幕末・明治維新略史

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カント『道徳形而上学原論』(1785)岩波文庫


 「我々の住む世界においてはもとより、およそこの世界の外で、無制限に善と見なされ得るものは、善意志のほかにはまったく考えることができない。知力、才気、判断力等ばかりでなく一般に精神的才能と呼ばれるようなもの、−−あるいはまた気質の特性としての勇気、果断、目的の遂行における堅忍不抜等が、いろいろな点で善いものであり、望ましいものであることは疑いない、そこでこれらのものは、自然の賜物と呼ばれるのである。しかしこれを使用するのは、ほかならぬ我々の意志である、意志の特性は性格であるといわれるのは、この故である。それだからこの意志が善でないと、上記の精神的才能にせよ、或は気質的特性にせよ、極めて悪性で有害なものになり兼ねないのである。
 事情は幸運の賜物についてもまったく同様である。権力、富、名誉はもとより、健康ですらも、−−さらに身の上の安泰や、現在の境遇に対する満足感をも含めて、およそ幸福という名のもとに総括されるところのものは、人をして得意ならしめるが、しかしこれらの幸福の賜物が人間の心情に及ぼす影響を規正するばかりでなく、またそうすることによって行為の原理全体までも規正して、これを一般的・合目的たらしめるような善意志がないと、彼をしばしばごう慢にするのである。・・・それだから善意志は、人間が幸福に値するためにも、欠くことのできない条件をなすもののように思われる。」(p.22)

 多くの人が生命を大切にするのは義務にかなっているが,義務にもとづくものではない。不運で絶望的になっている人が自殺せずに生き続けるとき、生への愛着や死への恐怖からでなく、義務にもとづくなら彼の格律(格率:実践的法則はそれが行為の主観的原理となったとき格律と呼ばれる)は、道徳的価値内容を持つ。

 「自分自身の幸福を確保することは、(少なくとも間接的には)義務である。おびただしい心配ごとがひしめきあい、またさまざまな欲望が満足されずにいる自分の境遇に不満を抱いているような状態は、ややもすれば義務に背かせる大きな誘惑になり兼ねないからである。しかしまたこういう場合には、取り立てて義務のことに思いを致さなくても、総じて人間は、幸福を求めようとする極めて力強い、かつ切実な心的傾向をおのずから備えているのである。人間における一切の傾向は、まさにこの幸福という観念に総括されているからである。・・・人間は、幸福という名のもとに総括された一切の傾向の満足の総量については、これを明確につかむことができないのである。」 幸福を求めるのは普遍的な傾向であるが、健康こそは幸福である、ともいわれる。しかし痛風の人があとで痛くなるのを承知の上で、美食をするとき、彼なりに幸福である。これでは幸福を求める傾向といってもあい昧である。「傾向によるのでなくて、義務にもとずいて幸福を促進せよ」という法則がある。そのときかれの行為は道徳的価値をもつ。」 (p.35)

 「行為の道徳的価値は、その行為によって実現さるべき対象が現実的に存在することによってではなく、まったく意欲の原理だけによって決定されるのである。」 (p.37)

 「理性は、義務のいっさいの命令を、篤く尊敬すべきものとして人間に提示する、ところが人間は、かかる命令に強力に対抗するものを、さまざまな欲望や傾向として自分自身のうちにもつことを感知している。人間はこれらの欲望や傾向をあまさず満足させることを、幸福という名のもとに総括しているのである。ところが理性はその場合に、人間のさまざまな傾向に何か好事を約束するどころか・・・自分自身の指定を命令するのである。」 (p.48)

 「欲求能力が感覚に依存するのを傾向性という、それだから傾向性は常に欲望であるということがわかる。また偶然的に規定される意志が、理性の原理に依存するのを関心という、それだから関心は依存的な意志−−すなわち、常に自分から進んで理性に随順するのでないような意志にだけ生じる。」 (p.67)

 「義務は、すべての人間の意志に対しても法則でなければならないのである。これに反しておよそ人間の特殊な自然的素質から導来されたもの、ある種の感情や性向から導来されたもの、それどころか、もともと人間理性に備わっているかも知れないが、しかしすべての理性的存在者の意志に必ずしも例外なく当てはまることを要しないような特殊な性向から導来されたもの−−すべてこのようなものは、なるほど我々に格律を与えはするが、しかし法則を与えることはできない。また主観的原理を与えはするが、しかし客観的原理を与えることはできない。ここで主観的原理とは、我々が性向や傾向性を持ったままで、それに従って行為しても差し支えないような原理である。また客観的原理とは、たとえ我々の性向や傾向性、あるいは人間的存在としての自然的仕組みがいかに反抗しようとも、それを無視して我々に行為を指図するような原理である。・・・これらの原則は、人間の傾向性からは何ものをも期待せず、いっさいを法則の主権と法則に合致すべき尊敬とに期待する、そしてもしこれに反する場合には、人間に自己軽蔑と内心の嫌悪という判決を言い渡すのである。」 (pp.95-)

 「傾向の対象は、いずれも条件付きの<相対的な>価値しかもたない。それだからこれまで存在していた傾向と傾向にもとづく欲望とがいったん存在しなくなると、傾向の対象は途端に無価値になるだろう。傾向そのものは、欲望の根源ではあるが、しかしそれは我々が希求するに値するような絶対的な価値をもつものではない、むしろいっさいの傾向を脱却することこそ、一般に理性的存在者の誰もが抱くところの念願でなければならない。」 (p.101)

 理性的存在者は人格と呼ばれる、理性的存在者の本性は、この存在者をすでに目的自体として−換言すれば、単に手段として使用することを許さないようなあるものとして特示し、尊敬の対象となる。だから理性的存在者は主観的目的ではなく客観的目的である。客観的目的は、あるものの存在自体が目的であるようなものである。最高の実践的原理が存在すべきであるならば、それは普遍的な実践的法則として用いられるような原理でなければならない。この原理の根拠は「理性的存在者は目的自体として存在する」というところにある。人間は、自分自身を必然的にこのような存在と考えている。その限りで、この原理は人間の行為に対する主観的な原理である。実践的命法は「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」(pp.102) 

 「人間性には、現在よりももっと完全なものになろうとする素質がある。」 (p.106)

 道徳性は、理性的存在者が目的自体となりうるための唯一の条件である。(p.116)



◆カント『啓蒙とは何か』1784 岩波文庫

 「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。・・・・未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。・・・この状態にある原因は、悟性が欠けるためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにある。」未成年でいることは確かに気楽である。私に代わって書物、私に代わって牧師、私に代わって医師、私に代わって考えてくれる人があり彼に報いる資力があれば、私は考える必要がない。「大多数の人々は、成年に達しようとする歩みを、煩わしいばかりでなく極めて危険であるとさえ思いなしているが、それはおためごかしにこの人達の監督に任じている例の後見人たちのしわざである。」かかる後見人たちは、自分の牧している家畜をまず愚昧にし、よちよち歩きにふさわしいあんよ車にいれ、そこから外へ出ようとすればすぐに身にふりかかる危険をみせつけるのである。」(pp.7−)

◆カント『世界公民的見地における一般史の構想』(1784)

「意志の自由が、形而上学的見地においてどのように解釈されようとも、意志の現れであるところの人間の行動は現象であるから、自然における他のいっさいの出来事と同じく、普遍的自然法則によって規定されているのである。」「個々人にあっては驚くほど無規則で混乱しているようにみえる現象も、全人類についてみれば、人間に本具の根源的素質が、たとえ緩慢にもせよ絶えず発展している様子を認識できる。」「哲学者としては、人間とその様々な行動とを全体として考察してみると、人間自身の理性的意図なるものを前提する訳にはいかないところから、人間に関する物事のかかる不合理の経過の中に、自然の意図を発見できはしないだろうか」

 第1命題「およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は、いつしかそれぞれの目的に適合しつつ、あますところなく展開するようにあらかじめ定められている。・・・使用されることのない器官、その目的を果たし得ないような体制は、目的論的自然論においては、まさに矛盾である。」

 第2命題「人間にあっては、理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展するのは、類においてであって、個体においてではない。・・・理性はそれ自体としては本能的に働くものではないから、認識の段階を一段ずつたどって進展せしめるためには、さまざまな試みや練習、あるいは教育を必要とする。」

 第3命題「自然が人間に関して欲しているのは、次の一事である。すなわち、人間は動物的存在として機会的体制以上のものはすべて自分自身で作り出すということ、・・・。自然は人間が安楽に生きることなどは全く考慮しなかったらしい。自然が深く心に掛けたのは、人間は自分の行動によって自己の生活と心身の安寧とを享受するに値するような存在になる、ということであった。」