西山千明『マネタリズム-通貨と日本経済』東洋経済新報社、昭和51年8月
(文中、下線は紹介者)
現在は多くの人がマネタリストと呼ばれているので、「マネタリズムとはシカゴ学派を中心とした現代貨幣数量説のことである」と理解することはもはや妥当性を大きく失ったことになる。
原動力がシカゴ学派であり、特にフリードマン教授であったことは疑いない。
「マネタリズムは、これをどんなに広義に解釈しようが、あくまでも貨幣との関連における経済理論であって、社会福祉政策等とは何らの直接的関係もない。けれども、一つには、マネタリズムとは「貨幣がすべてである」などと主張する立場では、決してないことを示すため、⋯⋯マネタリズムのというよりは、シカゴ学派の、貨幣以外の問題に対する考え方の一端を明らかにするために、⋯⋯
シカゴ学派の立場は、「新自由主義ネオ・リベラリズム」とか「自由主義的急進主義リベラル・ラディカリズム」という名で知られている。まえがきpp.5-6
マネタリズムの学説と政策
1967年 アメリカでインフレ問題が激発した。ケインズ派は財政政策を緊縮し、インフレは収まるとした。フリードマンは通貨が増えたのでインフレが加速されたと考えた。
各国通貨当局は戦後2,30年間、金利を金融政策運営の指標としてきた。それを改めて、マネー・サプライ残高変動率を指標にするようになった。
昭和46年のニクソン・ショック後、47年の秋にかけてかなりの不況になった。しかし通貨はどんどん増えていたから、インフレになると警告したが、不況対策として日銀信用を増大させ、財政も増やされた。48年1−3月期は対前年比で25.1%まで増えた。だから昭和49年のインフレは石油危機によるものではなく通貨増加しているところへ、石油危機という衝撃が加えられたことによるもの。
p.44−
自由社会とマーケット・メカニズム
シカゴ学派にせよ、マネタリズムにせよ、新古典派にせよ、すべての問題がマーケット・メカニズムで片づいてしまうといっているわけではない。社会的費用の存在を否定しているわけでもない。
カール・ポッパーの方法論であるピース・ミール・エンジニアリングのように、個別的方法を主張するのは、個別的存在それ自体のために分析することを主張しているのではない。
p.46 社会現象は、これを構成する単位へと分解してしまうと消えてしまうという特徴を持っている。逆に、社会現象を構成する諸単位を次第に寄せ集めていくと、その都度、全く新しく現れる特徴がある。われわれはそれを「発生的特徴」と呼ぶ。これは、経済現象を全体として眺めても、どうしてこんな特徴が出てくるのかわからず、また、構成単位に分解してそれぞれの単位を取り上げてみても「発生的特徴」を捕まえることはできない。
ウェーバーの理念型分析 構成する単位へ分解するけれども、
p.47 歴史的個別性を失うような抽象的な単位まで分解してはだめであるというのだ。歴史性を失わない程度まで。 問屋、都市、プロテスタントといった存在である。
しかし、そのほかの場合に適用できる普遍的な法則を発見できない。その理由は、ウェーバーたち歴史学派の主張する理念型に対応する単位は、歴史的個別性を失わない単位であって、砂山を構成する一粒一粒の砂や、時計を構成する部品と変わらないのである。だから発生的特徴を把握できないし、法則性をつかまえられない。
p.48
個性を持ったA君やB君は孤立してそうなったのではなく、社会過程において相互に結びつけられて、その中から影響しあい、個性を持つようになった。
経済学の分析で知りたいのは、社会過程の中から生み出されるものとしての個性であり特徴である。次第にそれぞれの次元において、そのグループに発生する発生的特徴がある。別の面からみれば、経済現象が持つ「有機的特徴」なのである。
p.49
マーケット・メカニズムといった社会現象や経済現象が面白いのは、構成する諸単位の意図とは全く異なった特徴、つまり発生的特徴を持つことがしばしばあるという点にある。
p.50
マーケット・メカニズムの成果は必ずしも望ましいものであるという保証はない。
p51
マネタリズム、またその発生の根源となったシカゴ学派が、マーケット・メカニズムを強調する理由は、通常いわれる効率性のためでは決してない。一番の基本は「一般大衆と呼ばれる人々を、愚民と考えるのか。それとも信用するのか。」
マーケット・メカニズムの欠陥を指摘し、限界を糾弾し、大衆の味方であるような顔をしている人の主張の基本にあるのは「一般大衆に対する不信感であり、蔑視論である。それは大半の場合において、エリートの一般大衆に対する支配論が、「社会正義」とか「社会的公正」といった大義名分を隠れ蓑として、偽装されて主張さているに過ぎない。」
「マーケット・メカニズムを擁護するもっとも基本的な思想は、一人一人の人間に対する絶大な信頼の主張であp.52
れわれのうち、だれ一人として、万能の人はいない。⋯⋯
p.52 けれども、そのひとり一人の人々の知識と能力との動員に成功すると、我々は実に偉大な成果を上げることができるという確信が、そこにある。問題は、マーケット・メカニズムがこの動員に成功することができるかどうかということである。もしもこの動員を、マーケット・メカニズムよりももっと有効に達成する方法がほかに本当にあるならば、我々はその方法を採用すべきである。けれども、ほかにどんな方法があるのだろうか。」
p.53自由社会とは何か
p.54
「我々の能力は互いに限られているけれども、その人にしかない能力はちっぽけながらそれぞれなりにある。しかも現場の人しか知らない知識が山ほどある。それをどうしたら、いちばんうまく動員できるだろうか。その動員に成功したときこそ、社会は一番うまく行くのではないか。これが自由の思想の根底にある。レッセ・フェールでほうっておけば社会がうまくいくということは、まったくありえない」
p.55
自由主義の目標は自由経済を基礎とした真の自由社会の樹立である。公害問題は、自由社会とは無関係に自由経済を推進してきたからである。
p.56
公害は自由によって生み出されたのではなく、自由が公害によって侵害されているのである。自由経済や自由社会は、これを支えるイデオロギーがなくては、とうてい樹立できない。
p.57
マーケット・メカニズムがまるで単独で価値ある存在であるかのような錯覚に陥れた責任は、「没価値的」と称して単なる数学操作的なテクニカル・エコノミストへと堕していった人々にある。
自由と革新
飛鳥田市長や長洲知事は大変良い仕事をしている。一人一人の要望に応えて立法がおこなわれている
p.60
新自由主義は政府の民間部門経済に対する介入や干渉を量的に制限することを主張しない。新自由主義にとって問題なのは決して政府による活動の量ではなく、質である。それが人々の自発的創意工夫や努力を育成し促進するものかどうかが、問題なのである。
p.180
シカゴ学派の福祉観
シカゴ学派は社会福祉政策を否定していない。「個人の自由と自主独立とを尊重するがゆえに、今や官僚支配国家と堕してしまった福祉国家を批判し、かわって「負の所得税」を提案する。その根本に、一般大衆と呼ばれるあの一人一人の人間をあくまで信頼するオプティミティックな人間観があることを分かっていただきたい。尚、上記で「個人」と書いたが、なにも「孤立した原子論的個人」をいっているのではなく、フリードマンらが主張する「自由社会」の最も基本的な構成単位は、あくまでも「家族」であることに気づいてもらいたい。
福祉国家と言う名の官僚支配国家
昭和46年後半における円の切り上げをきっかけとして、わが国でも社会福祉充実の声がにわかに高まった。
p.181
福祉国家は現実にもたらしたものは、人心の退廃と荒廃とであり、浪費と経済効率の悪化であり、官僚の市民生活にたいする介入や干渉や統制の強化でしかなかった。
次第に働く意欲を失い、重税にあえぎ、所得の伸び率は逓減を続け、自由を失い、自らの判断と決定によって左右することができる自らの生活領域を加速度的にせばめ、生活の張り合いと目標を見失い、官僚支配の中に無目的な生活を送るように飼い慣らされてきた。生活を平均化したかもしれないが、生活の上昇と前進の度合いを次第に鈍化させるようになった。英国がその典型。スウェーデンにおける現実の生活が味気ないものになっている。
p.182
福祉国家主義者には善意はあるが、貧困者には健全な消費生活を自主的に営む事ができないという不信感がある。自分たちには知的エリートとしての自己過信とおごりが例外なしに存在している。
p.183
問題は、人間は他者の助けなしで救われることができるかどうか、であった。他者の助けなしで救われることができると考えたのがオプティミストであり、救われることができないとしたのがペシミストであった。自由主義の伝統は前者から生まれた。フェビアニズムのような社会福祉国家主義は後者の思想的系譜にたっている。ここで両者に転倒がある。
ペシミストは人間の仁愛、良心などを強調するが、一人一人の人間には限界がある、そのままでは信頼できない愚民と考えていた。その愚民を指導する能力が自分たちには備わっていると確信していた。
p.184
ヒュームやアダム・スミスやアダム・ファーガソンなどのオプティミストも一人一人の人間は限界の多い存在と考えたが、この社会で相結ばれ協同作業する時に、場合によっては、天才や英雄ができないことを成し遂げると確信した。そこには一人一人の人々に対する限りない信頼がある。
本来的にペシミストである社会福祉国家主義者たちは社会福祉政策の推進に奔走した。一般大衆愚民論でみずからは本質主義者(アリストテレス以来の伝統にたつ「物それ自体を把握できるとする考え方)であるために、社会福祉政策は対象や運営方法で細分化し特殊化する傾向が強い。(自由主義というような理念がないので多数派の意見はすべて絶対とする結果、圧力団体に迎合した結果でもあるが)。その結果、生活の細部にわたる官僚の支配が広範になった。
p.185
福祉制度の矛盾
働こうとすると福祉の援助が受けられなくなる
p.186
隣人効果
福祉国家の退廃や荒廃は在来の福祉国家的発想を否定するが、社会福祉政策の必要性そのものを否定するわけではない。
p.188
社会それ自体には何の実体もない。だから「社会のために」という名につられて、気がついてみると巨大化する官僚機構の束縛によって拘束されてしまう結果になる。その原因は、全体を知ることが重要とか全体が進む方向をしることが必要という発想にある。
両方とも人口学的なコーホートと言う意味で使っているのは共通点である。
p.189
社会現象が物理現象と異なる点は、全体がどういう姿をとり、どういう方向へ進むかは、基本的にはこれを構成する各部分が、相互に結びつけられることによって、相互にどう影響しあい、どう変化するかによって決定されている点である。全体を知るには、構成する諸単位に即して調べればよいと言う物ではない。諸単位が相互に交錯し結びつけられる時、どういう変化や新しい現象を発生するかを調べる。カール・メンガーにそくしてハイエクはこのような方法を「合成的方法」と呼んだ。
だれがどのような影響を受けるか、与えるかが明確な場合は、対価をはらい受け取り、損害賠償を請求する。
p.190
判明しないとき共同体の負担とする。大学補助や公害
生活保障
貧困者、ことに老年や母子家庭の貧困者がいたり、心身の障害者がいるということは、決して当人だけの問題ではない、隣人としての我々自身の問題である。共同体の問題として社会福祉政策を推進するのは当然のこと。
しかし「本質主義」や「全体的方法」にもとづいたり、大衆への信頼を欠いたりする方法は、得てして、人々の自由を奪い生活の細部に官僚を経由して国が干渉する
社会福祉の目的は、あくまでもより多くの個人に自由で自主独立した生活を持たせることにあるはず。