幕末・明治維新略史

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岡村重夫講演1地域福祉
(紹介)
岡村講演その1
岡村重夫地域福祉の思想 
岡村重夫(大阪市立大学)

「地域福祉の思想」(『福祉かながわ』vol.3,1993)

はじめに

 ご紹介いただいた岡村でございます。本日は少々長丁場で11時までお話をしますが、テーマは地域福祉の思想です。
 実は地域福祉学会でも地域福祉の思想ということは、あまり研究発表する人がありません。私はその点非常に不満に思っておったんですけれども、この神奈川県から「地域福祉の思想」について話してほしいとたのまれて大変嬉しく思い、また同時に大変びっくりしました。
 と言うのは地域福祉の思想などをあまり考えない情勢の中で、地域福祉の思想という理論的な関心が神奈川県の中で相当あるんだなと嬉しく思っております。
 地域福祉の思想とは一体何だと言う事が必要なのかと、思われる人があるかもしれません。
 社会福祉というか地域福祉という制度の研究は非常に盛んであります。発表をみましても、制度をどうやっていくかというような事には非常に関心があるのですけれども思想は余り考えないのが一般の傾向です。制度と思想との関係で、ここで思想というのは指導原理といいますか、地域福祉の基本的原理という意味ぐらいに理解していただいたらよいと思います。
 そういう原理のようなことがなぜ必要かというと、英国にヤングハズバンドという有名な先生がおられまして,その先生の日本語版翻訳本が出ております。そのヤングハズバンド先生は50年ほど主として教育の場面におられ、それをふり返って英国ソーシャルワーク史という大きな本を書かれまして、50年間のご自分の体験を踏まえて歴史を書いておられます。
 その本の中で、こういう事を書いておられまして、わたくし大変感動したんです。最近の英国の社会福祉を見ておると、非常にシンドロムセンタードである。シンドロムというのは症候のことです。最近の英国の社会福祉はシンドロムセンタードになってきている。パーソンセンタードでなくなってしまっているという風なことを書いておられます。
 つまり現象としてあらわれた外面的な症候ばかり追いかけておって、その基本にありますパーソン=人間を中心においたサービスでなくなってきているという様な事を書かれております。
 そういう評価ができるのはなぜかと言うと,社会福祉は本来パーソンセンタードでなければならないのだと言う、そういう原理をもっておられるからこそ、単なる症候を追いかけている福祉では駄目ではないかと言う批判が出てくる訳なんです。
 社会福祉はいろんな型をとるけれども、中心のねらいは何なのか、ということを踏みはずしてしまったのでは、いわゆる見当はずれの福祉になってしまう。そういう意味で私は原理というものが非常に大事なんではないかとかねがね思っております。
 しかし、最近は皆さんの関心もなくなっています。日本でも昭和20年代、30年代の前半ぐらいまでは、社会福祉本質論というのが随分議論されました。
 今、若い人はほとんどご存知ないかも知れませんが、30年程前までは社会福祉の本質とは何なのか、そういう議論が現場でも行なわれていましたし、我々研究者の間でも随分議論された訳です。あまり大した結論はなかったかも知れんけれども、しかし、自分らのやっている毎日の仕事の中で、本当のねらいはなんなのか、ということをもっと深刻に考えるべきでしょう。
 社会福祉の本質は何なのか、そういうことをたえず考えながら毎日の仕事をするのと、全然そういうことを考えないで何か法律に書いてあるだけを読んで仕事をするのとは、違うと思うのです。
 そういう意味で、改めて、今のような地域福祉でいいのかと思っています。
 私は、地域福祉学会の会長をしばらくしていました。その時思ったんですが、地域福祉は在宅福祉だとすぐ考える、それは枝葉末節だ、それでは先程いいましたシンドロムになってしまう。地域福祉は単なる在宅福祉ではないんじゃないか、ということを学会のたびに言って、私は嫌われましたけれど、やはりそういう反省をすべきだと思っておりました。それで今日の話には喜んで出てきた訳なんです。

1.「地域福祉」の時代とは何か

1)社会福祉の発展段階
 まず,地域福祉の時代とは何か,ということですが、これは地域福祉の思想を考えていく手順、手続きとして、私はこのような方法をもって考えましたという方法論を申し上げます。
 私は歴史性、すなわち社会福祉の全体の発展の中で地域福祉というものを位置づけたい。
 社会福祉の発展段階というのはいろいろ議論がありますけれども私はこう考えています。
 社会福祉は古い時代から発展してきていますが、そういう歴史的発展を顧みて、その発展の中で地域福祉というのはどこにあるのか、位置するのかを考えてみたい訳でありまして、発展段階については、今日は詳しいことは省略いたしますけれども、だいたい歴史を勉強する場合に二つの方法があります。
 一つはいわゆる社会福祉発展史とか、社会事業史とかで大学でも講義しておるように一般社会の社会経済の状態がどのように社会福祉を規定しているかという方法、いわゆる社会福祉を外部から観察して、その歴史的発展を勉強するやり方が一つあります。
 私はそうではなく、社会福祉の発展を社会福祉の中から見ていきたいと思っております。というのは社会福祉というのは昔から発生の段階から,より合理的な生活問題の解決というものを目指して発展してきたという仮定をもっております。内在的発展段階とも言えるかと思います。
 そういうものとして発展をみます場合、自発的社会福祉、法律による社会福祉という2本立てで社会福祉は発展してきた訳ですけれども、今日は自発的社会福祉の方はあまり関係ないので省略しまして、法律に基づく社会福祉がどのように発展してきたのか、ということを,
 「救貧事業」→「保護事業」→「福祉国家」→「現代の社会福祉、即ち地域福祉」
というふうに発展をしてきたと私は見ている訳なんですが、その最後の段階が地域福祉だと考えたい。

①救貧事業とは
 このことをちょっと解説いたしますと、救貧事業というのは対象者の処遇原理、対象者をどのように扱うかという処遇原則から見まして、劣等処遇の原則で運用されているものと規定いたします。
 劣等処遇の原則は何かといいますと、救貧事業の救済を受ける者の生活水準は一般労働者の最下層の生活水準を上回ってはならないという処遇原則であります。
 なぜならば、同じような処遇をするならば、誰でも働かなくなって救貧事業の保護を求めるであろうと、そういう劣等処遇の原則によって運用されているものを救貧事業といいます。英国では1848年改正救貧法ではっきり規定されました。そこで劣等処遇の原則というのが出されています。
 日本では,英国の改正救貧法をモデルにして作られた昭和4年の救護法があります。救護法は21年まで続いた訳で、今の生活保護法の前身でありますけれど、その救護法はやはり劣等処遇の原則というものをはっきり打ち出している訳であります。
 具体的に申し上げますと、救護法では対象者を4つ規定している。それは「65才以上の老衰者」と書いてある。「老人」ではないのです。老衰者でなければいけない、「障害あるいは病気のために労務に従事することが出来ない者」といって「障害者」ではない。障害があり働くことの出来ない者、それから13才以下の子どもと妊産婦、これだけが対象者としてあり、それ以外は対象としない。
 では、どういう給付をしているのかというと3つあります。1.生活扶助 2.医療扶助 3.出産扶助です。このように非常に対象者の制限をする、沢山の人を救済しないということが第一となっているのが救護法の制度であります。それも昭和13年位の調査を見ますと、一般勤労者の生計調査と比較しますと、生活扶助額はだいたい38%ないしは40%です。
 もうひとつ大阪での昭和13年の要救護世帯調査というのがあります。要救護者とは現在は保護は受けていないけど何かあった時に即保護にかけなければならないという世帯です。東京では「方面所帯」という言葉を使っていました。その要救護世帯(一般の労働者で救済を受ける一歩手前の人)と、扶助世帯の人の生活水準を比較しますと、扶助世帯は7割?8割程度の生活と出ています。
 つまり,一般の救済を受けていない人たちとはっきり差をつけて、低い処遇をしなければならない。そのことによって救済に要する費用をなるべく節約をする。
 なぜならば救護というものは、そんなものをあまりやると怠け者をつくるのではないか、ということを議会でも質問されています。そういう救済に要する費用はなるべく節約する、こういう風なのが劣等処遇の原則であります。
 それで結果はどうであったか、それは見事に失敗した。例えば13才以下の児童を救済しますけど、生活扶助だけで、学校に行く費用なんかみない。文部省令、小学校令を見ますと、貧困又は疾病のために就学しあたわざる者は就学を免除すると書いてあります。
 貧乏であれば学校に行かなくてよろしいという、そういう二つの働き(学校へ行けるほどは扶助が出なかったことと 就学を免除されたこと?)がありまして、貧困者の家庭の子どもは学校に行かない。
 ですから大人になってからも自分の名前も書けない、電車の行先板も読めないというような人間を作ってしまったから、結局その救護世帯の子どもは大きくなっても、又親と同じように救護法の救済を受けなければならない。つまり貧困者の再生産をしていたにすぎない。
 障害者には一生、生活扶助だけを給付する、ということを繰りかえしてきて、救貧の予算は少なくなったけれども、結果としては、所期の目的であった救貧というものは、目的を達することは出来なかった。むしろ貧困者を再生産することにすぎなかったという、そういうのが救貧事業であります。

②保護事業とは
 そこで、そういう不合理な社会福祉を止めて新しい社会福祉に発展していく。それが保護事業であります。
 保護事業の処遇原則は、回復的処遇の原則といいます。回復的処遇の原則とは何かといいますと、貧困に陥った直接の原因を取り除くような処遇をするという原則でありまして、例えば障害のために労働することか出来ない、救貧事業で生活費だけを与えていたのでは、それはだめだという。いわゆるリハビリテーションの原則といいましょうか。
 生活扶助は提供しますけれど、それと並行して更生医療を給付する。更生医療が終われば生活機能訓練をする。生活機能訓練が終われば職業訓練をする。その次には就労へと行く。これが回復的処遇の原則であります。
 そのように貧困の直接的原因を取り除いて、貧困者を正常な国民に引き上げていくということが、保護事業の目的となった訳です。
 それが選別事業と言われるように社会的弱者に対する対策であって、一般国民とは無関係な訳です。それが保護事業の性格であった。ヨーロッパでいえば1930年代までそのようなことを行なっていた。
 日本はまだこの回復的処遇の原則をやっている訳なんですが、この回復的処遇の原則は一般の国民は関係ないんだ、弱い人、そういう人を対象にするのが保護事業の原則ですね。
 ところが,これは非常に評判が悪かった訳です。ことに第二次世界大戦の起こる頃から保護事業を止めるという声が各方面から上がってきます。なぜならば、保護を受けているということは、一般の国民より自分は劣っている弱者なんだと証明している訳ですね。だから皆嫌がる訳です。
 なるべく保護は受けたくないと、そういうことは,今の日本でも沢山あるんではありませんか。私はこのようなことを沢山経験しております。
 例えば私は大阪で里親運動、養子縁組のことを30年程前からやっておりますけれども、里親さんは児童相談所から手紙がくるのを嫌がります。児童相談所と書いてあるのを子どもに見せたくない、あるいは近所に知られたくない、もらい子だということが分かると嫌だ。そういうことがありましたから保護事業というのは嫌われます。
 それはなぜかというと選別処遇だからです。生活保護を受ける場合、ミーンズテストというのをやりますね。資産の状態はどうであるのか、収入はあるのか、というようなことを調査されて、いよいよどの法律でも救済することが出来ないから最後の手段として、生活保護をかけようということをやる訳です。だからこれは特に労働者の階級には非常に評判が悪い。
 もうひとつ保護事業の問題は、貧困に陥った直接の原因というものを非常に個人的原因に求める。例えば身体障害とか、精神障害とか、ところが実際の貧困問題は個人的な問題を原因にして起こる場合もありますが、それよりもはるかに大きく社会的原因によって貧困に陥るのだということが判ってきました。
 失業するとか,あるいは低賃金であるとか、そういうことを原因として貧困に陥る人の方がずっと多い訳ですね。 ところがそれに目をつぶって個人的原因にばかり注目して、ただ回復的処遇ばかりするということは、非常に不都合であるということがだんだん分かってまいりました。
 そこでこういう回復的処遇を原則とする保護事業は駄目だということになりまして、全国民を対象にする。しかも貧困に陥った社会的原因に対する対策を講ずるような社会福祉でないとだめだ。全国民を平等に対象とする普遍的処遇の原則と全国民が貧困に陥るのを予防する対策でないといけない。それが福祉国家と言われるものであります。

③福祉国家
 これは時代的に言いますと、第二次世界大戦の終わった1945年以降、保護事業を廃棄して、全国民が平等に対象にされるような制度を創っていかなくては駄目だ ということになりました。
 しかもそれに対して国が責任を負う。それが国家の存在理由だと言われて、1942年のベヴァリッヂレポートが出ました。ベヴァリッヂの報告が出てそれから英国の福祉国家というのがでてきました。
 日本でも社会保障制度審議会の答申は非常に不充分でありますけれども、生活の保障は全国民を対象にしてやらなければならない。医療保障の対象も全国民でなければならない。貧困者に対する対策だけでは不充分だというようなことが昭和25年の社会保障制度審議会で答申されている。
 日本も半分ぐらいはそういう福祉国家論の中に足をつっこんできたことになり、そういう方向で段々と発展してきた訳ですけれど、1970年位になりますと,この福祉国家に対する批判が起きてくる。
 その批判は系統的でないが、三つ書いておきました。
 つまり国家が国民の生活に対して責任を負うという訳で、つまり国民に対して最低生活の責任を直接的に負う。その為に膨大な法律が出来まして、単に所得保障だけでなく、英国の例で言えば五本の柱(①所得の保障 ②医療の保障 ③教育の保障 ④住宅の保障 ⑤雇用の保障?完全雇用制度)をベヴァリッヂは勧告をして実行した訳ですね。
 そういう非常に至れり尽せりの社会福祉なんですけれども、30年位たつとボロが出てくる。それは次の3点に要約できます。

2)福祉国家の限界
 まず第一のボロは官僚制の福祉ということです。
 官僚が全て権限をもって国民の生活を保障している。対象者が膨大ですから、仕事は非常に官僚的、事務的、機械的、標準的であり、つまり 人間の個別性を無視した、官僚が 国民の生活の権利を保障しているというような体制になってきた訳ですね。
 その批判としてロブソンの「福祉社会論」というのを掲げておきましたが、これは皆さん既に読まれたでしょうか。日本に何回も来られた先生ですが、『福祉国家と福祉社会』という翻訳本が出ています。これを一言で言いますと、福祉国家は出来たけれどもその基礎構造として福祉社会がなかった、だから権利の主張は皆やる。それに大きな団体や組織が沢山出来て、その組織が全てのことを取り仕切ってしまい、個人の発言なんかほとんど無視されてしまうという結果になった。
 例えば労働組合という、とても膨大な組織があって、それが自分の権利を主張する。他の組合も主張する。権利の主張は非常に盛んになった。
 しかし、個人の道徳的な責任とか義務とかを果たす社会制度がなくなってしまって何でも国が保障してくれる、その権利を主張すればそれでいいんだと言うことで、毎日毎日どこかでストライキをやっていない日はないという。
 町にはゴミが沢山溜まっているが取りにくる人がいない、停車場とか桟橋に行くとストライキの為に荷物が運び切れないでいっぱい滞荷している。そういう混乱があっちこっちに見られて、自分が生きてきた半世紀を省みてもこんなに混乱した社会はなかった,とロブソンさんは書いております。
 つまり簡単に言いますと、権利は主張するけれども義務や責任を実行する風潮はなくなってしまったというのです。ここでやるべき新しい事は福祉国家でなく福祉社会が大事なんだと書いています。
 第2に,福祉国家の限界論としては、パーソナル・ソーシャル・サービス、対人福祉サービス論と書いておきましたが、私はこの言葉嫌いなんですが、日本でパーソナル・ソーシャル・サービスを誰が対人福祉サービスと訳したのか知りませんが、いつの間にか普及してしまいました。
 原語は パーソナルという個別的なソーシャル・サービスが必要だという議論、つまり国家や官僚が法律に基づいて機械的にサービスを提供する、その結果個人のもっている特殊な条件が無視されてくる、それをなんとか取り扱うことが必要ではないかという議論が70年代から起こってまいります。
 それは国家がやるのでなくて、地方自治体がやるべき事だと言って法律がでます。その地方自治体の福祉は「対人福祉サービス」と言わないで個別的というか、個人的なサービスとして「第6の社会福祉サービス論」と書いておきました。
 というのは先に言いましたべヴァリッヂの五本の対策に追加した6番目のサービスなんだと?それはアメリカでもそう言われています。そういう事で、個別的サービスが抜けているではないかという批判であります。
 次に三番目に揚げましたのはシーボームレポートで、これも1976年に出されました報告書で、この報告の中で福祉国家のようなやり方は非常にきめが荒すぎる、もっと地域社会を対象とした あるいは地域社会を主体にしたようなサービス、国家が主体になるのではなくて、コミュニティ、地域社会が主体となるようなサービスをやっていかなければならない。そこに福祉国家の欠陥があったのだという報告を書いている。これコミュニティケアということが盛んに論じられて日本にも流れてきた訳です。
 コミュニティケアという言葉が流行しましたのは、日本では昭和47-8年だと思いますけれども、東京都の社会福祉審議会が答申の中にコミュニティケアという解説を書いております。
 私から言わせるとこれは間違った解説で、コミュニティケアというのは収容ケア、インスティテューショナルケアに対してコミュニティケア、在宅者のケアだと書いてありますが、これは間違いであります。
 入所施設におけるケアも広い意味でのコミュニティケアに入らなくてはいけないのです。これを対立したような意味で審議会は答申しておりますけれど、私は批判を書いたことがあります。
 そういうことで、いずれにしましてもこれは国家本位のサービスでは駄目なんですと言うことを論議された訳なんであります。
 これが福祉国家の限界論で、その例を掲げて見たのですけれど、本日は地域福祉の思想ですから、次に福祉国家における思想的限界を掲げておいた訳です。

3)ベヴァリッチ報告の思想的限界の克服
 ベヴァリッヂの五本の柱は,もう一度言いますと所得の保障、医療(ヘルスサービス)の保障、徹底してますからね。一時はカツラまで、メガネもということで、それらは行き過ぎということで修正しましたけれど、教育の保障、小学校から大学まで無料で行けるという制度、住宅は保障していくんだという政策、それに完全雇用、人類が克服しなくてはならないのはこの五本だとして、福祉国家のサービスはこの五本だと書いた訳です。
 これを思想として見ますと、この五本の柱、所得とか教育の保障とか、医療とか、それだけ保障すればそれで人間生活がうまく行くという考え方なんですね。
 だからそれは非常に人間というものを「モノ」として「客体化」してとらえている人間観をもっているのではないか。
 私たち人間は社会的側面がありますが、社会的側面で割り切れない個人的契機といいましょうか、主体的なものをもっていることを、ベヴァリッヂは無視しております。
 つまり社会的対策を講ずれば生活はうまくいくと思っている。私はそうではないと言いたいのです。地域福祉の思想で人間をどう観るかという時にベヴァリッヂを克服していかなくてはならない。
 我々人間は全部一様のものではありません。環境から規定されますけれど、しかし同時に我われは環境を規定するものを持っている。
 動物のように、あるいは生態学が言うように環境が全部規定する、遺伝と環境で全部説明すると言うような、そういうような学問が沢山ありますけれども、私はそれは本当の人間論として大変不充分ではないかと考えます。それは後で詳しく述べます。
 そういう人間の主体的契機というものを無視しているということ、これはひとつベヴァリッヂの批判として、人間観として申し上げたい訳でありますが、もうひとつ取り上げたいのは、ベヴァリッヂは英国のフェビアン社会主義思想の持ち主ですからフェビアン社会主義の思想によって考えている(?)。
 そのフェビアン主義を作ったのは、Sidney Webbという人で、このWebbは人間観を展開しております。これは大変大事な人間観で、「個人=社会相互責任の原則」といいます。
 こういう社会対策を講じていく場合「社会は社会の側の責任を果たす。先ほどの五本の柱のような対策をちやんと国が講じていく一方で個人も又個人としての責任を果たしていく。両者が責任を果たし合うことによってSocial Health(社会的健康)というものが維持されるんだ」というものです。これは非常に良い考えで銘言だと思う。
 例えば教育を無料にすると、親は貧乏のために子どもを学校に行かせないということがなくなってきて、どのようにしてでも学校に入れてあげようかと考えるようになるだろう。医療の無料の保障をすると、金がないから医者にかからないということはなくなって皆健康に注意して早期に医者にかかるようになるだろう。このように相方が責任を果たし合うことによって、社会的健康は維持されるんだと言うことを書いております。
 これはベヴァリッヂよりも一歩進んだ考え方に立っています。
 けれども私は これにも欠陥があると思います。経済的保障をすることによって個人の道徳は向上するだろう、貧乏して生活に困っておれば 道徳的にも立派なことは出来ないではないか、だから道徳的に立派にしようと思えば生活の保障もする、医療の保障もするという意味で書いているんですが、これではちょっと早合点をしているんではないか。
 誰でも所得の保障をすれば、道徳的責任を果たすだろうか。中国でも昔からよく言う衣食足りて礼節を知る、とある。衣食が十分あって初めて礼節を心得るようになるんだ、という意味ですが、ここに私は早とちりがあると思う。
 たしかに貧乏をしていては、正しい礼儀は守らないでしょう。だから所得の保障をすることは、礼儀・礼節を守るための可能性としての条件でありますけれど、必然的にそうなるだろうか、どんな人でも生活を保障されれば皆、礼儀正しくなって道徳的良心をもつだろうか、というとそうはいかない。
 つまり必要条件と可能性の条件を混同しているのではないか(私は,Webbに対する批判として、私の本の中で詳しく書いておきました)。
 所得の保障をすれば人間は必ず道徳的に向上するのだと、そういう考えをしていたのが破綻して、ロブソンの批判が出てくる。
 所得の保障をしないと道徳・良心の発達はしないけど、だからといってその逆は真かというと真でない場合もある。その事をWebbはよく知らない。それは結局はその人間観が非常に不充分ではないか。
 社会的存在としての人間だから、社会的条件を整えた個人は、自ら自動的に良くなるんだという考え方ですが、しかし人間はそんな簡単なものではない。社会的条件を整えれば人間が自動的に変わっていくかというとそんなものではない。逆に人間は環境を変えていくことも出来る。それは動物の社会で見られない主体的人間です。
 それに対して客体的に経験科学の対象として捉えられた人間というのものはおそらくそういう普遍的抽象的な人類と言いましょうか。環境に一方的に規定されるというのは人間についての一つの考え方でしかない。
 今日、学問も進んでまいりまして、環境が一方的に個人を規定するものではない、ということが段々分かってまいりました。
 そういう点から言って Webbの人間観はやはり不充分ではないかという風に考えられる訳であります。福祉国家段階を超える地域福祉は思想的にも、このWebbの人間観を克服するものでなければならない。


2.地域福祉の思想

 そこで本論の地域の思想に入っていきたい。地域福祉の思想では、私は三つを挙げたい。
①主体的人間と多元主義社会、つまり主体的に人間を捉える人間観と社会観を挙げておきたい。
②生活者としての人間、つまり生活者思想、
③基本的人権思想です。
これをはじめから説明いたします。

1)「主体的」人間と多元主義社会
 ここで「主体的」としていますのは、唯の人間主義としますとHumanismと間違い易いからこれを避けるためです。Humanismというのは長い歴史のある思想でありますけれど、簡単に言いますとHumanismと私の言う主体的人間とは人間観が違うのです。
Humanismというのは 務台先生が岩波新書の『現代のヒューマニズム』の中で先生は社会主義ヒューマニズムというものを強調しておられますけれども、ああいう思想の根底にあるものはダーウィンの進化論であります。
 ダーウィンの自然史観に基づいた人間論、そこに出てくる人間論は人類学の対象になるような人間論ですね。心理学とか社会学とか経験科学が人間を観察したり、実験したりして、いわゆる対象化、客体化した人間というものをいろいろ書いております。それはそういう文献も沢山ある訳なんですけれど、ヒューマニズムの人間論もそういう人間論です。
 私はこういう人間論は採用することは出来ない、その理由は何かと言うと社会福祉の実践の経験であります。

①世間であると同時に個人である人間
 我々は対象者と面接し観察するけれども、対象者も私たちを見ている訳で、見る見られるという関係であります。
 自然科学の人間観は一方的に観るだけです。しかし、私たちの福祉の現場ではそんな見方をしない訳ですね。見る見られるという関係、ワーカーが子どもを見る場合でも、子もワーカーを見ている。「この先生わかってんのかなー」という訳です。
 ことに知能の遅れている子どもたちを面接したとき、それを痛切に感じます。「いろいろテストしたりするけど あの先生,僕のこと、分かっているのかな」という。ところが、あの先生「分かってるな」と言うことになってきますと自分のあまり外に出さなかったものを出してくる。その出してくるものに対してこちら側が変な反応をすると、これは「アカンワ,あの先生落第や」ということになり、 ちゃんと対応すると「分かってるな」ということになってくる。
 私たちの人間援助の関係というのは、そういう風に対象者を単に一方的に客体化して観ているのではなく、見る見られるという関係、そういうことで人間を扱っていくのが福祉だと思うのですね。そこが人類学や社会学の先生と違うと思う。
 そのような経験から言いますとダーウィンの進化論とか、生態学での人間を客体化した人間観を採用することはできない、まったく違った見方をしなければならない、そういうことで私が若い頃影響を受けた本、和辻哲郎先生の昭和10年に出た本で『人間の学としての倫理学』というのがあります。
 これを私は若い頃読んで、非常な感動を受けました。
 単に見られた経験科学の対象、単に対象としての人間ではない、主体的人間というものがここではっきり出ている訳です。昭和10年のものです。この先生は私がたまたま大学で習った先生だったので、何回も何回も読みました。
 そしてこれを私は社会福祉の理論の中に取り入れました。
 そういう経験がありますので経験科学と違った哲学的な和辻先生の倫理学ですけれど、哲学的な捉え方ですね。
 つまり、主体としての人間というものを捉えようとするならば、それは単なる客観的方法では捉えられないのだという見方をしておりますので、この先生の人間観を取り入れている訳なんです。
 それを説明しますと、それは人間とは何かから始まって、方法としては解釈的方法、了解科学的方法であって、経験科学と異る方法であったドイツでは「文化科学」という言葉を使います。
 意味の了解をする行為的実践の主体としての人間というものは客体的な観察ではなくて、その人の行動なり、残した文化なり、言語なり、そういうものを手がかりにしてその意味を理解するという、そういう方法であります。
 ですから、例えば、和辻先生はこの本では言葉を捉える、まず「人間」という言葉から始まっていますが、漢和辞典を引きますと「人間とは世間である」と書いてあります。人間とは世間の意なり、誤まりて人の意にもちうると昔の『大言海』に書いてあります。それは中国のことであります。漢和辞典は中国のことですから違う訳です。
 日本では人間のことは「ひと」と言います。人間は人と同じです。その人という言葉はどんな意味であるかというと、和辻先生はいろいろ詮索しております。
 「人のことかまってくれるな」 「人のことほっておいてくれ」という「人」は自分のことを言い、英語ではI(アイ)です。しかし「人のふり見て我がふり直せ」という「人」は他人のことで、他人の様子を見て自分の行為、ふるまいを直せということであります。
 また、「人のうわさは75日」と言います。この「人」は社会の意味で、世間の意味です。
 日本では、人というのは個人で自分のことにも使うし、社会・世論のことにも使う。それをよく知らない人は 日本語はダラシない、英語ならIとかYouとかで語尾変化もするではないか。日本語は非常にルーズだと言いますが、私はルーズではないと思います。
 それはそういう言葉の中に人間、つまり主体的人間というのは個人でもあるし、社会でもある、世間であると同時に個人である。日本では「人間」と言う時、人間存在というものは個人でもあるし、社会でもある二つの性格、二重の性格をもっているという訳です。
 それが主体的人間の実態で、矛盾したものが同時に存在する。
 それは少々ややこしいのですが、社会は個人の否定であります。また一面から言うと個人は社会の否定であります。つまり 否定の否定ということによって、この社会と個人というものは、弁証法的に統合されるんだ、という説明なんです。
 そのように 矛盾したものを統合している存在、それが主体的人間なんだということで、これを平凡な言葉で言いますと、経験科学の対象としている人間は「モノ」としての人間、ここでいう主体的に捉えた人間は「コト」としての人間と区別します。
 名古屋医大の精神医学の木村先生は、精神病の患者の離人症という分裂病の一種ですけれども、そういうのを説明する場合には、単に客体としての人間を観察して、診察して、何か薬を出しても効果ということが分からない。
 つまり「コト」としての人間、個人であると同時に社会である、そういう人間である人間の本質が崩れてしまって、自分がどこに居るか分からない、世間ばかりあるけれど自分は何だろうと分からなくなっている。そういう分裂症の症状ですけれど、その説明は 和辻先生の「コト」としての人間によって説明できると書いておられます。
 それはそれとして世間であると同時に個人である人間である。そういうことが和辻先生の人間論から出てきます。

②人間存在の二重性と社会関係の二重構造
 つまり人間というものは二重性をもっているのです。その二重性という理論を私は借用いたしまして、昭和31年に『社会福祉学(総論)』というのを書きました。その時に社会福祉の場面で言うと、それを社会関係の二重構造ということにして説明していますが、その根拠は和辻先生の人間の二重性ということであります。
 つまり社会福祉でいう人間は、単に「モノ」としての人間を扱うのではありません。
 社会生活上の困難を取り扱うのが社会福祉でありますが、この社会生活の困難とは何かということであります。これは社会生活の基本的要求を社会資源なり社会制度を利用して、充足出来ない状態であります。
 つまり私たちは社会生活の基本的要求をどう充足させるかと言うと、例えば個人が病気になります、医療を受けようとすると社会制度・医療制度を利用する訳で、そうすると医療機関・病院は病人を診断して手術を受けなさいとか、入院しなさいとか要求します。これは制度の側からの要求であります。
 要求された個人は彼のもっている生活条件にいろいろ調整して「ハイ、入院します」というように要求を実行すると、その見返りとして医者の病気の治療が行なわれるという事です。
 私たちの生活というのは、個人と制度とこれを結びつける社会関係のこの三者から成立している。特に生活で大事なのは、社会関係です。個人と制度だけでは、生活は成立しない。生活というのは真に社会関係です。
 我々は制度を利用すると言っても、良く見ると非常に性質の違った関係、矛盾している関わりから成り立つ訳で、制度から要求するものは単一制度の視点から個人にある役割を要求するが、専門的に分化した制度は個人の生活(全体)を知りません。個人はいろんな条件を工面して実行する訳てす。つまり社会関係というのを良く見ると単純な関係ではなくて、個人に属する関係?個人的側面と制度の側に属する、制度の側によって規定される側面、入院するとか、治療するとか、制度の側によって規定される制度的側面とがある。
 私たちの生活に必要なもの、社会関係というものをよく見ると、この矛盾した二つの関係がうまく統合されて成り立っている。こういう関係を、社会関係の二重構造と言う。社会関係は単に制度からのみ規定されるのではない。個人の側からのみ規定されるものでもない。両者矛盾するものが入り交じっている。社会関係の改善というのは制度の側からもできるし、社会の側からもできる。
 例えば医療の技術が進歩して、昔なら一カ月かかった治療が一週間で治るようになれば、社会関係が有利になる、それは制度の側の改善であり、又個人の生活条件を変えて医療を受けることもできる。
 しかし、先ほど言った五本の柱などの制度がそれぞれ専門的に分化している。しかし それらは、人間の生活の一部面にだけ係わるものです。社会関係の個人的側面は医療でも社会保障でもない。ここに着目するのが私は福祉だと思う。この個人的主体的側面、この社会関係の主体的側面を実現するように援助するのが、福祉の固有性なのです。他の制度ではどれもやらない、この分野が残されているのです。
 福祉国家は、これの客体的側面だけを注目してやってきました。と言うのは、この主体的個人の社会関係を調整する側面を忘れておりまして、いろんな制度、五本の制度の寄せ集めが福祉国家だといっているのです。

③地域社会における社会関係の主体的側面の改善を目的とする地域福祉
 そんな寄せ集めではなく、固有なものがどこにあるのかと言われれば、社会関係の主体的側面を実現するように援助する。それが社会福祉の,医療でもない、教育でもない、特別な領域なんだと言うことです。
 人間存在の二重性というものから発展させ、社会関係の二重構造に到達し、そこに社会福祉の特別な領域があるんではないか。と言うことを何十年来言い続けてきております。
 皆様は初めて聴いておられてあまりよく分からないかもしれませんが、これは個人の存在の主体的契機というものは、社会環境的(客体的契機)というものと主体的契機というものとが人間存在において統合されている訳で、その個人的な契機、それを忘れてしまっては福祉にならないという事を強調したいわけです。
 つまり主体性の援助ということが福祉の場合非常に大切な訳で、つまり問題をもっている対象者が自分の問題としてそれを引き受ける。対象者が自分の責任において解決する。それを援助するのが福祉の仕事であって、対象者が自分の問題に取り組むように、自分から解決するように援助する。取って代わって解決してあげるのではない、それが主体性の原理で、主体的人間の非常に重要な領域です。
 地域福祉は、地域住民の生活困難を、福祉固有の立場からとりあげるのでありますから、まず第一には地域住民の社会関係の困難を問題にするのでなければならないが、その場合に、医療とか、社会保障の専門家の立場ではなくて、社会関係の主体的側面、つまり問題の当事者の立場に立って問題をみるという基本的立場を忘れてはならない。
 よく今までの地域福祉の例でみられることですが、住民の先入観とか、誤解を解くという口実のもとに専門家の意見を住民に説得したり、納得させるのが福祉の役割だと誤解する人がいます。それは専門分業制度の代替であって、福祉の本領ではありません。
 むしろ住民の側の意向や実態を専門家に説明して、その認識を改めさせたり、住民に対しては積極的に意見を表明するように援助するのが福祉の本領であります。それが個人と社会制度との社会関係の主体的側面の援助の第1の活動場面です。
 第2の活動場面は、住民相互の間の社会関係の改善です。特に主体的側面の側の改善の問題です。現在の日本の地域社会には、多くの不平等、差別の人間関係を温存していて、公正な民主主義の成立を妨げています。例えば障害者問題の根源は、このような地域社会における障害者差別にあるとも言えます。ここでも福祉は、専門家の真似をするのではなくて、福祉の固有性を発揮すべきであります。
 いま一つ例をあげて説明します。例えば福祉六法が八法になって障害者福祉法も改正になったが、あれを見ると身体上、又は精神上の障害によって日常生活困難な人にデイサービスをするとか、介護をするとかのサービスをするんだというところが新しく改められた。私は身体上とか精神上の障害とか言うことは、それは医師の言うことで、福祉はそんな事でなくて社会関係での障害を問題にする訳です。
 例で言いますと、A君とB君という知能の遅れた青年を知っています。二人は養護学校を卒業しまして、A君はお父さんの勤めている会社に話をして就職させてもらった。単身で通勤する能力はありませんからお父さんが毎日連れて行って連れて帰るという、それで三年四年続いている。 私がその家に行った時、お父さんが病気したり、用事がある時どうするのか伺ったら、「イヤその時には職場の同僚の人が朝、家に迎えに来てくれる。帰りもその人が送ってくれるんです。」と、こう言うんですね。
 ですからこれで3年位になるけれど、欠勤しないでやっている。親が休んでも本人は出勤していますよと、だから日曜以外はいつ行っても留守なんです。そういうことを近所の人が見ている。だから日曜日には魚つりに連れていってあげようとか、何とか声かけてくれてどこかに連れていってくれる。
 一方、同じに養護学校を卒業したB君は、A君もB君も療育手帳には同じく「中度」だと書いてある。けれどもB君は何もしない、家でゴロゴロしている。その家は食料品店をやってますから店を手伝わせなさいよ、と親に言うんですが、「こんな者が店にきたら、お客さん皆帰ってしまいますよ。」「家では昔から全然店に入れません。」と言う。「ならば店に入れなかったらば、倉庫掃除するとか何かあるでしょう。何かすることを探しなさい。」と言うたら「あんなのに掃除なぞやらしたらやり直しをしなくてはなりません。ですからさせません。」と言う。B君は4才からそういう育ち方をしているんですね。
A君とB君を比較しますと、知能程度は同じくらいです。法律上で言う知能指数は同じくらいですよ。しかし生活が全く違う。なぜ違うかというと家族関係とか、職場関係とか、友人関係、近隣関係という、いわゆる社会関係が違うから、生活が違う訳なんです。 そのところをしっかり見ないと、何か医者の真似みたいなことをしていては駄目だと思う。これを本人の社会関係の改善ということで申し上げておきます。
 それから主体的側面の方ですけれども、医師のような真似をしないで対象者の主体性をどう援助するかと言うこと、この事は住民全体や地域社会全員についても言えます。この住民の主体性を無視した社会福祉は案外沢山行なわれている。
 私の知っている人で、ある県の保健部長さんが定年退職して、ある田舎の特養老人ホームの所長になって行かれた。先生は非常に張り切って、その特養で一つ地域社会の為にやってやるということで、そのホームでは入所者を隔日に入浴しているから、隔日に空いている風呂場を使って、これを地域社会に開放して地域の老人が来て入浴したり、リハビリをしたりする。そういうことをやってやろうということで、計画して、地域に出ていって調査した。そうすると「私も利用させて下さい」という希望者が沢山出た。
 そこで施設は張り切って、明日からやろうという時に、職員が地域に出掛けていって、明日はあなたのところの入浴サービスの手配したから来てください。そうするとその家では「オバアチャン昨日から熱を出していて行けません」と言って断られ、次に行くと「親戚に法事があってー」と断られ、前日に行ってみると皆嫌がる。施設長さんが憤慨してしまって、せっかく地域社会の為にやってやろうと思うのに、住民が非協力的だと言って私のところにやって来ました。
 私が「貴殿、村の会合に何回行きましたか?」と聞くと「いや行ったことない。」と言う。「あんたは村の人から言うと他所者で、村では他所者の言う事は信用するなと昔から言われていることですよ、サービスの主体が住民にあるにかかわらず、住民の意向を全く無視して他所者がゴチャゴチャ言ってもそれは駄目だ」と言ったのですが、そういう誤りを方々ではやっていないだろうか。
 問題の当事者が、主体的に解決するのを援助するのではなくて、逆に先生が、ソーシャルワーカーが解決してやる、という事例を報告している人が沢山あります。そうではなくて本人がどれだけ動いたか、どれだけ自ら解決したか、どれだけ進歩したか、それが問題だということです。

2)生活者としての人間=生活者思想
 福祉国家の批判・欠陥を、克服して、新しい現代の福祉を形成するには、人間観を変えなければいけない。
 先ほど申し上げましたように福祉国家の人間は、客体としての人間、「モノ」としての人間であります。我々は主体としての人間、「コト」としての人間を提起していく。それが地域福祉の第一点です。
 つぎに 生活者としての人間について申し上げたい。先に申し上げた主体的人間というものは、霞を食って生きている訳ではない、毎日毎日「めし」を食わなければいけない。 そういう生活者としての人間の本質は何かと言いますと、人間の基本的要求はどんなことがあっても充足しなければ生きていけないというものです。これを私は7つあげます。
 はじめの五つはベヴァリッヂと同じですが,ベヴァリッヂは後の二つをぬかしている。それが福祉国家の欠陥だと思うのです。
 第一点は、生活者としての人間の見方において、社会的存在としての社会参加の機会つまり社会の一員として対等平等の人間とし発言し行動していきたいという要求、この要求はどんな人にもある訳です。
 ケースワークの場合でも、対象者が援助に参加してこなければいけない、対象者が座っておって、ワーカーが駆けずりまわっているのは誤りであります。
 いわんや地域福祉の場合、住民が発言していくあるいはサービスの運営に参加していく。これは施設の場合も同じです。施設の場合も運営に参加してないとだめなんで、対象者が運営に参加するようなことはだんだん今日出てきたと思うけれど、英国には非常に徹底したところがあります。その話は省略するとして、とにかく運営に参加していく。それが個人の基本的要求であるということであります。
 もう一つ文化娯楽の要求というのをあげておきました。何の為に我々働いているのか、何の為に生きているのか、そういう生活の目的を求める要求は動物にはありません。生活者としての人間の要求であります。人生の目的に合わないことはやりたくない、やっても嫌々でしかやれない。そういう文化の要求を生活者の基本的要求としてあげたい。
 これらの生活者としての人間の思想を実際の地域福祉活動にどのように実現していくのかということですが、原理的に言えば、地域社会はこれらの生活者の共同生活の場ですから、すべての地域社会は、これらの7つの基本的要求に対応する社会制度が全部整備されていなくてはならない。
 その整備の責任はもちろん公共的責任に属します。地域福祉活動の主体としての住民側の責任(住民に対する社会福祉の責任?)、即ち社会福祉の側の関心としては、その社会制度と住民との間の社会関係であります。
 というのは専門的に分業化された制度は自分の専門については明確な認識をもっていても、専門以外の分野については無知である。7つの要求に関連させて言えば、自分の専門以外の6つの要求のことは全く知らない。しかし住民は7つの要求の充足をめざして、毎日生活している全体的存在である。