幕末・明治維新略史
中華・中国年表 | ||
「夏」 |
(1)中国は荒ぶる自然と相次ぐ民の反乱を治め、ヨーロッパのようにいくつもの国に別れることなく一つにまとまってきた。中華の原点は紀元前2000年ころの「夏」王朝である。 (2)昔、洪水が繰り返し起こった。一人の若者が治水に励みやがて国の大地が豊かに実るようになった。若者は「夏」の王となった。軍事力以外の統治のシステムとしての文化が必要であり、それが「龍」と「宮廷儀礼」だった。シンボルの「龍」と「宮廷儀礼」で人と社会を治めた。「龍」と王権の融合は二里頭(にりとう)から始まった。「龍」に選ばれたものが統治する資格を持つ。 (3)礼器が発掘されたがこれは身分の高い人に与えられたものだった。二里頭のまわりの河の周辺から発掘された。王の手には玉璋(ぎょくしょう)があったがこれは東の山岳地域で神への祈りに用いられてきたもの。「夏」ではこれに「龍」の文様を刻んだ。これは王の人間的権威を高めるものだった。また金色に輝く青銅の銅爵(どうしゃく)があったがこれも外の文化から取りいれたもの。黄河下流から取りいれた器や西域の青銅文化から取りいれたものが融合していた。王の権威が遠くまで及んでいたことを印象づけた。 (4)二里頭の遺跡からは五種類の穀類が発見されたがほかの古代文明は一種類の穀物しかなかった。二里頭は五つの大河の支流の集まるところだったので、遠方の穀物が運ばれ、栽培方法の情報が集まったと考えられる。 |
|
(5)「夏」の宮殿は、今の二里頭村にあった。宮殿は回廊で囲まれた空間があり人びとが集まり、正面に王が立つ建物もあったが、この構造は後の王朝でもズッと引き継がれた。 (6)「宮廷儀礼」は、大勢の人民の前で身分を意識させ、それを固定し、反乱を防いだ。神ではなく人の力で権威を示すもので、人対人の関係で、神よりも王の力を優先させたものだった。エジプトではまず神があり王は神の化身だったから、民は神にひれ伏した。しかし「宮廷儀礼」では家臣は皇帝にひれ伏した。この始まりは「夏」王朝で、その後の王朝は「宮廷儀礼」を踏襲した。 (7)「儀礼」と「龍」に人びとは畏敬の念をもった。二里頭の統治システムは「殷」、「周」、「秦」、「元」、「清」へと引き継がれた。(NHK「中国文明の謎、中華の源流、幻の王朝夏」2012.10.15)。 |
||
紀元前2200~ | 仰韶文化(彩陶文化、) | |
紀元前2000 | 仰韶文化中期 | |
紀元前1700~1400 | 龍山文化(黒陶文化) 卜占の風習 |
|
「殷」 | 紀元前1400 | 殷王朝(~紀元前1100) |
このころより青銅器時代始まる。 | ||
1300 | 安陽遷都。甲骨文字 | |
「殷」 | (1)「殷」が漢字を生み出した。はじめは神のために使った。甲骨に占い文を刻み、神となった祖先の霊に神の意志をたずねた。王と神との対話の手段としての文字であった。 (2)「殷」の文字が西方の属国の「周」へ流出した。「殷」と「周」は遠くて話し言葉も違うはずだったが、「殷」の漢字を巧みに使っていた。つまり、話し言葉は違っても漢字の意味は両者で共通に理解できた。 (3)「周」が「殷」に反乱を起こした。「周」は「殷」に取り入りながら、同時にほかの部族へ使者を送り連絡していた。『史記』によればBC.11世紀半ばに「殷」と「周」が「牧野(ぼくや)の決戦」をおこなった。「殷」とは文化的に相容れない八つの部族が「周」と連合した。一日で勝負がつき、500年続いた軍事大国が倒れた。「羌(きょう)」は生け贄で、「殷」から大量の頭部が発見されたが、歯の鑑定から、甘粛省あたりの部族らしく、「殷」が他の部族への見せしめとして連れてきて生け贄にしたと考えられている。 |
|
(4)「周」がほかの部族を束ねることになったときに、漢字の大革命が起こり、地域の言葉の壁を乗り越えた。陝西省から大量の漢字が発見された。B.C8世紀に「周」が「単(せん)」という部族に贈った青銅器であり、その器の内側に漢字が刻まれていた。「周」は「単」に土地を保証するが、代わりに税を納めろという「契約」が書かれていた。別の契約には、有事には兵を送ることという契約もあった。話し言葉の違いにもかかわらず漢字によって意味を伝えることができた。こうして「周」は軍事力による弾圧とは違った緩やかな新たな支配の関係、「封建制度」を作ることができた。漢字が文字のない地域に伝わると、必要に応じて新しい漢字が作り出された。こうして言葉や文化の違う人々が漢字を共有して一つの文化圏を作った。人と神をつないだ漢字が人と人をつないだ。 (5)「金」や「元」は漢字の代わりに自国の字を広めようとしたができなかった。「清」も満州文字を普及させようとしたができず、王子に漢字の教育をした。漢字を習得した最初の皇帝が康煕帝で、五万字の「康煕字典」を作らせた。意味を表す文字は世界で漢字だけである。第2集(NHK「中国文明の謎、漢字誕生、王朝交代の秘密」2012.11.11) |
||
チベット系匈奴 | ||
殷・周時代に、中原から離れた四川省西北部に高度の文明があった。 | ||
(殷滅亡) 「周」(西周) |
1027 | (または1046年)帝辛(紂王)が自殺し、「殷」が滅び「周」の武王が即位。国都は西安の西。●周「封建制」の時代。 |
841 | 周公・召公政治を執り行い、共和と号す(~28年)。 | |
東周・ 春秋戦国時代(B.C770~403) |
770 | 「周」の首都が異民族に占拠され洛邑に首都を移す。これ以降が「東周」。北方は「斉」と「晋」、南方は「呉」「楚」「越」が覇権。 |
552 | 孔子が誕生。●覇権と権力闘争の時代だったので周の身分制の方がましと考えた。 | |
5世紀前半 | 長江下流に、「呉」「越」 | |
473 |
★「越」が「呉」が滅ぼし、「呉」の難民がイネを持って日本の九州にたどり着いた(弥生人となる)。 | |
403 | 韓、魏、趙(チョウ)の3国が周王から諸侯として認められる。中でも魏は孔子の孫弟子を登用して富強の国となり、各国もこれに習う。 | |
372- | 孟子(-289)。(●政権交代の易姓革命論)。 | |
334 | 越が楚に破れた。 | |
★越の難民(越にいた呉の人びと)が出雲に到来したらしい。 | ||
4世紀ころ | 戦国の7雄と呼ばれる諸侯(燕・斉・韓・魏・趙・楚・秦)が強大となり、周国と楚国だけの称号であった王号を自称する。 | |
匈奴 | 3世紀 | 匈奴がモンゴル高原に統一国家をつくる。匈奴はトルコ系ともモンゴル系ともいわれ、スキタイ民族の騎馬戦の影響を受けて、モンゴル高原に進出。戦国時代末期には中国を脅かした。ボクトツゼンウが東方の遊牧騎馬民族・東胡、同じく西方の月氏、丁霊を下し大遊牧帝国を樹立した。万里の長城を越えて漢寮内に進入した。 |
289- | 荀子(-238)。法令と罰則、礼によって欲望を抑え「治」秩序が実現する。 | |
「秦」 (東周滅亡) |
256 | 「秦」の王が「周」を征服。 |
230-220 | 燕・韓・魏・趙・楚・燕・代・斉が滅ぶ | |
221 | 秦の始皇帝(初代皇帝、死後の呼称)が史上初めて中国を統一し、36郡を置く(●「郡県制度」=郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。世襲制の封建制に代わるもので王権の強化に役立った)。諸国の富豪12万戸を首都咸陽に移す。 中央集権的専制君主制始まる。度量衡制・貨幣制度を定める。 長城の修築始まる。匈奴を駆逐し河南を占領。南越を征服し難解・桂林・象3郡を置く。 |
|
(1)黄河中流域に「夏」という王朝があった。その地域は豊かな土地でのちに「殷」「周」などの王朝ができたところで、中原と呼ばれるようになった。中原の国々は「夏」の後継者を名乗ることで支配の正統性を主張した。 (2)中原の周辺国は北狄、東夷、南蛮、西戎と呼ばれ、野蛮な民族だとして差別された。西戎と呼ばれていた遊牧民の中では「秦」が覇王となった。「秦」は実は中原にも劣らない文化をもっていた。 (3)「秦」がたびたび中原の国々に進軍した。中原の国々は危機感を懐き、同盟を結び「会盟」と呼んだ。その拠り所は「夏王朝」以来の文化の中心であるという自負心で、同盟以外の周辺国を排除した。「夏王朝」以来の儀式で、有力な国が中心となって同盟国が牛の耳の血を飲んだ(牛耳る)。やがて多くの国が「夏」を名乗るようになり、同時に周辺国を排除した。これが「中華の原型」となった。 (4)「秦」は軍事大国になり「燕」「魏」「楚」そのほかを破り、周辺の国々を支配するようになった。しかし占領地域には昔からの伝統的な文化があり、軍事力だけでは民を服従させられなかった。とくに「楚」では原始的なシャーマニズムが強くお墓を大切にするなど、「秦」の制度と相容れなかった。そこで「秦」は自分が「夏」であるという発想の逆転を行い、さらに、「秦」に従った国は「夏」であるということにした。中原だけが「夏」だったのが、周辺国を取り込む「夏」に転換された。 |
||
(5)「秦」は占領国の権力者を「秦」の女性と結婚させ、産まれてきた子供に「夏子(かし)」という身分を与えるという同化政策を採った。こうすれば「秦」の支配を嫌う国でも「夏」となるので従いやすくなった。「夏」は「中夏」とも呼ばれ「中華」になった。中華文明は「排除と同化」に転換され、占領地域を一つの文化の中に染め上げていく。始皇帝は「中華」という世界観を使った支配を行った。(「華夷思想」は中国を文化の高い華(=文明)、周辺部を礼を知らない夷狄(=非文明)として差別する思想。「王化思想」は夷狄である周辺国は中国皇帝の「徳」を慕い、「礼」を受け入れ「冊封」を受けることによって華の一員となるという思想。冊封国の君主の臣下は君主の臣下であり、中国皇帝とは関係を持たない。ウィキペディア) (6)「中華」は誰が権力者になっても使える便利なシステムに変わった。野蛮とされた周辺国でも、貢ぎ物をもって朝貢すれば「中華」の一員とされた。「漢」時代には冊封体制となり、皇帝に従う国を冊封国として「中華」に入れ、ほかの野蛮とされた周辺国を朝貢国やその他に分けた。 (7)始皇帝は「王」を「皇帝」と呼ぶことにし、「中華」を壮大な究極の権威にまで高める必要があると考えた。宇宙の中心は北極星で、北極星は「皇帝と人々に天命を下すものとして崇められていた」。宇宙の中心に君臨しようとした。だから中心は、中原に代わり北極星の位置になぞらえた西の「極廟」とした。天の中心に位置する皇帝が天下を治める。「中華」とは宇宙の中心に立つ絶大なる皇帝の権威により、多様な人々をひとつに束ねる仕組みだった。皇帝を敬うものは「中華」に取り込み、それ以外は野蛮だとして差別する。それによって「中華」の一体感を強めるシステムである。 |
||
(8)孫文は、周辺民族を同化しようとし、漢(シナ人)、満(満州人)、蒙(モンゴル人)、回(ウイグル人など回教徒)、蔵(チベット人)の五つの民族が、一つの民族のように中華民国を作ってゆくのだといった(1912年)。毛沢東は「中国は、多数の民族が結合してできた、多くの人口をもつ国である」と述べた(『中国革命と中国共産党』第1章第1節中華民族、1939年)。(NHK「中国文明の謎、始皇帝「中華」帝国への野望」2012.12.2)。 | ||
213 | 儒教弾圧、諸子百家は法家に統一され、儒者460人が生き埋め。李斯の提案によって焚書坑儒。始皇帝は法家の思想に影響を受け韓非を尊敬し法家の李斯を側近に置いた。法家は儒家の礼を尊重する考え方を棄て、法と刑罰によって人民を支配することで君主権力の強化を図った。「皇帝」を名乗った始皇帝は、法家によって絶対的な権力を与えられた。http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/98sakasegawa.html | |
紀元前300年ころから北アジアで匈奴の活躍はじまる。ボクトツゼンウ(209~174)。 | ||
(秦滅亡) | 206 | 「漢」の劉邦が「秦王朝」を征服。 |
「楚」「漢」 | 「楚」の項羽と「漢」の劉邦が二大勢力で争う。 | |
「漢」 | 202 | 劉邦が項羽に勝ち、皇帝(高祖202~195年)となり、漢王朝を建てる。都は長安。 この頃から「皇帝」を「天子」と呼ぶことが増える、「天子」とは封建制度で国を統率した「周」の「天子」のことである。このことは、「秦」から「漢」の間に、儒教の影響を受けていることを示している。「天子」で、徳による夷狄への支配も可能にした。同時に天によって選ばれた者である「天子」を名乗ることで、上下の差別関係を明確化することになった。http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/98sakasegawa.html |
200 | 劉邦が大群で匈奴を攻撃。山西省大同市にまで進出したが大寒波で孤立。軍師・陳平がボクトツゼンウと妻を懐柔し漢軍を逃がした。「漢」は「匈奴」に毎年贈り物をすることで和睦した。 | |
200 | 儒教の諸儀礼を宮中に導入した。(礼の体得者がいたはずで、焚書坑儒で儒教が全滅させられたわけではないらしい。『孝経』加地伸行訳注、p.177)。 | |
(衛氏朝鮮) | 194 | 衛満が朝鮮に亡命し箕子朝鮮を滅ぼし、「衛氏朝鮮」成立。 |
141 | 武帝が即位。B.C136に、儒教を国教にした。 | |
129-119 | 匈奴を攻撃し、甘粛地方を平定し、匈奴をゴビ砂漠方面へ追いやった。劉邦以降、漢王朝は騎馬戦術を学び自前の騎兵を育てた。 | |
111 | 南越を征服。 | |
109 | 衛氏朝鮮を征服し四郡(楽浪郡ほか)を置く。 | |
103- | 匈奴を攻撃し分裂させた。分裂した匈奴の一派は西へ行ってフン族となり、ヨーロッパを蹂躙し一時的に巨大帝国を創る。ゲルマン人の大移動の原因となる。漢は財政的に疲弊し、漢王朝は窮乏する。 | |
75 | 半島には楽浪郡のみとなる。 | |
2 | 仏教が伝わる(一説に西暦67年)。 | |
5 | 王莽が平帝を殺し、仮皇帝と称した。 | |
(前漢滅亡)「新」 | 8 | 儒教支持の王莽が幼い皇帝から禅譲されて「新」王朝を建て前漢が滅亡。 |
(新滅亡) 後漢(25~220) |
25 | 「新」が滅び劉秀が皇帝(光武帝)となり、「後漢」王朝成立。国都は洛陽。 |
後漢時代に仏教伝来。★仏教を含むインド宗教は解脱したもの以外は死後は輪廻転生するという死生観。現世から来世に転生するときに人間になるかどうかは現世における道徳的高低によって決まる。どうなるか不明なので現世で肉体は意味がないので火葬にして遺灰は捨て墓は作らない。現世における精神は四十九日後に別の所へ離れていってしまうので祖先祭祀(先祖供養)はしない。★儒教文化の死生観では、生きている状態はコン(魂、精神の支配者)とハク(肉体の支配者。魂が空白)の融合状態とし、死はコンとハクの分離と考える。両者を呼び寄せて融合させ再生できる。呼び寄せるまでの間、コンは雲のことでそのままでよいが、ハクは白骨のことでそのままでは失われるので墳墓で管理する。死者を祭祀するのが子孫一族だから祖霊信仰であり祖先祭祀を重視する。自分の体は父母か残したものという身体観がある。自分の体は死により消滅するが、血のつながるものがいれば、肉体は「生命」として残り、安心感が生じる。こういう文化圏に祖先祭祀や墓のない仏教が入ってきたので激しい衝突が起きた。★1)儒教では生命の連続の自覚を尊重して祖先祭祀と子孫一族繁栄がある。現実には「祖先につながる親」と「子孫につながる子」つまり親子関係を重視し、祖先祭祀・子の親への愛情・子孫の繁栄の三者をまとめて「孝」とした。仏教は剃髪して父母からいただいた体を損なう。(加地伸行『孝経』) | ||
36 | 光武帝が全国を統一、漢王朝を再興して後漢(東漢)と称する。儒教主義。 | |
57 | 倭人の国へ「漢委奴国王」の金印を賜る。倭奴國奉貢朝賀。倭國之極南界也。光武賜以印綬。(『後漢書』) | |
105 | 蔡倫が紙を発明したとされる。 | |
166 | 大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス=アウレリウス)の使者が中国に来る。 | |
<農民反乱> | 132-172 | 農民の反乱が30回以上も起きたが何の解決にもならず、流浪化した農民はやがて宗教の結社に保護され食事や仕事を与えられた。軍事教練をした。太平道は数十万人に増えた(道教の源流といわれる)。 |
<黄巾の乱> | 184 | 太平道の張角が黄色頭巾をかぶり各地を襲撃したが破れる。「黄巾の乱」。宗教結社の五斗米道(ごとべいどう)は四川省に勢力を持ち漢中を統一し、信者の自治による理想の統治を行った。曹操に破れたがその思想と組織は全国に行き渡り、腐敗した王朝の打倒勢力として繰り返し登場する。王朝は各地に鎮圧を指示。曹操ほかの指導者が台頭し無政府状態。 |
200 | 曹操が官渡の戦いで袁紹と劉備を破る。その後、華北に覇権を確立する。 | |
208 | 曹操が「赤壁の戦い」で孫権と劉備の連合軍に敗れ、江南併合に失敗する。 | |
魏・後漢 | 216 | 曹操が魏王となり、魏王朝。 |
25-220 | 『論語』が整備された。「学而第一」に「和を以て貴しと為す」とある。 | |
(後漢滅亡) 魏(220~265) |
220 | 曹操の嗣子が後漢献帝の譲りを受けて帝位(文帝)につく。首都は洛陽。 |
魏 呉(222~280) 蜀(221~265) |
劉備は漢の後継者として蜀皇帝を名乗り、孫権は呉の皇帝を名乗る。 | |
238 | 倭国に「親魏倭王」の金印 | |
239 | ★倭王卑弥呼の使者が魏に来貢する。 | |
西晋(265~316) | 265 | 魏の司馬炎が魏の元帝から譲りを受けて皇帝(武帝)となり、西晋王朝を建てる。 |
(呉と蜀滅亡)西晋 | 280 | 西晋の武帝が呉と蜀を滅ぼし、天下を統一。首都は洛陽。 |
このころ西晋の陳寿『三国志』(「東夷伝」のなかに倭と倭人の記述)。このころ『魏志倭人伝』(『三国志』・魏書・東夷伝倭人条のこと。陳寿著)。 | ||
西晋・匈奴の漢 (五胡十六国時代304~439年) |
304 | 匈奴(北方遊牧民族)の将軍・劉淵が山西に「漢」を建国し漢王を名乗り晋に対抗。 |
(西晋が滅亡) ―匈奴の漢― |
316 | 山西に漢と号していた匈奴の劉淵の族子、劉曜が西晋(愍帝)を滅ぼす。漢民族は中原(ちゅうげん)を追われたことになる。 |
東晋 ―匈奴の漢― |
318 | 晋の残党が江南で亡命政権を創り東晋皇帝(元帝)となる。首都は南京。前の晋は西晋と呼ばれる。中原は群雄割拠. |
江南(南朝)= | (西晋)→東晋→宋→斉→梁→陳→(隋) | |
華北(北朝)= | (西晋)→[漢(匈奴)→前趙(劉曜)+後趙(羯族の石勒→石虎)→後趙(石勒→石虎)→魏(冉)→前燕(鮮卑慕容部、華北東、国都?)+前秦(チベット系?族)+前涼(最初に漢民族の張氏が甘粛の地に建国)+代→前秦(華北統一)→後燕(鮮卑慕容部)+後秦(羌族)+西燕(鮮卑慕容部)+西秦(鮮卑族)+北魏(鮮卑拓跋部)+後涼(?族)+南涼(鮮卑族)+西涼(漢族)+北涼(匈奴)+夏(匈奴)]→北魏→東魏+西魏→北斉+北周→(隋 | |
五胡= | 匈奴(北方遊牧民族)羯(遊牧民)鮮卑(モンゴル系部族)?・羌(チベット系民族で甘粛省・陝西省・四川省の地域に、古くより定住していた民族)である。五胡とは、魏晋の時代になって急に出現した異民族ではなく、それ以前より華北の地に定住し、漢民族と雑居していた集団を指す言葉である。 | |
東晋・―代― | 338 | 西晋滅亡後、鮮卑拓跋部(モンゴル系またはトルコ系)が自立し、代王、什翼?が代国を建てる。 |
東晋・―北魏― | 398 | 鮮卑拓跋部が長城を越えて北中国へ侵入し国号を「魏」とした。乱立政権の一つ。 |
406 | 鳩摩羅什が漢訳『妙法蓮華経』 | |
413 | ★倭国王、讃の使者が東晋に来貢する。 | |
(東晋滅亡) 南宋(420~479) |
420 | 宋王だった劉裕(武帝)が東晋の恭帝の禅譲で宋王朝を建てる。東晋滅亡。 |
このころ『後漢書』東夷列伝。 | ||
439 | 北魏の太武帝(鮮卑)が華北一帯を制覇したので高句麗から敦煌まで支配。 | |
478 | ★倭国王、武(雄略天皇)が宋の順帝に国書を贈る。 | |
斉(宋消滅) | 479 | 斉王の蕭道成(高帝)が宋を譲り受け、斉王朝を建てる。 |
―北魏― | 485 | 北魏の文明太后(文成帝の皇后)が実権を握る。 |
493 | 北魏の孝文帝が親政を開始し、洛陽へ移る。拓跋姓から元姓に変更する。 | |
梁(斉が消滅) | 502 | 梁王、蕭衍(しょうえん武帝)が和帝から斉を譲り受けて梁王朝を建てる。 |
百済の聖明王は武帝から「綏東将軍百済王」に冊封された。(ウキペディア) | ||
(北魏が分裂)東魏・西魏 | 534 | 北魏が東魏(漢族出身の王)と西魏(匈奴出身の王)に分裂。 |
北斉・北周 | やがて、東魏は北斉になり、西魏は北周になる。 | |
陳(梁滅亡) | 557 | 梁の将軍、陳覇先(武帝)が梁政権を奪い、陳王朝を建てる。国都は建康。 |
北周(北斉滅亡) | 577 | 北周の3代皇帝の武帝が北斉を滅ぼし、華北を統一する。 |
(北周滅亡) 隋(581~618) |
581 | 武川鎮出身の楊堅(文帝)(鮮卑族)が禅譲により北周の皇帝となり、隋王朝を建てる。国都は長安。 |
―隋― (589陳が滅亡) |
589 | 晋王、楊広(文帝の次男で後の隋の煬帝)が南朝の陳王朝を滅ぼし、中国を統一する。隋の北西にトルコ系突厥、北東、満州に高句麗が勢力をもち、両者が提携の動き。 |
中国の天台宗成立(龍樹を初祖とし、四代めの智顗(ちぎ538-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派) | ||
607 | ★遣隋使、小野妹子が長安へ国書を届ける。 | |
612 | 隋は高句麗遠征を始めるが陸軍・海軍ともに殲滅され惨敗した。各地で反乱。 | |
(隋が滅亡) 唐(618~907) |
618 | 隋王朝が滅ぶ。(武川鎮軍閥の李淵が恭帝を擁立し、煬帝が殺されると唐王朝を建て、皇帝(高祖)となる。)国都は長安。最強の敵はユーラシア大陸中央を支配した突厥で、唐も攻められた。 |
(李淵の属する李氏は、史書では漢民族とされている。しかし実は鮮卑系の出身で本来の姓は大野氏であり、中原の支配権を正当化するために「自分は漢民族の先祖を持っている」と主張した、という説も強い(ウィキペディア)。) | ||
628 | 高祖の次子、李世民が天下を統一し太宗となる。 | |
629 | 玄奘がインドへ出発する。 | |
太宗は突厥を撃破し、遊牧民の首領から支配者と認められた。 | ||
635 | 景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)がペルシャのほうから来た。 | |
664 | 3代高宗が皇帝となる。(実権は太宗の後宮の則天武后)則天武后は子を殺して李氏を廃し、自分の武氏で宮廷を独占した。 | |
「渤海国」 | 698 | 高宗に滅ぼされた高句麗の遺民が「渤海国」を建てる。 |
唐 | 713 | 玄宗が皇帝となる。(~756)楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を独占する。 |
751 | イスラム帝国はヨーロッパに侵入し中央アジアにも勢力を伸ばした。サマルカンド、トルキスタンに侵入。東トルキスタンのオアシス都市は唐に救援を求めた。唐とイスラム軍はキルギス領で戦い、唐は敗れる。しかし、唐はフランスとともにイスラムの世界帝国化を阻止した。 | |
<安史の乱> ―唐―ウイグルへ貢ぎ物― |
755-763 | 安史の乱。突厥出身で辺境防衛に当たっていた安禄山が、粛正されるのを恐れ、突厥を味方にして、北京、洛陽から長安を攻めたので、唐はモンゴル高原のウイグル(トルコ系で同じトルコ系の東突厥を抑えていた)に加勢を頼み、乱を平定した。これ以降、唐はウイグルに莫大な貢ぎ物を送り続けて財政の負担になった。 |
804 | ★最澄と空海が唐に渡る。最澄は805年、空海は806年に帰国。 | |
(ウイグル滅亡) | 9世紀半ば | ウイグルの遊牧国家が同じトルコ系キルギス族に滅ぼされる。 |
880 | 塩の密売人の黄巣が長安占拠、略奪。 | |
唐 | 890年代 | 唐の加勢をした突厥の李克用を山西北部へ追い払った朱全忠(漢民族)は宦官の大半を殺し、梁王となり、唐朝を支配する。又、朝廷を洛陽に遷都し、貴族を黄河に投げ込み、貴族制度を消滅させる。 |
(唐滅亡)後梁 | 907 | 朱全忠が昭帝を殺し、哀帝を立てて位を奪い、五代後梁の太祖となる。 |
(唐が滅びる)国都は洛陽(西京) | ||
(華北部)契丹(のちの遼) | 916 | 華北では契丹族の耶律阿保機(太祖)が国家(後の遼)を統合する。 |
後唐(後梁滅亡) | 後梁が後唐の李克用の子、李存勗(そんぎょく)に滅ぼされる。李存勗は義弟の李嗣源に後唐の帝位を奪われ、李嗣源が明宗として即位する。 | |
936 | 明宗の義児が契丹(遼)の太宗に援助を求め代りに燕雲16州(北京周辺)を割譲する。 | |
後晋(後唐滅亡) | 後唐の明宗の子と石敬?が争い、石敬?が後晋を建てる。 | |
(華北部)遼(後晋滅亡) | 937 | 契丹(遼)の太宗が燕雲16州の割譲を受け後晋を滅ぼし遼(華北方面)を国号とする。(後に後周の世宗に6州を奪還され、国勢振るわず北帰する。) |
後漢(北漢) | 後晋の将軍が後漢をたてる。 | |
後周(後漢滅亡) | 後漢の将軍が後漢を奪い後周の太祖となる。 | |
(後周滅亡) 北宋(960~1126) (長城以南) |
960 | 後周の恭帝に代わり後周の将軍、趙匡胤が皇帝(太祖)となり北宋王朝を建てる。国都は開封(かいほう)。北の版土は長城辺りまで。それ以北は遼と西夏。 |
(もとの南宋滅亡) | 975 | 南唐が北宋に滅ぼされる。 |
979 | 太祖の弟の太宗が呉越、北漢を滅ぼし、遼の燕雲16州を残して全国を統一する。 | |
北宋―遼へ歳幣― | 1004 | ?淵(せんえん)の盟約(遼が北宋を攻撃し両者は対等の関係となる)。遼の侵入防止のために和議をし、毎年、銀、絹を歳幣として贈る。 |
北宋 ―西夏と遼へ歳幣― |
1038 | チベット系タングート族が勃興し宋を侵略し、李元昊(こう)が大夏皇帝と称し西夏国を建てる。(北宋への侵攻を始めるが、北宋は独立を認め、歳幣を与えて決着する。)。遼やと大夏への歳幣が財政を圧迫。 |
(満州東部)金(遼の女真族) | 1115 | 遼の女真族(ツングース系)が遼から独立し金王朝建設。(満州の東、沿岸部) |
北宋・金 (遼滅亡) |
1125 | 金が遼を滅ぼす。(遼は北宋との接触で騎馬民族の気風を失い、女真族を搾取していたため、女真の反乱を招き、滅亡に至る。宋は燕雲16州回復のために、金と協力して遼を攻撃し、金の助けで燕京等6州を奪還する。) |
(北宋が滅亡) (長江の北まで) 金 |
1127 | 靖康の変が起こり、北宋が滅亡する。(金の太宗が北宋の徽宗の子、欽宗を滅ぼす。宋は遼の残存勢力と連携して金を討つために、流亡中の遼の天祚帝に信書を送ったが、帝が金軍に捕まり事実が露見、金は宋を攻撃、和議をしたが、宋は和議不履行をして金軍に再攻撃を受け、滅亡に至る。金は長江の北まで南下する) |
金(1115~1234) 南宋(1127~1279) |
1127 | 欽宗の弟の康王(高宗)が河南の応天府(南京)で即位し、南宋を建てる。国都は杭州臨安。 |
南宋・―金(華北)へ歳幣― | 1138・1142 | 「金」(女真族)と「南宋」の和議が成立する。(1138年1次、1142年2次)。華北は「金」、華中と華南は「南宋」の領域となる。「金」は水上の戦闘に不慣れで、長江どまりだった。「南宋」の皇帝は和平派を容れて「金」の皇帝に対して臣と称し、銀と絹の歳幣を贈った(これを屈辱外交としのちに漢奸と呼ばれた)。 |
1153 | 金の海陵王が燕京(大都)に遷都する。燕京(大都・北平・北京)が国都となる。 | |
1130- | 朱熹(しゅき、尊称は朱子。~1200)が朱子学(儒学)を大成する。 | |
「南宋」「モンゴル」 | 1206 | チンギス汗(大汗)がモンゴル高原を統一し、大モンゴル国を建てた。ウイグル族を降伏させ東南の沿岸部の金へ侵攻する。 |
1231 | モンゴルの朝鮮への侵略が始まる。 | |
「南宋」「モンゴル」 (金滅亡) |
1234 | モンゴルが南宋と共同して金王朝を滅ぼす。金は、漢化による武力低下、契丹族の反抗などを契機に、滅亡する。これにより、南宋はモンゴルと国境を接し、その圧力を受ける。 |
1259 | (朝鮮)高麗がモンゴルに降伏し、属国となる。 | |
「南宋」 「元」(1271~1368) |
1271 | フビライが大元を建てる。(国号は元。国都は大都(現北京、冬期の都)。 |
1274 | ★文永の役が起る。(元が日本に襲来したが、敗退する。) | |
「元」(南宋滅亡) | 1279 | 南宋が滅ぶ。(恭宗の兄、端宗はモンゴル軍の追撃を受けて病没し、次いで恭宗の弟の衛宗が広東でモンゴル軍に破れる。) |
1351 | 黄河が大氾濫し、河南に紅巾の乱(終末思想と弥勒仏による救世主思想の白蓮教徒。現世を否定するので為政者から否定された)が起る。 | |
1352 | 反乱軍で力をつけ、呉王となった朱元璋が、長江中下流域、華南を統一する。 | |
(「元」退去)「明」(1368~1644) |
1368 |
朱元璋(太祖・洪武帝)が「明」王朝を建て、皇帝となる。(「元」の順帝は漠北に退去、「南宋」滅亡から90年でモンゴル族の中国支配が終わる。) |
1404 | ★琉球へ最初の冊封使(さっぽうし)を送る。 | |
1405-1433 | 永楽帝の命を受けて鄭和(ていわ。雲南出身の宦官)が西洋(中国にとってインド洋は西洋と呼ばれた)へ60数隻からなる船団で大遠征する。(7回)鄭和とその幕僚はイスラム教徒。華僑の先駆けで中国であぶれた中国人は海外へ進出していく。 | |
1421 | 永楽帝が国都を南京から北京に移す。 | |
1429 | (尚巴志(しょうはし)、三山(さんざん)を統一し「琉球王国」が成立)。 | |
16世紀初め | 王陽明(1472~1528)が陽明学を確立する。 | |
1561 | 「明」から1561年に琉球王朝へ派遣された使節、郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文のうちで、尖閣諸島のひとつ、大正島について、「琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記していた。現在の中国は大正島を「赤尾嶼(せきびしょ)」と呼んでいる。「渉る」は入る、「界地」は境界の意味(石井望准教授、長崎純心大)。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120717/plc12071708420009-n1.htm | |
1588 | ★「後金」(こうきん)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人)の国家で、清に継承された。 ヌルハチは1588年までに女真(満州)を統一し「満洲国」を建てた。1616年までに一部族を除く全女真を統一し「明」からの独立を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(金国)と定めたので、かつて12世紀の「金」と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。前後してヌルハチは満洲文字、更に八旗制という軍事・社会組織を創始して国家の基礎を打ち立てた。 1618年、「後金」は「七大恨」を掲げて「明」に対して挙兵した。1619年に「明」の大軍を破ると、最後の部族を併合し女真の完全統一を果たした。1621年には「明」の遼東支配の拠点遼陽と瀋陽を征服し、都を遼陽に、さらに瀋陽(盛京)に移した。此の段階で、ヌルハチの勢力圏は遼河の東方全域に及んでいた。翌1626年、ヌルハチは寧遠攻めで西洋式の大砲を擁する袁崇煥の軍に敗れ、その後間もなく死去した。ヌルハチの後継者ホンタイジは内モンゴルを平定し、「朝鮮」を服属させ、女真の民族名を「満洲」に改めた。1636年に国号を「大清」に改めた。「清」は1644年に「明」滅亡後の中国に進出した。(ウィキペディア) |
|
1592 | ★文禄の役。日本軍が明・朝鮮連合軍と戦った。 | |