幕末・明治維新略史

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生活構造論の3アプローチ


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第2章 生活構造論の3つのアプローチとその展開 (岸 功『社会保障分析序説』白桃書房、1996年所収)

(文中の<>は執筆者による補足です。)

1.はじめに

 生活の研究といっても経済学的アプローチならばたとえば家計の収支や資産などを主に観察し,経済合理的行動という視点から検討するであろう。生活構造論は生活困難が発生する原因を究明するとか,幸福な生活を実現する方途を探るとかいってもこれは生活構造論に特有のものとは言えない。また現実には,生活構造といっても論者によって問題関心が違いそこに込められた意味も違うようだ。こう考えたところに,生活構造という概念を用いたアプローチとしてどのように利用できるかを考えてみたいという本章の出発点がある。労働者の利害を代表していた労働組合は,高度経済成長に伴って派生した生活問題に対して企業や行政への対抗力として必ずしも効果的な運動を展開することができなかった。そこで,問題が起こっているそれぞれの地域での住民の共通利害を整理し新たな対抗力の形成を模索していた生活構造の諸理論を中心にして検討したい。
ここでは,生活構造の諸理論・諸モデルをアプローチとして二つに分けてみる。一つは,生活状態をもたらした生活の本質,法則などに関心を持つ本質論アプローチで,もう一つは観察した諸要素の相互依存関係などを解明しようとする媒介論アプローチという分け方である。初めの本質論アプローチは,家庭での生活や消費行動の背後に現象を引き起こす本質や法則があると考えそれを生活構造と名付ける。これは観察された生活パターンや生活の仕方自体は生活構造とは呼ばないのである。このアプローチをさらに二分して,現象として勤労者生活を取り上げ生活を規定している本質に関心を持つ主体性(他律性)アプローチと,現象として労働力循環に関連



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する家計の消費行動を取り上げそれを規定する生活独自の法則に関心を持つ自律性アプローチに区別してみたい。<主体性(他律性)アプローチは、マルクス主義経済学のように、生活はそれを取り巻く資本主義経済によって規制されるという見方なので他律的であり、同時に主体性を取り戻すことが課題であるというので主体的な見方である。この両面がないとマルクス主義のいう歴史が進まないのである。それに対して、自律性アプローチは、生活が経済から相対的に自立したものであるという見方であること、そして主体的に生活を制御していこうとするということで自律性が特徴なのである。>
それに対してつぎの媒介論アプローチは,観察された生活パターンの特徴や生活の特徴を生活構造と呼ぶ。その際に単に生活実態を整理して生活パターンというのではない。生活パターンや生活構造は一方では生活必需品の獲得を通して生活を可能にするが,他方ではそれを通して共同社会の成員として生活し生存することを可能にするものと考えられる。つまり個人や家庭の側からは,生活構造は個人や家庭の生活を支える機能を持ち,同時に社会の側から見れば生活構造は経済(資源制約の下での生活必需品の確保など)と共同社会を媒介するもので,それをとおして現代社会を成り立たせるとみなされよう。だからといって実際の生活パターンをいつも望ましいものと見なすわけではなく,それが欲求充足と同時に社会的要請に応えるものであるかどうかが問題とされる。このように単に,生活パターンの整理だけを問題にするのではなく家庭と社会の関連,共同社会と経済の関連に目を向けるという意味を込めてこれを媒介論アプローチと呼んでみたい。<経済社会の変化が生活を媒介として経済社会へフィードバックされるという枠組みとみて媒介的である。生活が苦しいことがわかったとしても、それが資本主義の本質的な法則の現れであるという考えはでてこない。あくまでも、労資協調によって改善できると考えるものである>
人情としては,生きているという事実があれば「そこにひとつの生活が成り立っているのだから」と受容したいとしても,それでは生活の研究は出てこない。例えば,食うや食わずの状態のとき,原因や対策,その効果などを分析する。生活研究ではさらに,それが生活に値するかどうか,心理的な影響,健康と人間性の崩壊,生きがいや価値観の喪失などの検討も必要なはずである。これも一つの生活だからといって,そんな状態を「容認」してしまっては生活を議論する意味がない。そのぎりぎりのところに価値前提を明示して分析するという方法が必要になる。ここで取り上げる生活構造論は倫理にかなうかどうかよりも,もっと人々の欲求に根差した機能や福祉水準を基準にして判断することが多いようである。



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2.主体性(他律性)アプローチ

主体性アプローチはいわば資本主義社会の経済決定論で,雇用に依存して生活する立場であるかどうかがその人の生活や生活困難を規定し,また現状の評価,優先順位などを規定するという考えである。生活が意識を規定するという発想である。そうはいっても人々の内面を無視するわけではなく,階級意識や自覚が主体性にとって重要であるという。このような思想が現われる前に,労働者に対する中産階級の人々による批判に対して異議を申し立てた思想があった。

(1) 資本主義社会と労働者の生活

オーエンが言うには,自由意志と責任の観念が,無知,貧困,悪徳,犯罪,刑罰,不幸を生んできた。また,人間は自由な主体で責任能力があるという信念の帰結の一つは,人類を個別化し利己心を作り出し協力の利益を社会から奪ったことである。この信念こそ人間精神の全能力を歪め,幸福を求める欲求とあいまって,人間を悩ましてきたと述べた(1)。彼は自由意思や責任そのものを疑ったというよりは,お互いの協力関係の中で自由や責任をはじめとした様々な人間精神が発揮されると信じたに違いない。人間の責任や主体性を問う際には社会的前提条件が問題であるということを明らかにしたともいえよう。同時に教育が労働者にとっても産業社会にとっても不可欠なものであることを主張した。現代でも市場経済を支持し公的な福祉政策を最低限に抑えろと主張する経済学者の中には,オーエンとは逆だが競争を公正に行うための条件として教育の重要性を認め,教育の機会均等のためには公的な支出や保障を認めることが多い。
マルクスとエンゲルスは,人間の存在とは現実的な生活過程であり,「物質的生産と物質的交通とを発展させつつある人間が,かれらの現実とともにかれらの思考および思考の生産物をも変えてゆく。意識が生活を規定するのでな



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く,生活が意識を規定する」という思想をまとめた(2)。労働者が家庭や知人との生活,職場での労働を通して様々な喜怒哀楽を抱くのは当然である。ところが賃金労働者は自分の仕事のなかに喜びを見い出すことができないということをマルクスはこう述べている。労働を営むあいだ,自分が肯定されていると感じないで否定されていると感じる。自由な肉体的精神的なエネルギーの発揮でなく,肉体をそぎ,精神を荒廃させる。だから労働者は労働を離れてはじめて我が身にかえったくつろぎを感じ,家にいるようにほっとする。この結果,人間はわずかに自分の動物的な諸機能において,即ち,飲食や生殖において,あるいはせいぜい住居とか,衣装とかいうことにおいて,自由な活動を営む自由を感じ,協力して労働し物を作り出す人間的な諸機能においては,ただの動物としてしか自分を感じるにすぎない。飲食や生殖などはもともと人間的機能であるが,これらを人間の種々の他の活動から切り離して,それだけをたった一つの最終目的にまつりあげてしまうほど抽象化してしまったとしたら,それらといえども動物的になるといっている(3)。
それでは労働者が人間性を回復するには何が必要だと考えるのであろうか。
他人との共同体において初めて各個人は彼の素質をあらゆる方面へむかって発達させる手段を持ち,初めて人格的自由は可能になる。これが基本だというのである。人間の内面を発達させるには,他者からの影響を閉ざすのではなく,逆に他者とのふれあい,協力の経験が必要だと考えていた。「生活する境遇が彼に他の総ての特性を犠牲にして,1つの特性の一面的な発展だけしか許さないならば,もしそれが彼にこの1つの特性だけの発展のための材料と時間しか与えないならば,この個人はただ一面的な発展にしか到達しない」。他者との共同といっても,国家などにおいては,人格的自由はただ支配階級の人々にのみ存在していたと断定するが,先のロバート・オーエンもこのようなことを考えて自由意思や責任に留保をつけたのであろう。そして理想の共同体では,個人は情欲や欲望を捨てるように指導されるかというと,そうではなく「総ての欲望の正常な満足」そのものによってのみ制限されるような満足を可能にするような努力がなされるというのである(4)。


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(2) 循環式の維持

このように人間の全面的発達を促し,欲望の十分な満足を実現する生活を目指すといっても,生活それ自体を可能にさせる条件が何かあるのではないか。副田氏によれば最も一般的な条件は「生命の生産・消費と,生活手段の消費・生産の循環」が維持されることである。この循環式を生活構造と呼ぶ。この見解はエンゲルスと親近性があると思われる。「唯物論的な見解によれば,歴史における究極の規定的要因は,直接的生命の生産と再生産とである。しかし,これはそれ自体さらに二通りにわかれる。一方では,生活資料の生産,すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具の生産,他方では,人間そのものの生産,すなわち種の繁殖が,これである。」(5)。
ところで生命の生産と再生産を実現する消費は,人間の内面の欲望によっていわば自動的に動機づけられているといえる。それに対して,生活資料の生産は労働の苦痛を要するもので,それ自体には内面的な動機づけがいつもあるとは言えない。つまり労働を動機づける要因が循環の外から与えられないとこの循環式は維持できないのである。したがってそこに社会の生産活動の組織化が必要になり,その組織化には同時に社会的な規制があることは,マルクスがすでに労働力循環にとって労働時間の制約が必要だと述べていることに関連することである(6)。
実際の生活の循環は資本主義経済の中で行われているのだから,一般的な循環式はその形態や過程を資本主義に規定されて生活を成り立たせている。したがって労働者生活の再生産に,あるいは生命,精神,組織,物質の再生産に支障があるとすれば,労働の条件も含めた生活を規定している資本主義の経済原則,運動法則が問題となるのである。こうして循環式の本質として資本主義経済に行き着くのである。
主体性アプローチは現象と本質を区別するといっても,ここで現象というのは産業における資本蓄積と労働者生活における貧困蓄積が同時に進行することで,その本質として資本と賃金労働を考える。循環式が,資本主義の本質によって規定された賃金労働者の生活として一般化されたとき,「賃金労働者の生活



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構造」と呼ばれる。そこで労働者の生活パターンが生活構造で規定されるといわれることになるのである。だから主体性アプローチは歴史的な見方をしているのである。その現象自体は経済学で説明されるから,生活構造論は生活や社会関係のなかに資本主義の経済的関係がどのように影響しているのか,地域社会での生活問題には地域の企業,産業のどんな部分が影響しているのか,よその地域の産業からどのような波及効果を受けているかなどを明らかにすることが課題であろう。
地域や親族,知人などとの社会的な関係のなかに前近代性を見い出す場合には,一方ではそこから生じる強制力が市場経済への適応を阻み,また生活を疎外するし,他方では逆に人々が市場経済へ適応していこうとするとしわ寄せが来て人間的な関係を喪失していくことも指摘しなければならないという二面性があろう<「女は家庭」だから外で働くことは許さないとか、収入を増やすための長時間労働で家族とのふれあいがなくなる>。しかしこうなると具体的に研究する時には先の生活構造の規定はただの前置きになってしまい,生活パターンそのものを生活構造と呼ぶ媒介論アプローチによる分析と親近性を持つように見えるのである。
なお,生活の中で何か自分の力では変えられない制約を強く感じることがある。その制約は家族の外だったり家族の内のこともあろう。それから逃れようとすると家庭崩壊とか失業につながると思える。このような制約は生活の枠組と呼べそうであるが,それを指摘するだけなら生活体験があれば十分で,生活構造論は不要である。しかし生活を支えるはずの諸条件がマイナスの効果を持っているとなると,常識を超えた問題につながろう。例えば篭山理論も生活を外から規制する「生活の枠組」を生活構造と呼びその問題点を研究したものである。その意味では他律性に注目しているが,観察される生活の諸条件を枠組と見て生活構造と呼んでいるので,<篭山理論は>本質論アプローチではなく後の媒介論アプローチに含めることにする。勤労者生活が労働時間に制約されるのは当然としても,その制約が生産組織としての必要性にとどまらず,剰余価値と結び付くと理解するかどうかが分かれ目であろう。<ここが篭山京と江口英一との違いである。生活への制約を資本の利潤追求で説明するものを主体性(たりつ)アプローチとする>



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(3) マクロとミクロ

生活を支えるこの循環式つまり生活構造は資本主義社会では,資本の論理によって規定されていると考える。資本の側から見れば生産に必要な賃金労働者が供給されている間は,一応,この社会全体として生活の循環が維持されていると見ることになろう。問題は,社会全体の生産力の増大にもかかわらず,賃金労働者の生活が苦しく,不安定なまま取り残されている家庭が多数あるという点である。そこで賃金労働者の生活構造が,具体的な現実の個々の家庭生活でどのような生活パターンとなって現われているか,どういう要因で不安定になるのか,資本の論理が生活のなかに浸透するとはどう言うことかを知ることが必要となる。
これは賃金労働者の生活構造という概念によって,資本の論理や社会構造というようなマクロ的な条件を家庭というミクロの次元でとらえる,という転換を図ったものともいえよう。
生活パターンを観察する視点は,マクロの条件が個々の家庭にどのように現われているか,家族の生きがい追求の努力が結果的に新たな問題を生んだり誰かにしわ寄せが行ったりすることや,主体的な選択を貫くことが難しいことを探ることである。ただし資本主義社会の矛盾をもっとも強く受けているのは賃金労働者だと考え,主に賃金労働者の生活パターンが取り上げられる。生活パターンは家族が関係を持っている社会的な制度や社会的条件・状況と関連させてはじめて解釈可能なものとして位置付けられる。だから見かけの多様性にもかかわらず,それらを貫く資本主義社会の本質を明確にすることが求められるのである。
ところで「老人ホーム入所者の生活構造」という言い方もある。高齢者の生活を労働力の再生産では検討できないが,生活の本質は労働力再生産だと考える哲学では,どうしても現役労働者にあてはめた生活構造を想定するのである。しかしこの高齢者を単なる高齢者とは考えず,賃金労働者として働き,引退してホーム入所した高齢者だと考えるならば,勤労者の生産年齢期と引退期のライフサイクルをひとつのものとして対象にした生活構造といえる。勤労者が自



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分の過去の労働によって高齢期の消費を可能にするシステムをどう構成するか,あるいは高齢者の消費を保障するには生産期の勤労者の消費とどうシステム化するかなどを考えると,勤労者全体の生涯にかかわった循環式を維持させる条件を探るアプローチにつながるといえよう。
<このような問題には、社会階層という概念が用いられることがある。たとえば、調査をするときに最も長く勤務した勤務先などを答えさせることがある。全労働者のわずか数パーセントしかいない大企業労働者、公務員、中小企業、個人企業経営者、零細企業、自営業などの選択肢がある。そして勤務によって賃金水準や社会保障に格差があり、したがって貯蓄に差ができ、子どもの大学進学に差があり、住宅所有関係に差があることなどが明らかになる。当然、老後の生活の安心も違ってくる。ふつう調査はやらないが遺産相続にも格差があろう。いな、自分が若いときに親から相続した遺産に格差があったかもしれない。つまり、ひとくちに労働者といってもその中で所得と資産に格差がある。自由主義者なら格差は個人の努力の差の結果だというだろう。それに対して社会主義者は、本人と言うよりは家族や社会環境の差や大企業優遇という競争条件の不公平などを指摘するかもしれない。おそらく生活構造論としては、世帯の経済条件によって生活に差ができる、また、生活の社会化の状況や協同活動への参加状況によって安心に差がある、その結果としての老後生活に差ができることなどに関心を持つのではないかと思われる。>

(4)窮乏化法則

そのような不安定な家庭生活の生活パターンを検討する場合に「生活環境がもっぱら資本の論理で規制されているために生活上のニーズと不調和が生じる」という仮説ができよう。これが他律性アプローチと呼ぶ由縁である。どうしても資本に生活が支配されてしまって,人々が生活のなかにその主体性を発揮することが原理的に不可能であるという仮説である。
福祉国家批判の仮説もあろう。たとえば「資本主義の福祉政策は国民の利益を中心としたものにはならない,資本の増殖に役立つかぎりでの福祉政策である」。これは検証されるべき仮説であって,初めから結論が出ていてそれに合致する事実のみ取り上げるわけには行かない。
生活研究としてはその消費生活や生活パターン(例えば生活の仕方・労働時間・通勤時間・収入・物価・家族多就労・住宅・老後・医療費そのほか)に対して評価をくわえることになる。ア)欲望の満足水準,イ)健康・疲労など身体的状態,ウ)文化的社会的状態,エ)労働力再生産(実はア,イ,ウなどで評価することもある)などで生活状態を判断するが,家庭生活のさまざまな問題や家計における硬直性の増加などの問題が実は労働力再生産が困難になっていることを表わしていると考えられる。
これは依然として現代社会で窮乏化法則が貫徹していることの現われとして受け止められ,しばしば「生活構造の歪み」とか「生活構造の解体」とか表現される。
しかし生活問題を生み出す原因を「資本家による搾取」とは言わないで,生活構造の歪みや解体が原因であるといっている。これは低賃金や失業などによる経済的貧困が生活問題を引き起こすという仮説に対して,現在の生活問題は必ず



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しもそうではないという考え方であろう。<生活の貧しさというのは昔からあったが、「貧困問題」はそうではない。資本主義社会では一方で生産力が驚異的に発達しものが大量生産される。他方で、労働者の生活は低賃金長時間労働でつねに失業と隣り合わせでものが買えず生活が苦しい。これが「貧困問題」「生活問題」という見方である。そして、非行や犯罪の背後には貧困があるのだという理解が定説だったが、ここでの見方はすこし違う。>経済的には必ずしも困窮していない普通の家庭に非行,暴力,離婚,虐待,借金などの問題が起きるのは,資本主義社会そのもの,つまり営利を目的とした経済活動や雇用に一方的に依存した家庭生活というものが原因である,という理解ではないかと思われる。
「いじめ」の問題にあてはめてみよう。主体性アプローチでは社会的条件が生活パターンに影響し,経済的な困窮ではないにもかかわらず,親子関係の希薄化,近隣関係の希薄化,第1次集団の弱体化などが特徴になり,塾・学業中心の子育て,学歴主義・偏差値教育・思いやり教育の不足・管理優先教育などの家庭内外の問題がいじめをもたらしたといえよう。今日,大資本の利潤追求に都合のよい政策・教育が行われていて,そのために勤労者や子供の生活がゆとりがなく自分に適した教育を受けられないためとみれば,これも窮乏化・貧困化の現われと言われよう。その結果,人間性が崩壊し,いじめがおこる。解決のためにはもっと主体的に生きる力を取り戻すことが必要で,地域や集団の中での学習や遊びを重視する教育ができるような条件を整備することが必要であるということになろうか。
<また、先進国にみられる社会的排除もあらたな貧困の形態であると言うとき、やはり資本主義による必然だというマルクス以来の考えを堅持する人たちがいる。一方で、市場経済は維持するとして、競争による雇用不安定を遮断する生活安定の仕組みの改善によって解決可能だという北欧福祉国家のように考える人たちがいるようだが、こちらは主体的アプローチにはそぐわない。>
このように分析を進めるといわゆるマルクス主義的な窮乏化法則による説明に結び付くことが多い。その場合には歴史法則的な理解に行き着くことになろう。しかし資本の有機的構成の高度化が必ずしも実証されない(7)ことを考慮して,これを法則ではなく傾向と考える場合には,同じ本質論アプローチでも意見の違いが出てくることになる。
たとえば妻の就労という問題は,窮乏化法則では,夫の低賃金のための家計補充的就労であると説明されよう。しかし,「豊かな社会」では,女性の高等教育が普及し,労働したり社会参加をして自己実現をはかりたいという女性が増えたことで説明される部分もあると思う。これは窮乏化とは違って生活水準の上昇によって,内面の欲求が変化した結果であると説明されよう。これは勤労者家族の欲望が必ずしも資本に支配されないという例となろう(それが利用されることはあるかもしれないが)。ここに後に述べる自律性アプローチが出てくる契機がある。



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(5)「生活構造」から「生活過程」へ

主体性の回復は資本主義的な枠組を最終的に改革する運動でなくても,労働条件や生活条件の改善を目指す社会改良的な運動を推進することで近づくことができるという考え方もある。
実際,批判だけでなく制度・政策の改善提案をしないと住民の支持も得られない。そのためには政府だけでなく企業・労働者・労働組合・住民・消費者・年金生活者・障害者団体・生協・子育てグループなど,家庭内にとどまらない活動が出てくるが,このような生活空間を拡大する活動は生活の主体性を取り戻す過程であり「生活過程」と呼ぶことができるのではないか。これが他律性アプローチを主体性アプローチと呼び変えた由縁である。
主体性アプローチは主体性を発揮する生活過程の分析を通して「生活の社会化」の展望を切り開いていくのではないか(8)。ただし生活空間の拡大における目標は生活の社会化のように共同性を高めることが主な手法で,個々人の選択に任せるとか選択の対象の範囲を広めるというような,市場経済的な「自由の拡大」ということとは明確に区別されなければならない。




3.自律性アプローチ

(1) 生活の自己主張

中鉢理論では,藤林敬三にならって労働者生活の中に生活形態(環境が個性を形成する作用による)と生活態度(個性の能動的働き掛け)との区別を設けて,その上で,労働者個性の能動的態度を介して新たな生活形態を形成すると両者の対抗関係は新しい均衡を回復するに至るという分析枠組を示した(9)。
このような藤林の発想からはたとえばJ.S.ミルが連想される。ミルは人間が目標とすべきは「能力と発展との個性である」というフンボルトの思想を紹介し,この目的のためには「自由と状況の多様性」という条件が必要である,といっている。「ただ慣習であるが故に慣習に従うということは,人間独自の天賦である資質のいかなるものをも、自己の内に育成したり発展させたりはし



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ないのである。知覚,判断,識別する感情,心的活動,さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ,錬磨されるのである」。そして人間性というものは,模型に従って作られたものではないし,あらかじめ指定された仕事を正確にやらされる機械ではなくて,自らを生命体となしている内的諸力の傾向に従って,あらゆる方向に伸び広がらねばならない樹木のようなものである(10)といっている。
しかしこれだけでは利己的な人間しか登場しないように見えるが,そうではなくて,同胞と一体化したいという欲求は,強力な自然的心情で,人間本性の原理である。社会の連帯が進み社会が健全に成長すれば,だれもが他人の福祉に強い関心を持つようになり,自分の感情と他人の善を同一視するようになる。実際に抱く感情の多くは共有できなくとも,真の目的は調和すると感じる傾向がある。この一体感への確信が最大幸福道徳の究極的な強制力となるものである(11)。またミルは資源の有限性,人口と富の成長の停止状態にふれ,さらに人類または将来の世代の一般的な利益についても論じていることも自律性アプローチにとっては示唆的である(12)。

(2) 諸要因の複合

<われわれの生活は、しきたりや習慣、世間体など社会的文化的な要因で規制される面がある。他方で、生理学(睡眠時間)や栄養学(必要カロリー)によって、生活にとって必要なものが客観的に明らかにされている。その両者をカバーした生活の「科学的な」研究分野があり得るのではないか、というところから中鉢正美の生活構造論は始まる。
 科学的というのは、法則を発見することと考えられるであろう。生活に係わる法則として、すでにエンゲル法則があった。ところが、終戦直後の混乱期の家計調査のデータを子細にみると、法則が当てはまらない現象が発生していることが分かった。生活構造の抵抗によるものである。人々の行動がそのときそのときの判断、選択などで行われるという考え方に対して、構造という用語は、行動が人々に意識されないものによって決まる、だから行動が変えられないこともあるという考えである。>
自律性アプローチがもっぱら念頭に置いている中鉢理論は,まず生活学という発想をもち,そのなかでエンゲル法則のような家庭生活の法則が現われる場としての実体を追及していた(13)。確かに家庭生活という現象を観察しているが,それに先立って生活の基盤となる経済活動がまず観察される。そしてエンゲル法則では説明できない現象が発見されたときに,それを説明しうる法則が求められたのである。つまり文脈としてはまず労働力循環や消費行動という現象がありそこにはすでに法則が発見されていた。それとは別に生活の領域にも法則が存在するはずだと予想されたが,法則が存在するとすればそれが観察できる「場」が存在し,その場は経済現象にも作用を及ぼす実体であると予想された。その場が家庭生活における生活パターンや生活類型の中に求められたと解しておきたい。そしてここで実体とは,保有する財など観察可能な物を含ん



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でいるが,生活構造は単に生活パターンの類型ではなく,そこに関数関係としての法則が存在しうるものとしての実体として見なされていると思う。このように経済現象に対して影響を与えている法則を成立させるものとして生活構造を定義するという意味で,これを本質論アプローチとして分類した(14)。しかも特徴の一つが人間の自覚的な意識ではなく,自然に備わった心理的メカニズムのいわば自動的な働きを重視しているということもあって主体性アプローチから区別した。
 <諸要因が一つのまとまりを持っているということを表す言葉として心理学の「ゲシュタルト」を選んだ。心理学的な履歴効果after effectという概念を取り入れるためだと考えられる。だから、そこだけをみると、中鉢生活構造論は心理学的なミクロの理論と見なされることがある。それに対して、生活構造論が貧困を取り扱っていることに注目すると経済学的な社会政策に含まれることになる。>
いわゆる生活構造の3法則に心理的メカニズムをそれぞれ対応させることができよう(15)。
第1の生活構造の構造化は,試行錯誤のあとで成功の体験を積めば,そこに目的手段の結合がおこり,一つの行動の習慣が形成されるという傾向が対応しよう。
第2法則の抵抗は履歴現象が対応しよう(16)。
第3の再構造化には要求水準の考え方が関連するが,それは,目標が達成されると従来よりもやや高めの目標が,逆に失敗するとやや低めの目標が新しい目標として設定されるというものである。これは人々の自覚的な目標設定とは限らない。これを合理的な行為として説明してしまうのでは生活構造第3法則とはならないのではないだろうか。
中鉢理論の生活構造は,消費行動など目に見える多様性の背後にある諸要因の複合と定義され,その要因としては,ア)社会的条件で,収入・労働時間・利用できる社会的施設ほか。イ)家族構成,生活歴ほか。ウ)心理的メカニズムなどが挙げられている。
家計支出の中に履歴現象が観察されるが,それをもたらすものが生活構造である。生活構造を形成する要因が生活の繰り返しの中で一つの複合となって初めて,生活に影響を及ぼす実体になるという概念図式であろう。
実証的に生活構造それ自体の存在を証明することは困難だと思われるが,生活構造を仮定してはじめて説明できる規則性ある現象が観察されれば,それによって実体としての生活構造の存在が傍証されたと解釈することができよう。



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その法則が生活構造の3法則である。生活構造の抵抗は,低所得階層の家計や労働運動が低調な時期の労働者家計によって傍証されたといえる(17)。

(3) 福祉国家

<収入が下がってきたときにこれ以上は家計の支出を切り詰められなくなる支出水準を、最低生活費と考えようという人々が出てくる。これが生活構造と貧困をつなげようという考え方となる。しかし、最低生活費というのはその社会、その時代の社会人の生活として最低限は必要だと考えられる生活費で、そこにはある種の社会的な望ましさ、社会的な価値判断という要素が入っていると思う。それに対して、生活構造の抵抗というのは実証的なものであり、仮に価値判断があるとすれば、家計の当事者の生活についての価値判断はあるかもしれないが、それは社会的な価値判断とは区別されるべきであろう。
のちに、中鉢氏は生活構造に代えて生活体系と言い換えたのは、ゲシュタルトにかえてシステムといったものである。個々の家計のレベルとは違って、国民生活の全体というレベルである。単に個々の家庭の振る舞いからは導き出されないような現象が発生するという見方をするのである。よく知られているのが経済学の「合成の誤謬」である。景気が悪いときには、個々の家計が節約するがこれは合理的な行動である。ところが、皆が節約するので消費が減りものが売れなくなり、世間の景気はいっそう悪くなってしまう。つまり、ミクロ的には合理的でもマクロ的には好ましくない結果となるわけである。これは、アダム・スミスの「自由放任」の考え方とは逆の例となる。つまり、個々人にとって良いことをしていれば、自然に世間にとっても良い結果をもたらし、公的利益を増進する、だから、規制はする必要はないという「自由放任」の考えとは逆のものといえる。同時に、システムというみかたをするということは個々人の欲求充足とは違ったレベルの価値判断、たとえば国民生活の安定とか福祉という基準を要請するものである。
 「経済」活動が盛んになれば所得も増えて「生活」が豊かになると思われる。ところが、それに伴って排気ガスや汚染などの問題が発生して生活が脅かされ、豊かさに疑問が出される。この場合には、「政治」によって生産活動に何らかの規制を加えることで、三者の調和を図ることが必要となり、その規制を正当化するというのが、システム的な解法である。その内実は生活主体による自律的な規制、調整といえよう。>
生活には社会的条件による規制から相対的に独立した欲望,つまり,社会的条件に抵抗し反発するエネルギー,あるいは社会的条件を変えていく内的なエネルギーがある。そこで生活構造論は,労働者を主要な構成員とする都市住民の生活環境を規定する資本蓄積の体系と,自己の個性を主体的に形成しようとする労働者生活の体系との,対立と行動と展望とによる再構造化の過程として解こうとするものともいえる(18)。自律性アプローチと呼ぶ理由の一半である。生活態度も自律性の基礎であるが主体性アプローチでふれたような,「生活が意識を規定する」という考えに対して,「自律的な態度」をもっと自然的な次元の心理的メカニズムで基礎付ける必要があったのかもしれない。また人々には意識されない生活構造があり,その抵抗により不合理に見える行動を起こすこともあるということだと,これでは,経済や政治に関して自律的に振る舞っても個人が自律的でなくなってしまう。しかし再構造化では人間が主体的なものとして前面に登場するのである。
履歴現象に見るように,生活構造の抵抗は心理法則というだけではなく,その背後に耐久財の伝承を中核とする生活習慣の類型的枠組が存在する(19)といわれるから,単なる自然的なものではなく社会生活による刺激のなかで生活習慣が形成され,その上での神経組織の変化であるから,この変化は社会的な側面をもっていることになる。また再構造化も社会生活の経験のなかから学習した意欲によって可能となるといえる。
そこでこのような一般論をさらに展開すると,社会民主主義的な考え方ならば、再構造化の法則から「福祉国家という政治システムは,国民の要求に応えようとするものである」という仮説を考えることができる。この仮説は自律性アプローチが福祉国家を要求するということではなく,国民がその政治システムを信頼しているという仮説である。福祉国家と言っても経済状況,人口高齢化等の状況変化に応じて,国民の



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要求を充足したりしなかったりするのではないか。そこで検証は間接的で,福祉政策に関する政策提言・提案が国家によって実施されるかどうかを見届ける,という形にもなろう。
「福祉国家を維持するために,国民は協力する」という仮説も重要である。もともと欲求充足のために福祉国家を建設したはずなのに,経済状況に応じて要求を抑え自己規制<大きな租税負担など>をするのは矛盾である。福祉国家の内実は,経済・産業と生活あるいは社会とを調整する国家の成立であり,生活の在り方が他へ及ぼす効果について国民が自覚することも条件となろう。この検証も政治過程での決定とか,多くの争点を争う選挙の結果などに依ることになると,なかなか難しい点もあろう。
この仮説が成立しない場合,経済が好調なときしか機能せず主体性アプローチの福祉国家批判に通じる。また仮にこの仮説が検証されたとすると,「欲求を自己規制してなお福祉国家と言えるのはなぜか?」という新たな問題が発せられよう。しかしここまでくれば例えば福祉国家の前提には企業や国民など民間の相互理解が必要だが,それが成立する条件は何かという問に至ろう。
また福祉国家における生活の在り方それ自体を問題にして「福祉社会」というシステムが構想されるのかも知れない。つまり資本の自己増殖から独立した欲望も次第に要求水準を上昇させ肥大化するが,やがて主体的に社会を建設する理念が人々の行動を導くならば再構造化のあらわれであろう。福祉社会は,「国民の自己実現の努力が,自助的な相互援助に貢献する仕組み」を目指しているということができる。これは工業化社会で相互扶助システムを再構築することであろう。そこでは,公的責任や企業責任の範囲,資本の制御と欲望の調整,利害の調整が民主的に行なわれなければならないであろう。

(4)「生活構造」から「生活体系」へ(福祉レジーム論とのかかわり)

自律性アプローチとしては,当初,再構造化は,かつて生活が構造化した時とは異なる新しい環境に対して,非意図的な内的なメカニズムによって「展望」をもって適応することを意味したと思う。



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ところが,これを戦後日本の労働者階級に適用すれば,現実の労働組合運動の抵抗が生活構造の抵抗と解釈され,「展望をもった再構造化」とは,単に生活を立て直すことなどではなく,もっと壮大で,労働者活動によって新しい制度を作って労働者生活を展開させることと受け取られた。この場合の自律性は「環境を変えていく」ような生活主体になることで,先の3法則の場合の再構造化の記述とは違った内容になる。このような違いが生じる原因は生活構造の対象を低所得層に限定せず,民主主義または階級意識に目覚め運動主体になる労働者階級に適用したからである。
展望は要求水準の心理的メカニズムに関連するが,「働き掛け」は自覚的なものだから,「再構造化」の意味は,戦後民主主義のもとでようやく労働者が生活の条件を変えうるものとして登場してきたという認識を意味しよう。生活の状態は生活・経済・政治の相互作用で決まるもので,生活の法則を認識した人間が生活主体としてそれらに「働き掛ける」という考え方につながろう。わが国も福祉国家になりうるという展望であった(しかしこの認識には異論もあるから主体性アプローチとは区別することが必要になるのである<マルクス主義の主体性アプローチは、資本主義を温存するものとして福祉国家を否定する。
ところが、マルクス主義なのにわが国に福祉国家を建設しよう、充実させようという考えもある。おそらく、資本主義の最終段階として福祉国家を見据え、その次の段階の社会主義への移行を夢見るのではないだろうか。こうなると、社会民主主義だけでなく保守主義もマルクス主義も福祉国家を唱えることになるので、まことに混乱の極みである。>)
また各種の非営利団体が機能を発揮し有効性を持つようになれば,経済や政治の組織の肥大化を抑制するひとつの対抗力となる。そこで「そのような対抗力によって組織の肥大化を抑制することが可能である」という仮説の検討が現実的になってくる。これは全体システムとサブシステムの関係として認識するシステム論を導入した自律性アプローチの課題である。ところがここに方法的に矛盾が生じる。所得水準の上昇は価値観の多様化,欲求の多様化をもたらすので,仮に生活部門の価値基準は「安定」だとしても,何を生活の安定と考えるか人々の意見が多様化し一致する保証はなくなってしまう。
再構造化で登場した生活主体は国民生活の改善を期待するが,しかし先進国の消費水準の上昇が「地球環境」や「資源」の問題にマイナスの影響を与えることも自覚せざるを得ないであろう。つまり多様化を乗り越えて,組織と欲求の肥大化をスリムにする役割もあろう。少なくとも物質的な豊かさに到達した社会の逆説ともみえる。確かに消費が充実した結果として欲求の高度化などの




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内面の発達を遂げたと考えるからこそ,従来の効率の基準に代わって,諸生活体系間の多様性の共存と機会の均等に関する制御の原則によって,資本の自己増殖欲求と生活の欲望充足体系<たとえばエネルギー多消費型の生活の見直し>を制御することに合意(20)することが期待できるのだと思う。
自律性アプローチがもっぱら貧困を対象とした「生活構造」から,生活法則を認識した生活主体を対象に据えた「生活体系」へと展開された意義をこのように理解してみたい。
<方法としては、自律性アプローチの生活構造は、家庭レベルの欲求充足によってその善し悪しを評価するものといえる。それに対して、生活体系というのはシステムのレベルにおいて善し悪しを評価することになる。だから、生活体系が安定性を重視するというとき、システムとしての安定性であり、たとえば少子化はシステムの不安定さを加速するものでマイナス要因といえよう。それに対して家庭レベルでは、少ない子供数というのはそれなりに合理性を持った選択といえるから、積極的にプラスといえるかもしれない。そこで、生活体系の課題としては、家庭レベルで合理的な選択が生活体系レベルでも安定性をもたらすことになるように、システムを設計するということが重要になるといえる。つまり、生活体系として展開することは、価値を前提にして、それを基準にした制度・政策の検討を重視することになると思われる。たとえば、少子高齢社会での社会保障と個人の満足の調整、負担と給付の調整などが考えられるが、新自由主義か社会民主主義かによって、異なった提案が出されることになる。主体性アプローチではこの問題は社会主義社会なら一挙に解決できると考え、現段階ではシステムのレベルでの評価は行おうとはしないと思われる。>
<主体性アプローチも自律性アプローチも主体性を高めるという点では共通している。しかし、先のマルクス・エンゲルスの欲望論にしたがうかぎり主体性アプローチには欲望を制御するという発想はなじまないのである。それに対して、自律性アプローチは環境や資源問題を認識し、場合によっては経済活動を抑制し消費生活を抑制する必要性を認める。そこが二つのアプローチの違いである。>
<生活構造に代わって生活体系という発想に転換するということは、個々の生活者の欲求や満足を最大化することが好ましいという19世紀のマルクスやエンゲルの発想をやめることである。マルクス・エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』(1846)のなかで、欲望を抑圧により制限するのではなく、「欲望そのものによってのみ制限される欲望の満足」をめざすと述べていた。また、エンゲルはこう述べている。「各々の個人は、彼が人間性から直接に生起する彼の欲望を不断に充足し、これを益々拡大し、彼のより高尚な、より遠大な欲望を充足するためにも必要な手段を調達しうることにすることに最高の関心をおく。このことが一国家の住民にとって可能なその状態が国民の福祉であり、このような可能性の範囲がすべての住民のために拡大されればされるだけ、国民の福祉はいよいよ大きくなるのである (ロシアのヨセフ・ラング教授の1811年からの引用)」(エルンスト・エンゲル『ベルギー労働者家族の生活費』1895、訳書p.15)「それゆえに生活欲望の充足される度合いが、国民の福祉を決定するのである。」(p.16) それに対して、生活体系という発想に転換するということは、第一に家庭生活のパターンは人間関係や近隣などの生活環境、また社会福祉や社会保障などの政策、生態学的環境や地球環境に影響を与えるという視点を取り入れ、第2に、単に家族の欲求充足最大化ではなく、生活の再生産という機能、あるいは生活の好ましさなど生活の質や福祉という価値などを高めることが望ましいと考えることである。そして環境などを取り入れて生活を評価するならば、資源やエネルギーの消費を抑制することが望ましいという場合もでてくるのである。生活体系論はそれを自覚し、自律的に消費を制御することを考えるのである。>
<生活体系論が消費抑制などを自律的に決められる生活者という見方だとしても、同時に、生活安定にも努力する存在としてもみている。たとえば、北欧で産業や経済では市場原理というか競争原理を適用して、競争力のなくなった企業が倒産するのは容認する。そのかわり従業員には生活保障を行い、競争力のある産業分野への転職をサポートする。逆に、社長は会社を倒産させても、従業員が路頭に迷うことがないので、無理な延命策を採らずに廃業できるのである。このような社会保障を作り上げた政治と大きく関わることである。このシステムなら、個別の企業の努力の及ばないことが可能になっているし、個人の努力ではできないことができるようになった。このようにみることは経済、政治、生活の相互依存関係を一つのシステムとみたものである。これは経済体制とか社会体制と呼ばれるかもしれないが、生活体系といってもよいものだと思う。公的な活動や制度を活用することで、民間だけではできないような生活安定をもたらしている。エスピン=アンデルセンが福祉レジームと呼んだものである。欲求とは違うシステムのレベルで評価すれば、生活者は高負担に耐えて少ない可処分所得を受け入れ、さらに、転職の努力を求められている。これが、高福祉高負担や市場競争という政治や経済と整合的になるように求められた生活のあり方である。これが自由主義レジームならば、転職の努力は自己責任とされ教育費負担が求められる。その代わり税金は安く個人の裁量的な消費が可能である。新自由主義者は、北欧のような政府、国家が生活システムに関与することは悪いことだと信じている。そんなことができるほど政府、国家は賢明ではないし、なによりも、国民を信頼せずその判断や努力を馬鹿にしていることになる、というのである。個人が寄り集まったら、前よりもよくなるなどということは信用しないのである。おそらく、自由主義と社会民主主義では、生活の、あるいは生活システムの分析が共有されなければならないと思われる。>





4.媒介論アプローチ

(1) 産業化,社会変動と幸福の間

家族の社会集団参加や生活習慣などの観察されうる生活パターンを「生活構造」と呼ぶアプローチを媒介論アプローチと呼ぶことにしよう。生活パターンは人々の裁量的なものというだけでなく,人々が適応すべき環境としての社会に拘束された結果でもある。そこで,裁量的な面と拘束的な面との両面から構成された一つの全体として生活パターンは生活構造とよばれる。
ここでの生活構造は,社会的条件と基本的欲求の充足や家族の機能とが安定した関係となった生活パターンとして位置づけてみたい。ちょうど,新行動主義心理学のS--O--R図式のOに当たる位置を占め結果的にSとRの結合を果たしているとも言える。ただしOは構成概念であるから,それは操作的な定義によって観察可能な媒介変数に直すことが必要である。それに対してここでの生活構造は観察可能なものを整理した生活パターンである(生活パターンの中に操作的に定義されて用いられるものもあろうが)。こうみると媒介論アプローチの生活構造は,均衡論的性格をもっているように見えるが元来,生活は矛盾に満ちていて,生活の平穏と刺激を同時に求めたり,理想に走るとゆとりがなくなったり暮らしが成り立たなくなったりする。また社会的条件と主体的条件(21)がうまく対応してニーズが充足されるとは限らず「あちらを立てればこちらが立たず」というトレード・オフの関係にあふれているとも言える。したがって,



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ここで「安定した関係」とは内に葛藤を含むもので,その家族なりに矛盾を止揚した結果としての生活パターンであり生活形態であると言えよう。
このように考えた生活構造は,社会変動と切り離せない。核家族化,都市化,被用者化などの社会変動はマクロ次元での変化であると同時に個々人や家族の生活パターンや社会移動でもある。産業化にともなう社会変動の下で揺れる家族の生活,地域での生活が一人一人ちがい,そのために影響の受け方が違う。そこでこれを,生活類型ごとの適応の仕方の違いだとみなし,その類型の違いを生活構造の違いとして理解しようとすることになるのではないか。
先の本質論アプローチはいずれも生活構造という概念に先立って経済学により資本主義という歴史とかかわりを持った説明があり,その上で生活構造概念を必要とした。それに対してここの媒介論アプローチは生活構造に先立って,産業化や社会変動という歴史にかかわる理論によって生活パターンの変化を説明することができる。その上で,新しい生活の様式に期待された民主化,近代化の要素と,実際の生活に残る前近代的な要素との矛盾,あるいはなぜ相矛盾したものが一つの全体を構成するようになったのか,なぜ前近代的なものを変えられないのかなどを分析し,個人の幸福の条件との関連を分析するために多様な生活類型に整理した生活構造の分析枠組が必要になるのだと思う。
ここでの例として次の3モデルのほか前章の青井モデルや松原モデルを挙げたい。

(2) 生活構造

a)篭山モデル
労働・余暇・休養のエネルギー消費と補給のバランスを満たすことが生活には必要である(生活構造とはいっていない)。それは生活時間配分となって現われる。労働時間や残業などの社会的条件が組み合わさって時間配分の枠組となるが,単なる拘束や制約とは違って,生活を支えるのに一番役に立っている労働が実は合理的な生活時間配分を妨げることがある,と言うことを表現するために「枠組み」とか「生活構造」と呼ばれるのであろう。労働者にとって不利



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益な場合にすぐ関係を断つことができるなら,わざわざ生活構造などと言わなくてもよいはずである。ここでは依存性が強調されている。

b)倉沢モデル
戦後,都市化が大いに進展したが,都市の生活様式を支えるのは都市人口の再生産や単なる出稼ぎ的な離農者の一時的な生活の仕方によるものでもなく,都市生活がもたらすパーソナリティが形成された結果である。都市の構造面の変化に対応するパーソナリティの変化を説明するには,媒介項が必要であるとし,それは,産業構造・技術の変化→地域社会における社会階層や集団の変化→地域社会における職業等の集団参加の総体(生活構造)の変化→個人レベルの変化(社会から見れば社会構造,個人から見れば生活構造の変化)→個人のパーソナリティの変化,という図式で表わされる。

c)森岡モデル
戦後の家族変動のもとで,家族機能の変化と生活構造を関連づけたと思われる。家庭での生活は欲求を安定的に効率よく充足すると思われた生活様式がパターン化される。これを生活構造と呼ぶ。欲求充足は社会的行為として行われるが,それは成員・規範・装置・目標から構成される。それらは具体的に存在する要素や意識の集まりであるが,単に寄せ集まっただけではなく,それぞれの要素が相互に依存してその姿を決めている。この生活構造は成員を中心にしてみると役割体系,装置を中心に見ると消費体系,規範を中心に見ると習慣体系となる。労働・余暇・休養の時間的ずれが循環を構成する。このモデルで,欲求をうまく充足すると思われた生活様式というのは,先に述べたように,内には家族員の葛藤を含んだもの(例えば家族周期段階の移行が順調でも新しい発達課題に直面するとか,家庭内外の役割期待の不調和をかかえている)と解すべきものであろう。
<生活構造という発想には、生活の中には、生活構造→行動という場面もあり、人々の行動は必ずしも自覚的な選択行動とはいえない、ということがある。つまり、消費者行動論では扱わない場面を取り上げる。ところが、森岡モデルでは、意識→行動→生活構造という文脈である。この場合に、生活構造→行動の文脈でみる場合には、生活構造は個々人ごとに異なり、行動の環境条件として位置づけ、結果としての行動は、主体的に選択されたもの、それが生活構造と整合的に解釈がされるのではないかと思われる。>
<まずは、家族周期段階の違いに応じた生活構造の違いに注目する。段階ごとに合理的な生活パターンがつくられていく。その合理性は三体系の整合性ではないだろうか。あるいは、生活者の生活指向の強調すれば、三体系のパターンはライフスタイルといいうると思う。そして、周期段階の移行という動的な視点からは、段階移行に伴う生活構造の変化という整理ができよう。その際に、周期段階をまたぐライフスタイルの一貫性に注目されると思われる。レジャー重視のライフスタイルが、夫婦のみの段階、子供が乳幼児の段階、成長した段階と変わるに従ってレジャー重視の内容が違ってこよう。さらに、三世代同居世帯の生活構造と核家族世帯の生活構造のちがいが、近代化に伴う生活の変化として整理されるのではないか。たとえば、主婦の家事労働の軽減のための耐久消費財の購入、お彼岸お盆の先祖祭祀、育児方法など。>

(3)家庭生活の福祉水準

a)ニーズの普遍性,多様性
森岡氏によるニーズと機能の使い方を見てみよう。「夫婦・親子・きょうだい



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など少数の近親者を主要な構成員とし,成員相互の深い感情的係わりあいで結ばれた,第一次的な福祉志向の集団である」という家族の定義(22)や家族の福祉追求の機能の内容(家族の保健欲求,経済的安定欲求、情緒的反応欲求)などでの使い方を借用すれば,家族の生活の福祉とは,家族のニーズ充足への効果ということができよう(23)。
家庭内外にまたがるニーズを扱ったものとして岡村氏の社会生活の7つの基本的要求(経済的,職業的,教育的,健康的,家族安定的,文化娯楽,社会的協同),あるいは一番ケ瀬氏の日常生活の3つの要求(基礎的,社会的,文化的)もある。また様々な欲求に関して,心理学者マスロウは一般的な欲求それ自体の発達を主張していた(24)。以上の3つは誰もが持っていると思われる普遍的なニーズを想定して整理したものである。それに対して社会学者パーソンズは社会的行為を検討して,普遍的な欲求とはべつの,社会性,集団成員性など社会関係への習得的な要求性向を取り上げた(25)。
生活している個人の内面ではニーズが相互に関連し合い,ひとつの欲求が充足されると別の欲求を強めたり,逆に弱めることもある。また一つの欲求が充足できないときほかの欲求を強く感じるということもあろう。また,社会生活の中では,欲求や役割の内面化には個人的な強弱があり,ニーズの優先順位が個々人で違っている。これが要求性向であり,個人の内面にあって社会成員の行動の類似性をもたらす契機となる。
<社会生活の中で、個々の個人や世帯の>習慣形成は<個人間、世帯間の>生活の相違を広げ,デモンストレーション効果は逆に<個人間、世帯間の>類似性を高めるという。むろん十人十色を前提にした民主主義の理論では,欲求の類似性には依存せず理性的討論による合意形成が条件とされ,個性と合意の両立を目指すのであろう。しかし理性的討論の習慣がなく,生活体験の交流も乏しいために相互理解が困難な地域社会の場合には,住民が受益者と負担者の利害対立であおられ,むしろ「理性的」に合意が困難になるおそれがある。

b)家庭生活の福祉水準
そこで生活類型による要求傾向のばらつきとは逆に,栄養学,経済学,生理学、社会学ほかの経験科学の成果を参照して,だれもがもっている基本的と思



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われる普遍的なニーズを取り上げ,その充足されるべき基準を設定することが考えられる(26)。
その一方で社会生活の相互依存関係の中で,人々の嗜好や生活様式が似通ってきて,成員の類似性が高まる面もある。耐久消費財の保有,家族旅行海外旅行ほか余暇の過ごし方など,いろいろあるが普及率が高い場合には実態として,集団や階層,地域などの代表的な要求傾向としてまとめることができる。ただ実際にそれらが人間性の完成にとり必要なものか,企業の広告宣伝によって煽られたものかという問題は残ろう(27)。
また育児,介護,学習などで生活の社会化(28)に抵抗感がなくなると,これも代表的な生活要求となるが,これはもはや「ニーズ」や傾向というよりも成員の「ものの考え方」,生活形態とみなされるかもしれない。自助努力、自己責任の世界を見限る人もでてくる。仮に,それに同調しないと取り残されたような感じをもたされたり,従属すべき規範のように感じられるようになると,それらのサービスを「利用」してでも家族の安定や自己実現をはかることが一つの「生活標準」となったと言うことができよう。ある程度,努力しても生活標準に到達できないとき,相対的価値剥奪感(実際の生活では支障がなく,客観的には他者から攻撃されていないのに自分をみじめと思うとか,自分が損をさせられたという感じ)を持つことになる。
このようにニーズや要求を考えると,媒介論アプローチでは,人々の生活構造,生活パターンの評価をニーズの充足つまり「家庭生活の福祉水準」で行い,これが生活の機能ということができる。つまり「家庭生活の福祉水準」を高めるのが生活の機能といえよう(生命・精神・物質・組織の再生産と言う松原氏による生活の機能の規定は,ここの福祉水準と同じと言えないにしてもニーズの内容を別の面からみたものといえる)。
<生活を考えるときに、個人のレベルで欲求、ニーズを取り上げ、また、一つのまとまり、システムとみて機能を取り上げるということがあり、このような二つのとらえ方がある。生活では様々な欲求を同時に満たすことも求められるが、資源に限りがあるから欲求に優先順位をつけ、ある欲求はその充足を遅らせることもある。しかしそれでも、生活として持続できているというようなことを考えると、個人や個別の手段の羅列、寄せ集めを越えた全体のまとまりとみなすという発想が出てくる。そのときには欲求ではなく機能という見方になる。エンゲルは欲求充足の度合いで福祉の水準を考え、森岡氏も家族を福祉追求の集団とみたとき家族成員の欲求充足が念頭にあった。だが、家庭生活の福祉水準は、必ずしも個人の欲求充足だけで測れるものではないと思う。松原氏のようにシステム、機能のレベルで生活構造を考えるとき、生活の目的としての福祉は欲求とは別のレベルを含むと思われる。たとえば社会保険は保険料を拠出しているときには可処分所得を減らすから欲求にとってはマイナスであり、保険料は安いほど好ましいというのが欲求レベルのとらえ方である。しかし、医療や介護の給付を受けるときには、安上がりですむのだから欲求にとってプラスである。そして、システムのレベルでは、自由主義の価値を前提にすれば社会保険の規模は小さいほど好ましいが、社会民主主義の価値を前提にすればある程度の負担で生活安定の機能を持つのは好ましいことである。だから、価値前提に応じて判断が食い違うため一義的に福祉水準を高めるといえるかどうかは決まらないが、生活構造の一つの評価にはなる。>
<父は大会社の部長、母は大卒、子供は有名校と、端から見れば何の問題もないが、実は子供による家庭内暴力があるとか、夫婦がけんかばかりしていることもある。これを家族の欲求という面だけではなく、親子の関係、夫婦の関係といった、集団成員の順調な役割遂行というレベルからみることが出てくる。これは成員の構造といってもよいわけであるが、同時に森岡の役割体系という見方もできるのである。両者の違いはおそらく、前者は記述的なものであり構造が持続するか解体するかは観察を続けなければ何もいえない。それに対して、体系だという後者は、その構造には構造を持続させる要素が含まれているという見方であろう。夫婦が葛藤を含みながらも持続しているとき、構造という見方だと構成要素の一つに持続の作用するものと逆崩壊に方向付けるものがある、どちらが強いかは後にならないとわからない。体系の場合には、解体させる要素が強まればそれに応じて持続させる要素が働くという前提ではないのか、だから環境からの圧力なども重要である。>
したがって生活構造の媒介論アプローチは,経済や政治を与件としたときに,生活パターンの違いが家庭生活の福祉水準に与える影響を分析するものと言うこともできる。その場合に普遍的なニーズのほかに,生活パターンの違いに応じたニーズがある。必要ではあるが充足されていてニーズとして顕在化しない場合もあろう。ここから生活パターンと家庭生活の福祉の水準の比較作業が出



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てこよう。例えば類似した世帯でも住宅事情,健康,子供の家族との関係,友人知人との関係,地域等が違えば画一的な基準で福祉水準を比較するのも難しくなる。そこで,生活類型別にみた生活構造は社会的条件と基本的なニーズの充足の安定した関係を含んだ生活パターンであると解してみたい。ただしこの生活構造のもとでの福祉水準がベストであるというわけではない。生活の中には,このほかにも繰り返される生活パターンはあるが,それらの生活パターンは生活類型別生活構造に規定されていると考えておきたい。
そして経済的にある程度の水準に達すれば,あとは家庭の事情や生きる目当てに応じて生活パターンが違ってきたり,顕在化するニーズに違いが出てくるのは止むを得ない。問題となるのは重要なことが満たされない場合に,それが原因で,あるいはそれを無理して充足しようとするために,日々の生活パターンが好ましくない状態になっている場合であろう。たとえば趣味のサークルに参加してみたいがねたきりの配偶者がいて手が離せないために行くのをがまんしているとか,もう少し体を動かさなければいけないと思うが眼が不自由であまり外出しないので体調がおもわしくないという場合もあろう。反対に外出も難しく楽しみもなかったが,ボランティアが日本文学の朗読をしに訪問するようになってから毎日の生活に張りが出てきて食も進むようになったとか,主婦を対象にした講習会があっても幼児がいて行けなかったが,託児サービス付になり行けるようになった,というように生活構造に応じてニーズが異なるから,ニーズに応じた援助が個別的に違うことも当然になる。



このようにニーズに応じた支援がますます多様になってきている。最近は,将来の労働力不足にそなえて女性の就労と育児の両立,家族者介護などの援助が認められてきたが,社会的なサービスの利用による「家庭生活の福祉水準」の向上低下,社会的メリット(福祉職増加,単身世帯生活の支援など),デメリット(ますます接触時間減少で家族関係が希薄化する。それを補うための団らん時間と休養の両立が課題になる),サービスの供給組織(公的・商業的・非営利組織的供給)の特質の比較などが生活構造論の研究課題になろう。
森岡氏は家族の生活構造を検討して家族の自助的努力に任せられるのは情緒



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的介助しか望めないという政策的な判断をしている(29)。いわゆる福祉見直しでは,家族機能の変化を根拠にして,それまでの低所得世帯を対象としたものからその制限をなくした普遍主義的な福祉サービスの必要性を主張し,その実現によって家庭生活の福祉水準を向上させるという議論がある。

(4)政治,経済と生活

政治や経済を与件とするといってもどのような要因をどのようなデータで取り上げるのかという問題を考えると曖昧な点が多い。そして媒介項としての生活構造が影響を及ぼした家庭生活の福祉水準はどのようなものか考えてみたい。

a)高度経済成長と生活
高度経済成長によって今まで欲しくても買えなかった物が買えるようになったとか,上の子はすぐ就職したが下の子は進学させることができたとか,冬の暖房がよくなり高齢者も楽になったとか,生活の向上もあったが,ここではむしろ反省点,問題点の例をみてみよう。
高度経済成長期前後から人口の大都市集中,農村過疎などが顕著になり,問題が指摘され始めた。特に核家族化の進展,家族や家庭生活を取り巻く第一次集団(家庭,近隣,遊び仲間,学校等)の弱体化や近隣関係の希薄化などが指摘されたが,これらは社会変動でもあり同時に生活のパターンの変化でもあった。地域や家族制度は,戦前戦中には町内会や市町村が政府の指示で住民を動員したり抑えつける行政の末端だったとか,また家族制度は家父長制や男尊女卑により家族の人間的な関係を歪めて,いずれも非民主的だといわれた。それに対して戦後の都市に移動した人々はしきたりにとらわれない地域社会を構成するとか,核家族化は男尊女卑やあととり優先を否定するものでいずれも民主化に寄与するものと期待された。
しかし現実は単なる地域共同生活の崩壊,利己主義,公共道徳の頽廃だという見方があった。勤め人が子供に残してやれるものは学歴しかないから,進学競争に子供を勝たせることが親の務めと思い,子供には学力で将来が決まると




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教えた。大人たちは,仕事のないときも職場や地元の団体のメンバーと一緒に過ごすならいいが,自分だけでの息抜きはつきあいが悪い奴とされた。そこに自分の居場所が見つからなかったり趣味を持ちにくい大人は,「文化的」で「皆が利用している」新聞やTVや週刊誌などのマスコミの中から一番わかりやすい話題を仕入れては,息抜きでしかも自分らしい選択ができる世界を持っていると思いたかった。さらに大人の享楽の情報に子供も接触し感染し始めたようだった。優しさは仲間内に限り,外の集団との戦いの中に自己表現があるという半集団主義の物語ばかりが子供に与えられた。大人も子供も自分とは違った個性との交流には安らぎを見つけるのが難しくなった。
そして社会科学では,コミュニティ論や都市化,過密・過疎問題,地域開発,地域共同体の弱体化などが切実な研究課題にされた。大都市は情報・行政の集積のメリットがあるのでますます過密化し,周辺には通勤する労働者の住宅が急増した。その際,地主や開発者の利益や供給確保のため規制も弱く,遠・狭・高の乱開発,スプロール現象が目立った。保育所がないから母親が就労もできず一日家にいるとか,老親との同居も難しいという生活問題の再生産だけは相変わらずだった。また企業の終身雇用と賃金と福利厚生にたよって生活し,企業の成長が生活向上につながることを信じ,また時間もなかった勤労者は,子供の教育以外は居住地域のことになかなか関心を持ちにくかった。
地方と大都市との所得格差を解消することは大きな政治課題であった。そこで大資本が過密の大都市を避けて地方で生産するのに都合がよいように,国も自治体も道路・工業用水・港湾・電力等を地域開発計画等の政策によって支援し,地元の多くの産業から人材が吸収された。また地方分権の要求にも対応してその政策が推進された。しかし結果的には,地方でも地域の共同生活が崩壊したといわれる。
それにもかかわらず,町内会や婦人会,青年団,老人クラブ等の活動ではボスがいて何か押し付けられるだけではと疑う人や,参加しない人や,まったく無関心の人や,動員されて参加するだけの人などが多かったともいわれる。しかし最近は労働組合活動の経験を持った人々が加入しはじめ,以前とは違って



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民主的な運営や活動が始まったところもあるようだ。
地方では人口流出や高齢化も進み,家で介護してもらえない老人の入院が増えた。また地域に適した新しい試みをしようとする人は,地域振興対策が補助金にたよる農業を温存していると批判する。食糧自給率の低下は,アメリカの圧力と工業資本の利害によって海外からの農産物輸入を増やした結果であり,これが日本の農業と農村を解体させ,農業の環境保全機能も低下させたと批判されることもある。

b)共同体の弱体化と地域福祉強化
こうみると,「資本優先の経済成長で地域社会が弱体化したため児童や老人の問題が大きくなった。だからこれからは地域福祉が重要になる」「だから地域の住民・団体等が福祉の担い手になることが必要だ」という考え方はもともと無理がある。<むしろ、社会福祉業界全体でノーマライゼーションという理念を重視するので、地域福祉が重視されるようになってきたといえる。>したがって地域福祉には地域社会を新たに造成する程の幅広いプログラムを含めるべきであろう。
また,住民に対する福祉思想普及対策,福祉教育が重要だという意見もあるが,それは地域の人々がもともと内面にもっている福祉の心をどうやって活かすかを考えようとするものであろう。以前から福祉が重要と言われながら対応できなかった政治が福祉教育を言いだすと,国民は福祉の心を持ちなさい,もっと周りの人を大切にしなさいというように,一方的な訓示になりかねない。政治や企業には依然として,産業優先政策が地域社会の弱体化を促進し生活問題の自助的な解決を難しくした面があるという認識が弱いかもしれない。福祉をいうなら,効率や産業が住民の生活と安全に貢献しそして住民の福祉の心を活かせる活動に役立つという道筋をつけてはじめて計画となりうるのではないだろうか。
しかし政策的には,福祉思想の普及,地域福祉充実策と同時に「地域福祉の基盤整備」が行政課題とされる。民間資金の導入,その活用による民間非営利団体活動の支援,企業の設備の提供の協力などのうえにボランティア活動の促進などが展望されている。ただこの領域では中心は民間団体や企業で,行政はあくまで黒子になるべきという意見も強い。




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c)市町村化と女性就労化による福祉意識の変化
最近の社会福祉では,市町村が地域を担当するが,女性の就労は地域を超え家庭と職場の連結を要請しているようである。特にサービスは市町村に任され,利用者と非利用者のバランスのため有料化が推進されるようになってきた。また女性には,自分達に介護の責任を押しつけられるが自分の介護は家族にやってもらえないことがはっきりしてきた。また自立就労のための保育サービスも不足していて,高齢者福祉や保育所が切実のものとなり利害関係が明確に意識されてきた。他方で,配偶者控除で所得税負担を免れるためには職場では半端な仕事にならざるを得ないというあいまいな立場に追い込まれていると感じ始め,社会福祉を利用した生活のあり方を探り始めたようである。
このような背景のもとで,福祉の意識は「生活の社会化」の受容の方向といえるが,かつての弱者を支える福祉の心とは違っている。従来から強調されていた権利としての社会福祉が今ようやく別の形でその実現を迫られている。やがて夫の「強制された」自立も福祉の課題となろう。

(5)「生活構造」から「生活様式の選別」へ
 <たとえば、A地域の生活構造を調査しようというとき、他律性アプローチであれば、住民が勤務している企業や役所または商店や農業によって、生活がどのように規定されているかというところに主眼がいくのではないだろうか。自律性アプローチであれば、生活の中で家庭や地域について問題だと感じていることや改善できたらいいと思っていることを調べて、それらを解決していくために可能となる行動、活動など将来展望を聞いてみる、などが考えられる。ところが、実際の調査となれば、おそらく、媒介論アプローチが列挙している項目を調査することになろう。だから、生活構造の調査といえば、まずは似通った項目について吟味することになるのである。そこから、生活構造を調査するということは生活パターンを調査することだという、見解がでてくることは大いにあり得ることである。>
媒介論アプローチは,それぞれの生活類型の生活構造が家庭生活の福祉水準を高めるかどうかを評価するという面があった。いわば経済学でいう生産可能性曲線の選択でフロンティアは開かれていたという状況であろう。
ところが今日,少なくともわれわれが直面している一つの条件は環境・資源制約である。これはよほどの技術革新がない限りエネルギー消費を今よりも減らすことを要請している。またもう一つの制約条件は世界的な人口増加である。これは食糧品の国際価格の上昇につながるが,そうなると今は農産物を海外から輸入するのが経済合理的であるが,将来は輸入よりも自給することが国際的な要請になる可能性もある。
将来の生活構造は福祉水準を達成しながら,これらの制約条件を機能要件として解決しなければならないと思う。採用すべき,かつ採用しうる生活構造を示すことは媒介論アプローチのみがよくなしうる課題ではないだろうか。<生活構造の変化を知るためとか生活構造の改善のために生活構造を考えるというときには、媒介論アプローチがふさわしいといえる。>


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5.むすびにかえて

社会階層ごとに,あるいはライフコースの似通った集団ごとに生活のニーズや機能遂行が類似すると思われるので,生活類型として捉えることもある。これは,低所得層なら生活安定に必要な条件が比較的に共通しているが,所得水準が高くなるとそれらは多様化するという傾向に関連するが,人々の社会的合意形成の基盤があるのだろうか。<国際比較では、国民所得が高い国は、社会保障の規模が大きくなる国とアメリカのように社会保障の規模が小さい国がある。わが国の国民は公的サービスを求めるのか自助努力の社会を求めるのかという問題である。>また資源利用や消費水準の制御は国際的な問題であるから,南も北も含んで諸生活体系の合意を要する問題と言ったほうがよい。<資源やエネルギー消費で先進国は経済成長を抑制しようというかもしれないが、発展途上国はこれから経済成長させろというかもしれない。>このようにむしろ分裂が目立つ世界で,自律性アプローチは福祉や生活の政策,社会的な支援について民主的に自発的な合意に達するかどうかを検証することが迫られている。<高福祉高負担でいくのか低福祉低負担でいくのか、システムとしていずれも成り立ちうると思われるが、理論的な判断を下せるか。>質素な文化や生活が破壊されて貧困に陥ることのない手だても求められよう。
しかしこの問題を生活主体の次元に議論を移して,世帯分類をして差異を比較するという作業にしてしまうならば,<システムとしてどうかを考えるのではなく、成員の意識を反映させようとするというのは、システム的な見方、つまり、合成の誤謬などを考えなくなってしまい、>ことさら現象の背後とか法則とか類としての普遍性を持ち出すこともなくなり,自律性アプローチは媒介論アプローチに限りなく接近することになろう。
それに対して主体性アプローチの場合,窮乏化にもかかわらず労働者が社会変革の主体として成長し登場するには,劣悪な生活環境でも破壊されない理性や,生産組織や住民組織での活動訓練を保つことが前提となろう。現状を窮乏化の結果であるとみる以上,<現実は貧困だというのに、質素な生活などという>内面の欲求の高度化などは一部の高所得者の例外に過ぎないとみなし,当分は理性的に経済の成長可能性を追及し続ける人間像であろう。それは少なくとも「生活過程」においては一般国民が必要とする一層多くの消費ができる方途を探るものであろう。
媒介論アプローチの強みは,生活構造についてア・プリオリに本質や法則性を予想しないことだと思う。いま,社会福祉サービスの選択的利用と世帯属性との間に大まかな関連を見い出したとしよう。そして行動に現われた利用者の選択と,「選好」つまり当事者の自覚的ニードや利用意向とを区別することに



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すると,選択と選好が一致している保証はない。そこで高齢者等の選好を尊重すると,ぜひ選好に応じた世帯の分類も必要になる。しかし生活が意識を規定するという立場だと,意味があるのは態度測定の結果を生活構造の違いに応じて整理することであろう。<つまり、生活構造が意識を規定する。>それに対して,測定された意識というのは構成概念を操作的に定義したものだという立場では,仮に選好に応じて世帯を分類してもそれは単に一つの世帯分類にすぎず,選好が生活を規定しているというわけではない。そして分類指標が適切ならば,潜在的な利用予備軍の生活パターンを識別しうるものとなろう。<老人福祉施設の利用など福祉サービスの需要予測が可能かもしれない。>この作業は媒介論アプローチがよく為しうるが,自律性アプローチの実体概念を機能的にみればこちらでも可能だと思う。<自律性アプローチでは諸要因の複合を生活構造と呼ぶが、生活が成り立っているので、いくつかの生活類型に整理して、それぞれに整合的な意識としての利用選好を取り出せるかもしれない。>



(1)R.オウエン『社会制度論』(1827年),永井義雄訳,世界の名著,中央公論社,p.253,p.228。
(2)マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(1846年),古在由重訳,岩波文庫,pp.32-33。
(3) マルクス『経済学・哲学手稿』(1844年)大月書店,pp.102-。
(4) マルクス=エンゲルス前掲書,pp.113-,pp.183-186。
(5) エンゲルス『家族,私有財産および国家の起源』(1884年),大月書店,p.8。
(6)マルクス『資本論』(1867年),向坂逸郎訳,岩波文庫(2),p.159。労働日は1つの最大限度を有する。それはある限度以上には延長され得ない。この最大限度は、二重に規定されている。第1には,労働力の肉体的限界によって,休息,睡眠,食事,身を清め,着るなど,肉体的欲望を満たさねばならぬ。また精神的限界がある。労働者は精神的および社会的諸欲望を満たすための時間を必要とするが「これらの欲望の範囲と数とは,一般的な文化状態によって規定されている。」
(7)篠原三代平『経済学入門(下)』日本経済新聞社,1979年,pp.77-80。
(8)すでにウエッブの生活の社会化の思想を紹介したが,生活研究における例として江口英一と佐藤嘉夫を参照してみたい。(江口英一編著『生活分析から福祉へ』光生館,1987年)。人間はもともと社会的・歴史的な存在である。そこで教育,住宅,生活環境,交通,通信,医療,衛生などは生活の基盤であり,その社会における正常で合理的な内容で「社会がその責任において準備し供給する」生活の条件である。それが商品交換的な形で「社会化」されるとそれを購入せざるを得ないような強制力が働く(pp.60-)。そして福祉サービスでは「公的責任にもとづく社会的対応としての直接的『社会化』の方向は(故意に)
忘れ去られようとしている」(p.159)。


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(9)中鉢正美『現代日本の生活体系』ミネルヴァ書房,昭和50年,p.47。
(10)J・S・ミル『自由論』(1859年),塩尻公明・木村健康訳,岩波文庫,pp.116-120。
(11)J.S.ミル『功利主義論』(1861年),伊原吉之助訳,世界の思想,中央公論社,pp.493-。
(12)加藤尚武『環境倫理学のすすめ』丸善ライブラリー,平成3年,pp.186-。マルサスの提起した問題に対して,マルクスとミルの解答が比較されている。
(13)生活学は家庭生活において人間の労働力が個体的に世代的に再生産される過程を研究するが,人間生態学において労働生理学と社会心理学を統一する。人間生態学の課題は家庭生活の生物学的基礎構造との関連で環境変動の効果に関する法則性を追及するが,法則性を担う実体的な生活の場の分析を行い,場の構造と社会的意識の構造との対応を検討する。最も欠如しているのは家庭生活の構造分析つまり生活構造論である。生活構造論は家庭生活の実体的な場の類型を確定するものである(中鉢正美『家庭生活の構造』好学社,昭和28年,pp.90-)。
 社会と生命の境界領域に見い出される法則的知識を必要とする。エンゲル法則の履歴現象の存在は電場,磁場における履歴曲線,感覚心理学における図形残効,動物生態学における周期活動の履歴現象に至るまでの一貫した論理として,そこに一定のポテンシャルを担った実体を伴って構成されている「場」の実在することを立証する。現実の資料を検討するならば,この場の構成実体としての諸設備財は,次第に家庭内的耐久財の蓄積から社会的施設の利用へと転化していく傾向が認められる(同『生活構造論』好学社,昭和31年,pp.4-)。
(14)もしも経済は結果で生活が原因という整理ならば因果論アプローチというべきであるが,ここではもともと経済が生活の基盤だというところから出発したから因果論はとらない。逆に観察される生活パターンは多様なものなのに本質論アプローチというからには,普遍的な本質があるはずで,それが自然と人間との間に成立する法則ということになる。
(15)中鉢正美『現代日本の生活体系』ミネルヴァ書房,昭和50年,pp.185-。
(16)心理学の図形残効または履歴現象(aftereffect)。赤い色紙をしばらくながめた後,白い壁に目を向けると,うすい緑の像を見ることができる。これを色の残効という。また滝や,走る列車から見た風景のように,一定方向に運動する対象をじっと見ていて,突然その目を静止面に移すと,さきほどの運動方向とは反対方向への運動が知覚される。これを運動残効という。残効には二つの特徴がある。第1に,残効はつねに本来の運動,あるいは色と反対の性質を持っている。このことは二つのシステムの作用が互いに拮抗していることを示唆する。第2に,残効が生じるためには,拮抗する二つのシステムの一方への長い刺激作用が必要であるということである。これは一方のシステムが長い刺激作用の結果,疲労し,感度が低下することを示唆する(青木ほか『一般心理学』


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関東出版社,昭和60年,pp.33-)。

(17) 中鉢正美前掲書pp.210-。
(18) 中鉢正美前掲書p.48。
(19) 中鉢正美『家庭生活の構造』好学社,昭和28年,p.92。
(20) 中鉢正美『現代日本の生活体系』ミネルヴァ書房,昭和50年,pp.8-9。
(21)岡村重夫『社会福祉学(総論)』柴田書店,1956年。社会関係,主体的条件,客体的条件とその不調整が議論されている。
(22)森岡清美ほか『新しい家族社会学(三訂版)』培風館,1993年,p.3。
(23)森岡清美「家族の福祉機能と社会福祉」(望月嵩ほか『現代家族の福祉』培風館,昭和61年,pp.6-)。
(24)岡村重夫前掲書。一番ケ瀬康子『社会福祉とは何か』ミネルヴァ書房,1983年。マスロウ『人間性の心理学』(1954年),ダイヤモンド社。
(25)パーソンス=シルス編著『行為の総合理論をめざして』(1954年),永井道雄ほか訳,日本評論社,pp.181-一,p.319。
(26)都村敦子「ソーシャル・ニードを把握するいくつかのアプローチについて」(『季刊・社会保障研究』11,1,1976)。三浦文夫『増補改訂・社会福祉政策研究』全国社会福祉協議会,平成7年,pp.57-。
(27)階層,集団ごとに類似性があるということはわれわれにとっては普通のことだが,価値判断を最終的には個人に決めてもらうという個人主義から見ると,類似性があるという場合には,そこに何らかの強制力が働いているか,あるいは理性を喪失させる仕組が働いているのではないかという疑いを生むようである。
(28)生活の社会化は家族のニーズを家庭の外の資源を利用してみたすことを指す。もともとは(ア)公的な社会福祉事業や公営事業者によるサービスや(イ)生活協同組合など非営利組織によるサービスの利用を指していた。しかし(ウ)営利事業として提供されるが冠婚葬祭・家事代行・ベビーシッター・外食・弁当ほかのサービスの利用が普及してきたので,これらも生活の社会化に含めるという考え方もある(手作り,自家製ではないということ,お金で済ますという面が強調されることもある)。ここでは(ア)(イ)(ウ)の広い意味で用いる。
(29)森岡清美「家族の変化と社会保障」(社会保障研究所編『経済社会の変動と社会保障』東京大学出版会,1984年)。

岸 功『社会保障分析序説』白桃書房、1996年所収