幕末・明治維新略史

HOME > 河合栄治郎 T.H.グリーン


河合栄治郎『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』日本評論社、昭和13年

第13章 グリーンの社会思想

第1節 緒言

p.683

 グリーンは道徳哲学において、善とは何ぞやとの問いに答えて、それは人格の成長にあるといった。更に人格の成長とは何かとの問に答えて、あらゆる人の人格の成長を図ることが、各人の人格成長の主要なる要素であるといった。次の問題は、あらゆる人の人格の成長は、いかにして図りうるかにあった。彼は社会哲学においてこれに答えて、人格の成長は唯各人の内的努力によるのほかはない、しかし人格の成長を為すに必要なる条件を具え、それに障害となるべきものを除去することは可能である。これを果たすのが社会制度の任務である。従って社会制度の理想は、あらゆる社会の成員の人格の成長を為さしむるにあるといった。

 彼は青年時代から民衆の生活を重大な関心事と為し、ややもすれば国家の威厳とか帝国の繁栄とかの名の下に、民衆の利害が無視されることを憤慨していた。

p.684

 彼の社会的関心を最も強く牽引したものは労働問題であったろう。

p.685

 自由放任主義は労働問題に対する当時の支配的社会思想であった。要するに労働もまた一種の商品である、一般の商品に対して契約の自由を尊重すると同じ く、労働なる商品に対してもまた資本家と労働者の契約の自由に放任すべきで、その内容に干渉すべきでないという。しかし契約の自由の名の下に労働者は不 自由なる条件を忍ばねばならなかった。ここにおいて労働者をこの窮境から救おうとするならば、契約自由なる観念を再吟味する必要があった。果たして契約の自由は条件の不自由を犠牲にしてまで保持せねばならないものか、これがグリーンに課せられた問題であった。元来自由放任主義は経済現象に適用された自由主義の一分派である。自由主義は経済上のみならず、その適用の範囲広汎なる混然たる一体系である。彼において自由放任主義を否定することは自由主義の全部を排拒することにならなかった。

p.687

第二節 自由主義の課題

p.688

意思の決定に対して自然的欲望の強制なき場合に、意志の自由がありといい、意志する自由を持つものが、自然的欲望よりの強制を免れた場合において、道徳的自由があるという。

p.690

 私によれば、自由主義の下層構造は,19世紀の中葉までに、二つの変遷を経過したようである。その第1期は自然法の時代ともいうべきもので、17世紀から18世紀の末まで継続する。自然法の下層構造は、認識論において経験論を、欲望論において快楽主義を、道徳哲学において功利主義を、社会哲学において社会契約説を採った。その代表者はジョン・ロックであった。人類の原始時代において人は自由で平等であったが。社会契約により人は各種の権利を譲歩したが、自由と平等のみは留保した。しかし現在、自由と平等が実現されていないのは、社会契約の条件に反し、原始時代に有せし権利の侵害である。ここにこれを回復する権利があるというのである。現在において自由を実現せんとするには、何故に自由の実現が必要であるかの論拠を必要とする。

 第2期の代表者はジェレミー・ベンサムである。彼もまた認識論において経験論を、欲望論において快楽主義を採った。前時代と異なる最も顕著な点は、社会哲学として社会契約説にかえて功利主義を置き換えたところにある。最大多数の最大幸福が社会の理想である、しかして各人はもっともよく自己の最大幸福の何たるかを知る、故に各人の自由に放任するならば、各人の最大の幸福は実現される、各人の最大の

p.692

幸福の総和は最大多数の最大幸福である、政府の強制干渉の如きは社会の理想の実現を阻止するに止まる、自由に放任することのみが、社会の理想の実現の最上の方法であると、かくて自由主義はその論拠を功利主義の社会哲学に求め、更に功利主義の道徳哲学と快楽主義の欲望論と経験論の認識論を持つ新たなる体系の一部となった。グリーンの当時において、彼の眼前に展開した自由主義とは、かかる下部構造の上に屹立していた。

 労働者問題のであって自由主義者は、自由放任主義に執着するならば、眼前における労働者階級の悲惨なる窮状を座視しなければならない。自らの立場に確 信を欠いたために、その時々の事情に引きずられ、機会主義に堕した。あるときは労働立法に賛成し、あるときはそれに反対した。

p.694

 1859年この要望の中にジョン・スチュアート・ミルの「自由論」は現れた。自由主義の転向を促す契機となった。彼は人間の行為を二種に分類し、一つは「自己に関する行為」(self-regarding action)であり、他は「他人に関する行為」(others-regarding action)なりとした。前者の行為は絶対に自由でなければならない。後者においてはある場合には自由を要求できるし、他の場合には強制を受けてもやむ を得ない。従来自由放任主義の名において自由を要求されてきた行為は、まずそれが「自己に関する行為」か「他人に関する行為」であるかを分類し、前者の場合のみ自由を許される。後者の場合、自由であって良いか強制されてもやむを得ないかは、別個の原理によって決定すべきものであるとして、公正の見地において、地主の不労所得なる地代の没収を主張した。

p.695

 「自由論」の持つ最大の意義は、自由主義の下層構造を改訂した点にある。ミルはいう(On Liberty p.117)。

 人間の性質は模型によって作られ、規定された仕事を正しく努めてゆく機械の如きものではない。そは生ける物に欠くべからざる内的の力によって、あらゆる方面に成長し発展していかんとする樹木のようなものである。



更にいう(同書、115ー116頁)

 人間の目的即ち漠然たる刹那の欲望によるに非ずして、永遠不易の理性の命ずる人生の目的は、各人の有する能力をして、完全無欠の一体として、最も高度にしてまた最も円満なる発達を為さしむる。故に人間として不断に努力を傾けざるべからざる目的は、特に同胞の運命に影響せんと欲する者の絶えず眼を注がざるべからざる目的は、力と成長の個性である.而してこれがためには二つのことが必要である。一つは自由にして一つは境遇の多様性ということである。この二つにあわされて、個性ある力と多種の複雑さとが起る。此の二者結んで独創の心を作る。



 即ち彼は個性ある人間の成長が人生の

p.696

目的であると云って、ここに道徳哲学を提示し、この人生の目的を各人に実現せしむるに必要なる条件を具備することが社会の理想であるとみて、ここに彼の 社会哲学を暗示し、その条件の一つとして自由が必要であると云って、ここに自由主義なる上層構造を置いた。

 かくして時代が解決すべき課題に悩んでいた時に、ミルの「自由論」は一応の回答を提示した。

p.697

第3節 自由主義の批判

 ミルの「自由論」は自由主義の課題を解決し得たごとくにして、その実はそうではなかった。第1にミルは我々の行為を「自己に関するもの」と「他人に関するもの」とに分類したが、この分類は認め得ない。行為の中に自己のみに関連して、みじんも他人に関連しない行為があるとすれば、かかる行為は関係ある当事者以外のすべての第三者の関心の対象足り得ない行為である、それに自由を認めるか否かさえ問題となり得ないのである。…

p.700

 これを要するに「自由論」は、時代の要望に副い得たるがごとくにして、実はそれは錯覚に過ぎなかった。再びベンサムに立ち戻るのほかはない。

p.701

 第1にもしベンサムの如く経験論的認識論を採るならば、一切の科学は破綻せざるを得ない。認識を成立せしむる原理の先天性を認めずして、一切の認識が経験より生ずると云うならば、あらゆる経験が「実在的にして客観的」なるものであり、世に経験の

真偽を区別すべき根拠があり得ない。経験的認識論の上に立ちながら、ある経験を批判しある思想を批判し、自己の経験と自己の思想との妥当性を主張することは自己矛盾である。凡そ一切のあらゆるものが唯そのままに黙過されるの外なき筈である。しかるに関わらず自由主義を主張し他の社会思想を否定するは、果たして何に自己の合理性の根拠を置くか、否更に一歩を進めれば理想主義を排拒して経験主義を主張すること自体が、既に自己の経験主義より来る理論的帰結に反することとならざるを得ない。

 経験論よりしていかに因果関係を説明しうるか。経験より因果関係が成立すると云うならば、それは既に因果関係を前提としている。

p.706

 ここにおいて自由放任主義に反対するものは、当然に自由放任主義の下層構造たる経験主義に反対することを意味する。自由放任主義の清算を為すと共に、 それを契機として経験主義の清算を為した所に、英国思想発展史の特異性が存在する。マルクス主義は自由放任主義に反対するが、経験主義を下層構造とする。英国人はこれに魅力を感じない。

p.707

第4節 自由主義の転回

 トーマス・ヒル・グリーンは下層構造を経験主義より理想主義に置き換えたと共に上層構造なる自由主義に重要なる改訂を施し、自由主義の転回を成就した。

 まずグリーンは認識論を観念論に求めた。これによって因果関係の必然性を確保し、科学の普遍妥当性を回復した。観念論的認識論は決して経験科学の業績を看過するものではない、むしろ経験科学をしてその成立可能性を基礎付け、将に崩壊の悲運より経験科学を救助した功績を持つものである。

p.708

 「我々が兄弟同胞と称しつつあるもの、永遠の運命において我々とともにある民衆の一群が、疑うべからざる人格の潜在力を有するに拘わらず、行為においてこれを実現せしむるの機会をば、他人が与うべく努力すべきはずなるに、かかる機会を与えずして放任しつつある間は、我々は耳目の快楽、知識追求の快楽、社交の快楽、演説や作物の賞賛の快楽を享楽すべきときではない。」(第270節、第271節)

p.711

 グリーンは国家とは「その成員の権利を、より完全により円満に、保持するための制度である」(「政治義務の原理」138頁)と云い、権利が各人の人格成長のための必要なる条件であるならば、権利を保持する国家は、われわれの道徳的生活に必要欠くべからざる制度である。ベンサム、ミルの国家観をもってしては、国家の職能を可能の限り狭小ならしめるの外はないだろう。グリーンの如くに、国家の概念を改めれば、国家は個人の有機的結合であり、個人の人格の成長を希求する義務を有する道徳的存在である。かかる国家を前提にして初めて後述するが如き社会政策的職能を営む権利と義務とが発生する。自由放任主義はプロレタリアをして善の実現を阻止するものとして、それの存続には彼は固より反対であった。

p.714

 為すべからざる干渉は、今日までいかなる形式において為されたか、彼は言う(「政治義務の原理」、39頁)

三にはある種の道徳心の発揚のための機会を除く法律的制度を作ったことである、たとえば貧民法を作ることによって、親としての前途の用意、子としての親に対する尊重、近隣に対する親切、というような心の発揚の機会を除いたることの如き之である。



 グリーンが国家の干渉を拒否した領域は、内面生活に関するものであり、その主要なる内容は信仰または一般思想に関してである。この領域に対しては彼は自 由を唱え、自由主義は依然として存在の価値あるものと考えた。これらの自由の論拠は、自由が善すなわち人格の成長のために必要であり、しかして成員の人格の成長を図ることが、国家の目的であるならば、これらの自由は国家目的よりの必然の帰結でなければならない。彼はいう。(同、39ー40頁)

「親権政治(paternal government)に反対する真正の論拠は、それが「自由放任」の原理に反するがためでもなければ、またそれが政府の任務は人民を善からしむることであり、道徳を助長することであるという誤まれる考に立っているという点にあるのでもない。唯そが道徳なるものの本質を誤解しているという点にあるのである。政府の真の職能は、道徳が可能なるべきような生活の条件を保持することにあり、そうして道徳の道徳たる所以は、自ら自己に課した義務を利益を離れて遂行するに在るのである。しかるに「親権政治」は義務の自己命令のための余地と、利益を離れた動機の発揚の余地を狭めることによって、全力を尽くして 道徳を不可能ならしめつつあるのである。



 かくて思想言論の自由を力説することにおいて、グリーンはベンサム、ミルにみじんも劣るものではなかった。だがグリーンの自由の主張はベンサム、ミルとその結論において合致するが、その論拠において同一ではない。

 国家の目的が、その成員の人格の成長を図るに在ることよりして、第二の任務が派生する、それは成員の人格成長のために、障害となるべきものを除去せよということである。何となればあまりに大なる障害あらんか、これと闘うがために人格の成長は阻止される虞れがあり、しからざるも余りに大なる犠牲が払わしめられるからである。これが国家の積極的任務である。なるほど国家の為しうることは、人格の成長それ自体にはない、唯それへの必要の条件を具備することにある。

p.716

これらの障害を除去することは、それ自身において価値あることではなく、それが人格の成長すなわち善の実現に役立つことによってのみ、価値付けられるも のではあるが、しかもなお善への必要な手段として、国家はこの任務を忠実に実施するの義務がある、この名目の下に国家の干渉強制は是認されるのであろう。彼はいう(全集第三巻374頁)

 なるほど道徳的善を直接に助長することは、国家の任務ではない。なぜならば道徳的善の善たる本質上、国家がこれを為すことは不可能であるからである。 しかし条件を欠くがために、人間能力の自由なる発揮が不可能となるべきその条件を保持することは、正しく国家の任務である。



又彼はいう(「政治義務の原理」208ー210頁)

 この故に国家即ち法律を用いて活動する社会が、真正の市民性たる傾向を増進せんがために企つべき有効の活動は、必然に障害の除去(the removal obstacles)に限定せられるべきが如くである。



p.717

 今や新たなる障害を除去するために、あるいは資本家と労働者との契約に干渉して、その労働時間を制限し、危害不衛生の設備を取り締まらんとし、あるい は両親の児童に対する教育に干渉して、国民普通強制教育法案を通過せしめんとし、あるいは飲酒に制限を加ふるがために、酒類販売業を取り締まらんとする。これらは労働者、児童又は飲酒者の人格の成長のために、その障害を除去せんとすることを目的とする。

p.726

 人はグリーンの立場を称して新自由主義(New Liberalism)という。



第5節 影響

p.729

 アーノルド・トインビー、トインビー・ホール初代館長のバーネット、バーナード・ボサンケなどはグリーンの影響を受けている。

p.732

 自由党の社会政策的転向を確定したのは1891年のニューカッスル・オン・タインにおける大会においてである。1905年キャンベル・バンナーマン内閣(後のアスクィス内閣)成るやはじめて活発なる社会政策の実施に着手したが、その転向は前世紀末において確定し、その源泉を哲人グリーンに負う。今に至るも英国自由党の指導精神はトーマス・ヒル・グリーンである。

 ドイツにおいては自由放任主義とマルクス社会主義とに対抗して、ワグナー、シュモラー、ブレンタノ等の大学教授の首唱により1872年「社会政策学会」なるものが成立し、労働者保護のための政策を研究し、政府にその実施を要求した。ウィルヘルム大帝とビスマルクとは之がために大規模な社会政策に着手した。

p.734

 グリーンの影響は英国社会主義に及んでいる。シドニー・ウェッブがその「社会民主主義へ」の末尾において、グリーンがその道徳哲学において、あらゆる人の人格の成長を図ることが社会の目的であるといったことは,我々の立場の最良の表現であると言ったことは、英国社会主義者の下層構造の一端を窺わせるに足るであろう。

*1885年「政治義務の原理」