドイツとの軍拡競争が主な理由)(そうでない所得税は1799年からあった) 南アフリカ連邦成立

▼http://www.csalinc.com/archives/11ほか 所得税は1799年にイギリスでナポレオン戦争の戦費調達のため公債の利子所得に対し10%の比例税率を課したのが始まりといわれる。以後廃止導入を繰り返し1842年に定着。1840年にはスイスが導入 。1851年ドイツが導入。1861年アメリカの導入。ところが南北戦争の戦費調達が憲法違反とされ翌年に廃止されその後第一次世界大戦時に本格導入しました。1864年イタリア導入。日本では1887年(明治20年)から「所得に関する税金」が導入された。当初は所得税という名称は用いられず「富裕税」と呼ばれた。このときは年間300円以上所得のある個人かつ家制度において家長とされた戸主のみといったごく限られた人だけを課税の対象とた。1940年(昭和15年)の改正で本格的に所得税は定着した。

●1911 国民保険法(A.医療保険;16-69歳の全労働者本人、低所得ホワイトカラー本人が加入、保険医へは登録人頭割方式で報酬を支払う。医療保険は療養給付と傷病給付(病気で働けず賃金が得られないときに現金を給付する) B.失業保険;機械、製鉄、建築、土木、造船、車両製造、製材の7産業、 C.加入者と雇主と国庫の3者拠出。男女別の均一拠出。1913から給付。)。貧困に対して救貧から防貧へ。  縮小された救貧法+無拠出老齢年金法+国民保険法の三層構造そして医療、住宅、教育。

 1911 ウェッブ『貧困の予防』国民保険法の「強制的健康保険」の試みを批判。強制保険は,保険加入者の側でのコスト感覚の欠如を生みだし,財政負担の増大・非効率性を生み出すから。(ウェッブの社会改革構想は,労働組合,消費者組合,友愛組合などの自発的な「自助団体」による「団体的自助」を基本とし,国家の役割を「団体的自助」の推進のための条件整備に限定していた.(江里口 拓))

 1912 学校医療に国庫補助。14 学校給食(低所得者のみ)に国庫補助 18 国民代表法(男子普通選挙権、30歳以上女子に選挙権) タイタニック号沈没

1912 ヨゼフ・シュンペーター『経済発展の理論 : 企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究』5つの「イノベーション」(新しい財貨の生産、生産方法の導入、販売先の開拓、仕入れ先の獲得、組織の実現(独占の形成や打破))を新結合と言っていた。「イノベーション」の実行者をアントレプレナー(企業者)といった。1942年に「創造的破壊」。

 1914 公私関係論で、S.ウェッブの繰り出し梯子理論(平行棒理論の批判。行政による最低生活基準の確立の上に民間活動が梯子を繰り出すように、行政が出来ない独創的工夫や宗教的道徳的感化を行う。それが行政の仕事をいっそう充実させる。)

《1914 第1次大戦始まる.対独宣戦.《1918(大正7)ドイツ敗戦。 1921年に物価は戦前1913年の35倍。 1922年に1457倍。 1923年に1兆4229億倍。その年末にレンテンマルクという紙幣を発行し、 1レンテンマルクを旧紙幣の1兆マルクと交換した。インフレがおさまった。 ●1919 ワイマール憲法 第151条 経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。》

○1916-22 ロイド・ジョージ戦時内閣.

 戦時中,私生児の増加とその死亡率上昇,虚弱で親に遺棄され,非行に走るもの多い.1918年未婚母子のための全国協議会設置.養子縁組を奨励,1926年養子法.民間では児童の個人的事情をふまえ施設から家庭へ戻す援助が始まる.非行防止には福祉行政,教育,健康診断,治療,給食などの充実が効果的.1933年青少年法(非行青少年の社会復帰のために教育部門での訓練が重要という原理).

1916 失業保険法(国民保険の失業保険の適用拡大)

●1919年障害旧軍人を雇用した雇用主に公共事業の下請けを優先的に与えるという奨励策始まる.1920年盲人法制定(救貧法対象の盲人を貧者と区別し専門的な更生援護を受けさす).リハビリ,社会復帰は国家責任という考えが普及.(重田信一『社会事業史』)

 1920 ピグー『厚生経済学』国民所得の増加,安定,平等は経済的厚生を高める。(効用の個人間比較可能性を前提にして平等が社会の厚生を高めると考えた。旧厚生経済学と呼ばれる)。(ピグーの社会主義への態度は漸進的だったが、平等分配、主要産業の国有化でマーシャルよりも積極的だった。前者については、資本蓄積は富者に依存しているので平等化すると成長鈍化するという批判があったが、厚い内部留保や公共事業の拡大があるので大丈夫と考えた。後者については、意欲が消失するという批判があったが労働のインセンティブは高くなると考えた。本郷亮『ピグーの思想と経済学』p.145)

 1920 ウェッブ夫妻『大英社会主義社会の構成』ナショナル・ミニマム(生存と余暇・住宅及び公衆衛生・教育・環境 p.337)

 1920 戦後恐慌。失業率は10-20%.失業保険は農業労働者・家事使用人を除く全労働者に適用。

 1921.3  無契約給付(保険料納付期間を終わらずとも12週間失業保険金を給付)。    

▼1920年代のイギリスは、第一次大戦による経済的打撃と植民地の解体・造反によって、大きな経済的苦境に陥っていた。植民地の解体の中で自由貿易の原則はもはやイギリスに十分な利益をもたらさなくなっていた。その中で、イギリスは旧来の平価のもとで金本位制に復帰し、グローバル経済への参入を決定する。しかし、このことはすでにデフレ傾向にあったイギリス経済を直撃し、一層の混乱と失業をもたらすこととなる。従来、自由放任主義の擁護者であったケインズが、その立場をドラスティックに変えるのが、まさにこうしたイギリス経済の混乱の時期であった。ケインズにとってはデフレこそが資本主義経済の最大の危機であった。金融グローバリズムはイギリス経済をますますデフレ化する危険極まりないものであった。なぜなら、国内に十分な需要が見込まれない状態では、資本は、国内では投資されずに海外へ逃避する以外にない。これはかつての海外投資とは全く異なっている。資本逃避は、ますますイギリス経済をデフレ化し、長期停滞を深刻化するであろう。それならばどうするか。「ここで私は国家を持ち出す。私は自由放任を捨てる」とケインズは書く。ここでは「私益」は「公益」とはならない。ケインズは、民間部門に代わって政府が資本を管理し公共投資を行うべきだという。30年代のケインズ主義の財政・金融政策はこの延長上に出てくる。(佐伯啓思「新たなケインズ主義へ向かえ」中央公論、2002.4)

1920 シドニー・ウェッブはケインズにケンブリッジ大学の労働党候補になってほしいと手紙を書いた。G.ドスタレール『ケインズの闘い』p.258 

1921 自由党の夏期学校にケインズ、ベヴァリッジが参加した。従来から、労働党と自由党は支持者を取り合っていたが自由党の一部のニュー・リベラル派は労働党に合流した。

1928 自由党の委員会報告書でケインズは、公共投資の管理、民間投資家の支援に大きな権限を持つ国家投資委員会の設立、電気・鉄道・公共交通を管理する公企業の設立を提案をした。ケインズはロイド・ジョージに完全雇用を目ざし取り組むように説得した。 

 1925  拠出制寡婦・孤児・老齢年金法(老人は65-69歳まで。70歳-は無拠出年金から資産調査なしで給付)。37に中産階級の任意加入認める。

▼一般的に言って、第二次世界大戦以前の政府による年金立法は、市場を阻害したり労働供給を妨げたりしないように、保険数理主義と最小限の保護精神に依拠していた。年金だけでは足りない必要分は民間市場で調達すべきであると考えられていた。エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』p.103

 1926 ゼネスト(組合が負け使用者も痛手。労使に協調機運が出る)

 1926 国民健康保険に関する王立委員会の多数派報告書(国民の要求に応えようとするならば、保険原理では供給に限界があり、保険方式からサービス方式への転換が必要)。

 1928  男女平等選挙権法成立

《1928 スウェーデンの社会大臣メッテルが「国家は単に夜警国家であるだけでなく、福祉国家でなければならない」と選挙パンフレットで述べた。》

 ●1929 世界大恐慌始まる▼(1929年の世界大恐慌で西欧資本主義国は二つの方向へ進んだ。一つはケインズ主義的な経済への介入、もう一つはドイツ、イタリアの全体主義への道であった。ヒトラーの初期の不況対策はケインズ主義者から賞賛されたと言われる。彼が経済再建の柱としたのが、社会保障と福祉を中心にした、生産力の拡大と完全雇用をめざした失業抑制政策だった。彼による失業対策は、ユダヤ人弾圧による資産調達、徴兵制復活による労働人口の吸収、大規模なアウトバーン(高速道路)の建設、国民車(後のフォルクス・ワーゲン)製作による自動車両生産力の向上、軍需生産の復活など軍国主義的、独裁国家的な政策が中心だった。http://www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/frs_plus/bd_Case%2005-02.html )

 ●1929 教区連合と貧民保護委員会は廃止,救貧法の実施主体は郡市の公的扶助委員会に移った(自治体の仕事になる。行政が最低保障をするという形).

 1930 救済規制命令(有能貧民のワークハウス処遇と劣等処遇原則を廃止.救貧法体制の終わり)

《フランス 社会保険法(一定以上賃金労働者は除外。農業、公務員、鉱夫、鉄道従業員等は除外。疾病、出産、廃疾、老齢、死亡の給付。賃金の8%(これを労使折半)の保険料。保険者は県金庫(従来の任意的共済は反対していたが保険者に再編。》

 1931.8  無契約給付を過渡的支払と呼びその支給に資産調査を実施,貯蓄・年金その他の所得・息子や娘の収入があれば手当を貰えなくなり,家族関係が破壊され,近隣の密告も増えたという。過渡的支払は失業扶助的になる(公的扶助とは違う。国庫が全額負担、資格制限なし)。

 1932 ロビンズ『経済学の本質と意義』(高所得者の所得の限界効用は低所得者のそれよりも小さい、前者から後者への所得移転は生産が減少しない限り望ましい、という2命題を実証という点から否定した)。→新厚生経済学につながる.主題を所得分配の正義より資源配分の効率性に絞る.厚生の中身がうつろに。)
《フランス 家族手当法(従来から企業ごとに家族手当慣行があった。30年代から出生低下)》

《スウェーデン 1933 年に社会民主党が公共事業を中心とする「恐慌対策」を打ち出した》

《 スウェーデン ▼1932 アルバ&グンナール・ミュルダール夫妻『人口問題の危機』,低い出生率による人口減少の警告であった.当時,極貧時代から抜け出し,若者は自分の収入で自分自身の人間らしい生活を楽しみ,結婚して家庭を作る気などない風潮であった.(ミュルダールの人口政策論は,「消費の社会化」の概念で特徴づけられる.彼は,「消費の主要部分の社会化・国有化」を提唱した.主要部分とは,出産と育児に関わる部分である.「子どもに関する費目を個々の家計から国家予算へと移転させること」と説明されている.社会化・国有化とは,出産・育児関連の消費を量・質ともに社会的に管理し,平等負担とするということを意味する.従来から主張されている階級間の垂直的分配に加え,家族規模間の水平的分配をいかに組み込むかという問題が新たに問われた.ミュルダールは,所得階層に関係なく,すべての子ども・家族に対する無料サービスを提供することで水平的分配を達成するとともに,そのシステムが所得に応じた課税で支えられることで垂直的分配をも達成するという解決策を示した.  藤田菜々子『1930年代人口問題におけるケインズとミュルダール』)》

●1934 失業法(半年以内の失業には失業保険の給付、半年をこえると失業扶助(過渡的支払を保険から分離、失業保険給付の改善と切り離し扶助原則でやる)の給付;家計資産調査を実施)。公的扶助と社会保険の統合形態といわれることがある。救貧法から有能失業者が失業扶助にまわり、老人・母子・障害者など労働不能者が救貧法に残った。33年失業率23%

●1936 J.M.ケインズ『雇用、利子、貨幣に関する一般理論』▼(1913ピグーは失業の解決策は賃金を切り下げることだと述べた。ケインズは不況のとき、非自発的失業が増加すると考えた。公共事業で需要を創出して景気回復させる。われわれの経済社会の欠陥は完全雇用を提供できないことと、富と所得の恣意的で不公平な分配である。(一般理論p.375)。完全雇用達成を政府の課題としたが、新古典派は反対である。完全雇用とその方法は、労働党の方針に次第に取り入れられた。1944労働党『完全雇用と財政政策』。ケインズは1930年代、次第に自由党と違和感を持ち、自由党と労働党の間に位置した。(ドスタレールp.271。1942年男爵となる)ケインズ革命はケインズ一人の成果ではない。★アメリカでは、ソースタイン・ヴェブレンによる制度学派の運動と結びついた経済学者たちが、ケインズと類似した分析を展開していた。フーヴァー大統領やルーズベルト大統領の助言者たちに教えを施したのは、かれらであった。★クヌート・ヴィクセルに導かれながら、ストックホルム学派のミュルダール、リンダール、オリーンは、1920年代に有効需要や乗数の理論にきわめて類似した議論を提示した。彼らは、1930年代初頭に構築されたスウェーデン型福祉国家の設計者である。★1933年にミハウ・カレツキー、当時は無名のポーランド人経済学者は、『一般理論』の本質的な要素を含むモデルを簡潔かつ形式化されたかたちで提示していた。要するに、こうした見解はすでに世間に流布していたのだ。経済恐慌と失業を説明するための新たな方向を追求していた。それゆえ数多くの経済学者が、失業増加の原因として有効需要の不足を強調するような経済的ビジョンをつくり出すために努力していた。介入主義的な政策だけが、失業の増加を食い止めることができるのである。ケインズの有力な地位のために、彼の見解が支配的になった。ドスタレール『ケインズの闘い』p.561

●《米 第1次大戦後,1920年代後半にはアメリカ資本主義は過剰生産の傾向があった(自動車を中心とする耐久消費財,繊維,石炭,農業など).29年10月の株価暴落.過剰資本と過剰人口をかかえていたが,フーヴァー大統領は従来型の不況とみて資本主義経済の自律的回復力に期待して積極的な対策を打たない自由放任主義だった.大統領緊急雇用委員会,失業救済機構をつくったが州,地方政府と民間社会事業に救済努力を訴えるだけだった.(当時、失業保険の提案もなされたが社会保険は悪で、雇主の福利厚生や民間保険にまかせるべきと言う意見が強かった。ジャコービイ『会社荘園制』pp.341-)。33年3月にフランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)就任,失業率は25%,高齢者はつぎつぎに解雇された.1934年6月ルーズヴェルトは「社会保険によって市民とその家族の保障を推し進めること、-…・失業と高齢者に関連する要因にただちに立ち向かう準備をすること」を約束した。労働長官が、失業保険法と高齢者保険法のモデルを作成する研究グループとして、経済保障委員会を設置した。1933-36 ニュー・ディール.その課題は救済と復興.連邦緊急救済法で失業者を貧困者に含めて救済する方式を採用したが,おもわしくなかった(連邦政府が初めて救貧をした).失業者救済のための雇用創出のために公共事業をおこす.しかし経費がかさむことなどのために廃止された.34年には保守派は産業の自由のために,左翼は社会主義への道のためにニュー・ディールを批判した.ルーズベルトは社会主義の道でもファシズムの道でもない「中道やや左より」の政策を採る.(ニュー・ディールの歩みは戦後も続くが1945年から1950年の間は停止した。その後は物価安定が優先課題になった。エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』p.177)》

●米1935年に雇用促進局設置と社会保障法制定.雇用促進局は雇用可能な失業者に雇用を提供するもの.社会保障法案(当初は経済保障法案)は連邦による救済に反対する意見も強かったが成立した(世界ではじめて社会保障という言葉をつかった法律.ヨーロッパの社会保険と即効的な経済保障からの造語らしい).最大の雇用をはかるためには単に公共事業を拡大するだけではなく、民間の雇用を増大する必要がある。それには購買力の補給策が必要.内容はA)老齢年金保険(連邦直営方式.負担給付は所得比例制,労使折半拠出で政府負担なしの保険税を徴収(社会保険料は憲法違反となる可能性があった,藤田伍一ほか編『先進国社会保障7アメリカ』p.9).1937年から徴収,1940年に年金給付が始まったが、これが失業保険の機能をもった),B)失業保険(州営方式.州が失業保険を設けると連邦失業保険税の9割を免除),C)3種類の特別扶助(公的扶助で老人扶助,要扶養児童扶助,盲人扶助.これらを実施する州に連邦が補助金交付.一般の公的扶助は36年以降州・地方政府が運営し連邦は無関与),D)社会福祉(一定の要件を満たす,州の運営する母子保健・肢体不自由児・児童福祉のサービスに連邦補助金).健康保険は医師会の反対があり法案に含めなかった.

 社会保障の実態としては公的扶助と社会福祉サービスが中核で2種類の社会保険を付加するという性格で連邦化・国営化は弱かった.景気の回復のためには貧困層の購買力の補給が重要と考えられたが,老齢年金と失業保険の保険税徴収がデフレ効果を招くことが恐れられた.救済が「政府の施与」から「国民の権利」に引き上げられ,資本主義体制の維持に成功した.(右田ほか『社会福祉の歴史』pp.152-)》

 老齢年金は最初は労働者だけに適用され、のちに農業労働者や家内労働者,自営業者・農家,弁護士や医師もふくみほとんど全部の国民が強制加入。また39年に遺族年金、56年に障害年金が実現。》

  《1938年ニュージーランド社会保障法(老齢年金、寡婦年金、孤児手当、児童手当、障害児手当、失業手当、医療給付など)》

 1939-1945 第2次大戦  ○1937-40 チェンバレン挙国一致内閣,対独融和策

 ●1940 5月に超党派連立内閣成立(首班チャーチル)-45。40ロンドン空襲.疎開児童に医療扶助適用。都市スラムの児童のひどい衛生状態が明らかに.未亡人・老人に規格外の補足年金を支給し、まだ不足なら補足手当も支給。資産調査を緩和し扶助を要するひとは総て扶助した。扶助庁は現金給付のほかに病人や老人にホームヘルパーを派遣。貧民だけでなく、ニードのあるひと総てが利用できる社会サービスを開発。42年以降貧富にかかわらず、5歳未満幼児、妊婦にミルクを低料金で支給(低所得者には無料)。放置された児童を施設に収容保護,正常な発達のためには母親や家族との結びつきが重要で家族生活の援助が必要ということがわかり,児童処遇の方向付けになる.

 戦時中の労働力不足から1941年に緊急障害者訓練・就職制度ができた.病院のリハビリ機能強化,再就職の斡旋が進められた.1943年トムリンソン委員会報告が出て訓練と再雇用を強調しリハビリ医療は無料で給付されるようになった.

 老人の施設ケアは救貧法の混合型収容施設がほとんどで民間ホームはわずかであった.空襲に際し健康な65歳以上老人をロンドンから疎開させるに際して,民間の協力を仰いだ.民間では諸団体が「老人福祉協議会」を組織し,収容された老人を訪問しまた施設改善を申し入れた.虚弱老人の問題は打開できなかった.1945年には老人クラブも増加しホームヘルプ制度も実施された.

 1941 困窮法(ニーズ決定法)Determination of Needs Acts (資産調査を行うときは、申請者、その夫または妻、申請者に依存する世帯員の資源だけを対象にする。世帯に自活する世帯員があっても一定額以下の所得なら収入認定しない。老人や失業者の扶養は家計でなく社会の責任になった。世帯単位原則でなく、個人単位に変わったと言われる)。 従来は低所得者だけであった学校給食を所得にかかわらずおこなう方向で補助(低所得者は無料)。

《1941.1 米 フランクリン・ルーズベルトが議会に提出した年頭教書で,4つの自由を主張 1)言論・表現の自由 2)信仰の自由 3)欠乏(貧困)からの自由 4)恐怖からの自由.これら基本的自由が独裁制との対立物としドイツとの対戦国への武器援助立法を要請.1941.8大西洋憲章(戦争目的は全体主義に対する民主主義の戦い,戦後の社会保障推進).米英の共通原則の中で「よりよい労働基準,経済的進歩及び社会保障をすべてのものに確保する目的を持って,経済の領域におけるすべての諸国民間にもっとも十分な協力をもたらすこと」をあげた.●42.3 ILO『社会保障への途』社会扶助方式(一般的救貧とは別物で権利,無拠出老齢廃疾年金,失業扶助,医療扶助,リハビリ),社会保険方式,社会保障制度(救貧は地域共同社会の義務だが個人の権利でないという欠陥がある。社会保障(社会の構成員がさらされる危険に対して与える保障)を提供する方式として社会扶助と社会保険がある.社会扶助は道徳的汚名を分離し救貧から社会保険への前進で,社会保険は社会的妥当性に配慮して私的保険から社会扶助への進展である.社会保障体系は社会保険と社会扶助の混合からなるp.102-107). 1944年フィラデルフィア宣言(ILO第26回総会 保護を必要とするすべてのものに基礎的所得と包括的な医療を与えるように社会保障を拡張する(*救貧を権利たる公的扶助に変える)ことはILOの厳粛な義務と述べた。)総会で「所得保障勧告」と「医療勧告」を採択.それまで所得保障に付随していた医療給付が独立した地位を占める.》

1941 イギリス大主教テンプル著作『市民と聖職者』の中で福祉国家という言葉を使い、普及した。

●1942.11 ベヴァリッジ報告『社会保険と関連サービス』ベヴァリッジは自由党員。(1)社会保険の組織は社会進歩のための政策の一環であること(再建を阻む五つの巨人 want窮乏 disease病気 ignorance無学 squalor不潔 idleness怠惰)。社会保障(所得保障)は国家と個人の協力により達成されるべきである。国は行動意欲や機会や責任感を抑圧してはならない。ナショナル・ミニマムは、最低限以上の備えを自発的にしようとする余地を残すように決めること。被保険者は労働者だけでなく自営業や主婦も含むすべての国民。(2)計画の前提 a)15歳未満児童への児童手当 b)疾病の予防・治療のための包括的な医療サービス c)雇用の維持。(3)方法(労働者自身の所得のある時とないとき、家族負担の多い時と少ない時の間の購買力の分配をより良く行うこと。所得再分配による所得保障);基本的ニーズには社会保険、特別な場合には国民扶助、基本的措置に付加するものとして任意保険。[社会保険は保険料未納者のための国民扶助と給付の上乗せがほしい人のための任意保険により補完される必要あり。] 均一拠出と均一給付.「扶助は保険給付よりも何か望ましくないものであるという感じをいだかせるのでなければならない」。★「強制保険が最低生活水準以上の給付を行うことは、個人の責任に対する無用の干渉というものである。…かりに強制保険によって最低生活水準以上の給付を行なうことになれば,最低生活水準をこえる部分については各人の自由裁量にゆだね国は最低生活水準を全国民に保障するというナショナル・ミニマムの原則は放棄され、個人の生活を法律で規制するという生活規制原理が採用されたことになる。p.181(*繰り出し梯子理論と親近的)」(*五つの巨人に対応して 所得保障、医療と保健、教育、住宅、失業対策などの社会サービスが行われると解釈できる。)▲この報告を伝える新聞の見出しに、「cradle to grave planゆりかごから墓場まで」という表現があった。

《1942シュンペーター『資本主義、社会主義、民主主義』資本主義の基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費材、新生産方法ないし新輸送方法、新市場、新産業組織形態からもたらされる。「不断に古きものを破壊し新しきものを創造して、絶えず内部から経済構造を革命化する」『創造的破壊creative destruction』の過程こそ資本主義についての本質的事実である。(pp.129-130)》

 1943.3 チャーチルが「ゆりかごから墓場まで、すべての階級のすべての要請に応えうる国民皆保険制度を」と演説。

 1943年、ジュリエット・リズ・ウィリアムズはベヴァリッジ報告に代わるものとして、「新しい社会契約」を提唱した。彼女によれば、ベヴァリッジ報告は女性や子どもにとっては十分な貧困からの防壁とは言えなかった。彼女が提唱した週払いの給付は、ワークテストを伴う条件付きのものであった。しかし、税と給付の統合を支持していた点において、彼女はBIの歴史の中で重要な役割を果たしたといえる。新自由主義者のミルトン・フリードマンは、戦争中に彼女の提案を知るようになり、後に彼女の影響を一部受けながら、負の所得税(NIT)に関する提案をまとめた。フィッツパトリック『自由と保障-ベーシック・インカム論争』

 1945 (アトリー労働党内閣成立-51年まで,「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにした福祉国家形成).家族手当法(義務教育終了前の児童のうち第2子以降、所得制限なし)。資産調査なしでおこなうサービス形態の開発、社会保険+公的扶助+社会手当による所得保障。

《フランス 1945 労働省総務長官ラロックの社会保障計画。労働者対象に、労働の中断に対して代替的所得を用意するもの。労働者家族の必要を満たすための賃金政策、完全雇用政策、医療・労働安全等含む。国でなく当事者、金庫による運営。自主運営と国民連帯。》

●1946 国民保険法(被保険者は被用者・自営業者・主婦を除く無職者、給付は医療・失業・傷病・出産・寡婦・退職年金<男65歳女60歳以上の退職者>・死亡一時金)。 国民保険(業務災害)法。

●1946国民保健サービス法 National Health Services (全国民に無料で予防・治療・リハビリ・診察・検査・入院を給付、医師には登録人数により報酬)。 1946.8 英 家族手当法施行

 《1947.8 スウェーデン 児童手当制度実施》

●1948 英 国民扶助法(救貧は国家の責任、救貧法廃止、ワークハウス廃止、失業扶助法の受給者もこちらへ移す、医療はNHSで、申請者の家屋・一定額の貯蓄と利子などは認定せず、手続きは郵便局で用紙に記入し提出。●法の第3部は老人と心身障害者の福祉サービスを規定。1948年の児童法(通常の家庭における保護に欠ける浮浪児や戦災孤児などすべての児童に責任を負う委員会を設け、専門的ソーシャルワーカーを中心にサービスを発足させた。)とともに児童・老人・障害者の3分野の福祉立法が形成された。(小山『前掲書』pp.260-))

 《1948.12 国連 世界人権宣言採択(22条 すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力および国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことの出来ない経済的、社会的および文化的権利を実現する権利を有する。25条 何人も衣食住、医療および社会的施設をふくめ自己及び家族の健康と福利のために十分な生活水準を享有する権利を有し、かつ失業、疾病、能力喪失、配偶者の喪失、老齢、その他生活能力の喪失の場合に保障を受ける権利を有する。)》

《日本 1949(昭和24)、GHQが1ドル360円の単一為替レートを設定》

▼大陸型福祉国家(独、和、ベルギー、オーストリア、佛、伊など)の成立。大陸諸国の福祉国家形成を支えた政治社会的背景としてカトリック的伝統、そしてキリスト教民主主義政党を重視する。

19世紀の後半、各国で政権を構成していた自由主義派は、自由主義的施策を進めるかたわら、教会権力の削減を狙って政教分離の徹底、教育の世俗化を推進した。これに強く反発した宗派勢力は、教育の世俗化撤回を求めて各国で政治に参入し、相次いで選挙に勝利。これ以後、教育問題や社会問題などを扱い、20世紀に入って労組や農民団体などの組織化を進め、キリスト教民主主義政党は、大陸ヨーロッパにおいて最大の政治勢力となった。20世紀前半には和、ベルギー、オーストリア、第二次大戦後には西独、伊、佛も加わって、キリスト教民主主義勢力は各国で最大与党として政権の中核を占めた。

キリスト教民主主義は、自由放任では社会問題は解決できないと批判し、社会主義の階級闘争も否定し、「第三の道」として、階級協調と温情的な福祉政策を通じた漸進的な改革を主張した。大陸諸国において二〇世紀に出現した福祉国家は、社会民主主義系や自由主義系の福祉国家とは質的に異なる、独自の特徴を持ってきた。

特色の第一は、家族の重視。福祉制度の基本的な単位として想定されるのは、男性稼得者モデルの家族である。女性は夫を介してのみ福祉給付の権利を得るものとみなされ、被扶養者であることが受給資格の条件となることが多い。男性稼得者には、生計維持のため従前の所得に準ずる所得保障を行う必要があるとして「寛大」な給付が正当化される。第二点は福祉に関する国家の役割が限定され、さまざまな下位集団が福祉の主体となる分権的な体制。キリスト教民主主義は個人の帰属するコミュニティに重要な価値を置く。国家との関係に理論的裏付けを与えたのが、1931年の教皇回勅、とりわけサブシディアリティ原則である。一方で家族や教会、結社といった下位の社会集団の問題解決能力を重視し、当該集団の自治と自律を尊重する。そして他方で、国家の役割を、当該社会集団において解決できない問題が生じた場合にのみ援助を与えることに限定。この社会集団を基本に置く発想である。(補完性原則)労働者の福祉を担うのは、まず労働者の属する各産業・職域、あるいは地域とされるため、産業別や職域別に社会保険や医療保険の組合を設け、各集団内の自治に基づいて運営するのが基本となる。国家が主体となって雇用を創出する発想は乏しかった。  水島治郎「大陸型福祉国家」宮本太郎編『福祉国家再編の政治』》

 1950 T.H.マーシャル『シティズンシップと社会階級』(ヨーロッパの封建社会では階級間の不平等原理だったが近代国家形成とともにシティズンシップの平等原理が形成された。17世紀末から公民権・政治権・社会権に分化した。18世紀は公民権で人身・信条等の自由や財産権、職業選択等。19世紀は政治権で普通選挙権が中心。19世紀末から20世紀は社会権でミニマムな所得保障、文化的生活、公教育を受ける権利などを国家に要求できる権利。ベヴァリッジの社会保険によるナショナル・ミニマム保障が社会権保障で、社会政策となる)

 1951.5 英 NHSの半額負担導入(義歯、眼鏡)。52 義歯・歯科診療・処方せんの一部負担。

《1953.7 仏 国民連帯基金創設《58 ガルブレイス『豊かな社会』貧困は少数者の問題になった。》

《1959 マスグレイヴ『財政理論』公的欲求(社会的欲求、メリット欲求)。配分部門・分配部門・安定部門。適正な分配状態の達成に必要な措置、ある限界の範囲内で人々の意見は一致している(*英米の財政学では再分配は扱わなかったはず。マスグレイブはドイツ出身でドイツ財政学の影響か。「大きい政府」論か)》

●《米 1950-60年代の公的扶助引き締めの例が”man in the house”rules(AFDC受給の母子世帯に成人男性の同居,訪問等があれば給付取り消し.友人の背広が置いてあるだけで取り消し).扶助受給を極力不快なものにする,扶助の代わりに失業対策事業で働かせる,扶助基準を低くする,どんな仕事も拒否させず働かせる,私生児がいれば支給拒否,扶養義務範囲を広げる,転居を制限する,ワーカーが夜間に訪問してチェックなど.58年にガルブレイスが貧困は少数者の問題になったと主張.ところが統計データでは人口の20-25%が貧困であった.政府も62年には20%が貧困だったと認める.(貧困の再発見)

 貧困戦争 64年経済機会法による事業 職業訓練による雇用対策,成人教育,農家や中小企業への融資,地域の貧困者の生活改善と自立促進をはかるために貧困者自身の「最大限可能な参加」を得て地域や諸資源を動員し多様な事業を実施する地域活動事業(*住民参加が政治学で問題提起された始まり).ねらいは機会提供による自助の援助.貧困観(貧困の文化があり貧困の悪循環がある.住んでいる地域社会で貧困の文化から脱出できるような環境づくりを彼らの組織化・参加で実現する.小地域レベルで貧困者自身のリーダーシップで事業運営した方が有効.貧困を個人の怠惰,自助の欠如とみる救貧法的貧困観とやや違い環境要因を認めるが,社会的構造的欠陥を指摘するものではなかった)

 50年代後半~60年代にかけて公民権運動(黒人の政治的社会的差別の撤廃運動.64年公民権法,65年投票権法でみのる).

 しかしAFDC受給者の半数が黒人で経済的差別があると考えた.福祉権運動おこる.自助の原理に反対して生存権の保障を要求する.公的扶助の根本的改革(基準引き上げ,調査活動の縮小,家族単位原則撤廃,プライバシー侵害反対など)めざす.貧困観(貧困の基本原因は個人の怠惰や無能ではなく生活を規定する社会制度の側にある.貧困の文化は制度的に作り出されたもの).ワーカーは住民主体,参加というが実は自助の原理の押しつけに荷担しているという.右田ほか『社会福祉の歴史』pp.172-》

《フランス 1956 社会保障法典 社会保険、労災補償、家族手当からなる。公的扶助(社会扶助)は含まない。被用者と非被用者に二分し、被用者をさらに一般、特別(公務員、鉄道等職域別)、農業に分ける。疾病保険金庫、老齢保険金庫、家族手当金庫が運営する。一般制度は、疾病、出産、障害、死亡、労働災害、職業病、家族的負担に関して、医療・薬剤・金銭を給付。国の財政関与は極めて少ない。》

《ドイツ 1957 年金に世代間助け合い方式導入(インフレで積立金が目減りして年金の価値が無くなっていた事への対応)》

●1960 英 国民保険法改正(定額拠出・定額給付、および被用者の拠出(所得)関連の付加給付(差等年金)の2階建て。(1975年と2説あり))61年4月実施

《1960.1 スウェーデン 所得比例補足年金を含む新国民年金制度。基礎年金とあわせて2階建てとなる。1960.4 仏 老人問題調査委員会(ラロック委員会)設置。1961.6 西独 連邦社会扶助法制定。1962.3 西独 社会保障制度改革法公布。1962 M.フリードマン『資本主義と自由』負の所得税の提案 1963.1 スウェーデン 社会保障関係法を統合して社会保障法典制定。1964.1 米  「偉大なる社会」計画、「貧困との闘い」は、アメリカの福祉国家化を一段と進めるもの。「偉大な社会」計画は、黒人公民権、「貧困絶滅戦争」=「貧困との戦い」(WAR ON POVERTY)、教育改革の3本の柱からなった。経済、社会、文化、科学などさまざまの分野で偉大な社会をつくり上げようというもので、主な施策は次の通り。貧乏追放計画、年収3000ドル以下の低収入家族の収入を引上げる。失業青年を訓練する。失業者、貧困農民に補助金を出す。アパラチア、ミネソタ、ミシガンなどの窮乏地帯を振興する。経済繁栄維持政策として物価安定、輸出振興、農業政策拡充、所得税減税、公共支出増加などの景気対策を行う。機会の平等化政策として老人の医療保障、黒人差別禁止、移民制限撤廃、貧困家庭子弟の教育補助など。生活の質的向上策として保健施設拡充、新しい都市計画、交通・運輸機関の整備、犯罪防止、自然美保護、生活の科学振興などであった。しかし、ベトナム戦争が激化するにつれて、福祉計画に向けられるべき予算は押えられて、黒人の暴動も激しくなり、偉大な社会の影は薄くなっていった。》

 1965 英 タウンゼントとエーベルスミス『貧困者と極貧者』(国民扶助基準の1.4倍を貧困とすれば10%以上が貧困者であるという貧困の再発見.国民扶助を受給しない理由はスティグマが原因)

《1965年アメリカ 二つの医療保健制度設立。メディケイドは、生活困窮者のための連邦政府と州政府による公的医療保険制度である。メディケイドの受給資格や適用範囲は、州によって大きく異なる。メディケイドは、現在、年間約1,560億ドルを費やし、アメリカ最大の社会福祉制度となっている。一方、メディケアは、主として65歳以上の高齢者および年齢を問わず身体障害者のための連邦医療保険制度である。メディケアは、社会保障税の一部、受給者が払い込む保険料、および連邦政府の補助金を財源としている。社会保障年金の受給者は全員メディケアに加入している。(http://tokyo.usembassy.gov/j/irc/ircj-portrait-usa09.html)

 1966 英 国民保険法改正(失業給付と傷病給付にも所得比例給付を導入)。補足給付委員会設置<スティグマをなくすために,国民扶助を補足給付と呼ぶことにした.65歳以上の者に補足年金、65歳未満の者に補足手当を支給。受給資格は学生を除く16歳以上、フルタイム労働(週30H以上)に従事せず、自己の収入が基準に満たない者。貯蓄など資産保有限度廃止。長期基準(2年以上継続する者)は短期基準より大。1975年保護率は8.3%>。補足給付を3カ月受けると面接があり、就労の意思を明確にできない人には、4週間給付を停止した。これが4週間ルール。はじめは45歳以下の未婚の男子に行っていたがやがて既婚男子にも行った。

◆英 1968 シーボーム報告「地方自治体とpersonal social services」障害者のための地域を基盤としたサービス発展における転機となった。コミュニティに立脚した健全な家族指向サービスを提供するために地方自治体の権限を強化し、老人、児童、障害者の対人福祉サービスや保健、教育、住宅部門を統合した社会サービス部の設置を構想した。入所型福祉施設からコミュニティ「による」コミュニティ・ケア(日本では在宅福祉サービスという)への転換を打ち出した。(しかし施設入所が増え費用増加、公的部門肥大化につながる)

 1969 英 ウィルソン労働党内閣のグリーン・ペーパー公表。(給付と拠出を所得に関連させる。公的年金を全面的に所得比例方式にして拡大し、企業年金を補完的に位置付けた。)
《1970年代からヨーロッパ全体で精神科ケアが変化。大規模でしばしば孤立した施設から小規模で地域に根差したより統合的なサービスヘと徐々に置き換わりつつある。例えば英国やオランダのような国々では施設型ケアおよび病院を基礎としたケアをやめて、さまざまな種類の地域ケアが70年代のはじめから始まった。脱施設のはじまり。

◆英 1970 地方自治体社会サービス法(各自治体は社会サービス部門を設け、領域別に雇用されていたソーシャルワーカーを統合された部門に所属させた。個別援助からコミュニティ・ソーシャルワークへ)

◆1971 シーボーム改革(児童・老人・障害者など対策別の福祉を社会サービスとしてまとめる.福祉の地域性を導入.専門家たるケースワーカーの育成.)

 1971 英 ヒース保守党内閣のグリーン・ペーパー。(公的年金は基本年金に限定し、所得比例は企業年金で。(*民営化))

英 低所得世帯への家族所得補足制度創設(フルタイムの低所得世帯に適用.補足給付は無職またはパートタイムにしか適用されていなかった)

 《1960年以後、米国の保有する金が減少し始めた。70年に保有する金は1オンス35ドルの法定平価でみると100億ドル分だが、各国が保有するドルは400億ドル。1971.8 ニクソン・ショック 米国ドル防衛策(金とドルの交換停止)》《1973.2 円変動相場制に移行  

●《1973.10 石油危機。第4次中東戦争勃発 反イスラエルの湾岸6か国が原油70%値上げ OAPECが原油生産削減決定。日本では便乗したエクソン、シェルが原油価格30%値上げを通告、 他社も追随、さらにエクソンなど5社が10%の供給削減を通告。先進国でスタグフレーション(インフレと景気後退)続く。主要先進国にて金融引き締め政策をとった際、景気が沈静化しても、物価の状況には変化が生じないケースがみられた。●1973年から74年にかけて,日本は激しいインフレに見舞われた。その原因は,71年から73年にかけて過大な貨幣供給が行われ, 73年10月以降の石油危機がこれに追い打ちをかけたこと。政府は石油危機への対応策として,大幅な総需要抑制策を打ち出した。通産省は設備投資の新規着工のストップを産業界に指導し,74年度予算では公共投資を極力抑制し,公定歩合を2%引き上げて9%とした。こうした政策の激変を受けて,民間ではトイレットペーパー騒ぎ,買い占め,売り惜しみ,便乗値上げなど至るところに見られた。労働組合は74年の賃上げでは,インフレで圧迫された家計を大幅賃上げで回復しようとし、企業も前年末のインフレ,物価高騰で大儲けしたために支払い余力があり,平均32%の大幅賃上げとなった。しかし,その後のコストアップと総需要引き締め策によって企業収益は大きく圧迫された。他方、物価が高くなりすぎて家計が圧迫され、買い控え行動が見られ,この年は消費性向が4ポイントも下落した。石油値上げ、需要の引き締め政策,消費の萎縮などが複合して総需要は大きく落ち込み,日本経済は深刻な不況に陥った。

 インフレと不況が同時に起こるという経済情勢は先進諸国が直面した。》

《1974.1 米 補足的保障所得SSI制度発足》

 1974.9 英 労働党政府がBetter Pension白書を公表し所得比例年金の計画を表明

 1975 英 補足給付法改正(wage stop[たとえ低賃金であっても、受給以前の賃金以上には給付しないという原則]廃止)。家族手当を児童給付とする(義務教育終了前の第1子から所得制限なしで支給)。国民保険法改正(定額年金を基礎年金とし、差等年金を廃止し所得(拠出)比例年金を付加年金とする構成。最低所得以上ならば被用者は所得比例保険料、自営業者は定額保険料を拠出する。最低所得以下なら自営業者よりやや安い定額保険料を拠出できる。無業の妻は育児や障害者の世話をした期間だけ受給資格期間が短縮される)。

《1977 ニュージーランド 普遍的年金給付と老齢給付を一本化した,国民年金(National Superannuation)が導入された。国民年金は,年齢(60歳)と居住要件(10年間)によって 受給資格要件を定め,一般租税から調達した財源より,一律給付を支給する》

《1978.12 第2次石油危機(1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。) 1980年イラン・イラク戦争 両国の原油輸出がストップし石油価格は第2次ショック以前の2倍半に上昇。また金銀など商品相場も高値を付け、ドルは急落。》

◆1978 ウォルフェンデン委員会報告『ボランタリー組織の将来』(労働運動の国家主義、保守派の市場原理主義に対抗したもの。権力が寡占的に集中しない多元的システムが望ましい(福祉多元主義と呼んだ).社会的ニーズを効果的に充足し市民参加を促進するために「インフォーマル・システム(家族や地域)」「商業主義的システム(市場)」「制度的システム」「ボランタリー・システム(民間非営利=NPO,協同組合)」を活用・連携すること.インフォーマル部門とボランタリー部門の役割を拡大すること.) 

●1979.5  英国でサッチャー女史が首相に就任。1960年代半ば以降の「イギリス病」の原因は国有企業の非能率性、福祉大国と呼ばれた社会保障制度を維持するための財政支出の増大、強力な労働組合によるストライキの頻発などにあると考え、それを克服するために国有企業の民営化や金融の自由化に取り組み、石油・製鉄・鉄道・通信・電力・ガス・水道などの民営化を実施した。また社会保障制度の見直し、財政支出の削減、公務員の削減などを断行したが、企業の倒産や失業者の増大を招き、また福祉の縮小は「弱者の切り捨て」と非難され、圧縮できなかった。1990年のいわゆる「人頭税」(世帯の人数に応じて課税する地方税)の導入に対し激しい反対運動が起こり支持を失った。

 (公共支出の抑制の観点から,すべての政府組織に効率性が要求され,民間企業のほうが公共サービスを効率的に提供できると判断される場合には,政府は公共サービスの直接的な提供者(provider)であることを止め,そのための権能付与者・環境整備者(enabler)へと立場を変えてきている。営利企業の導入を福祉多元主義と称した)

イギリスでは1975年にインフレ率26%、失業者100万人だった。国有産業は財政を赤字にさせた。1972、74年に炭鉱労働者のストがあり、労働党政権は労働者に有利に和解した。和解条件を履行する余裕もなく、国際収支危機と財政赤字が進んだ。1976年にIMFの借入金に依存することになったが、IMFの財政抑制・緊縮命令に従うのか、破産を宣言しポンドの信用を犠牲にするかがせまられ、労働党政府は前者を選び、福祉国家的支出の削減をした。それでもスタグフレーションの解決にはならなかった。インフレ克服のために高金利を行い高失業率が残った。サッチャーは必死に個人責任の理念を普及させようとした。1980年代のインフレ抑制政策は労働者を打ちのめすための口実だったと経済顧問は言った。炭鉱の大合理化と閉鎖を宣言してストを挑発した。輸入石炭のほうが安かったので組合は負けた。英国を国際競争による倒産と、非組合員だけを雇う外国企業にさらして組合を弱体化させた。10年でインフレを根絶し、低賃金と従順な労働者の国になった。(ハーヴェイpp.82-)

●1979年 P.タウンゼント『英国における貧困』 「相対的剥奪」(付き合っている仲間や世間では当たり前でどこの家でも努力目標となり受け入れられているような、食事らしい食事をし、諸活動へ参加し、あるいは生活条件と快適さなどを獲得するために必要な諸資源を欠いているとき、貧困の状態にある。日常の生活様式,習慣、活動などから排除されてしまう。p.31)。相対的貧困と呼ばれる。

(*それに対して、収入が全くなく食うや食わずのどん底の生活は絶対的貧困と呼ばれ、公的扶助の対象である。それに対してどん底ではないが世間並の生活ができない状態も「貧困」だといわれるようになった。これに対しては、公的扶助ではなく、就労促進や公的年金、訪問看護・介護などによる社会的包摂によって対応することができるのではないか。また、収入はあるが多子で足りない時なども相対的貧困に陥ることがあるが、公的扶助というより家族手当(児童手当)などで対応できる。これら相対的貧困の解決には、諸対策のほかに、それらが効果を持つ前提条件として教育、住宅など社会サービスの充実が前提であるといえよう。そうなっていれば、住宅ローン返済で生活に困ると言うことも生じないはずである。不況時に収入が減ってしまい住宅ローンの返済のめどが立たず、マイホームを売却してしまったり、それでも借金が残りアパート暮らししながら借金返済が残るということもある。アメリカでは住宅を手放せばそれ以上は住宅ローンの返済は免除されると言われているが、ぜひその仕組みを取り入れてもらいたいものである)。

●《1979カリフォルニア州住民投票で固定資産税引き下げを求めた提案13号が可決。州、郡、市町村、学校区などの歳入は激減し、教育の荒廃・社会保障水準の低下・道路網の劣化・政治や行政の質の低下・犯罪の増大などを招いたのである。1979.10 FRB議長ボルカーはケインジアン的アプローチからマネタリスト的アプローチに政策転換し、貨幣供給量を減らし利子率の急上昇を許し失業率を高めてでもインフレを抑えようとした。インフレ率は13%から1984年の4%へ低下した。失業率10%台へ上昇した。(自由主義の復活。反ケインズ主義。)●1981.1  レーガン大統領就任。 (供給重視経済学に基づき減税が経済を刺激し税の増収をもたらすとした。「小さな政府」を唱えたが大幅減税と大規模な国防支出を伴うレーガノミックスにより巨額の連邦政府赤字を招いた。国債の劇的な増加に結びついた。連邦政府の補助金を削減したので市では、財政難で市立病院を廃止したり、老人ホームを廃止したり、公立学校を閉鎖する所もでた。小さい政府を主張したが連邦支出は増加した。) 81 OECD報告『福祉国家の危機』。81.5 ミッテラン大統領。 82中曽根内閣 85.3 ゴルバチョフ書記長就任》

●《フランス 1981年に社会党のミッテラン大統領就任。有給休暇の拡大、法定労働時間の短縮、大学入試の廃止、死刑制度の廃止を行う。また、民間企業の国有化や社会保障費の拡大など社会主義的政策を実行した。しかし、翌1982年には、インフレが拡大し、失業者が増加したため政策を変更し、賃上げを抑え、公共支出を削減するなど緊縮財政を取り、自由主義的政策になった。さらに、保守主義の人を首相にさせた。14年間大統領を続けた。}

◆英国 1982 バークレイ報告「Social Workers その役割と課題」カウンセリングと社会的ケア計画からなるコミュニティ・ソーシャルワークを強調した。これに基づく介入がソーシャルワーカーの役割とした。「クライエント」にしみつくスティグマ性、「コンシューマー」にしみつく消費主義などを排除するという意味で「ユーザー」という用語が一般的であるとされた。

《日本のバブル景気の引き金は1985年のプラザ合意とされている。レーガン米大統領は「強いアメリカ」をキャッチフレーズに「ドル高」政策を展開し、その結果巨額の財政赤字と貿易赤字を抱え込み、1985年、プラザホテルで開催されたG5において、ドル高政策を放棄した。この結果、円は85年2月の1ドル=263円 から、88年には1ドル=120円 台になったのである。円高は日本の輸出産業に決定的な打撃を与え86年には日本は円高不況に見舞われた。円高不況を乗り切るため内需を拡大、1987年2月には日銀は公定歩合を2.5パーセントにまで引き下げた。こうして未曽有の「金余り」現象、過剰流動性が生じたのである。また、石油危機の後、1970年代後半から優良製造業向けの融資案件が伸び悩んでいたため、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していた。金融緩和の結果、企業の手元に残った余分なお金は放置され、行き場を失ったお金は株式や土地投機に向かった。》

《日本 1986(昭和61).11から1991(平成3).2まで 平成景気》

 1986.1 英 年金の給付水準を引き下げる社会保障法案成立

 1987.6 社会基金創設(一時的かつ特別なニーズに対応するもので、出産一時金、寒冷気候一時金、コミュニティケア補助金、家計貸付金ほかで構成.不服申し立て権廃止)

 1988.4 補足給付は所得補助制度に、家族補足給付は家族クレジット制度に変革。所得補助制度は18歳以上で週16時間未満の就労者で一定の資産・所得以下の者を対象。家族クレジット制度は16歳以下の子が1人以上あり、週16時間以上就労しているものが対象。

◆1988 グリフィス報告 地方自治体への権限委譲、ケアマネージャーの任命の勧告。大規模施設でのケアから自宅、小規模な地域施設、デイケアセンターでのケアなどコミュニティを基礎とするケアに変えることを勧告。地方自治体の役割はニーズを評価しどんなサービスが必要かを考え,民間団体に参入してもらえるように基盤整備・条件整備の機関(enabler)になることとした.1991年コミュニティ・ケア法(実施93年)につながる。

《日本 1987.4  国鉄分割・民営化でJR発足。 1987.10 ブラックマンデー世界的株価暴落

《日本 1989.4  消費税導入(3%)。 中国 89.6 天安門事件(人民解放軍が民主化要求デモ鎮圧) ドイツ 89.11 ベルリンの壁崩壊(東西冷戦終結)》

《1989.12 独 ネット・スライドを導入する年金改正法案成立》

《1990.3 日経平均株価が3万円割れ、バブル経済崩壊へ。  90.10 東西ドイツ統一 90エスピン-アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』(リベラル型、保守主義型、社会民主主義型)》

◆1990.6 英 国民保健サービスおよびコミュニティ・ケア法案成立. NHSでは購入者(保健当局,予算保持GP)と供給者(予算保持しないGP,NHS国立トラスト病院,民間営利非営利供給者)に分け,購入者との契約を求めて供給者間で競争させた.ケアではケアマネジメントの実施が位置づけられた。公的サービス供給への民間サービスの導入が図られた。(GPのいる診療所は,診療看護婦・訪問看護婦・母子担当保健婦・精神科看護婦・終末期看護婦・OT・PTなどがいて診療所・保健所・訪問看護ステーションが一体化したもの.GPなくしてコミュニティ・ケアはありえないといわれる.)アセスメントやケアマネージャーなきサービスは禁止されている.ケアマネージャーに民間サービスの開発促進やサービスの質の管理をさせることになった.コミュニティ・ケア改革(ケアマネジメント導入.福祉の専門性を高めるためケアマネージャー導入.コミュニティケアプラン策定を地方公共団体に義務づけ.福祉における個人の尊厳・独立性・発言権の確立.福祉の権利性の重視)

《1991.1  湾岸戦争 91.12 ソ連崩壊 1992.8 日経平均株価が1万5千円割れ 92.9 欧州通貨危機発生  ●エスピン=アンデルセンは福祉国家を、福祉国家レジームで分類し、アメリカ、カナダ、オーストラリア等の自由主義型、独仏伊等の保守主義型、スウェーデンなど北欧の社会民主主義型に分けた。イギリス、日本の位置づけは不明確。★自由主義型は、ミーンズ・テスト付の給付の比重が高く、対象は低所得層が中心。公的福祉は小さいが、ボランティア団体やNPO、博愛事業が発達している。★保守主義型は、社会保険制度が公務・民間など職域別に分化し、職種による格差がある。カトリックの影響が強く、伝統的な家族の維持が重視される。専業主婦は社会保険から除外され、家族給付が専業主婦化を促進する一方で、保育等の社会サービスが遅れる。★社会民主主義型は、全階層が普遍的で脱商品化効果(賃金労働者が仕事をしなくても、社会保障給付を受けて従前に近い生活ができる)の高い社会保険に加入。給付水準は新中間層の期待水準にまで高められる。保育・介護の社会サービスが発達し、女性の就労の条件が整う。(1990「福祉資本主義の三つの世界」)》

 1991.6 英 障害生活手当・障害就労手当法成立

《1992 スウェーデン エーデル改革(高齢者の医療と福祉をコミューンで統合して給付)》

《1993.8 細川首相選出、非自民の連立政権《1994.12 メキシコ通貨危機発生《1995.1  阪神大震災  95.3 地下鉄サリン事件》

《1995.1 独 介護保険法  保険料徴収開始、95.4在宅介護給付、96.7施設介護給付開始》

◆1995 コミュニティケア(承認とサービス)法制定.地方自治体はケアプラン作成時に家族介護者の個別のニーズを評価しニーズにあったサービス提供ができるようになった.

 1995 障害者差別法制定.雇用,サービス提供,不動産賃貸,教育,公共交通などあらゆる面で差別されない必要な措置を講ずること.

◆1996 コミュニティケア(直接給付)法制定.65歳未満身体障害者に地方自治体はサービスのかわりに費用の直接給付ができるようになり,利用者自身のケアプラン作成が可能になった.2000年から65歳以上高齢者にも適用.

《1996.8 米 福祉改革 従来のAFDC(要扶養児童家庭扶助)にかわってTANF(貧困家庭一時扶助)》

《1997.4  日本、消費税5%に引き上げ 97.7 アジア通貨危機発生  香港返還》

●1997.5 英で労働党政権発足 効率重視でなく公正重視でもない、市場中心でなく大きな政府中心でない第三の道。ギデンズはベヴァリッジとは反対に「自律、健康、教育、よき暮らし、進取の創造」などポジティブな福祉観による社会保障を提唱。ベスト・バリュー改革(市場メカニズム重視からパートナーシップ協働による自治体改革へ)。第三の道は新自由主義の継承だという意見もある。

 1999 家族クレジットが就労家族タックスクレジットに変更された。さらに2003年から就労税額控除(Working Tax Credit)に変更された。

《1999.1 欧州単一通貨ユーロ誕生(2002年1月から流通)》 

《●1999 スウェーデン 基礎年金と所得比例年金の2階建て公的年金やめて最低保障給付付きの報酬比例年金導入。新制度は賦課方式で確定拠出型という世界でもはじめてのしくみ。国庫負担の最低保障年金あり。支払った保険料は個人別の口座に記録しておき,各人の拠出総額を平均余命で割って年金額を出す.年金は保険料総額と運用収益を合計して後から決める。制度の一部には積立方式も入れる 保険料18.5%のうち2.5%は積立方式の年金に運用され自分の判断で運用機関を選ぶ。(神野直彦 朝日新聞040815 ヨーロッパではEUで85年に地方自治憲章が制定され、地方分権が進んだ。スウェーデンのコミューン(市町村)の職員は、4割がお年寄りの世話、2.5割が教育、2割がチャイルドケアにかかわっていて、自治体が家族の代わりになっている。93年にはコミューンの決定権を広げた一般補助金が導入された。)》

●イギリスの年金改革は、1979年から1997年までの保守党政権が公的年金を縮小し、私的年金の成長を促す政策を行った。そのため公的年金のGDPに占める割合は他の先進国に比べると著しく低い。貧しい年金生活者を救済することを目的に、99年4月より「最低所得保証」が設置された。●2001.4 4月から新しい個人年金がはじまる(ステークホルダー(持分保有者)年金)旧サッチャー政権は基礎年金や二階建ての所得比例年金という公的年金の役割を減らし企業年金や個人年金を奨励した。ブレアも公的年金重視には戻らず企業年金に加入できない中所得者や自営業者のため英国版401kともいえる積立方式の個人年金をたちあげた.低所得者のために国家第二年金(State Second Pension ,SSP)を創設.基礎年金に加え低所得者は国家第二年金、中所得者はステークホルダー年金、それ以上の人は既存の個人年金や企業年金という形になる.(英国3600万労働人口のうち,国家第二年金に加入するのは約2割で,その他は自営業者か加入要件以下の低所得者,あるいは勤務先の企業年金か個人年金に加入している人たち.SSP適用の人は国民年金保険料として自己負担分10%を払う.企業年金や個人年金に加入し適用除外の人は国民保険料そのものは8.4%と割安.企業年金は主に大企業の制度で加入は限られる.個人年金は高コストで商品選択が難しい.ステークホールダー年金は企業年金と個人年金の長所を取り入れたもので,商品自体は民間保険会社提供の個人年金だが掛け金徴収や商品案内を勤務先企業が行うことで低コストを実現した.適格なら適用除外の対象になる.西沢和彦『年金大改革』)

《(●ドイツ 社民党政権でも公的年金の給付削減をするがそれを補う企業年金を充実させる 積立方式で確定拠出型 2002年には年収の1%、2008年には年収の4%まで積み立てられる。任意加入だが低所得者や子育て中の人には補助金、高所得者には税の優遇。労使の負担が問題に。●ドイツの年金改革は、制度の持続可能性、早期引退問題への対応が中心。1998年の新政権は、「年金改革2000」を新たに発表し、2001年年金改革を行った。前政権との年金政策の違いは、①給付水準を維持する制度から、負担可能な保険料にあわせた給付水準を設定する制度への変更、②公的年金だけに過重な役割を担わせず公的年金・企業年金・個人年金のバランスと役割を重視、③賦課方式から賦課方式と積立方式を組み合わせた制度設計への変更、の3点である。こうした方針転換のもと行われた改革では、①保険料率を2020年までは19.7%、2030までは21.9%とし、所得代替率(モデル年金/全労働者平均賃金)は可処分所得の70%から2030年までに段階的に67%へ引き下げ②企業年金と個人年金に政府が税制上の支援や助成金によって優遇する任意加入の拠出建て制度(創設した大臣の名前からリースター年金と呼ばれる)を導入、公的年金制度の代替率低下を補う③企業年金に運用規制を緩和したペンション・ファンドを導入④支給開始年齢を段階的に67歳に引き上げ、などが具体的に実施された。http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no178/khoukoku.htm

《●ニュージーランド、 社会保障は所得の保障。65歳以上の高齢者の年金はすべて税金で賄う。労働者の平均週賃金の65%に当たる年金。20歳以上なら10年以上、50歳以上なら5年以上ニュージーランド国内に滞在すればだれでも年金の受給資格がある。各種手当てが補償されるので、国民には「最後は政府が助けてくれる」といった安心感が常にある。医療や福祉サービスの供給は不足。病院のウエイティング・リスト(順番待ち)は深刻。公立病院では低額な費用負担、または無料でサービスを受けられるが、中には治療を受けるのに何カ月も待たされ、亡くなってしまうケースもある。これは社会保障関係費の削減によって生じた問題で、それに関連した医療設備の老朽化や医師・看護士の人材不足などは深刻な問題。実際、若く優秀な医療スタッフは、より高い給料、待遇を求めて、オーストラリアやアメリカ、イギリスなどへと出ていく。

 医療にかかる費用は、入院は基本的に無料、外来も低所得者には比較的低額で診察を受けることができる。最近では、待たずに治療が受けられる全額自己負担の私立病院が増えてきた。'98年には私立病院のベッド数が公立病院のそれを上回っている。 

 ほとんどの人が成人になると親元から離れて生活をするため、子どもが親の介護をするという習慣はなく、介護が必要なときは、公立の老人病院か、私立のリタイアメント・ビレッジ(退職者村)、または自宅での介護を選択する。自宅での介護の場合は、持病があり検診、治療が必要ならGPを通して訪問看護士が、介護のみの場合はAge Concernなどの非営利団体に依頼。この場合も無料または低額でサービスを受けられる。介護スタッフは、ほとんどが非営利団体によって運営されている。公立の老人病院よりもサービスが整ったリタイアメント・ビレッジへの入居を好む人が増えた。病院が併設され、一戸建てやアパートなどの住居スタイルや、内装などのアメニティ面でも個人の嗜好が反映されやすいメリットがある。全額自己負担なので入居できる人や受けられるサービスの質は個人の財政力によって限られる。

http://www.gekkannz.net/thats/modules/nzjoho/index.php?id=941》

●カナダ 1階部分の老齢所得保障と2階部分の拠出比例給付を支給するカナダ年金制度とが公的年金制度として存在。老齢所得保障は税財源で賄われ、カナダ年金制度は社会保険方式。ただし、1階の給付が低く設定されているため、これを補足する世帯単位のミーンズテストを伴なう補足年金給付や配偶者手当が支給される。1989年、高額所得者には定額給付部分を減額する制度(クローバック制度)を設ける改革。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no178/khoukoku.htm》

●1998 英 低所得者の自立支援として、1998(平成10)年から「福祉から就労へ」をスローガンとしたニューディールプログラムを実施している。ニューディールプログラムは、若者(18歳から24歳まで)、25歳以上、50歳以上、自営業者、障害者、ひとり親世帯等といった類型を対象に、パーソナルアドバイザーと呼ばれる参加者一人一人の担当者が、求職活動のプロセス全体において一貫して相談に応じることで、効果的な就労支援を行うものである。 例えば、若者については、所得保障として支給される求職者手当てを6ヶ月以上継続して受給した者に対し、公務員の資格を持つパーソナルアドバイザーがカウンセリングの上で最長4ヶ月の求職活動を行い、就労できなかった場合については、補助金付き雇用、ボランティア団体等での就労、職業訓練等のいずれかを選択する。(『厚生労働白書』平成17年版)

 なぜブレア政権は若者の失業問題を優先するのか。第一に、若年失業者や無業者を放置することは「社会的排除」につながるリスクがある点だ。社会的排除とは、「低所得、スキル不足、失業、家族の崩壊、健康の悪化、劣悪な住宅環境、地域の治安の悪化といった問題が絡み合い、個人や地域がそこから抜け出せない状況」をいう。若者の場合、就業経験が乏しいために、職業上のスキルが身についていない者が多い。また、資金をもたない者も多いので、学校を退学し、家庭の崩壊といった状況が重なって不就労期間が長期化すると社会的排除に陥りやすい。第二に、若者の失業が「機会の不平等」によってもたらされる側面のあることだ。貧しい親から生まれた若者は、裕福な親から生まれた若者に比べて十分な教育を受けられず、安定的な職を得にくい傾向がみられる。 第三に、若年長期失業者の増加が国の財政負担を高めるという点である。英国の求職者手当(Jobseeker’s Allowance)には、「拠出制求職者手当(Contribution-based Jobseeker’s Allowance)」と「所得調査制求職者手当(Income-based Jobseeker’s Allowance)」の2種類がある 。「所得調査制求職者手当」では、無拠出であっても一定の資力調査や求職者要件を満たせば、国庫負担によって無期限で手当が支給される。http://www.mizuho-ir.co.jp/research/jakunen060329.html

●1999年10月より、政府は、家族クレジット(Family Credit)に代えて就労家族税額控除を、障害者就労手当(Disability Working Allowance)に代えて障害者税額控除を導入した。★就労家族税額控除は、(世帯員のうち誰かが)週16時間以上就労する有子世帯に対する給付である(所得調査あり)。収入が適用額未満であれば給付額の全額が支給され、収入が適用額を1ポンド上回るごとに給付額が55ペンスずつ減額される。家族クレジットとの主な相違点は、適用額が80.65ポンドから90ポンドへ引き上げられた点及び適用額を超えた場合の減額が1ポンドにつき70ペンスから55ペンスへ引き下げられた点である。

★障害者税額控除の基本的な内容は、週16時間以上就労する障害者に対する給付である(所得調査あり)。就労家族税額控除と同様、収入が適用額未満であれば給付額の全額が支給され、収入が適用額を1ポンド上回るごとに給付額が55ペンスずつ減額される。障害者就労手当との主な相違点は、受給期間が56日から182日に延長された点、適用額が70ポンドから90ポンドヘと引き上げられた点及び適用額を超えた場合の減額が1ポンド当たり70ペンスから55ペンスヘと引き下げられた点である。いずれの制度も、所得の増加による給付額の減少を抑えたこと、また給与と併せて支給を行うとしたこと等の点で、就労インセンティブの向上を図るものであった。しかし一方では、これらの制度は仕組みが複雑で分かりにくい、給与と併せて支給することにより使用者の事務負担が増す等の批判もあった。

http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpyi200201/b0226.html

●2003年4月より税額控除制度をさらに拡充した就労税額控除及び児童税額控除が導入されている。この改正の特徴としては、給付の対象者が、子供を養育していない低所得の就労者や、8,000ポンド以上の資産を有するために所得補助等の給付の対象外となっていた者等にも拡大されたこと、 給付額の水準が引き上げられたこと等が挙げられる。しかし新制度も旧制度と同様、その複雑さは解消されていないという批判を受けている

★フリードマンの負の所得税を参考にした制度に、イギリスのWorking Tax Credit(就労税額控除、以下WTC)がある。WTCは、就労を条件に課税最低限以下の所得の人に税額控除として補助金を与え、低所得層の就労を促進する制度である。以前は子供を持つ家庭だけが対象であったが、2003年の改革で対象を拡大し、現在は子供のいない低所得層や障害者に対しての給付システムと統合した。WTCでは、就労所得が増加すると、給付額が徐々に削減されるシステムとなっているため、給付部分を相殺した純税率は滑らかな曲線となっている。改革の結果、就業率が上昇しており、失業状態の世帯の比率が減少している。日本の生活保護制度でも就労インセンティブを考え、勤労収入に対して適用される勤労控除というものがあるが、勤労収入によっては限界税率が80-90%とかなり高い。

http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/kenkyu/zk073/zk073_06.htm

●日経20081227 英国に見る「政府復権」の予兆

「無責任な政府が無責任な資本主義を招いた」。金融危機の広がりで16年ぶりのマイナス成長に陥った英国で、野党・保守党のキャメロン党首(42)が与党・労働党のブラウン首相(57)への批判を強めている。キャメロン氏が2005年末に党首に就任して三年。この間に保守党は大きく変質した。同氏は九月末に開いた党大会で社会正義実現に向けた「政府の役割」を強調。格差問題への対応や高齢化対策、教育改革について長い時間を割いて議論した。市場原理を最優先し「社会なんてものは存在しない」と言い切ったサッチャー元首相時代とは様変わりしている。(*保守党は19世紀末にも社会立法をやった)

「近代的な保守党」の中道路線への修正はもともと、「ニユー・レーバー(新しい労働党)」に奪われた中間層の票を取り戻す狙いだった。だが、そこにはもっと根本的な国民ニーズの変化が映っている可能性もある。

英王立国際問題研究所のニブレット理事は「金融危機だけでなくテロの脅威や核拡散、高齢化などさまざまな問題への不安から国民が政府への依存心を強めているのではないか」と話す。サッチャー革命以来、縮小してきた政府の復権に人々が期待しているという説だ。

キャメロン氏は「国家支配とも自由放任とも違う、責任ある社会の再生に政府が役割を果たすこと」が英国再生のカギを握るのだという。先行きへの不安感がかつてないほど重く立ちこめるなかで、大きな政府でも小さな政府でもない、保守党版の「第三の道」を模索し、政府の役割の再定義を試みる英保守党。


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