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生活構造論による生活理解
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第1章  生活構造論による生活理解  (岸 功『社会保障分析序説』白桃書房、1996年所収)

<>は執筆者による補足。

1.はじめに


 人間が生物有機体として生存に必要な資源を消費することは自然の営みであって,これだけでは「生活」としては不十分であろう。自然の営みとしての消費を生活に転換させる前提として例えば次のようなことを考えることができる。日々の生活の中で,一方では生存に必要な諸資源を得るために労働力を組織して自然的環境に働きかけている。他方で世代間扶養を組織して,個体の誕生・成長・衰退という人間自らの自然的条件に働きかけてその生存を保っている。労働力は自然発生的ではないから消費生活により再生産されるほかはない。扶養に必要な生活手段は残余ではなく分配されるものである。労働や扶養は生活の一部として手段とされたり目的とされたりするが,これらが個々人の欲求充足とともに実現してはじめて「生活」が成立し再生産されるようになるといえよう。
 人類全体としては計り知れない生活の多様性をもっているが,個々人は限られた状況の中で生物的欲求や社会的欲求さらに文化的欲求をも満たそうとする。それは環境に適応する過程でもある。だが適応行動に先立って存在する人間の特質や社会などの条件がさしあたって行動を制約する。家庭生活の営みからみれば,社会は家族が適応してゆく環境であり,分業の役割を通して参加してゆく過程でもある。新しい力をもったメンバーを送り出す継承と創造の場でもある。分業を通して社会に参加してゆく行動主体にとって,個人個人の間の関係と同様に社会制度との関係が重要となる。例えば労働条件や雇用制度,教育制度,商品市場,賃金・物価,家族制度,近隣との関係また年金や医療などの社会保障制度,その他の多くの社会制度である。これらは家庭外の行動の条



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件となるが,家庭内の自由な行動にとっても条件となり制約ともなるので,家庭生活の社会的条件と呼ばれるものである。



2.生活の枠組と生活構造


(1)合理的な人間
 生活構造論(1)が初めに想定した人間は抽象的にいえば,封建的身分や伝統的権威による拘束を否定する個人である。人々は生まれながら平等に与えられた理性と良心に支配され,生活の営みは,自律的に自分の理性で判断して自発的に結合しあるいは社会に働きかけ,あるいは社会に適応して問題を解決してゆくのが望ましいと想定していたようである。
 他方で,ギリシャの哲学者は人間は生まれながらに善いものを欲するものであり,行為の目的は幸福であって理性に従う生活が究極の理想であるとした。近代になってマルサスは,現実問題が必ずしも理性で解決されるとはみなかった。人間の情欲(パッション)はつねに変わらないものだと見なし,仮に食料をはじめ生活資料が豊富になれば人間というものは情欲の故に子供を増やすように行動してしまい生活改善は難しいと主張した。
 またマルクスは,「諸個人が欲望をもっている」こと自体により欲望の満足が個人の本分のひとつになるのだから,宗教がいうように欲望は悪いものだとはいえないと述べた。問題なのは境遇が悪いために,「一つの欲望」が固定的になり他の欲望を排除してしまい,その結果として「欲望の正常な満足」と「欲望総体の発展」が実現しなくなってしまうことであると考えていた。彼はまた人々の結合によってはじめて素質を自由に発達させ人間の多面的な発展を実現することができると述べている。J.S.ミルは,人間の諸能力を調和的に発展させ個性を自由に発展させることが幸福につながると考えていた。では欲望の満足がどのように人間性の発展と幸福につながるのだろうか。エンゲル(2)はヨセブ・ラングにならって「個人は,彼が人間性から直接に生起するかれの欲望を不断に充足し,これを益々拡大し,かれのより高尚な,より



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遠大な欲望を充足するためにも必要な手段を調達しうるようにすることに最高の関心をおく」と考えていた。そして,欲望にはまず肉体の維持にかかわるもの,そして次が休養や快楽その他を含んだ精神啓発にかかわるものという順序がつけられている<というのが、エンゲルの考え方であった>。
 したがって,たとえば食うや食わずの生活だったのが,もう少しゆとりができて高尚な欲望を充足したくなったときに,人々の生活に一つの転換が訪れよう。それは自分の準拠する集団の社会的な生活標準に追随する努力の開始であったり,あるいは裁量的な家計支出や消費行動による個性的な生活の営みであろう<前者は生活の類似性、後者は生活の多様性を増加させよう>。この問題に関連してエンゲルは,後にエンゲル法則とよばれることになる「ひとつの自然法則」を発見した。
 それは「一つの家族が貧乏であればあるだけ,総支出のいよいよ多くの分け前が飲食物の調達のために充当されねばならない」,そして「栄養のためにする支出の尺度が,その他の点で同じ事情のもとにおいては,一般に,人口の物質的状態の誤りない尺度である」という二つの命題である。
 結果的にはこのような傾向は,人々が貧困から脱出して人間性の発展や高次な欲望を充足しようとするときの行動の軌跡を示すものである,といえよう。その意味で,所得の増減に直面した家族がエンゲル法則に従った家計支出をするのは,もともと備えている欲望を満たすひとつの合理的行動であると考えておきたい。
 貧民思想にかわってロウントリーが第1次貧困線を収入の大きさで規定し得たのは,理性的な人間でさえも<つまり、貧民などというのではなく普通の人間も場合によっては>貧困になるということを前提にしたことになるのだが,彼に一定の収入さえあれば,肉体的能率を維持するという基準を満たす消費生活が可能である,と考えたのであろう。また,所得の上昇が生活の向上につながるに違いないというのは,マルサスとは違った考えで人間理性に対するある種の楽観的な見方であるが,これは既にJ.S.ミルやA.マーシャルが人間性と資本主義社会に寄せていた期待でもある<マルサス流の考えは豊かさは人口増加によって帳消しされるというものである>。もちろんこのような期待ができないまま,利潤追求動機に直面するだけであったら,彼らにとっても現実をうけいれることができなかったであろう。



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ところでエンゲルが人間性から直接的に生じる欲望というとき,一つは栄養の欲望を指していたが,高尚な欲望が芽生えるにはなお肉体的能率を維持しうる休息もまた不可欠である。
 労働時間の長さそのものについては,たとえばマルクス(3)は2つの限界を挙げた。一つは食事,休息,睡眠など労働力の肉体的欲望を満たすために必要な時間を確保せねばならないために生じる限界で,他は労働者の精神的社会的欲望を満たすために必要な時間を確保するために生じる限界である。したがって,労働時間がこのような限界の範囲内に収まったとして,ここで人間の合理性が発揮される1つの場面は,労働時間以外の時間をどのように使用して休息の実を挙げるか,という点であろう。これが次に紹介する篭山氏の生活構造概念(4)につながるのである。

(2)生活時間と家計支出
 日常生活というときその中には,全体としてみれば,労働力を消費して物を生産する生産生活と,物を消費して労働力を生産する消費生活の両方を含むものとして考えることができる。すると,生きるということは人間の生命活動の結果として作業力あるいは労働力を発揮しながら営まれるものである。この作業力は自然界に存在しているのではなく,日々の生活の中で作り出され消費されるものである。そこで日々の生活を人間の立場からみると,生活の主軸は「生活の流れに沿って循環する労働力の消費と再生産」つまり「作業力の循環」なのである,といっている。そして労働はエネルギーの消費が補給よりも大きく,休養はその逆である。余暇はエネルギーからみて,労働化した余暇と休養化した余暇に分けられるという。結局,日常生活は労働と余暇と休養の3部分に分かつことができる。
 労働生理学的研究によれば,労働と休養と余暇の3者の関係は,①労働は休養を規定する,②余暇(労働化させる余暇)は休養を規定する,③労働はまた余暇を規定する,という関係により配分され「適正化」されなければならない。ここで適正化というのは,生活全体としてエネルギー補給が消費よりも大きい



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状態を保つことであり,これは生活のひとつの「望ましい」原則であるという。そのためにこの原則に反するような生活時間配分は「不合理な生活配分」と呼ばれるのである。したがって人々の生活が望ましい原則を充たすとき合理的な生活と呼んでもよかろう。
 昭和16年に,京浜地区にある製鋼工場の270名余りの男子労働者が生活時間調査に協力して,18日間にわたり実態を記録した。その結果,余暇時間を増やした日には睡眠時間を減らし,逆に余暇時間が短い日の睡眠時間は長くなっていることが分かった。ところが,かんじんの労働時間が延びた日には,休養を十分にとるために睡眠時間が増えるかというとそうではなかった。結局,まず労働時間が支出され,その大小に応じて余暇時間が決まり,そして最後に余暇時間の大小に応じて睡眠時間が決まるように思われた。
 確かに労働時間は他から規制されるが,残余の時間の過ごし方は自律的に決められ,合理的な配分が実行されていると予想されていた。しかし事実はそうでなく,労働時間が決まったあとの時間が余暇と休養に分けられていた。エネルギー循環が生活の主軸である,という前提のもとで想定される合理的行動に照らしてみれば,確かに不合理な行動である。しかしこれは「社会生活を営んでゆくうえにおいてある長さの余暇というものを必ず必要とする」ために引き起こされる行動であると解釈された。すなわち,就業規則などで定められた労働時間とそれに伴う通勤時間がまず決まり,次に社会的に必要な余暇時間が決まるという枠があり,その枠のもとで残業や余暇時間の増大,したがって休養時間の不足が現実に起こってくる,というのである。生活構造とは,まず,社会的条件に生活を調和させるためには必ずしも合理的ではなくなるが,そのように生活をつくり上げるように人々を拘束する枠組の存在を指す用語として用いられた。
 エンゲルは,「人間の福祉の度合い」は肉体の維持のための支出額がその他の生活欲望の充足のための支出額に対して示す比率で表示されると考えていた。同時に「家族の栄養の食糧規額はその総生活費を説明し,総生活費はさらに全生活水準の規準となる」と考えていた。だから所得の増減に対していわゆ



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るエンゲル法則にそった家計行動は福祉を高めるうえで合理的であるといえよう。実際にわが国の家計調査の結果によると高所得世帯ほど支出額が大きくなっていることは確かだが,分布の両端の最低所得階層と最高所得階層に近づくと,それまで所得の大小に応じて増減していた飲食費が,むしろ横軸に対して平行に近くなっていることが分かった。この事実に対していくつかの説明がなされた。たとえば,高所得階層のほうについては飽和水準に達したのでもはや増加しなくなったのであり,低所得階層のほうについてはそれ以上は節約できない緊急水準や生命維持水準の支出である,というような説明もあった。
 それに対して篭山氏は,低所得階層ではこの変曲が飲食費だけではなく教育費・娯楽費・交際費などを合計した額にも現れていることに注目し,これは緊急水準などでは説明しにくいことだと考えた。そこで,もともとわれわれの生活には,所得低下に直面してもある程度の支出を保とうとする抵抗が存在しているに違いないと考え,その存在が家計調査により証明されたのであると解した。この抵抗が実は社会の中で生活が営まれているため形成された構造的枠としての生活構造にもとつくものだ,というのである。 この変曲がクロスセクション・データの統計上の理由に起因するものであるという見解もあった。そこで中鉢氏が個々の世帯の所得水準の時系列的変化を追跡してみたところ,上記と同様の結果が得られることが分かった。そして,これは生活構造の履歴効果であるという理論を展開した(5)。
 <以上は実証的な問題である。ところが、収入が下がってきたときにこれ以上は家計の支出を切り詰められなくなる支出水準を、最低生活費と考えようという人々が出てくる。これが生活構造と貧困をつなげようという考え方となる。しかし、最低生活費というのはその社会、その時代の社会人の生活として最低限は必要だと考えられる生活費ではないだろうか。つまり、そこにはある種の社会的な望ましさ、社会的な価値判断という要素が入っていると思う。それに対して、生活構造の抵抗というのは実証的なものであり、仮に価値判断があるとすれば、家計の当事者の生活についての価値判断、生活態度はあるかもしれないが、それは社会的な価値判断とは区別されるべきではないか。>



(3)生活の枠組としての生活構造
 生活構造論の展開の発端は生活時間や家計支出の場合の,合理的には説明しがたい現象の発見にある。その後にさまざまな分野で,単一要因により特定の行動を説明するのが困難な場合に,生活には枠組がありそれが行動に影響していると考えられるようになってきた。その際に行動に影響する家庭生活などがしばしば生活構造と呼ばれた。<家計の支出や日々の仕事など、勝手気ままにならないことがあるのをさして、日常用語として生活には枠のようなものがあるということがある。それに対して、「構造」とは、まとまりのある全体を構成する諸要素が示す一定のパターンである、ということがある。しかし、「生活の枠」という意味では、パターンがあるということの意味には、構成要素が自由には変化することができないというところに主眼があるというべきだと思う。>
 同じような生活環境の中から,少数の逸脱者が発生することを説明しなければならないような時に,原因を逸脱者個人や家庭に求め,生活構造の歪みが原




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因であるという場合がある。あるいは見かけではなにひとつ不自由ないのに逸脱行為がなされると,失業や低所得などの要因では説明できないので,生活構造の歪みや解体などが原因であるということがある。もっとも一般の人々と違う生活構造が原因であるといっただけでは循環論であろう。
 あるいは,脂肪分多摂取や加工食品普及,交通の発達などが交通障害多発,肥満,欧米型疾病構造への移行などの新しい医療需要を発生させ,また医療費の上昇傾向をもたらす「生活構造的要因」となっている,と経済学者が述べたことがある(6)。これは豊かな社会では社会保障の役割が減るだろうという予測がはずれたわけだが,しかし社会保障上級財説や欲求構造の変化で医療需要を説明するのが困難なため,生活の変化を加えて説明しようとしている。しかしその変化が消費者の主体的な変化だと断定できずに,依存効果や生活条件の変化による可能性も認め,単に生活パターンといわずに生活構造と述べたのであろう。しかし消費者選択の理論からみれば自由な最適化行動だけでは説明できないことを認めていることになる。
 戦後の人口の都市流入は統計上の都市人口を急増させたが,農村出身者が住居を都市に移しただけで都会人に変身するものかどうか。この間題に関連して倉沢氏は,地域社会の構造の変化に対応する個人のパーソナリティーの変化を理論的に説明するには媒介項が必要であると考えた。そこで都市における社会層・集団への個人の参与の総体を「生活構造」とし,また住民が示す移動性流動性を生活構造の形態とし,さらに個人の意識が伝統主義か合理主義か,権威主義か平等主義かなどを加えて調査した。ここでは個人の意識は生活構造を媒介項にして産業や技術の変化および地域社会の社会構造の変化により影響をうけるものとして図式化されるのである(7)。
 いずれの場合にも生活構造を決定している要因が問題となろう。

(4)生活構造論による説明
 中鉢氏が消費生活を議論するときに生活構造という場合には,家計支出の配分などの消費生活の特性そのものではなく,「このような生活の目に見える多



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様性をもたらしている背後の諸要因の複合を指す」。その諸要因として,第1に消費生活が行われる社会の諸条件,第2に消費財の選択を行う世帯の構成や生活歴,第3に世帯員の意識を構成する心理的システムをあげている。これらが生活の枠組を決めているというのである。いずれも家庭生活を離れてしまえば,社会制度・経済構造・世帯構成・生活歴・心理的構造などと呼ばれるものである。しかしこれらの複合を生活構造と呼ぶのは,これらが全体として個々人の自由なあるがままの行動を必ずしも許してはくれない家庭生活の習慣的なパターンの内容を決めているという理論モデルであるからだ。また,もともと人間の合理性や人間らしさに逆らう行動を説明するのに,生活にとってどうしても欠かせないもので説明しようとしているわけである。
 中鉢氏は先の生活構造の定義に続けて「この家庭生活を取り巻いて,近隣や地域の人間関係や慣習あるいは地方自治体の諸制度が存在し,世帯員の日常生活,ことにその消費の態度に特定の位置付けをしている」と述べていて,生活構造に関わりのある諸要素を例示した。
 非合理的な行動に対しては,人々の中に前近代的な非合理的なものが残されているために生じるのだとか,生活態度がいい加減だからなのだと解する人もあるかもしれない。だが生活構造という概念は通常は合理的な行動をする人々でも,生活条件の変化にさらされると必ずしも合理的には行動しない場合があると考えるのであろう。
 生活条件が厳しくて窮乏に陥っている人々が精神的にも道徳的にも破壊されてくる様は既にエンゲルスが描き出している通りである。生活条件さえ適切であれば誰でもその素質を発展させることができるはずである,というのが貧困問題を論ずるときの大前提である。生活構造論も同様であり,合理的な行動と人間の幸福との関連や人間像についても前提をして議論を進めている。
 また生活構造の諸要因が相互に矛盾して,例えば扶養家族が多いのに低所得だとか,仕事に生きがいを持っていたのに定年退職せざるをえなかったというような場合が出てくる。その結果として,満足に教育を受けさせられないとか生きがいを失ってしまうかもしれない。日々の生活行動に問題が出ることもあ



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ろう。このようなときには生活構造の要因が変更されなければ生活そのものが困難になったり,生活満足が得られなくなろう。これは人々に欠陥があるからではなく生活の枠組あるいは生活構造の社会的条件が整合的でないから生じたのだといえよう。このように欲求充足の点から実体としての生活構造の適否が評価されることがある。<ふつう、生活構造は生活の有様の説明要因として扱われるが、その「生活構造」に善し悪しの価値判断を下すという特殊な問題である。しかし、それでは、同じように好ましくない生活構造のもとにありながら、一方は悪いことを行い、他方は正常であることを説明できなくなろう。これはやはり、生活構造の善悪やゆがみや崩壊というよりは、見かけが似通った生活構造に差があるということをつきつめるべきではないか。それは単に今ある生活パターンにとどまらず、生育歴、生活歴にもおよび、時間経過も視野に入れるものとなる。>

(5)生活構造論の3法則
 日々の生活は必ずしも人々の自然な欲求に沿ったものではなく,人間性や合理性などの内面的な特性から独立した生活構造という枠組の中で営まれているのだが,その枠組はどのように作られるのだろうか。このことについて中鉢氏は「生活構造論の3法則」を提唱した。
 第1法則は生活構造の形成である。「欲求→充足,労働力消費→再生産の間に生ずる剰余が,この過程をともにする世帯員の人間関係を介して習慣的な生活の構造を構成する」ということである。まず剰余が前提にされるが,剰余を欠く生活の場合には身体的な欲求の充足に追われて「高次な」あるいは「社会的な」欲求のために生活手段や時間を費やすことはできないであろう(その意味ではマルクスが述べたような労働時間の長さの二つの限界が意味をもつのは,賃金でそこそこの生活が維持できている場合であろう)。その場合の習慣というのは,人々がもともと持っている人間性に従った自発的な習慣というよりは,剰余を獲得できる現実の社会生活を続けるために必要とされるので,本当はやりたくないかもしれないが続けている習慣に近いものであると考えておきたい。そのような習慣が必要かつ有効であることを自覚すれば「外部からの強制力」がなくとも「自発的」にそれを受容するであろう。
 われわれの生活は,一方では個々人の様々な欲求を充足させるという機能と,他方では社会的条件に適応するのに必要な機能(例えば労働力の再生産や生活標準への追随など)を達成しなければならないと考えてみよう。これらを同時に達成するためには,自分の生活を一定の範囲のなかで秩序づけることが必要であり,それが家庭生活の枠組としての生活構造でありまた生活習慣として観察



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されるものであろう。このような意味では生活構造は,パーソンズの要求性向に従った行動が基礎であるということもできようが,履歴効果などを扱うには,自らが選択したことだからと割切ってしまうのは難しい。
 勤労者の一般的な生活標準に達しない場合は,生活構造論をもちだすまでもなく貧困の状態であろう。第1法則に対応する貧困としては,みかけは家庭生活が成立しているが,実は労働と扶養の機能を同時達成できるような生活構造になっていないために,家庭生活の内部で個々人の欲求充足が損なわれている場合を挙げることができる。例えば低賃金のために生活が苦しいにもかかわらず「勤労者世帯」として生活を続けてゆくほかなく,したがって労働力再生産だけをともかく最優先させざるを得ない,という場合である。
 第2法則は生活構造の抵抗である。「所得や労働時間のような,労働力消費→再生産過程を規定している基本的な社会的条件がある限度をこえて変動する場合には,すでに形成された生活構造は,この変動に対するライフ・サイクルの適応に抵抗をひきおこす」というものである。ここでのライフ・サイクルというのは,自然的な欲求とその充足および労働力の消費と再生産という最も簡単なライフ・サイクルの原型を指していて,労働や休養や栄養補給などのパターンを問題にしているのである。
 生活条件が変化したといっても,それが原因で労働機会や収入を失うとか家族の扶養ができなくなったり,生活そのものが不可能になる事態に至ればこれは深刻である。そこまでゆかなくても,生活条件がある限度を越えて変化してしまえば,いままでの生活イメージを捨てて新たな適応をしなければ生活そのものが困難になる場合もあろう。そのような場合には即刻生活を改め,少なくとも生活がなんとか続けられるようにしなければならない。ところがこれが難しく,昨日までの生活がなかなか変えられない。このことをただ習慣の惰性だとか合理性の欠如だとかいって,ややもすれば個人の精神の欠陥のせいにして済ますことも多いが,生活構造論の第2法則はこれを生活構造の抵抗の現れだというのである。
 合理的な人間を前提するといっても,何から何までというのではなく,家計



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支出や生活時間などに関してであった。それらの状態については一応客観的な判断が可能だから,変化に対して合理的な調整がなされなければ生活構造の抵抗の現れという見方が可能であろう。だがそれ以外の例えば同居別居だとか主婦の就労などについてどうすることが合理的なのか一義的に判断するのは難しい。しかし,変化に対する調整としての同居別居や主婦就労そのものではなく,生活時間や家計支出に注目し,従来と比べてかなり無理になっているならば,これをもって生活構造の抵抗の現れといって良い場合もあろう。
 第3法則は生活構造の再構造化である。社会的条件の変化のもとで新たな行動を試み,成功すれば次の目標水準を高め,失敗は現状維持にさせてゆくが,次第に「新しい環境状況に対する主体的な展望」が開かれ,「以後の行動に対する期待」が確立され,これを転機として生活構造の再構造化とライフ・サイクルの適応が達成されるということである。
 状況が変化し従来の習慣的な行動型では適応できなくなると,問題解決を目指した過程が始まり「行動型の再構造化」が起こり創造的な適応がはかられるようになるというのである。これは,人間には苦しい状況に直面してもそれなりに生活を展開してゆく力があるのだ,という主体性や創造性を賛美した法則だという訳にはゆかない。逆に,人間というものは問題があってもそれなりにやり繰りしてゆくのだから本人に任せておけばよい,という考え方が大勢を占める傾向があるため,苦しみ続けている人びとが取り残されてしまうということを恐れた警告であると受け止めておきたい。ただ第2法則で運動論に触れて社会的条件に働きかける主体的行動を評価しているので,人々が協力しながら生活を維持しようとするのを前提にして第3法則が楽観的な表現になったのかもしれない。
 この場合にも,対応する貧困は,生活を満たす自助努力をするほどの剰余がない場合も多いという社会制度の不備によりもたらされるものや,生活の機能を達成するように生活構造を維持する努力をすべきと考えて計画的な備えをしても,社会一般の生活標準に追随することが困難になる場合もあるという生活設計の限界などが代表例だといえよう。



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 仮にこれを勤労者世帯全体の生活構造の再構造化とみれば「窮乏化法則」を否定するものと解することもできよう。しかし第3法則も,後にふれる自律性と同様に世帯の振舞いの次元に限定しておきたい。
 ところでこの第3法則は,生活構造の形成→抵抗→再構造化というような連続的な変化の一局面とは考えない解釈も可能である。まず生活構造の形成・抵抗というのはもっぱら勤労者世帯を対象にしているとみなすと,生活条件の変化にともなう抵抗のあと,制度変更がないまま新たな生活構造を形成するのは第1法則が含むべき局面だと思う。すると第3法則が対象にするのは,例えば労働能力喪失のような勤労者世帯内の変化にともなう条件の変化ではないか。労働能力を失ってもやがてその人達は勤労者とは違ったやり方で社会のなかで生活を続けるようになってゆくということを指していると解したい。その場合に再構造化が問題にするのは,社会制度が労働能力のある人達の生活を安定させても,それがただちに労働能力をもたない人達の生活をも安定にさせうるものかどうかだと思う。定年退職者や障害者の生活や母子世帯などが代表的な問題となろう。<つまり、生産年齢期には役立つ社会保障が、労働能力がなかったり労働能力を失った場合にも役立つものなのかが問われる。>このように考えると,第3法則でいう新しい生活構造というのは人々が協力して新たな扶養を組織化することを意味することになろう。これは経済と社会の調整として,所得再分配という手法によるナショナル・ミニマムの保障や福祉国家,福祉社会を開発し受け入れることを指していると解したい。<ただし、「小さな政府」を求める新古典派経済学者は福祉国家を許容しない。だから、第3法則を福祉国家などに結びつけるのは社会民主主義的な考え方であり、新自由主義であれば社会保障を拡大するようなことはいわない。>



3.生活全体のとらえ方と生活構造


(1)生活の循環式
 資本主義社会では,利潤動機による商品生産と賃金労働との結合が労働者の生活の再生産を支配する,というのがマルクスの主張であった。それに対して中鉢氏は,生活のシステムは資本の自己増殖システムから相対的に自律的な欲求充足システムであると主張したが,これは勤労者生活が経済的条件によって一方的に決定されるものではなく,生活構造の諸要因などに依存していることを指して自律的といったのだと思う。



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 ところで,労働者生活を資本の循環から区別される循環式として概念図式化しそれを生活構造であると定義した例がある(8)。それは,生命の生産→生命の消費→生活手段の生産→生活手段の消費→生命の生産→……と続く。しかしこの循環は血液の循環や経済学の循環とは違って,2種類の循環を重ね合わせているのである。当然,両者を結合する消費と生産の契機がこの循環を支配するが,一つは欲求充足という自然的な動機で黙っていても人間を生命の生産に向かわせるし,別の契機は苦痛を伴った消耗,労働に人間を向かわせる誘因<の存在>であろう。ここでは労働局面が生活にとって重要になるのだということをこの生活構造は主張していると思う。そして消費生活は労働力再生産の機能をもつものとみなしてその生産的意義を強調するものである。いずれにせよ,生活にかかわる援助も生産効果の視点から肯定され,また人間を労働力としての質や成長可能性などの視点から評価する分野を扱っている。<介護や保育の社会的サービスによって、女性が就労することを促進する効果があれば、これは親の手間がはぶけてうれしいということよりは、それらのサービスの必要性を生産効果によって評価する立場につながるということができる。>
 ところで労働や生産物に止まらず消費も資本の利潤追求に支配されているというのに,生活が資本から相対的に自律性を持っているとはどういうことだろうか。おそらく勤労者世帯の生活構造の抵抗現象などを根拠にしていよう。また社会的条件が家庭生活の自律性を制限する生活の枠組となるので,エネルギー循環やエンゲル法則など人間に想定された特性では説明し切れない側面をもたらすが,これは生活が社会的に拘束されることを意味する。ところがこれは逆に,経済的強制だけではなく社会的強制にも従わないと生活が成立しないのだ,という意味合いで生活が経済から自律性をもっているということにはなろう(しかしこれだけでは窮乏化法則に対抗すると解されるような生活構造論の楽観的な第3法則とはなりがたい。例えば,先に述べた所得再分配も民主主義的政治過程が存在し機能している成果だと考えれば,自律性はむしろ民主政治によって保障されるべき課題であるということになり,生活の自律性はひとつの理想と解すことになろう。<新古典派経済学などの自由主義は、普通選挙権によって有権者が増加し、その結果、政府からの給付を要求する力が増し、「大きな政府」が出現することを大いに嫌っている。その場合には、ここでいう「民主主義的政治過程」を否定するので、ここでの議論と調和しない。逆に、有権者が「小さな政府」を望むとき、新自由主義者なら真に自律性が回復されたというのであろう。>)。
 また副田氏は社会問題を労働問題と生活問題に区別し,生活問題とは私的扶養の不足であるというひとつの割切りをした。これは扶養の「規範」は別にして,扶養意欲はあるのに循環式では扶養への分配が保障されていない,だから



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問題だ,といっている。そして私的扶養の不足を補うことは社会的合意による公的あるいは社会的扶養の供給としての生活保障に委ねられるような社会を想定しているわけである。果たして生活保障とは生活の自律性の結果なのか,それとも自律性の実現を目的にするものであろうか。<公的な生活保障といえば、ふつうは「大きな政府」に近いもので、それには反対する人々も少なからずいる。だから、一般論として、生活保障を求めることが生活の自律性の発露である、必ず望ましいといってしまうのは言い過ぎである。>

(2)生活の全体性
 生活の全体的考察ということを「単なる消費生活ではなく,生産生活としての勤労生活と有機的に連関する全体としての生活である。否そうした全体としての生活を規定する背景をも取り入れるところの生活の全体的考察である」と規定した例もある(9)。そうすることで,貧しさの故に娘を芸者にした母親に対してはっきりと「責められるべきは母親でなくて,生活であり,社会である」と慰めることができたのである。
 それに対して人々の欲求というものは社会生活の中で生理的欲求から社会的文化的欲求へと成長するとか,ある程度の欲求が充足されるようになると新たな欲求が生まれるとか,人々がいつも決まりきった欲求リストを抱えているのではなく異なる次元の欲求が互いに優勢となりあるいは弱まり複雑な行動を示すことを指して,人間性の全面性と呼ぶことがある。あるいは様々な欲求を満たすためには同時に諸社会制度と「社会関係」をとり結ぶことが必要であることを指して生活の全体性と言うことがある。
 生活で満たされる要求と個々の行為に駆り立てる欲求とを区別した上で,モデルに従って経済的安定・職業的安定・家族関係の安定・健康・教育・社会的協同・文化娯楽の機会など7つの「社会生活の基本的要求」というかたちでニーズを整理したものがある。そして生活の本質の一つは多面的な要求を同時に満たすことだと考え,援助する際にそれを全体性の原理と呼ぶのである(10)。様々な要求は機能的に専門分化した社会制度を利用することで満たせるのであるが,人々が持っている条件はまちまちであり必ずしも社会制度に適合的ではない。そこで社会福祉的援助は他の社会的援助とは違って生活の全体性などに着目するところに独自性があるという。しかしそうはいっても生活に応じて



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自覚される要求が違う。その際に専門的な目から見て「その人の生活」に必要なのに欠けている要求をソーシャル・ニーズと考えてみると,問題は要求のあいだの優先順位について代替案を選択しうる場合とそうでない場合の識別であろう。手段の調達・動員可能性の範囲についての専門的な知識も重要だが,生活の全体性は,生活困難というのが単に就労保障や所得保障で解決されるような貧困に尽きるものではなく,社会的心理的な問題も同じくらい重要なものだという主張であろう。ここでは個人の生活が自分の欲求の充足で完結するのでなく,生活向上や社会的な条件の整備によって変わってゆく相対的に他律的な側面も取り上げているのである。<ソーシャル・ニーズというのは、いま生活の中で欠けているものを社会的な努力によって満たすことが望ましいということを、社会的な手続きで認められた場合である。専門的な目から見るというのは、そのような望ましさを理解していることが前提になっている。恋人がいないというのは個人的な問題である。しかし、自治体が集団お見合いの場を作るときには、それがソーシャル・ニーズとして認められているということが前提である。>

(3)生活の機能
 生活には多くの欲求や要求がかかわっているが,生活の全体の維持を問題にすると,個別的に充足される目的としての欲求にかわって機能が重要になる。これは生活とは何かを機能によって考えようとするものである。
 松原氏の場合(11)には,先と同様の循環式から出発し,生活の中心が消費行動でありながら同時に生活そのものを再生産する活動でもあると考え,これを生活再生産の循環過程ととらえる。消費行動を動機づけるのは欲求だとしても,それを再生産活動と見なすときには物質・組織・精神・生命などを再生産する機能的展開と呼ばれる。これが後に述べるような行動パターンとしての生活構造となってゆく。そして現代社会では経済的豊かさにもかかわらず人間関係や精神の破壊が進んでいるので,循環式を維持するためには,すなわち生活を守るためには組織や精神を損なわないように,あるいは回復するようにすることが必要になっているという。では生活循環においてそのような機能を遂行するためには何が必要かというと,それがコミュニティーや生活者の運動である。循環式には労働者と生活者が登場するがコミュニティーは両者の利害不一致を乗り越える場として期待されているようだ。
 ところで先に述べた岡村氏は7つの基本的要求は社会関係を通して充足されると考えていたが,これはいわば機能的に分化した社会制度の集合がもってい



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る顕在的機能といってよいだろう。したがって社会制度は社会生活の基本的要求を充足する,というのは結果ではなく前提であろう<つまり、社会福祉的援助によって社会に適応していくというとき、その社会、社会制度はある程度は、人々の生活を成り立たせるように機能していることが前提になっているということである。精神障害者の社会復帰の援助では、この社会が人の心を病むようにし向けているのだと考えている人は、社会が機能しているという前提に疑問を持ち、社会復帰はおかしなことになると感じている>。それにたいして松原氏は消費生活の再生産の機能に注目し,機能が達成されるかどうかで生活を評価しようとしているかのようである。これは欲求や要求の充足の状況それ自体を機能としてみつめることにより,個人の私的な満足というよりもっと一般的な問題,人々に理解できる問題に翻訳しようとしたのだと思われる。<欲求のレベルから機能のレベルに転換するということである。>
 岡村氏の場合,基本的要求リストは論理的に演繹して得られたものでそれだけで一般性を主張できるのだから,問題は要求を充足できない「この」社会関係にある<社会関係がうまくいけば、今、生きているこの社会の中で生活が成り立つはずである>。松原氏は,諸欲求に動機づけられた生活行為は結果として報酬を得れば以後のパーソナリティーに強化され生活行為の慣習化が生ずると考えている。すると現代社会の報酬体系にさらされた人々が表現する要求は必ずしもより良い生活を目指す方向にあるとは限らないという疑いを持ち,これも精神の再生産の破壊の一つであると見なしていたのではなかろうか<つまり、社会生活の中での行動に対して他者から与えられる物的、精神的な報酬、満足を現代社会の報酬体系と考えれば、私たちが悪いことをもっとやるように動機づけられる場面はいくらでもあり、その結果、人々の生活習慣が必ずしも好ましいとは限らなくなる>。そのような考えもあって欲求充足ではなく再生産機能を評価の基準としたのではないか。<エンゲルは欲求充足によって福祉を評価したわけである。それに対して、個々人のレベルではなく、社会や生活システムのレベルで生活を評価しようとすれば、個人の欲求は充足されているにもかかわらず、システムの持続という点から好ましくないということがある。個別資本にとっては利潤を最大化するために長時間低賃金で雇用しようとする。しかし、資本主義の存続というレベルでは、労働時間を制限し一定の消費を保証しないと労働力が再生産できないから、利潤という基準だけでは判断できず、労働者保護の社会政策の正当性が主張される。松原氏はこのように考えたのではないだろうか。>そこで松原氏はコミュニティーこそは「市民的生活権と生活意欲が,積極的な利害の追究の限りでコンセンサスに高まったところの,意図され計画されたところの,連帯行動の体系である」と述べ,さらに「現実の存在概念というよりは,むしろあるべきもの,つまり当為概念として意図的に形成されるべきもの」であるという。したがって,ばらばらの個人も生活利害の共通性の認識を深める過程を共有し学習し合えば,再び理性的な人間に立ち戻ることができるのだといっていたように思われる。
<生活構造に代わって生活体系という発想に転換するということは、個々の生活者の欲求や満足を最大化することが好ましいという19世紀のマルクスやエンゲルの発想をやめることである。マルクス・エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』(1846)のなかで、欲望を抑圧により制限するのではなく、「欲望そのものによってのみ制限される欲望の満足」をめざすと述べていた。また、エンゲルはこう述べている。「各々の個人は、彼が人間性から直接に生起する彼の欲望を不断に充足し、これを益々拡大し、彼のより高尚な、より遠大な欲望を充足するためにも必要な手段を調達しうることにすることに最高の関心をおく。このことが一国家の住民にとって可能なその状態が国民の福祉であり、このような可能性の範囲がすべての住民のために拡大されればされるだけ、国民の福祉はいよいよ大きくなるのである (ロシアのヨセフ・ラング教授の1811年からの引用)」(エルンスト・エンゲル『ベルギー労働者家族の生活費』1895、訳書p.15)「それゆえに生活欲望の充足される度合いが、国民の福祉を決定するのである。」(p.16) それに対して、生活体系という発想に転換するということは、第一に家庭生活のパターンは人間関係や近隣などの生活環境、また社会福祉や社会保障などの政策、生態学的環境や地球環境に影響を与えるという視点を取り入れ、第2に、単に家族の欲求充足最大化ではなく、生活の再生産という機能、あるいは生活の好ましさなど生活の質や福祉という価値などを高めることが望ましいと考えることである。そして環境などを取り入れて生活を評価するならば、資源やエネルギーの消費を抑制することが望ましいという場合もでてくるのである。生活体系論はそれを自覚し、自律的に消費を制御することを考えるのである。>



4.生活行為の体系と生活構造


(1)生活パターンと生活構造
 副田氏は生活の循環式が生活構造であると定義したが,それを具体的・全体的に扱うときには4つの概念を契機にするのだという。パターンとは呼ばれていないが,生活水準,生活関係,生活時間,生活空間の4つである。これらは



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同じ生活の循環の記述なのであるから,もしも4契機のうちの一つに問題として意識された事象があった場合には,他の3つの契機のうちにもまだ意識されていないけれども問題が含まれているはずであるという仮説を得るであろう。ただしこれは逆に,4つの契機がそれぞれに望ましい状態像を形成したときに,生活問題が解決された状態としてどの契機を決定的要因にすべきかという問題を生じるが,循環式に立ち戻って生産・労働・消費に関連する基準を作ることが求められるかもしれない。
 また松原氏は生活行動の全体を観察するとその中にいくつかの要素が見出され,あるいは要素で整理できるので,複雑な生活行動を「秩序づけ」,「体系化」し「パターン化」することができるという。そのような要素を構造化要因と呼んでいる。それは時間,空間,手段,金銭,役割,規範の6つの要因である。
 ここでは生活行動とこれらの要因の関係を2者の単純な因果関係として割切らないで,因果の連鎖に封じ込めてしまい,観察された現象を整理しこれをパターンと呼ぶのであろう。例えば行動と役割,行動と手段の因果関係としてでなく,互いに役割が手段を決め使用できる手段が役割を変えてゆく関係を保ちながら行動と同時に存在しているものとして見るのであろう。従って,心理学的には人間行動は欲求に動機づけられ満たされて完了するものとみなされるが,生活行動として理解しようとすれば,多くの行動が無関係に行われているようには見えず,むしろ「全体として」生活の再生産機能を遂行すると理解できるくらい秩序づけられていると見ることもできる。<だから、一つ一つの行動や構成要素は自由に変化することができないという意味での「構造」とみる発想が成立するのである。>
 人間は,一定の時間の枠の中で,一定の空間を占め,物的手段と金銭に媒介され,かつ役割関係や規範を作りながら,循環式に対応づけられる「生活機能の循環的パターンを維持していく。このパターンこそが生活構造としてとらえることのできる生活の本体なのである」。松原氏の場合,欲求に導かれた個々の行動の相互関係が生活全体を構成し,その全体が生活機能を遂行するという考え方であろう。そこで個と全体それぞれの再生産という機能的相互依存関係<6個の構造化要因と二つの再生産機能は相互依存関係になっている。>を生活の本体とみなし,機能で規定した生活本体と経験的な生活パターンとを結合するための構成概念として生活構造が必要であったのだと思う(表現とし



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て生活構造や機能やパターンを互換的に用いる論者がいる一つの理由はこれだと思う)。
 <しかし、逆に松原氏は、生活の本体と生活パターンを区別しているわけである。だから、生活の行動の結果としての生活パターンを説明しようとするのが課題になるのではなく、生活パターンを生活の本体に照らして評価する、価値判断を下すということが課題になるのであろう。その際に用いる概念が「再生産」となるはずである。>そのパターンは6つの構造化要因に対応する生活パターンでとらえられる。例えば生活時間配分,住居,消費財の使用,家計,生活水準,家族構成,家庭内役割分担,生活態度,生活規範などである。
 そしてパターンが存在していれば生活が成立しているはずだが,松原氏はその生活に<生活の本体としての>再生産機能が損なわれているのを見いだすはずである。再生産機能を遂行しうる生活のあり方は,ここでの生活構造概念によれば,個々の要素に止まらず,諸要素の組み合せとその自覚的な調整あるいは調整可能性の問題である。<個々人の願望や生産者による宣伝・広告によって自由気ままに調整する話をしているのではなく、生活の本体、いわばあるべき姿を基準にして調整するのである。たとえば、いつも子供を居酒屋へ連れて行って夕食をすませている両親をみれば、家族の欲求は満たされてはいるにもかかわらず、子供に家庭生活を学習させるという点から、そのような生活パターンを修正することになる。>それは生活パターンと機能との関係を整理した上で,生活パターン改善の問題であり,また構造化要因はそれらの問題のカテゴリーともなろう。<だからといって、松原氏の生活構造が私生活だけで完結する議論であるということではない。生活の再生産機能が損なわれているとみたとき、生活パターンを制約する社会的条件や報酬体系が議論に取り入れられるはずである>。

(2)家族変動と生活構造
 戦後,夫婦家族的形態をとる家族が激増したので,新しい制度を模索するために家族の生活を実証的に検討する概念図式が求められた。
 森岡氏は生活を欲求充足によって定義した(12)。そして労働・余暇・休養の関係や欲求間の関係などの枠のなかで目標達成行為が繰り返されるとき,「最大の欲求充足を効率的かつ安定的に達成させると生活体によって思われている様式がパターン化される。ここに,欲求の反復的継続的充足過程としての生活がパターン化される基礎がある。このようにして出現するホメオステーシス的な生活パターンを生活構造という」と規定し,これを家族という集団的生活体にも当てはめる。つまり家族生活を観察して見出されたパターンを生活構造と呼ぶ。そして主体的な要素および規制的な要素として4つの要素を生活構造の枠組とする。「成員」(家族構成,就業状態等),「装置」(物的資産,収入等),「規範」(相続と扶養,性別分業等),動機づけ的要素としての「目標」(欲求充足の優先基準)の4つである。
 そして家族成員を中心にして家族の生活パターンを観察すると,成員のパターンは生活を成り立たせるような一つの体系と見なすことができて「役割体系」となる。装置なら「消費体系」,規範なら「習慣体系」となるという。これら



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3つの体系は連結,統合されているという方法論なので,生活構造が変化したかどうかを検討するときに,3体系のうち一つの変化が示せればよいということを意味しよう。ところで,いま家族変動を生活構造によって検証することを試みたとしよう。そして生活構造変化を家族規模の縮小に見合った人的要素の変化つまり役割体系の変化でとらえようといった時に,加齢や成長による役割体系の変化とは区別することが必要になる。その結果として生活構造(役割体系,消費体系,習慣体系)を家族周期段階別に想定するという方法が出てきたのであろう。
 法制上の家族の扶養関係と実際の家族の扶養とを比較したり,家族の扶養行動の変化を説明しようとすることがある。そして生活構造の変化とともに扶養が減ったのがわかっても,それだけでは扶養できないとはいえない。3つの体系がそれぞれに連動するなら,要素の一つである扶養規範をもっと強化して目標や優先順位を変えさせれば,扶養できるような生活構造になるだろう,という考えもありうる。これは資源の分配の問題であるから,森岡氏の家族の定義のように初めに家族の「福祉追求」を優先させる価値前提を置くことが必要である。そうでないと誰かがしわよせを耐えればよいというのも一つの選択になってしまうのである。
 このような問題は,生活体系という見方をする際に,生活は生活目標によって制御されるものであると規定するところの間隙に生ずる。生活目標の達成に努力するところに初めて生活の意義を認めたり,目標達成のためには何でも動員すべきだと解すると,日々の行動そのものを大切にしようとする考え方を駆逐してしまう。多くのことが目標実現の手段として有効かどうかだけで測られ,しわ寄せも当然のコストとされる。生活のシステムの合理化,近代化という発想において,選ばれた目標だけが優先課題とされてしまい,もともと多くの目標の実現を同時化するためのシステムであったはずなのに,特定目的をもつシステムと見誤られてその最適化だけが課題とされることすら起こりうる。<たとえば、将来、専門家になるために、現在は何もかも犠牲にして生活している場合に、将来の希望が現在の生活パターンをゆがめていることになる。単身者であればそれも許される。子供がいても、努力する親の姿を見せることが教育的な意味があると考えるかどうか。すくなくとも、松原氏の生活の本体、森岡氏の福祉追求からみれば、よくない結果になる可能性を親に説明し、その上で、親の選択にゆだねることになろう。社会福祉の相談業務において、クライエントにニーズのないことは話をしないというのでは不十分であろう。今のままだと、将来、どういうことが起こると予測されるかを積極的に提示することは、生活構造論的な視点からは必要なことではないか。そういう意味では、松原氏と森岡氏の生活構造は規範的な側面を有している。>
<高齢の夫は食事・入浴・排泄が自分ではできず人の手を借りたい。自覚された介護ニーズがあるし、専門家からみても介護ニーズがある。ところが夫は高齢の妻による介護を望んでいるので介護保険の利用は望んでいない。妻も自分の仕事だと思っているので自分が介護するのは当然だと思っているので、介護保険を利用したいとは思っていない。これは介護ニーズはあるが介護保険需要がないという状態といえる。介護方法についての相談を受けたソーシャルワーカーはニーズがないので介護保険の利用は勧めないのである。しかし、森岡氏の家族の定義や松原氏の生活の再生産機能に照らしてみれば、このまま高齢の妻にだけ介護をさせるのは、家族の福祉を損ない生活の再生産を損なうのである。だから、家族の生活や生活構造という視点に立てば、たとえば介護保険の利用が必要で、それを勧める必要がある。ところが、日本社会福祉士会編『新社会福祉援助の共通基盤』のなかの「生活構造」の記述によれば、一面では、この状態は利用者もクライエントも存在しない状態であるから相談援助が始まらないということになりそうである。しかし、生活問題の把握では、古川孝順による生活障害の一つとして生活能力の低下として問題とされそうであるp.108。また、生活問題論は原因論の立場であり、生活困難の状態を福祉ニーズからとらえるのが状態論の立場であると解説されているp.109。そして、生活ニーズというのは「単に困っているという状況を指すだけではなく、その状況をどのように解決していくのかという目標が含まれている」。そこから援助行動がつながるとされるp.162。ところがどのような方向で援助するのかといえば、どうも自立支援しかないようである。しかし、生活障害の解決の方向としてそれだけでは、高齢の妻を説得できないのではないのか。 それよりは、このままいくとどのようなことが起こるのかを予測して妻に示せるか、それが問題だと妻が考えるかどうかが重要なのではないのか。妻にとって自立が問題となるのであろうか。むしろ、松原氏のいうように精神の再生産などの困難を事例をあげて示すことが実践的には有効なのではないだろうか。>



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(3)生活体系の構造化
 パーソンズが行為の体系といったときには複数の行為の指向が組織化されたものを意味した。青井氏は「生活のための行為のシステム」を生活行為体系と呼んだ(13)。それはある行為に注目し,さまざまな状況のもとでの行為の集合を相互に関連したシステムとしてとらえるのである。また行為が生じる「状況」とは利用できる手段や自由にならない条件のことで,これは行為者の主体性によってその範囲が決まるという。
 まず,特定の状況で発生する行為は,相互に関連し規定し合った動機・役割・規範・手段・目標など5つの規制要素によって規制されている。これら5要素は「互いに有機的にからみあい,ひとつが動くと他の4つもそれに対応して変動するようなシステムをなして」相互に規定し合うと見なす。だからある行為と規制要素それぞれとの因果関係には注目しない。そしてかんじんの生活行動は次のような要因で枠づけられ規制される。それは,動機・価値,役割・社会関係,規範・情報ルート,金銭・生活資財などの規制要素,さらに時間・空間の枠組として生活時間(時間・日・季節・生活周期・その日暮らしか生涯かの時間的展望等)・生活空間(行動圏・意識空間等)などである。これらの要因により「生活行動の間には有機的な連関があり,そこに一定のパターンができあがる」。それが生活行動のシステムつまり生活行為体系になるというのである。様々な状況下での行為が体系を成すのであるから,行為を規制している要素も体系を成していると見なしてこれを規制要素体系と呼ぶのである。
 そして「両体系が結合して生活体系を形成する」と考え,その中に見られる一定のパターンを生活構造と呼んでいる。だから生活体系とは,「個人または家族の生活行動とそれを規制している生活諸条件とのシステム」であり,生活構造はそれらの間に見られるパターンである。従って,松原氏と同様に青井氏も,先の生活枠組としての生活構造とは違って,何かに規制されているとみなされた生活行動・生活行為が示すパターンを生活構造といっている。松原氏は循環式から出発しその中で構造化要因によってパターン化された生活行動が再生産機能をもつと述べたが,青井氏はどうであろうか。



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 現実には目標に応じて手段が増えるわけではなく,例えば収入がなかなか増えなかったり,高齢者は就労機会を得るのが難しい。これらは規制要素が相互に規定し合っているとはいえないことになる。実は規制要素の間の構造連関は「性・学歴・年齢・時代・職業・地域・階層・階級・家族構成などによってそれぞれことなっている」と考えられている。そうであれば生活者の地位・属性や条件ごとに規制要素が決まり生活構造も決まることになろう。しかし,これは現実の生活者の生活構造あるいは生活体系なのだからすでに再生産機能が遂行されていることになろう。<松原氏の場合には、生活の中に再生産機能が損なわれている状況を見いだすこともあり得る。青井氏の場合はどうであろうか。>
 ここでの生活体系論は生活体系が全体としてはどのような性格をもつと考えるのだろうか。青井氏は家族が存続するにはAGILが機能要件でそれは生活行為で充足されるというのだが,それは「家族」という社会体系の次元である。「生活全体」という次元の「社会体系」論からみた役割行為の焦点は,社会のなかでの家族生活を経済決定論によらずに議論しなければならないのではなかろうか。そのような社会体系論があらかじめ経済<A>を下位体系として位置付けるのであれば,職業など規制要素の連関を規定する社会的地位・属性にまつわる社会的な役割期待の体系を前提にして,潜在性・パターン維持の下位体系<L>と再生産機能との関連を分析することも必要であろう。パーソンズらが消費者行動を扱ったときにも,コミュニティー生活での標準パッケージやデューゼンベリー仮説を扱っている。
 青井氏は生活体系論で生活全体に迫ろうとしたとき,後に述べるように生きがいや福祉などシステムの目的とでもいうべきものを扱いその上で生活保障体系などの議論を展開してゆく。その際にどうやら,家族生活・労働市場・職場生活・生活手段市場が巨大化し制度化し組織化され「個人の自由にならない生活体系の固定化」が促進されたことが,生活保障体系の必要性を増した要因と考えているようである。
 ところでここでいうパターン(生活構造)は,生活行為や規制要素がどんな状態で関係し合って現存の生活を成り立たせているかのことであるが,これはライフ・スタイル分析と同じような方法である。しかしライフ・スタイル分析



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は,あらかじめ生活者をその属性によって区分したうえでそれぞれのパターンを見出そうというのではなく,諸要素によって生活者をライフ・スタイルに区分し,かれらの生活指向や特定の行動の違いを理解しようとしていた。その場合のひとつの仮説は,一般システム論に従って,人々の生活は先験的な人間の本質や欲求で説明されるよりももっと創造的で能動的だと見なすことであろう。所得や職業階層だけで説明できることも多いが,人々が自分の生活をどう受け止め評価し,何が欠けていると感じ社会に何を求めるかということが生活行為に強く影響するので,ここでいう規制要素のなかの優越要因では説明できないと主張すると思われる。
 それに対して生活構造論は,客観的な観察対象を手掛かりにし,生活の一部ではあるが生活者の意識からは相対的に独立し,しかも生活を拘束するものを重視してきたように思われる(14)。

(4)生活システムの目的
 青井氏のモデルも,生活をシステムとして見ようとするのであるから,システムの目的というべきものの達成を検討している。生活が成立しているかどうかではなく,システムの目的を十分に達成するには諸要素がどのような条件を必要とするかが新たな検討課題である。そこで生活体系の内的規制要素に「生活意識」を含めることにして「生きがい」を目的として設定し,他方で,生活体系の環境のひとつに「生活環境」を明示化した。これで一応,生活環境に取り巻かれた生活体系の状態が生活意識に現れ,また生活意識が生活体系内部のひとつの影響力になるという枠組になる,と理解してみたい。
 ところでこの生活体系論における生活構造論の発想はつぎのような点であろう。コミュニティーの分析単位は生活体系であり,コミュニティーの目的の達成は「福祉」によって測られる,そして生活の場としての家族にはコミュニティー的側面が優越するのだ,という点である。そうすると生活体系論は「生きがい」と「福祉」という二つの目的をもつことになり,そこで規制要素は把握しようとする生活の客観的側面だが,生きがいはその内的側面でおそらく福祉



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は両者を関係づけるものになろう。<福祉とは物質的に足りていることと精神的な満足との両方が要素となっていると考え得る>。また生活環境との関係でも,消費における私的領域と公的あるいは社会的領域を区別して後者の増大という傾向を視野にいれる。このような目的や境界過程の二重性を理論的に統合するのが,生活体系の質的量的水準を示すものとしての「生活水準」概念と,生活障害,生活不安などから生活をまもる「生活保障」対策とであると思われる。いずれにせよ規制要素は生活者の属性で決定されているということを前提とした文脈となっている。<生活障害や生活不安に言及するのは、生活体系論的に生活パターンを取り出すのだが、その一方で、生活の再生産機能が達成されにくい状態であるということになろう>。
 松原氏の場合,現実には経済成長で生活は維持できているが,しかし精神の荒廃,人間関係の解体が進んでいるので欲求や意識でなく再生産機能を取り上げたと思われるが,それが青井氏の福祉になるのかもしれない。<青井氏の場合も規範的な側面があるといえる。>
 青井氏の生活保障対策の方向は生活体系の発展の動学的モデルによって基礎づけられている。つまり,生活水準の上昇→情報・移動・自由時間などの活用によって生活体系が時間的空間的に拡大→新しい要素が取り入れられ生活要求水準を上昇させる→生活水準の上昇,という発展図式のもとで,生活危機や生活障害の可能性の増加と質的変化(欠乏から不安・孤立などへ)が予測され,また創造や自己実現の要求などが高まるので生活保障対策の新しい変化が求められることになるというのである。結局,生活水準の上昇が生活障害をもたらすが,これは生活がシステム化されていないためであろう。そして,全国民の最低生活を保障するナショナル・ミニマムと都市の標準的な生活を保障するシビル・ミニマムなどの確保は公共資本の任務で,オプティマム・レベルの実現は公共資本と民間資本の協力が必要であり,マキシマム・レベルの追求には公共資本と民間資本と個人の努力も必要になるだろうと述べている。



5.むすびにかえて


 人々の生活が維持されている以上はそこに労働と並んで扶養が行われていると言えよう。<ここで人々の生活が維持されているというのは、個々の家庭生活ということでなく、社会的に世代交代がそれなりに継続しているという様子である>。マルクスは人々の労働が一般的抽象的なものとして見なされて初めて価値を持ちうるという世界を描いた。しかし扶養はそれを必要とするのが



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人間であり,個別的具体的なニーズが満たされて初めて価値を持つといえよう。だから最低限度や平均を考えにくい。ところがライフサイクルを共にする家族による扶養の場合には,現実には程度が様々であっても扶養を必要とする人のニーズ自体が家族の扶養能力に応じて増減しがちで,その結果,貧困水準に至れば家族の扶養能力低下に対応して社会的扶養が求められる。そこで家族の格差が許容範囲まで縮小するのが望ましいことを前提にすれば,社会的扶養は家族の格差に応じるのではなくそれを縮小するための一つの手段となりうる。その費用は社会の平等化の費用とも見なされるのである。<これは平等が望ましい価値である、という社会民主主義的な立場からの考え方である。>ところが社会的扶養が年金や福祉サービスだけの問題であるかのように考え,そこでの不公平が社会的扶養の不公平の問題と見なされてしまう。しかしこれは見かけであり,別の問題は,社会保障や福祉政策以外の制度・政策が家族の扶養や社会的扶養に与えている影響を同時に取り上げないまま議論しているところにもある。<たとえば、仕事と保育、仕事と介護の両立を可能とするような職場の条件が整わないままでは、社会的な扶養も難しい。>
 かつて日本列島は公害を引き受けて安くて良質の工業製品を海外に供給した。今また単身赴任を始めとした家庭の情緒的結び付きを不安定にする要因を抱えながら,輸入を増やし,また将来の世代間不公平を憂いながら,新世代の勤労者を養成しようとしている。しかも「生活水準」上昇を達成するとそれを維持するためにこのような生活を止めるわけにはゆかないようである。
 生活水準の上昇と生活危機や生活障害が同時に進行するというモデルは,生活安定のためにはフローとストック,労働と扶養,家族と地域などを視野に入れた生活・政治・経済のシステム解を要する。高齢社会は福祉社会の形態をとるという仮説(15)はそのひとつの解であるが,仮説の社会的重要性・合意可能性・実現可能性を探り,あるいは現実にするための多元的な方策を計る上で生活構造論が役割をもっている。
 つまり社会調査は確かに社会保障の発展に欠かせなかった。そして具体的な制度を設計し,給付の水準や方法をナショナル・ミニマムの理念にかなうように決定するためには,調査結果を理論的に整理することが欠かせない。その意味で,ひとつの理論的検討として生活構造論はこれからも重要であると考えられる。



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(1)本稿は生活構造論の分析法について検討を加えようと試みたものであるが,生活構造概念を網羅しようとしたわけではない。また記述も,どちらかといえば筆者なりの理解の文脈に従っているので,生活構造論の展望としては,たとえば次のような文献も紹介しておきたい。
大村好久「『生活構造』概念の把握」(青井・松原・副田編『生活構造の理論』有斐閣,昭和46年)。
松原治郎「現代生活の社会学」(松原・山本編『人間生活の社会学』垣内出版,昭和57年)。
岩城完之「生活構造」(『現代社会学事典』有信堂,昭和56年)。
特集生活構造論『現代社会学18』アカデミア出版会,Vo1.10,No.1,1984年。
三浦・森岡・佐々木編『リーディングス日本の社会学5生活構造』東京大学出版会,1986年。
(2)E.エンゲル『ベルギー労働者家族の生活費』(1895年),森戸辰男訳。
(3)K.マルクス『資本論』第1巻,(1867年),向坂逸郎訳。ほか。
(4)篭山京「国民生活の構造」(『篭山京著作集・第5巻』ドメス出版,1984年)。
(5)中鉢正美『家庭生活の構造』好学社,昭和28年。同『生活構造論』好学社,昭和31年。同『現代日本の生活体系』ミネルヴァ書房,昭和50年。
(6)江見康一「生存環境の変化と社会保障」(社会保障研究所編『経済社会の変動と社会保障』東京大学出版会,1984年)。
(7)倉沢進「都市化と都会人の社会的性格」(『日本の都市社会』福村出版,1968年)。
(8)副田義也「生活構造の理論」(青井ほか編『前掲書』)。同『生活の社会学』日本放送出版協会,昭和60年。
(9)永野順造「『綴方教室』と生活構造」(『教育』第6巻第5号,昭和13年)。
(10)岡村重夫『全訂社会福祉学(総論)』柴田書店,昭和43年。同『新しい老人福祉』ミネルヴァ書房,昭和54年。
(11) 松原治郎「生活体系と生活環境」(青井ほか編『前掲書』)。
(12) 森岡清美『家族周期論』培風館,昭和48年。
(13) 青井和夫「生活体系論の展開」(青井ほか編『前掲書』)。
(14) 井関利明「『生活システム』の成長・発展とその指標」(村田昭治ほか編『福祉生活の指標を求めて』有斐閣,昭和48年)ほか。
(15)馬場啓之助『資本主義の逆説』東洋経済新報社,昭和49年。同『福祉社会の日本的形態』東洋経済新報社,昭和55年,pp.136-141では,複合社会,福祉複合体の理念を展開している。

(岸 功『社会保障分析序説』白桃書房、1996年所収)