幕末・明治維新略史

HOME > 米国保守主義革命略史


米 国 保 守 主 義 革 命 略 史

中岡勉『アメリカ保守革命』中公新書ラクレ、2004年
佐々木毅『アメリカの保守とリベラル』講談社学術文庫、1993年、ページは(さ )
ほか
< >は補足 
米国保守主義

<(1)ニュー・ディール改革による中央政府の権限拡大をやめさせることで経済的自由を復活させる。
(2)キリスト教による道徳を重視し秩序を回復させる。>

ヨーロッパ大陸流にいえば、アメリカの保守主義は自由主義であり、リベラリズムはやや社会民主主義に近いといってよい。(さp.15)
マネタリスト、ネオコン、ペイリオコン 共和党<民主党>政権

<穏健派だった共和党は保守主義者に乗っ取られ、経済的自由と「小さい政府」を主張する保守派が主流に>
1790年エドモンド・バーク『フランス革命についての省察』
フランス革命を批判。フランス革命は人間の理性や物質的な決定論を評価し、先祖の智慧を軽視し伝統社会を否定した。政治的平等主義で伝統的社会秩序と特権を否定、民主主義が理想と考えられた。p.20

<フランス革命を解体することと、強い州政府を回復するためにニュー・ディール改革を解体すること、というのが「保守主義」の共通点である>
 <J.S.ミルは基本的に「自由放任政策」の支持者であったが、ユートピア社会主義者の影響も受けている。ミルは、生産が自然の法則によって与えられるのに対して分配は社会が人為的に変更可能であることに着目し、政府の再分配機能によって、漸進的な社会改革を行なうことに期待している。おおよそ英国社会はマルクスの革命の予言ではなく、ミルの書いた穏健な処方箋の方向へ徐々に進んだともいえる。ウィキペディア>  <憲法制定で、中央集権的で強力な政府の樹立を目指す連邦派は後に「連邦党」を形成し、これに反対する反連邦派は後に「民主共和党」となった(「アメリカ合衆国憲法」ウィキペディア)。1792年から1793年、ジェファーソンとマディスンは、新しく「共和党」を創設した。彼らは、ハミルトンの政治構想が違法であることを訴えようとした。後の歴史家が「民主共和党」と呼んだこの政党は、1820年代には派閥に分裂し、そのうちの1つが「民主党」になった。>

1854年に「共和党」は反奴隷制度を掲げて結成された。
<反連邦主義は合衆国連邦政府がいっそう強力になることに反対した運動をさすが、それは後には1787年憲法の批准に反対した。アメリカ植民地同盟と言われる旧憲法は州政府に強い権威を与えていた。バージニアのP.ヘンリーに率いられた反連邦主義者は大統領の地位が君主制になっていくことをおそれていた。「反連邦主義者の書」は反連邦主義思想を詳細に説明している。アメリカ革命の前後には「連邦」は植民地連合と植民地同盟のもとで作られる政府を支持する人々を指していた。
独立戦争後、条項のもとでの国民政府は弱すぎると感じた人々は自分たちのことを「連邦主義者」と名づけた。
●反連邦主義者には三通りある。(ア)強力な政府が州、地方、個人の主権を脅かすと考え憲法に反対した人々、(イ)英国のような人々から見放された専制政治とは違った新たな名目的な「君主制」的な権力を求める人々、(ウ)新政府が個人的な自由を脅かすことをおそれた人々、である。反連邦主義者の中には次のような不満もあった。憲法は「連邦政府」よりも集権化されたものをもたらす(マディソンは連邦主義者の書の中で新憲法は集権化された政府と連邦政府と両方の性格があることを認めた)とか、連邦という政府形態は(統一体ではなく)植民地同盟のもとでの州の同盟であるとか言う不満である。WIKIPEDIA>

  
●1922年ミーゼス『社会主義―経済的・社会的分析』
社会主義の計画経済は経済運営で失敗すると「国家社会主義」を強烈に批判。また、経済は多くの人々が不確実な市場で様々な選択を行なっており、「中央政府の役人は経済を規制するだけの十分な知識は持っていない」と、のちのケインズ経済学のハーベイロードの仮説を否定。p.32
 <1848年J.S.ミル『経済学原理』「国家は一般的規則に従って行動しなければならない。国家は、救済に値する貧困者と、これに値しない貧困者との間に、区別をすることを企てることはできない。国家は、前者に対しても単なる生活費を与えるだけでよければ、後者に対しても、これ以下のものを与えるわけには行かない。…担当官や監督官たちは、救済を求める人達の徳性をみずから判定し、この判定に従って他人の金銭を与えまたは与えないという仕事を託されるのに適しない人である。…私的慈善はこのような区別をなすことができる。そして自分自身の金銭を与えるにあたっては、自分自身の判断に従ってそうする権利を持っている。」>   ●1897年~1913年まで共和党の大統領が三代続いたあと、1921年~1933年まで同じく三代続いた。大恐慌で崩れ、ショックだった。

<ルーズベルトは1921年(39歳)にポリオに罹り、その後遺症により日常生活には車椅子を常用していた。しかしルーズベルトが健康を害していることは米国民にはほとんど知られなかった。実際、彼の車椅子姿の写真は2枚しか知られていない。ウィキペディア>

1929年に大恐慌始まる。
F.ルーズベルト政権以降のリベラリズム<●英国では19世紀末にニュー・リベラリズムと呼ばれたもので、現代の「社会自由主義」>が米国の政治・経済・社会の中に深く浸透したことが保守主義者に危機感。そういう意味では「反動思想」としての色合いがある。p.9
 <1936年ケインズの『雇用と金利と通貨に関する一般理論』>   <民主党●F・ルーズベルト政権(1933~1945年)

ニューディール政策のスローガンのもとに政府が積極的に経済に関与する。公共事業による有効需要政策だけでなく、福祉国家につながる社会保障庁が設立された。>
●アメリカの「保守主義革命」は三つの段階に分けられる。p.15
(1)1950年代から始まった。「保守主義のルネッサンス」
(2)1960年代半ばから。保守主義思想による政治運動が始まる。保守主義者が共和党を乗っ取る。
(3)1981年のレーガン政権でピークを迎える。保守主義の政治革命の成就を意味した。「レーガン革命」。
1990年代になってジョージ.H.W.ブッシュ政権になるが、リベラル寄りの政策は保守主義者の離反を招いた。p.104。

  1930年代から北東部の共和党は労働組合と友好的でニュー・ディール予算を支持する自由主義的な立場だった。彼らは自由な市場を支持したがいくらかの規制も支持した。(WIKIPEDIA「米国共和党の歴史」)

<1937年、隔離演説を行った。「不幸にも世界 に無秩序という疫病が広がっている。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体 は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」。ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」という記事を掲載。隔離演説はアメリカ国内で非難を受けた。ウィキペディア。積極的に制圧すべきという意見とは一致しない>
<経済学における政府の積極的な介入を主張するケインズ経済学と、思想界におけるリベラリズムがあいまって「大きな政府」が積極的に評価されるようになっていく。ケインズの「ハーベイロードの仮説」という考え方があった。それは、少数の優れた人々の判断が市場の判断よりも優れているというもので、人は不完全であると考える保守主義者の発想と真っ向から対立するものであった。>
リバタリアニズムは、ケインズ経済学や福祉国家論に真正面から挑む。
 <第二次大戦は戦争遂行のためにさらに連邦政府を肥大化。>
●1944年フリードリッヒ・ハイエク『隷属への道』。

福祉国家は人々の国家に対する依存を強め、やがては一握りのグループに権力を集中し、最終的に全体主義に行き着き「福祉国家は隷属への道」を準備する、とリベラリズムの思想に真正面から挑んだ。p.31
●本書が出版されるまでファシズムやナチズムは社会主義に対する反対として理解されていた。「計画化」は市場という社会の自律的な調整機能を廃止し、特定の目標に対して社会の諸力を意識的に指導する社会主義であったが、「欠乏や貧困からの自由」を掲げた「自由の計画化」として自由主義者に受容された。ハイエクは政治的選択肢は、少数の計画者が分け前を決定する体制と、少なくとも一部分は個人や企業によって決める体制の選択であるという。●計画化という意味ではナチズムやファシズム、社会主義は同一でる。ハイエクは市場に基づいた自由こそが文明の発展には不可欠であると論じる。(ウィキペディア)


<●ミルの「自立」は労働者が資本家への依存をやめる、または貧困者が救済への依存をやめる、ハイエクの「自立」は国民が福祉国家への依存をやめるという意味であろう。>
リバタリアニズム
リベラリズムは社会的公正を志向するがゆえに政府による富の再分配(所得再分配)によって平等を実現しようとする社会主義~社会民主主義的、あるいは福祉国家的な文脈で使われるようになった。
それに対して、リバタリアニズムでは、私的財産権は個人の自由を確保する上で必要不可欠な原理と考える。私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。法的には、ハイエクに見られるように、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法の支配を追求する。経済的には、市場で起きる諸問題は政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセフェール)を唱える。
ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンから税金をたっぷり取り、彼らが努力によって正当に得た報酬を人々へ(勝手に)分配することは、たとえその使い道が道義的に正しいものであったとしても、それは権利の侵害以外の何物でもなく、そうした行為は彼らの意思によって行われなければならない。すなわち、貧困者への救済は国家の強制ではなく自発的な寄付によってのみ行われるべきだと主張する。ウィキペディア
●(1)共和党穏健派(「ウォールストリート保守派」)
1942年から54年までニューヨーク州知事だったデューイ、アイゼンハワーやロッジは「穏健派」であった。1950年代の「穏健派」の代表はパパ・ブッシュとブッシュの父と祖父だった。1959年から74年までニューヨーク州知事で1974年から77年までフォード政権の副大統領だったロックフェラーも「穏健派」であった。ロックフェラーの引退後、このグループはレーガンにつながる保守主義者との対比で「共和党穏健派」と呼ばれた。
ロックフェラーの共和党は国内問題と社会政策では穏健で自由主義的だった。★彼らは規制と福祉のニュー・ディールを支持した。また公民権の強力な支持者だった。また大企業から支持された。財政政策では均衡予算を目指し、そのための高税率を支持した。彼らは長期的経済成長のためには減税ではなく企業家精神を重視した。アイゼンハワーは20年にわたる民主党政権を破ったが、ニュー・ディールをやめようとはせず社会保障制度を拡張した。(WIKIPEDIA「米国共和党の歴史」)

●(2)オールドライト「メインストリート保守派」
1964年以降優勢となる。中西部、南部、西部の企業家が支持する。自由放任主義、「小さな政府」、「反ワシントン(反連邦政府)」、減税による私企業の育成、反福祉国家主義。反共主義。孤立主義。ゴールドウオーター、レーガンが代表。(さp.25)
 1945年の時点で一貫性のある知的な保守主義勢力はなかった、とナッシュはのべたp.14    <民主党●トルーマン政権(1945年~1953年)>

4選を果たしたルーズベルトが1945年4月に急死したので、副大統領のトルーマンが大統領に昇格した。原爆投下を支持した。
 1947年スイスのモンペルランの会議。
ハイエク、フリードマン、フリードマンの師ナイトなどが参加。保守主義思想を持つ人々p.37。
当時、イギリスで労働党の政権が成立、フランスでは計画経済へ傾斜する動き、ソビエトの国際的な影響力が強まっていた。アメリカではニューディール連合がワシントンを支配し、連邦政府の巨大化が顕著。いわば保守主義者にとって、世界は危険な道を進んでいた。p.38
   <1948年大統領選でトルーマンは自身の政策を「★フェアディール政策」と呼び、ルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。共和党候補デューイを破った。二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。ウィキペディア>
 1948年ウィーバー『アイデアズ・ハブ・コンセクエンス』
現代アメリカの保守主義運動の起源。神の制約から解き放された人々は社会を自分たちの意識で「改善」できると過信。ウィーバーは人間は不完全だから「伝統」や伝統に基づく「価値観」や「秩序」が錨として必要であるとした。建国の父たちは人間が不完全だから国家権力の集中を避けようとした。p.18
   後の米国は大学、メディア、政府などもリベラル思想の影響を強く受けた。ニュー・ディール連合と呼ばれたリベラリズム人々がワシントンを支配した。官僚機構は肥大化した。p.11
 アメリカの「連邦主義」の考え方(主権の多くを中央政府から地方政府に委譲する思想と、逆に連邦政府に主権を集中する思想も連邦主義と呼ばれる)。アメリカの建国の父たちは、人間の本性は変わらぬと考え、権力の分散が国家の基本として必要と考えた。三権分立という工夫。権力を中央政府と地方政府との間で分散する仕組みを作り上げた。p.26

保守主義者は権力が個人の自由を侵略することに神経質。個人が国家に対して主体性を維持するには、私的所有権を守る必要がある。個人の自由を保障し、個人間の競争を促進することが必要であると主張。p.27

ヨーロッパでは、リベラリズムの台頭によって伝統的な西欧文明は危機に瀕し、アメリカこそがユダヤ・キリスト教を基盤とする伝統的な西欧文明を引き継ぐ使命を担っていると考えた。
   1952年の大統領選では●アイゼンハワーは、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは共和党を選んだ理由としては、民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだと語った。党では上院議員ロバート・タフトを破り、共和党の大統領候補としての指名を得た。大統領選では共和党員が、彼の温厚な公のイメージを守りつつも、民主党員を「共産主義に寛大」として非難する冷戦キャンペーンをすることを黙認した。このため、アイゼンハワーは若手の上院議員で、反共姿勢で知られたニクソンを副大統領候補に選んだ。ウィキペディア
 1952年の大統領選挙で保守主義者は、共和党候補としてアイゼンハワーに対抗してタフトの擁立を画策した。アイゼンハワーが東部リベラリストを支持層にしている穏健派であるのに対して、タフトは中西部の保守層が支持基盤であった。結果的にはアイゼンハワーが共和党候補に選ばれた。p.65

タフトは1953年に死亡。保守主義者が支持したのは、バーリー・ゴールドウォーター上院議員。
   ●アイゼンハワー政権(1953年~1961年)

は保守主義者から「同志」とは見られなかった。1953年四月にアイゼンハワー大統領が共和党との約束であった財政均衡が達成できないと伝えたことから、ホワイトハウスと共和党は真正面から対立し、分裂の危機に直面した。
アイゼンハワー政権のときにスエズ危機やハンガリー動乱があり、これに対する政府の対応が生ぬるいと保守主義者は政府批判を強めた。
1959年のフルシチョフ首相の訪米は、保守主義者にとってアメリカが共産主義に屈したのに等しい出来事であった。
ニクソンが1960年の大統領選挙に共和党候補として立候補したが、そのとき『ナショナル・リビュー』はニクソンを支持しなかった。ニクソンが保守主義者ではなかったので、ニクソン政権に保守主義者は冷ややかな態度を取り続けた。p.63
 1955年バックリーは雑誌『ナショナル・リビュー』を創刊。
当時、リベラリズムを標榜する雑誌『ニュー・リパブリック』や『ザ・ネーション』があった。それに対抗したのが『ナショナル・リビュー』。同誌が最初に掲げた編集方針は「リベラリズムは敵である」、「ニューディールは革命であり、戦わなければならない」であった。保守主義者を代弁する最も重要な雑誌になった。さらにテレビ番組で、大衆を対象に保守主義思想の啓蒙を図った。また、保守主義の草の根運動を推進。p.45
 保守合同。(ア)キリスト教精神に重点を置く伝統主義者やキリスト教原理主義者と、完全なる自由競争を唱えるリバタリアニズムの間で、政治的対立、(イ)外交政策や安全保障政策に重大な関心を払わないモンロー主義や孤立主義を提唱する伝統主義者や、対外不干渉主義のリバタリアニズムのは、反共主義者の積極介入主義との間で、政治対立があった。この分裂した保守思想を1つの大きな「保守主義」としてまとめあげたのが、1955年に創刊された『ナショナル・レビュー』という雑誌。この雑誌の編集者のウィリアム・バックリー・ジュニアは、保守思想の対立はリベラリズムにあると主張した。「リベラリズムは反共主義者の嫌う共産主義を容認し、リベラリズムは伝統主義者の嫌う伝統の破壊者であり、リベラリズムはリバタリアニズムの嫌う大きな政府の支持者である」とし、リベラリズムと対立する3つの異なる保守の合同に成功した。これが1960年代のゴールドウォーターを中心にしたアメリカの保守主義運動と連動して、1つの潮流を作り出した(ウィキペディア「新保守主義」)。  1958年にニューヨーク州知事に就任した共和党ロックフェラーは、東部を基盤とした穏健派で、自由市場を擁護し、有効な就業や職業訓練を求めた。しかし自由主義的な共和主義は組織的な運動にはならなかった。彼らは経済成長と州や連邦の支出拡大を支持し、高い税金と自由主義的立法を促進した。宗教や社会問題は重要ではなかった。(WIKIPEDIA「米国共和党の歴史」)。
 1960年代以降、"リベラリズムの過剰"の中で性道徳の乱れや人工中絶、公立学校での礼拝問題、同性愛問題など宗教的な倫理観に反する現象が目立ってくると、キリスト教徒は民主党離れをした。p.81
1960年代から70年代のアメリカ社会を表現するとすれば、「ドラック・カルチャー」「過激な学生運動」「ポルノ解禁」「市民権運動」「黒人暴動」「インテリの衰退」。さらにベトナム戦争の敗北は、アメリカの自信を打ち砕いた。多くのアメリカ人にとって、アメリカ社会の道徳的な基盤が崩れ去っていくように思えた。p.78
   1960年大統領選挙でテレビ・ディベートがおこなわれた。ケネディは知名度がなく、●支持率調査でもニクソンの支持率が優っていた。選挙後、テレビ・ディベートがケネディ勝利の原因とされる。ケネディの好印象の理由の一つは、彼が着ていたスーツの色と言われる。当時のモノクロテレビの画面では、ケネディは濃いグレーで表示され力強く見えたとされる。ラジオでテレビ・ディベートを聞いていたケネディ陣営は「(討論内容だけ聞く限りでは)負けたと思った」と後に証言している。ケネディは俳優のアドバイスを受けて、綿密にテレビ用のメーキャップをした。ニクソンは「議論の内容が重要である」と言いテレビ用のメーキャップを拒否しやつれて見えた。ウィキペディア
 1960年ゴールドウォーター『ザ・コンシェンス・オブ・ア・コンサーバテフィブ(ある保守主義者の良心)』を出版。
内容は、伝統主義者が語る保守主義思想と極めて類似したもの。「政府は放っておくと絶対主義に向かって拡大する傾向がある。アメリカ憲法はそれを抑止するシステムである」という主張は、ルーズベルト政権への批判とオーバーラヅプする。p.66
 フリードマンが大学卒業後の就職難の最中で得た連邦政府の職はニューディール政策が生み出したものであった。後に振り返って、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求める研究を残している。しかし、第二次世界大戦が終わり連邦政府の職を離れるまでの経済学上の立場は一貫してケインジアンであった。ウィキペディア  <民主党●ケネディ政権(1961~1963年)>

就任演説において、「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」と演説した。ウィキペディア
 ●1960年ハイエク『自由の条件』。
保守主義思想の主張のエッセンスp.32
(1)「●政府の権限は制限されるべき」
(2)「自由市場であること」
(3)「ルールは非属人的(インパーソナル)であること(すなわち特定の個人の影響力によって決められるべきではない)」
(4)「●社会発展は計画や強制によるのではなく、自発的に実現されるべきである」
伝統主義者は完全な自由放任主義を説くが、ハイエクはそれに賛成しない。個人のコントロールを超える災害や損害に対して、政府は個人に対して最低限の保護を与えることは容認している。ハイエクが否定するのは、政府による強制であり、政府による裁量的な政策である。
 ●1962年フリードマン『資本主義と自由』
「政府の活動範囲は制限されるべきで、政府の権力は分散されるべき」と主張。これは伝統主義の保守主義者の思想と同じである。また、保守主義に基づく経済政策を幾つか提言、学校選択の自由、均一税制(フラット・タックス)の導入、志願兵制度、外国為替の変動相場制への移行、通貨安定のためのルールの設定、社会保障制度の民営化、アファーマティブ・アクション(人種や性別による差別撤廃措置)の廃止、財政均衡などを求めている。p.35

<反ケインズだから均衡財政なのであろう>
 <ケネディは、国内政策を「ニュー・フロンティア政策」と総称した。教育への連邦政府支出、高齢者医療保険、政府による景気対策、人種差別法案の撤廃など。また所得税減税などのための追加支出だけでなく、軍事費や、ベトナムへの軍事援助やアポロ計画などの支出に対する明確な財源がなかったため、予算法案の多くが、ケネディの死後の1964年まで議会を通過しなかった。アイゼンハワー政権末期から始まった不況への対策として、失業手当の13週間延長、失業者の子供への補助金、早期退職を奨励するための年金増額、最低賃金の向上、スラム再開発のための政府融資などの法案を通過させた。しかし財源不足のため、公共事業などへの投資の縮小をもたらし、不況を後押しし、政府の債務を増加させた。ウィキペディア>
保守主義とリベラリズムの戦いは「ヨーロッパ文明と全体主義思想の相克から出てきた戦いである。


<保守主義的には、内発的発展は自発的な発展であって、リベラルが言うような政府による計画などの否定>
●1963年フリードマン=シュワルツ『アメリカの通貨の歴史』。

その研究がマネタリズムの理論の契機となった。フリードマンは、大恐慌が「市場の失敗」によるものではなく、「政府の失敗」によって起こったことを実証した。保守主義的には「政府は信頼できない」という保守主義の主張を裏付けた。p.34
 
1964年メイヤー編『保守主義とは何か』。メイヤーは、アメリカの保守主義者が共有すべき基盤を明らかにしようとした。この本にハイエクは先の論文「なぜ私は保守主義者ではないのか」を寄稿。本書を通して初めて伝統主義者とリパタリアンが直接対峙した。p.40 その後、フリードマンは、金融政策は「X%ルール」に従うべきだと提案する。すなわち、中央銀行は裁量的な金融政策を行うのではなく、決まった率(X%)で通貨供給量を増やすべきであると主張。それが経済を安定化させる最善の方法であると考えた。それは経済学的な裏づけのある議論であるが、同時に政府や中央銀行に対する不信感の表明でもあった。政府や中央銀行の"裁量的な政策"こそが、予想外の経済変動を引き起こすという主張でもあった。政府は経済活動に介入すべきではなく、市場に任せろという主張は、保守主義思想の根幹と共鳴しあうものであった。通貨供給を安定化させるという議論はミーゼスの主張でもあった。p.34 <民主党●ジョンソン政権(1963~1969年)

の★「偉大なる社会計画」は、アメリカの福祉国家化を一段と進めるもの。具体的には、「メディケイド」や「メディケア」と、「フードスタンプ制度」という貧困者に対する食券による食料補助制度などが導入された<「貧困との闘い」>。
保守主義者は、公的医療制度を福祉国家の象徴的な存在として常に攻撃することになる。p.79>

<ケネディ政権下で南ベトナムへの大量派兵や大量の武器供与など軍事介入が拡大され、その後を継いだジョンソン政権下で正規軍の地上部隊が参戦するなど、軍事介入が本格化した。
●ベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、左翼大学生を中心とした反戦運動が暴徒化するなど混乱状態に陥った。ウィキペディア>
  <http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292594.html池田信夫
私の学生時代(1970年代)には、日本の大学ではまだフリードマンは極右の特殊な学者という位置づけで、宇沢弘文氏などは口をきわめて批判していた(*)。しかしケインズ派とシカゴ派の論争は、理論的にも実証的にも70年代にほぼ決着し、80年代にはシカゴ派よりもさらに過激な「新しい古典派」が学問的には主流になった。ところが東大では、宇沢氏が「合理的期待一派は水際で阻止する」と公言して、そういう研究者を東大に帰さなかったため、日本ではケインズ派がながく生き残り、90年代には巨額の「景気対策」が行われた。現実の政治でも、80年代にはサッチャー首相やレーガン大統領がフリードマンの理論を政策として実行したが、日本ではその理論さえ知られなかった。政府の役割を洗い直して「福祉国家」を卒業することは、先進国が一度は通らなければならないステップ。>
●1964年大統領指名選挙で、ロックフェラーは西部を基盤としたゴールドウォーターに破れ、共和党の指導権が、東部穏健派から西部保守派に移ったとされる(ウィキペディア)。

●ゴールドウォーターは、ロックフェラーに代表される共和党の主流派及び穏健派がニューディール路線を踏襲し、共和党の独自色を打ち出していないと批判した。そこで、彼は共和党の本来の主張、「小さな政府」、政府の市場経済への介入の限定化、強硬な反共路線、反共主義に基づくNATO加盟国との協調などを提示したので、彼は現代アメリカにおける保守主義運動の先導者と看做されることが多い。ウィキペディア
●戦後アメリカ保守主義は二つの流れ。
(1)伝統主義、(2)リバタリアニズム。
だが保守主義運動の中で、両者に直接的な接点はなかった。「大きな政府」批判では一致するが、「個人の自由」に関する考え方は大きく違っていた。伝統主義者が倫理や宗教から「個人の自由」を考えたのに対し、リバタリアンは「個人の自由」を市場という観点から考えていた。伝統主義者とリバタリアンは軽蔑しあっていた。伝統主義者は敬慶なキリスト教徒が主流、リバタリアンの多くは宗教には比較的無関心であった。伝統主義者は伝統を重んじ、個入主義に批判的であったが、リバタリアンは個人の活動を最大限認める個人主義の哲学を掲げていた。p.41
M.フリードマンは自分は「リバタリアンである」と述べた。
60年代後半まで、ケインズ経済学の用語を使っていたが最初の結論は拒否していた。
60年代を通して「マネタリズム」と呼ばれるマクロ経済学を進めた。
1960年以降、フリードマンは福祉への依存性をうみだすということで社会保障を攻撃した。
現存する福祉システムに変わるものとして「負の所得税」を提案した(WIKIPEDIA)

ミルトン・フリードマンやその他の人々は、社会主義者がリベラルと呼ばれ、自由を誰よりも強調する自分たちが保守主義といわれるのは納得出来ないと述べている。(さp.15)
●●1964年、ゴールドウォーターを共和党の大統領候補にしたことで「保守主義者が共和党を乗っ取ったのである」。

ゴールドウォーターは保守主義者の理念を公然と掲げて大統領選挙に立候補した最初の政治家。★政府の福祉政策を人々を怠惰にすると公然と福祉国家を批判。「法と秩序」「小さい政府」「反共主義」を熱心に訴えた。それは政策というよりも、保守主義者の哲学を訴えた。それが後の共和党のイデオロギーの柱となっていく。

1964年に大統領候補の指名を受けたとき、「すべての人は共和党の指導権が保守主義者に移ったことを理解した」p.69
ゴールドウォーターは敗北したが、共和党は民主党の地盤であった南部に進出するきっかけを掴んだ。特に保守主義の主張は宗教的で保守的な南部の労働者階級を保守陣営に取り込むことができた。p.70

1964年はジョンソンの大勝。民主党はますますリベラル化し共和党はますます保守化し、対決が強まる(さp.17)
保守主義者は、腐敗しているのはワシントンのエリート層であり、アメリカの大多数は道徳的にも健全な「サイレント・マジョリティ」と考え、そうした大衆に向かってメッセージを発し始める。
「共和党は民主党が提起した問題に対応することしかできなかった」。保守主義者は相次いでシンクタンクを設立し共和党も独自の政策を提案できるようになっていった。p.72
  ゴールドウオーターが極右と看做された最大の原因は、公民権法に対する彼の態度であった。彼はアリゾナ州におけるNAACP(全米黒人地位向上協会または全国有色人種向上協会)の設立者の一人であり、1950年代から60年代にかけては上院で最も公民権問題、人種差別撤廃に熱心な議員の一人と看做されていた。にもかかわらず、●彼が反対したのは、この法案が連邦政府による州の権利の制限を必要以上に認めすぎているという理由だった。この点でゴールドウォーターは彼を支持した人種差別的な南部の政治家とは異なっていた。ウィキペディア
1965年にメイヤーが「フィラデルフィア・ソサエティ」の創立に参画。最初の議題は「自由の将来」で、伝統主義者とリバタリアンが最も先鋭に対立するテーマ。p.42。同ソサエティはアメリカの保守主義革命の大きな一里塚となった。   1966年のカリフォルニア州知事選挙では共和党の地域政治活動と保守主義運動が一体化し、ロナルド・レーガンを立候補させ、地すべり的な勝利を得たのである。p.74。1967年州知事就任。州財政を立て直したが、予算規模は倍増。
●メイヤーの哲学は「フュージョニズム(融合主義)」と呼ぼれる。メイヤーが最も大きな影響を受けたのは、ジョン・スチュアート・ミル。彼は、ウィーバーやカークは伝統や社会秩序を強調するあまり、個人の自由を脅威にさらしていると考えた。これは、保守主義の「秩序」と「自由」の問題である。社会秩序を強調すれば、個人の自由は抑圧される。逆に過度に個人の自由を容認すれば、社会的秩序は崩壊しかねない。彼は、「秩序」と「自由」の調和を図ろうとした。伝統主義が主張する人間の「美徳」の達成は人間の行動の最終的な目標であるが、それはリバタリアンの主張する「自由な社会」があって初めて可能になると説いたのである。p.43 英語においては中曽根、サッチャー、レーガンの政策は単に「保守主義」と呼ばれ、日本で認識される社会・経済両面での保守主義(宗教重視の伝統主義、産業保護政策など)はペイリオコン(旧保守主義、ペイリオコンサヴァティズム)と呼ばれている。 ウィキペディア 1968年の共和党の予備選挙はニクソンが穏健派のロックフェラーやカリフォルニア州知事のロナルド・レーガンなどと争い終始リードを保ちニクソンは1回の投票で候補者に指名された。

<●民主党は、1968年の党大会に、ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しかけ、シカゴ市警と衝突し、流血の事態となり大混乱に陥った。最終的にジョンソン政権の副大統領のハンフリーを大統領候補に選んだ。この衝突の模様が全米にテレビで流され反感を買うこととなった。>
    ●ニクソン政権(1969年~1974年)

「法と秩序」を旗印に当選した。経済政策では物価賃金凍結を決定するが、これはリバタリアンからみれば受け入れがたい政策であった。1971年に中国との外交正常化に動き、軍事的にも戦略兵器制限交渉を始めている。バロー教授は「ニクソン大統領が弾劾されたのはウォーターゲート事件によるものではなく、その経済政策のためであった」と書いている。p.76


政策はリベラルだったという見方もある。

ニクソンは1969年の演説で「ワークフェア」という言葉を普及させた。(ワークフェアでは、幾つかの条件を満たさないと受給できなくする。その条件とは、たとえば訓練、リハビリ、就業体験などによって受給者の就業見通しにつながるような活動をしていることや、無償労働やわずかな報酬の仕事などのコミュニティ貢献をしていることである。このようなプログラムは、オーストラリア(相互義務)やカナダや英国で普及している。オランダのワークフェアは「仕事第一」として知られ、米国のウィスコンシン州の事業を真似たものである。ワークフェアのタイプとして、福祉受給をやめさせ就業させるものと、福祉受給と同時に訓練や教育で人的資本を向上させるもの、という二つがある。"Workfare" WIKIPEDIA)
●メイヤーは、保守主義の共通の基準を示した。それは、★連邦政府の権力の拡大、福祉国家、平等主義、共産主義に反対する、断固としてアメリカの共和主義の生き残りを図るということ。さらに国家の役割を、国防と国内の秩序と治安の維持、人々の間で正義の確保、と規定した。これによって、それまでは思想的、哲学的な傾向が強かったアメリカの保守主義運動に、現実の問題や政治問題に関わっていく道筋がつけられた。反共主義はアメリカの多様な保守主義の思想を結びつける。p.44 1970年代初期、サプライサイドの経済学が誕生。減税が柱。
『ナショナル・リビュー』誌が一九七一年にネオコンを保守主義と認めたp.187
1972年の大統領中間選挙では、ニクソンは、民主党のリベラル左派のジョージ.マクガバン候補者と争った。民主党が完全に分裂していた。p.76

<マクガヴァンの公約はベトナムからの米軍の即時撤退、脱走兵の恩赦、3年間に37%の軍事支出の削減、全国民に対する1000ドルの給付(これは6500ドルの最低収入制度の創設に切り替えられた後に公約から外された)ほか。ウィキペディア>
  1974年ハイエクがノーベル経済学賞を受賞。

1976年フリードマンがノーベル経済学賞を受賞。
●フリードマン『選択の自由』
●フォード政権(1974年~1977年)。

フォードは保守主義者と見なされていなかった。副大統領に東部エスタブリッシュメントでリベラル派のロックフェラーを選んだので保守主義者の反発も買った。p.76
  ●(3)「新保守主義(ネオコン)」
。リベラリズムが六〇年代に混乱と内部対立に見舞われた時、70年代に注目された、リベラリズムの「行き過ぎ」を批判するようになった知識人の一団。元来、左翼やリベラリズムであったが、連邦政府の政策や対抗文化の台頭などに危機感を抱き、公然とそれを批判する集団に変わった。東部を中心に活躍する有名な知識人や大学人であり、彼等は内側からリベラリズムの弱点や問題点を鋭くついた。彼等の議論は「行き過ぎ」の批判に重点があり、特定のイデオロギーを一致して掲げたわけではなく、一つの団体として行動したわけではない。「新保守主義」という名称は外部からつけられたもの。代表者といえば、『パブリック・インタレスト』『ナシヨナル・インタレスト」の編集者(発行者)、●I・クリストル。(さp.27)

伝統主義などを提唱しネオコンと対立する旧来の保守派は、PaleoConservatism(旧保守主義、ペイリオコンサヴァティズム、ペイリオコン)と呼ばれ、(ウィキペディア「新保守主義」)。
●カーターはウォーターゲート事件により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民にクリーンなイメージをアピール。各州が抱える問題の情報を収集、それに対応するメディア戦略をとった。現職のフォード大統領を破った。ウィキペディア

<民主党●カーター政権(1977~1981年)>
後期にFRB議長に就任したボルカーが「マネタリストの金融政策」の採用を決めたp.90。高金利と深刻なリセッションに追いやり、多大な犠牲を払ってインフレ抑制に成功。その成果は、レーガン政権で出たp.90。
1979年に●テレビ伝道師が、「モラル・マジョリティ」と呼ばれる宗教組織を設立した。「モラル・マジョリティ」は外交政策では保守主義者と同じ意見を持ち、国内政策ではアメリカ社会が道徳的に退廃しているとの立場から人口中絶問題やドラッグ問題、同性愛問題、公立学校での礼拝問題などを積極的に取り挙げたp.81 <実際には、通貨供給(M2)と物価に安定した関係はみられない。一般には「マネタリストの勝利」とみられている80年代のボルカーFRB議長の時代には、M2は大きく変動し、フリードマンはボルカーを強く批判した。http://agora-web.jp/archives/1345966.html池田信夫> <ボルカー。連邦準備制度理事会議長に就任した1979年8月より「新金融調節方式」(ボルカー・ショック)と呼ばれる金融引き締め政策を断行。1979年に平均 11.2% だったフェデラル・ファンド金利(政策金利)は1981年には 20% に達した。GDPは3%以上減少し、産業稼働率は60%に低下、失業率は11%に上昇。この結果、連銀は激しい政治的攻撃と広範な層からの抗議を受けた。1982年後半、緩和を実施した。インフレ率は1981年の 13.5%が1983年に3.2% に下落。これによってアメリカ経済は活気を取り戻し、GDP・産業稼働率は向上し、失業率は低下した。ウィキペディア>
保守主義者は巨大な政府に危機感を抱き、米国が「建国の理念」から逸脱し始めたと批判し始めた。保守主義者はリベラリズムが支配する米国は神を否定し国家が個人を支配し、絶対的な善悪の判断基準がない「道徳的相対主義」の国に堕した。連邦政府は個人の領域に介入し個人の自由を侵害する存在と映った。リベラリストにとって「変化」は「進歩」だが、保守主義者にとっては伝統的価値観と秩序の崩壊を意味した。保守主義者は、国家の個人領域への介入はやがて個人の自由と選択を規制する「全体主義」に発展する、という警戒感。p.12。   <●CIAの規模削減や、急速な軍縮などがきっかけになり、イラン革命やその後のイランアメリカ大使館人質事件及び人質救出作戦の失敗、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)を許したことなどから、共和党などから「弱腰外交」と叩かれた。中国政策では、ニクソンの中国接近政策を受け継ぎ、中華民国との断交を決断。中国を訪問し1979年に国交を樹立。1月に鄧小平が訪米し、カーターと会談。ウィキペディア>
●(4)ニューライト、キリスト教ニューライト。
80年代以降台頭。人工妊娠中絶、強制バス通学、男女平等条項制定、性教育、同性愛、ポルノなどの社会的争点がそこでのテーマ。家族や生命をめぐる伝統的価値の擁護を実現しようという運動。社会階層はこれまでの保守主義者よりも低く、従来の民主党支持の労働者階層なども加わった。経済的には政府の積極的施策に賛成するはずの階層がその主たる担い手になった。いわば潜在的な民主党支持層、あるいは旧支持層を民主党から切り離し、それに最も激しく反対する保守主義の前衛部隊に組織した点のが特徴。従って、人種的不平等是正政策に対する白人下層中間層の巻き返しといった側面が強い。原理主義的宗派の影響力が強まり宗教的動員を可能にした。動員の結果、民主党の基盤であったカトリック教徒が保守へ傾斜した。テレビ伝道師の影響力が強い。「神の格別な恩寵を受けたアメリカ」という前提に立ち、それがりベラルの世俗的政策によって台無しにされつつあるという危機感に発していた。大衆の組織的動員力があった。(さp.26)
●1981年経済学者ギルダー『富と貧困』。
減税に止まらず資本主義と企業家を徹底的に擁護した。サプライサイドの経済学が説明する資本主義の役割とユダヤ・キリスト教の愛他主義との問に類似性があると主張。サプライサイドの経済学は減税理論から哲学に深化した。p.94。

マネタリストとサプライサイドの経済学は、レーガン政権の経済政策を支える理論として、"レーガノミックス"と呼ばれるようになったp.95。
●カーターのイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたといわれる。ウィキペディア

●レーガン政権(1981~1989年)

戦後、初の本格的な保守主義政権。主要な政策は、「30%の所得税減税」「規制緩和」「福祉政策の地方への委譲による分権化」「自由経済ゾーンの設置」「人工中絶禁止の憲法修正」「男女同権憲法修正の阻止」「ソビエトに対する軍事的優位性の確立」「イスラエルと台湾支援」「北米貿易圏の実現」などp.85。リベラル社会からの決別。
★レーガンの福祉政策に関する理解は<伝統主義者の完全な自由放任とは違いハイエク同様に>、本当に政府の保護を必要とする者に対して政府は手を差し伸べるべきであるが、1930年以降の福祉プログラムは過剰であり、家族の生活を崩壊させ、労働倫理を空洞化し、人々の自尊心を傷つけてきたと考えていた。さらに多くの福祉政策は憲法の趣旨に反しており、貧困は公正な経済システムを構築することで解消できると主張。p.88
 1989年にテレビ伝道師によって「クリスチャン・コーリション」が結成された。これの最大の支持者はプロテスタントであったが、同組織が掲げたテーマである「街の安全」「家族の絆」「学校教育の再建」「小さい政府」はカトリック教徒も同意できた。共和党に巨額の資金援助し、人口中絶に反対して街頭デモをするなど過激な行動も取った。伝統的価値観、宗教的価値観、秩序と法などを説く保守主義者の影響は、アメリカ全体に確実に浸透していった。p.82

アメリカの規制緩和は保守主義思想に基づくものp.108。
●レーガン政権下で伝統主義者の影が薄くなり、ネオコンに吸収されていく。理論的にはネオコンが伝統主義者を圧倒p.121。
 アメリカ社会を「勝者がすべてを獲得する(ウィナーズ・ゲイン・オール)社会」という。それは「稼いだ者が富を独占してなにが悪い」という強者の論理を端的に表現したものである。市場原理を最優先する政策や社会思想は、同時に多くの脱落老も生み出し、貧富の格差はかつてないほど拡大した。それによって一九九〇年代<クリントン>のアメリカ経済の繁栄を実現する舞台装置は出来上がったともいえる。p.104.
ネオコンと伝統主義者の世界観、人間観には共通点が多い。社会の秩序と継続性、コミュニティの重要性を訴える。 p.186
 さらにリバタリアンの主張を受けて、市場の規制緩和、大幅減税と税制改革。これはサプライサイドの経済学の実践であった。そして反共主義者の主張である大幅な軍事費増による軍事力の再構築を大きな政策の柱とした。こうした一連の保守主義に基づく政策が、国民に受け入れられたのである。
リベラリズムの思想と政策全体を具体的に批判する論理的な枠組みをレーガンに与えたのが、第四章でくわしく述べるネオコンであったことだ。p.89
レーガンはサプライサイドの経済学と「ケンプ・ロス法案」の大型減税案に飛びついたp.93。
レーガン革命は「小さな政府」「福祉政策の改革」は実質的にほとんど進まなかった。p.129。
●レーガン政権は、伝統主義者とリバタリアンとネオコンとクリスチャン・ライトの連合によって実現したp.185
保守主義者は、レーガン政権の政策を中道路線にシフトさせたのは、リベラル派であったブッシュ副大統領やべーカー財務長官らのグループである、と見ていた。ブッシュはサプライサイドの経済学を「ブードゥー経済学」(呪術)と呼んでいる。p.136。
 <1991年、アーカンソー州知事●ビル・クリントンが「私たちの責務は古い価値に根ざした新しい選択肢を国民に提供すること。その選択肢は人々に機会を与え、人々に責任を求め、人々の要請に応える政府を作り上げることだ」と語りかけた。「個人の社会的責任」「財政規律」を前面に打ち出したその主張は「ニュー・デモクラット宣言」であった。ある意味ではレーガン大統領から始まった"保守主義革命"の延長線上にある考え方。P.145。伝統的な民主党のリベラル路線に距離を置くことで、クリントンは国民の支持を得るp.146。>  レーガノミックスには、市場機能をゆがめる組合運動に反対する、インフレ抑制のためには通貨供給量を管理する、失業保険給付は労働者の市場復帰を阻害するのでその縮小、労働市場の流動化を進める、などがあるp.106.
リバタリアンやサプライサイダーが主張する規制緩和も実施p.108.
負の遺産は財政赤字と貿易赤字という"双子の赤字"p.109。
 「1981年経済回復税制法」で過去最高の大幅な所得減税が実現。p.95。

1980年代にはレーガンに対抗して離党する人もあり、自由主義的な共和党は消滅した。彼らの北東部地域の拠点は民主党に取って代わられた。(WIKIPEDIA「米国共和党の歴史」)
 1990年代になって、保守主義運動は、元民主党員、左翼思想から転向した「ネオコンサバティブ」の影響を受けて変貌する。p.16    ●H・W・ブッシュ政権(1989~1993年)。

リベラル寄りの政策で保守主義者が離反。
 1993年の世論調査では「生活を良くするために政府はもっと積極的にその権力を行使すべきか」に対して65%の人が「否」と答えた。人々にとって、政府はもはや頼りにできない存在となっていた民主党は新しい思想や理念を打ち出せなかった。P.144。

1992年の大統領選挙で『ナショナル・リビュー』誌は「ブッシュよりもブキャナンのほうがマシ」とブキャナン支持。だが、ネオコンは反対しブキャナン批判の立場を崩さなかった。p.187
 ネオコン第一世代は貧しかった。若い時代に共産主義やトロツキズムに恋をし、一度はリベラル陣営に属していた人々。だが、彼らは社会的に成功した。第二世代は、ネオコンと呼ぼれることに違和感さえ抱いていた。物心がつき始めたころから自分は保守主義であると考えたp.196

「ネオコンの多くは最終的にブッシュではなく、クリントンに投票した」といわれる。p.143。
 1992年の共和党の政策綱領の中に同性婚反対、「アメリカのユダヤ・キリスト教の伝統と豊かな宗教的多元主義を賞賛」、まるでクリスチャン・コーリションが勢力を誇示する場所であるかのようであった。「小さい政府」「福祉国家」「規制緩和」といった表現は影が薄くなっていた。P.142。
 レーガン政権終了後に、伝統主義のペイリオコンは、ネオコンは「宗教的でない」「福祉国家に同調的」「レーガン政権に取り入った」と非難し、ネオコンと対立した。

1997年六月にモンペルラン・ソサエティの五〇周年を祝う会合。フリードマンは、「我々は戦いに勝利を収めた」と語っている。しかし、1990年代後半は米国の保守主義運動にとって厳しい時代であった。p.38

1990年代、レーガン連合が崩壊し、三つの保守主義グループになった。
(1)サプライサイド経済学のケンプのグループ。
(2)モラリストの保守主義。
(3)ナショナリストの保守主義。ブキャナンのグループ。p.135。


1990年代、未婚によるシングルマザーの増加は,アメリカの家族を「崩壊」させつつある元凶といわれその一因は,安易に援助を与える社会福祉であるという主張が強まった(杉本貴代栄)。
 ★伝統主義者は福祉国家を全面的に否定するが、★ネオコンは最低限の福祉国家は必要である、「現代国家は福祉国家と共存するしかない」と考えていた。クリストルは「保守主義的な福祉国家」といった。p.116。
ネオコンのクリストルは強い反共主義だが、国内政策はリベラル寄りp.117。
 <民主党●クリントン政権(1993~2001年)

経済政策に力を入れる。重化学工業からIT・金融に重点を移し、戦後、2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成。また2期目には、財政赤字削減。アラン・グリーンスパンFRB議長の助言の下に、均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。クリントノミックスと呼ばれる。>
<★クリントンは「個人の責任」や「コミュニティの重要性」を表面に出して訴えた。「変化のための戦略」は五つの柱で、「従来のような福祉政策を廃止する」「生涯学習を支援する」「質の高い健康保険制度を提供する」「役人を一〇万人減らす」など。中道右派の政策p.147。●その主張はリベラル派との対立を深めた>
<「人々が再び職に就けるようにするために今後四年間にわたって毎年五〇〇億ドル以上の投資をする。」p.150。民主党政権として初めて"均衡財政"を主張したという意味では、画期的なことであった。p.151>
クリントン政権が財政均衡の達成を約束した。保守主義者は完全にギングリッチを見限った。共和党と保守主義者は、新しい指導者を見出せないまま、再び反対党に逆戻りしてしまった。P.160
●クリストルは、リバタリアンのように、自由放任にすれば市場がすべてを解決してくれるというナイーブな発想は拒否している。「政府が経済問題に介入する余地はある」というp.179。
★クリストルは「病気、自然災害、失業に対して保険機能を提供すべきであり、たとえば貧困者といった特定グループを対象にした福祉政策を行なうべきでない」という福祉国家論。これは伝統主義者やリバタリアンと基本的に異なる。しかし貧困の問題に対して「自分たちは貧しいブルックリンに生まれたが教育を受けてここまできた。なぜ彼らにはそれができないのか」(フラム)という思いがあった。p.180
保守主義者は倫理や道徳を問題にし、福祉国家批判も理念的なものであった。ネオコンは福祉政策の効果について科学的な分析を行なった。グレーザーはプエルトリコの貧困の問題を取り上げ、差別は貧困の主な原因であるとは考えられない、★「プエルトリコの貧困は福祉に対する過剰な依存にある」という結論を導き出したp.188。
★ネオコンは「最低限の福祉政策は必要である」(クリストル)との立場から、科学的な分析でより効率的な福祉政策の必要性を訴えた。すなわち、福祉政策の限界を明らかにし拡大する福祉国家に一定の歯止めをかけようとしたp.189
<★1995年にクリントンは「自分でしなければならないことを政府に任せるべきではない」と、共和党張りの自己責任を訴えかける。さらに意思決定を官僚から市民に移し、競争促進や個人の責任を政策の柱に据え、ニュー・デモクラットの立場をさらに鮮明にした。p.155。><クリントンは1996年の「一般教書」で「大きな政府の時代は終わった」と宣言したp.160>
<1998年度にアメリカは小幅ながら財政黒字を計上したp.159>

★1996年福祉改革法とは「個人責任と就労機会調停法(PRWORA)」である。PRWORAとは「TANF貧困家庭への一時扶助」「子どものためのSSI」ほか。ア)エンタイトルメント(権限)としての社会福祉に終止符。AFDCでは連邦から州への補助金には上限はなかったが,TANFのもとでは連邦の州への補助金は総額に上限を設けた一括補助金(ブロックグラント)とされた。イ)受給者を厳しく制限した。TANFが受給期間を有限にし、就労条件を厳し、受給者の範囲の制限を強化した。PRWORAの成立によりAFDCは廃止された。(杉本貴代栄)
ワークフェアとも呼ばれ1997年英国ブレアの改革でも注目され、2007年シンガポールでは「ワークフェア助成金」という所得助成ができた(遠藤聡)。
クリストルは「共和党は文化危機と資本主義の関係を理解できない。資本主義は人々に高い道徳性を与えることはできない」、「資本主義は人々に自由と富を与えるが、消費社会のニヒリズムに対抗する道徳的ビジョンを与えることはできない」と主張していたp.131。同「左派が現在、教育界、文化産業、大学、メディアを完全に支配している」(1992年)p.132。保守化が急激に進んでいるといっても、アメリカの文化は基本的にリベラルな勢力に支配されている。p.133。 ネオコンは冷戦終了後も湾岸戦争の時もアメリカが積極的に国際政治に関与するように主張した。ペイリオコンはアメリカは伝統的な孤立主義に戻るように主張した。P.122。
「民主党のマクガバン左派が急進化した結果、リベラル派の難民たちが発生し、政治的なボーダーラインを越えて保守陣営に流れ込んだ。その多くがネオコンとして知られるようになった」p.183
1988年ブッシュはテキサス州知事選挙の時に「コンパッショネイト・コンサーバティズム」というスローガンを使い始めている。p.205。

1999年にブッシュは「私は経済的な保守主義者である。経済成長を実現するために減税を行なうべきであると信じている」と述べ、サプライサイドの経済学の理論を受け入れていた。p.211。
2003年ダンとウッダード『アメリカの保守主義の伝統』。
保守主義思想の基本的な発想の八項目pp.27-
(1)伝統的、宗教的価値観を重視。
(2)人間の善意、理性、完全性を信用しない。
(3)★中央政府を信用しない。
(4)★州政府、地方政府のほうが中央政府よりも明確な自己意識を持っている。
(5)愛国心を持っている。
(6)★個入の権利よりも義務を重視する。
(7)資本主義と自由市場を信頼すること。
(8)既存の制度内での緩やかな変化を通して経済的、政治的、宗教的な安定性の維持に努める。
ネオコンは米国保守主義の一部ではなく、米国保守主義とほぼ等しいと見なされていたp.124。中心人物の多くはユダヤ人p.128。「個人的自由、自治、機会の平等を主張する」「アメリカのリベラリズムの伝統の中から生まれてきた」キング牧師に対しては好意的p.128。

●ペイリオコンは
★強烈な反福祉国家論で、反戦の孤立主義。戦争によって「大きな政府」ができ、ボランティア組織が衰退するp.125。伝統主義者と同様に連邦主義とローカリズムを支持p.126。ブキャナンは「民権法」反対、法定の移民受け入れ枠の拡大に反対、p.128。極端なリバタリアン。「反自由貿易」「反グローバリズム」「反移民」「プロ・ライフ」「孤立主義」を柱とする保守主義p.129。
2001年、保守派は「思いやりのある保守主義」(共産党からの転向者のマーヴィン・オラスキーが「思いやりのある保守主義の父」とニューヨーク・タイムズで呼ばれている)を掲げ、それらの政治勢力に後押しされる形でブッシュ政権が誕生した(ウィキペディア「新保守主義」)。

●ジョージH.W.ブッシュ政権(2001~2009年)。

p.16。政権発足直後から、レーガン離れ、保守主義離れは明らかで、ブッシュは政府から保守主義者やネオコンを次第に排除して行った。p.138。
★ブッシュ政権は、保守主義者が最も忌み嫌う「福祉国家政策」を推し進めた。メディケイド予算の充実、失業保険給付期間の延長。増税で保守主義者と決裂。

<アフガニスタン紛争2001年9.11がきっかけ>
<イラク戦争2003年~2010年>
 保守主義者は「(パパ)ブッシュは大きな政府の保守主義者である」と批判した。p.219。●レーガノミックスは、巨額の財政赤字と貿易赤字の"双子の赤字"をもたらした。だが、ブッシュ政権は、クリントン政権が実現した財政均衡を再び赤字に転落させただけでなく、史上最大の規模の財政赤字をもたらしている。ブッシュは、レーガノミックスと同じ間違いを犯したp.220。  共和党大統領予備選挙では、ネオコンはジョン・マッケイン上院議員の支持に回った。クリストルは、マッケインがクリントン政権のコソボ派兵やハイチへの軍事介入を支持したことから、「私はマッケインを支持する」と発言していた。ネオコンは、冷戦後もアメリカは国際政治で積極的な役割を果たすべきであり、軍事介入も躊躇すべきではないと繰り返し主張していた。p.204。  ●2000年の大統領選挙ではブッシュは大幅な減税を公約し、社会保障制度の民営化とメディケア制度の一部民営化を主張した。これに対してゴアは、『私は再び大きな政府の時代を見たくない』と宣言した。経済問題、教育問題、年金問題、医療保険制度など両候補の間にそれほど大きな主張の差はなかった。政策の違いがはっきり出たのは減税政策で、ブッシュは政策の柱に減税を据えた。p.202。
   2001年4月1日にアメリカ海軍のスパイ飛行機が中国空軍の戦闘機と南シナ海上で交戦し、米機が海南島に緊急着陸して24名の搭乗員が捕虜となった。最終的に中国に賠償金を払い、謝罪文を送って、問題の決着をはかった。中国がアメリカの搭乗員を解放すると間を置かず、台湾への武器販売を許可した。さらに「私たちには台湾を防衛する義務があり、中国はそれを理解すべきである」と答えている。こうした急激なブッシュ政権の政策変更の背後には、ネオコンの姿が垣間見える。p.223。  2001ブッシュ政権(2001年~2009年)

「2001年経済成長・税救済調整法」成立、所得税、相続税減税。アメリカの財政収支を再び巨額の財政赤字へと追いやる転換点になった。p.212。

2001年9.11連続テロ。
     ★2002年にブッシュは、政府は「人々が自立し、お互いを助け合うように奨励することはできる」と述べた。信念に基づいて行動する教会やボランティア組織、コミュニティ組織の福祉活動の促進を、政策の中心に位置づけようとした。p.206。
キリスト教徒は世界を善悪の二分法で見る傾向が強い。それはブッシュの世界観も同様。2002年6月に彼は「私たちは善と悪が対立する世界の中にいる」と語っている。また、そうした発想は"悪の枢軸"という表現やイラク戦争へと結びついていく。p.209。
   サダム・フセインの排除は中東の平和を達成するには不可欠であるというのが、ネオコンの思想であった。「サダム・フセイン排除」「先制的攻撃」「国連無視」は、"冷戦リベラル"と呼ばれていた時代から、ネオコンのDNAに深く埋め込まれていた。それが初めて現実の政策に移されたのである。p.225-。

ネオコンは、ブッシュ政権の外交政策が消極的だと批判を加えていた。p.221。
 2002年6月ブッシュは、演説の中で「アメリカは敵と見なされる国か、大量殺戮兵器を手に入れようとしている国に対して軍事力を行使する権利がある」と語っている。これは「ブッシュ・ドクトリン」として知られるp.226。
直接の脅威がなくてもアメリカは外国に対して軍事介入をする"権利"を持つと宣言したのである。p.230.

2002年11月中間選挙で勝利したが、2004年大統領選挙は勝てそうもなかったので、ブッシュは景気刺激のために大幅減税提案を行い、財政赤字縮小を求める民主党と対決したp.214。
 (1)ネオコンに代表されるアメリカの保守主義者は、法と秩序に基づいた社会を構築しようとしている。その発想の根底にはユダヤ・キリスト教の世界観と人間観に基づいた保守主義思想がある。その発想は国際的に適用され、イラク戦争に端的に見られるようにアメリカの民主主義やシステムの絶対的な優位性を前提に、十字軍的な使命感を持って世界の秩序を変えようとしている。一国主義は、そうした思想から出てきたものである。pp.231-
(2)その対極に、多国間での協調と信頼をベースに国際的な秩序を構築すべきだ、という主張がある。「ヨーロッパは軍事力で国際紛争を解決することはできないと考えているのに対して、アメリカは逆に国際法や国際的な秩序は信頼できないと考えている」という保守主義もある。
 クリストルはイラク戦争が始まる前の2003年二月、今後一〇年にわたってアラブ世界の"民主化"を行なう必要があるとも述べている。p.225。  ブッシュ政権(2001年~2009年)

2003年大統領経済教書で、所得税を廃止して消費税に全面的に移行する、という考え方を示したp.216。すでに相続税全廃、配当課税全廃が提案されている。早晩、キャピタル・ゲイン課税、利子課税などの廃止も出てこよう。そして最後が、所得税廃止に行き着くのである。これはいずれも、レーガン大統領の"見果てぬ夢"であった。p.217。
2003年に保守主義者の反対を押し切って、★20年間で2兆ドルの資金が必要となるメディケア制度の改革を行なっている。保守主義者は、メディケア制度の改革を批判した。失業保険給付期間を延長するなど、サプライサイドの経済学が主張する労働政策と対立する政策を行なっている。p.218。

イラク戦争<2003年3月~2011年12月>
 ●アメリカでは、経済問題においては、保守主義者とリベラルの間に大きな差がなくなってきている。<佐々木毅はクリントンをネオリベラルと呼び、市場・競争重視では保守主義と同じで効率重視だが、公正にも目配りするところが保守主義と違うと言っている>

●日本も例外ではない。単に政治の領域に留まらず、経済や社会、個人のレベルまで、意識的か、無意識かは別にして、保守主義的な発想が浸透している。p.232
   ★2004年度予算では「弱者に対する思いやり」と、個人の自己責任と社会の秩序を求める「保守主義」は両立しにくいことを示したp.209。「コチコチの共和党」へと見事に変貌していた。職業訓練、公共住宅関連、環境保全、都市開発に対する財政援助を削減し、大きな財政負担となっているメディケアの民間や州政府への委譲を進めることや、貧困層に対するメディケイドは資格審査を厳しくする方針なども提案している。年金の民営化を進めるp.217。

★減税で財政赤字が拡大すれば、福祉予算を削減するのが、保守派の戦略なのである。p.218。