幕末・明治維新略史

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相対的価値剥奪


P.タウンゼント

 相対的価値剥奪relative deprivation: P.Townsend“Poverty in the United Kingdom”(1979):
貧困は相対的価値剥奪の概念によってのみ客観的に定義されまた整合的に応用される。この概念は主観的にというよりも客観的に理解される。住民のうちで次のような状態にある個人や家族や集団は、貧困の状態であるといえる。それは、その人が付き合っている仲間や世間では当たり前でありあるいはどこの家でも努力目標となり受け入れられているような、食事らしい食事をし、あるいは諸活動へ参加し、あるいは生活条件と快適さなどを獲得するために必要な諸資源を欠いているとき、貧困の状態にあるという。そのような人々の諸資源は、平均的な個人や家族により使いこなされている程度の資源よりもだいぶ下回っているので、彼らは日常の生活様式(living pattern ),習慣、活動などから排除されてしまうのである。この定義に従うと、豊かでない社会よりも豊かな社会の方で多くの貧困が見いだされるという結果になるかもしれないし、また、経済成長の持続にもかかわらず多くの貧困者が存在する。(p.31):
(*ピータータウンゼントは、相対的な剥奪と判定するための基準を具体的な生活内容により記している。川上昌子編『公的扶助論』光生館の巻末資料(pp.198-199)に「複合デプリべーションの指標」の邦訳が掲載されている。(たとえば、毎日のように新鮮な肉や野菜、果物を食べていない。室内に風呂、トイレがない。自家用車がない。庭がない。騒音公害がある。孤独または孤立している。家を離れて休暇を過ごしていない、その他多数が列挙してある。どのように総合化するのかが問題となる。)しかし、わが国では「相対的貧困」という言葉だけで、具体的にどのような生活内容であれば「相対的貧困」というのかの基準を明らかにした物は、寡聞にして、知らない。そのために、生活保護基準に「相対的貧困」の概念を導入しても、その水準がどのような基準に照らして妥当な水準といえるのかが全くわからない。つまり、生活保護基準が均衡水準方式と言われるがその保護基準が妥当かどうか判断しないまま生活保護が実施されている。)。

★2009年の民主党政府が日本の貧困率は15.7%と発表した。

 これは「相対的貧困率」で、 OECDによる定義は等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯員数の平方根で割った値)が、全国民の等価可処分所得の中央値(国民を所得の低い順に並べたときに,ちょうど真ん中の人の所得の水準)の半分に満たない国民の割合の事。
 OECDの2000年なかばの統計によれば、日本の相対的貧困率は14.9%で、メキシコの18.4%、トルコの17.5%、米国の17.1%に次いで4番目に貧困率が高かった(OECD加盟国の平均は10.6%)。 逆に、西欧諸国は大半が10%以下であり、全調査国中もっとも低いスウェーデンとデンマークの5.3%を筆頭に、北欧諸国の貧困率が低い。日本政府の2009年の発表では、日本は2006年の時点で15.7%だった。

なお、「絶対的貧困率」 という概念があり、世界銀行の貧困の定義では1日の所得が1米ドル以下に満たない国民の割合の事。

 ちなみに、2007年の「国民生活基礎調査」では、日本の2006年の等価可処分所得の中央値(254万円)の半分(127万円)未満が、相対的貧困率の対象となる。これは、単身者では手取り所得が127万円、2人世帯では180万円、3人世帯では224万円、4人世帯では254万円に相当する(ウキペディア「貧困率」参照)。つまり、高齢者1人世帯の手取りが125万円でも「貧困」と定義されるわけである。同様に、高齢夫婦世帯の手取りが180万円でも「貧困」といえるのだろうか。それには若干、違和感がある。この指標は「貧困率」と呼ばれているが、実は所得の分布を問題にしているのであって、「貧困」グループの生活水準がどうだという評価をする物ではない。かつての1970年ころの社会指標などでもさんざん言われたことであるが、国民生活を評価するときは、フローだけではなくストックも加味すべきことは言うまでもない。この貧困率を参照して、日本の貧困率は先進国で最低部分だといって非難し、北欧諸国は5%程度だと言って賛美する人もいる。しかし、この指標は所得分布が平等に近いのか、格差が大きいのか、についての指標であり、貧しいかどうか、困窮しているかどうかの指標ではない。だから、慎重な人はこの指標を用いるとき、貧困という言葉には「 」をつけて「貧困」と表現していることがなによりの証である。


[参 考]

●政治学者ラスウェル(1948)の価値剥奪《人間関係が織り成す社会過程は、富・健康・尊敬・愛情・開明・技能などの社会的価値の獲得喪失の過程である。ある人が他者の持っている価値を増大させる時、その関係・状況を価値付与的indulgent、減少させる時、価値剥奪的deprivationalという。政治権力は人が所有する価値の剥奪や威嚇により人の行動をコントロールする能力で、人間の生存に必要な価値すなわち「福祉価値」-健康・富・安全・技能など-の剥奪が最大の脅威となる

●社会学者パーソンズ(Parsons & Shils,1954,p.14)の要求阻害(deprivation)は次のものを含む。①すでに行為者が持っていた満足すべき客体を取り除くこと。②行為者が所有していないが所有すれば満足すべき客体や、手に入れようと努力している客体に近付くことを妨げること。③満足出来ない客体、たとえば傷みや傷害を肉体的心理的にこうむるような客体と強制的に関係をもつこと。④上述のいずれかの脅威があること。

●R.マートン(「準拠集団の理論」『社会理論と機能分析』)
 『アメリカ兵』という論文の執筆者が用いた相対的不満(relative deprivation)という概念に注目した。この概念に頼っている例。:召集された既婚の兵士は、自分と軍隊内の未婚の同僚とを比べて自分の方が召集でより大きな犠牲を求められたと思うし、また、まだ召集されていない既婚の友人と自分を比べて、友人は犠牲を全く免れていると思う。(p.155) 教育程度の高いものは低いものに比べて願望水準が高いから、軍隊である種の地位を得られないとそれだけ損をしたように思い、また友人の目にもそう映っていると感じる。だから目標が達成されないと、他の連中よりも欲求不満は大きくなる。(p.156)
 相対的不満の概念が展開されたのは、客観的状況を一見しただけでは不満を誘発しそうもない場合に不満がもたれることがある、という反応を説明するためである。自分の状況と他人のそれを比較し、その結果が相対的満足や不満になる。このような社会的心理的経験を「相対的なもの」と見なし、自己評価にあたっての相対的という要素、比較の基準の重要性を強調するものである。(p.165)◆