幕末・明治維新略史

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中鉢生活構造論
中鉢正美の生活構造論

われわれの生活は、しきたりや習慣、世間体など社会的文化的な要因で規制される面がある。
 他方で、生理学(睡眠時間)や栄養学(必要カロリー)によって、生活にとって必要なものが客観的に明らかにされている。
 その両者をカバーした生活の「科学的な」研究分野があり得るのではないか、というところから中鉢正美の生活構造論は始まる。
 科学的というのは、法則を発見することと考えられるであろう。生活に係わる法則として、すでにエンゲル法則があった。エンゲルの第一法則は、家族の生活費は、まず、栄養を満たすために支出され、その後で、精神修養などのための支出が行われるというのである。前者は生物的な側面であり、後者は文化的な側面である。ところが、終戦直後の混乱期の家計調査のデータを子細にみると、法則が当てはまらない現象が発生していることが分かった。
 家計の収入が減っていくとき、家計は支出を切り詰めて収支のバランスを取ろうとするが、これは合理的な行動といえる。ところがある点まで支出を切り詰めたとき、収入がさらに減っても支出を切り詰めずに従来の水準を維持しようとすることが起こった(家計支出線が横ばいになる。エンゲル法則の停止)。当然赤字になるが、消費者行動の理論としては説明しにくいもので、貧困家庭の非合理的な行動と解釈されるのである。ところが、中鉢はこれを生活構造の抵抗による履歴現象であるといい、個々人の非合理的な行動という見方とは違った見方を示した。つまり、家族が世間の中で営んできた身分相応の生活、世間体を保つという努力の表れであると考えられる。
 法則があるということは、消費支出をもたらす生物的、心理的、文化的、社会的な諸要因・諸要素の間に一定の関係が成立していることを意味する。中鉢はそれを、生活構造と呼んだ。生活構造の一要因である所得の変化に応じて、生活構造の他の要因が変化し、結果的に消費支出の水準が変化するというのが、エンゲル法則の生活構造論的理解の第1である。ところが、その諸要因のまとまりは、所得という経済的要因の変化があっても、その変化に抵抗して従来のまとまりを維持することがある、その結果として収入の減少にも関わらず支出を維持する、というのが生活構造論の第2であり、これは生活構造の抵抗となる。(人々の行動がそのときそのときの判断、選択などで行われるという考え方があるが、構造という用語は、その考え方と違った考え方である。行動が意識とは別の、人々に意識されないものによって決まるという考えである)。
 生活構造の諸要因には社会的なもの、心理的なものを含めている。そして、諸要因が一つのまとまりを持っているということを表す言葉として心理学の「ゲシュタルト」を選んだ。今ならシステムというところであろう。それにもかかわらずゲシュタルトという心理学的な概念を選んだのは、心理学的な履歴効果after effectという概念を取り入れるために、心理学的概念でそろえたものだと考えられる。だから、そこだけをみると、中鉢生活構造論は心理学的なミクロの理論と見なされることがある。それに対して、生活構造論が貧困を取り扱っていることに注目すると経済学的な社会政策に含まれることになる。いずれにせよ、生活構造それ自体は定量的に実証されたものではなく、エンゲル法則の停止という現象によって傍証されるにとどまる。
 以上は実証的な問題である。ところが、収入が下がってきたときにこれ以上は家計の支出を切り詰められなくなる支出水準を、最低生活費と考えようという人々が出てくる。これが生活構造と貧困をつなげようという考え方となる。しかし、最低生活費というのはその社会、その時代の社会人の生活として最低限は必要だと考えられる生活費ではないだろうか。つまり、そこにはある種の社会的な望ましさ、社会的な価値判断という要素が入っていると思う。それに対して、生活構造の抵抗というのは実証的なものであり、仮に価値判断があるとすれば、家計の当事者の生活についての価値判断、生活態度はあるかもしれないが、それは社会的な価値判断とは区別されるべきではないか。
 それはそうだが、生活構造の存在は複数の家計について傍証されたものであり、また、家計支出が横ばいとなる水準はいずれも似通った水準であった。つまり、家計支出をそれ以上切り詰めにくくなる水準というのは、個々の家計ごとにバラバラではないのだから、その水準に「社会的なもの」という性質をみることも可能である。ここでの社会的なものというのは、個人に還元できないものという意味ではなく、皆が共有したものという意味での社会的である。ただ、それを低賃金労働者生活にとっての切り詰められない水準と解釈するか、無職の低所得者にとっての水準と解釈するかは意見が分かれるはずである。両方ひっくるめて、生活保護の最低生活費と結び付けられることになる。その理由の一つには、当時の生活保護受給者は、無職世帯と就業者のいる世帯が混在していたが、保護基準は一つだったから、ということも挙げられよう。

 のちに、生活体系と言い換えたのは、ゲシュタルトにかえてシステムといったものである。それは、経済、政治、生活の三者がサブシステムを構成して、それぞれの論理で独自の振る舞いをするという考え方から始まる。それらをたとえば「福祉」という基準から制御する上位のシステムが「生活体系」だと考えることができる。システムという発想は、個々の家庭が寄り集まってシステムを構成するが、単に個々の家庭の振る舞いからは導き出されないような現象が発生するという見方をするのである。よく知られているのが経済学の「合成の誤謬」である。景気が悪いときには、個々の家計が節約するがこれは合理的な行動である。ところが、皆が節約するので消費が減りものが売れなくなり、世間の景気はいっそう悪くなってしまう。つまり、ミクロ的には合理的でもマクロ的には好ましくない結果となるわけである。これは、アダム・スミスの「自由放任」の考え方とは逆の例となる。つまり、個々人にとって良いことをしていれば、自然に世間にとっても良い結果をもたらし、公的利益を増進する、だから、規制はする必要はないという「自由放任」の考えとは逆のものといえる。
 「経済」活動が盛んになれば所得も増えて「生活」が豊かになると思われる。ところが、それに伴って排気ガスや汚染などの問題が発生して生活が脅かされ、豊かさに疑問が出される。この場合には、「政治」によって生産活動に何らかの規制を加えることで、三者の調和を図ることが必要となり、その規制を正当化するというのが、システム的な解法である。その内実は生活主体による自律的な規制、調整といえよう。

 ちなみに、労働者はある程度の睡眠時間をとることが合理的である。だから、残業が続いたら睡眠時間は維持するはずと考えられた。ところが戦時中の調査では、会社の同僚との社交時間を維持し、睡眠時間が減らされたという結果が出た。このような生活時間の、労働、余暇、休養の配分は必ずしも合理的に行われるわけではない、というのが籠山京の生活構造論であった。

 このように見てみると両者の生活構造論には一つの共通点がある。中鉢は経済学、籠山は医学のご出身で、それぞれ合理的な人間行動というものを前提にして、ところが現実にはそうもいかないということを取り上げた。それは低所得者や賃金労働者が非合理的な人間だからそうなる、というのではなく、生活構造がそれをもたらすものであるといったのである。