幕末・明治維新略史

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E.デュルケム『社会分業論:高度社会の組織に関する研究』(1893)青木書店

 「分業の起源は、人間がたえずその幸福を増大させようとする願望のほかにはない」とよくいわれる。「そうだとすると、分業はもっぱら個人的かつ心理的な諸原因から影響を受けて進歩するということになる。」 「実際に分業が我々の幸福を増大させるためにのみ進歩してきたのだとすれば、分業は久しい以前にその極限に達していただろうし、・・・分業も文明も、ともども停滞してしまっていたであろう。」

 「原則として、自らを損なうようなものを歓迎する有機体は、自己を維持できないことは明瞭である。だから、きわめて普遍的な真理として承認できることといえば、快は有害な状態とは関係がないということ、すなわち、だいたいにおいて、幸福とは健康な状態と一致すること、である。ただ、ある生理的または心理的な退廃に陥っている者だけは、病的な状態において悦楽を感ずる。ところで健康は中庸の活動にこそある。現実にも、健康とは、全機能の調和的発展を意味する。・・・それでは、すべての能力の同時的な開花ということがあるかといえば、ある所与の存在にとって、その個体の先天的な状態が示すようなきわめて限られた限度内においてのみ、はじめてそうしたことが可能なのである。こうしてみると、人間の幸福を限定するものが何であるかが理解されよう。それは、歴史の各期において与えられた人間の構造そのものなのだ。」 (pp.226-230)

 「道徳的に行為するとは、自分の義務を果たすことであり、・・・人は自己を放棄しないで他者に献身することなどできもしないし、自分の個性を極度に発達させようとすれば、エゴイズムに陥らざるをえない。」 (p.231)

 「分業が連帯を生ずるためには、各人が仕事を持つというだけでは不十分である。さらに、この仕事がその人に適していることが必要である。」 「分業が、個人の独創性をなにひとつ妨げることなく、純粋な内的自発性によってのみ確立される場合には、・・・個人の本性と社会的機能との調和が必ず生ずる。少なくとも平均的な場合においては、そうである。なぜなら、仕事を争う競争者たちを不当に妨害したり利したりするものが何もなければ、適材が適所につくのは不可避的だからである。そうなれば、労働の分割様式を決定する唯一の原因は、能力の多様性ということになる。それゆえに、労働の分割はもの本来の力によって、その能力にあった方向でおこなわれる。こうして、各個人の体質とその条件との調和がおのずと実現される。・・・人間は自らの天性を実現することに幸福を見いだす。」 自発的分業のみが連帯を生む。自発性とは暴力の欠如のみではなく、「各人が自己のうちにもっている社会的力を自由に発揮することを、たとい間接的にせよ、妨げるものの一切の欠如、を意味する・・・。自発性の想定するところは、単に個人が一定の機能に強制的に追いやられないということだけではなく、さらに個人が社会的枠組の中で自己の能力にふさわしい地位を占めることを、いかなる性質の障害によっても妨げられないということである。要するに、労働の分割は、社会的不平等が自然的不平等を正確にあらわすように社会が構成されている場合にのみ、自発的に行われる。・・・自発性とは、人間の良き性向もあしき性向も、すべて自由に満足させることを許すような無政府状態のうちにあるのではない。それぞれの社会的価値が、これとは無縁なものによって過大に評価されることも過小に評価されることもなく、まさに正当に評価されるような、そういう精妙な組織のうちにこそある。」 純粋無垢な自発性の社会などは存在しない。分業の進歩は、不平等の不断の増大を含む。(pp.362-364)

 「現代社会の理想は、われわれの社会関係にたえずより多くの公正(エキテ)を実現して、すべての社会的に有用な力の自由な展開を揺るぎないものにすることである。」 (p.373)