幕末・明治維新略史

HOME > マスロー自己実現

(1)A.マスロー『人間性の心理学Motivation and psychology 』1954

■基本的欲求 

ア)生理的欲求…「動機理論の出発点として通常考えられている欲求は、いわゆる生理学的動因である。」 空腹、性、渇き、眠気、味覚など。生理的欲求はあらゆる欲 求のなかで最も優勢なものである。

 あらゆるものを失った人間にとっては、生理学的欲求が最も主要な動機となるように思われる。

イ)安全の欲求…生理学的欲求が比較的十分に充足されれば、新しい一組の欲求が出現する。襲撃、殺人、暴政、失業、病気、天災、子供なら親の激怒、脅し、厳しい叱責、乱暴、両親の喧嘩、別居、離婚など。大人は安全の欲求を表面に出さないように教えられている。

ウ)所属と愛の欲求…かつてなかったほど友達、恋人、妻、 子供の無いことを痛切に感じる。他者との愛情に満ちた関係、即ち、自己が所属しているグループ内での地位を切望している。自分がかつて空腹なときに、愛を非現実的あるいは取るにたりない事と軽蔑したことを忘れている。

エ)承認の欲求…自己に対する高い評価、自己尊敬、自尊心、他者から尊重されることに対する欲求欲望を持っている。二つに分けられる。

 第1は業績、熟練、資格、独立、自由などを手にいれる欲望。第2は他者から受ける尊敬としての評判、名声、地位、優越、他者からの関心や注意、などに対する欲望。

 自尊心の欲求を満たすことは自信、価値、強さ、有用性などの感情へつながるが、逆に妨げれば、劣等感、弱さ、無能さの感情を生み、基本的失望感となる。

 最も健康な自尊心は外からの評判や名声でなく正当な尊敬に立脚するものである。

オ)自己実現の欲求…「欲求がすべて満たされたとしても、 個人が自分に適していると考えられることをしていないかぎり(いつもでないとしても)新しい不満や不安がすぐに起こってくるであろう。

 人が究極的に平静であろうとするならば、音楽家は音楽をつくり、画家は絵を描き、詩人は詩を書いていなければならない。人間は自分のなりうるものにならなければならない。このような欲求を自己実現の欲求と呼ぶことができるであろう。」

 この用語はK. ゴルドシュタインによってはじめてもちいられた(1939)が本書では、「人の自己充足への欲望で、すなわちその人が本来潜在的に持っているものを実現しようとする欲望を意味する。この傾向は人がより自分自身であろうとし、なりうるすべてのものになろうとする欲望とも言いうるであろう。」 これが最も明確にあらわれるのはア)からエ)の欲求が前もってみたされた場合である(p.●)。

自己実現的人間-心理学的健康の研究

被験者として知人、友人、有名人、歴史上の人物から選んだ。選択の際の積極的な基準は「自己実現を大まかに、才能、能力、可能性を十分に用い、また開発していること」である。「このような人々は、自分自身を完成し、自分のできうるかぎりの最善を尽くしているように見える。」

 この基準の意味は、過去あるいは現在において安全、所属、愛、承認、自尊などを求める基本的情緒的欲求と、また知識や理解を求める認知的欲求が満たされているか、あるいは、まれにはこのような欲求が克服されているか、そのいずれかである。

 すなわち被験者全部が安全であり、安心していられる、受け入れられている、愛し愛されており、尊敬し尊敬されていると感じていること、および彼らなりの哲学、宗教、価値観を完成しているということなのである。」(p.●)

自己実現者は多くの人がこれが世界だと思い込んでいる人工の概念、抽象、期待、信念や固定観念を越えて、現実の世界に生きることができる。希望、恐れ、不安、自分の理論、信念よりも、実際にそこにあるものの方をはるかによく知覚することができる。

 健康な被験者は未知なものにおびえたり、ぎょっとしたりすることはなかったが、その点が平均的な人と非常に異なっている。かれらは未知なものを受け入れ、あいまいなもの、形をなさないものに耐えるだけでなく、それを好みさえする。神経症の例として誇張され示されるように、確実性、安全、明確、秩序を必死になって求める、ということはなある場合には、無秩序、だらしなさ、無政府的で混沌として、あいまいな疑問でみち不確かで一定せず、大雑把な状態にも快適でいられる。(これらはある瞬間には、科学、芸術、人生一般にとって望ましいことである)。このように疑問、不安定さ、不確実さは、ある人々にとって刺激的な挑戦である。(p.●)

かれらは自然を自然のままに受け入れるように、人間性の脆さや罪や弱さ、邪悪さを受け入れる。だから自己満足しているのとは違う。現実をはっきり見つめ、人間性をありのまま見つめ、彼らがそうあって欲しいと望む姿にみることはない。

健康な人が罪を感じる(恥ずかしく思う、不安がる、悲しむ)のは、1)改善できる欠点、つまり怠惰、無思慮、かんしゃく、他者を傷つけること。2)偏見、嫉妬、ねたみ。3)非常に根強い習慣。4)自分が同一視している文化、集団の欠点。(pp.●-)

人と争ったりせず、慣習的儀式をできるだけ好意的にやり通す。しかし根本的なことをやるときは邪魔な慣習や法律さえ許しはしない。普通の人々にとって、動機とは自分たちに欠けている基本的欲求を満足させようとする努力を意味している。ところが自己実現者の場合、基本的欲求の満足において何ら欠けるところはないが、かれらには衝動がある。普通の意味ではないが彼らに動機となっているのは、人格の成長、性格の表現、成熟、発展である。(pp.●-)

自己実現者は欠乏動機ではなく成長動機によって動かされているので、かれらの満足は一般的にいう外部的な満足で左右されない。内的欠乏が満たされたところに自己実現という個々の人間の発展の本当の問題が始まる。

環境から独立しているということは欠乏や欲求不満などに対して比較的安定していられることなので、他の人なら自殺しかねないような状況の下でも比較的穏やかで幸福でいられる。欠乏に動機づけられた人々は、そばに誰かがいてくれないと困るのである。成長によって動機づけられている人は、他の人が与えてくれる名誉、地位、維新、報酬、愛は、自己実現や内的成長ほど重要ではなくなっている。愛や尊敬から独立を保つところまで到達する。(pp.●-)

自己実現者は、アドラーが言った共同社会感情をもち、人類全般に対し、同一視や同情や愛情を持っている。彼らの献身には広範にわたる社会感情、慈善、愛情、親密性と同時に突出さが見られる。ほとんどすべての人に対して親切で忍耐づよい。(pp.●-)

原則的にはすべての行為は利己的であり、利己的でないから、健康人にあってはそのような二分性はなくなり、義務は喜びであり、仕事が遊びである。受容と反逆、自己と社会、深刻とユーモア、真剣さと不まじめ、能動的と受動的、肉欲と愛などについても同様である。高次のものと低次のものも対立せず一致している。(pp.●-)

■基本的欲求満足の前提条件(pp.●-)

言論の自由、迷惑をかけないかぎりしたいことをする自由、自己表現の自由、研究情報収集の自由、自己防衛の自己、正義、公平、正直、グループ内の秩序維持。これらの条件はそれ自体が究極の目的ではないが、「究極目的そのものである基本的欲求と非常に密接な関係にあるので、究極目的とほとんど同一とみられる。」

 認知の(知覚的、知的、学習的)能力を自由に使用するのを妨げることは基本的欲求自体を脅かす。

■動機づけの組織を動かすおもな力動的原理は「より強い欲求の満足された後、より弱い欲求が出現するところにある。」




◆(2)『上田吉一訳 完全なる人間 Toward a psychology of being』1962 誠信書房


 われわれはそれぞれ本来の精神的本性を持っている。それには本能的な基本的欲求、能力、器官などを含めるが、これは精神的傾向として示され、この素材は外界に接するにつれ自己の中で急速に成長し始める。これらは潜在的可能性であり、終局的実現ではないので、生活歴を持ち、発達的観点からみなければならない。 それらはたいてい、精神外の決定要因(文化・家族・環境・学習など)により実現させられ、形作られあるいはもみ消されてしまう。この各人の精神的本性は、全ての人のもつ特徴とその人に独自の性格特性とを持つ。多くは無意識のもので、自我と相入れないため抑圧されたり忘れられたりすれる。しかし抑圧されたものは、死ぬことなく生きつづけ、思考や行動に決定的な影響を及ぼす。同時にそれ自体は力動的な力をもっているので自らを表現しようとする。この力があるから精神療法や教育や自己改善が原理的に成り立つ。勿論、精神的核心や自己は前もって在るものの発見受容で成長するが、他のものは個人の選択により作られる。(pp.251-255)


 「少なくとも、人間には一般に、自己実現あるいは心理的健康として、またとくに、それぞれ一面の自己実現や全面の自己実現へと向かう成長として総括できるものにすすむ傾向があり、その方向に成長することを求めている。」


「人間は自分のうちに、人格の統合性、自発的な表現性、完全な個性と統一性、盲目にならず真実を直視すること、創造的になること、善なること、その他多くのことに向かう力を持っている。すなわち、人間はさらに完全な存在になろうとするように作られている。そしてこれこそ、大部分の人がよい価値とよぶもの、すなわち、平安、親切、勇気、正直、愛情、無欲、善へと向かう力を意味する。」(pp.208-)


 人間は本質的構造として生理的欲求と心理的欲求をもつとが、これらは欠乏としてとらえられ病気や主観的な病態を避けるために環境により十分に満たされねばならない。これらは基本的あるいは生物的な欲求とよばれる。


「すべての基本的欲求はそれを包む一般的自己実現への途上の単なる階梯と考えられる。」(p.205) しかも、健康な人間発達の基礎にある単一原理は、数多くの動機を結び付ける単一の体制原理であり、それは「低次欲求が十分にみたされて高次欲求を生ずる」という傾向である。(p.85)


 「健康な人々」は、動機の状態に関する限り、安全、所属、愛情、尊敬、自尊心にたいする基本的欲求を十分に満足していて、自己実現への傾向(成長欲求)により動機づけられている。基本的欲求が完全に満たされて、はじめて次の一層高次の欲求が意識にあらわれる。


基本的欲求のうち、性、排泄、睡眠、休息、などは欠損欲求とはいえないが、安全、所属、愛情、尊敬の欲求は欠損欲求であり、これらの不満足は病気の原因になるのである。(p.44,46)これら欠損欲求は他人のみが満足させることができ、環境に対して依存的である。成長欲求に動機づけられている人は、自立的で自己指向的である。(p.56) 


 社会あるいは文化は成長を促進したり阻止する。成長し人間になることの根源は、文化に先立って人間の原形質のうちに可能性として存在しており、社会により作り出されるものではない。社会は人間性の発達を助長したり妨げたりできるだけである。そして、良い文化はすべての基本的欲求を満たし、自己実現を可能にする。(p.278)


 西洋文明には人間の本能的欲求を邪悪と見なすところがあり、多くの文化はこの本来の人間性を統制し、禁止し、抑制し、抑圧する目的で作られている。(p.220) しかしわれわれの自己実現する人の特徴は多くの点で宗教の主張と等しい。そこで、文化を、欲求不満や統制の手段と考えるばかりでなく、欲求充足の方法と考えることも重要で、「健康な文化のおもな機能は、普遍的な自己実現を育てることにある」という解釈をしたい。(p.212)


 人間は人間らしく「形作られる」わけでない。環境の役目は人間が自己の可能性を実現するのを認め、助けるだけで、かれに可能性や能力を与えるものではない。創造性、博愛、愛する能力、真理の探求などは、人の持つ可能性の芽である。このことは、人間性を規定しているこれらの心理学的可能性を実現するためには、家庭での生活や文化の中での生活がどうしても必要である、ということと矛盾しない。教師や文化は人間を作らない。人を愛したり、探求心をもったり、創造したりする能力を教え込むものではない。萌芽として在るものを認め、育て、励まし、助けて生き生きとした現実になるようにするのである。(p.215) 


個人を健康な成長の方向に導くのは「自分は何を喜びとしているかをみる能力を取り戻すこと」 である。これが踏みにじられている自己を再発見する最善の方法である。(p.87) ◆