幕末・明治維新略史

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アリストテレス『政治学』岩波文庫

第1巻

第3章

 国がどんな部分から組織されているかが明らかになったから、先ず初めに家政について語らねばならない。なぜなら全ての国は家々から構成されているから。そして家政の部分は家がさらにそれから組織されている部分に相応ずる。完全な家は奴隷と自由人から出来ている。

 ところでわれわれは何ものによらず、できるだけ小さい部分に分けて、それから考察を始めていかねばならぬのであるが、家の最初で最小の部分といえば、主人と奴隷、夫と妻、父と子であるから、これら三つについてその各々は何であるか、またどのようなものであらねばならぬかということを考察しなければならぬであろう。

 そしてここに三つというのは主従関係、婚姻的関係(夫と妻との結合はそれを現わす特別な名称がないから)、第三に子供作りの関係である(なぜならこれもそれに固有な名称でこれまでのところ呼ばれてはいないから)。しかしともかくそれらの名称の関係をわれわれが語ったところのその三つのものとせよ。

 またある人々には主人が奴隷を支配するのは自然に反していると思われている。ある人が奴隷であり、また他のある人が自由人であるのは人の定めによるので、決して自然には違いがあるのではない、従ってそれはまた正しいことではない、何故なら強制的だから、というのである。

第4章

 しかし道具には生のないものと生をもったものとの二つがある。例えば舵を操つる船長にとって舵の把手は生のない道具であるが、船長の下に立つ見張人は生のある道具である(なぜなら下働人は術との関係から見れば道具の種類に属するからである)、だからこのように家政家にとって、所有物もまた生活のための道具であり、所有財産はもろもろの道具の総量であり、奴隷は生ある所有物である。

 しかし〔ここで区別しなければならぬのは〕世に道具と言われているものは、物を作るためのものであるが、所有物は行いをなすためのものであるということである。例えば梭からはそれの使用のほかに、梭とは何か別なものが生じてくるのであるが、しかし衣服やベッドからはただその使用だけである。さらに、製作と行為とは種の上で異っているものであるから、両者いずれも道具を必要とするにせよ、必然にそれらの道具は同じように異っていなければならない。しかし生活は行為であって、製作ではない。それ故に奴隷もまた行為に関することどもの下働人である。

 また「所有物」という言葉は「部分」という言葉と同じように用いられる。すなわち部分はある他のものの部分であるのみならず、全くその他のものに属するのである。そして所有物も同様である。それ故に主人の方はただ奴隷の主人でのみあって、奴隷に属しはしないのに、奴隷の方は主人の奴隷たるのみならず、全く主人に属するのである。

 とにかく以上のことから、奴隷の自然〔本性〕は何であるか、そしてその能き(はたらき)は何であるかということは明らかである。すなわち、人間でありながら、その自然によって自分自身に属するのではなく、他人に属するところの者、これが自然によって奴隷である、そして他人に属する者というのは人間でありながら所有物であるところの人間のことであり、所有物というのは行いのための、しかもその所有者から独立な道具のことである。

第5章

 しかし誰か自然によってこのようなものである人間がいるか、それともいないか、つまり、奴隷として仕えることが自分にとってより善いことであり、正しいことでもある人間がいるか,それともいないか、或はむしろ隷属は如何なるものでも自然に反するものなのか、これらのことを次に考察しなければならない。

 しかしこれらのことを言論によって観察するのも、また事実から学び知るのも、いずれも困難なことではない。何故なら支配することと支配されることとはただ必然なことに属するばかりでなく、また有用なことにも属するからである。

 そして生れる早々からある場合には相違があって、或るものは支配されるように出来ており、またあるものは支配するように出来ているからである。

 そして支配する者にも、支配される者にも、多くの種類がある(そして支配は支配される者が優れた者であれば、それだけ常に優れている、例えば人間を支配することは、動物を支配することより優れているのである。何故なら優れた者によって仕遂げられた仕事はそれだけ優れたものであるが、或るものが支配し、或るものが支配される場合には、両者によってなされる仕事が何かそこにあるからである)。何故なら多数の部分、それらは〔身体のような〕連続的なものでも、〔主人と奴隷のような〕非連続的なものでも構わぬが、それから出来て、何か共同的な一つのものになっているもののうちには、何れにおいても支配するものと支配されるものとが現われてくるからである。

 しかし「自然によってあるもの」を考察しようとすれば、それはむしろ、自然に一致した状態にあるものどもにおいてなすべきで、決して自然をなくしたものにおいてなすベきではない。それ故にまた、肉体の方でも精神の方でも最も善い状態にある人間を観なければならない。かかる人間において精神の肉体に対する支配は明らかであるから。何故なら堕落した人あるいは堕落した状態にある人々について見れば、彼らは悪い状態、あるいは自然に反した状態にあるので、肉体がしばしば精神を支配しているように思われるであろうから。

 しかしそれはともかく、われわれの主張するように、先ず第一に生物において、主人が奴隷に対してなすような支配も、政治家が同国民に対してなすような支配も見ることが出来るのである。何故なら、魂が肉体を支配するのは主人的支配によってであり、理知が欲情を支配するのは政治家的あるいは王的支配によってであるから。

 そしてこれらにおいて明らかなことは、肉体にとっては魂によって支配されることが、また魂の受動的部分にとっては理知や有理的部分によって支配されることが自然に一致したことでもあり、また有益なことでもあるということ、しかるにそれらが平等になるか、逆さまになるかすると、全てのものにとって害があるということである。

 そしてさらに、男性と女性との関係について見ると、前者は自然によって優れたもので、後者は劣ったものである。また前者は支配する者で、後者は支配される者である。そしてこのことは全ての人間においても同様でなればならない。

 だから、他の人々に比べて、肉体が魂に、また動物が人間に劣るのと同じほど劣る人々(このような状態にある人々というのは、その働きが肉体を使用することにあって、そして彼らの為し得る最善のことはこれより他にないといった人々のことである)はだれでも皆自然によって奴隷であって、その人々にとっては、もし先に挙げた劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、そのような支配を受けることの方が善いことなのである。

 何故なら他人のものであることの出来る人間(それ故にまた他人のものでもある)、すなわち理(ことわり)をもってはいないが、それを解するくらいにはそれに関与している人間は自然によって奴隷であるからである。

 実は奴隷と動物との間に、有用さという点では大した相違は存しない。何故なら生活必需品のために肉体を以て貢献するということが両者のはたらきなのだから。

 ところで自然は肉体をも自由人のと奴隷のとでは異ったものとして作る意向をもっている。

 というのは他の動物どもは理を解してそれに従うということはなく、むしろ本能に仕えているからである。しかし実は奴隷と動物との間に、有用さという点では大した相違は存しない。何故なら生活必需品のために肉体を以て貢献するということが両者のはたらきなのだから。

 ところで自然は肉体をも自由人のと奴隷のとでは異ったものとして、すなわち一方のは生活に必要な仕事に適するほど丈夫なものとして、他方のはまっ直ぐで、かような労働には役にたたないが、しかし国民としての生活(そしてこの国民としての生活というのは結局戦争に関する仕事と平和に関する仕事とに分けられる)には有用なものとして作る意向をもっている。

 しかししばしばその意向に反したことも起る、すなわちある奴隷たちは自由人の肉体をもち、また或る奴隷は自由人の魂をさえもつということもある。けれども、今もし,ただ肉体に関してだけでも、神の像と人間の姿との相違と同じ程度の相違が人々の間にあるなら、疑いもなく全ての人は、それの劣れる者がそれの優れた人に奴隷として仕えるのは当然だと言うであろう。そしてもしこのことが肉体の場合に真実であるなら、精神の場合にこの同じ規則を適用するのははるかに正当なことである。しかし魂の美しさを見るのは、肉体の美しさを見るほど容易ではない。従って、以上論ずるところから、自然によってある人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことでもあり、正しいことでもあるということは明らかである。

第6章

 しかし私と反対のことを主張する人々も、或る点では正しく言っている。このことを見るのは難しいことではない。何故なら、奴隷として仕えるという言葉も、奴隷という言葉も二通りの意味で用いられているからである。

 すなわち自然によってと同じく、法によって奴隷であるのも、また奴隷として仕えているのもある。何故なら、戦争中に征服せられた者は、征服者のものであるということを現定している法が一種の約束として存しているからである。だから法律家の多くは、違法な議案を提出した廉で弁論家を告訴するように、そのような主張の根拠となるこの約束を違法なものとして非難している、すなわち、彼らは力を以て征服された者は征服することの出来る者、力において優れている者に奴隷や被支配者として属するとするなら、それは恐るべきことだというのである。

 また智者たちの間でも、やはり意見の相違がある。

 しかし彼等の論争の根源であると共に、彼らの論に共通な地盤となっているものを見てみると、それは、徳は必要な外的手段をたまたま手に入れれば、或る意味ではまた力による征服を最もよくなし得るものである、また〔逆に〕力によって征服者の位置にある者は何らかの善を常に被征服者よりも余計にもっている、その結果力は徳なくしては存し得ないと思われてくるということである、しかし論争そのものはただ奴隷にすることを正当化するのは何かということにのみかかわることになる。

 というのはここの共通な地盤によって一方の人々には征服者と被征服者相互間の〔被征服者が征服者の徳にもとづいて示す〕好意が正当化するものであると思われ、他方の人々には力の優れた者の支配が無条件に正しいと思われるのたからである。

 〔この共通の地盤によって論争は可能なのである〕というのは両方の人々の主張がもし〔この地盤をもたず〕互に分離したとすれば、支配者となり主人となる者は徳の点で優れている者であるには及ばぬということになるから、その場合,両方の論証には何の力も尤もらしさもないからである。しかし他の或る人々は、彼等の考えるところでは、残る正しきもの(というのは法は一つの正しきものであるから)を手がかりにして戦争捕虜の奴隷化は全く正しいとなしている。

 けれどもそうすると同時に彼らはそれを否定することになる。何故なら戦争はその起りが正しくないこともあり得るし、また奴隷たるにふさわしからぬ者が奴隷であることを人は決して承認もしないだろうから。もしそうでなければ、生れの最も善い人だと思われている人もたまたま捕えられて売られるようなことになったなら、奴隷や奴隷の子孫であることになるであろう。

 それゆえにギリシア人は捕われても自分自身を奴隷と呼ぶことを好まず、また夷狄だけをそう呼ぼうとする。けれども、彼らがそう呼ぼうとする時、彼らの求めているのは、われわれが初めに言ったところの自然によっての奴隷以外のものではない。何故ならどこにおいても奴隷であるところの人々が一方にい、また何処においても奴隷でない人々が他方にいるとかれらは言わざるを得ないから。そしてこのことは生れの善さについても同じように言える。

 何故ならギリシアの貴族たちは自分たちをわれわれギリシア人のもとにおいてのみならず、いずこにおいても通用する貴族であるが、夷狄の貴族が通用するのは、家郷においてのみただと信じているから。それは善き生れや自由には絶対的のものとそうでないものとのニつがあるということを示している。たとえば、テオデグテスのヘレネが

「神の血すじの両親から生れし妾を誰が下婢と呼び得ようか」と言っている。

 しかしギリシア人たちがこのようなことを言う時に、彼らは徳と不徳以外のものによって奴隷と自由人、善き生れの者と賤しき生れの者とを区別しているのではない。何故なら彼らは人間からは人間、動物からは動物が生れるように、また善き両親からは善き子供の生れるのが当然だと考えているからである。しかし自然はもちろんこのことをなす意向をもっているけれど、しかしそれの出きない場合もしばしばある。

 だから、以上の論争には一理屈あるということ、さらにある人々の間で、一方の人々が奴隷であり、他方の人々が自由人であるのは自然によってではないということは明らかである、さらにまた或る人々の間にはそのような区別があって、そのうちの或る者には奴隷であることがしかしまた或る者には主人であることが有益でもあり〔正しいことでもあり〕、またそのうちの或る者は支配されなければならず、或る者は支配すべく生れついたその支配を支配しなければならない、従ってまた主人とならねばならないが、しかし悪しく支配することは両者にとって不利益をもたらすということも明らかである。

(何故なら部分と全体や肉体と魂にとっては同一のものが利益をもたらすのであるが、奴隷は主人の一部であって、その主人の肉体から独立してはいるものの、いわばその有魂の部分のようなものであるからである。それ故にそれぞれの自然に要求されて互に結ばれた主人と奴隷との間には共通の利益もあり、お互どうしの愛情もある、しかしこうした仕方によってではなく、法により、力によって結ばれた主人と奴隷の間には以上のものとは全く反対のものがある。)

第7章

 しかしまた以上のことから、或る人々の言っているように、主人の支配と政治家の支配とが同一であることも、全ての支配が互に同じであることも、決してないということも明らかである。何故なら後者は自然によって自由である者たちの支配であるのに、前者は自然によって奴隷である者たちの支配であり、また家政術は独裁政治であるのに(何故なら全ての家は一人のものによって支配されるからである)、国政術〔政治家の術〕は自由で互に等しき音たちの支配であるからである。

 むろん、主人は知識をもっているから、それで主人と言われるのではなくて、彼が主人たるの性質をもっているから、そう言われるのである、奴隷も、自由人もやはり同様である。しかし、主人の知識も、奴隷の知識もそれぞれあるであろう、そして奴隷の知識というのは、シュラクウサイにいた人が教えていたようなものに他ならぬであろう(何故ならあの地では或る人が報酬をとって、奴隷たちに目常の奉公の仕事を教えるのを常としていたからである)。

 だから、ともかくかような知識は全て奴隷のもつべきものであるが、しかし主人のは奴隷たちの使用を教える知識なのである。なぜなら主人の主人たる所以は奴隷を獲得することのうちにあるのではなくて、奴隷を使用することのうちにあるからである。しかしその知識は大したものでもなければ、感心するほどのものでもない。何故なら奴隷が如何にしてなすベきかを知らなければならぬ仕事を主人はただ如何に命令すべきかを知っているだけでよいからである。