幕末・明治維新略史

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M.ウェバー

『社会科学および社会政策の認識の「客観性」』(1904)岩波文庫

 文化的な諸制度や諸現象を対象とする科学は最初は実践的な観点から始まった。「国家が経済政策についておこなう一定の基準の定め方について価値判断を作り出すことが、われわれの科学の、最初の、かつさしあたっては唯一の、目的であった。・・・その際、『存在するもの』の認識と『存在すべきもの』の認識とを原理的に分けることが行われなかったのであった。」このことは二つの意見により妨げられた。第1の意見は「同じ自然諸法則がいついつまでも経済現象を支配する」というもので、第2の意見は「あるはっきりした発展原理がその現象を支配してゆく」というものであった。したがって、「あるべきもの」というのは、第1の意見では「いつまでもかわらずに存在するものと一致する」といわれ、第2の意見では「どんなことがあっても生成するものと一致する」と考えられたりした。

 その後、倫理の内容を規定することにより、「国民経済学を、経験的な基礎に基づいた、ひとつの『倫理的科学』という尊い地位にまで高めよう」という見解が出て,そして「国民経済学は価値判断をとくに『経済的な世界観』というものから下すものであり、またそうしなくてはならぬものだ」という見解が続いている。

 われわれはこういう見解を原理的に拒否しなければならない。「われわれの意見では、拘束力のある規範や理想を発見して、そこから実践に対する処方せんを引き出せるという期待をかけるなどということは、経験科学の課題では決してありえない」。

 だからといって、「価値判断は結局のところは、一定の理想にもとずいているのであり、したがって『主観的な』根源を持っているものであるから、そもそもそれにたいしては科学的な討論をばくわえない」とは決して考えていない。・・・「批判は価値判断にたちむかっても、あしぶみするものではないのである。」問題となるのは理想や価値判断を科学的に批判する事にどんな意味があるのか,なにが目指されているのかである。(pp.50-51)

 「理想や価値判断を科学的に批判することにはどんな意味があるのか」を検討しよう。「意味を込めておこなわれる人間の行為の究極の要素を思考によって省察するときはいつの場合でも、それはまず、「目的」と「手段」の範ちゅうに結び付けておこなわれる。われわれが何かを具体的に意欲するのは、『そのものに固有の価値のため』であるか、それとも、意欲の一番深いところにある目的に役立つ手段としてであるか、そのいずれかである。」

 科学的考察としては、まず、目的を達するためにはどんな手段が適しているか、不適当であるかを、その時の知識の範囲内で正しく決めることができる。したがって、取り扱い得る諸手段で特定の目的を達成できるチャンスを考慮して、目的のたてかた自体を、その時の情況のもとで意味がある意味がないと批判することができる。

 また、意図された目的を達成するとしても、その外側でそれといっしょに生じるようないろいろの結果を確認することも出来る。それにより行為者が意欲した結果と意欲しなかったが生じる結果との比較検討が出来るようになるので、「意欲された目的が達成されると、それ以外の価値が傷付けられることが予想されるというかたちにおいて、その達成には『どんな犠牲が伴うのか』という疑問」に回答を与える。「責任をもって行動する人間が自己反省をするばあいには、その行為の目的と結果との交互の秤量ということなしに済まされるものではない。」これが出来るようにすることは、技術的批判の本質的機能の一つである。

 秤量そのものを決着するのは科学の課題ではなく、意欲する人間の課題である。

 「意欲する人間はかれみずからの良心とかれ一個人の世界観とにしたがって問題となるいろいろな価値を秤にかけ、その中からある価値をえらびだすのである。科学は意欲する人間にたいしては、次の意識がもてるように助力することができる。つまり総ての行為が、したがってまた、事情によっては行為しないことが、その結果からみると、特定の価値に味方することになっている、したがってまた通常はそれ以外の価値には敵対することになる、という意識がこれである。ところがそういう価値の選択をおこなうということは、意欲する人間がまさに行うべき事柄なのである。」

 われわれが決断する人間に提供できるのは、「意欲されたことがらそのものの意義を知らせることである。」具体的な目的の根底にあり、または有り得る「理念」を指し示し、論理的に秩序だった展開をしてみせて,彼が選択をする諸目的を,関連と意義にしたがって知らせることができるである。

 価値判断を科学的に扱うということは,意欲された目的とその目的の根底にある理想を批判的に評価することを教わることが望ましい。ここでいう批判とは、意欲されたものが内に矛盾を含んではならないという要請に照らして、その理想を吟味することである。この批判により、意欲する人間の無意識のうちにある究極の公理、究極の価値基準を反省させ意識させるのである。「判断をくだす主体がこの究極の基準を実践的に奉ずべきであるかどうかということになると、それはその人の個人的な問題であり、その人の意欲と良心の問題なのであって、経験的な知識の問題ではない。 経験科学は、人間にたいして、なすべきことがらを教えることは出来ない。むしろただ、なしうることと、現に意欲していることがらの客観的な意義とを教えることができるだけである。」「われわれの行動を決定し、われわれの生活に意味と意義とを与える・・・最高のまたは最後の価値判断というものこそは、われわれにとって客観的に価値あるものとして感じられるものである。・・・われわれがそういう価値判断を主張しうるのは、それがわれわれにたいして実現を求めているものとして、いいかえると、われわれの最高の生活価値から流れ出てくるものとして現れるときに、したがって、生活のいろいろの抵抗と戦いながら展開されるときにこそである。・・・しかし価値の妥当性を評価することは信仰上の問題であり、・・・思弁の代わりに営まれると主張されるような意味での経験科学の対象ではない。」

 究極的な目標が歴史的に変化し相互に争いをするという事実が重要というわけではない。(pp.51-55)

  なぜなら,実際的な個別的な問題は無数に存在しているがそれらを考える場合には、ある目的が全面的に同意され自明なものとして与えられていることが前提にされている。たとえば緊急融資や社会医学や救貧政策、職業紹介などでは、「問題となるのは少なくとも見掛けのうえでは,目的達成のための手段についてだけ」である。

 しかし慈善的警察的(岸:ポリツァイなら行政的という訳も可)な福祉施設および経済施設の具体的な諸問題から、経済政策や社会政策へと考えを高めるならば、「規範となるべき価値の基準が自明のものだというこの見掛け」が消えてしまう。「ある課題が社会政策的な性格を持っていると称することは、まさにはっきり決まった目的を前提して、そこからただ技術的な考慮を払うだけで、問題は片付くのではないということ、そうではなくて、その問題が一般的な文化問題の領域の中へ入り込んでいるのだから、規範的な価値基準そのものをめぐって争いが起こることがありうるし、またそうでなくてはならないということを、それは意味している。」

 「その課題の文化的な意義が大きければ大きいだけ、経験的な知識の素材から一つのはっきりした答えを出すことは出来にくくなり、またそれだけ、信仰とか価値の理念とかいう究極的な、このうえなく個人的な公理が入り込むことが多くなる。」

 専門家ですら「実践的な社会科学に対して、何はともあれ『一つの原理』をかかげて、科学的に正しいものと確かめておくことが必要であり、そうするならば、実際的な個々の課題を解くための規範はその原理からはっきりと引き出すことができるはずだ」という信念を持っていることがあるがこれは素朴すぎる。

 社会科学においては実践的な問題を原理的に論ずること,言い換えると,無反省にくだされる価値判断についてそれらの理念的な内容に即して考えさせることが非常に重要である。「確実なことは,倫理的なおしえ,すなわち具体的な制約を帯びている個人の行動に対する規範から,文化内容の主張ははっきりとは引き出すことができないということ」である。

 折衷主義や歴史的相対主義や中間派が,極右や極左の理想と比べて,いささかなりとも科学的な真理の多い立場であるとか,科学的な妥当性のある実践的な規範が得られるということではない。

 われわれは「認識と評価とを区別する能力」と、「事実の真相を見るという科学的な義務と、自分自身の理想のために力を尽くすという実践的な義務」の遂行、という二つに熟練したいと思う。

 実践的な提案を科学的に批判する場合に,立法者の動機や著述家の理想の効果の程度について説明することは,それらの元になっている価値の基準をそれ以外の基準と対決させ,もちろん自分自身の価値の基準と対決させることによってでないと直観的な理解は得られない。「他人の意欲を価値評価して意味があるのは、自分自身の『世界観』から批判し、自分自身の理想の地盤から、他人の理想とたたかう場合だけである。」

 事実の科学的な論述と価値判断を行う推論とが混同されることが最も有害であり,これに反対するのであって,決して,「自らの理想を主張することがよくないという立場から」いっているのではない。また,「実践的な思考が欠けていることが科学的な『客観性』を獲得する内面的な根拠になる」、などといっているのではない。

 「ある科学的な問題が存在するということを認めることすらがすでに、実践的な人間の、一定の方向をもった意欲と人格的に結び付いている。」(pp.55-62)

 理念型というのは一つの思想像であって,歴史的な現実ではなく,また「固有の」現実体であるのでもない。また現実を実例として自分のなかへおさめると現実全体が秩序だってくる,というようなひとつの図式として役立つために,理念型が存在するのではなおさらない。それは一つの純粋に理念的な極限概念という意味を持ち,現実がもたらす経験的な内容のうち,特定の意義のある構成部分をはっきりさせるために,現実をそれにかけてはかる基準となり,現実を比較してみる基となるものである。

 理念型はとくに歴史的個体ないしその個々の構成部分を発生的な概念においてとらえようとする試みである。(p.101)(岸:例はロビンソン・クルーソーによる経済学の基礎概念の説明。交換や分業なら猟師と農夫を登場させる)

 「マルクス主義的な『法則』や歴史的発展についての構成はみな―理論的に誤謬がないかぎりにおいてのことであるが―理念型的な性格をもっていることはいうまでもないということを、はっきりというにとどめておこう。このような理念型が、現実にそれらと比較するために用いられるならば、著しいのみならずまた、独特の索出的な意義があるのだが、それらが経験的に妥当するものだとか、ないしはさらにすすんで、真実な―という意味は本当のところ、形而上学的な―『活動力』『傾向』であるなどと考えるならば、たちどころに、それは危険なものとなる。」(pp.112)

訳者注(p.128)

価値関係と価値判断( アプリオリとしての文化価値に理論的に関係させることで,価値関係に基づいて,科学の対象の領域が決定されそこで認識が行われる。価値判断は,対象の表す諸現象に対して主観がおこなう実践的な評価―善悪・美醜・適不適など―で,価値関係と区別される)

没価値性Wertfreiheit (理念型の性質から考えつくことであるが,実践的な価値評価をしないこと。価値評価と無関係に,ただ考えられているものとして扱うこと。殺人も善悪を離れて現実に存在するから科学的に扱われる。学者がそれをよいと考えているかどうかは別である。価値自由性という訳もある。)