幕末・明治維新略史

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儒 教・仏 教 年 表
儒   教 (Confucianism) 仏   教 (Buddhism)
殷では祖先崇拝と畏れが強く祭祀を怠たると祟ると考えた。周も祖先祭祀を行ったが「祟り」は薄まり、敬意の対象となったと言われる(ウィキペディア)。儒家とは元来シャーマン=呪術師のことで、主に祭礼や葬礼に携わっていた。孔子がオカルト的な要素を取り除いた『君子儒』を完成させた。孔子の母親もまたシャーマンであった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~boso/bosogaku01_frame.html
 転生とは、死後に別の存在として生まれ変わること。肉体・記憶・人格などの同一性が保たれない。輪廻は生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karman)の結果、多様な生存となって生まれ変わること。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とする。(ウィキペディア)
紀元前13世紀ころアーリア人がインドに侵入し先住民族のドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が作られ、紀元前10世紀ころから両者の混血が始まり宗教の融合が始まる。紀元前5世紀ころバラモン(司祭階級)の特別性が明確化され、反発も起こる。西暦4世紀にヒンドゥー教へ発展した(ウィキペディア)。(B.C500)釈迦が仏教を提唱した(初期仏教・原始仏教)。釈迦が生きた古代インドにはバラモン教の「輪廻転生」思想があり、生前の行いにより次の転生先が決まるという考えにより、人びとは悩まされていた。仏教では輪廻を苦と捉え輪廻から解脱することを理想とする。釈迦の本名はゴーダマ・シッダールタ。
「周」(B.C1023-B.C255)孔丘(孔子、B.C551‐B.C479)「周」末、実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。「周」初への復古を理想として実力主義を否定し身分制秩序の再編と仁道政治を掲げ体制批判した。「仁」で道徳が保たれる。身分秩序を温存するので権力者に都合の良い思想とされる。当時のシャーマニズムから祖先崇拝を取り出し体系化したとの説あり。神でなく祖先を祀った。
 (1)中道(ちゅうどう)。釈迦はいくら厳しい苦行をしても悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。これを中道を覚ったという。苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、ついに目覚めた人(=仏陀)となった。 考えや行動は両極端はいけない。
(2)縁起(えんぎ)。物事には必ず「因」があり「果」が起こる。「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」(「自説経」)。釈迦は縁起を人間の生存についての十二支縁起として説いた。(★今ある自分は皆様のおかげ。自我よりも「関係」が先にある)
●『論語』(論は「論議」、語は「答述」)。「後漢」(25-220年)末に現在の形に整理された。仁義礼智信という徳性を拡充し五倫を維持して社会は平穏。仁(人を思いやること)。義(利欲にとらわれず、為すべきことをすること)。礼(仁の具体的な行動。もとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味した。のちに人間の上下関係で守ることを意味する)。 智(学問に励む)。信(言明をたがえない、真実を告げる、約束を守る、誠実である)。
●儒教では、生きている状態はコン(魂、精神の支配者)とハク(肉体の支配者。魂が空白)の融合状態と考え、死はコンとハクの分離と考える。両者を呼び寄せて融合させ再生できる。呼び寄せるまでの間、コンは雲なのでそのままでよいが、ハクは白骨のことでそのままでは失われるので墳墓で管理することになった(『孝経』加地伸行訳、p.207)。生命の連続の自覚を尊重し、祖先祭祀・子の親への愛情・子孫の繁栄の三者をまとめて「孝」。自分の体は父母か残したものという身体観もあり剃髪はしない(『孝経』加地伸行訳)。祖先祭祀を通して祖先の霊魂がかつて生きていたときの家に帰来するとき、祖霊は生者により忘れられていないという安心感を抱ける。それは精神的安心。生者も自分の死後、生き残ったものたちによる祖先祭祀によって、霊魂ながら自分が再び生者のもとに帰りうると思うとき、精神的安心を得る。また、子孫がいると言うことは、自分の肉体は消滅してもDNA、遺伝子が残り、生命はこの世に残留するので、肉体的安心を得る(『孝経』加地伸行訳、pp.146-147)。
 (3)四聖諦(ししょうたい)。 苦諦(くたい)は世の中の様相は「苦」であると見極めること。集諦(じったい)は苦を引き起こすのは、欲望と執着を集めることと見極めること。滅諦(めったい)は欲望と執着を捨て去って滅すること。道諦(どうたい)はそれを導く具体的な手段の「八正道」を日々怠りなく実践すること。
(4)八正道(はっしょうどう)。 正見(しょうけん)は身心が無常であることを知り、心身を厭う思を起こし心身についての喜や貪の心を価値のないものと斥けること。正思は正しく本当のところを考える。正語は正しい言葉で正しく語る。正業は正しい行道・行為をする。正命は正しい生活をする。正精進は身心を整え健康に留意して正しい努力をする。正念は正しい信念を持ち、希望に燃える。正定は以上のことを常に正しく守れるように身心を落ち着ける。

★★仏教を含むインド宗教は、解脱したもの以外は死後は輪廻転生で何かに生まれ変わるという死生観。死後に来世で転生のときに六道(神・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のどこに転生するかは現世における道徳的高低によって決まる。だから来世の行き先が不明なので、現世で肉体は意味がないので火葬にして散骨し、お墓は作らない。死者の精神は四十九日後に別の所へ離れていってしまうので四十九日後には祖先祭祀(先祖供養)はしない。(『孝経』加地伸行訳注、p.206)
インドでは輪廻転生説に従い死後は火葬にして散骨する。日本では火葬するが「のど仏」を入れ頭蓋骨を収めるから、意識としては火葬式土葬といえる。中国・朝鮮の儒教文化圏は土葬であるから、散骨はとんでもないこと(同上書、p.210)。

『ブッダのことば』岩波文庫。「妻子も父母も財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、全て捨てて、サイの角のようにただ独りあゆめ」(60)。「己は財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人―彼を賤しい人と知れ」(124)。慈しみ「既に生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」(147)「母が己がひとり子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし」(149)
●『孝経』(BC428~BC408またはBC241以前。曽子が孔子の言葉を書き留めたとされる)。「身体髪膚(はっぷ)、これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。身を立て道を行い名を後世に揚げもって父母を顕(あら)わすは孝の終りなり。夫れ孝は親に事(つか)うるに始まり、君に事うるに中ごろし、身を立つるに終わる」(最初の「立身」は孝を実践し肉体が人間になること。あとの「立身」は立身出世し父母や祖先に栄誉を贈る)(『孝経』加地訳、p.26)。「天地の性、人もて貴(たっと)しと為す。人の行い孝より大なるはなし。孝は父を厳(たっと)ぶより大なるはなし。父を厳ぶは天に配するより大なるはなし」(p.61)。
『孝経』「聖治章」に「父子の道は天性なり」。「其の親を愛せずして他人を愛すること、これを悖徳(はいとく)という。その親を敬せずして他人を敬することを、之を悖礼(はいれい)という」(加地訳、p.67)。

●『聖書』マタイによる福音書第15章 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。同第19章「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた「いましめを守りなさい」「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
初期仏教はB.C2世紀後半に「律」の解釈などで分裂し、部派仏教と呼ばれる。保守派の上座部(テーラワーダ)と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)とに分裂し、上座部系の「説一切有部(せついっさいうぶ)」という分派ができた。存在としての法が実在するとしたので、存在が空であるとした大乗仏教から批判を受けた。
(1)三世実有説 ・法体恒有。森羅万象を構成する恒常不滅の基本要素は約70の有法、法体(ダルマ)を想定し、これらは過去・未来・現在にわたって実在するが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である。未来世の法が現在にあらわれて一瞬間、認識されすぐに過去になる。瞬間ごとに法を経験するので諸行無常。
(2)心心所相応説。46の心的要素(心所)が、心の基体(心)と結合し心理現象が現れる。極端な善悪の行為は身体に無表色(むひょうしき)が生ずると主張し業は物質的なものとみる。
(3)業感縁起 。人間の苦の直接原因をカルマ(業)、究極原因を煩悩(惑)と考えた。人間の存在を惑→業→苦の連鎖とみてこれを「業感縁起」という。涅槃の境地のため108の煩悩を断つ。四諦の理を研究し智慧が生じ智慧により煩悩を断つ。すべての煩悩を断じた修行者は聖者となり阿羅漢と呼ばれる。
(4)有余涅槃・無余涅槃。阿羅漢の死後を完全な涅槃とみた。阿羅漢を最高位としブッダを目指す必要は特にないと考えた。仏を目指さない部派仏教を大乗仏教が批判した。
●仏教学者は仏教は霊魂の存在を認めないし、輪廻転生は仏教にない思想だという。しかし「宗教としての仏教」は霊魂の存在を認める輪廻転生の思想に基づいて東北アジアに普及した。もし、霊魂の存在を認めないのなら祖先祭祀の否定となる(加地注 pp.212-213)。
孟子(B.C372-289)は「礼はもともと人々に備わっている」という性善説。
「水は信に東西を分かつ無きも、上下を分かつ無からんや。人の性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。今夫れ水は、搏(う)ちて之を躍(おど)らせば、?(ひやひ)を過ごさしむべく、激して之を行(や)れば、山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然らしむるなり。人の不善を為さしむべきは、其の性も亦猶ほ是くのごとければなり」。http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/XunziMencius/MansTrueColorIsGood.html

天下を与えられるのは天だけである。その天の意思、天命は直接にではなく、民の意思を通して示される。民が天子の治世に満足しない時は天命により政権交代させる(天命が革まる)。「徳」のない君主を武力により放伐(放逐)することも容認した(易姓革命)。王朝の世襲に反対。
五倫を提唱。父子の親(親愛の情で結ばれねばならない)。君臣の義(互いに慈しみの心で結ばれねばならない)。夫婦の別(夫と妻にはそれぞれ異なった役割がある)。長幼の序(年少者は年長者を敬い従え)。朋友の信(信頼の情で結ばれねばならない)。
「周」など徳による治世が「王道」で春秋時代のような武力による「覇道」を批判。(孟子の王道と易姓革命は支配の正統性に利用された)(鎌倉幕府以降の武家は覇道を避けるため徳の象徴・天皇をいただいて王道とし支配を正当化した尊王論)
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孟子は人間の本性として「四端」がある(「四端」とは「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義される。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達する)と述べた。それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。けだものの意)同然の存在だと言う。決して人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは言っておらず、そのため学問をして努力する君子は禽獸同然の人民を指導する資格があるという主張となる。
一方、荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえもの、人為の意)を後天的に身に付けることによって公共善に向うことができると主張する。
すなわち、両者とも努力して学問することを通じて人間がよき徳を身に付けると説く点では、実は同じなのである。すなわち「人間の持つ可能性への信頼」が根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な人間中心主義に終始したのに対して、荀子は君主がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによってそのまま法家思想となっていった。(「孟子」ウィキペディア)
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荀子(B.C298?-238以後)は「強いられなければ誰も礼などもたない」という性悪説。
人の性は悪なり。其の善なる者は偽(人為)なり。今、人の性、生まれながらにして利を好むこと有り。是に順ふ、故に争奪生じて辞譲亡ぶ。生まれながらにして疾悪有り。是に順ふ、故に残賊生じて忠信亡ぶ。生まれながらにして耳目の欲有り、声色を好むこと有り。是に順ふ、故に淫乱生じて礼義・文理亡ぶ。然らば則ち人の性に従ひ、人の情に順はば、必ず争奪に出で、犯分乱理に合して、暴に帰す。故に必ず将に師法の化、礼義の道有りて、然る後に辞譲に出で、文理に合して、治に帰せんとす。此を用て之を観ば、然らば則ち人の性の悪なるは明らかなり。其の善なる者は偽なり。http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/XunziMencius/MansTrueColorIsTheEvil.html
人間の本性は欲望なので、みなが欲望を満たそうとし社会は「乱」に陥る。外的な法令と罰則、「礼」で各自の分限を規制し欲望を抑えることで「治」秩序が実現する。
 
前漢時代(BC202~AD8)。(B.C136)儒教を国教とし官吏試験の必須科目に。高度な教養のある人が官僚になる傾向。「漢」代以前では在野の思想の一つだった儒教が、国家の思想として変貌を遂げ、正統派となり、筋の通ったものとなり「経」となる(加地訳、p.197)。科挙の試験科目に求められたのは四書五経などの「文人」としての教養で、官僚の権威を支えたのは専門知識ではなく、知識人としての「徳」だった。中国の官僚の心得は「君子は器ならず」(『論語』)で、必要なのは、個別の技術的な知識ではなく、どんな事態に対しても大局的な立場から判断できる能力である。http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/059e292546d5b12de0591f462339c2b8 <(1世紀)厳しく戒律を守るユダヤ教から、神に許しを請えば許されるというキリスト教が生まれた。><イエスの死後、使徒トマスがアッシリヤやインドで伝導したので、法華経にはキリスト教と似たところがあるという説がある。>
儒教は死を遠ざけるという意味で真の死亡日(5月10日)の前日(5月9日)を死亡日とする。2年後の5月9日が満2年目の命日となる。その翌日の5月10日は3年目の第1日目で、この1日を数え年の3年目とする。「経学(儒教古典学)」では25ヶ月すなわち24ヶ月プラス1日で数え年の3年目となる。そこで、満2年目の命日が3年の喪に服したことになる(『孝経』加地訳注、p.110)。この日を以て死者の霊魂は祖先となるめでたい日で吉礼となるので、大祥(だいしょう)と呼ぶ。大祥すなわち3年の喪が三回忌となり、満1年目が2年の喪で小祥で一周忌となる(『論語 増補版』加地全訳注、講談社学術文庫、p.28)。

儒教は漢代に国教化され国家祭祀や民間儀礼のルールを定めるものになる。先例故実の重視。祖先祭祀の種類、回数、日時、場所、参列する人々の範囲、服装、供え物、などなどを決める学問。親が亡くなれば白い服を着て慟哭し三年喪に服すのが人として正しい姿であると。形式的な学問。そのため魏晋南北朝(3~4世紀)にかけて仏教・道教が隆盛を迎えた。
(大乗仏教)(紀元前後)在家者と釈迦の墓(ストゥーパ)の守護者たちの間から、出家することなく在家のままでも仏となる教えが起こる。厳しい修行による悟りの仏教から救済の仏教へ。ジャータカ伝説に依拠し、善根を積めばブッダとなれると信じた。利他行(りたこう)なら大乗。
▲『般若経』。大乗(マハヤナ)。空観(くうがん)と般若波羅密(智慧の完成)を説いた諸種の般若経典の総称。最古のものは西暦1世紀の半ばころまでに成立したらしい。唐の玄奘が西域から持ち帰って663年に漢訳。『般若経』により大乗仏教の教えが完成した。空が繰り返し主張される。ブッダの縁起、四諦・八正道、無常・苦・無我、あるいは理想とされる涅槃などの教えにすら心をとめないこと、すなわち「心を空性(空を本質とすること)に落ちつけること」が理想とされる。(北伝仏教)紀元前後よりインド、中央アジア、中国に伝来。(チベット仏教)8世紀よりチベット、モンゴル、南シベリアに拡大。
●『論語』。「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」。葉公が、自分の父親が羊を誤魔化したときに息子はそれを通報するのが「直」だという。孔子は「わたしの「直」は違う。「直」はそこに備わるものだ」といった。儒家は身内など近くの人をより強く愛すのが人情の常だと考えた。孔子の「正直」とは人の情に正直なのがよいとする。墨家これを<別愛>として非難した。全ての人を等しく愛し奉仕する事が正しいと考えて、この愛を<兼愛>と名付け実践した。儒家は、<兼愛>は人の人情に反していると攻撃した。年老いた母がいる兵隊が前線から逃亡したら、儒家は親孝行だとほめて褒美を与える。こんな風ではだれが国を守るのか?と韓非子は批難した。
★「事を敬して信あり」自分の仕事を敬えば人が信用してくれる。「父母に事(つか)えて能くその力をつくす」できる限りの力を尽くし父母に仕える。「三年、父の道を改むるなきは、孝と謂うべし」(父の死後、父の大切にしていた主義、しきたりを三年間守れば孝行である。「父母の年は知らざるべからず」父母の元気を喜び、また余命を知る。
「徳は孤ならず必ず隣有り」(第4里仁)徳の人は孤立せず理解者が現れる。「死生命あり、富貴天に在り」生も死も、貧富、貴賤もすべて天命で自分にはどうすることもできない。「女(なんじ)は画(かぎ)れり」やりもしないで自分に見切りをつけているがそれではだめだ。「民 信ずる無くんば立たず」(第12顔淵)為政者への信頼がなければ国家も人も立ちゆかない。「倦(う)む こと無かれ」(第13子路)自分の役目に飽きることなどあってはならない。
阿弥陀仏思想は原始仏教にはなかった。
▲(1)1世紀ころ。『無量寿経』(国王が出家し法蔵菩薩と名乗り修行し願が成就し無量寿仏(阿弥陀仏。無量の威光アミターバ)と成り、その仏国土が「極楽」(中国において「浄土」)。(巻下)正しく念仏往生を明かす。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く」と。http://labo.wikidharma.org/index.php/大経下)。
『仏説阿弥陀経』(もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日・もしは二日・もしは三日・もしは四日・もしは五日・もしは六日・もしは七日、一心不乱ならん。その人命終る時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と共にその前に現在したもう。この人終る時、心顛倒せず。すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。http://hongakuji.moo.jp/siyoukiyou.htm)。
●誰でも成仏させる仏の力を信じるのは「他力」。
▲(2)50~ 150年に「正しい教えの白い蓮の花の教え」(法華経)成立。二十八品からなる。「仏」は法華経に縁を結び信の道に入り自己の無限の可能性を開いてゆく「生のありかた」そのものを指し、歴史上の釈迦ではない。この世は久遠の寿命を持つ「仏」が常住し衆生を救済へと導き続けている場所で、一切の衆生が必ず「仏」に成り得るという平等主義の教え(久遠実成くおんじつじょう)。塔の建立、仏像、供養、礼拝、念仏、この教えの名をきくことなどもすべて、煩悩にくらまされた衆生が成仏できるように如来の説いた方便である。『法華経』そのものへの信仰を説くことが特徴的である。
●自分が『法華経』を信じれば仏になれるのは「自力」。
   <●新しい教理は三つ。「一乗妙法」(「一乗」はただ一つの乗り物の意味で、すべての人を平等に成仏させる唯一の教えである。『法華経』前半、特に方便品)「久遠本仏」(人間シャカが神格化され「永遠の仏」「永遠の救い主」となる。如来寿量品をはじめとする『法華経』後半)「菩薩行道」(法華経を広めることが成仏のための重要な行(ぎょう)である。『法華経』の中間部、法師品から如来神力品。常不軽(じょうふきょう)菩薩は理想の菩薩像)。これらはすでに聖書にある、という説がある。>
   「法華経」
「如来は但、一仏乗(いちぶつじょう)をもっての故にのみ、衆生のために法を説きたもう。余剰の若しくは二、若しくは三あることなし」(「方便品第二」『法華経(上)』岩波文庫、p.90)。「声聞、若しくは菩薩にして わが所説の法の 乃至、一偈(げ)を聞かば、皆、成仏せんこと疑いなし。十方の仏土の中には、唯、一乗の法のみありて 二も無く、亦、三も無し 仏の方便の説をば除く」(同上書、pp104-106)。
「かくの如く、われは、成仏してより已来(このかた)、甚大(はなはだ)久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常に住して滅せざるなり」「然るに、今、実の滅度に非ざれども、しかも便ち唱えて『当に滅度を取るべし』という。如来はこの方便をもって衆生を教化するなり」(「如来寿量品第十六」『法華経(下)』、pp.18-20)。
「われ深く汝らを敬う。敢えて軽(かろし)めあなどらず。所以はいかん。汝らは皆、菩薩の道を行じて、当に仏と作(な)ることを得べければなり」(「常不軽(ふきょう)菩薩品第二十」『法華経(下)』、p.132)。「人ありて、もしくは罪あるにもあれ、もしくは罪無きにもあれ、かせ・くさりにその身をとじこめ繋がれんに、観世音菩薩の名を称えば、皆悉く断壊(だんね)して則ち解脱(まぬが)るることを得ん」(「観世音菩薩普門品第二十五」『法華経(下)』、p.244)。
   (1)釈迦は悟りを開きたいという執着心も捨てろという教えだった。しかし、これでは在家の商人や農民の平安な生活は難しい。そこで西暦1世紀ころから、釈迦を超える存在としての「如来」や「菩薩」への信仰が始まった。「菩薩」は衆生を済度させたいという「願」を持っていた。
(2)釈迦の存在の前から「如来」がいて、『法華経』を信じれば、則ち「如来」を信じれば、救われ仏となる則ち成仏、済度できる、というのが『法華経』の世界。「一乗妙法」「久遠本仏」「菩薩行道」。
(3)「如来」「仏」は衆生を救済したいという「欲望」は持たない存在である。しかし「菩薩」がもつ「願」に基づく「如来」の潜在能力(「本願力」)を通して「如来」が衆生を救済していると考える。その救済を信じれば「仏」の世界すなわち極楽・浄土へ往生できる。これが「阿弥陀信仰」。
(4)他力本願は「如来」の潜在能力で救済されることを信じれば、念仏を一回唱えるだけで救済されるというのが「他力」で、『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』などを信じ『法華経』は捨てろというもの。『法華経』を信じ、また、救済されるためには座禅や仏行が必要と考えるのは「自力」。
   ★xxxxxxxxxx(1世紀ころ)中国へ仏教伝来。xxxxxxx★
 ★『論語』「事を先にして得ることを後(のち)にす」人に先んじて実行し報酬を受けるときは人のあとにせよ。
『論語』述而(じゅつじ)篇に「述べて作らず」とある。孔子は自分の説を創作しない。ここから、のちに儒家の文献(五経、十三経)を理解し、体現することを最高とするようになる。古典の原意を学ぶ祖述派と注を借りて意見を述べる制作派が別れる。朱熹(しゅき)は後者。(加地訳注、p.184)。
 ★★現世中心の中国に輪廻転生説が前世と来世を導入。祖先祭祀を行い命日に祖霊と再会している中国人にとって父母の祖霊がさまよい苦しみ続けるなど考えられない。出家して祖先を顧みないとか散骨、剃髪などはとんでもない(『孝経』加地伸行訳、 p.210、211)。
輪廻は個人単位だが、中国では「親の因果が子に報い」と誤解された。
 ★『論語』「之を愛しては能く労せしむることなかれ」本当に愛しているなら、将来のために苦労をさせねばならない。「天を怨(うら)まず人をとがめず」期待通り行かなくても全力を尽くしたから天を怨まないし人をとがめない。「君子は諸(こ)れを己に求む。小人は諸れを人に求む」(第15衛霊公)君子は何ごとも自分の責任とするが、小人は何ごとも他人の責任にしてしまう。「君子は道を憂えて貧を憂えず」(第15衛霊公)君子は人の道を実現するために気を遣うが貧乏であることは気にしない。
「国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからずを患う。貧しきを患(うれ)えずして安からずを患う」(第16季氏)よい政治家は人民が貧しいかどうかよりも安心して生活できるかどうかを心配する。「均(ひと)しければ貧しきことなし」(季氏)人民が物質的に平等ならば貧乏という感じは起こらない。「天命を畏(おそ)る」天命、つまり人に与えられた道徳的使命と人力の及ばない宿命に従うものだ。「得ることを見ては義を思う」儲け話があったら、それが道理にかなったものかまず考えろ。
 龍樹(ナーガールジュナ、150-250年ころのインド人)。
▲(1)『中論』を著し、『般若経』で強調された「空」を、無自性に基礎を置いた「空」であると論じて釈迦の「縁起」を説明。あらゆる現象は関係性(釈迦のいう「縁起」)の上に成り立っている事を論証。彼の教えは鳩摩羅什によって中国に伝えられた。現象は因果関係で成り立ち独立の実体はない「空」である。存在は直接間接に関わり合って生滅する。大乗独自の六波羅蜜を「利他」(布施・持戒)「自利」(忍辱・精進)「解脱」(禅定・智慧)と分類し釈迦の教えと合致するとした。
▲(2)『大智度論』(摩訶般若波羅蜜経27巻の解説書。基本部分は龍樹の著作、訳者の鳩摩羅什が大幅な付加を加えたといわれる)で、菩薩は衆生が老病死の苦、身苦、心苦等で悩むのを見て大慈大悲を生じ、自分の悟りを開く前に苦を救おうとするという。仏の智慧は「大慈大悲の故に、世世に身命を惜しまず、禅定の楽を捨てて、衆生を救護したまふは人みなこれを知る」。
   3世紀に西域で漢訳「華厳経」できた。原典は不明。
   300~400年の間に『般若心経』が成立したという説がある。
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『三国志・魏志倭人伝』(3世紀末成立)に、「魏」の明王が「倭」の使者に与えた詔書の中で「これ汝の忠孝。汝をもって親魏倭王となす。孝順をなすに勉めよ」とある(『孝経』加地訳注、p.222)。
 ★鳩摩羅什(344-413)インド人クマーラジーヴァ。「妙法蓮華経」「仏説阿弥陀経」と龍樹の「中論」「大智度論」を漢訳した。
「教相判釈」釈迦の真実の教えを決めるために各宗派が多くの諸経典を教えの相や時期で分けて判別した。これが北伝の仏教として日本などに伝わった。

中国では、仏教の出家や輪廻が、儒教の「家」秩序や祖先と調和せず仏教は迫害された。日本では「鎮護国家」の発想で仏教保護。
(5世紀ころ)儒教は日本へ伝来。次第に僧侶の教養として学ばれた。 6世紀に中国の天台宗成立(智顗(ちぎ)が開祖)。智顗は、基本教典の『法華経』は釈迦が晩年に説いた釈迦の教えの極意{正法(妙法)}であると位置づける。仏教経典の内容が種々異なるのは釈迦が教えを説いた時期や内容が異なるためと考え、教えを説いた時期を分類し、その中でどれが最高の教えであるかを各宗派が決めたのが「教相判釈」である。今日、五時の教判といえば天台宗のものが有名だが鳩摩羅什の筆頭の弟子である道生・慧観にそのルーツがある。五時八教の教判、あるいは五時八教説(ごじはっきょうせつ)とは、天台智顗が、一切経を五時八教に分け、『法華経』が最高の教えとした。日本へは最澄が紹介し、これを日蓮が採用した。(「教相判釈」ウィキペディア)
本来、男尊女卑観はなかったが唐代以降、五倫の強調で男尊女卑の傾向が強い。今も男女同権か男尊女卑かの論争あり。 ★★538年に百済が倭国へ仏教を伝えた★★。
聖徳太子(574-622)皇室の仏教的慈善活動を支えた。(慈善は大乗仏教の利他行)。
7世紀前半に浄土教が伝えられ阿弥陀仏の造像が盛んになる。
古代の中央集権国家★王土王民、公地公民思想 中国では早くから中央集権が進み、帝王の一元的・排他的な世界支配を象徴する考え方として説かれ儒教にも反映された。日本の古代国家も、公地公民制とともに王土王民理念が説かれたが、天の概念が希薄でかつ天皇家が唯一の王権として確立されていたので、帝王の一元的・排他的支配を前提とした考え方は表面的にしか受容されなかった(ウィキペディア)。最近の見解は、公地公民制として土地・人民の所有禁止は実際には発令されなかったか、もしくは所有禁止の実効性がなかなか各地へ浸透しなかった(ウィキペディア)。★中央集権国家 7世紀後半以降、百済滅亡など緊迫する国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ国家の独立を保とうとした。そのため唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら「王土王民思想」に基づく国家づくりを進め、その集大成が「大宝律令」(701年)であった。その第一の意義は、中国(唐)の方式を基準とした制度への転換にある。遣隋使の派遣以来、100年ほどの間に蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由の中国文明ではなく、同時代の中国に倣う準備が可能になってきていた。(ウィキペディア)
<635年中国に景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)がきた>
★(7、8世紀ころ)中国では、仏教を儒教の祖先崇拝と共存させるため「盂蘭盆経」(毎年七月十五日に孝順の慈をもって両親から七世の祖先までを思い盂蘭盆を用意し仏や僧に施して、父母の「長養慈愛之恩」に報いなさい)「父母(ぶも)恩重経」(父母の恩重きこと天の極まり無きが如し。父母病あらば牀辺を離れず、親しく自ら看護せよ。もし一心に此の経を持念すればよく父母の恩に報ずる)など偽経がつくられた。仏教を儒教に近づけるために父母・夫婦・きょうだいへの「恩」を仲介とした。

●仏教学者は仏教は霊魂の存在を認めないし、輪廻転生は仏教にない思想だという。しかし宗教としての仏教は霊魂の存在を認める輪廻転生の思想に基づいて東北アジアに普及した。もし、霊魂の存在を認めないのなら祖先祭祀の否定となる(加地訳、pp.212-213)。

儒教はどれほど悪い親であっても子は親を敬い死後は祀る、というのが「孝」の考え方。仏教では育ててもらった「恩」のある親の霊を死後の苦しみの世界から救済するために、お盆に祖先の霊や新仏に供物を捧げる。
<736年6月、医者の景人(景教徒)の波斯人と「景教」の教会の高位にある人物がやってきて6ヶ月滞在し聖武天皇は位を授けた、と『続日本記』に書かれている。741年「国分寺建立の詔」の一節に「あまねく景福を求め云々」景福=大いなる幸福=景教的幸福を意味し中国の碑にも見られる景教用語> 最澄と空海が唐に渡り1~2年滞在。最澄は天台山にのぼり天台教学、禅、密教を学ぶ。空海は官の許可のない僧に過ぎなかったが突然、留学僧に選ばれた。長安で梵語と密教を学ぶ。遍照金剛の名をもらう。
  最澄(767-822)鑑真和上が天台宗関連の典籍を日本にもたらす。次いで、伝教大師最澄(767-822年)が805年に唐に渡り翌年帰国し天台宗を伝えた。最澄は飲酒するものはただちに追放した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説いた。鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を奈良仏教が独占していた。最澄は、大乗戒壇を設立し大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め比叡山で学問・修行を修めさせるという構想を出し、奈良仏教と対立。当時朝廷は平安の仏教としての新興仏教を求めていた。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、天台宗が独立した宗派として確立した。(ウィキペディア)
最澄は唐から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし一年後に空海が唐から帰国すると、最澄の密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となった。しかし両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより完全な密教の編入はいったんストップしたが、弟子たちは密教を学び直して、最澄がめざした『法華経』、天台教学を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立に貢献した。したがって天台密教の源流は最澄である。なお真言密教は大日如来を本尊とするが、天台密教はあくまで法華一乗の立場を取り、『法華経』の本尊である久遠実成の釈迦如来としている。(ウィキペディア)
最澄は自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて『法華経』を至上の教えとした。天台宗は明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。
  空海(774-835)真言宗。805年に唐で灌頂(かんじょう、頭頂に水を灌(そそ)いで緒仏や曼荼羅と縁を結び種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とする為の儀式)を受け、「この世を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛の灌頂名を与えられた。
北宋時代(960~1127)、女真族の侵略による政治意識の高まりや仏教哲学への対抗上、新しい思想が必要となり宋学(新儒教)という形で再び活性化。 平安初期には「観相念仏」(『観無量寿経』により、阿弥陀や極楽浄土を観想(思い浮かべる)しながら念仏を行う)が伝わる。まず下級貴族に広まり主に京都の貴族の信仰であった。「末法」は釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年で、「教えはあるが修行しても悟りを得られない時代」、末法第一年を永承7年(1052年)とする。平安末期に災害・戦乱が頻発し「終末論」的思想となり、貴族も庶民も「末法」の到来に怯えた。「末法」では現世の救済が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まった。阿弥陀信仰は貴族社会にも深く浸透した(ウィキペディア)。平安時代の寺院は国の管理下にあり(官)僧は庶民の救済ができないので官僧を辞し個人的に教化活動する「私得僧」が現れる。
「人事を尽くして天命を待つ」(南宋初期の儒学者・胡寅(こいん)の『読史(とくし)管見』。(類義)「人事を尽くして天命に聴いて可なり」「天は自ら助くる者を助く」http://kotowaza-allguide.com/si/jinjitsukushitetenmei.htmlほか。) 空也(903-972年。天台宗で受戒したが奈良仏教や三論宗とのかかわりが深いと言われる。念仏を唱えながら道を作り橋を架けるなどに従事しながら、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する)。

慶滋保胤(中級貴族。931頃 - 1002年。浄土信仰によって極楽往生を遂げた人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。具体例で浄土往生を説き庶民への浄土教普及に貢献。
こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。
  平安末期から鎌倉時代に、貴族を対象とした仏教から、武士・庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。貴族の統治から武家の統治へ移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起きた。末法思想・仏教変革・社会構造の変化などに連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げた。
三学とは、仏道の修行の基本的な修行項目(『涅槃経』獅子吼菩薩品)で「戒定慧」のこと。戒学(かいがく。戒律のことで、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること)・定学(じょうがく。禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること)・慧学(えがく。智慧を修めることで、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めること)のこと。
平安後期の顕密仏教では智慧偏重というゆがみがあった。これを改革しようとする鎌倉仏教では(ア)三学全体を重視し持戒・禅定を復興させる栄西や俊芿(しゅんじょう)たち。禅僧、律僧集団。(イ)新しい救済の体系の創造。法然は三学を重視するも自分には修得できないと悟り専修念仏をおこなう。出家と在家が曖昧となり「念仏者・一向衆」。日蓮は法華経への信心によって三学を超越できるといい、題目を唱える。「法華衆・日蓮衆」。実際は顕密仏教が盛んで僧侶は法会、修法・祈祷を託された。しかし内部では世俗の身分秩序が受容された。禅僧・律僧集団では戒律が遵守され僧として帰依された。(大塚紀弘「末法の世、智慧偏重から修行重視へと進んだ宗教改革」『新発見!日本の歴史21』朝日新聞出版、2013年)
南宋時代(1127~1278)。

朱熹(しゅき)(1130~1200)。朱子学。★「気」は万物の構成要素でつねに運動し、運動量の大きいとき「陽」、運動量の小さいとき「陰」と呼ぶ。陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」の組合せで万物が生み出される。★人間や物に先天的に存在する「理」は根本的実在として「気」の運動に秩序を与える。「性」を「本然の性」と「気質の性」と分類。前者は「理」そのもので万人が生まれつきもっているが、「気」によって曇らされ善を発揮できない「性」が後者である。
性善説。二つの「性」概念を使って、悪の起源や人に聖人・君子・凡人・悪人といった多様性が生まれることを説明。静坐・読書による修養は「気質の性」を「本然の性」へとかえすことが目的。
「性即理」の「性」とは心が静かな状態、「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」になると心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻すのが「修己」とされる、というのが朱子学の核心の実践倫理である。
朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。(ウィキペディアほか)

また、朱熹は当時の「事功学派」は、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。逆に事功学派の陳亮は当時の儒者がいたずらに正心誠意を説くばかりで実効性のある政策に寄与しないことを難じていた。朱熹は実際面では、華北の地を女真族の「金」に占領され、反撃もできない当時の南宋の屈折した雰囲気を代表して、華夷の別や君臣間、親子間の道徳を強調する「大義名分論」を唱えた。日本では「大義名分論」が評価されて江戸幕府で官学となった。http://www.koubourico.natsu.gs/_txHWRoc.htmlほか。
源信(942-1017)浄土教。(天台宗の僧だが親鸞が『教行信証』で源信の徳と教えを讃えたので浄土真宗では源信大師と呼ばれる。985年の『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた。絵解きで庶民にも広められた。「観想念仏」で往生できると説いたが、仏のイメージを持てなかった一般民衆のための「称名念仏」を認知させた)。

法然(1133-1212)浄土宗。根拠として『無量寿経』『仏説阿弥陀経』。国家権力との関係を断ち個人の救済に専念する姿勢。法然や親鸞は、自らさとりができない凡夫の救いは浄土三部経の阿弥陀仏だけだとし、それ以外の仏を拝むのは禁じ、浄土三部経以外の宗派経文を「捨てよ閉じよ」と排斥し、法華経もその中に入れ、浄土関係以外の経文では千人のうち一人も成仏出来ないと激越な布教を展開した。阿弥陀仏の久遠成仏説などを法華経から依用した。(ウキペディア)
(つづく)
  (法然つづき)『観無量寿経』に説かれる罪悪の凡夫、つまり福徳を行えないどころか悪行を犯してしまう罪悪の凡夫も、善き人(善知識ぜんじしき)の教えに出会い、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えるなら極楽往生することができる。善導大師(中国)も法然上人も親鸞聖人もこの念仏によってしか救われない下品下生の者とは、ほかならぬ自分のことであると厳しい自己否定が信仰の根底にある。<上品上生(じょうぼんじょうしょう)・上品中生・上品下生の三者は資質や能力の上下はあれども、大乗の教えにしたがい極楽往生を願う人々。中品上生と中品中生は小乗の戒律を守り極楽往生を願う人々、中品下生は父母の孝養などの世間的な福徳を行うことで極楽往生を願う人々。下品上生・下品中生・下品下生は、福徳を行わずさまざまな悪行を犯す罪悪の凡夫であるが、「南無阿弥陀仏」の念仏を称え極楽往生できる>。http://mujintou.lib.net/dharma/shinshu/kangyou.htm
★「宋」の孝宗が「金」と和議を結ぶが、事功学派の陳亮は人々が安逸に流れることを恐れ、皇帝に中原の失地を回復しなければならないと主戦論を唱えたが容れられず朝廷からは退いた(ウィキペディア)。

(鎌倉幕府以降の武家は覇道を避けるため徳の象徴・天皇をいただいて王道とし支配を正当化した尊王論)。
親鸞(1173-1262)自身は「浄土真宗」は法然が開いた教えと解し、独立開宗の意思は無かったが、没後に門弟が教団として発展させる(浄土真宗、一向宗、門徒宗)。「教行信証」。他力本願(「菩薩」は「如来」による方便の一つ。「如来」「仏」は衆生を救済したいという欲望は持たない存在である。しかし「菩薩」がもつ「願」に基づく「如来」の潜在能力(「本願力」)を通して「如来」が衆生を救済していると考える。その救済を信じれば、念仏を一回唱えるだけで「仏」の世界すなわち極楽・浄土へ往生できるというのが「他力」)。

★浄土三部経 『観無量寿経』 『無量寿経』 『阿弥陀経』
元代(1279~1367)朱子学が科挙のテキストに。朱子学を学ぶことが中国社会を生きる上での必要条件となった。 道元(1200-1253)曹洞宗。「正法眼蔵」。たとえ成仏しても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることが成仏の本質であり(修証一如)、ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐しかんただ)。末法は方便だとして末法思想を否定。理論的裏づけは「法華経」に求めた。臨終の時に彼が読んだ経文は、「法華経」の如来神力品であった。
「明」(1368~1643)。体制側は郷村での共同体倫理確立に朱子学を用いた。朱子学者は道徳実践を回復しようとした。
★王陽明(1472~1528)陽明学。性善説。心即理(「性・情」を含む心は、天が全員に賦与した善性(理)で性は外的権威(経書)によらず完成できる。理は人の心の内にある。体制側が警戒)。知行合一(認識と行動は表裏)。
▲(16世紀)『論語』が、布教活動していたイエズス会の宣教師によってフランスに伝えられ仏訳され貴族の間でシノワズリという中国ブームとなる。儒教の「易姓革命」はヴォルテール、モンテスキュー、ケネーなど当時の思想家に大影響を与え、啓蒙思想の発展に寄与した。
日蓮(1222-1282年)『立正安国論』人びとは西土教主の名を唱へ、また東方如来の経をよみ、また法華真実の妙文を崇め、また秘密真言の教えに従い、また坐禅を行っている。しかしこのままでは国内は乱れ外国からは侵略を受ける、と他の宗派を非難した。悲しいことに皆は邪法の獄に入る。愚かにも悪教にとりつかれている。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり身は是安全にして心は是禅定ならん。正法である法華経を中心とすれば(「立正」)、国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。
●浄土宗と日蓮宗の決定的な違いは、浄土宗が極楽浄土での救済なのに対し、日蓮宗は現世の救済としたこと。日蓮は当時の北条政権に対して『法華経』を信仰しないと(来世での救済ではなく)日本が滅びると建言した。こうして日蓮宗は声高に現世救済を叫ぶ。またお念仏は口の中で唱えるが、お題目は高らかに声に出して唱える。
http://dic.nicovideo.jp/a/日蓮宗
清代の朱子学は朱熹が晩年に力を入れた社会秩序の構築を担う礼学が中心になる。体制教学として礼教にもとづく国家体制作りに利用され君臣倫理などの狭い範囲で活用された。 (戦国時代から安土桃山時代)過激となった仏教は信長、秀吉によって弾圧を受けた。
(江戸時代)朱子学で学問し人間修養。学問と人格が結合。★朱熹は華北の地を女真族の「金」に占領されて、反動で、華夷の別や君臣間、親子間の道徳を強調する「大義名分論」を唱え、それが評価されて江戸幕府で官学となった。もっとも江戸期の日本の儒学者は、イエズス会士によって欧州に紹介され、ヴォルテールを感嘆せしめたという、「理気二元論」や「性即理説」などには歯がたたず、李氏朝鮮の李滉(号は退渓。両班で1545年の乙巳の士禍で失脚。「格物致知」の概念や「理気二元論」に基づいて稠密な議論を展開する主理説に特色)の著作に解釈を頼っていたりする。
http://www.koubourico.natsu.gs/_txHWRoc.html
 
 ★★
江戸時代に朝鮮から朝鮮主理派の思想が伝わった。
(1)朝鮮の性理学は「四端七情 理気論」という。「四端」は孟子で、人に生まれつき備わる4つの心(惻隠、羞悪、辞譲、是非)が、仁・義・礼・智の端緒であるとする。「七情」とは、喜・怒・哀・懼(く)・愛・悪・欲をさす。「理」は四端を生み「気」は発して七情となる。宇宙の根源をなすのは「理」(自然の道理)であり、そこから物質的な「気」が生まれ、「理」と「気」は不即不離の関係にある。ところが「理」を重んずる主理派と「気」を重んずる主気派が200年の理気論争。
(2)主理説は、宇宙の根源にある「理」を認識し体得するのが大切と考え、内向的、道徳的、禁欲的な傾向を持ち、節操と気魄、礼と秩序、大義名分を重んずる生活態度をすすめる。李退渓(1501-72)は「四端」は「理」に発し、「七情」は「気」に発するという二分論(気発一途説)だったが、「四端」は「理」が発して「気」がこれに従い、「七情」は「気」が発して「理」がこれに乗ずるという理気互発説になった。主理派は「嶺南学派」。
 
 (3)主気説は、神秘的・抽象的な「理」よりも、物質的な「気」の働きを根源的なものとする。「理」は「気」が動く法則をいうのであって、「気」に内在するものだから「気」が主体で、「気」の法則を客観的に把握しようという態度になり、外向的で知識経験を重んずる姿勢になり、政治、経済、軍事などに関心が向かい、改革活動に力をいれる。大成者は李栗谷(1536-84)で「幾湖学派」。
(4)朝鮮の主流となった主理論は経済活動を卑しいものとし、社会の現実から遊離。
http://sakura.mast-bb.com/spr/kyodo-ekisen/rsub5/sub8079.htm
(これが朝鮮の経済発展を遅らせたといわれる。しかし、主理論を取りいれた日本では実利や経済を重んじる気風があった)。

★★
 
 中江藤樹(1608-1648)(陽明学)身分差はあるが人の価値は平等。他人に配慮しつつ親孝行。この世を最優先。人には誰しも明徳があり、よき社会の根本だ。明徳は『良知』であり、『心学』を意味している。私利私欲によって良知をくもらさないように、良知に至る道が「五事(ごじ)を正す」ということ。「五事」は中国の古代の「書経」の「洪範」にある九疇の一つで、礼節上の五つの大切な事。「貌」愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接する。「言」相手に気持ちよく受け入れられるような思いやりのある言葉で話しかける。「視」澄んだ目で、愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにする。「聴」耳を傾け、話す人の立場に立って、相手の話を聞くようにする。「思」まごころを込めて相手を理解し思いやりの心をかける。  
 林羅山(1583-1657)(朱子学)家康に仕えた。宇宙の正しい物事の関係「理」は人間では上下関係として現れ士農工商は「理」により正しい。親孝行は心でなく理がさせる。名分論が武家政治の基礎理念とされた。人間は天理を受け本性は善だが、情欲のため「理」から外れた行いをする。儒学で「理」を極め上下関係を壊す情欲を捨て去るべき。
羅山によれば、天が上にあり、地が下にあることは絶対不変の天理で、それは君臣、父子、夫婦、兄弟などあらゆる人間社会の上下関係をも貫くものである。そして、士農工商の身分秩序もまた、天理によるものであるから不変不滅なものである、と述べる。朱子学の理気説にあっては、「理」とは本来万物のなかに存在し、万物を存在たらしめる根源・原理である。したがって、それは人間社会のなかにもあって、人間関係を秩序づける原理・法則として機能する。そして羅山は、『春鑑抄』において、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を保つため、「敬」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)が重要視されるべき、と説き、とくに身分に対して持敬(心のなかに「敬」を持ち続けること)を強調した(存心持敬)。羅山は、宇宙の原理である理をきわめれば、内に敬、外には礼として現れると説き、敬と礼が人倫の基本であり、理と心の一体化を説いたのである(居敬窮理)。(「上下定分の理」ウィキペディア)

仏教排斥(現世の問題を回避している。仏僧の不道徳)。神道と人道と儒教の根本は同じ。
 (1612年以降)寺の軍事力廃止で複数の寺院諸法度。民衆に寺請を強制し全ての国民はいずれかの寺に所属(檀家)し仏教は国教となった。幕府は費用を負担せずに全ての僧侶が幕府の官僧となった。寺院諸法度で他宗派の檀家への布教や寺の建立が禁止され布教活動が制限された。この結果、僧侶は信者を獲得する努力は不要となり生活を保障される一方で、布教の余地がなくなり骨抜きになった。この制度が、現在の葬式仏教の起源となった、という説がある。
 (1691年)仏僧扱いだった儒学者は士として扱われる。▲朱子学は皇帝を絶対化し、天皇に逆らう武家は逆賊、という尊王論が起こり、後の倒幕と明治維新へ。
★孝と忠
(1)親子には「孝」が生まれたが、血縁関係のない他者との関係では<まごころ>という観念で人間関係を成り立たせた。朋友では「信」、主君には「忠」。こうして血縁的共同体、地縁共同体(通婚圏、親戚)、地域共同体へと道徳が擬似的に拡大される。
(2)周王朝の地域共同体連合から「秦」「漢」の中央集権的皇帝国家へ展開したときに、「信」はそのままで、「忠」は直接、皇帝と関わる官僚の道徳に移行する。「科挙試験」の登場後、「忠」道徳は科挙官僚の皇帝に対する道徳へと集約され、国民一般の道徳ではなくなった。
(3)中国・朝鮮は試験官僚によって政府を構成した。日本は律令制を真似たがすぐに荘園という私有地の有力者が登場し公地制がくずれ中央集権が徹底できなかった。鎌倉以降、天皇は中央集権国家の象徴的元首にとどまり、実権は幕府が握り、国政も最終的には藩単位となった。
 ★鈴木正三(しょうさん)(1579-1655、三河武士が出家し曹洞宗僧侶となった)『萬民徳用』(1649年)。職業即仏行。「農民日用」農業すなわち仏行なり。ひと鍬ひと鍬に南無阿弥陀仏と唱え、一鎌一鎌に住して、他念なく農業をなさんには、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄食となって、食する人、煩悩を消滅するの薬なるべし。「武士日用」「職人日用」何の事業もみな仏行なり。人々の所作の上において、成仏したまうべし。仏行のほかになす作業有るべからず。一切の所作、皆もって世界のためとなる事をもって知るべし。「商人日用」売買せん人は、まず得利の増すべき心づかいを修行すべし。その心づかいと言うは他の事にあらず。身命を天道になげうって、一筋に正直の道を学ぶべし。諸人の心にかなうべしと誓願をなして、山々を越えて、大河小河を渡って心を清め、漫々たる海上に船をうかぶる時は、この身を捨てて念仏し、一切執着を捨て、欲をはなれ商いせんには、諸天これを守護し、得利もすぐれ、福徳充満の人となる。
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/106suzki.htm
(4)藩の君主は地域共同体の中心者として実感できる対象で、行政担当者は試験合格者でなく世襲の武士に固定されていたから、「君臣の関係」が末端まで密であった。「忠」道徳は武家全体、行政担当者全体に生きていた。(武士は将軍でなく藩主に「忠」)。
(5)中国・朝鮮では試験合格官僚が「官」であるのに対して、地方では土着で世襲制の「吏」がいた。「吏」が行政の実権を握り、土地の地主や大商人などと地方有力者となっていた。「官」は中央の皇帝に対して「忠」の意識を持つが、地方に永住する「吏」にはそのような観念は生まれない。「吏」にとっては地域社会の最高道徳の「孝」が重要。「官」は「忠・孝」合わせて重視するが、「吏」は「忠」の観念がうすい。「官・吏」以外のものは「孝」のみである。
(6)日本の武家社会では、「官」相当の上士、「吏」相当の下士ともに、遠くからでも姿を見る藩主に対して共同体的感覚が強く、「忠」道徳を共有していた。だから、明治維新後、全官僚が前時代の「忠」道徳を天皇への「忠」道徳、ひいては国家への「忠誠」へと平行移動的に展開したのは自然であった。
 
(7)中国・朝鮮ではごく少数の「官」のみの「忠誠」であったから、近代化して国民国家となろうとしたとき「国民の国家に対する忠誠」という道徳の形成に苦しんだ。「公共への忠誠」という道徳は一握りの科挙官僚しか持っていなかった。辛亥革命で国軍と称しても盗賊まがいの軍閥が各地にできてしまった。孫文が自国民を「バラバラの砂(散砂)」と嘆いたのには歴史的理由があった(『孝経』加地訳注、pp.223-228)。  
1842年、佐久間象山『海防八策』のなかで、「辺鄙の浦々里々に至り候迄、学校を興し教化を盛に仕、愚夫愚婦迄も、忠孝節義を弁へ候様仕度候事。」と述べていた。http://sinsyuugositee.naganoblog.jp/e578346.html
1855(安政2)年、吉田松陰「士規七則」(君臣父子を最も大なりと為す。人の人たるゆえんは忠孝を本となす。君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。)
(1868年)政府は神仏分離令を出したが、廃仏思想を抱く国学者、儒者、地方官吏、各地の神職は仏教排撃を推進し民衆を巻き込んだ運動へと発展した。この運動は「廃仏毀釈(きしゃく)」と呼ばれ、多くの寺院が廃寺に追い込まれ堂塔、仏像、仏画、仏典などが破壊された。
『孝経』第五「士章」には「孝を以て君に事うれば則ち忠」とある(同上書、p.40)。
中国では清(1644~1911)の滅亡により儒教は力を失った。
軍部の一部で朱子学に心酔する者が多く、二・二六事件や満州事変にも影響したといわれている。
★<宮沢賢治「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」『農民芸術概論綱要』1926年ころ>享年37歳。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。『銀河鉄道の夜』(初稿は1924年ころ)の中で女の子が列車から降りたいと言う。「あたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」。するとジョバンニが「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ」と返した。普通の浄土宗だったらここで降りて天上の極楽を目指すはずなのに、「天上よりももっといい所をこしらえる」という日蓮宗の理解を示している。賢治は1920年に法華宗系在家の活動団体「国柱会」に参加したが、その創設者の田中智学は「八紘一宇」という造語で知られる社会運動家でもあったが、その影響だと思われる。
★明治の官僚制はフランスから学んだ(フランスの官僚制は啓蒙時代に中国の科挙の影響を受けた)が、思想的感覚的には科挙官僚の「<b>民を指導する為政者</b>」という儒教官僚と同じ。(『孝経』加地伸行訳注)。1890年(明治23年)、儒教が『教育勅語』で国家のイデオロギーとして本格的に採用された。
★明治維新の指導者は儒教の影響を受けていた。丸山真男以来、政治思想史の主流は明治維新が儒教を「克服」することによって近代化をなしとげたとする見方だが、最近の研究は儒教的伝統との連続性を指摘している。科挙の試験科目に求められたのは四書五経などの「文人」としての教養で、官僚の権威を支えたのは専門知識ではなく、知識人としての「徳」だった。中国の官僚の心得は「君子は器ならず」(『論語』)で、必要なのは、個別の技術的な知識ではなく、どんな事態に対しても大局的な立場から判断できる能力である。日本のキャリア官僚に求められるのは、テクノクラート的な専門知識ではなく、あらゆる部署を回って国政全体を掌握する「君」としての素養である。しかし少なくともITに関しては、儒教的ジェネラリストは「情報弱者」でしかない。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/059e292546d5b12de0591f462339c2b8
 
戦後は、支配者に都合の良い封建的な思想として批判を受け、影響力は弱まった。<戦後教育は、マルクス主義の欲望の解放とデューイ説で児童の人間性を重視し、対等な民主主義を強調し、儒教.五倫は封建的と否定した。それを保守が批判>
▲中国共産党は「儒教は革命に対する反動」として弾圧。改革開放の中で儒学や老荘思想などが「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価され、市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれ、儒教を真剣に学ぶべきという議論も出てきた。(ウィキペディア)
 
   
   
「大紀元」
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/03/html/d84928.html
文革大革命の間に、孔子は中共の最大の敵として打倒されていたが、いまは再び「至聖先師」として高く持ち上げられている。2004年以降、北京当局が世界的規模で「孔子学院」を設立。海外の大学や現地教育機関と提携して運営され、現地の中国語学習者を対象とし、授業の教材提供や奨学金の支給は国家漢弁が協力・支援する。2005年から今まで、すでに88カ国(地区)で282か所の孔子学院と272個の孔子教室を設立した。
一方、米国在住の中国歴史学者・余英時教授によると、「孔子学院は文化目的のものではなく、政治目的だ。カナダのある孔子学院は、調査の結果、中国共産党の情報収集機関であることが判明した」という。
孔子学院高層部理事会の規定には、「中共の世界戦略の一環と位置づける」と明示されている。中央政治局委員で宣伝担当の李長春氏は昨年、孔子学院を「中国対外宣伝構造の重要部分」とし、中共対外宣伝工作における役割を定義している。
昨年9月、北京で開かれた「孔子誕生2560周年記念国際学術フォーラム」で、中共中央政治局委員、政治協商会主席・賈慶林氏が出席、「その精華を継承、その糟粕(かす)を取り除き、儒学を社会主義文化の推進に役立たせよう」と孔子に対する宣伝方針を述べていた。
『般若心経』は一般には600巻に及ぶ『大般若波羅蜜多経』の中心をまとめたといわれているが、梵字原典はなく最古の写本は法隆寺のものとされる。龍樹が般若教典の註釈書として『大智度論』を書いたとされるころに『般若心経』が成立したという説もある。鳩摩羅什訳と玄奘訳といわれるものも偽経という説もある。般若経典群のテーマを「空」の1字に集約して、その重要性を説いて悟りの成就を讃える体裁をとりながら、末尾に付加した陀羅尼によって仏教の持つ呪術的な側面が特に強調されている。またサンスクリット・テキストの題名には経という語はない。現在最も流布するのは玄奘三蔵訳とされる漢訳である。(ウキペディア)★最近の研究では鳩摩羅什によるとされる漢訳本は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。(http://www.e-sogi.com/arekore/kyo1.html)
加地伸行は<宗教性としての孝>の上に立つ<宗教としての儒教>という新概念を作り学説を立てた、と述べている(『孝経』加地伸行注 p.6)。 http://www.tamano.or.jp/usr/tosinobu/syakashogai.htm
儒教を宗教とした場合、平等思想が無い事と死後の世界の観念が無い事が問題視される。 http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3(インド思想史略説)
  http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto11.htm(法華経と聖書)
知行合一(朱熹の学の「知先行後」を批判した。実践重視論は誤解。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識で理を悟るのではない。認識と実践とは不可分と考える。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくもので、もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする)。 『孝経』加地伸行全訳注、講談社学術文庫
   
荻生徂徠(1666-1728)。林鳳岡らに学んだ儒学者。朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説」と喝破。政治改革論『政談』では政治と宗教道徳の分離を主張し、経世思想が本格的に生まれてくる。
赤穂浪士の処分では、儒学者林鳳岡などが賛美助命論を展開。荻生徂徠は義士切腹論。義とはいえ徒党を組んだことは私論である。殿中のことや討ち入りは違法行為。だから、切腹ならば忠義を軽くみることもなく公論である。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからずと述べた。(孔子を批判した墨家や韓非子の立場か)。
 
   
 『孝経』「三才章」に「博愛を以てすれば、民、其の親を遺(わす)るることなし」とある。この「博愛」はキリスト教社会の全てのものを平等に愛する愛ではなく、儒教的にはまず自分に最も近い親、血縁者、遠縁のもの、血につながらぬ近隣の者、とひろがる有限な愛(『孝経』加地訳、p.54)。  
   『ブッダのことば――スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫。35「あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲することなかれ。いわんや朋友をや」。36「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍の生ずることを観察して、サイの角のようにただ独り歩め」。40「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、常に人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、サイの角のようにただ独り歩め」。47「自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、サイの角のようにただ独り歩め」。60「妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、サイの角のようにただ独り歩め」。68「最高の目的を達成するために努力策励し、心がひるむことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力を具え、サイの角のようにただ独り歩め」。184「勤勉によって苦しみを超え、智慧によって全く清らかとなる」(中村元は、初期の仏教は勤勉を勧めていた、と解している。p.294)。262「父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、これがこよなき幸せである」。590「人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しむのを去れ」。