幕末・明治維新略史

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アメリカ社会福祉略史(2010.1.7)

一番ケ瀬康子『アメリカ社会福祉発達史』光生館,1963 ほか

●ピューリタン。 1620年、英国国教会がカトリックから完全に離脱できないことに反発した“清教徒”(ピューリタン)は、新天地を求めて母国イングランドのプリマス港をメイフラワー号で出港し、アメリカ合衆国の北東部にあるマサチユセッツの港に到着した。彼らが開拓したこの地域はその後ニュー・イングランドと名づけられ、合衆国の中で最も早く開かれた学術文化の中心地となっている。到着してからの数カ月は移住者にとって困難だらけだった。102人中の半分が死に、生き残るために懸命な毎日だった。しかしながら、アメリカ原住民の助けと指導により、やっと穀物を育て、大収穫をもたらすまでになった。彼等の生存は今もなお祝われ、サンクスギビングデーとしてアメリカ合衆国の国民の祝日である。
 勤勉さ、熱心な倹約、機敏さに重点がおかれ、失敗や貧困を、罪悪あるいは道徳的な弱さとして軽蔑する個人主義の伝統は、国全体の基本的な価値観のなかに、深くおりこまれるようになった。かれらは、経済的失敗を蔑む。現実的物質的な成功は、地位や権力に通ずる道であった。もしかれがよく働き、節約し、機敏でありさえすれば、だれでも頂上にのぼることができたのである。失敗は社会の罪でなく、個人の罪なのであった。
●植民地アメリカの貧民救済の方法は、エリザベス女王時代の救貧法を反映している。
 独立直前、住民の 9割は農業に従事していたが、18世紀以後、海運業、貿易業などの商業資本が、そして家内工業も広まってきた。
1732年にフィラデルフィアに、1735年にニューヨークに市がはじめて救貧院を建てたが、石作りの建物で授産所、懲戒所をかねていた。
 「救貧院におくられたり、あるいは委ねられた貧民で、労働可能なもの、すなわち無頼のもの、私生児の親、乞食、逃亡してきた契約奉公人、ごろつき、浮浪者などは、すべて仕事につかされた。仕事を拒否すると、彼らはむちうちによって懲戒された」
●ニューヨーク市貧窮予防協会調査(1818):貧窮の10原因「無知(生まれつき、または無教育による)」「怠惰(天性の怠けものが多い)」「飲酒」「濫費」「軽率な結婚や早婚」「かけ事」「質屋がよい」「売春宿通い」「多くの慈善施設の存在(これは依存心を労働者に与え、不時の場合の備えをおこたるようにする)」「戦争」
 クインシー・レポート(1821)「1 居宅保護はもっとも不経済であり、被救恤者にも害がある。2 授産所をともなう救貧院が最も経済的である。そこでは能力にしたがって仕事が与えられる。5 貧困の原因の最大のものは、飲酒である。」
 1837年の恐慌が2?3年も回復せず失業、低賃金のため餓死者や凍死者も多く、市民の慈善活動も活発化したが乱立し濫救も多く反省された。
 1873年の恐慌も大規模で多数の失業者が発生した。当時の救貧法は労働無能力者のみ救済していたので、失業者や労働能力者は民間の慈善活動に依存していた。
●1860年代から広がった慈善組織化運動はその基調を自由放任主義においたが、社会改良運動は1870年代の社会連帯主義(自由主義と社会主義の中間を指向した西欧の社会改良主義)を基調とした。次第に慈善事業の従事者は態度を変えて社会改良運動と関連づけるものもでてきた。
●1881年から1890年の間は移民が急増し、しかも従来よりも文盲の多い不熟練労働者であった。それまでだと西部への移住を促せばよかったが、1890年ころにフロンティアが消滅したので、彼らは大都市の下層労働者になっていった。
 そして1890年代には組織労働者と未組織労働者との生活格差が広がり、スラムが目立つようになってきた。この時代に「都会地区における驚くべき貧困が明らかにされた。何百万という外国の移民や、さびれきった農村出身のアメリカ生まれの労働者達が商工業中心地へ流れ込むにつれて、彼らの密集する地区、すなわち『貧民窟』が非常に膨脹していった。あらゆる都市に貧困、人口過剰、悲惨、そして犯罪の大きな地区ができていったのである。」また1883年の上院ではシカゴのスラム街について証言がされた。「労働者達はほとんどみな同じように、不潔な借家や地下室や屋根裏部屋に住んでいます。‥‥‥子供達は一団となってほとんど裸で街頭をほっつきまわっています。」このような社会の状態は、それまでの楽天的な自由放任主義を批判する動きを促した。
●1870年代から80年代にかけて、セツルメントが始められた。(貧民街の救済を行うのに、金銭物品を恵むだけの方法では問題の解決にはならない。知識階級の人物が直接貧民街に移り住み、宿泊所や託児所などを設置して環境を整え、またそこで教育を行って貧困層の自覚をもたらすという方法)
 またセツルメント活動は、調査とその結果にもとずいて環境改善運動をすすめた。J.アダムズのハル・ハウス設立の当時、シカゴには結核が蔓延し幼児死亡率は日増しに上昇していた。汚物はごみ箱の周囲に山積していた。そこで彼女は不潔な生活と高い死亡率の関係を調査した。そして市長から塵芥検査官に任命され献身的に働いた。環境を清潔にすると共に、堀立て小屋を壊し住宅を改良した。また少女達が菓子工場で1日14時間、低賃金でしかも空気の悪い部屋でキャラメルを包み続けていることを発見した。そして児童労働禁止法の制定に努力した。また婦人労働者の保護や、禁酒法、賃金や雇用条件の改善、労働時間の短縮、工場安全法の制定などに尽力した。
●ニューヨークのセツルメント運動の指導者ロバート・ハンターは『貧困』(1904)の中で、栄養不良でぼろをまとい、みすぼらしい家に住むもの、「最善の努力を払って、肉体的能力を維持するための十分な必需品を獲得できない状態」のものが1000万人(人口7600万人の13%)いたという。そのうち400万人が被救恤者層(*救貧法の受給者)であったという。これが当時の知識人にショックを与えた。
 調査活動はつぎのようなテーマに関心が払われていた。(1)都市における貧困の条件とこの条件によって派生する社会不安(2)被救済民=要保護者の(かかえる)問題(4)公私両面における貧困救済(5)失業問題(6)就労不安と社会的敗退者の問題(7)未成年者・婦人労働者の就労?低賃金(11)青少年の非行(13)禁酒運動(14)移民処理(15)人種間の摩擦
●1920年代初頭に慈善事業という言葉にかわって社会事業(ソーシャル・ワーク)という言葉がいれかわってきた。はじめは社会事業は「貧困・病気・犯罪その他社会的に正常でない状態といわれる社会的な諸問題を巡るすべての活動」という意味と、「人間関係を調整する技術」という意味で使われていたが、社会事業を人間関係を調整する技術としてのみ捕える傾向がひろまった。
●ソーシャル・ケースワークの動向
 M.リッチモンドは『ソーシャル・ケースワークとは何か』(1922)のなかで「近年、ケースワークの理論・目標・その高度の実践は、すべてひとつの中心課題すなわちパーソナリティの発達に向けられているように思われる。」「ソーシャル・ケースワークは、人とその社会環境との間に、個別的に、効果を意識して行なわれる調整を通して、パーソナリティの発達をはかる諸過程から成立している。」と述べている。ケースワーク論はさらに内的なパーソナリティの発達にのみ焦点が向けられた。とくに当時の精神医学、あるいは精神分析の普及の影響を受け、クライアントの心理的な分析に重点がおかれた。
●ソーシャル・グループワークの成立
 セツルメント活動は次第にソーシャル・アクションの機能を失い、もっぱらグループ活動に集中した。1928、9年ころのニューヨーク市のセツルメントの事業では次のようなものが多かった。クラブ、人生相談、手芸、遊技室、運動競技、会合、図書室、保健事業、音楽、社交ダンス、保育所・幼稚園。
●コミュニティ・オーガニゼーションの成立
 各種の社会福祉事業の発達、共同募金の発達はその連絡、調整のためのコミュニティにおける集会の増加をもたらした。それらは、1900年にはいって各都市でうまれた慈善事業の連絡会議などを母胎とするものが多かった。
●米 第1次大戦後,1920年代後半にはアメリカ資本主義は過剰生産の傾向があった(自動車を中心とする耐久消費財,繊維,石炭,農業など).29年10月の株価暴落.過剰資本と過剰人口をかかえていたが,フーヴァー大統領は従来型の不況とみて資本主義経済の自律的回復力に期待して積極的な対策を打たない自由放任主義だった.33年3月にフランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)就任,失業率は25%,高齢者はつぎつぎに解雇された。1933-36 ニュー・ディール。その課題は救済と復興。連邦緊急救済法で失業者を貧困者に含めて救済する方式を採用したが,おもわしくなかった(連邦政府が初めて救貧をした).失業者救済のための雇用創出のために公共事業をおこす.しかし経費がかさむことなどのために廃止された.34年には保守派は産業の自由のために,左翼は社会主義への道のためにニュー・ディールを批判した.ルーズベルトは社会主義の道でもファシズムの道でもない「中道やや左より」の政策を採る.
●米1935年に社会保障法制定. (世界ではじめて社会保障という言葉をつかった法律.ヨーロッパの社会保険と即効的な経済保障からの造語らしい).最大の雇用をはかるためには単に公共事業を拡大するだけではなく、民間の雇用を増大する必要がある。それには購買力の補給策が必要.内容はA)老齢年金保険,B)失業保険,C)3種類の特別扶助(公的扶助で老人扶助,要扶養児童扶助,盲人扶助),D)社会福祉(一定の要件を満たす,州の運営する母子保健・肢体不自由児・児童福祉のサービスに連邦補助金). 救済が「政府の施与」から「国民の権利」に引き上げられ,資本主義体制の維持に成功した.(右田ほか『社会福祉の歴史』pp.152-)
●ソーシャル・ケースワークの確立
  民間の家庭福祉事業で働いていたケースワーカーが、公的な経済給付の機関に転職し出した。また公的扶助におけるケースワークの必要性が強調された。
●ソーシャル・グループ・ワークの確立
  1920年代までは主に成人教育やレクリエーション施設でもちいられ、ケースワークほどには専門化されていなかった。 1936年にアメリカ・グループ・ワーク研究協会が発足した。当時の論文のタイトルには「ソーシャル・アクションのための教育」「社会変革と教育」「グループ・ワークと民主主義」などがみられる。執筆者は教育学者、心理学者、セツルメント・ワーカー、教会関係者、レクリエーション・ワーカー、社会学者と多方面にわたっている。
●コミュニティ・オーガニゼーションの確立
 1939年以降は、公立の福祉施設が整備されるにともなって、公立と私立の連絡調整の必要性が高まった。また社会保障法では農村が無視されて不満が強かったので、農村におけるコミュニティ・オーガニゼーションが求められた。
●1941.1 米 フランクリン・ルーズベルトが議会に提出した年頭教書で,4つの自由を主張 1)言論・表現の自由 2)信仰の自由 3)欠乏(貧困)からの自由 4)恐怖からの自由.これら基本的自由が独裁制との対立物としドイツとの対戦国への武器援助立法を要請.
●米 1950-60年代の公的扶助引き締め(AFDC受給の母子世帯に成人男性の同居,訪問等があれば給付取り消し.友人の背広が置いてあるだけで取り消し).扶助受給を極力不快なものにする,扶助の代わりに失業対策事業で働かせる,扶助基準を低くする,どんな仕事も拒否させず働かせる,私生児がいれば支給拒否,扶養義務範囲を広げる,転居を制限する,ワーカーが夜間に訪問してチェックなど.
●1958年にガルブレイスが『豊かな社会』で貧困は少数者の問題になったと主張.ところが統計データでは人口の20-25%が貧困であった.政府も62年には20%が貧困だったと認める.(貧困の再発見)
●貧困戦争 1964年経済機会法による事業。地域の貧困者の生活改善と自立促進をはかるために貧困者自身の「最大限可能な参加」を得て地域や諸資源を動員し多様な事業を実施する地域活動事業.ねらいは機会提供による自助の援助.貧困観(住んでいる地域社会で貧困から脱出できるような環境づくりを彼らの組織化・参加で実現する.小地域レベルで貧困者自身のリーダーシップで事業運営した方が有効.)
●《50年代後半~60年代にかけて公民権運動(黒人の政治的社会的差別の撤廃運動.64年公民権法,65年投票権法でみのる).
 しかしAFDC受給者の半数が黒人で経済的差別があると考えた.福祉権運動おこる.自助の原理に反対して生存権の保障を要求する.公的扶助の根本的改革(基準引き上げ,調査活動の縮小,家族単位原則撤廃,プライバシー侵害反対など)めざす.貧困観(貧困の基本原因は個人の怠惰や無能ではなく生活を規定する社会制度の側にある.貧困の文化は制度的に作り出されたもの).ワーカーは住民主体,参加というが実は自助の原理の押しつけに荷担しているという.右田ほか『社会福祉の歴史』pp.172-》
●1962 M.フリードマン『資本主義と自由』負の所得税の提案

▼1962-65年から1965-69年の間に、生産性に対する時間あたり報酬の弾力性は年平均で3倍になった)。アメリカの福祉国家に第二の拡大が起こったのもこの期間である。「貧困に対する戦争War on Poverty」(それは主に崩壊の危機にある民主党との同盟に貧困層と黒人の有権者をむすびつけておくために計画されたものだったが)以外にも、ジョンソン政権は、ケインズ主義的景気刺激政策(1964年減税)を新たに開始し、メディケイドとメディケアを立法化し、受給資格要件を緩和し、社会保障給付の二度にわたる大幅な引き上げ案を議会通過させた(1965年、1967年)。
 社会的賃金戦略を完全に前面に打ち出したのは、逆説的だがニクソン政権だった。1969-72年に、連邦政府は社会保障給付の大幅な引き上げを立法化し、物価スライド制の導入と適用対象の抜本的拡大を実施した上、補足的保障所得(SSI)も成立させた。年金の対賃金比は急激に上昇した。これらの改善は、1971年後半の所得政策(賃金・価格統制)の適用と同時に生じたのである。だが、それらが1972年の大統領選挙の勝利をめざして導入されたものであることもまた疑いを容れないのである。エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』p.186

1966.7 米 老人健康保険制度メディケア
●1979カリフォルニア州住民投票で固定資産税引き下げを求めた提案13号が可決。州、郡、市町村、学校区などの歳入は激減し、教育の荒廃・社会保障水準の低下・道路網の劣化・政治や行政の質の低下・犯罪の増大などを招いたのである。
1981.1  レーガン大統領就任。 (スタグフレーションに注目し、減税を主張する供給重視経済学に基づき減税が経済を刺激し税の増収をもたらすとした。軍事支出の増加と減税は、巨大な赤字財政支出および国債の劇的な増加に結びついた。連邦政府の補助金を削減したので市では、財政難で市立病院を廃止したり、老人ホームを廃止したり、公立学校を閉鎖する所もでた。小さい政府を主張したが連邦支出は増加した。) 


1996.8 米 福祉改革 従来のAFDC(要扶養児童家庭扶助)にかわってTANF(貧困家庭一時扶助)