幕末・明治維新略史

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フォイエルバッハ
宇都宮芳明『フォイエルバッハ』
エンゲルス『フォイエルバッハ』

紹介
フォイエルバッハ,ルートヴィッヒ(1804~1872)

1804 カント死ぬ

1807 ヘーゲル『精神現象学』

1821 ヘーゲル『法の哲学』

1835ころ ヘーゲル右派(保守派)と左派(進歩派)

1839 「ヘーゲル哲学批判のために」

1841 『キリスト教の本質』

1843 『将来の哲学のための根本命題』

1846~1866『全集第1巻~第10巻』

1869 「幸福主義」



●宇都宮芳明『フォイエルバッハ』清水書院

*ヘーゲル哲学批判

叙述に先立つ思考そのものにとって最初のもの・直接的なものは何であろうか。

それはフォイエルバッハによれば、思考のいわば外にあって思考に根源的に対立し、その意味で思考そのものの自立性を否定するような、思考の対立者でなければならない。哲学が思考にとって真に直接的なもの・最初のものから出発すべきなら自らの対立者から出発しなければならない。それは「存在」である

ヘーゲルも『論理学』のはじまりに「存在」を置いた。『精神現象学』では感性的個別的な存在を、意識にとっての真の実在とみなす感性的確信から出発している。そして彼によると「一般的なものが感性的確信の真理であり、言語だけがこの真理を表現する」だから自分達が思い浮かべる感性的存在を言い表すことは不可能だという。ところがフォイエルバッハは、これでは出発であったはずの個別的な存在がいつのまにか一般的な存在にすりかえられてしまう、という。「哲学は真理と全体性における現実の学問である。ところが現実の総体は、自然である。もっとも深い秘密は‥‥‥自然の諸事物のうちに横たわっている。自然への環帰こそが救いのただ一つの源泉である。」



*主著『キリスト教の本質』

個々人が自分の有限性を意識するのは、その前に類の完全性や無限性が意識の対象になっているからである。個が有限だからといって類というものも有限だ、というのは、個と類を同一視する誤解によるものである。

また人間はその活動においてつねに対象に対して活動しているが、対象とするものにおいて自分を意識している。だから対象がなければ人間は無である。人間は人間がかかわり合う対象においてあらわになる。つまり対象は人間の本質であり客観的な自我なのである。だから人間は無限なものを思考するなら、それは思考能力の無限性を思考し確証しているのである。無限なものを感じるなら、感情能力の無限性を感じ確証しているのである。

「人間が思考するとうりに、また感じるとおりに人間の神は存在する。人間の神は人間が持つのと同じだけの価値を持ち、それ以上の価値は持たない。神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。‥‥‥神は人間のあらわになった内面であり、人間の語り出された自己である」このように神はもともと人間の本質であるが、宗教はそれを自覚していない。

神の本質は無限の知性である。それにたいして個々の人間の思考能力は有限であるが、類としての理性は無限である。つまり人間が神のうちで肯定しているのは人間の類的本質としての無限の知性である。

神の愛は自己愛ではなく、人間への愛である。これは、人間の人間自身にたいする愛が人間の最高の真理として、最高の本質として対象化され、直観されたものではなかろうか。

最高のものは人間の愛である。しかし人間の愛は神の愛に遠く及ばないといわれる。知性と同じことが当てはまる。個人としての人間の愛は不完全かも知れないし、ひそかな自己愛という不純な要素が含まれているかも知れない。しかし個人が愛の弱さ、不完全さを知るのは、人間の類的本質のうちに完全な愛への指向が宿っているからである。人間が神のうちにあると思うような愛は、個人の不完全な愛ではなく、人間の類に宿る完全な愛であり、真実の愛なのである。

フォイエルバッハによれば、他人を愛することは、他人と感情を共にし、他人の悩みを共に悩む、同情するということが含まれている。感情をもち、悩むことを知っている者だけが他人に同情し、他人を愛することができる。いいかえれば人間を愛するものはそれ自身肉をそなえた者でなければならない。これがイエス・キリストが人間の肉をそなえて地上に現われた秘密である。もしも神が肉も感情ももたない存在であれば人間を愛することはできないであろう。神もみずから肉をまとい人間まで低下してきて人間の苦しみや悩みを共にすることが必要なのである。

神とのかかわりのうちにのみ充足を求めるキリスト教徒は「他人に対する内的な欲求」をもたず、自分を「類の代表者である他人によって補おう」としない。神に対する信仰は深まれば深まるほど、人間と人間を分離する結果に至るのである。

信仰は本質的に党派的で不寛容であるが、愛はもともと自然であり、自由であり、非党派的である。だから信仰と愛は矛盾する。この矛盾を避けるために愛が信仰の下位におかれるならば、そのとき愛はたんにキリスト教徒だけを愛する排他的なものになってしまい、普遍的な隣人愛という性格を失う。現世の真実の生活を確立するためには人間がキリストのうちにあると考えようとした愛を人間の側に取り戻す必要がある。フォイエルバッハの意図は神の本質が人間の本質であると主張することによって、逆に人間を神にまで高めることにあった。神の愛に示される崇高な愛を人間に対する人間の愛に還元し、それをできるだけ地上において実現することが願いであった。



*将来の哲学のために

ヘーゲルの「精神」は弁証法的に自己を展開しながら世界のうちに様々な形象を産出し、絶対的精神へと高まっていくが、この「精神」こそは実は神学が理論的に変形されたもの。

ところで『キリスト教の精神』が明らかにしたように、神とはもともと人間の本質が外部へと対象化されたものである。とすれば、ヘーゲルが絶対者とみなす精神も実は人間の精神の投影物とみなければいけない。それは人間の肉体や感性から切り離され、そのものとして絶対化された人間の精神なのである。

「古い哲学がその出発点に、『私は抽象的で思考するだけの存在であり、肉体は私の本質に属さない』という命題をもっていたとすれば、これに反して新しい哲学は『私は現実的な存在であり、感性的な存在である。じつに肉体はその全体において私の自我であり、私の本質そのものである』という命題をもって始まる。‥‥‥新しい哲学は喜んで意識的に、感性の真理を承認する。‥‥‥新しい哲学は、愛の真理、感覚の真理を支えとする」

フォイエルバッハの場合、現実をあるがままに捕えるとは、現実に存在する一つ一つ異なった個別的な存在を捕えることを指す。われわれは個別的存在を思考することはできない。思考は思考そのものがもっている抽象作用のために、ただ一般的なものを捕えることができるだけで、個別的なものをその個別性において捕えることはできない。

フォイエルバッハのいう感覚とは個別的なものを個別的なものとして、個体を個体としてとらえる機能である。だから愛と感覚は同じものとみなされる。ある人を愛するというのは、その人をかけがえのない人として、絶対に個別的な価値をもつものとして愛することである。愛するとは、愛の対象が持つ個別性と絶対的価値を認めることである。

しかし感覚はもともと移ろいやすいもので、対象のうわべだけしか知ることができず、対象の個別的本質に到達しないのではないかという反論がある。フォイエルバッハは、それは最初の直観が対象その物ではなく自分の想像を見ているためにそうなるのだと考えている。

フォイエルバッハは「哲学の課題」は、ヘーゲルが主張するように「感性的事物から離れる」ことにあるのではなく、逆にそれに「到達する」ことにある。ヘーゲルは感覚や直観というと皮相なものを考えていたから、それから「離れる」ことを主張した。フォイエルバッハは「普通の眼には見えないものを、見えるようにする」ことにあるというのである。

しかし人間は個体を個体として愛する感覚機能を始めから行使しているのではなく、それを学ぶことによって行使できるようになる。そのためには自己の主我性を打破する「教養」をうることが必要である。

 真に存在の名にあたいする存在は「感官の、直観の、感覚の、愛の対象」である。愛の対象は人間に限られるわけではないが、人間は何にもまして重要な愛の対象である。愛は愛される側の存在だけでなく愛する側の存在をも明らかにする。私が真に何であるかは、私が他の人間を愛することによって、その愛を通じてはじめて自分自身にも明らかになる。つまり人間のもっとも重要で本質的な感覚対象は人間自身である。わたしは頭脳や思考をいくら働かせても、わたしが何であるか、人間が何であるか捕えることはできない。愛はそうした意味で、人間と人間の統一、個別的な「私」と「汝」の統一である。だからフォイエルバッハでは愛は、現実を認識する機能であると同時に、人間の類の統一を実現する機能なのである。

『根本命題』の終わりの部分で「自分だけで存在する単独な人間は、人間の本質を、道徳的存在としての自己のうちにも、思考する存在としての自己のうちにも、もっていない。人間の本質はただ共同体のうちにのみ、人間と人間の統一のうちにのみ、含まれている。-この統一はしかし、『私』と『汝』の区別の実在性にのみ基づく統一である」という。

 ヘーゲルの体系は自分のうちにとじこもった体系で、他人との一致を求めていないが、それに対して「真の弁証法は、孤独な思考者の自分自身との独話ではない。それは『私』と『汝』の間の対話である」といっている。

 新しい哲学は、「私」と「汝」を区別し、そこから改めて両者の統一-類の実現-を指向するといった、人間の哲学、人間学、であった。それは理論的な哲学であると同時に、実践的な哲学であり、フォイエルバッハにとってそれはキリスト教にかわる宗教でもある。

 また、ある思想が真実であることは一人の人間によってではなく、「私」と「汝」という複数の人間をまってはじめて保証されることになるが、これは健全な考え方であろう。「汝」という他人の媒介を経ない「私」のみの思想は主観的思想であろう。だが一般に「自我」を出発点とし、それを基盤とする近世哲学は「汝」の媒介を無視して、個としての自我を直接に類と同一視し、自我の思想を直接に人類の思想であると宣言する。

 科学的な自然認識の例を挙げて、個人の知的能力が有限であることを指摘し、全体的真理に至るためには、他人との協力が必要であることを強調する。結合されると無限の力である。個人の知は制限されるが、理性や科学は、人類の共同作用であるから、無限に進歩する。

 あるものが現実に存在するとは、たんに私がそれを感覚できるだけでなく、他人もまたそれを私と同じように感覚できると言うことである。それについて私と他人が一致するもの、私だけのものでないもの、一般的であるものだけが存在する。だからフォイエルバッハにとって「他の事物が私の外にあるという確実性は、私にとって、他の人間が私の外に存在するという確実性によって媒介される」ことになる。

 つまりあるものが私とは独立に存在することを私が確証できる根拠は、「私」のうちにではなく、むしろ「汝」のうちにある。私が今、見ているこの立ち木が、私だけに見えるのでなく、他人もまたそれを見ることができる、ということが、その立ち木が私から独立に存在する、ということである。私は「私」だけの存在をもってしては、この立ち木が外に存在することを確証できない。もし確証できると主張すれば、再び、自我中心的な古い哲学に戻っているのである。

 フォイエルバッハの感覚主義は自我中心的な感覚主義ではない。逆に「汝」の存在に依拠するから、根本において、ヒューマニズムであり、「人間主義」である。そして「汝」の実在性を認めることは、すなわち「汝」を愛することであった。



*ハイデルベルクでの講演

 キリスト教は、自然から区別された人間の本質を基礎づける諸力、すなわち意志、知性、意識を神的な諸力や本質として崇拝し、星や太陽や大地や空気を崇拝しない。それに対してし『キリスト教の本質』では自然を無視し、人間の本質から話を始めた。そこで人間がなにも前提にしないで自分自身を創りだしたというのか、という批判がある。そうではない。

 人間は決して自足した存在ではなく、人間以外のものに依存した存在である。しかしキリスト教徒が信じている神に依存するのではなく、自然に依存している。前提し必然的にかかわり合い、それがなければ自分の存在も本質も考えることができないのは「自然」である。それは抽象的なものではなく、感官の対象である。人間は生きて行くために光、空気、水、土、食物などの自然を必要とし、それに依存している。

「人間の内にある最高の本質とはなんであろうか。それは人間のすべての人間的衝動、欲求、素質の総体であり、一般に人間の存在、生活である。なぜなら人間の生活は実にすべてのものを自分のうちに包括しているからである。それゆえ、人間が自分の生活が依存しているものを神もしくは神的存在とするのは、もっぱら人間にとって人間の生活が神的存在であり、神的善もしくは神的事柄である、という理由に基づいている」

 人間が自分の生活を絶対視する姿勢を利己主義と呼んでいる。



*『唯心論と唯物論』

「いかなる衝動も存在しないところには、いかなる意志も存在せず、またいかなる幸福欲も存在しないところには、一般にいかなる衝動も存在しない」。あらゆる衝動はいずれも「匿名の幸福衝動」である。一般に意志するとはなにかを意志することで、そのなにかとは自己の幸福である。意志は常に幸福を意志する。無を意志する意志などは実際には存在しない。意志が幸福欲と結びついているという見方は倫理学上の幸福主義の立場である。

 私のほかに誰もいないところでは道徳は話題にならない。道徳は私と汝の結合からのみ導きだされ説明される。

 カントは自分自身に対する義務が他人に対する義務よりも道徳の基本だといった。フォイエルバッハは逆である。「自分に対する義務が道徳的な意味や価値を持つのは、それが他人に対する間接的な義務として認識される場合に限られる。つまり私が他人に対する義務をもつから、私自身に対する義務をもつ。」人間は自分だけで善であることはできず、他人に対する義務を履行し、他人にとって善であるかぎりにおいて善といえるのである。

カントは一切の幸福衝動を排し、自律的な理性が定める道徳の命令にしたがう行為が善であるとし、倫理学上の幸福主義を否定した。

フォイエルバッハは他人の幸福を望み、それを実現することが、私にとっての善である。私が意図的に他人の不幸を願うとすれば、それは私にとって悪である、という。

●では私の幸福はどうなるのか。私が善であるためには、私は唯、他人の幸福にのみ奉仕し自分の幸福を犠牲にすべきなのか。そうだ、と答えるのがいわゆる利他主義である。フォイエルバッハはこれを評価するが、むしろ自分自身の幸福は道徳の目的や目標ではないが、道徳の基礎であり前提である、という。まず第1に自分自身にとって何が幸福であるかを知らないで他人の幸福を援助できないから。

「己の欲せざるところを人に施すなかれ」「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」は道徳の基本的な掟であるという。これらは人間の幸福衝動を肯定しているから、健全である。

 良心とは私と汝の間の、自分の幸福衝動と他人の幸福衝動との仲介者であり、幸福衝動が良心と結びつくことで私の幸福を意図するともに、汝の幸福を意図するようになるであろう。そこで良心と結びつく幸福衝動と、結びつかない幸福衝動を区別できる。「道徳の原理としての幸福は、一つの人格のうちへと凝縮された幸福ではなく、さまざまな人格へと配分された幸福であり、私と汝を包括する幸福であって、それは一面的な幸福ではなくて2面的もしくは全面的な幸福」である。

 また幸福を欠いてはいかなる徳も存在しない。身体が栄養や衣服や光や空気や空間を必要とするように、徳もまたそれらを必要とする。人間を悪徳や犯罪から遠ざける幸福は、ぜいたくではなく、庶民の幸福であり、労働をしたあとに必要なものを享受することと結びついた幸福である。





フォイエルバッハ2

ユージン・カメンカ『フォイエルバッハの哲学』

 フォイエルバッハがめざした哲学の改革とは、人間を他者や自然的世界との交渉の中で形成される、具体的で自然的かつ歴史的存在として考え、哲学をその人間を研究する実証的科学と融合させることであった。



第9章 フォイエルバッハの倫理学



 倫理学はフォイエルバッハにとっては人間をその中心をもち人間の本性と諸願望に根ざすものでなければならなかった。倫理学は人間から道徳的諸原理を引き出すべきで、人間学的、人間中心的、自然主義的なものでなければならない。

 人間は自然から断絶した存在ではなく、人間の諸々の要求や必要や信念も、人間の自然的、経験的な性格と人間をとりまく自然的、経験的な環境とによって規定される自然的な現象である。人間を含む経験的世界を越えたその外側に存在するような本体的意志や良心あるいは道徳的能力などは現実には存在しない。

 人間は「我」のみでなく「汝」をも自己の内に体現するものと理解されねばならない。人間の感ずる能力や話す能力、ことによると推論する能力でさえ、これらの能力を生みだし、満足させるには、少なくとも2人の人間が必要である。純然たる個人的存在に過ぎない個人は人間とはいえない。類の一員となり、また自分が類の一員であることを意識するときはじめて、個々人は人間になる。個々人にせよ、人間に基礎を置く倫理学にせよ、他者との関係を認識し、他者と実際に関係をもつことを、「我-汝」関係を要請される。

 フォイエルバッハの倫理学は人間の尊厳を擁護し、人間精神の自律性を、憲兵と神学的権威(国家と宗教)によって押しつけられる他律性に抗して主張していた。かれが道徳批判で標的としたのはフェティシズム(呪物崇拝)と奴隷根性であった。宗教が道徳的に糾弾されねばならないのは、人間を魂なき被造物とみるからである。それは人間から創造力と自立性を奪い、神の名によって人間を脅かし卑しめる。そして宗教的隷属は必ず政治生活にもおよぶのである。

「道徳的存在としてであれ思惟する存在としてであれ、個々の人間それじたいが彼自身のなかに人間の本性を備えているわけではない。人間の本性は共同体のなかにのみ、人間相互の統一の中にのみ存する。しかるにこの統一は、我と汝が同一のものではないという事実をその前提とする。孤立は有限であり制約である。他方、共同体は自由であり無限である。人間は個々の人間それ自体としては、単に人間でしかない。他者とともにある人間、我と汝の統一体としての人間こそが神に等しき存在となる。」(P.243)

 キリスト教は人間を個人的存在としてのみ考え、結婚や家族にいかなる宗教的意味をも与えず、個人的救済のみを説く。キリスト教徒は他者を愛するにしても、他者それ自身のためでなく、キリストのためにそうする。神の愛にこたえ、かくして彼自身の救済を確実にせんがために他者を愛するに過ぎない。

 キリスト教徒が「善き行ないをするのは、かれが本質的に有徳な性向をもっているからではない。……かれは善それ自体や人間のためでなく、神のため善き行ないをする。……キリスト教における徳の理念とは、償いの犠牲になる理念にほかならない。詳論すれば <神は人間のために自己を犠牲のにしたがゆえに、人間もまた神のために自己を犠牲にせねばならない。犠牲が大きければ大きいほど、善き行ないである。人間と自然の本性に逆らう行為をすればするほど、人は自己にうちかち、徳の高い人間になりうる> という理念がそれである。……カトリシズムは犠牲を至高の道徳理念とする。」P.244



 1860年代になると、食べかつ飲み、寒さや飢えを感じ、自分の諸願望を充足させようとし、同時に自分の仲間を愛したり憐れんだりするような人間に関心が移った。彼の倫理学の出発点は従来の道徳観の否定である。哲学の衣装をまとった神学的道徳観、すなわち経験に依拠しない善き意志というカントの道徳観を、フォイエルバッハは批判し断罪する。実際には意志など存在せず、存在するのは意欲する人間のみである。「意志は、人間一般と同様に時間と場所に制約される。なんとなれば意志とは意欲する人間以外のなにものでもないのだから」P.238


 自殺を、抽象的意志が自由をもつことの例証とすることがあるが、彼は自殺は自由の産物ではなく、「悲しき必然」の結果であるというのである。自殺を企てる人間は生に執着する、だからこそある状態では生きることにたえられないのであり、かれの体の構造そのものがある種の苦痛や苦悩に耐えられないようにできている。その意味で自殺は自由に選び取られた行為ではなく、その人にとっては必然的な行為である。

道徳は純粋な意志に基礎を置くものではありえない。特定のなにかを求めない純粋で超然たる意志などはない。存在するのは、同一の人間の様々な意志と葛藤を引き起こす可能性をもち、現に葛藤を引き起こしている「……しようとするある意志」だけである。願望から自由であると称する純粋意志や実践理性の表現たる道徳律はいかなる内実ももたず、それ自身からいかなる内実も生みださない。だから願望から独立した道徳体系を構築しようとしたカントの努力は誤りであった。

 道徳に内実を与えるのは、人間の諸願望だけである。

 「欲動のないところ、意志はない。しかし幸福への欲動がないところには、そもそも欲動など生まれない。幸福への欲動は、すべての欲動に先立つ第1の欲動である。……知識への欲動ですら幸福-それは悟性によって満足させられるような幸福である-を求める欲動にほかならず、その点は、文化の発展に伴って知識への欲動が、独立した欲動に分化した時代においても変わりない」P.250

 私は意欲する、というのは、私は幸福になることを意欲するという意味である。フォイエルバッハは幸福への欲動が人間の本質である。このことは、ドルバックの『自然の体系』で立証されたと考える。人間はその構造上、苦悩を避け種々の満足を求めるようにつくられているのである。

 「幸福への欲動は、生きかつ愛し、存在しかつ存在することを欲するすべてのもの、すべての生きとし生けるものにとって第1の基本的な欲動である」

人類全体にとって、人類を福利あるいは幸福に導く行為が即善き行為である。道徳は、他者の幸福を犠牲にして己一個の幸福を求めるがごとき利己的欲動にのみ対置させられうるのである。

 義務と、快楽を求める願望との相克は、快楽を求める2つの対立する願望(私自身の快楽を求める願望と他者の快楽を求める願望、あるいは当座の快楽を求める願望と長期的な快楽を求める願望)の間の対立である。

 「個人的幸福は道徳の目標でも目的でもないが、その基礎であり前提である。したがって、かかる個人的幸福になんら道徳的意義を与えない者、それを無視しさる者は恣意性の支配する呪わしい世界へと足を踏み入れる。なんとなれば、幸福になりたいとの願望を実際にもつことによってのみ人は、善と悪、生と死、愛と憎のなんたるかを知り、それらがいかなるメカニズムに従って動いているかを知るからである。」P.252

 フォイエルバッハの立場からは、道徳は幸福の普遍化である。また道徳に内実を与えるのは快楽・苦痛、満足・不満足の個人的経験であり、道徳に形式を与えるのは、他者の幸福を己の幸福と同程度重視すべしと命ずる普遍性の原理である。道徳は自己と他者を同じ物差しを同じ物差しで測るところに存するのであって、己の欲するところを人に施せと教える聖書の黄金律は倫理学に形式を与え、また内実を与える。快楽を追及することは資力があり、また義務や仕事を疎かにしなければ、決して非道徳的なことではない。



「自分には認めるところのものを他人から取り上げたり他人には認めないこと、自分の幸福への欲動だけを実践的にも理論的にも重要なものとし、他人のそれをそうとは認めないこと、他人の不幸を自分自身の幸福への欲動に汚点を印すものとして心にかけないこと、これらはすべて非道徳的なことである。

 他人の幸福を自分の幸福とし、他人の不幸を自分の不幸として、他人の幸福や不幸に積極的に関与する-むろん、可能な限り他人の不幸を取り除く手助けをしてやろうという気持ちからでなければならないが-こと、これが、然り、これのみが道徳の本質である。

 その際、他人に対する義務を果たそうという気持ちを起こさせるところのもの(源泉)は自分自身にかかわる義務を果たさしめるところのもの(源泉)と同一のものであり、善悪を判断しうる基準は自分自身にかかわる義務を判断するとき適用する基準以外にありえない。

 善とは幸福をめざす人間の欲動に一致するもの、悪とはそれに意識的にかつ計画的に敵対するところのもの」である。P.253

 「私の内なるいわゆる『超経験的』良心の源泉は、私の外なる我、すなわち経験的な汝である。私の良心とは、損なわれた汝にとってかわって自己を主張する私の我にほかならず、他者の幸福の代理ないし代表-もとよりそれは、幸福をめざす私自身の欲動に基づき、かつその命令にしたがって行動するような代理ないし代表である-以外のなにものでもない」

 良心の声は幸福の声に敵対するものではない。善き良心の場合、それは満足や幸福と離れがたく結びついているから、われわれはそれをもっていることにほとんど気づかない。



 利己的な心理的快楽主義を倫理学の基礎にすえる論者は、どのようにして、万人の幸福を追求すべき道徳的義務を課せられることを導くのか。記述的な個人的快楽主義から規範的な普遍的博愛主義への移行を立証するのか。

 フォイエルバッハがかれらと一線を画すのは、真の道徳は命令を発しない、と考えていること、真の道徳は強制的な当為に基づくものではないとはっきり主張していること、同様に博愛が人間の本性からわき出てくるものだという自然主義的説明をなんとか与えようとしていることである。彼には、真の道徳は博愛と同じく、人間の本性と他者との関係から自ずと生まれ出るもので、したがって、究極的で最終的な命令ではなく、人間の経験的な諸憧憬と諸欲求を基にして構築されるべきものと思われた。P.255

 だから真の道徳とは権利と義務の神学的命令構造ではなく、習慣ないし生活態度であった。「道徳とは真実で、完全で、健全な人間本性であり、誤謬、悪行‥‥‥などは人間性の歪み、不完全、異常、そしてしばしば真正の発育不全にほかならない。」

 幸福を求める個人的欲動から、いかにして道徳の普遍的形式-博愛の原理や他者の幸福への関心-が生じるのか?

(1) この点で汝本位主義の主張つまり我・汝関係が人間性の本質的構成要素であるという主張に戻る。そして、幸福への利己的欲動から出発する人間がいかにして他者に対する義務を認識するようになるのか、については自然が解決する。つまり、自然が人間に幸福への相互的欲動-己1個の力だけでは充足することができず、他の人々、すくなくとも親・きょうだいからなる家族集団と協力しなければ充足できないような欲動-を作り出すことによってこの問題を解決する。

(2) フォイエルバッハの立場はヒュームに似ている。道徳および道徳的態度は幸福を求め苦痛を回避する人間本性-それは憐憫すなわち他人の苦痛を推察し理解しそれに関与する能力と結びついている-から自然と成長してくるものである。いったん身に付いた道徳や道徳的態度は、他人と親しくしていたいという感情の要求などで強化される。ヒュームと同様にフォイエルバッハにとっても、習慣は徳の秘密だった。

(3) 「愛が道徳的とされるのは、愛する私が幸福への欲動を放棄し、ひたすら相手に対する義務を果たそうとするからではない。私自身を幸福にすることによっていま一人の人をも幸福にする、このことを私が心から望むからこそ愛は道徳的なものとされるのである。」フォイエルバッハは各人の幸福が他者の幸福に依存し、他者の幸福を導くような Gemeinschaft 自然的共同体の存在を信じようとしたのである。

 実際には私の幸福と他者のなす事柄との間の不一致の生じる可能性がある。この不一致は「互いの幸福を妨害し合わずとも、私自身の幸福を断念せずとも他者が幸福になればよいのだが」という道徳的願望を産み出す。徳とは、他者の幸福を脅かさない時にのみ幸福と感じる、そのような自己犠牲の幸福をいう。徳の欠如、つまり他者の幸福に対する関心の欠如は、人が自分自身の要求を何が何でも満たそうとするところから生じるのであり、悪徳から生じるのではない。

 悪事を押しとどめるものは、道徳哲学者がいう善き意志や理性ではなく、幸福、生活に必要なものがある程度そろっていればそれで満足する、ごくありふれた平凡な幸福である。

 フォイエルバッハにとって道徳とは、人間が類の一員として幸福を追求する中から自ずと生まれてくる一連の規則や態度である。そこでフォイエルバッハの人間学-道徳の自然的基礎の分析-は、道徳の命令を願望に変える。道徳的判断はすべての人がかように行動してくれればよいのだが、という願望である。この願望に内実を与えるのは人間的な欲動と要求であり、この欲動に普遍性を与えるのは人間の相互依存と愛と自然の憐憫の情である(*下線、岸)。



フォイエルバッハの幸福への欲動とは何か? P.262

 一般に利己的な心理的快楽主義や普遍的な心理的快楽主義を批判するとき、「幸福」という概念を十分に分析できていない点を指摘することが多い。マゾヒストは快楽と苦痛のいずれを求めているのであろうか。両方同時に、と答えざるを得ない。これは快楽と苦痛が完全な対立物というわけではないことを示している。(*本人が求めているのだから快楽に違いないが、本人はその苦痛がたまらない、といいながら求めている)。願望の充足とか幸福の達成という概念も、緊張の緩和という機械的モデルに基づいて安易に使われる。快楽主義者は人間が困難や問題と苦闘し解決するときに充足感などはありえないかのようにいう。(*緊張を緩和することを目指すならば、解決しにくいことは回避するはずなのに、実際には解決するために努力している)。

「幸福ないし至福とは健全で正常な生活の状態、安寧の、あるいは安寧である状態、人が自己の生と本質に特有のかけがえのない諸々の要求や欲動(*下線、岸)をなにものにも妨害されることなく満たすことができるし、実際に満たしているような状態、まさしくかかる状態をいうのである」。一般的に、フォイエルバッハが幸福とか安寧について語るとき、いずれも悲惨や苦悩がない状態-つまり多様な人間的欲動が充足されている状態-という意味に理解する。したがって彼にとってあらゆる欲動が幸福への欲動であるにしても、それは、その欲動が人間の安寧を増進させるような対象に向けられているという意味においてそうであるに過ぎないのである。

「嫌悪、然り、困窮と苦痛に対する嫌悪と憎悪、これこそが人間にとって最初の意志であり、それでもって感性的存在が生を開始し、生を維持するところの意志である。かかる意志は本来的に自由であるのではなく、自由たらんとする。悲惨と悪とから、欲動充足の阻止から自由たらんとする」。「人間の意志が直接対象とするところのものは個々の場合には安寧、ひとたび一定量に達すると幸福と呼ばれる、そのような内的状態であるということ、換言すれば、人間の意志とは、その構造上、その指導と働きによって、快楽への欲動(幸福と自己愛への欲動)を産み出すようなもの、すくなくともその主要な素因であるとみなされなければならないということ、これである。」

 フォイエルバッハは、快楽ないし幸福を追求する行為と、様々な欲動の目標となる個々の具体的事物を追求する行為、との間に格別の区別を設けていない。彼は、人間が特定の諸必要物をもち、これらの必要物を満たすことが幸福、これらの必要物を満たしえないことが悲惨ないし悪であると考えた。したがって、幸福への欲動とは、単にこれらの必要物を満たそうとする一つ、あるいはいくつかの欲動に過ぎなかった。P.265

「幸福はそれゆえ生が存在するすべてのもののなかに存する。なぜといって、生(いうまでもなく欠陥のない、健全で、正常な生)と幸福とは本質的に同一のものだからである。‥‥‥かかる欲動や器管のすべてが同一の意義と価値をもつわけではない。」もとより個々人は様々な方法で幸福を見出す。「人間も人間の幸福への欲動もともに自然の産物であり、人間の肉体と魂、頭と心が自然によってつくられ、自然によって規定されるのと同様に、人間の幸福もまた自然によってつくられ、自然によって規定される」からである。かくして、英雄は英雄なりの、臆病は臆病なりの幸福を見出す。

 しかし各人の幸福が違い、一人一人の味覚が異なるにしても、この種の差異や多様性が無視しえないものになるのは贅沢な幸福や贅沢な食品が問題になるときだけである。この種の贅沢品を別にすれば、人間の基本的諸要求はまぎれもなく普遍性をもつ。この普遍性は、満足のヒエラルキー-より高級で永続的な欲動と結びついたものもあれば、より低級で刹那的な欲動と結びついたものもある-が存在する事実とともに事実である。



 フォイエルバッハによればこの世に定言的命令(無条件に‥‥‥せよ)は存在せず、道徳の命令を含めてすべての命令は仮言的命令(もし‥‥‥したいと思えば‥‥‥せよ)である。仮言的命令はある種の目的があって初めて力をもつ。このような目的は人間の本性のみならず、すべての科学や知識の理論構造の中にも組み込まれている。学問ないし科学としての道徳理論は諸法則のみならず諸原理をもあわせもっている。医学が健康という概念や正常に機能する肉体という概念を持つのとまったく同様に、それは人間という概念や人間に典型的な行動という視点をもつのである。道徳の諸原理は、道徳的行為を道徳から逸脱した行為、すなわち非道徳的行為から区別することを可能ならしめる。P.270

 しかし健康の概念は医学が進歩する過程で内容が豊かになった。安寧という肉体的精神的な概念は、道徳科学が発展する過程のなかでのみその内容と正確さを獲得するのであって、道徳の抽象的な公準として出発点に据えられるべきものではない。。





●抄録フォイエルバッハ『将来の哲学の根本問題』1846年

「将来の哲学の根本問題」

(pp.70-)

33

 新しい哲学は存在を、たんに思考する存在としてだけでなく、また現実に存在する諸存在として観察し考慮する。だから、存在を人間にとっての対象として観察し考慮する。人間もひとつの存在だが,その存在にとっての対象となる存在は--こうした存在だけが初めて存在であり、初めて存在という名に価するのである--感官の、直観の、感覚の、愛の存在である。

 だがら、存在が直観の、感覚の、愛の秘密である。感覚においてのみ、愛においてのみ、「このもの」-この人、この事物-すなわち個別的なものは、絶対的価値をもち、有限なものは無限なものである。ここに、そしてここにのみ、愛の無限の深さと神性と真理がある。

 キリスト教の神は、それ自身、たんに人間的な愛からの一つの抽象にすぎず、たんにその似姿にすぎない。しかし、まさに「このもの」は愛のうちでのみ絶対的価値があるのだから、存在の秘密はまた、抽象的思考のうちではなく、ただ愛のうちでのみ開かれる。

 愛は情熱であり、しかも情熱だけが生存のしるしである。現実のものであろうと、可能なものであろうと、情熱の対象であるものだけが存在する。感覚も情熱もない抽象的思考は、存在と非存在の区別を廃棄するが、しかし、思想にとってはないに等しいこの区別は、愛にとっては一つの実在である。愛するとは、この区別に気づくことにほかならない。その対象が何であろうと、何も愛さない人にとっては、或るものが存在するかしないかは全くどうでもいいことである。しかし、存在は愛によってのみ、感覚一般によってのみ、非存在と区別されて私に与えられるように、或る対象もまた愛によってのみ、私と区別されて私に与えられるのである。

 苦痛は、主観的なものと客観的なものとが同一視されることに対する抗議である。愛の苦痛とは、イメージのうちにあるものが現実にはないということである。ここでは主観的なものが客観的に存在するはずのものとなり、現実ではないイメージが対象となる。しかし、このことはあってはならないことであり、それは矛盾であり、非真理であり、不幸である。

 そこで、主観的なものと客観的なものと区別した上で、両者の真の関係をつくりだそうとする要求が生まれてくるのである。例えば愛は、われわれの頭脳のそとの対象の存在についての、真の存在論的証明であり、愛、感覚一般以外に、存在についてのいかなる証明もない。その存在が君に喜びを、その非存在が君に苦痛を与える、そういうものだけが存在する。客観と主観の区別、存在と非存在との区別は、苦痛と同様に喜びをあたえる区別である。

34

 新しい哲学は愛の真理、感覚の真理をより所とする。愛において、感覚一般において、すべての人間は、新しい哲学の真理を承認する。その基礎について言えば、新しい哲学はそれ自身、意識へと高められた感覚の本質にほかならない。それは、すべての人間が-現実の人間が-心情において認めることを、理性によって肯定するにすぎない。それは、知性へもたらされた心情である。心情は、抽象的な対象や本質を欲しない。それは現実的な対象と本質、感性的な対象と本質を欲する。

35

 古い哲学が、思考されないものは存在しないと言ったとすれば、新しい哲学は、これに反して、愛されないもの、愛されえないものは存在しないと言う。

 ところで、愛は客観的にもそうだが、また主観的にも存在の基準、真理と現実性の基準である。愛がないところには、また真理がない。そして、何ものかを愛する人だけが、何ものかである。何ものでもないことと、何も愛さないこととは同じである。人が多くのものであればあるほど、それだけ多くかれは愛し、その逆でもある。

36

 古い哲学がその出発点に、「私は抽象的な、たんに思考するだけの存在であり、肉体は私の本質に属さない」という命題をもっていたとすれば、新しい哲学は、それに反して、「私は現実的な、感性的な存在である。肉体は私の本質に属している。それどころか、肉体の全部が私の自我、私の本質そのものである」という命題をもって始まる。

 古い哲学者は、感性的表象(イメージ)をよせつけず、抽象的概念を不純にしないために、理性とはお構いなしにイメージを作り上げてしまう感覚器官と調和がとれないまま思考していた。これに反して、新しい哲学者は、感覚器官との一致と平和のうちに思考している。

 古い哲学は、存在を自己のうちに含むという神の概念そのものにおいて感性を承認していたのである。なぜなら、この神という存在は,思考された存在とは区別された或る存在、精神や思考のそとの存在とみなされた。その意味では,客観的な存在で、思考によらないで分かるもの,すなわち感性的な存在でなければならなかった。だからただ遠回しに、概念的に、無意識に、いやいやながら、やむをえず、そうしたにすぎない。これに反して、新しい哲学は、喜んで、意識的に感性の真理を承認する。それは感性的であることを少しもかくさない哲学である。

37

 近世哲学は、直接的に確実なものをさがし求めた。そこでそれは、スコラ哲学を拒否して、哲学の基礎を自己意識に置いた。言いかえれば、それは、たんに思考された存在、全スコラ哲学の最高にして究極の存在である神の代りに、思考する存在、自我、自覚した精神を置いた。

 というのは、思考されたものよりも思考するものの方が、思考する人に無限に近く、現在的で、確実だからである。そうすると神の現存は、これを疑うことができるし、そのほかにも私が思考するものは、疑うことができる。しかし、私が存在すること、自我、私が思考するということ、私が疑うということは、疑うことができない。

 しかしながら、近世哲学の自己認識は,それ自身またしても,思考された,抽象によって媒介された疑うことのできる存在としてみなされるようになる。そうなると,いよいよ疑うことができず、直接に確実なものというのは、ただ、感覚器官の対象となるもの、直観の対象となるもの、感覚の対象となるものだけとなるのである。

(pp.88-)

50

 新しい哲学の対象は、現実的で全体的な存在,つまり人間という存在が対象とするものである。

 新しい哲学の認識原理として、すなわち主体は人間の現実的で全体的な存在である。理性の実在性、主体は、ただ人間だけである(いわゆる自我や、絶対的すなわち抽象的精神や独立的な理性ではない)。人間が思考するのであって、自我や、理性が思考するのではない。

 だから、新しい哲学は、ただそれ自体としての理性の神性すなわち真理をより所とするのではなく、それは人間全体の神性すなわち真理をより所とする。言いかえれば、それは理性をより所とすることはするが、しかし、その本質が人間的本質であるところの理性をより所とする。

 だから、人間の血が通っている理性をより所とする。古い哲学は「理性的なものだけが、真実で現実的なものである」と言ったが、これに反して、新しい哲学は「人間的なものだけが、真実で現実的なものである」と言う。というのは、人間的なものだけが理性的なものであり、人間が理性の尺度だがらである。

51

 思考と存在との統一は、人間の大脳の作用を離れた思考そのものとか,観察できなくても存在するはずだと思われるような存在などの統一ということを問題にするのではなく,人間がこの統一の根拠・主体としてとらえられる場合にのみ、意味がありまた真理である。

 抽象的な思考そのものが主体になるのではなく、人間という現実的な存在が語る話のなかで述語として使われる場合に、はじめて思想や思考もまた人間という存在から切りはなさないで考えることができる。だから、思考と存在との統一は、ただ、思考の対象、内容にのみ依存しているのである。

 人間であることから離れて哲学者であろうと思うな。思考する人間以上のものであるな。現実の人間的本質の全体性からはなれた、それだけで孤立した一学科の思考家として思考するな。生きた、現実の存在として思考せよ。そうした存在として君は、人に生気を与え、さわやかにするのだ。生存の中で、世界の中で、その成員として思考せよ。そのとき君は、君の思想が存在と思考との統一であることを期待することができる。思考とは,人間というひとつの現実的存在が行うひとつの活動であるが,その様なものと考えられた思考を使うことによって現実の事物と本質をとらえることができるはずである。

 それに対して,思考を人間から切り離し、そのものだけで固定すると、思考はどのようにして存在、客体に到達するかという、やっかいな問題が生ずる。ただ君が、他の人の対象となることによってのみ、君は自分を対象へ高める。ただ君の諸思想は、それが客観性の検証に耐えるときにのみ、すなわち、それを自分の客体としている君以外の他の人もまたそれを承認するときにのみ、真実とみなされるのである。

 君は、君自身が目に見える存在としてのみ、見るのであり、君自身が手にふれられる存在としてのみ、手にふれるのである。開かれている頭脳にとってのみ世界は開かれており、頭脳の窓はただ感官だけである。

 これに反して、それだけで孤立し、自分のうちに閉された思考、感官を欠き、人間のいない、人間のそとの思考は、絶対的な主体であり、他のものにとっては客体でありえず、またあるはずもない。

53

 人間は動物のように特殊的存在ではなく、普遍的な存在であり、したがって、なんら制限された、不自由な存在ではなく、制限されない、自由な存在である。なぜなら、普遍性と無制限性と自由とは、切り離すことができないからである。そしてこの自由は、意志という一つの特殊な能力のうちに存在するのではなく、同様にまた、この普遍性も、思考力や理性という一つの特殊な能力のうちに存在するのではなく、この自由や普遍性は、人間という存在そのもの全体がもともともっているものであり,意志を働かせる納涼が自由であるとか,普遍性が基礎になって思考力や理性が現われてくるというわけではない。

 また動物の感官は人間よりも鋭い。それは、動物の欲求と必然的に関係している一定の事物についてそうであるにすぎず、こうした特定の事物へ排他的に限られているために、より鋭いのである。

54

 新しい哲学は、人間の土台としての自然をも含めた人間を、哲学の唯一の、普遍的な最高の対象とする。だから、人間学を、自然の学をも含めて、普遍学とする。

55

 芸術や宗教や哲学や科学は、真の人間的本質の現象、あるいは示現にすぎない。人間、完全な、真の人間とは、ただ、美的あるいは芸術的感覚と、宗教的あるいは倫理的感覚と、哲学的あるいは科学的感覚とを具えている人である。一般に人間とは、人間的なものを何一つ自分から締め出さない人のことである。「私は人間である。人間に関するどんなものも私に無関係であるとは思わない」--この命題は、その最も普遍的な、最も高い意味において、新しい哲学者の標語である。

56

 人間の、自然のままの立場、すなわち、私と君、主体と客体に区別する立場が、真の立場、絶対的な立場、したがってまた哲学の立場である。

57

 真理にしたがった、頭脳と心情との統一は、それらの差異を抹殺したり、もみ消したりする点にあるのではない。むしろ、心情の本質的対象がまた頭脳の本質的対象でもある、したがって対象の同一性のうちにのみある。心情の本質的で最高の対象である人間を、また知性の最も本質的で最高の対象にもする新しい哲学は、したがって、頭脳と心情との、思考と生活との理性的な統一を基礎づける。

58

 真理は、思考のうちにあるのでもなく、知識それ自体のうちにあるのでもない。真理は、ただ人間の生活と本質の全体である。

59

 単独な個人は、人間の本質を、道徳的存在としての自分のうちにも、思考する存在としての自分のうちにももたない。人間の本質は、ただ、協同体のうちに、すなわち、人間の人間との統一のうちにのみ含まれている。この統一は、しかし、私と君の区別の実在性にのみ支えられている。

60

 孤独は有限性と制限性であり、協同性は自由と無限性てある。単独な人間は普通の意味での人間であり、人間とともにある人間、私と君との統一は、神である。

62

 真の弁証法は、孤独な思想家の自分自身との独白ではない。それは私と君の間の対話である。

63

 どんな存在も、それが人間であろうと神であろうと精神であろうと自我であろうと、そしてまたそう呼ばれていようと、ただそれだけでは、真の、完全な、絶対の存在ではなく、真理と完全性は、ただ、本質上等しい諸存在の結合、統一だけである。哲学の最高にして究極の原理は、したがって、人間の人間との統一である。すべての本質的関係、すなわち、さまざまな科学の諸原理は、この統一のさまざまな仕方にすぎない。





「哲学改革のための暫定的命題」

(pp.-110)

 限界もなく時間もなく窮迫もないところには,また、質もなくエネルギーもなく精気もなく情熱もなく愛もない。窮迫した(notleidend)存在だけが、必然的な(notwendig)存在である。欲求のない生活は余計な生活である。欲求一般のないものにはまた生存の欲求もない。それはあろうとなかろうと同じである。窮迫のない存在は根拠のない存在である。悩むことのできるものだけが、生存するに値する。苦痛にみちた存在だけが、神的な存在である。悩みのない存在は、存在のない存在である。





◆エンゲルス『フォイエルバッハ論』(1888)岩波文庫

 「人間を動かすものは、すべてその頭脳を通過しなければならないということは、どうしても避けることができない。飲み食いでさえそうであって、それは頭脳によって感じられた飢えと渇きに始まり、同じく頭脳によって感じられた満腹に終わるのである。人間にたいする外界の諸影響は、人間の頭脳のうちに表現され、さまざまの感情、思想、衝動、意志決定として、一口で言えば「観念の流れ」として反映され、そしてこうした形をとって「観念の力」となる。ところで、こうした人間が一般に「観念の流れ」を追い、そして「観念の力」が自分に影響を与えるということを認めるという事情-そうしたことが人間を観念論者にするとすれば、ある程度正常に発達した人間は、すべて生まれながらの観念論者であって、そうなると、およそ唯物論者というものがどうして存在することができよう。」(pp.44-45)

 フォイエルバッハによると、「幸福を求める衝動が人間に生まれながらに備わっており、したがってこれがあらゆる道徳の基礎でなければならない」のである。「幸福衝動は人が自分自身とのみかかわっていたのでは、ごく例外的にしかみたされるものではなく、また自分と他人のためになることはけっしてない。幸福衝動は、外界との交渉を必要とする。すなわち、それを満足させる手段である食物、異性、本、談笑、議論、活動、消費したり働き掛けたりする事物、などを必要とする。フォイエルバッハの道徳は、幸福衝動をみたすこれらの手段や事物が各人にちゃんと与えられていることを前提しているか、でなければ実行不可能なありがたい教えを各人に与えるだけで、したがってこれらの手段をもたない人々にとっては三文の値打ちもないものであるか、どちらかである。」フォイエルバッハも「飢えや貧窮のために君の腹のなかになにもないときには、君の頭、君の心情のなかにも、道徳にいたるなにものもない」といっている。さらにフォイエルバッハは、他人の幸福衝動の平等な権利の要求を、絶対的なもの、どんな時代と事情にたいしても通用するものであるというが、そんなことはない。(pp.53-54)

 「社会の歴史のうちで行動している人々は、すべて意識を持ち、思慮や熱情を持って行動し、一定の目的をめざして努力している人間であり、なにごとも意識的な意図、意欲された目標なしには起こらない。・・・個人は意識的に意欲された諸目標をもっているにもかかわらず、表面上では大体において外見上の偶然が支配してはいる。意欲されたことが起こるのはまれで、大多数の場合、多くの意欲された目的が交錯したり抗争しあったりするか、あるいはこれらの目的そのものがはじめから実現できないものであるか、または手段が不十分であったりする。このようにして歴史の領域における無数の個々の意志および個々の行為の衝突は、無意識の自然を支配しているのと類似した状態をもたらす。・・・表面で偶然がほしいままにふるまっている場合には、それはつねに内的な、かくれた諸法則に支配されているのであって、大切なことはただこれらの法則を発見することである。人間はその歴史がどんな結果をうむにせよ、各人が各自の意識的に意欲された目的を追求することによって、その歴史をつくる。そしてこれらのさまざまの方向に働く多くの意志と外界に対するこれらの意志のさまざまな作用との合成力が、まさに歴史なのである。したがって問題は、これら多くの個人がなにを欲しているかということである。意志は熱情や思慮によって規定される。しかしまた熱情や思慮を直接に規定する刺激は非常にさまざまである。・・外的な事物・・観念的な動機、名誉心とか「真理と正義に対する感激」とか個人的な憎しみとか・・気まぐれとかでもありうる。・・・さらに次のような問題が生じてくる。それは、これらの動機の背後のさらにどんな動力があるのか、どんな歴史的原因が行動する人々の頭脳のなかでそうした動機に形を変えるのか、という問題である。」(pp.67-69)

 歴史の領域では旧唯物論は自分に不忠実になる。「旧唯物論はそこで働いている観念的な動力を最後の原因と考えて、それらの背後になにがあるか、これの動力の動力であるかを研究しないからである。観念的な動力を認める点にその不徹底があるのではなく、観念的な動力からさらに進んでそれらを動かしている原因にまでさかのぼらない点にあるのである。」ヘーゲルが代表する歴史哲学は、人々の動機は歴史的事件の最後の原因ではなく、これらの動機の背後にべつの力があることを認め、それは歴史の外の哲学的イデオロギーだという。もし問題が「歴史のうちで行動する人間の背後にあって、歴史の真の究極的動力をなしている原動力」を研究することだとすれば、「どんなにすぐれた人間であろうと、個々の人間の動機よりも、むしろ大衆を、諸民族の全体を、そして各民族の諸階級全体を動かす動機」、それも、いつのまにか消えてしまうのではなく、持続的で大きな歴史的変化をもたらすような行動への動機が肝要である。」(pp.69-71)

 「国家すなわち政治的要素は従属的な要素であり、市民社会すなわち経済的諸関係の領域が決定的な要素である。」「旧来の見方では、国家が決定的な要素で市民社会は国家によって決定される要素とみられていた。外見はそれに一致している。個々の人間のばあいにかれの行為のあらゆる起動力がかれの頭脳を通過して、かれの意志の動機に変わらなければならないように、市民社会のあらゆる要求もまた法律の形をとって一般的な効力を得るためには、国家の意志を通過しなければならない。」「近代の歴史においては国家の意志は全体として見て、市民社会の要求の変化によって、どの階級が優勢であるかに、そして結局は生産諸力と交換関係の発展によって決定されることを見いだすのである。」(p.74)