幕末・明治維新略史

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ヘーゲル『法の哲学』(1821)中公バックス世界の名著『ヘーゲル』藤野渉・赤沢正敏訳

「ミネルヴァのふくろうは、 たそがれがやって来ると、 はじめて飛び始める」 《p.174》

  法の開始点は自由な意志である。 したがって 「自由が法の実体と規定をなす。 そして法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、 精神の世界である。」 《p.189》 「自由なものは意志である。意志は自由なしには空語であり、自由もまた、意志として、主観ないし主体としてはじめて現実的である。」《p.190》 自我が一面では、自分を規定され制限されたものとして規定し、自己自身の否定的なものとしてみなしながら、他面で、自分はこれに縛られていないと感じて、自分がこのように規定された在り方をしているのは、ひとつの可能性を現しているに過ぎない、と思っている。このことが、意志の自由なのである。《pp.197-198》 人間がひとつの生き物であるということは、偶然的ではなく、「人間はおのれのもろもろの必要をおのれの目的にする権利がある。だれかが生きるということのうちには、品位を下げるようなことはなにひとつない」 《訳者注:欲求や衝動それ自身の満足が主観的自由なのではなく、全自我すなわち理性的になった欲求の満足である。 たとえば、生活の経済的な諸必要の満足つまり労働であり、これが市民社会の原理である。》《p.326》

市民社会では各人が自分にとり目的であり、各人は他人と関連することなく自分の諸目的の全範囲を達成できないので、これら他人は特定の者の目的のための手段である。 「ところが特殊的目的は他の人々との関連を通じておのれに普遍性の形式を与えるのであり、 自分の福祉と同時に他人の福祉をいっしょに満足させることによっておのれを満足させるのである。」 《訳者注:特殊的人格にとっては、内容が自分の欲求で、形式が普遍性である。この形式的普遍性は、第一に各人の経済活動が織り成す社会的関連とその経済法則で、第二は法律として定立された万人の諸権利である》《pp.414》

 「個々人のおのれの内での無限な自立的人格性という原理、すなわち主体的自由の原理は、内面的には、キリスト教において出現し、外面的には、従って抽象的普遍性と結び付いた形では、ローマ世界に出現した。」 人間の欲望は動物の本能のように閉ざされた範囲のものでなく、表象と反省により限りなく拡大される。他方、欠乏や窮乏も限りがなく、享楽と窮乏の紛糾は国家によりはじめて制御され調和される。《pp.417-418》

 「欲求は、直接欲求している人々によって作り出されるよりもむしろ、その欲求が生じることによって儲けようとする人々によって作り出される。」《p.424》(●①ガルブレイスの依存効果のこと。②「需要をつくり出せないなら、売れないのは当然」ユニクロの柳井正会長兼社長 日本経済新聞20090326  引用者注)
普遍性の契機には、この点において他人と同等でありたいという要求が直接含まれている。一方で、同等性の欲求と、自分を他人と同じにすることである模倣とが、他方で、際立って目立ちたいという特殊性の欲求とが、相まって、欲求を多様化し拡大化する源泉となる。 もろもろの欲求や手段や享楽をとめどなく多様化し種別化する社会的趨勢は、限りがなくて、これは一方では奢侈であり、他方で依存や窮乏と同じように限りない増大化である。《pp.426-427》

 正義は市民社会の一つの偉大なもので、善い法律は国家を栄させ、自由な所有は国家の栄光の根本条件であるが、私は特殊的であるから、この関連の中で私の特殊的福祉もやはり促進されることを要求する権利を持っている。すなわち、私の福祉、私の特殊性が顧慮されなくてはならないのであって、これを行うのがポリツァイ《訳者注:当時は警察や、経済政策や社会政策により福祉の実現をはかる内政を意味した。本書では福祉行政と訳されている》とコルポラツィオーン《訳者:都市の商工業身分において編成される職業団体。中世的ギルドを背景に持つが、その復活の意味ではない。むしろ、イギリスの友愛組合が示唆となっているらしい》である。 個々人の生計と福祉は可能性として存在するが、特殊性における現実的な権利は、個々人の生計と福祉の保障が--つまり、特殊的福祉が、権利として取り扱われ実現されることを要求する。《PP.461-462》 福祉行政(ポリツァイ)の行う監督と事前の配慮が目的とするのは、個人を、個人的な目的の達成のために存在している一般的可能性と媒介することである。福祉行政は街路照明、橋の架設、日常必需品の価格指定、ならびに衛生にたいして配慮しなければならない。 もちろん個々人には自分の思いどおりの仕方で働いてパンを得る権利がなければならないが、他方、公衆にもまた、必要なものがしかるべき仕方で提供されることを要求する権利がある。この両方の面がかなえられなければならないのであって、営業の自由は公共の福利が危険に陥るような性質のものであってはならないのである。《p.465》

 さしずめ実体的全体は家族である。個人が普遍的な資産を得るために働く時の手段や技能、または得るための能力がなくなった時のかれの生計と扶養、これらに配慮するのは、家族の仕事である。ところが、「市民社会は、個人をこのきずなから引き離し、家族員相互の仲を離間させ、そしてかれらを独立の人格として認める。」 さらに家族全体の存立さえも市民社会に依存させ、偶然性に支配されるものにする。家族は市民社会では従属的なもので、土台をすえるだけで、家族の力の効く範囲はさほど広くはない。これに反して、市民社会は巨大な威力であり、「この威力は人々を引き寄せ、人々がこの社会のために働き、この社会を通じてあらゆるものになり、この社会を介してあらゆることを行うように、人々に要求するのである。 人間がこのように市民社会の一員であるほかないとすれば、かれは家族において持っていたのとまったく同様の権利と要求を市民社会に対して持つ。だから市民社会はその成員を保護し、成員の諸権利を擁護しなければならないが、それと同じく個々人もまた、市民社会の諸権利に対して義務をおわされている。《pp.465-466》

 貧困状態は諸個人が市民社会のもろもろの欲求を持つことを妨げないが、「諸個人からあらゆる社会的便益を奪うのである。すなわち、総じて技能と教養によって生計を営む能力を身につける便益や、司法活動や保健事業から受け取る便益や・・・多かれすくなかれ奪うのである。」 市民社会は富の蓄積が増大するが、他面で、「特殊的労働の個別化と融通のきかなさとが増大し、この労働に縛り付けられた階級の隷属と窮乏が増大し、これと関連してこの階級は、その他もろもろの能力、とくに市民社会の精神的な便益を、感受し享受する能力を失う。」 市民社会の成員に必要な生計の規模はおのずから決まってくるが、大衆がこの水準以下に零落し、権利感情、違法感情、おのれの活動と労働によって生活を維持するという誇りの感情を失うまでに転落するということは、賎民の出現を引き起こす。貧困それ自体は何人も賎民にしない。 賎民は貧困に結び付いている富者や社会や政府などに対する内心の反逆により賎民になる。 《p.467-469》