幕末・明治維新略史

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幕末・明治維新略史
朝  廷 幕府・新政府 薩長土肥
1840~42年、「清国」はアヘン戦争で英国に無理やり開国させられ不平等条約を結ばされた。.
  1840年オランダ船から、それまで「大国」で夷てきは侵略しないと考えられていた「清」が英国艦隊に破れ巨額の賠償金を払わされたことを知る。1841年にオランダ船長から、英国軍人が「日本にも行って一戦交える兆しもある」といったのを聞かされた。  
  1844年オランダ国王は将軍に開国を勧告する手紙を送った。老中阿部は「祖法歴世の法」を変ずることはしないことを告げた。攘夷論の最巨頭の前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)は「オランダ人は利口で油断できない、要らざるお世話である」と打ち払い令復活を主張した(小西p.22)。外国人は夷てきで野蛮だから神州日本に近づけてはならないと信じていたのが当時の攘夷論(小西p.36)。   
1846年8月、天皇は幕府に海防を厳重にするように勅を下す。朝廷は政治的発言はしてこなかったが、徳川斉昭が上層公卿に工作した結果と考えられる(小西p.40)。ペリーによる大統領の手紙でも将軍を「日本皇帝陛下」と称した(小西p.43)。しかし対外的には将軍を「大君(タイクーン)」と称した(小西p.43)。幕末期は「大日本大君陛下」として帝王や大統領と対等においた。天皇は「帝(みかど)」(小西p.44)。 1846年2月、伊豆韮山代官が伊豆七島を巡視し海防意見を幕府に提出。5月、米国ビッドル提督が二隻の軍艦で浦賀に来て通商を求めてきたが幕府は拒絶。阿部正弘は江戸湾の防備の強化を訴えたが幕閣は赤字財政を理由にその提案を拒否した。
阿部は内々に長崎警備の福岡藩佐賀藩、琉球を支配する薩摩藩に伝え、意見具申を求めた。
薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)は長崎からその情報を得ていて、芝の藩邸から離れたところに避難用の屋敷を求めていた。
この有栖川宮が維新の時に官軍を率いて江戸へ来た。 1847年、徳川七郎麿が御三卿の一橋家の養子となり慶喜となる。一橋家では伏見宮家から嫁いだ直子(つねこ)が未亡人でかれを養子として迎えた。のちに慶喜と朝廷のパイプになる。慶喜は公家の一条家の養女と結婚。当家の三女はのちの明治天皇の后となるひと。慶喜の妹は維新後、有栖川宮と結婚。有栖川宮は14代将軍家茂に降嫁した皇女和宮の元婚約者。公武合体政策のため婚約を破棄された。慶喜はずっと京都にいて江戸城へは大政奉還した後に入った。
3月、幕府が猿島・安房大房崎などに砲台築造を決める。7月、オランダ船が長崎入港し「風説書」提出し幕府の外交に忠告。


1848年、老中阿部は外国船打ち払い令復旧の可否を幕府役人や近海守衛の諸藩に諮問した。大勢は武備を充実し万一に備えるべきという意見で、49年に幕府は防御を充実させるように全国に布告した。しかし幕府、諸藩ともに財政が苦しく難しかった(小西p.35)。
松代藩士佐久間象山は
1842年、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任の海防掛に任ぜられて以降、洋学研究の担当者とされ、西洋兵学の素養を身につけ、藩主・幸貫に『海防八策』
(海岸に砲台を築き海防に努める。西洋流の船艦を造り水軍の駆け引きを習わせる。津々浦々に学校を興し忠孝節義を弁へさせる)を献上した。また、大砲の鋳造に成功した。アヘン戦争により西欧列強の恐るべきことを知り、早くから開国、通商交易の必要なことを献策した。吉田松陰・勝海舟らに洋学を教えた。ペリーの来航した時には老中阿部正弘に「急務十事」を健言し開国を論じた。
http://honmoku.search-japan.com/article/41228743.html

『海防八策』のなかで、「辺鄙の浦々里々に至り候迄、学校を興し教化を盛に仕、愚夫愚婦迄も、忠孝節義を弁へ候様仕度候事。」と述べていた。http://sinsyuugositee.naganoblog.jp/e578346.html
尊王論を唱えたのは儒学と国学。水戸藩の尊王論は儒学で、当初は、君臣上下の別を守り、将軍は天皇を敬い、藩士は大名を敬うべき、さらに、人びとは直属の主君に忠誠を尽くすべきといい、封建的上下関係維持だった。幕府に反対するものではなかった。これが、内外の名分論としての攘夷論と結びついて「尊王攘夷論」を形成する(小西p.45、46)。 1849年5月、幕府が三奉行、長崎・浦賀奉行などに、異国船打ち払い令の復活の可能性を諮問。12月、幕府が外国船への薪水給与令を修正し厳しくする。 松陰は『幽囚録』(1854年)に記した。吾が師平象山は、十年前、「船匠・砲工・舟師・技士を海外より傭(やと)ひ、艦を造り砲を鋳、水戦を操し砲陣を習はんことを論ず。謂(おも)へらく、然らずんば以て外夷を拒絶し國威を振耀(しんよう)するに足らずと。其の後遍く洋書を講究し、専ら砲学を修め、…」「蘭夷に命じて軍艦を致さしむと聞きては大いに喜びて謂へらく、徒に之れを蘭夷に託するは未だ善を尽さず、宜しく俊才巧思の士数十名を撰び、蘭舶に付して海外に出し、其れらをして便宜に従ひ以て艦を購はしむべし、則ち往返の間、海勢を識り、操舟に熟し、且つ萬國の情形を知るを得ん、その益たるや大なりと」
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-63.html
1850~64年、「清国」で「太平天国の乱」がおこるが、内乱を制圧する常備軍がいなかったので外国軍隊によって支配された。

1851年には、薩摩の島津斉彬は開国論。

吉田松陰は攘夷といいながら、1852年『「続愚論』は「万国航海仕り、智見を開き、富国強兵の大策」をもった開国をめざした。長州藩の開国論と攘夷論の二面外交の始まりか。.
  1850年10月、佐賀藩が反射炉を築造。 1850(嘉永3)年、●吉田松陰
アヘン戦争で「清」が西欧列強に大敗したことを知り山鹿流兵学が時代遅れであることを痛感し「旧に率(したが)はんと欲せば則ち時に随はざる能はず」といった。西洋兵学を学ぶため平戸、長崎に遊学。「夫れ外夷を制馭する者は必ず先ず夷情を洞ふ」(「西遊日記」)べきだとする魏源の意見に賛同している。http://denz.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-7dcc.html
  1851年1月、土佐漁民中浜万次郎らがアメリカ船に送られて琉球に上陸する。 1851年島津斉彬が薩摩藩主となる。開国論。1858年没。集成館など近代工業育成、海軍力強化、隆盛や利通など人材育成。
  1852年8月、オランダ商館長が幕府に、明年アメリカ使節が来航し開国を要求するという、提督の書簡を渡す。 ●吉田松陰は
1852(嘉永5)年、松陰は藩の許可得られず脱藩し東北を旅行し、水戸で会沢正志斎に影響を受ける。水戸学経由の尊王論では、「皇国の皇国たる所以」は、武力によって周辺諸国を威服させること(「来原良三に復する書」)だった。http://denz.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-7dcc.html
●長州藩では、
攘夷論急先鋒の高杉晋作が1862年に藩主の許可を得て上海へ渡り太平天国の乱を観察している。また、長州が幕府に攘夷実行をせまった文久3(1863)年4月18日に、藩主が伊藤俊輔(のちの博文)、志道聞多(のちの井上馨)ら4人をイギリスへ密航させている。これらの行動は、表面における攘夷運動に全く逆行するから長州藩の「攘夷」は全く見せかけであった。http://www.araki-labo.jp/shiso103.htm
黒船来航。米国大統領の国書を受け取ることは海禁(鎖国)の方針を破ることと考えられた。

老中首座阿部正弘と大老井伊直弼は開国論。

将軍が病弱だったので、阿部は雄藩連合路線。

尊王攘夷の水戸藩徳川斉昭を政府に参加させたが、これが雄藩の介入を招く始まり。.
幕府はペリー来航の経緯を朝廷に上奏したところ、朝廷は七つの神社、七つの寺に祈祷を命じた。徳川幕府は開府以来、朝廷には政治に口出ししないように要求してきた。 1853(嘉永6)年6月3日、米国の東インド艦隊がぺりーに率いられて浦賀沖に現れ、大統領の国書を受け取るように要求し、開国を迫った。その日の深夜、老中首座の阿部正弘は幕閣と評議。国書を受け取れば国禁を破ることになる、拒否すれば江戸が戦闘に巻き込まれる危険がある。6月6日国書を受け取ることに決めた。内容はアメリカ船への燃料食糧補給、難破船の保護、日本の開国と通商の要求だったが、幕府は来年回答するとした。
●「攘夷」とは
古代中国の周王朝で侵入する夷狄を打ち払うという意味で覇者が用いた標語を国学者が流用したもの。幕末期の「尊王攘夷」という言葉の用例は、水戸藩の藩校「弘道館」の教育理念を示した徳川斉昭の『弘道館記』による。これの実質的な起草者は藤田東湖である。幕末尊王攘夷論は、水戸学の影響が大きい。「尊皇」と書くのは戦前、国粋主義の影響。(ウィキペディア)
250 6月、12代将軍家慶が死去、家定が将軍就任(10月)。●家定は病弱で難局を乗り越えられる人ではなかった。
阿部は外交の難局を挙国一致で乗り切ろうとした。それまで御三家など徳川一門は幕政に参与しないのが不文律だったが、翌年に御三家の徳川斉昭を海防参与に任じた。斉昭を幕府側に取り込み過激な尊王攘夷を抑えようとした(p.64)。阿部は親交のある福井藩主松平春嶽、開明派の宇和島藩主伊達宗城、同じく島津斉彬に助言を求め、外様大名にも公に意見を求めるなど、幕政を刷新した。阿部は斉彬と同意見だったが、過激な攘夷論の孝明天皇には攘夷論を言い続けるほかなかった。
●水戸の斉昭のように幕府に制御できない人を幕政中枢に参画させたことが幕府衰亡の一因という説もあった(八幡p.37)。


当時、徳川御三家・三卿で後嗣の候補者は、水戸の徳川斉昭の第七子で一橋家当主の一橋慶喜(17歳)、紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(8歳)の二人だった。慶福は家定のいとこで血統からいえば慶喜よりも近かった。しかし、政情不安定なときにしきたりに囚われずに、将軍の名代として立派に振る舞える人物をえたいという意見が出た。これは阿部正弘、越前藩主松平慶永(よしなが)薩摩藩主島津斉彬の考えで、慶喜擁立の工作をした(小西p.128)。

500 ペリーが帰った翌月、阿部は大統領国書の翻訳を全国の諸大名、藩士、幕臣、庶民に至まで情報開示し、譜代大名や幕臣に限らず外様大名にまで広く意見を求め、寄せられた意見を公開した。●これが薩摩、長州など外様大名も幕政に意見を差し挟むきっかけとなった。(1866年の第二次長州征伐の失敗は、さらに幕府の弱体化を示すことになった)。

●旗本勝海舟は
「優秀な人材の登用、内政外交政策を述べさせる、海防強化、武器製造推進、兵制を西洋式にし教練所設置、海防費用は外国交易の利益を当てる」という意見をだした。

●彦根藩主井伊直弼らも
「開国して貿易を行いその利益で軍備を整えて外国を打ち払う」という案を出した。

阿部は人材を掘り起こし登用した。旗本直参となった中浜万次郎が阿部に呼ばれたので「米国には領土的野心はない」とし、開国を進言。1853年12月、ロシアのプチャーチンが長崎に再入港し、勘定奉行川路聖謨(としあき)が対応し交渉する。
 ●松代藩佐久間象山、それに師事していた吉田松陰も
米国軍艦を見た。松陰は単純な攘夷は不可能であることを悟り、外国に学ぶ必要性を感じた。
●吉田松陰「将及私言」
(吉田松陰が1853(嘉永6)年の黒船来航の実情を見聞し、長州藩主にその具体的な対応を促すために提出した上申書)。今般亜美理駕夷の事、万世の患なり。彼の地に至り其の状態を察するに、軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり。戦争に及ばざるは、幕府の令、夷の軽蔑侮慢を甘んじ、専ら事穏便を主とせられし故なり。夷人幕府に上る書を観るに、和友通商を請ふ等の事件、一として許允せらるべきものなし。来春には必定一戦に及ぶべし。そして、外夷の侮りに対しては、幕府が率先して諸大名を率いて当たり天皇の御心を安んずることが大義だという。大砲・小銃、船艦、隊の編成も西洋のものを採用すること。http://bakumatu.blog82.fc2.com/blog-entry-146.html

●水戸藩徳川斉昭は
尊王攘夷論の中心的存在。日本も海軍を作らなければ外国と戦えないことは分かっていた。オランダ語の資料をみて洋式軍艦「旭日丸」建造に取りかかっていた。

●島津斉彬は
「軍備を強化し、そのあと外国と通商しても良い」という意見。


1854年には、西郷は反開国、尊王攘夷論で、江戸では水戸藩士と交流。

日米和親条約で幕府は開国派になった。

開国派と尊王攘夷派の対立が深まる。.

  1854年、ペリーが1月に来航。幕府では攘夷の前水戸藩徳川斉昭と開国派の井伊直弼が激しく対立した。老中阿部正弘は松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したがこれが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府衰亡の原因にもなった。
2月、●「日米和親条約」締結(欠乏品の供給なら神州にきずつくわけでないから、という意識だった)。幕府は鎖国政策を終わらせて開国に踏み切った。鎖国政策の崩壊。攘夷派の斉昭が海防参与を辞任
1854年、箱館奉行となる堀が17歳の榎本武揚をつれて蝦夷地と樺太の探検を行った。英国軍艦4隻が長崎に入港、「日英和親条約」締結。象山と松陰は自藩幽閉となり、松陰は萩の牢にはいる。12月、ロシアと「日ロ和親条約」締結。
1854年3月、攘夷論の吉田松陰が密かに乗船しようとして捕まり、連座して佐久間象山も投獄された。

●尊王攘夷の西郷隆盛が
江戸薩摩屋敷に来る。水戸藩などとの連絡係となり尊王攘夷思想をふかめる。


●長州藩
店舗改革に次いで安政の藩政改革。外国の圧力と農民勢力の台頭。洋学振興、洋式造船、洋式兵制、洋式海洋技術習得、砲台築造、銃砲鋳造、人材登用で下級武士が発言し藩政に反映。
   1855年、阿部は攘夷派の徳川斉昭の圧力により開国派の老中2名を罷免し直弼らの怒りを買うが、急に開国に傾くと、過激な尊攘派に潰されると考えたから。のらりくらりと攘夷派をかわし続けた。

1855年、阿部は蝦夷地のアイヌに天然痘がはやると蘭医に命じて逃げ惑うアイヌに強制的に種痘を受けさせアイヌを助けた。
1855年10月、阿部は開国路線へ動き始めた幕府の人事を刷新するため、洋学派の佐倉藩主堀田正睦(まさよし)を老中首座に据え、自分は老中に引いたが、尊王攘夷の斉昭の怒りを買い尊王攘夷派と開国派の対立を深めた(『幕末暦』p.45)。12月、オランダと「日蘭和親条約」締結。長崎で第1次海軍伝習を開始。
 ●吉田松陰「士規七則」1855(安政2)年、
(君臣父子を最も大なりと為す。人の人たるゆえんは忠孝を本となす。君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。)
http://blog.livedoor.jp/gokokumin/archives/51011888.html
●薩摩藩
嘉永年間に「お由良騒動」。藩主斉興が老年でも隠居せず、長男斉彬(なりあきら)は40歳でも部屋住みだった。家臣のうち早く家督相続を望んだが、藩主の側室の子に継がせたい勢力と争いが起こった。老中阿部正弘の口利きで1851年に斉彬が相続し両者の関係は緊密になった(小西p.80)。
   1856年2月、従来の洋学所を「蛮書調所」と改称。「講武所」を開き剣術、洋式調練、砲術などを教える『幕末暦』。
1856年10月、松平春嶽が
つぎの将軍として一橋慶喜がよいと尾張藩主徳川慶勝などに協力を求める(一橋派)。
徳川斉昭に対抗する井伊直弼たちは
血筋に勝れた紀伊の徳川慶福(よしとみ)を推した。慶喜では斉昭の権力が強まることを恐れたということもある(南紀派)。『幕末暦』


阿部は開明派の島津斉彬を味方に付け、篤姫を家定の御台所にした。婚儀の準備担当を西郷隆盛とした。一橋派だった斉彬は篤姫に、慶喜将軍実現のため大奥に工作するように命じた。連絡役を隆盛とした。将軍家定は薩摩の島津斉彬の養女敬子(すみこ)(篤姫)と結婚。家定は三回目の結婚だった。これは阿部、慶永、斉彬らの画策で、将軍慶喜実現を大奥へ働きかけさせるためであった。
大奥は質実剛健の水戸藩が嫌いでかわいい慶福に人気があって、南紀派であった。
 1856年8月、●坂本龍馬が単純な尊攘思想の誤りに気づいた。土佐から江戸へ来た。『幕末暦』

1856(安政3)年後半、●松陰は
本居宣長、平田篤胤らの国学・神道系著作を集中的に読む。水戸学から国学へシフトした。黙霖との書簡論争(同年八月下旬)の後、松陰の対外政策は、武力侵略論(懾服(しょうふく:おそれいって従う)雄略)から、交易による「航海雄略」へと転換した。国学経由の尊王論では、天皇がいるだけで「皇国の皇国たる所以」が証明できると考え、現状で不可能な武力による「攘夷」もしくは対外侵略は必要とされなくなった。http://denz.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-7dcc.html
   篤姫は養父の斉彬に孝行したいと思い指示に従った。同時に、徳川の人間として、徳川家の存続のために働かなければいけないと考えた。家定は結婚後1年半で死亡し篤姫は天しょう院となる。

 ●諸藩の安政期の改革の共通性
「明君」をいただいていた。島津斉彬(薩摩)、松平慶永(越前)、毛利慶親(よしちか)(長州)、山内豊信(土佐)、鍋島斉正(なりまさ)、黒田斉ひろ(筑前)、伊達宗城(宇和島)たち。かつての重臣に頼らず、側近派ないし改革派ぐるーぷにより支持されていた。改革派にも上・中・下士層さまざまで、下からの突き上げが強かった。その意見は比較的藩主に届きやすかった。薩摩の西郷、大久保、五代、長州の吉田松陰、高杉、木戸、越前の橋本左内、肥後の横井小楠らがいた。水戸藩の藤田東湖もその一人(小西p.84)。


松平慶永(越前)は腹心の橋本左内を京に送り条約勅許の工作をさせた。左内は27歳だったが、積極的開国論者で、ロシアと同盟してイギリスと対抗すべき、軍備充実させるべき、等の意見を持っていた。藩単位の分立意識を克服し「名君将軍」を「名君大名」が支え「日本国中を一家」とする構想を持っていた(小西p.131)。

●薩摩藩主斉彬も将軍後嗣で一橋慶喜擁立に動き、西郷吉兵衛(隆盛)が活躍した。この頃の隆盛は藩主のいう幕府一部改造を目指した単純な攘夷論者で討幕思想ではなかった(小西p.132)。
 ●「松下村塾記」
(1856(安政3)年九月四日 27歳)人の最も重しとする所は、君臣の義なり。国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内は君臣の義を失ひ、外は華夷の弁を遺るれば、則ち学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安くに在りや。外叔先生、誠に能く一邑の子弟を教誨して、上は君臣の義、華夷の弁を明かにし、下は又孝悌忠信を失はず。然る後奇傑非常の人、起つて之れに従ひ、萩城の真に顕はるること、将にここに於いてか在らんとす。
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-59.html
 
内では、君臣の義(尊王)・外では、華夷の弁(攘夷)を正さなければならない。(華夷の弁というのはわが国を中華とし自らの主体性を確立することであり世界をこの主体性の立場から観ること)。
www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/010/10-r-005.pdf

「松下村塾」では久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育。
 孝明天皇は極端な外国人嫌いで上の国日本にいやしい夷(夷)を住まわせ商売を許すなどはもってのほかという毛嫌い精神だった。公卿のほとんども同じ攘夷論者だった。深刻思想を強く持ち伝統的・精神的・宗教的権威の中に生き、外国人を対等の人間と考えない排外思想だった。「墨夷(ぼくい)の要求に従うのは神州の恥」「謝絶して戦とならば打ち払うべし」等の積極的攘夷意見が上申された(小西p.125)。.  1857年1月、「蛮書調所」が開講する。蘭学の西周、津田真道が教授就任。講武所のなかに軍艦教授所を設置。長崎で伝習を受けた一期生や万次郎が教授となる。6月、阿部正弘が病没。一橋派に痛手『幕末暦』。正弘の死で徳川斉昭の攘夷論が幕府に反映しなくなり、「西洋かぶれ」というあだ名だった堀田が幕政を運営することになった(小西p.93)。
1857年、アメリカが通商条約の締結を迫るので、幕府はお茶を濁そうとして5月に「下田条約」締結。内容には治外法権や日米貨幣の交換比率などが含まれていた。8月、アメリカのハリスは江戸で幕府の中枢と通商条約を交渉することになる。8月、オランダと「日蘭追加条約」締結。9月、ロシアのプチャーチンと「日ロ追加条約」締結。『幕末暦』
 ●土佐藩
天保改革を推進した中層藩士が門閥層の反撃を受け弾圧されていた。1850年に藩主になった山内豊信(とよしげ)は門閥層を抑え改革推進。洋式砲術採用、鋳造船・造船、特産品の奨励、専売。阿部正弘とも緊密な関係(小西p.82)。


1857年、
●開明的な佐賀藩主鍋島直正が
オランダから蒸気船を購入。徹底的な富国強兵策をとり兵力を誇るようになる。『幕末暦』
  「清」は列強の軍事力により不平等条約を結ばされた。

幕府は米国と通商条約調印、不平等条約を押しつけられた。

孝明天皇は攘夷論(外国船打ち払い・条約廃棄)で、幕府に攘夷決行を促す。

尊王論と攘夷論が合体する。

公武合体派の井伊直弼は皇女降嫁を企てた。

直弼は、攘夷派や幕府批判論の公家、志士、学者を処罰、「安政の大獄」.
 
 ●朝廷には
攘夷思想が強く、儒者梅田雲浜(うんぴん)(若狭小浜藩)らも攘夷思想を吹き込んでいた。彼らは攘夷論を唱え、朝権がふるわないことに憤慨し、尊王攘夷志士の先駆けで、朝臣に夢を与え人気があった(小西p.125)。1858年3月、公卿、下級廷臣が「幕府への委任」の勅答に連名の意見書を出した。もともと幕府支持だった前関白鷹司政通も家臣に説得され条約勅許反対になった(p.126)。
 1858年、幕府は米国と通商条約の交渉をしていたが、攘夷派や雄藩は反対していた。そこで老中首座堀田正睦は朝廷から勅許をもらい反対派を封じ込めようとした(それまで幕府は政治・外交のことで朝廷の許可を仰いだことはなかった)。しかし孝明天皇は攘夷論で、梅田雲浜らが朝廷に攘夷思想を吹き込んでいて、朝廷は開国反対が強く、条約締結に勅挙は下りなかった。むしろ天皇が攘夷だということで尊王と攘夷が一つになった。『幕末暦』。
●1858年4月、南紀派の井伊直弼が大老に就いた。大老は将軍の名の下に幕政を専断できる。

この頃「清国」では
英仏連合軍によるアロー戦争があり、英国のパークスが強硬に「清」を攻略し北京まで占領して天津条約を締結させた。米国のハリスは早く条約締結しないと「清」のように欧州勢に侵略されるとせかした。『幕末暦』
 松陰には、
水戸学の「攘夷論」のような鎖国に固執した排外主義はなかった。『続愚論』1858年、「商船漸く増し、土貨漸く殖え、而して互市漸く盛んなれば、乃ち軍艦を造る。商艦は以て輜重に当つ」。「鎖国の説は、一時は無事に候えども、宴安姑息の徒の喜ぶ所にして、始終遠大の御大計に御座なく候」、「万国航海仕り、智見を開き、富国強兵の大策相立ち候様仕り度き事に御座候」と書いた。http://www.araki-labo.jp/shiso103.htm
.

1858年、島津斉彬は無勅許条約締結や慶福の将軍継承など直弼の独断的措置に強く反発していた。『幕末暦』
 幕府の論理は兵備薄弱な現状では「万国並立」は困難だから,今はかりに条約調印し武力充実をまって条約改正をするというもの。孝明天皇は激怒。水戸藩家老安島帯刀らは朝廷に幕政改革の勅を水戸藩に出すように画策。1858年8月、幕府の違勅調印を責め、攘夷決行を求めた「戊午(ぼご)の密勅」が幕府を飛び越えて水戸藩京都留守居役へ下された。二日後に幕府に伝達。直弼たちは激怒した。『幕末暦』  1858年6月、●大老井伊直弼は
孝明天皇の勅許を得ぬまま「日米修好通商条約」に調印した。列強に蹂躙されている清国の轍を踏まないためと弁明。この条約には関税自主権がなく、治外法権を認めていたので「不平等条約」と批判され、後の条約改正が課題となる。直弼は勅許の奏請に失敗したという理由で堀田正睦を罷免する。

1858年6月、徳川慶福が将軍に決定。。発表直前に米国ハリスが、英仏の大艦隊が条約調印を求めてやってくるが、米国よりも悪い条件になるから先に米国と調印すべき、と迫った。直弼は勅許が必要と主張したが、やむなく調印を許した。1858年6月19日日「米修好通商条約」を締結。不平等条約だった。
7月、オランダ、ロシア、英国とそれぞれ「修好通商条約」を締結。開明的君主だった島津斉彬が死去、一橋派には痛手だった。9月、フランスと「修好通商条約」締結。10月、慶福が14代将軍家茂となる『幕末暦』。公武合体派の直弼は皇女降嫁の工作を行った。

1858年、直弼は「戊午(ぼご)の密勅」は水戸藩が朝廷と組んで幕府に反逆を企てたと断定して、関わった公家、条約締結に反対する攘夷派の志士、幕府批判の学者などを捕らえた。「安政の大獄」の始まり。直弼は幕府の力でやってゆけると考えていたので、幕閣以外のものが朝廷に取り入って国政に介入することを止めさせた。

 1858(安政5)年、●松陰は
「武」の国日本が米国の「武」に脅されて結んだ無勅許の日米修好通商条約に激怒し討幕を表明。11月、門弟から極秘に水戸藩士を中心とした井伊大老暗殺計画を聞き、長州藩は老中首座間部を暗殺すべきと考え暗殺計画を藩に提出するが、藩に捕らえられ野山獄に幽閉される。

1858年、慶喜将軍実現に動いていた西郷吉之助にも幕府の捜索が及んできたので薩摩へ逃れた。しかし実質的支配者の島津久光は開明的な兄の忠臣を遠ざけ、西郷は居づらくなり自殺を試みたが、助かる『幕末暦』。この年に斉彬が死去し弟久光の子の茂久(もちひさ)が藩主となる。久光が藩の実権を握る。斉彬の遺志を受け継ぎ中央政界進出を目指し勤王をすすめるから尊皇攘夷派に自重を求めたが、意図はあくまで幕政改革で公武合体を実現すること、封建秩序の維持で討幕ではなかった。下級武士の倒幕論は心外であった(小西p.276)。


「志士」は「有志之士」で天下のために憂うる人で、外圧を受けてむざと夷てきに屈伏してはならないというのが共通の発想で攘夷論者。橋本左内は例外。幕府では力不足で、より高い精神的権威である朝廷を中心として幕政を改革して全国的結集をはかる、と考えた。だから尊王論者でもあり、尊王攘夷論者と呼んだ。しかし倒幕論や幕府否定ではなかった。安政の大獄で弾圧処刑された尊王攘夷の志士は、この頃は幕府否定論者ではなかった(小西p.149-)。
 1859年、逮捕の手が公卿に伸びてきたので朝廷はやむなく条約を了承した。  1859年5月、幕府は5カ国との通商条約により、神奈川、長崎、箱館での自由貿易を始めることを布告。寒村だった横浜を「神奈川在横浜」として開港した。幕府は水戸藩に「戊午の密勅」の返納をもとめた(p.82)『幕末暦』。7月、外国奉行をおく。1859年8月、慶喜は23歳で隠居謹慎を命ぜられた『幕末暦』。輸出拡大で生糸などの価格高騰、諸物価全体が高騰する。京都西陣では品不足で休業店が続出。  久留米水天宮祠官の真木和泉は尊王の志士の中でも最も早く倒幕論を唱えた。安政の大獄のころ『大夢記』で天皇が天下の政治を行うべきで、徳川氏は甲斐、駿河の領主とすべし、と述べた。文久年間には具体的な討幕計画「義挙三策」を出し、諸侯にすすめて兵を挙げるとか、諸侯の兵を借りるとか、義徒がことを起こすなど述べ、急進的志士に影響を与えた。彼らは島津久光の挙兵、上京を待っていた(小西p.277-)。

1859年、●松陰は
江戸に召喚され、間部暗殺未遂計画を堂々と述べた。計画を初めて聞いた幕府は直ちに投獄した。水戸藩では家老安島帯刀らが切腹。その他では橋本左内、吉田松陰らが死罪『幕末暦』
松陰の門下生が明治の元勲となり長州藩閥が形成され、恩師松蔭を殺した直弼は極悪人とされた(小西p.178)。

●高杉晋作はじめ
「松下村塾」門下生達は松陰の死によって
倒幕することを決意する。
 井伊直弼「暗殺」など、尊王攘夷派による開国派へのテロが始まる。

1860年には、薩摩の大久保一蔵は反開国の尊王攘夷派。. 
 
 1960年、慶喜の謹慎は解除。皇女降嫁を断ったが公家の岩倉具視らが条約破棄を条件に受け入れ公武合体を支持。天皇も同意見。「通商条約を破棄」という条件付きだったが幕府が「7~10年以内に外交交渉・場合によっては武力をもって条約破棄・攘夷する」と確約したので、承認。しかしそれは事実上、不可能なこと。
直弼の公武合体策は後日、和宮(静寛院宮)と篤姫(天璋院)が徳川家存続を求めて、江戸城にこもり官軍による江戸城攻撃を防ぎ無血開城に導いた。 
 1860年、幕府の「遣米使節」を乗せた「咸臨丸」が出航。勝海舟、中浜万次郎、福沢諭吉ら。大統領に親書。民主主義を見聞。幕府は長崎に洋式医学校を開設、ベッド数126、手術室4。

1860年3月
●水戸(17人)・薩摩(1人)浪士が
井伊直弼を「桜田門外」で暗殺。
尊攘派は勢いを取り戻した。ケンカ両成敗で、被害者の井伊家も処罰すると彦根藩がおさまらず内戦に発展する可能性があった。そこで老中安藤信正は首のない直弼の遺体に病気見舞いを行い翌月、病死としたので、彦根藩井伊家はおとがめなしで、大きな争いを防いだ(p.83)。『幕末暦』(首は井伊家に返され藩医が胴に縫い付けたとの説もある)。明治政府には松下村塾出身者も多く松蔭を殺した直弼を極悪人として国民に対して教育させたようだ。
 1860年、薩摩の大久保一蔵(のちの利通)を中心とする尊王攘夷派が水戸藩と連携して井伊直弼打倒を企てたが、島津久光にとがめられ、江戸藩邸の一名だけが桜田門外に参加した。京都では尊王攘夷派志士がテロを多発。

薩摩の尊王攘夷派の有村が桜田門外の変の加わり、これに驚いた島津忠義(茂久)は参勤交代の途中で鹿児島に引き返した。ここから薩摩と幕府に緊張関係が生まれた(八幡p.234)
 11月、幕府はプロシアとの条約締結を奏上したが、孝明天皇は激怒し、和宮降嫁を許した朝廷側にしこりを残した。『幕末暦』。  1860年、幕府は「桜田門外の変」で失墜した権威を取り戻すため、公武合体により尊王攘夷派の攻撃をかわそうとした『幕末暦』。幕府は朝廷に孝明天皇の妹、和宮の降嫁を奏請し、公武合体を図ろうとした。8月、もと水戸藩主徳川斉昭が死去。晩年、直弼に蟄居させられたが、逆に水戸藩士が直弼を暗殺した。幕府は蟄居を取り消した翌日に死亡を公表した。『幕末暦』。
9月、オールコックが英仏連合軍が北京を攻略したという情報を伝える。
 
  1861年に、長州藩は一時的に開国論・公武合体論となる。

1862年には、長州藩は松下村塾、高杉ら尊王攘夷派に支配され、藩として二面外交になった。

土佐藩の上層部は保守・佐幕派、坂本竜馬・中岡慎太郎ら尊王攘夷派が「土佐勤王党」立ち上げ。

薩摩藩の島津久光は雄藩重視だが倒幕派ではなかった。

尊王攘夷派だった坂本龍馬が勝海舟の「開国海防論」に共鳴する。..
 
   1861年、幕府は外国公使館を品川御殿山に造営することを決める。開国路線は進み条約破棄や異人排斥という攘夷は不可能になってきていた。
1861年12月、開市開港の延期交渉のために幕府の遣欧使節がイギリス艦で出発、福沢諭吉もいた。『幕末暦』
 1861年、●長州藩で
長井雅楽が建白した『航海遠略策』(条約破棄や異人排斥という攘夷は非現実的だから、公武合体を進め開国し将来の攘夷を図る)が藩の政策になる。しかしこれに不満だったのが、尊王攘夷をめざす勢力で、松下村塾の高杉晋作らだった。
長井は長州藩の『航海遠略策』を朝廷と幕府に提案し双方から好評を受ける。『幕末暦』
1861年、土佐藩の武市半平太が江戸で尊王攘夷派集団「土佐勤王党」を立ち上げた。坂本竜馬、中岡慎太郎なども参加。『幕末暦』
4月、孝明天皇が「幕府は10年後に攘夷すると約束したが、実行しなければ、天皇が公家・大名を率いて親征を行い破約攘夷する」と言明した。天皇は安政の大獄で処分された人を復帰させるように命じたので、幕府は慶喜を将軍後見職に復させた。朝廷では尊王攘夷派の公卿が勢力を持ち始め、公武合体派の公卿が失脚する『幕末暦』。

久光の意見を入れて朝廷は、慶喜が将軍を補佐し松平慶永が大老となるように要請した幕政改革の勅書を提出するために江戸へ行かせた(小西p.282)。
慶喜ははじめ開国派だったが孝明天皇が攘夷だったので攘夷論になる(尊王の水戸の育ちだから)が、天皇が崩御すると、開国論に戻った。
1862年1月、老中安藤信正が尊王攘夷派志士により襲われ負傷「坂下門外の変」。討幕の考えはなく、あくまで幕政を改革し、天皇・朝廷の意志を奉じて攘夷を実行すべしという主張であった(小西p.243)。
2月、江戸城で皇女和宮と将軍家茂の婚儀。慶喜が江戸城に登城し将軍家茂に拝謁。
7月、慶喜が大老格の将軍後見職に、松平春獄が政治総裁職に就任。
12月、海軍総裁・陸軍総裁を設置。
1862年1月、龍馬始め薩長土の三藩の会合。土佐では過激派に対して、保守佐幕派が優勢だった。3月、「土佐勤王党」は佐幕派の中心吉田東洋を暗殺。しかし土佐藩江戸藩邸では佐幕的な前藩主山内容堂がいた。
3月、薩摩の「国父」島津久光が兵を率いて上洛し、4月に幕政改革を朝廷に建議。倒幕の意図はなく公武合体、薩摩など雄藩の政治関与促進などを望んだ。しかし尊攘派志士の中にはこれに呼応して佐幕派の公卿の暗殺や放火などで混乱をおこし倒幕を画策するものもいた。久光は自分が倒幕の首謀者と誤解されるのを恐れ「寺田屋」で薩摩の過激な尊攘の志士を暗殺。
4月、●長州高杉晋作が
上海へ出航し「太平天国の乱」をみる。「清」を守るために戦っているのは清国軍ではなく欧米の軍隊であったので、欧米列強の動きに触れた(『幕末暦』p.107)
5月、長井雅楽が外遊中に、長州藩は尊王攘夷派の急先鋒となる。6月、久光は江戸で幕政改革の勅書を幕府に提出。
7月、●長州藩主毛利が
天皇の「破約攘夷」を実現するために攘夷を藩論とすることを表明。久光が京都を離れると過激な尊王攘夷派が安政の大獄で活躍したものや公武合体派を「天誅」と称して暗殺『幕末暦』。薩摩藩士らが、安政の大獄で活躍した九条家家士を暗殺(小西p.284)。

12月、江戸で、老中の命で天皇の退位「廃帝」について調査したとされる塙次郎が暗殺された(小西p.286)。
岩倉は和宮降嫁に賛成したり老中と親しくしたので「佐幕派」ともられ尊王攘夷派から非難され、天皇まで佐幕派と疑われ、岩倉は辞官、出家を命じられる。さらに洛中から追放を命じられ岩倉村に5年間、蟄居する。(ウィキペディア) 「清」の「洋務運動」後の正規軍は「八旗」と「緑営」であった。「八旗」は満州族の世襲軍で平時は行政単位で戦時のみ軍隊編成の単位であり、武力をもって漢民族を支配する地位にあった。「緑営」は漢人のみで編成し、各省に駐屯させて治安の維持に当たらせていたもの。これらは清朝建国当時そのままを受け継ぎ創設以来約200年以上経ており弓と太刀の技術によって将校を採用していた。軍制は乱れ腐敗堕落しており、「阿片戦争」や「太平天国の乱」では軍隊として機能しなかった。清国軍の実戦力となったのは「勇軍」と「練軍」である。「勇軍」は阿片戦争の時に応急的に編成した私兵集団で傭兵的な色彩を持っていた。「練軍」は「八旗」から選抜されたもので外国人将校の訓練を受けた新式軍隊である。その多くは編成・装備・訓練も統一されていない雑多な軍隊であった。http://holywar1941.web.fc2.com/kindai-nissin2.html 1862年、「清国」に洋務運動という改革運動が起こる。第一段階は太平天国を鎮圧すること。大量の銃砲や軍艦を輸入し、ヨーロッパの近代軍備を自前で整備するために、武器製造廠や造船廠を各地に設置した。陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが新設された。これらの改革は、時期の早さでも規模の大きさでも日本の明治維新にまさっていた。しかし洋務運動は「清朝」を頂点とした政治体制をそのまま維持しようとした。明治維新は西欧の立憲君主制をめざしていたところが違う。(ウィキペディア)
1862年9月、薩長土藩主の名で、勅使を江戸へやり攘夷の勅命を伝えてもらいたいという建議がされた。薩摩藩主は急進派が名をかたったもの(小西p.289)。

1862年11月、薩長土佐の藩主の奏上を受けて、京から「攘夷の実行」督促の勅使を江戸へ送る。
1862年8月、天誅事件などに対応するため「京都守護職」を設置し会津藩主松平容堂が就任。参勤交代を3年に一度とする。攘夷の勅旨に従うとの決定。将軍家茂が上洛し攘夷を説明することになり、警護役を募集し、近藤勇、土方歳三、沖田総司らが来る。慶喜は攘夷に猛反対して開国論。

12月、家茂は天皇の譲位の意志を奉承したという答書を提出し、その方法を説明するために家茂は2月に、一橋慶喜、勝海舟、坂本竜馬らがいた京へゆく『幕末暦』。
12月、幕府が陸軍総裁・海軍総裁を設置する。
1862年8月、●久光が
江戸からの帰途、「生麦村」で英国人4人を死傷させた。8月、尊王攘夷派による暗殺が頻発。

12月9日、●龍馬が
尊王攘夷の立場で勝海舟に会うが、勝の開国論海防論に感動し信奉することになる。
12月、高杉晋作ら長州藩の尊王攘夷派は品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ち『幕末暦』。薩摩藩は英国から犯人処罰と賠償金を要求されたが断る。
★1863年、長州藩は外国船砲撃して攘夷派だが、伊藤博文、井上馨を英国へ留学させ先進国と交流、という二面外交。

薩摩が英国と交戦し破れ、英国と友好関係を作り、武器輸入し軍備増強を図る。

幕府は長州戦で傷んだ米仏軍艦を江戸で修理するが、坂本龍馬は幕府が外国に密通していると非難する。

朝廷では攘夷派公卿と公武合体派公卿が対立する。..
  1863年1月、土佐勤王党による天誅事件が続発。3月、将軍家茂が上洛。4月、攘夷決行を迫られた家茂と後見職慶喜は攘夷決行を5月と約束するが、その場逃れだった『幕末暦』。
1863年5月、幕府は英国に生麦事件の賠償金を支払った。幕府が英仏両国の守備隊の横浜駐留を許す。
1863年2月、長州で長井雅楽が切腹。2月、将軍警護のための浪士組が京に入るが、発案者の清河八郎が「本来の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷である」と演説、浪士の血判状をもって朝廷へ走った。近藤や芹沢らは清河と別れて京で警護に当たることにする。
●将軍上洛に合わせ公武合体派の久光も上洛したが自分の意見が通りそうもないので帰国。政事総裁職松平慶永は無断で福井へ帰国、山内豊信は土佐へ、伊達宗城(むねなり)は宇和島へ帰国。雄藩としては尊皇攘夷派の長州藩だけが京にいることになり人気は上昇した(小西p.298)。
5月、●長州藩が
攘夷を決行。関門海峡を通過する米国船を砲撃。そのとき、長州藩の伊藤俊輔(博文)、志道聞多(のちの井上馨)らが横浜から英国留学に旅立った。5月、長州藩はフランス軍艦、オランダ軍艦を砲撃し攘夷を実行。
    6月、米国軍艦、フランス軍艦が下関で報復の砲撃。傷ついた外国船は江戸で修理され再び長州で砲撃した。幕府と外国が密通していたので、これに坂本龍馬が怒り、姉の乙女宛の手紙で「日本を今一度せんたくいたし申し候」と書いた。
●長州藩主は
高杉晋作に下関防衛を任せ、晋作により「奇兵隊」ができた。
7月、薩英戦争。
大久保利通らが交渉役となり講和する。薩摩は英国と親密となり軍備の近代化に努める『幕末暦』
薩摩は外国船攻撃や異人斬りなどの「小攘夷」をすてて、富国強兵を行い、外国の長所を取りいれ、武力を強化し万国に対峙する「大攘夷」へ進むべきと悟る(小西p.316)。
1863年、過激な尊王攘夷派に孝明天皇は嫌気がさした。
8月、孝明天皇から「攘夷親征の詔勅」を出し、尊王攘夷派の公卿を排除する勅命が出された。それが天皇の真意ではないと見破った公武合体派公卿がクーデター「8月18日の政変」、攘夷派公卿の三条実美は長州へ逃れる。

孝明天皇は急進尊攘派が一掃されたことに満足した(小西p.339)。
政変後、12月末、慶喜、春嶽、松平容保、伊達、山内で「参与会議」発足。●慶喜が久光を「天下の奸物」と罵倒し会議を潰した(八幡p.235)。島津久光は無位無冠だったので叙任が行われ後から「参与」に就任(小西p.355)。
  1863年、
●薩摩藩は
長州藩の過激な尊皇攘夷派に警戒していて会津藩と同盟を組む。『幕末暦』
●薩摩藩は長州藩の過激な尊皇攘夷派に警戒していて会津藩と同盟を組む。『幕末暦』
7月、●長州藩では、外国艦隊来襲の時には長脇差しを一般民衆に許可した。高杉らが人民に頼るほかはないことを認めたから。人民も防衛のために協力(小西p.319)。
8月、尊皇攘夷派が「天誅組」が大和で挙兵したが、翌日、会津と薩摩の藩士が朝廷の各門を封鎖し尊王攘夷派の公卿を閉め出した。

●「8月18日の政変」クーデター。
公武合体派の公卿が朝議を行い尊王攘夷派公卿の参内禁止、長州藩の御所警護役の解任などが決められる。
尊王攘夷派は勢力を失うことになった『幕末暦』。当時は尊攘派が天誅で猛威をふるい京都を制圧しているように見えた。6月7日、●尊攘親征論者の真木和泉が入京し長州などの尊攘派に尊攘親征決行を説いた。7月には長州藩重臣が討幕につなげる尊攘親征を説いたが公武合体派の公家も親征には反対だった。孝明天皇も体制変革は考えず攘夷は幕府中心にやるという考え。尊攘派は攘夷さえ起こせば徳川支配を廃止し天皇中心の政治につなげられると考えていた。しかし薩摩は長州が尊攘派の中核になることを嫌っていた(小西pp.329-334)。
12月、朝義参与会議が成立(慶喜、春嶽、宇和島藩伊達、土佐藩山内、島津久光、京都守護職松平容保が京で集まる。幕府から独立した朝廷内部の会議)。尊王攘夷派が一掃された後の政権を担うものとして、朝廷は幕府と雄藩の代表による「参与会議」という公武合体政権を画策した『幕末暦』。   尊攘運動がもっとも高まった文久3年(1863)の尊王攘夷の志士は、隆盛37歳、大久保利通34歳、木戸孝允31歳、久坂玄瑞(げんずい)24歳、高杉25歳、伊藤博文23歳、平野国臣36歳、中岡慎太郎26歳であった。多くの藩士は脱藩して表面は浪士として活動に参加した(小西p.254、256)。
倒幕派の長州軍が上洛し幕府軍と戦う。「禁門の変」「蛤御門の変」で長州は敗退。

長州軍代理の中岡慎太郎が幕府軍参謀西郷吉之助と停戦会談し感銘を受ける(のちの薩長連合の伏線)。

(★1864年の段階では、水戸と長州の過激な尊王攘夷派が消滅)..
1864年1月、将軍家茂が入京して国防を充実してそのあとに攘夷を行え、という勅諭を与えられる。4月、庶政は幕府に委ねると沙汰されたが、但し書きで「国家の大政大議は、奏聞をとぐべきこと」とあった(小西p.356)。
1月、公武合体派と雄藩主導者が期待した参与会議で、孝明天皇の横浜港閉鎖の希望をめぐり紛糾、春嶽、伊達、久光は開国論に立つ。慶喜は閉鎖攘夷を主張。天意に従わないのは不忠の臣といった。3月、参与会議は解体。
幕府が雄藩、特に薩摩の政治参加を快く思っていなかったので、薩摩と逆を主張したという見方もある。

7月、朝廷から長州追討勅令。第一次長州征伐(出兵を西国に命令)。
1864年、慶喜は京に残って尊王攘夷派の公家や志士を取り締まる。水戸の尊王攘夷派天狗党が慶喜を頼って上洛しようとしたが途中で慶喜に捕まり処罰された。5月、幕府は神戸海軍操練所設立、頭取は軍幹部行勝海舟。長州の尊王攘夷派はさらに過激な計画を立てたが新撰組が襲撃「池田屋事件」『幕末暦』。
4カ国公使が幕府に下関事件の賠償金を要求。
3月、フランス公使ロッシュが来日し幕府との関係強化。イギリスは反幕府の薩摩と関係強化。『幕末暦』
7月、佐久間象山は幕府に招かれて上洛し慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、京で尊王攘夷派に暗殺された。

長州藩が兵を率いて上洛するという計画を知り、慶喜は薩摩、会津、桑名に出兵を指示。7月18日、朝廷から発せられた退去命令を拒否し戦闘が始まり、●「禁門の変」「蛤御門の変」で長州は敗退『幕末暦』。7月、朝廷から長州追討勅令。第一次長州征伐(出兵を西国に命令)。薩摩はこれに乗じて勢力を伸ばそうと積極的に臨んだ。

1864年、●象山は
一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。尊皇攘夷派の熊本藩士河上彦斎らに暗殺された。(佐幕派だった熊本藩は維新後に河上を利用して維新の波に乗ろうとしたが強力を断られた。(ウィキペディア)http://honmoku.search-japan.com/article/41228743.html

1964年3月、西郷吉之助、佐久間象山は許され京へ集まる。
●薩摩が
佐幕・攘夷派双方から非難され世評も悪かった。攘夷派は薩摩が 攘夷と唱えながら外夷と通商することを怒った。南北戦争(1861-1865年)により欧州の綿・茶が不足となり日本からの輸出が激増し値段は高騰したので、薩摩藩の外夷との通商が物価高騰の原因であるとする風評ができた。
西郷は
藩の行動原則を朝旨を守ることと単純化し難局を乗り越えようとした。
長州藩高杉晋作は
藩により投獄される。この後の長州受難期に生きながらえた。

水戸藩の過激尊王攘夷派「天狗党」が幕府に横浜閉港を求めて筑波山で挙兵。中心は藤田東湖の四男『幕末暦』。1864年3月、水戸藩で尊攘過激派の「天狗党の乱」。
5月●英米仏和4カ国艦隊が下関攻撃、長州は負けた。「小攘夷」が無謀なことを理解し開明派は「小攘夷」を捨てた(小西p.327)。
6月の「池田屋事件」が長州藩過激派を刺激し、長州軍が上洛して御所を襲撃「禁門の変」。三万戸近い民家が炎上、長州軍は壊滅。
●第一次長州征伐。
4カ国艦隊が下関攻撃。この戦いで山県狂介(のち有朋)は武士ではない民間人の奇兵隊が予想以上に強かったので維新後の徴兵制採用に向かわせた『幕末暦』。長州藩が4カ国艦隊と講和を結ぶ。
3月、幕府代表慶喜、会津の松平容保、その実弟で桑名の松平定敬で佐幕派の「一会桑(いちかいそう)政権」誕生。『幕末暦』7月、禁門の変で攘夷強行論者が一掃され、岩倉のえん罪がはれたが、岩倉村にとどまる。朝廷の同士や薩摩と連絡を取り合い、●岩倉は公武合体派から倒幕派に変更した(ウィキペディア)。 8月、四カ国連合艦隊が下関の砲撃。
10月、神戸の海軍操練所に尊王攘夷派が紛れていることが分かり、勝海舟は軍艦奉行を罷免、操練所封鎖。勝は江戸へ、龍馬は京に、と別れる。11月、長州は徹底謝罪恭順を示した。
●幕府軍参謀の西郷は、
勝海舟の「国内の争いよりも富国強兵をめざし雄藩連合を実現すべき」という意見に感動し、長州との平和的解決を望んだ。『幕末暦』。
12月、長州征伐総督の徳川慶勝は西郷の意見を容れて、撤兵した『幕末暦』。
6月、留学から帰朝した伊藤俊輔、井上多聞は攘夷が不可能なことを長州藩に訴えたが容れられなかった『幕末暦』。
11月、長州藩が三家老を自刃させて幕府へ恭順謝罪。
12月、征討軍西郷と長州側代理の元土佐の中岡慎太郎が会談。
●中岡は
西郷に感銘を受け、のちに中岡が薩長連合を志向するきっかけとなった。
12月、長州の高杉晋作、伊藤俊輔が挙兵し征討軍に攻撃を加えた。『幕末暦』
長州では高杉晋作軍が藩の正規軍に勝利し、長州藩が倒幕派に転換する。

坂本龍馬は倒幕派の雄藩の薩長の連合を画策する。

土佐は保守・佐幕の山内容堂が支配していた。

(1865年の段階では過激な尊王攘夷派は長州のみ、焦点は討幕のための権力闘争。)..
1865年、「公武合体派」だった岩倉が薩摩の動向に呼応して「倒幕派」に変更した。9月、朝廷が幕府に長州征伐の勅許を出す。 1865年2月、酒井忠績(ただしげ)が最後の老中に就任。尊王攘夷派の急先鋒の長州藩、水戸天狗党を征討した幕府は再び幕藩体制の強化に向かう『幕末暦』。幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、参勤交代の復活しようとしたが、それを拒否する勅書が出され、逆に至急将軍の入洛の命が下された。これは幕府権力の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。第二次長州征伐の準備。江戸、大阪などの豪農商に長州征伐費用の献金を求める。幕府の命令で砲撃したと言うことで幕府が下関賠償金を支払う。
9月、米英仏和の公使が軍艦で大坂湾に来て、将軍が上洛中に、安政の通商条約の勅許と兵庫開港を要求。威圧された幕閣は勅許を得ずに兵庫開港を決定。慶喜は勅許が必要であるとして朝廷に働きかけ、二人の老中を謹慎させた。将軍家茂は不満で朝廷に辞表提出した。兵庫開港を許さないように薩摩が工作した『幕末暦』。
9月、幕府は横須賀製鉄所の起工式を行う。資金、技術はフランスからの援助。
1865年1月、●長州藩
正規軍(俗論派・佐幕派)と●高杉晋作・山県狂介軍(正義派・攘夷派・●討幕派)が戦闘し、高杉軍が勝利する。長州藩論は倒幕論に転換する。
桂小五郎が潜伏から戻る。
4月、龍馬は薩摩へ行き、海軍操練所の仲間とともに薩摩藩と「亀山社中」をとりきめた(薩摩から船を借りて海運業を行うとともに、倒幕戦争が起こったら海軍となって戦う)。

●竜馬は
倒幕に向けて、強力な二大雄藩の薩摩と長州が同盟することを画策していた。5月太宰府で尊王攘夷派の公卿三条実美ら5卿と会う(8.18の政変で都落ちしていた)。5月6日、龍馬は下関で藩の主導権を持っていた桂小五郎と会う。同日、中岡慎太郎は西郷に薩長同盟の必要を説いた。このころ、土佐では保守、佐幕の前藩主山内容堂が尊王攘夷派の土佐勤王党を捕縛し、武市半平太を切腹させた。
  1865年9月英仏和の連合艦隊が兵庫沖に現れ幕府に、兵庫港開港と条約の勅許を要求した。10月、朝廷は一旦は拒否。●将軍辞職のほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府と慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許、兵庫開港は不許可という勅書を下した。条約勅許は安政以来の幕府の念願の実現であり、●「国是の変更」となった。

11月、●幕府が
三十数藩に第二次長州征伐を命じた。しかし、
事実上幕府軍の全面敗北に終わる。戦いの長期化に備えて各藩が兵糧米を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆打ちこわしが起こる原因となった(世直し一揆)。●第二次征討の失敗によって幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた。そのため、この敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けたとする資料も見られる。ウィキペディア
1865年5月、西郷は幕府の長州征伐出兵命令を拒否するように藩論をまとめた。将軍上洛により再び長州征討が起こらないよう、勅許をおろさせない工作のため西郷は京へ行く。
●桂は
長州の軍備増強のため、薩摩藩名義で武器、艦船を購入してくれるのであれば「薩長同盟」締結に取り組むと言った(p.165)。亀山社中が仲立ちとなる。
6月、龍馬と中岡が京で西郷と会談、西郷は武器購入を快諾。9月、龍馬は長州へ行き、薩摩の兵糧米を長州から調達するように取り持つ。『幕末暦』
開国派の慶喜が将軍となる。

龍馬・慎太郎の仲介で西郷の薩摩と長州の桂が尊王討幕の「薩長同盟」を作る(攘夷は棚上げ)。

長州は薩摩の仲介で外国から密かに武器を購入していた。

土佐は公武合体派が主力だったが慎太郎の仲介で西郷と接触し始める。..
 1866年、天皇は長州征伐続行論だったが、岩倉は薩摩と同様に長征軍の解兵と和解を主張し、朝廷の執政を正すために列参を画策する。9月、幕府と長州が休戦協定で戦は終了。
●12月孝明天皇崩御。天皇は攘夷思想だったが反幕府ではなく公武合体派だった。幕府権力の強化に取り組む矢先だったので慶喜にとっては最大の後ろ盾を失った。孝明天皇は攘夷だったが一貫して幕府びいきで大所では幕府に任せてくれていたので、慶喜にとって、その死は痛手だった(p.204)。
 1866(慶応2)年1月、「薩長同盟」を知らなかった幕府は長州の再処分の勅許を得た。5月、松平春嶽の工作などで勝海舟が軍艦奉行に復職。「薩長同盟」うみの親の龍馬と幕臣の勝海舟は長州征討で対峙する立場になる。6月、長州攻撃開始。洋式武器や西洋式の精鋭部隊の長州が優勢。
7月、将軍家茂が死去。
8月、慶喜は長州征伐中止の勅許を要請、休戦(この休戦に松平容保は強く抗議し、これ以降、会津は幕府のためでなく自分の名誉と藩のために戦った。忠義ではなかった)。結果的に幕府が一つの藩に敗れたという失態。
6月、ベルギーと修好通商条約、7月、イタリアと修好通商条約締結。フランスとの間で600万ドルの借款契約を結ぶ。9月、幕府と長州の講和が結ばれ停戦が実現した。慶喜は大坂城にいた勝海舟に長州との停戦交渉を指示しながら、一方で慶喜は朝廷に停戦の勅許を出すように働きかけていたので、勝は怒って江戸へ帰ってしまった。
12月、●将軍慶喜が誕生。
デンマークと修好通商条約締結。『幕末暦』
 1866(慶応2)年1月、●討幕のため坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で●「薩長同盟」成立
(幕府と長州が戦になったら、薩摩が長州を援助する約束。京大坂で幕府軍に圧力を加える、長州の政治的復権の朝廷工作を行う、一橋・会津・桑名政権が朝廷を牛耳り薩摩側の要求を拒むなら薩摩が軍事討幕に立ち上がる)。(二、三年前から輸出のために物価が上昇し庶民の生活が苦しくなったから、という理由づけもある。NHK Eテレ)。
長州藩は米英仏和の中立宣言と密輸禁止申し合わせで武器が調達できなかったが、「薩長同盟」で薩摩藩名義で武器、艦船を購入していた。
土佐藩は
公武合体派が主流だったが倒幕の可能性を認め倒幕派の藩士とも連絡を取り始めた。10月、中岡慎太郎の仲介で土佐藩と薩摩藩西郷が会談した。『幕末暦』
   幕府内で、大久保忠寛から将軍後見職時代の慶喜に「政権返上し一大名に戻るべき」という大政奉還の提案がされたことがあった。そのあと、松平春嶽からも同じ提案があった(p.207)。
1866(慶応2)年、慶喜は将軍職を廃止し大統領や首相の職にしたかったらしいが、孝明天皇の命で将軍に就任し、施政方針を出したが「攘夷」の言葉は全くなく、外交を重んじ経済基盤の整備をうたった。
 当時の政局の三つの勢力(1)慶喜の元で改革を進める幕府、(2)朝廷と融和を図り幕藩体制を再強化しようとする公武合体派、(3)幕府を武力で倒し雄藩合議で国政を進めたい武力倒幕派。
   西郷は、薩摩・土佐・徳川が朝廷のもとで協力する雄藩合議政体を画策する。

公武合体論の公家岩倉具視が復権したが倒幕派となり、雄藩と協力し朝廷中心の政権を確立しようと考える。

土佐の乾退助(のちの板垣)、中岡、西郷が会談し、薩摩・土佐有志の連携を約束した「薩土密約」。

薩摩の大久保や西郷は公武合体論を捨てて武力倒幕論に。長州の桂も武力討幕論になる。

龍馬の「船中八策」(慶喜が自発的に「大政奉還」、雄藩合議の新体制、徳川征伐しない)は、武力倒幕論の薩長にとって邪魔になった。..
 
 1867年1月、満14歳の睦仁親王が即位、のちの明治天皇。

3月、岩倉具視が復権し京へ来るが、以前の公武合体論から雄藩と協力して倒幕し朝廷中心の政権を確立しようと考えるようになった。
 1867年4月、将軍慶喜は兵庫開港を主張し、島津久光は長州征伐の誤りを認めることを主張し、意見が合わず久光は帰国し、●慶喜と薩摩藩主の後見の久光の個人的関係が修復不可能になり、久光は武力討幕路線となる。藩内には討幕路線反対もあったが久光が抑え、戊辰戦争まで久光が西郷に指示を出した。(八幡p.236)

幕政改革として官僚制と常備軍の導入を行った。老中の合議制をやめて欧米の官僚制を取りいれた。慶喜は大統領のような位置づけでその下に首相格の「老中首座」、その下に大臣格の「海軍総裁」「陸軍総裁」「国内事務総裁」「会計総裁」「外国事務総裁」、それぞれの下に次官格の「海軍奉行」「陸軍奉行」「勘定奉行」「外国総奉行」を想定したらしい(p.204)。軍制改革では歩兵・騎兵・砲兵の軍隊組織にし、三兵の伝習にフランスの軍事教官。士官学校創設。英国人の海軍伝習。
旗本が個別的に軍役に付いていたのを改め、常備軍を編成するため旗本から金を納めさせ兵を養うことにした。提案者の小栗忠順が旗本の反感を買う(小西p.482)。
慶喜は新税導入や金融統制機関設置など経済改革をしようとした。
1867年3月、4年半のオランダ留学を終えた榎本武揚がオランダ製の「開陽丸」に乗って帰国し、幕府の海軍力は諸藩を圧倒する。


●長州の桂小五郎は
「幕府は衰運どころか再勃興」と警戒した。その結果、桂は武力による倒幕へ向かうことになった。
 1867年、土佐藩後藤象二郎と坂本龍馬が会談(後藤からみれば坂本は師の吉田東洋を暗殺した尊王攘夷派土佐勤王党一派、坂本から見れば後藤は尊王攘夷派志士を処罰した張本人だから、互いに反発すべき関係。しかし、薩摩・長州が一目置く坂本だし、坂本は経営危機の亀山社中に出資してくれそう、と互いにメリットがあると見て密接な関係を持つことになった。p.186)。
2月、西郷は、薩摩・土佐・慶喜が朝廷のもとで政局を運営する雄藩による合議政体を画策していた。
3月、岩倉具視が復権し京へ来るが、以前の公武合体論から雄藩と協力して倒幕し朝廷中心の政権を確立しようと考えるようになった。4月、倒幕論に変わっていた高杉晋作が死去。土佐後藤象二郎は龍馬の脱藩罪を赦免し、亀山社中を支援し「海援隊」と改名させた。この海援隊が土佐の岩崎弥太郎の「土佐商会」の援助を受ける。『幕末暦』。
 「四侯会議」は兵庫開港に反対する薩摩支持勢力と、賛成する慶喜支持勢力が激しく対立。公家も二分した。慶喜が有力公家の支持を得て朝議を掌握した。孝明天皇の死で慶喜は援護者をなくしていたが、逆に天皇がいなくなったので兵庫開港の勅許が実現したといえる。●しかし、薩摩は朝議によって抵抗する戦略だったが、それもたたれ、追い詰められた(井上p.333)。   1867年5月、徳川慶喜は、兵庫開港の勅許を得ることに成功。   5月、二条城で島津久光・山内容堂・松平春獄・伊達宗城(むねなり)の「四侯会議」、対立し閉幕。公武合体、雄藩合議制による政治改革をめざした薩摩はこの結果を見て、薩摩の大久保や西郷は公武合体の限界を悟り、武力倒幕の意思を固めた。
6月、京へ向かう船中で坂本と後藤が相談。関ヶ原以前から独立国的だった薩摩、関ヶ原で所領を減らされ反幕府的長州に対して、土佐山内家上層部は関ヶ原で所領をたまわって保守的・佐幕的だった。土佐の存在を示す方策を考えた。

●龍馬は
土佐の後藤に「大政奉還」案を提示(武力倒幕の口実をなくし徳川は大大名として存続させる)。竜馬の●「船中八策」(政権を朝廷へ返上し、天皇のもとに雄藩諸侯会議(上院)と家柄によらず選んだ人材による下院を設け、憲法・法律制定、外交、軍備などを行う、海軍拡張、貿易に対応できる貨幣制度)『幕末暦』


(龍馬と言えば討幕につながる「薩長同盟」のために奔走したということが強調され、徳川存続の「大政奉還」のために働いたことは知らされないことが多いようである。薩長の維新政権には都合が悪いからか)
     
   ●1867年パリ万博に
前年フランス皇帝ナポレオン3世から幕府に出品要請と元首の招聘があった。慶喜の弟の徳川昭武(14歳)が日本国将軍代理として参加する。グラバーは薩摩藩がパリ万博に出られるよう手配をさせた。薩摩はフランス人のモンブラン伯爵を代理人として、幕府とは別に出展することになり、幕府は抗議した。結局「大君政府」と「薩摩太守の政府」がともに日の丸を掲げ、世界に日本には「大君政府」と「薩摩太守の政府」の2つの政府があることを印象づけ薩摩藩としては大成功であった。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/181071034.html
 ●グラバーは
英国人の武器商人で貿易業。「八月十八日の政変」後の政治的混乱に着目して薩長土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼らの留学の手引き。維新後、武器が売れず諸藩からの資金回収も滞り1870年、破産した。(ウィキペディア)。1865年に米国南北戦争が終わり不用となった小銃などが安く仕入れられ、これから内戦が始まろうという日本に売り込まれた(小西p.414)。
パリ万博後、薩摩の五代は紡績機械を購入し日本で最初の紡績工場を建設し、久光はグラバーにますます傾斜した。薩摩の久光は武力討幕の方針で、グラバー商会から大量の艦船や兵器を買い込んで莫大な債務をかかえた。グラバーは武力討幕を前提に薩摩、土佐ほかの西南各藩にも、武器、弾薬、艦船を売り込んで大儲けした。
●●討幕だった龍馬は、
「薩長同盟」の成立後は極力国内戦争を回避し、幕府に「大政奉還」を出させて平和裡に倒幕する方針に変更し、幕府とも接触。もし平和的な政権交代だと、(幕府から戦争の賠償金を得られず)西南各藩は破綻し、グラバー商会も貸し倒れの恐れ。この龍馬の行動が久光やグラバーにとっては邪魔であった。http://electronic-journal.seesaa.net/article/181071034.html
 薩摩藩・長州藩・安芸藩が武力討幕の「三藩盟約」を結ぶ。

薩摩は「薩土盟約」では大政奉還、裏で長州や倒幕派岩倉と組んで武力討幕という二面外交。

土佐藩は平和裏に政権委譲を図ろうとしたが、薩摩藩はあくまで武力倒幕をめざす。

慶喜は1867年に「大政奉還」。しかし朝廷からは「討幕の密勅」。

長州藩主が朝廷から赦免され、岩倉も参内が許されることになった。

1867年12月、岩倉と西郷、大久保らが徳川家打倒のためのクーデターを起こし
「王政復古の大号令」を発した(江戸幕府を廃し天皇中心の新政府を樹立した)。

薩長は「開国強兵」政策であり、もはや徳川と違いはなかったが、薩長が支配するために武力討幕論となる。  
     1867年6月、土佐の後藤と薩摩の西郷・大久保らが龍馬・中岡慎太郎立ち会いの下で会談し、●「薩土盟約」(王政復古と大政奉還をめざして両藩が活動する)。しかし思惑違いで短期間で破棄。薩長に後れを取っていた土佐では重臣の後藤象二郎が龍馬からこの案を聞き、これなら無血革命ができると喜び、一部修正して「新政府綱領八策」として、前土佐藩主山内容堂に示した。容堂は公武合体派だったがこれに賛同し、幕府と諸藩に工作を始めた。7月、慎太郎が尊王攘夷派志士を中心に「陸援隊」を組織。●9月、薩摩藩・長州藩・安芸藩が武力討幕の出兵協定として「三藩盟約」を結ぶ。薩摩は一方で「薩土盟約」で大政奉還を勧めながら裏で長州や倒幕派岩倉と組んで武力討幕の体制を整えていた。10月、山内容堂が「大政奉還建白書」を書き慶喜へ送られる。薩摩の大久保らは倒幕派の公卿に倒幕の密勅降下の工作をしていた。つまり、大政奉還と倒幕の二つの動きが進んでいた。p.202『幕末暦』

●6月、すでに朝廷での議論によって幕府に抵抗できなくなった薩摩の大久保は慶喜が朝廷を掌握し、逆をもって順を伐つと批判した。「薩長同盟」(1866)で想定した、幕府が朝廷を牛耳る事態なので、6月に長州と薩摩が武力討幕で合意した。「討幕派」の登場である(井上p.333,334)。
 平和裏に政権委譲を図ろうとした土佐藩とあくまで武力倒幕をめざす薩摩藩。p.204『幕末暦』

●13日、大久保、岩倉の工作が功を奏して、「討幕」と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷、小松(薩摩)、大久保、品川(長州)らは請書を出した。14日、長州藩主毛利親子にも「討幕の密勅」が下された。「倒幕の密勅」「朕、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し…」。
長州が朝敵から朝廷側になった。

15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。「討幕の密勅」は凍結された。
 1867年10月、「大政奉還」の建白が山内容堂の名前で慶喜に提案された。●慶喜は10月14日に「大政奉還」を朝廷に奏上し15日に勅許された。慶喜は、これなら徳川主体の政治が温存でき、倒幕派に武力行使の名目を与えないと考えた。

新政府の主な顔触れ()内の数字は大政奉還時の年令である。岩倉具視(43)西郷隆盛(41)大久保利通(38)木戸孝允(35)井上馨(33)松方正義(33)三条実美(31)大隅重信(30)山県有朋(30)後藤象二郎(30)伊藤博文(27)彼らは倒幕派だったから幕府に参画した経験はなかった。
 ●竜馬は
「大政奉還」の決定を聞き慶喜の英断に感激した。


1867年11月15日、
●龍馬は
中岡慎太郎とともに「近江屋」で暗殺された。討幕派を警戒していた京都見廻り組(旗本の子弟で組織していた)に襲撃された(小西p.528)。(それに龍馬の居場所を薩摩が教えたという説もある)。(井上には襲撃犯が誰だったかについての記述はない。p.338)
(見廻り組や新撰組ならば暗殺ではなく「御用改め」でいけるはずという意見、討幕派だった龍馬が大政奉還で徳川家の存続を図るように工作し始めたことを警戒した薩摩が殺したという説もある)(大政奉還で倒幕したそのあとは、もともと大政奉還派だった土佐藩が中心になることをおそれた薩摩藩が土佐の龍馬をあらかじめ殺してしまったという説)。(武器商人グラバーに武器購入代金をまだ支払っていない薩摩としては、幕府と戦争をやり勝利して幕府から賠償金をもらい、それでグラバーに支払うつもりだった。だからグラバーと薩摩は戦争が起こらないと、自分たちに損害が生じるという共通利害があった。そこで戦争の障害になりそうな龍馬を暗殺したという説)。(『幕末暦』には新撰組、武力倒幕派の薩摩の暗殺者、などが列挙されている。p.208)。
 1867年、朝廷は慶喜の辞職を認めず政務を委任した。現実的だが倒幕派は大不満だった。
10月21日朝廷は全国の大名に上洛を命ずる。12月、朝議により長州藩主毛利敬親父子が赦免され、「倒幕派」になっていた岩倉具視も赦免され参内が許可された。倒幕の伏線。『幕末暦』
 1867年10月24日慶喜は朝廷に将軍職の辞表を出した。  1867年12月9日、朝議のあと倒幕派の公家、薩摩、土佐、安芸、福井、尾張の代表が集まり、藩兵が御所の門を固めた。岩倉具視、西郷、大久保らが徳川家打倒のためのクーデターを起こし「王政復古の大号令」を発した(江戸幕府を廃し天皇中心の新政府を樹立。新政府は摂政、関白を廃し新たに総裁(有栖川宮)、議定(ぎじょう松平春嶽・山内容堂)、参与(岩倉・大久保ら)の三職で構成する)『幕末暦』。
 1867年12月9日、その夜の「小御所(こごしょ)会議」が開かれ山内、春獄、徳川慶勝など旧幕府の擁護勢力と岩倉・薩摩が強く対立。朝廷首脳や慶喜から実権を奪いたかった西郷や岩倉は徳川支持の土佐山内容堂を暗殺しても良いと考えていた。幕府擁護派が退出した後、慶喜の将軍職辞職・官位辞退、幕府領地の返上(辞官納地)が決まる。慶喜を排除した新政府構想が進むが、旧幕府、徳川を擁護する勢力も強く混沌としていた。『幕末暦』。  慶喜は、12月14~16日に、英米仏和伊プロシアの公使と会い、外交権は自分が担当すると伝えた。薩摩寄りの英国公使パークスも了承した。岩倉たちの新政府は脆弱で、外国は慶喜の方を信頼していたことになる。岩倉と薩摩は武力行使しか政権一新の手段はないと考えた。  「王政復古」
幕府方として朝廷と連携して公武合体をめざしてきた会津藩・桑名藩を追放して、慶喜主導の公武合体の新政府を阻止し、他方で王政に「復古」するといいながら摂政・関白以下の朝廷の機構を廃止し、その上で天皇親政・公議政治の名分の下、岩倉ら一部の倒幕派公家と五藩(尾張・土佐・薩摩・越前・安芸さらには長州藩)の有力者が主導する新政府の樹立を宣言したもの(ウィキペディア)。「王政復古の大号令」「近年物価は格別に騰貴するが如何ともなしがたい勢いなり、「富者」はますますその富をかさね、「貧者」はますます窘急(きんきゅう。いきづまる)に至る。」
「三職」大号令の後、幕府に代わるものとして、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2・公卿3・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5、議定5より各3名の計20名)の三職が任命された。
 薩摩は、戦争を仕掛ける口実を作るために、西郷隆盛の命令で、火付け、押し込み、辻斬り、江戸城放火などをした。

1868年1月、「鳥羽伏見の戦」で戊辰戦争を仕掛けた薩長軍が官軍、旧幕府軍が賊軍(朝敵)となる。

1868年9月、「明治維新」となる。..  
 1867年12月24日、朝議で慶喜のみの辞官納地には異議が出され、慶喜が新政府の議定に内定する。クーデターは幕府支持派の巻き返しで失敗しかけていた。『幕末暦』  12月25日、江戸警護の諸藩兵が薩摩屋敷を囲み下手人を出すよう迫ったが、薩摩はその使者を切った。そこで諸藩は薩摩屋敷を砲撃、全焼させた。  戦争を仕掛ける口実がない薩摩は、西郷隆盛の命令で、隠密を使って、薩摩を名乗り火付け、押し込み、辻斬り、江戸城放火(12月23日)などをして、徳川方を挑発した。ともかく武力で倒幕をするきっかけが欲しかった。
1868年1月3日、朝議で「慶喜の武装上洛を差し止める」決定がされる。4日、征夷大将軍に任じられた嘉彰(よしあき)親王が「錦の御旗」を掲げて出陣した。薩長軍が官軍となる。旧幕府軍は賊軍となる『幕末暦』。
●1月7日、慶喜追討令が出る。
1868年1月1日、慶喜は会津藩ら主戦論に押され「討薩の表」を発する。2日、会津、桑名の兵が大坂城から京の淀城に入る。慶喜は朝廷に薩摩の陰謀を訴えるために大坂城から京へ行く。薩長も兵を整える。『幕末暦』。慶喜は、鳥羽口で、新政府軍によって隊列が止められた。押し問答の時に銃が発せられ、戦闘となり、伏見口でも戦闘が始まった。「鳥羽伏見の戦」(戊辰戦争始まる)。1月6日、大坂城へ戻った慶喜は、その夜に会津藩主、桑名藩主、老中板倉などを連れて「開陽丸」で江戸へ帰ってしまった。これで戦争を終わらせた。この大坂城脱出は計画的だったという説もある。15日主戦派の小栗が罷免され17日に須坂藩主の堀が城内で切腹し、大勢は恭順論となり、江戸無血開城へとつながる。ほかの殿様は一人も殺されず維新後、みな華族となった。19日、慶喜は抗戦論を拒否し恭順の姿勢を示し、徳川家の存続を願った。1月、徳川慶喜は勝海舟を陸軍総裁に就任させる。
1月15日、国内の通告。諸条約継承の理由を「世態大ニ一変シ,大勢誠二不被為得已」と曖昧にした。
●5日、新政府軍が錦の御旗を掲げ、慶喜は「朝敵」となった。
それまで、この戦は「薩長による私闘」としていた土佐軍が新政府側に参加。「鳥羽、伏見の戦い」は新政府軍の勝利。
1月、新政府内は、慶喜を排除しろという薩摩と、列強の干渉を防ぐため慶喜を許し事態収拾を図るという公卿が対立。
旧幕府軍追討の先遣隊が「赤報隊」で、代表の相良総三は、行く先々で「年貢半減令」を出し農民を味方に付けた『幕末暦』。

●肥前(佐賀)藩の鍋島直正は、
鉄鋼、加工、大砲、蒸気機関、電信、天然痘根絶。日本最初の製鉄所。反射炉を稼動。1853年にオランダに軍艦を発注。慶応元年(1865年)には日本最初の実用蒸気船「凌風丸」を進水。慶応2年アームストロング砲を藩の洋式軍に配備。幕末期における最も近代化された藩の一つとなった。慶応2年から3年にかけて兵力の増強を図った。当時の日本の産業革命を推進し、肥前藩は日本有数の軍事力と技術力を誇った。(つづく)
1868年2月28日の詔「内ハ列藩万姓ヲ安撫シ外ハ国威ヲ海外二耀カサン事ヲ欲ス」「朕不得已断然親征ノ議ヲ決セリ」「万里ノ波濤ヲ凌ギ,身ヲ以テ銀苦二当リ,誓テ国威ヲ海外二振張シ」「汝列藩,朕ガ不逮ヲ佐ケ,同心協力,各其分ヲ尽シ,奮テ国家ノ為二努力セヨ」と主体的に開国する。 「詔」は、岩倉の指示で木戸,大久保,広沢らが天皇親征の「大号令」として起草した。個別的領有制の諸藩を中央政府に協力させるとともに,新政府の開国方針に疑惑をいだく攘夷論者を統合する目的。中央政権の安定をはかるとともに,中央集権制と個別的領有制との矛盾を緩和し,また,開国論と攘夷論の両者をともに満足させることを目的とした妥協論であった。(藤村道生「萬国対峙論の意義と限界」p.6) 肥前藩は、中央政局に対しては姿勢を明確にせず大政奉還、王政復古まで静観を続けた。藩主鍋島閑叟は1860年隠居後も海外に明るい名君として意見を求められることも多かった。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。
しかし1867年には新政府から任命されて戊辰戦争に参加するために東上し、上野戦争では山にこもった彰義隊を藩で量産したアームストロング砲で撃破した。会津でも若松城の会津武士をアームストロング砲で殲滅。卓抜した軍事力を発揮した。(肥前は長崎警備に当たっていたから軍備増強も海防のためという口実で行った)。
また、鍋島閑叟の母は島津斉昭の母と姉妹、姉は伊達宗城(むねなり)、最初の夫人は将軍家の姫、二度目の夫人は松平春嶽の姉だった。
こういうこともあり、1869年には薩長土肥による版籍奉還の建白を行うなどし、明治政府に多数の人物が登用された。明治維新を推進させた副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍した。(鍋島閑叟の孫は李王朝皇太子の李垠(いうん)の妻となり社会事業に携わる)。
1868年2月、新政府が「王政復古」と、幕府が締結した諸条約の遵守を各国に通告。

薩長は攘夷を棚上げしたから、徳川と違いはない。

薩長は、幕府軍殲滅によって、天皇親政のもと薩長が支配する新体制をめざす。

多くの藩は「徳川か薩長か」二者択一を迫られた。

薩長が「官軍」となったので、「武家」として尊王という大義で薩長についたと思われる。

勝と西郷の会談で徳川家の存続が認められる。..
2月3日、朝廷は「徳川慶喜親征の詔」を下す。
14日「5か条の誓文」を発布。
翌日「五ぼうの掲示」を高札の形式で発布(五倫を守れ、鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ム、徒党・強訴の禁止、キリスト教の禁止、外国人の殺傷の禁止、士民の本国脱走の禁止、「萬國ノ公法ヲ以條約御履行被爲在候…」、外国人を殺傷するな、萬民安堵ニ至リ諸民其所ヲ得候樣を心配している、本国を脱走して浮浪するな)『幕末暦』。
15日、有栖川宮親王が率いる官軍が江戸へ向け東海、中山、北陸を発進した。
1868年2月12日、慶喜は上の寛永寺に閉居し、恭順謝罪書を提出する。2月14日、東征大総督の参謀に西郷吉之助が就任。●新政府は旧幕府が締結した諸外国との条約の遵守を約束した(『幕末暦』p.227)。尊王攘夷だった人々に動揺を与えた『幕末暦』。2月、木戸孝允が「版籍奉還」を建議した。
3月6日、勝は幕臣山岡鉄舟を江戸から西郷のもとへ派遣する。9日、鉄舟は西郷と面談する。江戸総攻撃の前に西郷が勝と会談することを要望した。3月13、14日、高輪薩摩屋敷で勝と西郷が会談し講和がなされる(慶喜の隠居、謹慎、助命、徳川家の存続、江戸無血開城の諒解なる)。江戸城総攻撃が中止された。4月11日、討幕軍が江戸入城し、慶喜は水戸へ退去する。20日、長崎の各国領事がキリスト教徒の弾圧に抗議する。

薩摩藩の後ろ盾のイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたため、「江戸城明け渡し」は新政府の既定方針だった。(ウィキペディア)
篤姫は、「自分は徳川の人間だから」といって江戸城から避難しなかった。参謀隆盛に手紙を書き、かつて隆盛が養父斉彬のもとで将軍慶喜の実現に努力したこと、自分と隆盛は徳川家を存続させることが斉彬への孝行になること、などを訴えた。
新政府軍は財政逼迫で「年貢半減令」を撤回し、「赤報隊」は「にせ官軍」という布告を出した『幕末暦』。
1868年5月、奥羽越列藩同盟成立(仙台藩伊達氏が盟主)。
1868年「政体書」。「太政官」組織への権限の集中。徳川幕府直轄地の解体。藩は従来通り。

400万石だった徳川家を70万石とし、77万石の薩摩藩より小さくさせた。

首都建設のための資金不足、全国の行政のノウハウのある幕臣の協力、江戸の大名屋敷の活用などで、江戸に首都機能を移すことになったようである。..
  1868年5月、徳川家達(いえさと)を駿府70万石に封じる(徳川の天領400万石の半分は与えられると思われていたが、薩摩の77万石よりも少なかったp.244『幕末暦』)。のちに版籍奉還で静岡藩知事になる(6歳)。駿府の城下名が府中で「不忠」に通じるというので賤機山(しずはたやま)から静岡とした(p.253)。
1868年6月11日「政体書」発布。関東地方以西をほぼ掌握した新政府がそれまでの臨時政府的な「三職体制」に代えて新たな官制を定めたもの。太政官(「新政府」に設けられた官庁名)への権力集中。総裁(有栖川宮)、議定(皇族公卿藩主など10名)、参与(20名)の三職を任命。立法・行政・司法の機能。蓋を開けてみると主要官職を皇族と公家が独占、保守派の画策によって木戸孝允・大久保利通・板垣退助らは閑職の侍詔院学士に追いやられた。
「政体書」公布に伴い地方は府藩県の三治(府藩県三治制)。幕府直轄地を「府」「県」とし知府事、知県事を置いた。「藩」は従来どおり大名が支配した。
7月17日、江戸は東京と改称、9月8日、明治と改元し一世一元の制を定める、10月13日、明治天皇が東京へ行幸し江戸城へ入った。宮城となった。政府は正式には遷都を発表せず、天皇行幸のままである。京の人の反発を恐れた。(江戸には広々とした大名屋敷があり政府機関として活用できるので京よりは都合が良かったのであろう)。
討幕軍=新政府軍に逆らう藩は次々に撃破されていった。

当時の内閣は「太政官制内閣」で独立した機関ではなかった。太政大臣左大臣右大臣と参議で構成。三大臣は皇族・公家・華族が就任する前近代的身分制が残っていた。政策は参議が合議し三大臣を加えた閣議で決定した。政治の実権は参議にあった。(佐々木克『さかのぼり日本史 「官僚国家」への道』NHK出版p.23)

「木戸孝允」長州藩。右大臣岩倉からもその政治的識見の高さを買われ庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。明治元年以来、数々の開明的な建言と政策実行。五箇条の御誓文、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立など政府に実施させた。
  維新政府は、戊辰戦争の戦費を含め5129万両の財政支出を行なったが、その94%の4800万両が「太政官札」でまかなわれた。「太政官札」の構想は龍馬と三岡八郎(由利公正)がつくり、1868(慶応4(明治元年))2月から発行された。明治元年の物価水準は前年比で10%下落、その後、明治2年に若干の上昇、明治4年ごろは明治元年の物価水準とほぼ同じで、明治10年は明治元年よりも8%低く、慶応3年と比べ18%も下落。その後の西南戦争の戦費支出に起因する物価上昇は、明治11年ごろから生じた。「太政官札インフレ」などというものは無かった。明治初年のころには徳川幕府倒壊による先行き不安から経済活動の萎縮が生じデフレ・ギャップが巨大に発生していた。文明開化政策や軍備近代化の推進などによる有効需要支出の大幅な増大に対応して遊休生産能力が稼動し物資や商品の供給も順調に増え、物価は安定していた。丹羽春喜
http://homepage2.nifty.com/niwaharuki/ronbun/Meiziisin-seihusiheide-seikou-.htm
新政府の財源は、旧幕府領、佐幕諸藩の領地を没収したり削減したものをあてても全国3千万石のうち800万余だった。御用金・献金で会計基金300万両を募集し、さらに太政官札を発行した(明治1)。太政官札の発行は明治2年5月現在4,800万両に達し、通貨の大混乱を引き起こし、外国貿易をも混乱に陥れた。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/ueda/u4.htm
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  8月19日、旧幕府海軍副総裁榎本武揚、艦船8隻を率い品川を脱走(仏国士官5人参加)。8月23日、白虎隊20名が飯盛山で自害。9月22日、鶴が城に籠城して徹底抗戦した会津藩主松平容保が新政府軍に降伏。
11月2日、海軍局設置。12月11日、対馬藩家老が新政府成立の通告のために朝鮮に行くが、朝鮮は受理せず。(理由は、国書に「皇上」「奉勅」の文字が使われていたから。朝鮮では「皇」は中国皇帝、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下であり、このような傲慢かつ無礼な国書を受け取ることはできない、というのが、朝鮮の考え)

12月17日、皇居大広間にて戊辰戦争の処分発表。長州木戸孝允の意見に従って、天皇の慈悲が強調され外患厳しい折国内融和を図るため取り潰しは2藩のみという寛大な処分。長州のおかげ。
「郡県制」
西洋の歴史を知らなくても中国の歴史に精通していた知識人は、周時代の「封建制」(功績に応じた規模で国土を世襲の支配者に分け与える制度)に代わるべきものとして、秦の始皇帝が作った「郡県制」(全国をほぼ同じサイズの地域にわけ、中央政府が地域の統治者を任期制で任命する制度。はじめ直轄地を県、辺境を郡としたらしい)がベストな選択であることは知っていたはず。当時もっとも参考にすべきと考えられたのはフランスの地方制度だが、これもナポレオン時代にイエズス会の宣教師が紹介した古代中国のシステムを模倣したものだった(八幡、p.340)。
西洋の議会制度を取り入れ国家の改革を行う提言を「公議政体論」という。幕府関係者と雄藩主導派との二通りがあった。

諸藩に対して新政府の命令は強制力のない「太政官達」だった。そこで1869年「版籍奉還」をさせ、新政府による藩統制の法的根拠を形成する。

1869年、「公議所」を開所。各藩より1名などが代表として送られ審議を行った。知県事を県令とし、参事を府県に置く。..
  「版籍奉還」(もともと各藩の領地は将軍家から与えられたものだから新政府の統治の正統性はあやふやだった。八幡p.342)当時藩に対する新政府の権力は脆弱で諸藩への命令も強制力のない「太政官達」だった。そこで「版籍奉還」により藩統制に強力な法的根拠を持たせた。だが「藩」も国の行政区画となり、藩主が非世襲の知藩事に変わり(実際には世襲の後継者もいた)、陪臣の藩士も知藩事と同じ朝廷(新政府)の家臣(「王臣」)とされる。これは朱子学の主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定し諸藩の抵抗も予想された。そこで版籍奉還の実施に際してはその意義を曖昧な表現にし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた。藩の中には「将軍に代わり知行安堵を朝廷が行うもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗も無く終わった。(ウィキペディア)。知藩事は中央政府から任命される地方官で「所領」は知藩事が中央政府から統治を命じられた「管轄地」に変わった。封建的な世襲制を否定する版籍奉還は、日本の近代的な中央集権体制が整備される起点となり、地方自治体は中央政府の命令に従う地方行政機構へと再編されていく。

「公議所」1869年(明治2年)3月開所。各藩と諸学校の公務人(のち公議人)で構成され、議案提出権を有した。公務人は、各藩より1名、ほかからの代表が送られた。存続したのは1年数ヶ月。切腹禁止や廃刀、穢多非人の廃止など開明的な議案が出された。1869年(明治2年)7月8日集議院と改称した。(ウィキペディア)
「公議政体論」現状の幕府のあり方を変えるために西洋の議会制度を日本に取り入れて幕府あるいは日本国家の改革を行う必要があるとする提言。(1)山内容堂らの諸侯(2)西周・加藤弘之ら幕府関係者(3)幕府と薩長雄藩との軍事対立を避けたい横井小楠・坂本龍馬などの幕府外の人物、が主張。ただし、諸侯の公議政体論はともかく徳川将軍家を事実上の元首としてその元に諸侯会議を作るものである。その他の公議政体論は、公家・諸侯による上院と庶民を含めた下院を組織して徳川将軍家も上院の主要な一員として政治に参画するものであった(論者によって議会組織や江戸幕府・徳川将軍家のあり方などに差異がある)。慶応の改革を通じた幕権強化論を志向していた慶喜が大政奉還を決意した背景には公議政体論によって諸侯会議を招集し、徳川家も諸侯として会議に参加して国家改革の主導権を執る事を狙ったとされ、これを山内容堂ら諸侯が支持していた。(ウィキペディア)
  版籍奉還は中央集権体制への転換の上で大きな意義を持つ。(1)藩主と家臣の主従関係が制度的に廃止された。(2)知藩事の地位は非世襲、つまり子孫に引き継げない。藩主は中央政府によって任命された地方行政官となった。(3)藩主の領主権は否定され、藩の領地は府や県と同じく新政府の管轄地となった。(4)知藩事の家禄は藩庁の経費とははっきりと分離された。http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume026.html
各藩士の君主への「忠」が天皇への「忠」にスライドする。
 
1869年3月、天皇が東京着。 1869(明治2)年1月5日、開明的な思想家の横井小楠(しょうなん)が暗殺される(新政府の開明的な施策を嫌った攘夷派は、横井が元凶とみた)。1月14日、「王土王民思想」を根拠に、大藩の薩摩大久保、長州広沢真臣、土佐板垣が版籍奉還に合意した。2月、造幣局を置く。府県に小学校設置を命ずる。府藩県に議事所を設置させ「府県施政順序規則」を定める。4月、府県の私兵編成を禁止。5月18日、箱館政権の総裁榎本武揚は新政府軍に降伏。参謀の黒田清隆が榎本の能力をおしみ助命を嘆願し、榎本は救われた。
6月、薩長土肥以下諸藩主の「版籍奉還」を許し、各藩知事に任命し、以後、「版籍奉還」が相次ぐ。
「府藩県三治制」が確立して「藩」も国の行政区画となり、旧藩主(大名)は知藩事に任命された。知藩事は中央政府から任命される地方官で「藩」の領域は藩主の「所領」ではなく、地方官である知藩事が中央政府から統治を命じられた「管轄地」とされた。公卿と諸侯を華族という身分に改称。7月、職員令を制定し、官制を改革。参議には大久保利通・前原一誠・副島種臣ら旧武士階級が就任。政治家たる旧公家と官僚たる旧武士層がより一体化し中央集権国家を企図した体制であった。東京・京都・大阪以外の府は県に改める。「府県奉職規則」制定。8月、蝦夷地を北海道と改める。9月、藩制改革し藩の内政に干渉し中央が指導することになる。通商司が紙幣発行を布告(民部省札)。慶喜の謹慎を解く。12月、禄制を定め、藩士の俸禄を削減する。士族および卒の名称を定める。
「公議政体論」大政奉還後、王政復古の大号令・小御所会議があり、薩長と旧幕府軍による戊辰戦争となり、佐幕派・公議派諸侯らの「公議政体論」は崩壊。「新政府」は朝廷に「恭順」した諸藩の支持がなければ存続は不可能であったが、この体制では外国に対抗する軍事力を持つ国家にはなれない。
このため、自己の政策の正当性を「公議輿論」に求めることになった。だが、それは一方で政府が政策実現のために公議を手段として輿論を指導・従属させようとする考えと、反対に輿論を集約して公議を形成して政府に政策実現を求めていくとする考えが対立するようになる。

1869年1月20日、新政府の方針に従い薩長土肥(肥は肥前)藩主が率先して版籍奉還を奏上(今は政府を動かす元の藩士に藩主が促されたかも知れない)。11月、山口藩が常備軍を編成、翌月以降、諸隊が反乱する(明治3年2月に鎮圧)。
「太政官制」で対立していた木戸孝允と大久保利通が中央集権論で一致し、妥協する。

1871年、「廃藩置県」により「封建制」から「郡県制」へ変わり中央集権体制が可能となった。
  1869年6月、戊辰戦争の功績や損失補償として薩長土佐に10~4万石加増、その他の藩にも報償。

「太政官制」
明治2年7月、米国の影響を受けた「政体書体制」を廃止して「祭政一致」を原則とした復古的な官制である。神祇官が復活し「太政官」(役所の組織)よりも上位に置かれ、太政官の下に民部省大蔵省外務省ほかができた。主要官職を皇族と公家が独占し、武士は参議に3名が選ばれただけで、保守派の画策によって木戸孝允(もと桂小五郎)・大久保・板垣らは閑職の侍詔院学士に追いやられた。三条の巻き返しで大久保が追加任命された。
明治2年8月に民部省と大蔵省を合併し徴税機構と財政機構の一本化を図ったが、これは中央集権体制の確立を急ぐ木戸孝允の支持を得た大隈や伊藤博文ら開明派若手官僚の画策であった。一方、大久保らは新省が太政官を上回る権限を持つとして反発し、大隈・伊藤の排撃と再分離を求めた。
岩倉具視の「建国策」
王政復古の発令以来3年たつにもかかわらず朝権がいまだ確立されず旧来の勢力に振り回されている閉塞状況を突破するために記された。
1870年9月(明治3年8月)、岩倉は明治政府に政策提言「建国策」を提出。天下の財源を大蔵省、兵制を兵部省に総括させる、ほか。この文書は、大久保と副島種臣、とくに大久保の意向が反映されている。当時、維新指導層の政治的地位を支える唯一の根拠は天皇による親任だった。しかし岩倉は政府の責務は「億兆をして、おのおのその所を得てその生を保たしむる」ことだと明言する。現在見込まれる歳入は1100万石、金額にして5500万両ほどで、海外の強国とはとても比較にならない。しかも歳入の半分以上は華族と士族の家禄だ。安定した歳入を確保し、不要な固定歳出をカットする必要がある。(続く)
  新政権が自分の財源をもつためには中央集権体制「郡県」が必要だった。


明治3年10月、木戸派と三条・大久保派の妥協が成立して、殖産興業を専門に扱う工部省の分離と引き換えに明治4年7月、民部・大蔵両省の再合併が決定された。これは廃藩置県などの推進の過程で大久保が中央集権の必要性を認めて木戸らの方針に同意する方向へと変わると同時に、将来の政府を担う開明派若手官僚との全面衝突を避けたいとの思惑があったからであると言われている。(ウィキペディア)
岩倉は最大の急務は「郡県の体制の確立」という。「封建」が地域分権型なら、「郡県」は中央集権体制だ。1870年当時は旧来の藩が残り、これをどう消滅させるか政府は悩んだ。民衆の力をひとつにして海外の強国に拮抗するには「郡県」中央集権制が必要、と岩倉は主張。1870年の時点で、政府の基盤は危うかった。幕府を倒し王政復古を成し遂げたが次のヴィジョンがはっきりしなかった。とくに戊辰戦争の薩摩や長州の実戦部隊は、自分たちが何のために戦ったのか悩む。革命に期待した農民も生活は苦しく、各地で「世直し一揆」を起こした。こうした閉塞状況を突破するために記されたのが、岩倉の「建国策」だった。(「渋沢栄一とその時代」ウィキペディア)
  1870年2月、府藩県に外債の起債を禁止する。5月、集議院を開会し藩制などを諮問する。7月、田方地租は米納、畑方は石代納とする。普仏戦争に局外中立を布告する。9月、藩制改革の要綱を定める。10月、兵制統一布告で、海軍は英式、陸軍は仏式とする。幕末から居留地を攘夷派から防衛する目的で英仏が横浜に駐屯軍隊を置いていたが、その撤退を要求。11月、各藩に藩制改革の始末を上申させる。12月、各藩常備兵編成定則を制定する。 1870年2月、長州藩では奇兵隊の解散命令を機に2000人あまりの兵が反乱を起こしたが広沢と木戸が討伐た。薩摩藩では戊辰戦争後、西郷が膨大な常備軍の強力な軍事体制を維持していた。岩倉は西郷を薩摩から引き離し中央に復帰させないと新政権の不安定さが増すばかりと考えた。10月、館藩の士卒が減禄に反対して騒擾を起こす。
    薩摩藩は廃藩置県によって500万両の借金返済を免れた。また、県名に旧藩の名を使わなかったのは朝敵の名を残さないようにしたからといわれる。▲p.220、221
1871年7月、「廃藩置県」の詔書が出る(天皇専制の形式で廃藩置県が断行された)。「内以テ億兆ヲ保安シ外以テ萬國ト對峙セント欲セハ」「數百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其實擧ラサル?アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ萬國ト對峙スルヲ得ンヤ」 1871(明治4)年1月、寺社領を没収する。2月、薩長土3藩から徴集して、長州大村益次郎指揮の天皇直属で藩の指揮権に属さないフランス式の「御親兵」1万人を編成し常備軍として廃藩置県に備えた。4月、戸籍法を定める(明治5年より実施、壬申戸籍)。5月、新貨条例を定め1円を単位とする。一般農民の米の販売を許す。7月、太政大臣が新設され三条実美が就任、岩倉は右大臣を兼務。参議は西郷、木戸、板垣、大隈。大蔵卿は大久保、兵部大輔は山縣有朋、大蔵大輔は井上、文部大輔は江藤、工部大輔は後藤。「陸軍条例」制定。太政官制を改め、正院・左院・右院をおく。日清修好条規に調印する。

「藩閥」の成立
1871(明治4年7月)、太政大臣に三条実美・参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任して、これに岩倉が政府内に留まった。他の公家・諸侯は悉く職を免ぜられた。これによって、天皇が親臨・親裁形式で太政官以下を率い、三大臣がこれを輔弼して参議・卿を指揮するという明治の太政官制の基本形式と薩長土肥(肥は肥前)出身者によるいわゆる藩閥の原点が確立した。(ウィキペディア)
西郷は「腐敗した政府」を大改革すると称して71年3月に上京しに参議となった。
薩摩・長州など大藩は藩政改革の余力があったが、地方の中小藩は財政逼迫で自ら廃藩を名乗り出るところもあり、「政府内部の急進派(木戸孝允)・漸進派(大久保利通)の対立」を抱えながらも中央集権体制を完成させる「廃藩置県」の気運が高まる。1871年7月4日に、対立していた木戸派と西郷派の合意ができる。(つづく)
1871年(明治4年)7月14日に、知藩事を東京に召集して明治天皇が一方的に『廃藩置県』の詔を出すという天皇専制の形式で廃藩置県が断行された。 8月、散髪廃刀を許可する。華士族、平民間の通婚を許可する。えたひにんの呼び名を廃止する。9月、「海軍条例」制定。11月、知県事を県令とし、参事を府県に置く。県治条例を定め府県奉職規則を廃止する。
11月、欧米に使節団を送り、近代化の様子を視察させてもらい帰国後それらを日本に導入し、文明開化を成し遂げた段階で不平等条約の交渉に応じるよう要請することが政府方針として決まった。●岩倉使節団(外務卿岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ほか総勢107名)が出発。1873(明治6)年9月まで米国、ヨーロッパ諸国を歴訪した。1871年成立のドイツ帝国(立憲君主国プロイセンの国王がドイツ皇帝を兼任。26の邦から構成された連邦制で各邦には君主がいた)にも立ち寄り、ドイツ首相ビスマルクから国際社会は弱肉強食の原理で成り立つことを改めて知らされた。日本は軍事力では西欧諸国に太刀打ちできない以上、欧州列強の植民地化を免れるには西欧世界のルールをよく知り西欧諸国のように振舞うべき(中国のようにならない)という近代日本の基本方針の転機となった。プロシア(ドイツ)を手本とする、という方向性を示したのは大久保利通だった。http://www5b.biglobe.ne.jp/~tjk/shiseki/ji/okubo/1-2/index.htm
12月、在官者以外の華士族卒の職業の自由を許可する。東京府下に地券発行と地租課税を布告する。
廃藩置県には、薩長の藩閥政治の思惑と天皇専制政治の形式との両面が作用している。「非薩長系の大藩(熊本藩・高知藩など)」との公論(議論)が採用されなかったことで藩閥政治と天皇親政の独裁的性格を強めたという弊害をうんだ(「明治維新と廃藩置県・版籍奉還」ウィキペディア)。事前には、他の藩には知らせなかった。だから廃藩置県は、非薩長系の大藩に対する(朝廷と)薩長側の一種のクーデターであったとも言える。事実、廃藩置県の後に新しくできた政府は、少数の公家と薩長を中心に土佐・肥前を加えた若手の実力者が実権を握っていった。http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume026.html
  廃藩置県という大変革に外国人は驚き称賛した。「政府が藩廃止と大名身分の撤廃の法令を出した」「大名の封建権力の崩壊は完全な変革だった」。廃藩置県の段階では版籍奉還時の247藩から自主的に廃藩した13藩をく261藩がそのまま県になって、それ以前の県と合わせて「3府302県」体制となる。その後大久保主導で「3府73県」の大蔵省案がでて、修正して11月に「3府72県」体制となる。1876年「3府39県+北海道開拓使+琉球藩」となる。その後、徳島、福井、鳥取、富山、佐賀、宮崎、奈良が地元の意向で分離独立し「47道府県」体制となる。そして、神戸、横浜、長崎の重要港に県庁を置きたかったのでそれに相応しい県域を無理やり作った。藩の領域は「官軍・賊軍」とは関係なく決められた。超大藩の薩摩、仙台、加賀は2、3分割した(八幡p.346-347)。
廃藩置県を断行したのは武士で、従ったのも武士であった。しかも、これだけの大改革に一滴の血も流されなかった。
藩置県に、藩主たちはさほど反対しなかった。(1)藩札、藩債の償還は国が面倒をみることになった。(2)東京での生活を強制されたが、実は東京の生活が魅力的だった。生活の本拠は江戸にあって1年ごと、3年ごとの領国での生活は奥方にとっては親元を離れることだった。それがなくなるのを喜んだ。

仙台県を宮城県に変えたのは県令が「旧称では人心が因習にとらわれ情実が残っているので変えたい」といった。宇和島も「旧号では悪い習慣に染まったままなので、神山県に変えたい」とした。(八幡p.352)
   1872(明治5)年2月、兵部省を廃し陸海軍2省を設置。薩長軍が基礎だったので陸軍は長州、海軍は薩摩の出身者が要職をしめた。「親兵」を廃し「近衛兵」設置。7月、大蔵省達で全国一般に地券交付「壬申地券」。8月、「学制」制定。11月、国立銀行条例。「全国徴兵の詔」。明治天皇が鹿児島へ行幸。  
  1872年、大区小区制。従来の庄屋、名主、年寄、大庄屋等を廃止。10月、府県に「大区」、その下に町村を幾つかまとめた「小区」を置いた。大区には区長、小区には戸長を置き、これには江戸時代の村役人(庄屋・名主)や町役人(年寄など)、大庄屋などの経験者を任命した。区の名前には数字を用いた。これは地域の様々な問題を自治的に解決してきた町村を否定して、中央政府の命令の伝達と施行のみ行う機関としたために不評であった。地域の慣習から乖離し、地方の実情に合わない制度であった。明治11年7月、郡区町村編制法制定により廃止された。(ウィキペディア)  
「明治6年の政変」で、征韓派の西郷、後藤、板垣、江藤ら600名が辞職。

政治の実権は薩摩と長州出身者の薩長閥がにぎり、とくに大久保が中心となる。

倒幕論以来の薩長の夢が実現する。.
  1873(明治6)年、「徴兵令」の布告。征韓論を巡り西郷と大久保が対立。「明治6年の政変」と呼ばれる事件で、征韓派の西郷、後藤、板垣、江藤、副島らが辞職。政治の実権は薩摩と長州出身者の薩長閥がにぎり、とくに大久保が中心となる。薩長閥に対抗する者は二つの勢力に別れる。(1)薩長閥以外の人間も政治に参加させるべきと主張し自由民権運動を起こしたグループ(後藤、板垣)。(2)不平士族を集め武力による反乱を起こすグループ(佐賀の乱、神風連(じんぷうれん)の乱、秋月の乱、萩の乱など。江藤、西郷)。
大久保の独裁となるが西郷が自刃した翌年、大久保が暗殺される。このあとは若い伊藤博文と大隈重信が台頭する。
山県は仏普戦争でプロイセンが勝利したので陸軍の軍制をドイツ式に転換した。
3月、藩債償還処分方法提示(その結果、藩債の54%、藩札の36%が切り捨てられたが、外国債は92%が現金償還された。www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk20-3-4.pdf)。7月、地租改正条例(地価の100分の3)布告。10月、徴兵令反対の農民一揆頻発。
肥後藩は明治3年(1870年)5月、細川護久(もりひさ)が藩知事に就任、藩首脳を更迭して実学党政権を樹立し、やっと「肥後の維新」がなった。実学党の藩政改革は旧来の権力を否定し藩庁機構の整理統合など。実学党の革新的な姿勢が中央の反発を買い、明治6年土佐出身の安岡良亮が県令として派遣され、実学党員は全員職を解かれ、一気に中央集権化が進んだ。勤皇党は敬神党と名を変え、明治9年(1876年)に神風連の乱(しんぷうれんのらん)を引き起こす。学校党は西南戦争で熊本隊を組織し西郷側で参戦、戦後は国権党として政治に活路を見出した。また、実学党(沼山津派)は西南戦争では中立、後に立憲自由党として政界に進出した。http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=460
  1873(明治6)年6月、外務少記・森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶、使節を侮辱し、居留民の安全を脅かすので、朝鮮撤退か、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要と報告し、それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出した。当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張、西郷は自分が全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立したが、板垣と外務卿の副島が西郷案に同意、閣議決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。●明治六年の政変。岩倉帰国後、木戸、大久保、大隈ら内治優先論が西郷派遣に反対し、天皇も岩倉の意見で西郷派遣の無期延期と裁可。西郷は参議を辞職。翌25日、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職し、政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。(ウィキペディア)。
7月、地租改正条例布告(100分の3)。11月、●内務省設置、大久保利通が初代内務卿として実権を握る。これ以降「大久保政権」と呼ばれ、その権力集中は「有司専制」と比案された。霞ヶ関の官僚機構の基礎を造った。
徴兵令反対の農民一揆頻発。
 
  1874(明治7)年2月、佐賀の乱。3月、秩禄公債証書発行条例を定める。5月台湾出兵。1871(明治4年)10月、琉球御用船が台風で台湾南部に漂着し、乗員66名は先住民に集落へ拉致され、逃走したが54名が斬首された(宮古島島民遭難事件)。清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドルは「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。日本では1873年秋、政府が明治六年政変で分裂し、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じた。政変で下野した副島種臣にかわって外交を担当することとなった大久保としては、国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的に企画した。政府はこの出兵を清国や清国内に権益を持つ列強に対して根回しを行わなず失策であった。1875年に大久保利通が清国政府と交渉し、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった。明治政府は1875(明治8)年、琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。(ウィキペディア) 1874(明治7)年、明治六年政変(征韓論の争議)で下野した副島種臣、板垣、後藤、江藤新平等が「民撰議院設立建白書」を左院に提出した。この建白書では、「官選」ではなく「民選」の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地に結社ができた。(ウィキペディア).
1875(明治8)年4月、「立憲政体の詔書」(漸次立憲政体樹立の詔)。「朕、…元老院を設け立法の源を広め、大審院を置きもって審判の権を鞏(かた)くし、又、地方官を召集し民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ衆庶と倶にその慶に頼らんと欲す」。すなわち段階的に立憲君主制に移行することを宣言。これは大久保利通、伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允、板垣退助らの民権派の会談である大阪会議の結果である。(ウィキペディア) 1875(明治8)年、「陸軍武官傷痍扶助及び死亡の者祭粢並びに其家族扶助概則」のちの陸軍恩給。海軍退隠令。
地租改正反対の農民一揆頻発。
 
  1876(明治9)年、地租改正反対の農民一揆頻発。  
  1877(明治10)年1月、地租を100分の2.5へ減税(農民の不満が西郷らの反政府運動と結合することを恐れたためという説もあるwww.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk20-3-4.pdf)。2月、西南戦争始まる。●大久保利通は自ら宮内卿に就任して明治政府と天皇の一体化を行う構想を持っていた。(鎌倉幕府以降の武家は孟子の「覇道」を避けるため徳の象徴・天皇をいただいて「王道」とし支配を正当化した尊王論だった。それを本来の形に返すということかも知れない)。11月、田租の半額の米代納を認める。 1877年木戸孝允病死。西郷隆盛自刃。
  1878(明治11)年、三新法(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)。農民一揆が頻発し、また自由民権運動が拡大しつつある社会状況であった。政局安定のためにも地方制度改革が必要とされ、内務省内務卿の大久保利通により発案された。江戸時代からの町村の自治の実態を認めつつ、戸長を通じて上からの決定を実施させた。地方制度を中央政府の延長にしようとした大区小区制の失敗に対する反省から、一定の地方自治を法定したが、放任から干渉に転換して住民自治を削る試みの一環であった。町には町会、村には村会をおいた。府県会設置は地方自治と議会制に向けた前進であった。各地の府県会が民権派の政府攻撃の拠点となったことは府県会自治が空虚な器でなかったことを意味している。(ウィキペディア)
地租改正反対の農民一揆頻発。
1878年、大久保利通は征韓論の不平士族6名に暗殺される。

大久保自身はそれほど藩意識は強くなかったようで、伊藤博文(長州)、井上馨(長州)、津田出(紀州)、谷鉄臣(彦根)、安場保和(肥後)、渋沢栄一(幕臣)、田中光顕(土佐)など、他藩出身者を多く抜擢した。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tjk/shiseki/ji/okubo/1-2/index.htm
  1879(明治12)年、1879年に明治天皇が啓蒙主義を批判して、仁義忠孝を中心とした儒教主義を公教育の中心とすべきとする「教学聖旨」(執筆者は元田永孚(ながざね))を文部卿と内務卿伊藤博文に示した。伊藤博文は「教育議」を提出し、欧米の知識を急ぎ導入すべきことを奏上。元田は更に反論し「教育議附議」を上奏し、仁義忠孝を国教とすべきことを主張。この論争は、明治初期の教育政策をめぐる伝統的思想と進歩的思想との論争であったといわれている。天皇は「教学聖旨」を下した前後、元田に対して幼少の児童に仁義忠孝の道徳を明らかにするための教訓書を編纂すべしという旨を伝えた。元田永孚(ながざね)『教学大綱』1879年で、天皇に対する忠が、親に対する孝にあたるという儒教の教えを強調した。 明治11年大久保利通暗殺を機に,元田永孚は佐々木高行,吉井友実,土方久元らと薩長参議政治批判の立場から「天皇親政」運動を展開。http://kotobank.jp/word/元田永孚
明治12年(1879)、元田永孚は藩閥政治を批判し天皇親政運動を展開するが失敗。http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/202.html
  1880(明治13)年  
「国会開設の勅諭」。第一に、1890年(明治23年)の国会(議会)開設を約束し、第二に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。. 1881(明治14)年3月、参議大隈が1883年の国会開設、政党内閣制などの意見書。伊藤は反対。10月、「詔勅」で1890(明治23)年国会開設を決め、憲法欽定方針とし、大隈を罷免。●「明治14年の政変」。大隈重信が失脚し、伊藤が政界の第一人者となる。立憲議会だからその前に憲法を制定することが必要。政府はドイツ憲法を手本とすることを決めていた。
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する岩倉具視、伊藤博文と肥後の井上毅が、後者を支持する肥前の大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。この事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。(ウィキペディア)
自由民権運動が盛り上がり政府批判を強めた。伊藤らは薩長出身参議が結束し政府内の異分子的存在の参議大隈を追放し、国会開設を約束して沈静化を図った。
  1882(明治15)年10月10日、日本銀行開業(総裁吉原重俊、薩摩、イエール大学留学)。
元田永孚『幼学綱要』では、忠と孝の順序が入れ替わった。伊藤博文は勅命で欧州憲法調査。
プロイセン時代のビスマルクは議会無視もいとわなかったがドイツ帝国憲法には民主的な面もあった。議会がビスマルクの提案に反対して行政が機能不全に陥っていた。伊藤はそれを見て憲法、議会、政治(行政)の関係を学ぶ必要を痛感してウィーンへ行く。8月、ウィーン大学国家学教授シュタインを訪ねた。行政府に政治を行う自立的権限がないと立法府の指図に従う存在にすぎない。しかし立法府は議会の会期にのみ存在するから、国家の大事を察し臨機の対応をする役目は行政府にある、ということを学んだ(佐々木克『さかのぼり日本史 「官僚国家」への道』NHK出版p.21)
  1883年  
  1884年  
  1885(明治18)年、伊藤が初代内閣総理大臣となる。外務大臣・井上馨(もと多聞)、内務大臣・山県有朋(もと狂介)、大蔵大臣・松方正義、陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・西郷従道(つぐみち)、司法大臣・山田顕義、文部大臣・森有礼(ありのり)、逓信大臣・榎本武揚。海援隊だった陸奥宗光(もと陽之助)は新政府に入り、不平等条約解消、日清戦争の講和条約締結で功績。 三大臣・参議を廃止。大臣が省の長官となる。内閣は行政の最高機関と位置づけられ、政党勢力によって左右されない「超然内閣」で、自立した強い政府の誕生だった(佐々木克『さかのぼり日本史 「官僚国家」への道』NHK出版p.24)
  元田永孚(1818年-明治24年(1891年)1月) 熊本藩出身。明治4年(1871年)に54歳にして明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって天皇への進講を行った。天皇の信任が厚く大事においてはしばしば意見を求められた。彼の明治天皇に対する影響力は伊藤博文ら政府首脳にとっても無視できなかった。あくまで儒教道徳を「本」とし知識才芸を「末」として捉え、国民教化の根源を皇室を中心とした伝統に求めた。明治天皇を国民の模範として相応しい儒教的な有徳の君主に育て上げることが忠臣としての道であると考えた。特に森有礼などの啓蒙主義者が教育行政の長に立つことを強く批判した。「忠孝の大道を其時世々々に活用するを以て僕の学問とする」と森有礼に述べた。朱子学的な大義名分論を日本の現実社会に徹底化して、修身と治国の一体化を図るとともに皇室への崇敬を一種の「国教」として確立することを目指した元田の「政教一致」路線は、教育勅語を通じた天皇制国家の確立によって実現されていく。元田はその起草に参加した。ちなみに国粋主義を唱える保守派でも井上哲次郎のように元田の思想は君臣の道徳を重んじて国家の理性を軽んじるものとして批判する意見もあった。ウィキペディア)。 元田は東洋の仁義忠孝の道徳を捨てて西洋流の文明開化にのみ走ったのが社会的混乱退廃がおこったと考えた。伊藤博文は開明政策推進の立場から『教育議』を著し品行、風俗の乱れは明治維新という社会の変化によるもので「教育の失」ではないと反論し、国教を定めることについては「政府のよろしく官制すべき所にあらざるなり」と反対した。(村田昇『道徳の指導法』p.26)

佐久間象山は一橋慶喜がまだ将軍になる前に京に招かれて、慶喜に「公武合体論」と「開国論」を説いた。長州藩の吉田松蔭はバリバリの「尊王攘夷派」だったがこの象山に学んだ、とされる。薩長は権力を握ってからは自分たちの「攘夷論」は棚上げにし「開国」に迷いはなかった。そして「尊王」を支える内なる精神的な支柱として、象山、松陰が主張し元田永孚(ながざね)が強調した「忠孝」を打ち出した、といえるのかも知れない。

薩長は「尊王攘夷」から「尊王開国」に方向転換した。
  明治23年、「教育に関する勅語」
私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。明治二十三年十月三十日
現行「教育基本法」
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。一) 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。二) 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。三)正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。四 )生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。五)伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
  国是と町村是
明治20年代に前農商務省大書記官の前田正名が「先ずその根柱たる町村是を定め而して府県是に及び而してその後国是自ずから定まるべき順序」と唱え、全国行脚し「府県郡町村是」の確立をすすめたいわゆる「町村是運動」を前史とする。前田が明治13年『興業意見』で殖産のための実証的科学的基礎資料を作成した。これにならって内務官僚は政策決定にあたって何よりも基礎的データの蒐集を強調した。また、町村是が定まって国是が建つと考えた。「国家は一家一町村の結合体にして一家一町村の独立は即ち国家の独立を組織するものたること元より正名の言を待たず果たして然らば一家一町村をして時世に相当するの力を有せしむるにあらざれば一国をして他国と対立●峙してその独立の体面を全うせしむる能わざるやまたはなはだあきらかなり」(池内清間『愛媛県温泉郡余土村是』明治34年、序)不破和彦「『地方改良運動』と『町村是調査』」
www.sed.tohoku.ac.jp/library/nenpo/contents/27/27-04.pdf