幕末・明治維新略史

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A.マーシャル,『馬場啓之助訳 経済学原理』第9版1949年(初版1890年) 東洋経済

 「賃金の上昇は、それが不健康な状態のもとで得られたものでないかぎり、ほとんどつねにつぎの世代の肉体的・知性的、否、道徳的な力さえ強化し、他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるはずの稼得の増大はさらにその上昇率を高める。」(Ⅳ,p.40)

 「経済進歩の本当の基調を作り出すのは、新しい欲望の形成ではなく新しい活動の展開なのである。」(p.249) 「労働時間、作業の性質、作業の行われる労働環境および給与の決めかた、これらが肉体か精神かどちらか一方ないしはその双方に大変な消耗をもたらし、低い生活基準に導く」場合や、「能率の為の必需品のひとつである余暇・休息および安静がかけているような場合」には、社会全般からみて不経済である。そこで「労働時間をかなり短縮すると、一時的には国民分配分を低下させようが、改善された生活基準が労働者の能率にたいして十分な効果をおよぼすだけの時間が経過すると、活力・知力および性格の力が向上して短縮した時間内で以前と同じような作業量を消化できるようになる。」(p.255)

 労働組合が使用者と平等の条件での交渉力を持つために使った主要な手段は、ある種類の1時間の労働ないしはある種類のある作業量にたいして支払うべき標準的賃金に関する「コモンルール」である。「労働組合はコモンルールを正しい作業と賃金との規格化に役立つように利用することによって、労働組合ばかりでなく国民全体にも利益をもたらすとみて良いであろう。」(pp.269-271)

 現代の社会には、肉体的・知性的・道徳的にかなりの賃金が得られるような仕事を行う能力のないところの『取り残された人々』が相当多数いる。こういう取り残された人々に対する思い切った対策が必要なのである。これらの人々は特別な扱いを必要としている。「精神も肉体もかなり健全な人々にたいしては、道徳的な見地からも物質的な見地からも、経済自由の体系がおそらく最善の形態であるだろう。しかし取り残された人々は経済自由を活用することができない。」(P.282) 幼い子供達を養育している人々の場合は、一層多額な財政資金の投入を必要とし、またかれらの個人的な自由を公共の必要のために一層強く抑制しなくてはならない。「取り残された人々を無くそうとする施策の第一歩のうちでもいちばん緊要なことは、見苦しくない服装をさせ、清潔で、かなりよい栄養をとって、子供達をきちんと通学させることである。」それが守れない場合には、両親に注意し忠告を与えるべきで、それでだめなら家庭を分解させるか、あるいは両親の自由を制限し統制を加えるほかはない。(p.284)

 「生活の幸福は、それが物的な条件に依存する限りにおいては、所得が最低限の生活必需品をまかなうにたる水準を上回るように成ったときから始まり、その水準を達成した以後これを上回る所得については、その所得の水準はどうであろうとも、所得の等比級数的な上昇に対応して幸福は等差級数的にしか増大していかないと想定してよいであろう。」この仮説からいうと、まじめな労働者の下層のものの賃金を例えば4分の1上昇させると、その他の階層の同数の労働者の賃金を同率だけ上昇させたよりも、幸福の総計をより多く増大させることになると結論してさしつかえにわけである。(p.286)

 われわれは機械化の進展を十分に促進し、未熟練な作業しかできないような労働の供給を縮小させるように努力し、「国民の平均所得をこれまでよりも一層速やかに成長させ、未熟練労働者が受け取る分け前を相対的に増大させるようにしなくてはならない。」「教育は一層徹底的に進めていくほかはない。・・・教員達は性格、資質および活動を向上させるように教育し、思慮分別のない親をもった子供もよく訓練して、かれら自身はやがて思慮分別ある親となれるような機会を作ってやって欲しい。この目的のために公共の資金は惜しみ無く投じなくてはならない。労働者の居住地区で子供たちが健全な遊戯をやれるような新鮮な空気と空き地を提供するためにも、資金を惜しんではならない。」「貧しい労働者階級の人々が彼らだけの力だけではなかなか用意できないような彼らの福祉( wellbeing)のための施設を、国家は十分な資金、いや十分すぎるくらいの資金を惜しみなく投じて作り出す義務を負っているが、同時に、彼らの家の中を清潔にし、将来力強く責任ある市民として振る舞わなくてはならない幼少なものたちにふさわしい雰囲気を作るべきだ、と彼らに要求してよいようにも思える。」(p.287)

 「極貧層の人々の非常に低い所得について、欲望の充足が削減されるばかりでなく、活動が低減されるという見地から論じてきた。」労働時間の短縮により誰もが余暇を上手に使うことを学び知ることが重要である。しかし余暇を上手に利用することについての改善は一番遅いのである。「人々が余暇を上手に利用することを学び知るには、余暇を自由に使えることがどうしてもその前提になる。また、余暇をもたないような階層の肉体労働者は、あまり自主性を持つことができず、完全な市民ともなれない。ただ疲労をもたらすだけで教育効果を持たないような作業から解放された時間をいくらか持つことは、生活基準を高めるための必要な条件なのである。」(pp.290-291)