幕末・明治維新略史

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諸国民の富(諸国民の富の性質および諸原因に関する一研究)』1776
『道徳感情論 The Theory of Moral Sentiments 』1759
◆アダム・スミス『諸国民の富(諸国民の富の性質および諸原因に関する一研究)』1776、岩波文庫

◇マンドヴィル(1)『蜜蜂の寓話。一名 私人の悪徳は公共の利益 The fable of the bees:or,private vices,public benefits 』(1714)(『諸国民の富』編者の序論のなかでの紹介)

「・・・奢侈が百万の貧者に仕事を与え いまわしい鼻もちならぬごう慢が もう百万を雇うとき 羨望さえも そして虚栄心もまた みな産業の奉仕者である・・・この不思議でばかげた悪徳が それこそ交易を動かす肝腎な車輪になる・・・

 こうして悪徳は巧智を育て ときと働きに結び付き けっこうな生活の事々物々 そのまことの快楽、愉悦、安易などを いよいよ高く引き上げるから 貧民共さえ、昔の金持ちもおよばぬ暮らしをするようになる。

 マンドヴィル(2)『同上書 第2部』(1724)

「・・・これらの欲望が多種多様であるからこそ、社会の個々の成員はたがいに他に奉仕しあうのである。しかもその結果、もろもろの欲望が色々様々になればなるほど、ますます多くの個人は他の人々の幸福のために労働することに私的な利益を見いだすようになるであろうし、またたがいに結合し、一体をなすになるであろう。」

 

◇アダム スミス『諸国民の富』

(第1編 第1章 分業について)

 「年々の労働の生産物が年々の消費を充足するのであって、あらゆる国民の年々の労働は、その国民が年々に消費するいっさいの生活必需品および便益品を本源的に供給する資源fundであって、この必需品および便益品は、つねにその労働の直接の生産物か、またはその生産物で他の諸国民から購買された物か、のいずれかである」

(岩波第1冊,p.89)

 「社会の実質的富、つまり、その土地および労働の年々の生産物」(1,p.94)

 「一職人は、最大限に精出しても、おそらくは1日に1本のピンをつくることさえまずできないであろう」・・・ある製造所では、この仕事は、10人が約18の別個の作業に分割して行っていた。これら10人はみなで1日に4万8千本以上のピンを製造できるので各人は「1日に4千8百本のピンをつくる」(1,p.100)

(第2章 分業を引き起こす原理について)

 分業は人間の英知の所産ではなく「人間の本性の中にある一定の性向、つまりある物を他のものと取引し、交易し、交換するという性向の、非常に緩慢で漸進的ではあるが必然的な帰結なのである。この性向は人間だけに見いだされる」。

 「文明社会ではどのようなときでも人間は大変な数にのぼる人々の協働や援助を必要としているにもかかわらず、かれは自分の全生涯をかけても、少数の人々の友情をかちえることさえやっとのことなのである。・・・人間は、ほとんどつねにその同胞の助力を必要としていながら、しかもそれを同胞の仁愛 benebolence だけに期待しても徒労である。そうするよりも、もしかれが、自分に有利になるように同胞の自愛心self-love を刺激することができ、しかもかれが同胞に求めていることをかれのためにするのが同胞自身にも利益に成るのだ、ということを示してやることができるならば、このほうがいっそう奏功する見込みが多い。およそどのような人でも、他人にある種の取引bargain of any kind を申し出る場合には、こういうことをしようと提案するものである(*他人に取引を申し出る人はこれをすると約束する、引用者)。私のほしいものをください、そうすればあなたのほしいものをあげましょう、というのがこのような申し出のあらゆる場合の意味なのであって、こういうふうにしてこそ、われわれは、自分達が必要とする世話のはるか大部分のものを互いにうけとりあうのである。われわれが自分達の食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の仁愛にではなく、彼ら自身の利益に対する彼らの顧慮に期待してのことなのである。われわれはかれらの人類愛にではなく、その自愛心に話し掛け・・・かれらの利益を語ってやるのである。主として市民同友たちの仁愛にたよろうなどとするのは、乞食以外にはだれもいない。」(1,pp.116-)
(引用者注 聖書では利己心は霊と対立するものとされていた

ガラテア人への手紙(西暦54/55年)(5:13?) 「あなたたちは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いにつかえなさい。律法全体は「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」(レビ19 18)という一句を守ることにより果たされるからです。」 「霊(聖霊)(the Spirit)の導きに従って生活しなさい。 そうすれば決して“肉”の欲望(the lust of the flesh)を満足させるようなことはありません。“肉”の望むところは霊に反し、霊の望むところは“肉”に反するからです。“肉”と霊が対立し合っているから、あなたたちは、自分のしたいと思うことが出来ないようになっているのです。しかし、霊に導かれているならば、あなたたちは律法に支配されていません。“肉”の行う業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色[不品行]、偶像礼拝、魔術[心霊術の行い]、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心[口論]、不和[分裂]、仲間争い[分派]、ねたみ、泥酔、酒宴[浮かれ騒ぎ]、その他このような類いのものです。」「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安[平和]、寛容[辛抱強さ]、親切、善意[善良]、誠実[信仰]、柔和、節制[自制]です。」)

(第4章 貨幣の起源および使用について)

 「価値ということばには2つの異なる意味がある・・・ある特定の対象の効用を表現し、またあるときにはその特定の対象を所有することによってもたらされるところの、他の財貨に対する購買力を表現するのである。前者を使用価値value in use、後者を交換価値value in exchange とよんでもよかろう。」(1,p.146)

(第5章 諸商品の実質価格および名目価格について)

 「労働は価値の唯一の普遍的な尺度であると同時に、唯一の正確な尺度であるということ、すなわち労働は、いつでも、またどこでも、われわれがそれによってさまざまの商品の価値を比較できる唯一の標準である」(1,p.163)

(第7章 諸商品の自然価格および市場価格について)

 独占価格は「あらゆる場合に買い手からしぼりとることのできる最高の価格」であり、自然価格または自由競争価格は「売り手がふつう取得しうると同時に、その仕事を続けうる最低の価格」である。「同業組合の排他的諸特権・徒弟条例および特定の職業における競争をさもない場合よりも少数の者の競争に抑制するためのいっさいの法律は、たとえその程度はおとるにしても、これと同一の傾向を持っている。それらは一種の拡大された独占であって・・・特定諸商品の市場価格を自然価格以上に持続させ」る。「市場価格のこのような高揚は、それを引き起こした行政上の諸法規がある限り存続するであろう」(1,p.215)

(第8章 労働の賃金について)

 「親方達は、その数が比較的少数であるから、はるかにたやすく団結できるし、そのうえ法律は、親方達の団結を権威付け、否少なくともこれを禁止していないのに、職人達の団結を禁止している。・・・いっさいの争議の場合、親方達ははるかに長期間もちこたえることができる。多くの職人は、仕事がなければ、1週間とは生存できないであろう」(1,pp.223-)

 「労働貧民の状態、つまり人民の大多数のものの状態が、最も幸福で、最も快適であるように思われるのは、社会が富の全量を獲得してしまった時よりも、むしろ社会がその獲得に向かって前進している進歩的な状態にあるときだ・・・労働の賃金は勤勉への刺激剤であって、勤勉は、人間の他の性質と同じように、刺激を受けるにしたがって向上する。豊富な生活資料は労働者の体力を増進し、自分の境遇が改善され、おそらく晩年には安楽で豊かにしていられるであろうという快適な希望があれば、それが彼を鼓舞し、その力を最大限に発揮させるのである。」(1,pp.254-)

(第10章)

 「労働および資財のさまざまの用途における利益および不利益の全体は、隣接する同一地方では、完全に平等か、または不断に平等化される傾向がある・・・。あらゆる人が完全に自由な社会では、・・・あらゆる人の利害は、有利な職業を求め、不利な職業を避けるようにとその人をかりたてるであろう。・・・実際のところ、金銭的賃金および利潤は、労働および資財の様々の用途に従い、ヨーロッパのいたるところではなはだしく異なっている。しかしながら、この差異は、幾分かは職業そのものにおける・・・一定の諸事情から生じ、また幾分かはどのようなところでも事物を完全な自由に放任しておかぬというヨーロッパの政策から生じるのである。」(1,pp.290-)

 「ヨーロッパの政策は事物を完全な自由に放任しておかぬことによって、他のはるかに重大な不平等を引き起こしているのである。それは主として次の3つの方法によってこういう不平等を引き起こしている。即ち、第1に、ある職業における競争を抑制し、さもない場合にこれらの職業につきたがるであろうよりも少数の者の競争にしてしまうこと、第2に、他の職業では、自然におこなわれるであろうより以上に競争を増大させること、そして第3に、労働および資財が、職業から職業への場合にも地方から地方への場合にも自由に流通するのを妨げること、これである。・・・組合化された職業の排他的特権は、それが設立されている都会では、必然に競争を抑制し、それをその職業について特権をもっている人々の競争にしてしまう。その都会の適当な資格のある親方のもとで徒弟修業をつとめあげたということが、ふつうこの特権を獲得するために不可欠な要件である。同業組合の諸規約は、ときにはある親方がもつのを許される徒弟の数を規定し、またほとんどつねに、おのおのの徒弟が否応無しに勤めあげさせられる年数を規定している。双方の規定の意図は、さもないばあいこの職業に就きたがるかも知れぬよりもはるか少数の者に競争を抑制してしまうことである。・・・ふつう徒弟条例とよばれるエリザベス治世第5年の法律。」(1,pp.330-)

 「すべての同業組合が創立されたり、大部分の同業組合法が制定されたりしたのは、自由競争を抑制し、そのために必ずひきおこされる価格や、したがってまた賃金や利潤のこういう下落をふせぐためであった」(1,pp.340-)

ヨーロッパでは同業組合法が労働の自由な流通を妨げているが「救貧法 poor laws がそのさまたげになっているのは,わたしがしるかぎりでは,イングランドに特有のことである.それは,貧乏人は自分が所属する教区以外のどのようなところでも定住 settlement を獲得するのが困難だということ,つまり勤勉に働かされることさえもが困難だということにある.同業組合法によって自由な流通がさまたげられているのは,工匠や製造業者の労働だけである.ところが,定住を獲得するのが困難だということは,ふつうの労働者のそれをさえさまたげているのである」(1.p.365)

 「賃金は昔は最初全王国に実施される一般法によって、またその後は県ごとに治安判事が発する特別の命令によって定められるのが普通であったが、こういう習慣はいずれも現在では全く廃止されてしまった。」(1,p.378)

(第4編 第2章 国内で生産しうる財貨の、諸外国からの輸入に対する諸制限について)

 あらゆる個人は、自分の資本を国内産業の支持に使用し、生産物が最大の価値を持つように努力するので、社会の年々の生産物を多くしようとしていることになる。通例、かれは「公共の利益 public interest を促進しようと意図してもいないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるのかを知ってもいない。・・・かれは自分自身の安全だけを意図し・・・自分自身の利得だけを意図しているわけのであるが、しかもかれは、この場合でも、その他多くの場合と同じように、見えない手 an invisible hand に導かれ、自分が全然意図してもみなかった目的を促進するようになるのである。・・・自分自身の利益self interest を追求することによって、実際に社会の利益を促進しようと意図する場合よりも、いっそう有効にそれを促進する場合がしばしばある」(3,p.56)


◆アダム・スミス『道徳感情論 The Theory of Moral Sentiments 』1759 (アダム・スミスは1790.7.17.に67歳で死亡)

 「もしかれが,中立的な観察者がかれの行動の諸原理に入り込めるように,行為しようとするならば,‥‥かれの自愛心の高慢をくじかなければならないし,それを,他の人々がついていけるようなものにまで,引き下げなければならない.その限りでは,かれらは,かれが自分の幸福を,他のどんな人の幸福よりも切望し,それをいっそう真剣な精励をもって追求するのを,許すという程度に,寛大であろう.‥‥富と名誉と地位をめざす競争において,かれはかれのすべての競争者を追いぬくために,できるかぎり力走していいし,あらゆる神経,あらゆる筋肉を緊張させていい.しかし,かれがもし,かれらのうちのだれかを,押し退けるか,投げ倒すかするならば,観察者たちの寛大さは完全に終了する.それは,フェア・プレイの侵犯であって,かれらが許しえないことなのである.この相手は,かれらにとっては,あらゆる点でかれと同じ程度に善良なのであり,だからかれらは,かれがこの他人よりも自分をこれほど優先させる自愛心に,入り込まないし,かれが後者に害を与える動機に,ついていくことができないのである.したがってかれらはちゅうちょなく,侵害されたものの自然の憤慨に同感し,加害者は,かれらの憎悪と義憤の対象となる」(pp.130-)

 「自愛心のもっとも強い衝動にさえ対抗できるのは,人間愛というやさしい力ではなく,自然が人間の心に点じておいた,慈愛の弱い火花ではない.そのような場合に働くのは,もっと強い力であり,もっと強制的な動機である.それは,理性,原理,良心,胸中の住人,内部の人,われわれの行為の偉大な裁判官にして裁決者である.われわれが他の人々の幸福に作用を与えるように行為しようとするときにはいつでも,われわれの諸情念のうちのもっとも生意気なものをも,驚かせうる声で,われわれにつぎのことを呼び掛けるのは,かれなのである.すなわち,われわれは,大衆のなかのひとりにすぎず,どんな点においても,そのうちのどんな他人にもまさらないのだということ,そして,われわれがそのように無恥に,そのように盲目的に,われわれ自身を他の人々に優先させるならば,われわれは憤慨と忌避とのろいの,正当な対象となるのだということをである.‥‥われわれの隣人への愛ではなく,人類への愛ではないものが,多くの場合にわれわれを促して,それら(*隣人愛,人類愛)の神聖な徳性を実行させるのである.そういう場合に一般に生じるのは,もっと強い愛情,もっと強力な愛着,すなわち,名誉であり高貴であるものごとへの愛,われわれ自身の性格の偉大,尊厳,卓越への,愛なのである」(pp.201-)