幕末・明治維新略史

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ス ウェ ー デ ン 社 会 保 障 略 史

(2013.6.29)

ノルマン人のうちスウエア人(後のスウェーデン人)が鉄器を発明し、鉄の農具で農業を発達させメーラレン湖周辺に住み着いた.人口が増すにつれて強者と弱者の差が大きくなり,大酋長が統一を始めた.造船技術も進んでいたので国外に進出したがこれがヴァイキングで、8~9世紀から11世紀までヨーロッパ一帯を脅かした.第1のルートはノルウェーからアイスランド,グリーンランド,北アメリカへ行った(コロンブスよりも50年前といわれる).第2はデンマークからイギリス,ノルマンディからパリへ行き,一時期,パリ王国を建てた.第3のルートはスウェーデンからバルト海,ロシアに侵入しノブゴロドを首府とした王国を建て,またヴォルガ川とドニエプル川,カスピ海と黒海沿岸まで荒した.

 各国は北方の蛮人ノルマンをキリスト教で鎮静しようとして牧師を派遣したが容易に受け入れなかった.ヴァイキングは突然消息がわからなくなった.

ヴァイキングがしずまってから,12世紀にローマンカトリック教が非常な勢いでスウェーデン全土に普及した.教区は宗教活動の中心でありまた住民登録のような行政も行った.大陸の宗教改革の影響もあり,1600年代のカール11世はスウエーデンの国教を新教に改めた.

スウェーデンの鉄の製造は13世紀にさかのぼり,17世紀には鉄と銅によってバルト海の帝王といわれていた.

 1686 教会法ができ教区の役割を法的に明文化した.当時は広大な土地で農業にも適さず(引用者注;氷河のあとで土地が肥沃でなかったので、地力を維持するために中世ヨーロッパでは広く三圃制農業が行われたと考えられる)、人口が少なかったので大地主は農業労働者を大事にし,老後や病気や遺族の世話をした.また人々の間の相互扶助や連帯感も強かった.身寄りのない貧窮者や孤児,病人などは教会法によって教会が設置する施設に収容することになっていた.

 「弱者保護はこの頃よりすでに公的義務として位置付けられていた」.初期には貧窮者も老人も病人も孤児も一つの施設に収容されていた.いくつかの教区が共同で病院を作り病人を収容した.これが今日の病院の原型といわれる.

●1709 スウェーデンは、中世後半は力をどんどん蓄えていき、デンマークを追いやったり、ポーランドと戦争をしたり、ドイツの三十年戦争にも介入して、ウェストファリア条約(1648年)で北ドイツ・ポメラニア地方に領土を獲得したりと、大国主義・強国主義を誇示していた。しかし、1709年に戦争狂のスウェーデン国王カール12世がロシアに攻め込み、ロシアの焦土作戦にまんまと引っかかって、敵の領土に深く入りすぎてしまい、今のウクライナに位置するポルタヴァという町で、完膚なきまでに叩きのめされてしまった年だ。ヨーロッパの北端に位置する小国の無謀な夢も、ポルタヴァの敗戦で打ち砕かれてしまう。http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/c/deea8d776691104ff102868540830f19

1763 困窮者が増えてくると教区ではまかないきれなくなり,1763年に救貧税法ができ一般住民に目的税を課し救貧院を建てた.「貧乏ながら自給自足の生活が成り立ち,行政が無料で受け止める体制が成り立っていた」

●1809 1808年ロシア帝国はスウェーデン政府に宣戦布告し、スウェーデンは再びロシアに敗れ、それまで数百年にわたって領有していたフィンランドを奪われたのだ。「スウェーデンは200年以上、戦争をしていない」とよく言われるが、この北方戦争がスウェーデン近代史で最後の戦争となった。そして、軍事力や威勢で国づくりを行っていくのではなく、小国なりに細々と教育や産業に力を入れて行く路線へと転換して行くことになったと言われる。http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/c/deea8d776691104ff102868540830f19

1809 近代的憲法制定(近隣は戦争に明け暮れていたので、国内では急進自由主義者と保守派の妥協・中道の産物)

 カール13世は子供がなかったので,ナポレオンの武将のベルナドットを皇太子に迎えた(ベルナドットはナポレオンには心服していなかった.スウエーデンと戦ったときに一連隊ごと捕虜にしたが寛大な処置をとったのでスウエーデンから敬愛されていた.ナポレオンは彼がフランスを攻めないという約束でスウエーデン入りを許した).フランスでの自由の行き過ぎと革命の失敗をみて彼は反動的でむしろ保守的な政治家であった.彼の治世によって文化的な国家を目指す基盤ができ,国防軍も外国に攻略する疑惑を持たせなかった.

●生活困窮者に社会扶助を求める権利があることをノルウェーでは1854年に,デンマークでは1849年に憲法が明白にした.フィンランドやスウェーデンでも生活困窮者の保護を地方公共団体の義務と定めた.

1842 学校法によって公的に運営される男女普通義務初等学校を創設した.ルター派の国教会の国であったが,教区ごとに常設の学校が建設され,すべての児童に無料で教育を提供することが教区の義務となった.

1843 救貧令

1845 女性に男性と同じ相続権が認められた

1846 未亡人,離婚女性,未婚女性が手工業および一定の範囲の商業の分野で就労できるようになった(従来はハウスメイドが主たる職場)

1848 救貧令

1853 初等教育職が女性に開放された 。1853 救貧法を公布

1860年代に飢饉が起こり貧困の社会性が認識された

1861 国立高等女子師範学校設立

1860~1870年 デンマーク,スウェーデン,ノルウェーは1860年~70年ころ産業革命期に入った.当時の農業人口は75~80%を占めていたが100年間で20~30%にまで減少し,代わって当時10~15%だった工業・商業・運輸業人口が60%にまで増加した.(それにたいしてフィンランドやアイスランドは農業的で社会福祉の在り方も違っている).

19世紀後半 鉄鉱石の品質がよいために,18世紀にはイングランドが輸入した鉄の80%はスウェーデンからであった.19世紀後半から,鉄鉱石や森林などの天然資源を活用した工業化が始まり,一人当りGNPの伸びはドイツやイギリスを上回っていた.

19世紀後半に農業革命が起こり機械化が進み農民が大量に失業した.多くは都市へ流入したが工業に雇用されたのはわずかだった.そこで困窮するものが大量に発生し,また工場で働くものも悪条件で妻や子供も労働した.

1862 地方政府法が公布.教区はそのままコミューンとなり議会を持ち地方自治体の機能が付与された.2500あったが,コミューン税を徴収し児童から老人に至るまで、住民に関連する仕事をした.全国のコミューンを24のランズティングに分け,議会を持ち徴税もするが,コミューンの上位のものではなく,横並びのものである.主に医療に責任を負い税金の75~80%を充てている.1984年までにコミューンは284に統合された.中央政府の出先機関としてレーンが24あるが,中央で知事が選任されているので地方自治体ではない.

●1862年に地方政府法ができたときに,救貧法が改正され,救貧院も老人ホームと改称された.まず居宅のまま生活できるように金銭が給付され,病弱老人にはホームヘルパーが派遣された.このころのスウェーデン社会には家族による老人扶養の意識はなくなり,農村の相互扶助の習慣もなくなっていたので,社会が老人の世話をすることになってしまった.

スウエーデンには福祉法は,児童福祉法,禁酒法,公的扶助法の3つである.地方政府法ができる以前の,救貧法,児童保護法,禁酒法を何度も改正し1954年の禁酒法,1956年の公的扶助法,1960年の青少年・児童福祉法となったもの.1977年に児童保育法ができたが現在は社会サービス法に吸収されている.

1864 男性は妻を鞭で打つなど体罰を加える権利を失う。

1871 改正救貧法(コミューンが責任をもつ救貧対象を孤児から高齢や障害で労働不能な者に広げた)

1881 工業での児童労働を禁止(10歳以下の児童の労働を禁止)。

1889 工業労働災害保護法(労働者の安全のための工場査察制を導入)

 当時のヨーロッパの先進工業国には鉄鉱石や木材資源を大量に需要があった.1890年~1914年には新しい製鉄技術や,パルプと紙の製造技術や発電技術が開発され,原料供給としての輸出と,工業基盤整備による工業製品の輸出によって,都市化と工業化の発展を加速化させた.20世紀になってから,水力発電で上質の鉄鉱石で鋼鉄を作り,森林を紙やパルプにし,また船舶などで貿易に成功した.

 19世紀後半から都市の工場労働者は労働運動によって労働条件を改善しようとし,社会民主主義が台頭し,1889年に社会民主主義労働党(社民党)が結成された.はじめはマルクス主義を掲げていたが次第にイデオロギーよりも労働条件改善運動が中心になった

健康保険は19世紀後半に任意加入の保険組合が地域社会の相互扶助的な活動として成立したことに始まる.1891年に政府が認可した健康保険組合に補助金を出すようになった.

 アメリカへの移民を斡旋し,1860~1930年の間に人口の1/4に当たる130万人が移民した.(当時の人口が350~500万人ほどで,1880年代に32.4万,1890年代に20万,1900年代に22万がアメリカへ向かった.新大陸の食料と仕事を求めていたが,中には貧困のためではなく,当時の宗教界の権威主義的傾向から逃れたかったものもいた).●当時,貧困は当人の心がけが悪いことが原因と考えられたので,都市の外側に牢獄のような救貧院を作り,貧民を押し込め衣食住を与え労働させた.逃げられないようにそろいのパジャマを着せた.

1900 婦人年少者労働法

1902 里子法(この頃は貧しいため結婚して出産することができず,結婚によらない私生児が多かった.私生児は社会悪とみなされ,非合法の堕胎で母子ともに死ぬ場合も多かった.ひそかに産んだ子にお金をつけて里子に出す風習があった.金銭目当ての里親を取り締まるために里子法ができた程で,金だけとって子の世話を怠って死なせる里親が多かった.)

●1909 スウェーデン史上、最初で最後のゼネストが起こった。労働者側のストライキに対して、使用者側がロックアウトを行うなどし、双方が1ヶ月にもわたって全面対立したために、経済が完全に麻痺してしまった。その上、最終的に何か勝ち取れたものがあったかというと、ほとんどなく、労使双方にとって非常に苦い経験となった。この経験をもとに、労使交渉における紛争はなるべく平和的に解決すべきではないか、という意識が労使の間に生まれていき、1938年のサルトショーバーデン協定という形で実を結び、その後の安定した経済成長の基礎になったと言われる。http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/c/deea8d776691104ff102868540830f19

1912 労働保護法(工業だけでなく手工業,農業にも適用,1949年まで)

1913 国民年金法(最初の普遍的な老齢年金)。1913年に社民党党首のブランティングの提唱で国民年金法が制定された.国民年金はすべての国民に普遍的であること,収入とは関係なく一律額であることを基本にしていた.当時は収入の1%を16歳から66歳まで積み立てることを義務づける方式であったが,積み立て不能の時期があった人も67歳から支給された.しかし初めはこずかい銭程度だった.

第1次大戦後の不況時には失業問題解決を第1の課題にし,かつ労働条件の改善に努力した.1932年には労働者組合連合を背景に単独政権を獲得した.まず労働条件改善に尽力し、働く限り困窮に陥らない社会を築き上げた.

 大戦後は,働くものはかなり豊かに食べられる国になっていたが,労働できない老人が取り残されていた.老人ホームは個室にしてじゅうたんなどを敷いたりしたが,牢獄のイメージがあって古いスラムに住み続ける老人がいた.

1918 救貧法改正(老人ホームが公式に認められ義務づけられる)

1919 女性普通選挙権および被選挙権

1920 大学教育を資格要件とする高級官僚職が女性に開放された

1920 労働争議調停法(労働調停委員制度導入)

1921 第1号女性議員誕生

1924 児童福祉法(親による虐待、酷使を防ぐ)親が子供を私物化して酷使し虐待するのが日常だったので,これを防止するための法律であった.

1928 社会民主党が議会で「国民の家」構想を発表し、労働者のみでなくすべての市民の平等が実現する家を理想とした。マルクス主義の影響を絶った路線となる。

1931 任意加入の健康保険制定,通院医療費の個人負担分の一部を給付した.

1932 社会民主党が公共事業による雇用対策を提唱し、アメリカに先駆けてケインズ的経済政策を行った。

1932年 スウェーデン人の児童観を変えた,アルバ&グンナール・ミュルダール夫妻の『人口問題の危機』,低い出生率による人口減少の警告であった.当時,極貧時代から抜け出し,若者は自分の収入で自分自身の人間らしい生活を楽しみ,結婚して家庭を作る気などない風潮であった.(ミュルダールの人口政策論は,「消費の社会化」の概念で特徴づけられる.彼は,「消費の主要部分の社会化・国有化」を提唱した.主要部分とは,出産と育児に関わる部分である.「子どもに関する費目を個々の家計から国家予算へと移転させること」と説明されている.社会化・国有化とは,出産・育児関連の消費を量・質ともに社会的に管理し,平等負担とするということを意味する.従来から主張されている階級間の垂直的分配に加え,家族規模間の水平的分配をいかに組み込むかという問題が新たに問われた.ミュルダールは,所得階層に関係なく,すべての子ども・家族に対する無料サービスを提供することで水平的分配を達成するとともに,そのシステムが所得に応じた課税で支えられることで垂直的分配をも達成するという解決策を示した.http://society.cpm.ehime-u.ac.jp/shet/conference/72nd/72paper/17fujita90.pdf  ( 藤田菜々子『1930年代人口問題におけるケインズとミュルダール』)
1932年、革新政党「社会民主党」の党首ハンソンが首相となり、1946年まで14年間連続してスウェーデンを指導する。第二次大戦の間、ついに中立を守り通した。内政面では、厳しい政治、財政状況の中で、後のスウェーデン型福祉国家の基礎となる枠組みを着実に作り出した。その中でも「女性の機会均等、男女平等、家庭の束縛からの解放」を目指す「家族政策」の枠組みの確立努力は、注目に値します。そのための重要な施策として、育児にかかる家庭の負担の一部を、社会全体で負担しよう、また子どもを持っても、夫婦ともに社会に出て働き活動できる環境を整備しよう、という「育児の社会化」の枠組み作りに着手した。(藤井 威「スウェーデンの育児政策」http://www.poppins.co.jp/poppins_topics/2008/04/1.html)
1932 社会民主党と農民同盟が経済危機克服協定を結ぶ。
1933 住宅建設に補助金(同上)

1935年政府は「人口問題委員会」を発足させ,産めよ殖やせよの奨励ではなく,児童福祉はどうあるべきかを検討した.

1935 家族手当(児童手当)創設(ミーンズテスト付き) 新国民年金制度

1935 男女平等の国民年金導入

1938 サルチオバーデンで労働組合全国組織LOと経営者連盟SAFが基本協定に調印、労使の平和を確保することを確認し、中央交渉の母体となる労働市場協議会を設置。国の干渉を回避。

1941 家賃補助創設
1943 ホームヘルパー制度導入

第2次大戦では,ノルウェーもデンマークもヒトラーに無血占領された。フィンランドは不利な条件でソ連に降伏させられた。ドイツはスウェーデンも占領したかったが,70万の強固な兵力があったので,占領するには700万の軍が必要であったが,それだけを割くことはできなかった。スウェーデン国民はドイツにもソ連にも侵略されないように挙国一致で協力し中立を通した。

国土が無傷だったので,戦後は輸出によって経済が豊かになった。社民党はその富を国民に平等に分配する政策をとった。また軍事費を削減することになったが,その分,減税するか,それとも社会福祉のための支出に回すかの選択に迫られた。大蔵大臣は減税せず社会福祉の支出に回すことに決めた。

 老人は農業社会の崩壊でその日暮しをしたり,トイレもないような地下室のようなところで生活するものも多かった。戦中は国防で手が回らなかった。あまりひどいものは救貧法で救済されたが,それだけでは生活していけないものは老人ホームに収容された。しかし陰惨だった老人ホームへは行きたがらず,スラムの住宅にしがみついていることが多かった。

 社民党は,人々が働いている間は能力や地位や収入による差はたくさんあるが,引退した老人は平等であるべきであると考えていたので,老人政策にその平等主義が最もよく現われていると思われる。

1946年に国民年金は積み立て方式から賦課方式への検討がされ,1946年に国民年金法を改正し政府と自治体の負担を増やし,年金だけで生活の必要を満たせるようにした.1950年には物価スライドにした.

1947 健康保険が強制加入になった.しかしランズティングの役割は大きく,保険の給付は入院実費の5%程度だった.患者にとって入院はつねに無料であった.

1948 所得に関係なく16歳以下のすべての子どもに手当を支給
1954 高齢者の住宅手当支給

禁酒法 第1回禁酒法は1913年,その後なんども改正し1954年が最後であった.いまは麻薬乱用患者が大きな問題だが適用する法律がないので,医療がかかわるだけである.

1955 義務制国民医療保険実施。1962年に改定されて国民健康保険として実施された

1955 医療費の給付は病院の外来部や,地方医務官の医院での診療の場合に交通費だけである.開業医の場合は自由料金であるが,支払った医療費のうち,公定料金表の4分の3と交通費が償還される.また被保険者と扶養家族で給付の差はない.

1956 社会扶助法(公的扶助法)、救貧法が改称されたもの。

1957 10月に国民年金を巡る国民投票(3つの選択肢。社会民主党は強制的な所得比例型付加年金(ATP)を提案)、決着はつかなかった 。

1958 女性も司祭になる権利ができた

1960 児童福祉法(新しい発想は「子供は親にとって個人的な愛情の対象だけであってもならないし,私有物であってはならない.社会にとって児童は次代を背負う大切なもの,その養育を親だけに負担させるべきものではない.社会も経費の一端を負担し,一連の児童福祉制度に協力すべきである」と,児童と国民の間の関係を説いた).(1)法的にまともな結婚をするように,新婚家庭をつくるためにアドバイザーをつけ,家具一式購入資金を国立銀行が低利で貸し付ける.(2)妊娠したら,検診から出産,産後の検診まで,すべて無料.(3)出産の手当を出す(死産でも)(4)16歳になるまで,ひとりごとに児童手当がつく.(5)基礎学校,高等学校,大学の授業料はない.基礎学校の生徒には無料の給食,教科書,教材,文房具を支給.(ほとんどが公立学校である)(6)住宅手当は,親の収入と子供の数によって,家族が十分に広い家に住めるようにするための家賃補助である.(7)児童用のホームヘルパーがいて,親の事故,子供の事故に対応できる.児童福祉法の狙いは,児童の平等にあり,親の財産とか居住地には関係なく,本人に能力と意欲があればどんな教育を受けることもできるということである.

1960 国民付加年金法(基礎年金(税方式)+所得比例年金の2階建となる)国民基本年金は,老齢,障害者,寡婦,児童の年金がある. 1959年、企業の年金を国民年金に取り込み国民付加年金とし1960年から実施した.付加年金の財源は保険料だけで,被用者の場合は全額雇い主負担,自営業者は自己負担である.

1960年には老人だけの世帯が年金で生活できるところまで行った.老人ホーム入居者も年金の70%をホームへ支払った.老人ホームの大部分の人は年金以外の収入がない人達だった.1960年に,収入に応じた料金を払うと老人ホームで同じ様なケアが受けられるようになった

1962 国民保険法 医療サービス法(老人ホーム建設中止) 。国民健康保険は国民保険に統合された.医療の現物給付は公立病院の一般病室に入院・治療を受けるときに行われる.患者は無料で,入院料は病院経営に責任をもっている地方自治体に送られる.公立病院の赤字は全部地方自治体の負担である.医療費の給付は病院の外来部や,地方医務官の医院での診療の場合に交通費だけである.開業医の場合は自由料金であるが,支払った医療費のうち,公定料金表の4分の3と交通費が償還される.また被保険者と扶養家族で給付の差はない.

1972 サービスハウスの指針(老人ホームに代わり建設)

1974 雇用保護法

1975 新中絶法(妊娠18週までは女性が中絶を自己決定できる)

1976 労働者災害保険法 社会保険法

1977 児童保育法。労使共同決定法(企業の経営協議会に従業員の代表が参加し、労働時間や福利厚生、その他の重要案件を使用者と協議し決定するもの)

1978 24時間在宅ケア制度導入

1979 幼児を持つ親の労働時間を1日6時間に短縮する権利

1980 男女機会均等オンブズマン制度

1980 収入に比例した付加年金制度完全実施 社会サービス法(老人ホームはケア付サービスハウスと改称し,公的扶助から離脱,ほか,82年実施)

1982 保健・医療サービス法(医療サービス法の改正,83年実施)

1982 私的場所での女性虐待がすべて起訴の対象になった

1989 親しい人の最後を看取る介護休暇制度

1990年秋は銀行危機、金融危機のはじまり

(オイルショックを契機に経済成長は減速し始めた。「寛大すぎる」社会福祉政策による公共部門の膨張や強い労働組合が産む高い人件費負担などに起因する財政赤字の拡大や、賃金格差の極端な縮小による労働意欲の減退など、多くの解決すべき課題が浮上してきた。これに対し政府の通貨切り下げと総需要拡大策は失敗に終わり、1980 年代前半までには政府債務残高も対GDP 比70 %を占めるまでに悪化した。1982 年、スウェーデンは、「第三の道」と呼ばれる積極拡大策と緊縮策の混合ともいうべき独自の経済運営策を採用し、生産の拡大・社会福祉の充実・長期的雇用の安定と、国際収支の赤字縮小・インフレの抑制、の同時確保を目指した。この結果、一時的ではあるが経常収支・財政収支は黒字に転じた。一方、1980 年代に入り段階的に進められてきた金融規制の緩和を背景に株価や不動産価格が急騰し、1980 年代後半にいわゆる「バブル」が発生した。この後急拡大したバブルが崩壊した1990 年初頭、スウェーデン経済は大恐慌以来のリセッションに突入、バブル期の好景気で一時的に黒字転換した財政も再び赤字に転落した。深刻な経済・金融危機を脱するため、政府はまず経済危機克服のためのパッケージを発表し、経営危機に陥った銀行救済のための公的資金投入策を迅速に実施した。さらに大規模な政策の発動や改革を次々に行った。具体的には、①インフレ・ターゲティングの導入、②限界税率の引き下げなどの税制改革、③財政赤字克服のための(i)予算のシーリング制度導入、(ii)財政赤字削減法の制定、(iii )EMU 加盟に向けての収斂基準達成も視野に入れたコンバージェンス・プログラムの設定、④社会福祉関連では(i)高齢者福祉政策の改革、(ii)大規模な公的年金改革、などである。経済・金融危機をきっかけに、より根本的な問題である構造問題の解決に着手し、1998 年にふたたび財政の黒字転換に成功した。http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/sue-den-yukue.htm)

(丸尾直美「スウェーデンの不況対策―日本とはここが違う―http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/ldi/view/fov0202.pdf参照)

1992 老人医療,福祉,総合施策実施(エーデル改革といわれる.ナーシングホームは医療施設から介護付住宅となり市の責任となる,個室化補助,1992年から5年間)
1992年にエーデル改革が行われ、改革の要点は以下である。
(ア)今まで県の運営であった約540 の長期療養病院/ナーシングホーム(約3万1000 床)老人ホーム、グループホーム(約3000人分)、約330カ所のデイケアが市に移管された。(イ)サービスハウス、老人ホーム、グループホーム、ナーシングホームなどは「サービス・介護の付いた特別な住居形態」に変更され、形態上の区別はなくなった。(ウ)上記の「特別な住居」が市の責任となり、市が総合的に運営/計画できるようになった。(エ)県と合意するならば、市は在宅での訪問看護も行えるようになった。(オ)病院での医学的治療が終わり、福祉事務所に退院の連絡があってから5日たっても(土、日曜、祝日を除く)市が引き取ることができなければ、患者の総費用は市が負担しなければならなくなった(社会的入院の減少)。 (カ)この改革に伴い、県職員(看護師5300人、介護職員17400人、作業療法士300人、理学療法士400人、その他6600人)合わせて約5万5千人(フルタイム換算約3万人)が1992年1月1日より市職員となった。(キ)この改革の規模は約 203億クローナで、市と県自治体の住民税の調整、地方自治体に対する交付金の調整、一時的な交付金の導入などによって財源化された。
 エーデル改革の目的は高齢者ケアの一元化(およびそれによる効率化)であって、医療費の削減ではない。エーデル改革の結果、ナーシングホームなどは医療施設ではなく福祉施設として位置づけられるようになり、この結果、会計上の医療費が減り、市の高齢者ケア費用は増えた。
 医療と福祉の統合と言うのは正確ではない。統合されたのは高齢者ケアと長期医療で、短期医療である高齢者医療およびプライマリケアは依然として県の業務である。
 エーデル改革によって医療における病床数が減少したといわれるが、病床数の減少の理由はいくつかある。第1にエーデル改革によりナーシングホームなどが福祉に移った。第2に社会的入院の減少により、病床数が減少した。第3に、医療技術の進歩や日帰り手術などの普及により、病床数が減少した。第4に、70年代から精神病床の減少が続いている。エーデル改革と関連づけて病床数の減少が指摘される場合、上記の3と4はほとんど無視されている。なおスウェーデンは先進国で一番人口当たりの病床数が少ないといわれており、これに対する批判も大きい。
 エーデル改革の結果、民営化が増加したと言うのは誤解。エーデル改革と民営化は関係がない。エーデル改革は1992年に行われたが、1991年の選挙において保守党が政権を取り、「選択の自由革命」と名付けられた民営化を進めた。
(http://web.comhem.se/~u87440064/elder/elder-reform.html)
1993 失業率10%

1999 新年金法施行(基礎年金と所得比例年金の2階建て公的年金やめて最低保障給付付きの報酬比例年金導入。新制度は賦課方式で確定拠出型という世界でもはじめてのしくみ。国庫負担の最低保障年金あり。支払った保険料は個人別の口座に記録しておき,各人の拠出総額を平均余命で割って年金額を出す.年金は保険料総額と運用収益を合計して後から決める。制度の一部には積立方式も入れる 保険料18.5%のうち2.5%は積立方式の年金に運用され自分の判断で運用機関を選ぶ。(神野直彦 朝日新聞20040815 ヨーロッパではEUで85年に地方自治憲章が制定され、地方分権が進んだ。スウェーデンのコミューン(市町村)の職員は、4割がお年寄りの世話、2.5割が教育、2割がチャイルドケアにかかわっていて、自治体が家族の代わりになっている。93年にはコミューンの決定権を広げた一般補助金が導入された。))



親保険

 1)妊婦が,重いものを持ち上げる仕事やほとんど立ちっぱなしの部署から他への移動を申告しても会社にふさわしい仕事がなければ,出産予定の60日前から10日前までの50日間の妊娠所得補償金(所得の90%)が支給される. 2)出産したときや10歳以下の養子をもらったとき,450日間の出産・養子縁組親保険手当(所得の90%)が支給される. 3)複数の子を産んだ時,たとえば双子のときには,一人目とは別にさらに180日間の親保険(有給休暇)が支給される. 4)子供が病気になったとき,子供が12歳になるまで,子供一人当り年間最高60日間の子供看護一時親保険(一時払い親保険手当)が支給される. 5)12歳から16歳の子供でも,特別な看護や監督が必要なときは親保険が支給される. 6)父親または養父は,2)とは別に,子供一人当り10日間の出産親保険を支給される.双子や二人の養子の場合には,20日分を支給.そのほかに母子保健,出産・分娩費支給,交通費支給,そのほかなどが給付される.ただし、親保険を受けるためには一定の雇用期間(六カ月間雇用されている、あるいはそれに先立つ二年間に少なくとも12カ月間雇用されていた)が必要である。



両親保険(parental insurance)は、1974年に導入された育児休暇期間中の収入補填制度であり、両性が取得できるという点で世界初の試みだった。育児休暇の取得を男性にも義務づけ、育児参加を促進し、女性の家庭内労働の負担及び機会費用の負担軽減に寄与するという点が特徴である。手当の内容は、妊娠手当(女性が妊娠により仕事に就けない場合、給与の80%が最高50日間支給)、両親手当(育児休業をした際、390日間は給与の80%が、残り90日間は60クローナ(最低保証額)が支払われる)、一時的両親手当(12歳未満の子供の看護等のために休業期間について子供1人当たり、給与の80%が原則60日間支給)となっている。また、給与の80%が両親手当で保証されている育児休暇390日間のうち、配偶者に譲れないパパクォーター・ママクォーターはそれぞれ60日ずつ、どちらかに譲り合える分はそれぞれ135日ずつある。育児休暇は、出産10日前から8歳の誕生日までに親の事情に合わせて、出勤時間の全日、3/4日、1/2日、1/4日と取得することも可能で、連続してとらなくてもよい等、柔軟な制度となっている。http://www.meti.go.jp/report/tsuhaku2005/2005honbun/html/H3223000.html



積極的労働市場政策

積極的労働市場政策プログラム

 スウェーデンは積極的労働市場政策に対してGDPの約二・五%の予算を割いている。これは、経済政策であって、社会福祉政策ではない。失業者は労働市場プログラムに積極的に参加する義務がある。次の三つの主要な労働市場プログラムが設定されている。①流動性と適応性のプログラム、②雇用創出プログラム、並びに③現金給付である。。

①流動性と適応性のプログラム

 流動性と適応性のプログラムは、求人求職のマッチングおよび就職斡旋サービス、職業訓練から成り立っている。その他、住宅の買い受け(これは地理的に離れた転職への支援)や一時的な公共の職の提供、就労体験なども含まれている。ただ、これらは、失業給付を受けるための義務という意味合いもある。これらプログラムの期間は約六ヵ月。このプログラムの運営に関しては多少問題があったので、失業期間27カ月以上の長期失業者が必ず受けなければならないプログラムとして、一日八時間の就職に必要なスキルを身につけるプログラムを課す活動保証制度を設けた。

 新政権になり、これらのプログラムは継続して行なうが、能力開発と雇用保証を目的とするプログラムを新たに加え2007年7月1日から実施される予定である。

②雇用創出プログラム

 採用に対するインセンティブを高める施策であり、創業助成金、就労障害がある人に対する助成金、授産プログラムが行なわれている。これは失業者を採用する企業に対して、政府が助成し長期失業者を雇用するインセンティブを高めようというものである。また、就労障害がある者への助成とは、例えば障害者が障害のない者に比べて生産性が五割だとすると生産性が低くなる分、賃金の五割を政府が補助するというものである。

③現金給付

 所得連動給付と求職活動給付がある。まず、所得連動給付は失業保険であり、最初の200日は80%を給付、その後100日は70%を給付するものである。求職活動給付はプログラムへ参加することによって得られる給付である。300日を過ぎたら求職活動給付となる。300日を過ぎたら65%に減額される。失業保険給付を受けていない場合は223SEK(25ユーロ)給付される。

新しい労働市場政策プログラム

 以上のような既存の積極的労働市場政策に対して、2006年9月に政権が交代し、以下のプログラムへと政策転換を行なっている。①給付受給者と難民を対象にした「ニュー・スタート・ジョブ=再出発のための職」の実施、②若年者と年配者の社会保障保険料(給与税)の引き下げ、③時間限定雇用の可能性の拡大、④世帯関連サービス税の軽減(2007年実施予定)、⑤各種サービス分野の税の軽減(2008年実施予定)であり、これによって、労働力需要の拡大が見込まれている。

再出発のための職

「再出発のための職」とは、雇用主は拠出(賃金コストの32%)に応じた支給を受けることができるというもの。一年を超えて失業状態、疾病給付、あるいは疾病補償や活動補償を受給している人たちが対象となる。補助期間は、失業期間や各種給付の受給期間に応じて変わる。すなわち、最長五年(55歳を超えている場合その期間は二倍で、最長10年)である。最近スウェーデンに渡ってきた難民とその家族に対しては、最初の三年間、再出発のための職に就けるような措置がある。20から24歳の若年者はスウェーデン滞在六カ月を過ぎた場合、有資格者となり、最長一年間、再出発のための職に就ける。

再就職協約

 こうした積極的労働市場政策を補完する役割として、再就職協約というものがある。これは労使で結ばれるもので、賃金の一部を積み立てる基金を用いて、仕事がなくなってしまった場合、この基金を利用して新しい職を見つけるための支援をするものである。職探しの相談、ガイダンス、教育活動、その他の形で積極的支援を行なっている。特に対象となるのは高齢労働者の支援である。再就職協約の結果、89%が定職に就いた、72%が以前と同じまたはそれより高い給料を受けられるようになった、85%が同等または高い職位に就けたといった成果が得られている。この協約の対象となった43%が50歳以上だった。

就労優先原則の拡充:失業保険に関する改革

 一方で、就労を促進するためには、常に、失業状態でいるよりも就労した方がいいという環境づくりをしなければならない。そのため、給付期間を短縮し、最長300日とする、給付の補償率を80%から70%へ削減する、今後更に65%へと漸減するという改革が行なわれている。各種給付の受給資格取得条件として就労前歴が重視される。また、勉学者は受給資格の対象にしない、失業率と失業保険の保険料を密接に連動させるようにするといった改革も行なわれている。

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/bn/2007-05/P50-52.pdf



●参 照 文 献

(1)社会保障制度審議会事務局編『社会保障統計年報(平成3年)』p.408

(2)社会保障研究所編『スウェーデンの社会保障』東京大学出版会,1987年,第6章

(3)今岡ほか著『社会福祉発達史』ミネルヴァ書房,昭和48年,第3部第1章,第2章

(4)藤岡純一編著『スウェーデンの生活者社会』青木書店,1993年,第8章

(5)林玉子「スウェーデン,デンマークにおける高齢者居住環境の変遷・実態」『海外社会保障情報』(社会保障研究所),1996,No.114

(6)岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書,1991  表2参照

(7)ハデニウス『スウェーデン現代政治史』早稲田大学出版部,2000年

(8)http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/c/deea8d776691104ff102868540830f19

近況はhttp://fukushi-sweden.net/welfare/index.html
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/c/deea8d776691104ff102868540830f19参照