幕末・明治維新略史

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中世ヨーロッパの庶民生活 
阿部謹也『刑吏の社会史』中公新書
高木健次郎『ドイツの職人』中公新書
阿部謹也『甦える中世ヨーロッパ』日本エディタースクール出版部


(阿部謹也『刑吏の社会史』中公新書)

 中世社会は《名誉ある(エーレ)》人々と《名誉をもたない(エールロース)》人々から成り立っている。古い法慣習において名誉をもたないことは《権利をもたない(レヒトロース)》ことで,中世ドイツでは、権利喪失には、1:裁判能力をもたないこと、2:財産処分能力をもたないこと、3:生命・財産に対する権利をもたないこと(法の保護を奪われること)、という例がある。通常《名誉をもたない》人々とされる賎民はこの第1グループで、自己の権利を自ら守ることができない。

 《名誉ある》人々が貴族身分・聖職者身分・市民身分・農民身分というように分けることができるとすれば、それぞれの身分の内部は各種の社会集団に分かれ、共同体として組織されていた。「共同体の原則は基本的には対内的平等にあり、それは同時に排他的な組織でもあった。賎民とはこのような各種身分の序列外におかれ、その内部にある共同体からも排除された人々をいう」。(p.14)「中・近世の農村の共同体も都市の同職組合も単に職業を共にする人々の団体であるだけではなく、出生から埋葬までを共に行い、各同職組合がそれぞれの祭壇を特定の教会内にもっていて蝋燭の灯をたやすことなく死者の供養をするための団体でもあった。同職組合には組合員だけではなく妻も子供も加わり、生者とともに死者も共同体のきずなで結ばれていたのである。同職組合員としての義務の最も重要なことのひとつに仲間が死んだとき墓地まで皆で棺をかついでゆくことが含まれていた」。(p.18) 

 その人々が社会生活に欠かせない役割(職業)をもっていてもヨーロッパの市民(引用者注:都市に住むツンフト(同職組合)・ギルドの成員等。桶職人、鍛冶職人、盃職人、大工、馬車匠、家具職人、仕立工、左官等々)から差別され、蔑視され、場合によっては共に飲食せず、言葉も交わさなかった。賎民の例として、死刑執行人、捕吏、獄丁、看守、廷丁、墓掘り人、皮剥ぎ、羊飼い、粉挽き、亜麻布織工、陶工、煉瓦製造人、塔守、夜警、遍歴楽師、奇術師、抜歯術師、娼婦、浴場主、理髪師、薬草売り、乞食取締夫、犬皮なめし工、煙突掃除人、街路掃除人。さらにキリスト教社会秩序の外に立つ人々(ユダヤ人、トルコ人、異教徒、ジプシー、ヴェンド人)も同様に扱われた。

 刑吏の場合(ドイツでは、13世紀にいくつかの都市に卑賎な職業として刑吏が登場し、14・5世紀には小都市にも現れた)。市民の妻が産気づくとツンフトの仲間の家族や近隣の女が手伝いにきたが、刑吏の妻の場合にはそうではない。刑吏の家族に手を貸せば名誉ある市民も賎民におちツンフトから除名された。刑吏の子は刑吏以外の職には就けなかった。どこの都市の同職組合も賎民の子弟を徒弟として受け入れることを禁じていた。刑吏の子は刑吏の子以外の者とは結婚できず、修道院にはいった娘も多かった。刑吏の娘と結婚すれば親兄弟や親戚まで賎民に地位に落ちた。死んだときは棺を担ぐものがいなかった。教会も刑吏を教区共同体の正当な一員とは認めず、刑吏の墓は墓地の壁ぎわで、刑吏の徒弟の多くは自殺者と同様に貧民墓地に葬られた。刑吏は赤、白、緑の3色の布を腕またはマントにつけねばならなかった(1530年の帝国警察法の場合)。刑吏が居酒屋に入るには戸口で職業を示し、客が抗議するかどうか確かめねばならない。入っても隅の3本足の椅子に座り、把手のないジョッキで飲まねばならなかった。監獄の地下には刑吏を主人とする居酒屋があり、市民権をもてない賎民や前科者が集まった。

 しかし都市では刑吏と直接に接触する市参事会員や市長は賎民にはならなかった。これは「刑吏に対する卑賎感が支配=被支配関係に根源をもつものであることを示している」(p.166)

 阿部謹也『刑吏の社会史』第2章

 14世紀以前のドイツの法資料には刑罰という言葉はない。それまでのゲルマン諸世界では違法行為によってひとつの秩序が乱されたという結果だけが問題とされた。そこで「罰」はその秩序を元にもどすために行われた。

 アハターは、古い時代において「法とはすべての生活の関係の全体のことであった。その生活の関係はひとつの秩序に方向づけられており、それがどのようにして生まれたのかはおそらく忘却の彼方に沈んでいるが、その意味は自明なものとしてうけとめられていた。それは変わることなく神聖にして犯すべからざるものであった」という。生活は規則に縛られており、それを少しでも破ることは秩序の侵害となり、それを回復する手続きが厳しく取られた。「法は秩序ordo の再生re-formatio を、傷ついた秩序Un-Orudung の是正を目指すものであった」。だから犯人の動機はどうでもよく、また犯行を倫理的な基準で評価することも無意味であった。貨幣による賠償も、近代的な意味での経済的賠償ではなく、当時の人々が貨幣にいだいていた呪術的な機能により秩序が再建されると考えられたからであろう。

 中世盛期にいたるまで人間と世界とのかかわり方は神的・呪術的な関係で貫かれていた。行為(犯行)と結果との因果関係は非合理的呪術的な思考世界のなかにあった。部族法では違法行為の結果として定められていることは、通常の因果関係とおかまいなしに、秩序を再建し神々またはデーモンをなだめ、それらと人間とのかつてのつりあいのとれた関係を取り戻すことであった。「古代と現代の思考の決定的な違いは、現代では犯罪を犯し、刑罰によって罪を償った人間は、国家との関係においては清算が済んだのであるが、」人々との間では前科者という重荷を背負いつづける。「これこそわれわれが行為をではなく、犯人を重視することの結果なのである」。ところが「行為のみを問題とする時代においては行為者(犯人)への関心は全くかあるいはほとんどない。当時の法においては彼は道徳的に劣った人間とはみなされない。中世初期における違法行為は倫理とは関係がないのである。なぜなら倫理は何が《良いこと》であり、《悪いこと》であるかを扱い、その認識にたって人間にいかに行動すべきかを規定しているからである。この規範にしたがって彼の行為は判断される。(ところが)部族法は全くそうではなかった。…秩序の再建には一定の明確に定められた行為を必要とし」た。われわれはこれを「誤って《刑罰》と呼んできた」。「それは全く客観的で古来からよく知られた手段であった。それはたとえばいわば治癒のための薬なのであった。そこには行為または行為者への倫理的評価はないのである」。

 フォン・アミラ説。キリスト教受容以前の古代ゲルマン社会では、死刑は犯人を死にいたらしめるためのものではなく、ひとつの儀式であった(盗みの現行犯が自殺したときでもその死体に絞首刑が執行された)。(p.46)

 B.レーフェルト説。イエスが十字架上で息を引き取ったとき、太陽が姿を隠し大地が揺れ動いたといわれ、マクベスが王を殺害したとき嵐が吹きすさび昼なのに暗黒のよるが太陽の光をさえぎったといわれるように、「人間の許しがたい犯罪に対しては自然も反応すると考えられていたから、特定の儀式(呪術)によって自然を宥め、太陽をよびもどし、大地の実りを再び豊かなものにしなければならなかった」。

 秩序のき損の状態に応じた儀式として多様な処刑があったと考えられる。

(絞首)髪の毛は生命力の印で、犯罪も力の一つのあらわれなので、多くの場合に力を抜くための呪術として犯罪者の頭が剃られ、のちに供儀となった。大地と接触すると大地の魔力が流れ込むので地面から離して吊した。椅子に乗せたまま刑場へ運ぶのも同様。(今日でも花嫁が抱き上げられて敷居の上を通るのは、敷居に神が住んいるから)。原則として吊したまま風に委ねるので、綱が切れたり台が倒れて命が永らえることもありその場合には助けられたので偶然刑であった。処罰や報復のためではなく盗みによって汚された神性への償いとして神へ捧げられた。

 本来、絞首は嵐の神ヴォーダンへの供儀で、死者、森、狼の世界、盗っ人の世界へ送る儀式。(秘密結社、軍隊への加入の通過儀礼として疑似的におこなわれることがある)

(車裂き)多くの古代社会で車輪は太陽の像を意味したので、車裂きも刑罰でなくて太陽神を呼び寄せるために捧げられた供儀。その際に骨を砕くが、古来、骨には潜在的な最後の生命力が潜んでいると考えられたため、最後の蘇生力を奪うため。(骸骨が何かを訴えたりする話がある)

(斬首)本来は剣や斧で1回試みてそれで失敗した時には命が助けられた。近代になると何回も試みた。首と胴体は別々に置いた(墓の中で生き続ける吸血鬼が人々を墓に誘ったので疾病が流行したと考えられたので、頭と胴をバラバラにする。頭は生命力の宿る場所とされた。切り離された馬の頭が口をきく)

(四つ裂き)八つ裂き。首または肩、腕、足首に2~4頭の馬をつなぎ反対方向に走らせるもの(執行に先立って首がはねられる)。後代には身体を細かに切り刻む刑が生まれるが、身体の部分は別々の場所に吊され首は杭にさす。

(生き埋め)ドイツでは中世後期以来、穴の中に横たわる者の胸あるいは腹に尖ったオーク材を打ち込み、大地に固定し、死後、亡霊となってさまよい出るのを防いだ。15世紀のアールガウで強姦した犯人が埋められ、被害者の娘はそれ以後は全く汚れのない名誉ある人間としてみなされた。十字路は死の神が支配する場所、悪魔が供え物を取りにくる場所なので、生き埋めは十字路で行われた。

(火刑)激しく燃える火、黒々と噴き出す煙は悪い霊を追い払う働きをする。静かに燃える炎、松明、焚火を跳び越すことなどにより悪霊が払われる。

 (p.95)当時の人々にとって何よりも大切だったのは互いの信頼であり、人的結合のきずなといえばそれしかなかった。殺人、放火、盗みなどはこの信頼を裏切ることで、再び信頼を取り戻すことは困難であり一人一人の努力では不可能であった。(引用者注:そのような犯罪が自分達の生活の場で起きてしまったということに堪えられなかった。犯罪の事実を乗り越えて再び信頼しあう世界を生活の場に再建せずにはいられなかった。そのためには人が人を罰しても無意味であった。「それがどのようにして生まれたのかはおそらく忘却の彼方に沈んでいる」処刑に頼るほかはなかった)。

[中世4]阿部謹也『刑吏の社会史』第3章

 6世紀頃からそれまでの古ゲルマンの平和・フリーデの観念が変化してきた。

 平和・フリーデとは最も古い意味では、神の意志に基づく聖なる秩序のなかでの友愛関係、「愛し合い、友好関係を結ぶ」こと。家族と氏族において愛と信頼によって結ばれた共同生活が送られ、社会、経済、軍事、祭祀においても、自律的な結合体をなしていたから、それ自体でひとつの平和領域をなしていた。だから家族や血縁団体の内部における争いや殺人も家族や氏族によって処理され、氏族間の争いや殺人事件には復讐の原則が貫かれたので、国家や全人民団体が介入することはなかった。「家族や血縁団体の平和と国家や人民団体の平和とは同一の次元のものではなかった」。ところが6世紀ころからキリスト教の影響下で平和の観念が変化し始め、メロヴィングとカロリングの下で、国家が介入し始める。まず家族内の、そして血縁団体相互の復讐、私闘(フェーデ)の禁止となってあらわれた。

 12、3世紀に各地でラント平和令が生まれた(家族や血縁団体の争いに対して官吏が期間を定めて「平和」を命じ、これが繰り返され持続的な秩序が樹立され始めた)。

 当時、遠隔地商人を主体に交通の要衝に地域間交易の中心となる都市が生まれてきた。そこで従来の「自由民と不自由民、貴族と農民がおりなした世界に新しい身分が生まれ、貨幣経済の浸透によってこれまでの領主直営地への賦役労働を主体とした荘園は解体され、地代荘園といわれる範疇が生み出されていった。地代荘園は近隣に市場が存在することを前提としており、市場は何よりもまず自由な交換の場として『平和』な空間でなければならなかった。

 全西欧を結ぶ道路網は大規模に張り巡らされ、河川は交通と運輸の重要な手段として新しい光をあびはじめた。人々は森を支配する霊や水の精への恐れを抑えて、道路や河川を経済・行政上の利益のために十分に利用しはじめたのである。…支配者層は今や都市に拠点をおいて、商業・交易を一手に掌握しつつあった商人層を保護し、商人と結ぶことによって経済的利益と同時に一円支配のための手段をも手に入れようとしたのである。

 ところが経済的革新は商人層によってもたらされたが、農村の領主層は旧態依然たる法慣習のなかにあった。そこでは相変わらず争いの解決は当事者間の私闘(フェーデ)によってなされ、農民の間でも復讐の習慣は強固に残っていた。公然たる掠奪はフェーデに不可欠の手段であり、犯罪ではなかったのである。このような法的慣習は新しく一円支配を貫徹しようとする領域君主や国王にとってはまことに不都合な慣習であったから、いわゆる『神の平和、ラント平和令』などの発布によって一円的地域内での平和を維持しようとしたのである」。(pp.104-) 古ゲルマンの「互いに愛し合い、友好関係を結ぶ」という意味での平和の観念が「命ぜられた平和」、あるいは人民団体や国家的次元での平和概念にとりこまれることになった(p.106)。

 こうして「さまざまな神々や霊をしずめながら平和を維持しようとしていた」古ゲルマン人とは違って、キリスト教的国家観、平和観のもとでは平和の根源は神とその代理人である皇帝あるいは教皇にあるとされ、キリスト教の浸透と共に皇帝の支配者としての地位は世界平和を実現することを目的とするものと理解され、キリスト教世界に普遍的平和をもたらすことが皇帝の使命とされるようになった。

 15、6世紀にドイツ各地の都市はかつての自由を失い、(民衆は)領邦権力の下に包摂されてゆく。両者の争いは農民の犠牲の下に進められ、都市の日常生活をも脅かす大動乱を引き起こした。公的権力が武力をもって民衆を処罰し各地で火刑や断頭が繰り返され市民への重圧となった。(p165)

 「むすび」 (pp.187-)

 12、3世紀以前では人と人を結ぶきづなは神聖な法であり、犯しがたい権威をもっていた。キリスト教の浸透、都市の台頭、市民生活の合理化のなかで「人間の理性は新しい倫理を生むにいたった。権威よりも理性に基づく議論が重んじられるようになった。人間は善を求めて努力する存在とされ、その限りで自分が行った行為に対しても責任をもつべき存在とされたのである」。それとともに犯罪が共同責任であるという考え方が極度に薄れた。

 「犯罪が共同責任として意識されていた時代には、連座制のように犯人の違法行為の結果が家族や氏族の全員に及ぶという不合理な面があった。夫の罪を妻が償わせられたり、一族の一員の犯した犯罪のために一族全員が断罪されるという事態もしばしばみられた」。

 「しかしながら多くの犯罪は社会的な行為であって他の人間や時代環境とは全く無関係な、その個人だけの責任としての犯罪というものも考えにくい。犯罪とは犯人がその時代や社会環境のなかで他の人々や諸制度とかかわって生きてきた過程で蓄積されていった不平や不満から生ずるものなのだろう。犯罪の原因はその時代の人と人との関係とそれを媒介する諸制度のなかで育まれる…」。

 「犯罪が社会的責任の問題であるということは、ひとつの犯罪が生じたとき、その犯罪に対してその社会の構成員は多かれすくなかれ何らかの責任を負っているということにほかならない。ところが12、3世紀以後における刑法の展開は犯罪の責任を個人の動機と行為に求め、行為者を断罪して処理する道を開いた。

 それはたしかに合理的な審判への道を開くものではあったが、それ以後たとえひとつの社会全体の歪みを一身に背負ったような犯罪者が生じたときでも、その犯罪は本人の動機と行為によって裁かれ、その社会全体を構成する人々は遠くからその裁判を遠望するのみで、自らかかわることは稀となった。ひとつの社会の歪みの表現としての犯罪の犯人はいわばその社会の歪みの犠牲者なのだが、彼はひとりでその社会の歪みの全体を背負い、断罪され、刑場の露と消えてしまう」。


高木健次郎『ドイツの職人』中公新書,pp.60-

 ドイツの手工業の中にマイスター、職人、徒弟の身分的序列が出来たのは13世紀のこと。マイスターは受け入れた徒弟を立派な職人に仕立てなければならない。徒弟は教育してもらうためには厳しい修業に励まねばならぬが、所定の年季を終えて審査に合格すれば職人になる。職人はそれなりの能力と経験が認められれば、さらに審査をうけてマイスターになれる。審査はすべてツンフトが管理した。

 ツンフト(所によってはアムトとかギルドと呼ばれた)は手工業マイスターを正式の会員とする組織で、通常は都市を単位に職種別につくられた。材料の共同調達、製品の規格統一と品質管理、価格統制、マイスターのおこなう徒弟教育の監督など、生産と教育の組織であった。マイスター制度はツンフト組織の教育的側面ともいえる。

 もともと中世ドイツの手工業技術はベネディクト派修道院から受け継がれたもの。技術を磨き、彼らが本格的な聖堂建築にたずさわるときにその卓抜さを発揮した。14世紀にゴチック建築は最盛期を迎えるが仕事は俗人の手工業者に任された。そして建築関連の職種のツンフトが組織され石工がバウヒュッテ(建築現場の小屋)という共同体が出現し、それは「修道僧の建築仲間」の組織に由来し、その信仰も受け継いだ。これはマイスターも職人頭も職人もすべて兄弟として結合された兄弟団(ブルーダーシャフト)であった。

 しかし次第にツンフトがマイスターの組織になってゆき、兄弟団は職人だけのものになっていった。全能の神、聖母マリア、すべての聖者の礼賛が日々の勤めで、祭壇を寄進し、重要な祭日や教会の行事には団の出納係が祭壇にろうそくを灯す仕事をした。貧乏で病身の職人仲間の扶助は兄弟団の重要な使命であった。通常の扶助は団の金庫からの貸付で、これは原則として抵当をとり、質物は1年間保管された。シャウハウゼンの例では、1524年に鍛冶職人は全資金を「魂の家」に寄付し、寄付をうけたこの施設は病気にかかった仲間の職人を引き受け健康が回復するまで扶養した。フライブルグの仕立職人も16世紀なかばに病気の仲間が個室をもてるように救貧所に送金し、シュトラスブルクのパン職人も同じ目的で救貧所と契約を結んだ。このような扶助のためには関係の職人の全部を強制的に加入させた。加入しないものには仕事を斡旋しないとか仲間外れにした。

 また扶助事業の資金として不行跡を働いた職人に課した罰金も重要であったので、処罰権・罰の執行も兄弟団に属す重要な権能であった。兄弟団はこれを活用して職人の教育・陶冶・指導のイニシャチブをマイスターの手から兄弟団の手に移していった。

 地域のなかでは異なった業種の兄弟団が連帯する機運が強まった。

 職人の兄弟団は次第に世俗化し16世紀はじめのフランクフルト(マイン)のパン職人や靴職人の特許状は世俗的な義務および権利に関する手続きをはっきりと規定していた。先進的な職人団体は次第に兄弟団から独立し独自の活動をするようになってきた。そして仕事の上での利害を守るために兄弟団と重複しあるいは別個に職人組合が発達してきた。

 都市のツンフトの管轄のもとで職人団体が続々とつくられたのは14世紀半ばから16世紀にかけてのこと。バルト海沿岸のハンザ都市の桶職人、網職人、鍛冶職人、酒盃職人の諸団体が有名であった。東プロイセンの諸都市では騎士団が産業政策を指導していたが14世紀の後半に仕立職人が同盟を作った。15世紀にはいるとライン河中流、上流地方の諸都市ではマイスターの団結に対抗して仕立職人組合が活発になり、職人の待遇改善や賃金引き上げを勝ち取った。

 職人組合への加入は強制的で会費を支払った。組合が独自に集会所を設け、遍歴職人の宿になったり、仲間の裁きもおこなった。ここで仲間と楽しむためには必ず飲み食いしなければならなかった。15世紀ころの組合規約ではまずこの飲食の際の振舞いを規定し、また仲間の病人の扱い、「職人慣習」、遍歴制度などを定めた。宗教改革からも影響され兄弟団のやっていた困窮した仲間を収容する救貧所を設けた例もある。

 18世紀にはツンフトが相次いで閉鎖され職人はマイスター権を獲得する望みがなくなり、不満が高まり、家族の生存と幸福をかけた闘争の必要性が認識されてきた。



阿部謹也『甦える中世ヨーロッパ』日本エディタースクール出版部

中世都市と病院(pp.116-)

 ドイツでは14世紀には300もの都市が生まれた。それらは東西方向では徒歩4~5時間、南北方向では6~8時間しか離れていなかった。それぞれが市壁をもつ小宇宙として11世紀以降に成立した。石づくりの教会や市参事会堂のそばには必ず病院がある。ヨーロッパにおける病院の歴史は古く、4世紀初めにはローマ軍団の傷病者収容施設が作られ、のちには貧しい病人も収容されるようになった。6~7世紀の司教たちも貧民救済施設を作り、貧民を組織して自分達の部下にさえした。施療院あるいは宿泊施設としての病院Hospital は十字軍以後、ヨーロッパ各地に作られ、12世紀にモンペリエがギドに作った聖霊病院が有名。聖霊病院は全ヨーロッパにあり中世末期にはほとんどの大きな都市に作られた。本来は巡礼者収容施設で、宿泊設備を備え、貧民救済施設としての性格ももっていた。

 中世都市には原則として貧民や乞食のための規定があり、かれらを収容する施設や養老院や孤児院が作られた(1388年、ニュールンベルグに「12人兄弟の館」がつくられ、働けなくなった職人を収容した老人施設で死ぬまで面倒をみた)。あるいは両親のいない娘に結婚の支度金を出すための基金などもあった。このような重要な制度がなぜこの時代のヨーロッパの中世都市に生まれたのか。

 キリスト教がはいる以前の初期中世のゲルマン人の世界には「生ける死体」という言葉があり、死体も生者として扱った。死者から者を奪えば生者から奪ったのと同じ罰金。激しい戦闘のさなかに味方の遺骸を運び帰る。裁判において被害者の死体またはその一部が原告として法廷に出された。死は消滅ではなく移行である。戦士が死ねば馬と武具を埋葬し、農民なら牛、女性なら糸巻き棒と最上の衣服、子供なら玩具を埋葬。

 キリスト教の教義では人間の霊は最後の審判において天国に行くか地獄にゆくか判定されるが、それは現世における行為の報酬か罰を受けること。死後天国での救いを期待するものは自分も現世で善行を積むが、同時に死後に霊となってから生者からの贈り物(死者の名において行う貧民や教会への喜捨・寄進あるいは死者のための祈り)を期待した。カトリック教会の教義において13世紀に煉獄という考え方(地獄に落ちるほどではないがすぐに天国へ入れないものがその罪をしばらく償うところで、生者はここにとどまっている死者の霊に対しても贈り物をすることができ、現世の善行になる)が登場した。またゲルマン人が行っていた死者への贈り物は厳しく禁止されるようになり、「教会や聖者への寄進という形で死者に贈るという新しい回路がつけられた」。教会が死者の霊の救いを保証する機関となって以来、死者が生前にもっていた財産の一部を教会や貧者に寄進しりという筋道が出来上がった(今でも生前に使用した馬や牛が死者とともに墓場まで連れてゆかれ埋葬の儀式のあと、教会に渡されることがある)。

 1280年ころの遺言書の例。内容の大部分は修道士や聖霊病院や修道院などへの寄進である。高価なものを寄進するほど救いの可能性が高いと信じられていた。さきの孤児院や養老院もこのような喜捨によるもの。当時、裕福な市民は財産を蓄えると同時に「この日がくると」ちゅうちょなく寺院や教会の建設、宗教団体の慈善施設の創立のために寄進した」。


中世の貧民

 貧富という言葉に経済的な意味が強く含まれるようになったのは12世紀以降のこと。それ以前の貧民の定義の例(M.モラ・デュルダン)「恒常的にあるいは一時的に、弱くて従属的で屈辱的な状況にあり、…社会的に無力で蔑視される状態にある者のこと。貧民に欠けているのは、金、縁故、影響力、権力、知識、技術的能力、高貴な生まれ、肉体の力、知的能力、人格の自由、人間としての尊厳である。貧民はその日暮らしをし、他人の力を借りなければその境遇から抜け出すことができない」。

 この定義は中世全体にあてはまるが経済的弱者だけではなく、貴族でも同時に貧民であることも起こりうる。家や家畜やぶどう畑までもっている農民が貧民に含まれることもあった。というのは家畜や自分が病気になれば事実上、物乞いをしたり教会や修道院の援助にたよって生活するしかないので、潜在的な貧民であった。しかし貧民の主体は生業もなく常に他人の援助を受けなければ生活できない人々で、多くは寡婦、孤児、病人、身体障害者、乞食など。

 古代社会において有力者とは自己の富を費やして人々にパンを与えサーカスを見物させ貧民に施すことのできる人々をいった。キリスト教の浸透とともにマタイ伝の富の所有を否定する姿勢が正面に出る。そして初期中世には「社会は貧民Pauperes と貧民でない人々との2つの階層からなりたっていると考えられていました」。

 教会による福祉的事業は、3世紀ころにできた助祭制度から始まるという見方がある。ローマを7地域に分けてそれぞれに貧民の世話をする助祭を置き、喜捨を集め貧民に配らせた。これは4世紀末から5世紀には確立した。6世紀以降ガリア全域の司教坐都市において貧民を登録する制度が確立した(司教は古代的な有力者として貧民に財貨を配る義務があると考えられていた。はじめは貧民にパンとサーカスを与えていた。しかし貧民が増え続けたので応じきれなくなり、象徴的存在として貧民登録が考え出された)。名簿に登録された貧民には食料、衣服、住居が与えられた。教会の入り口で喜捨を求める権利を持っていた。登録される貧民は1教会につき12人に限定されていて、死んだ場合に補充された。少数であったことと病人や弱者ではなく壮年の身体強健な者であったことが特徴。7世紀にこれら登録された貧民が教会や修道院の護衛など武力を行使する仕事につきはじめた。

 9世紀には貧民登録は衰退しむしろ修道院が貧民救済の担い手になる。それらは農業発展にともない大荘薗領主となってゆき多くの寄進を受け、豊かな富を蓄えたので、富者の義務として貧民救済をした。また修道士は自らキリストの貧民になったのだからやむを得ず貧民になったものを助ける義務があるとも考えられた。クリューニー修道院の規則の場合。客のうち徒歩できた客は①旅人・巡礼、②修道院のまわりに群れている貧民、③修道院に住む貧民、に分けられた。①には一夜の宿と食事と路銀が、②のうち毎日36人か72人に喜捨が与えられ、また③は定員18名と決められ死ぬごとに補充された。その収容には宗教的な儀式が必要であった。

 都市の救貧院、アウスブルグのフッゲライ救貧院の例。巡礼も夕方に迎え入れられ朝いったん出てゆく。冬は日没1時間前に、夏は2時間前に門が開かれた。喧嘩、誹ぼうなどをしないことを宣誓すること。賭け事禁止、夕食前のお祈り。男女別の部屋。就寝前に下着以外の衣服や持ち物を部屋の前に出すこと。食事は身分・年齢・男女によって違った。

 一般に救貧院に入るには罪を告白し、聖体拝領することが条件。場合によっては病人、棄児、妊婦、孤児などが拒否された。

 中世都市における救貧院、孤児院、養老院では貧者そのものが問題というよりも、古代以来の「有力者」の行いや、貧民の中にキリストをみるという思想のもとで、寄進者の霊の救済の手段として少数の貧民が選ばれたといえる。これは偽善者的といわれるかもしれない。しかし「貧民になかには自発的に貧者の道を選んだ人々も含まれており、西欧中世社会は頂点に貧しき者としてのキリストをおいた社会であった」「ヨーロッパの原点ともいうべき中世社会の中に無所有の思想があったということに注目する必要がある」(p.159)これには中世人の死生観と宇宙観が関係している。

 中世の人々はどれほど大きな財産をもっていてもそれに満足することはできなかった。かれらの死生観を転換させたキリスト教は地獄を強調し「現世に生きるということは、天国に行くために、つまり地獄に落ちないために、この世の生活をおくることである」といい、こういう生活の尺度が12世紀のころ受け入れられた。功成り名遂げた中年の男達がある日突然、地位も財産もなげうって、再び帰ってこれる保証のない巡礼の旅に出掛けてしまうこともあった(p.23-)。

 中世人は二つの宇宙に住んでいた。ひとつは人間の結び付きが作っている小宇宙で例えば市壁の内側。ところが死、病気、戦争、不作、飢えなどはほとんど不可抗力で人間の力のおよばない大宇宙から襲ってくると考えられていた。大宇宙の4大元素(地水火風)にたいして無力であり、日々それらを恐れながら生活していた。森は大宇宙の領域に属し恐ろしい山の民が住むところである。だから旅に出ることは危険で命懸けのこと(pp.34-)。ところがキリスト教は二つの宇宙観を否定し一つの宇宙を主張し、現世に恐ろしいものはなく、本当に恐ろしいのは人間が善行を行わずに地獄へいくことだと教えた。しかし民衆の感性の次元では大自然は恐ろしいものであった。そこで「すべての所有を否定して」、(恐ろしいと感じていた)「自然と融和する人間」(p.163)を理想として教えた。その考えが無所有を実行させたといえる。