幕末・明治維新略史

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J.S.ミル『経済学原理(第5篇第11章13)』1848
J.S.ミル『自由論』(1859)(第3章 幸福の諸要素のひとつとしての個性について)
J.S.ミル『功利主義論』1861


●(パターナリズムの理論)

ミル『経済学原理』第4篇 第7章労働者階級の将来の見通しについて

1(従属保護の理論は近代社会の状態にはもはや当てはまらない)

pp.112-116

 生産の増加の重要性をへらし、時代の二大要請であるところの、分配の改善と労働に対する報酬の増加とに対してもっぱら注意を向けることに、現代における実際的諸目的に対するその妥当性があるものである。総生産物がそれの分配にあずかるところの人たちの数に比較して相対的に増加するということが、この上なく大きな重要性を持つことになる。そしてこのことは・・・もっとも人数の多い階級―すなわち筋肉労働者の階級の―意向および慣習(*衣食住の生活様式など)によって定まるべきものである。

 『階級』としての労働者という言葉を用いる場合、私はこの言葉を慣用に従って用いることにする。すなわち決して社会諸関係の必然的な、あるいは永続的な状態を言い表すものとしてではなくして、社会諸関係の現存の状態を言い表すものとして用いることにする。・・・いやしくも人生の必要な労働の分担分を負担することを免れているような人間(ただし、労働する能力のない人たち、あるいは以前の労苦により正当に休養をかせぎ得た人たちをのぞく)がいるような社会状態は、私は公正なものとも、また有益なものとも認めないものである。

 筋肉労働者にとって望ましい社会的地位に関し、二つの相対立する理論が存在することを、はっきりとあらわしたのであった。この二つの理論の一方は、従属保護の理論、他方は自立の理論と呼ぶことができよう。

 前の方の理論によれば、貧しい人たちの運命というものは、この人たちの全体に対して影響するところのすべての事柄において、これをこの人たちのために―この人たちによって、ではなしに―規制しなければならぬという。貧しい人たちが自分たち自身のことを考えることを要求したり、あるいはそれを勧奨したりしてはならず、また貧しい人たちが自分たちの運命を決定するに当たり、自分たち自身の反省なり将来に対する予想なりに重きを置くように要求したり、あるいはそれを勧奨したりしてもならぬ。貧しい人たちの運命について責任を負うことは、上層諸階級の任務であると考えられる。上層諸階級は良心的に遂行するよう用意をなし、かつその態度の全体を持って、貧しい人たちにこれに対する信頼の念を起こさせなければならぬ。

 その結果、貧しい人たちが、一方においては彼らに対してもうけられたもろもろの規則に対し受動的能動的服従をしながら、また同時にそれ以外のすべての点においても信頼しきった無関心な状態に入り、自分たちを保護してくれるこの人たちの陰に安息するようにしなければならない。それは温和な、道徳的な、また感傷的な関係、一方の当事者には愛情に満ちた保護があり、他方の当事者には尊敬と感謝に満ちた服従があるところの関係でなければならぬ。

 富める人たちは、貧しい人たちに対し親代わりの地位に立ち、彼らを子供のように導いたり叱ったりしなければならぬ。貧しい人たちが自発的行動に出るということは、必要ではない。彼らが、ただ彼らの日々の労働をなし、かつ道徳を守り、宗教を信ずるならば、それ以上のことを彼らに求めてはならぬ。彼らの道徳と宗教とは、彼らにとって上位者に当たる人たちが、彼らに与えなければならぬ。この上位者に当たる人たちは、これに関する適切な教育が彼らに与えられているか否かを審査し、かつ彼らに、その労働と敬愛との代償として、適当な食料と衣料と住居と、精神的教育と邪気のない娯楽とを確実に与えるために、必要なすべてのことをなさなければならない。

 これは、実は、人々の心の中に描かれた、未来に対する理想である。・・・わが国においても、また他のどの国においても、その上層階級が、この理論においてそれに割り当てられている役割に多少とも似通った役割を、かつて果たした時代は、決して指摘することができないのである。

 それは、あれこれの個人の行為なり人格なりに基づいて、それを理想化したものである。・・・

 少なくとも、上層諸階級が十分に改善されて、この理論において予想されているような後見人的方法をもって統治するようになるはるか以前に、下層諸階級は十分に進歩向上を遂げて、もはやこのような統治を必要としなくなるであろうということ―少なくともこのことは、私には否定できないことであると思われる。

pp.118-119

 労働者の、少なくともヨーロッパの比較的に進歩した国々にいるものについていえば、家長制的あるいは親権的政治制度は、彼らが二度とそれのもとに入ることを肯じ得ないところの政治制度であるといっても、間違いでないであろう。

 労働諸階級は、自己の利害関係を自己自身の手に掌握した。そして彼らが、自分たちの雇い主の利害は自身の利害と一致するものではなく、かえってそれと対立するものであると考えていることを、絶えず示しつつある。上層諸階級の中には、このような傾向は、道徳教育や宗教教育によってこれおw打ち消しうると、うぬぼれた考え方をしているものがある。

p.122

2(将来における労働諸階級の福祉は主として彼ら自身の精神的教養に依存する)



●J.S.ミル『経済学原理(第5篇第11章13)』1848岩波文庫


 「個人は、彼らはそれをなしうる能力を持っていると合理的に期待せられうる事柄については、何事によらず、一般にそれを自身でなすように放任されるべきものであるが、しかし彼らが最初から自分自身でなすべしとされてはならない場合、そして他人から援助されなければならない場合には、彼らは、はたしてこの援助をもっぱら個人から、したがって不確実かつ不定期に受けるのがよいか、あるいは社会がその機関すなわち国家を通して行動するところの系統的諸施設から受けるのがよいか、という問題が生じる。」これは救貧法にかかわる問題である。

 「人間が互いに助け合うべきだということは、正しいことだと認められるであろう。しかもその援助の必要が大であればあるほど、ますますそうである。そして餓死しようとしている人ほど、援助の必要が大であるものはない。したがって、困窮によって作り出される援助に対する請求権は、およそ存在しうるあらゆる請求権のうちで、その力のもっとも強いものの一つである。」極度に緊急の場合に社会施設により及ぶかぎり確実に救済するということには、十分な理由がある。

 いずれの援助であれ二つの結果が、すなわち「救助そのものから生ずる結果、および救助に依頼することから生ずる結果」がある。前者は一般に有益であり、後者は大部分有害である。

 「エネルギーおよび自立心は、援助の過剰によっても減殺されるけれども、またそれの欠如によっても減殺されうる。努力にとっては、それ(*努力)なしに成功することを保証されていることよりも、努力をしても成功する望みがないことの方が、はるかにより致命的である。」生活状態が悲惨で意気消沈しエネルギーが枯渇したときには、援助は強壮剤となる。「ただしかし、いつも、この援助は本人自身の労働、熟練および慎重性の代わりとなることによって自助を中止させるようなものではなく、これらの本来的な手段によって成功に到達する、より大なる望みを彼に与えるようなものに限定されるならば、である。」この問題の一般的な原則は「援助を受ける人の生活状態が、援助を受けることなしにそれと同じことをなすことに成功した人の生活状態と比較して、同じ程度の好ましさのものとなるようにその救助が与えられた場合には、その救助は、もしあらかじめ予見せられうるものであるならば、有害である。ところが、もしこの救助が、誰でも利用しうるものであるとともに、できるならばそれを受けずにやって行こうという強力な動機を各人に残すものである場合には、それは大体において有益なものである。この原理を公共的慈善制度に当てはめたものが、すなわちあの1834年の『救貧法』の原理である。もしも救済を受ける人の生活状態が、自分自身の努力によって生活を支えている労働者のそれに劣らぬくらい好ましいものであるならば、その制度は、個人の勤勉および自立精神を根本から破壊してしまう。」実施するならば補足として、一般に人々に作用する「諸動機の影響を奪い取られた人々をあたかも家畜のように支配し、労働に従事せしめることが、必要となるであろう。」

 これらの条件が満たされれば、強壮者でも生活困窮者には慈善よりも法律で生活費の確実性を与えた方がよいと思う。第1に、慈善は常に過大または過小で、撒き散らしたり餓死させたりする。第2に、国家は受刑者を養うのだから、罪を犯さない貧民にも同じことをしなければ犯罪を奨励することになる。最後に、貧民を慈善に委ねると乞食が増える。

 「国家が私的な慈善事業に委ねてよく、また委ねなければならないことは、真に救助を必要とする場合について、こまかい区別をするという仕事である。・・・国家は一般的規則に従って行動しなければならない。国家は、救済に値する貧困者と、これに値しない貧困者との間に、区別をすることを企てることはできない。国家は、前者に対しても単なる生活費を与えるだけでよければ、後者に対しても、これ以下のものを与えるわけには行かない。・・・公的救済の配分にあたる人達は、調査者となる任務をもつわけではない。担当官や監督官たちは、救済を求める人達の徳性をみずから判定し、この判定に従って他人の金銭を与えまたは与えないという仕事を託されるのに適しない人である。・・・私的慈善はこのような区別をなすことができる。そして自分自身の金銭を与えるにあたっては、自分自身の判断に従ってそうする権利を持っている。」



J.S.ミル『自由論』岩波文庫(1859)(第3章 幸福の諸要素のひとつとしての個性について)

自分自身の性格が自分の行為を律するべきである.他人の伝統や習慣が自分の行為を規律するのでは,人間の幸福の主要なる構成要素のひとつが欠け,また個人と社会との進歩の最も重要な構成要素がかけている.「この原理を支持するにあたって,われわれの出会う最大の困難は,一般に承認されているある目的に到達するための手段がどう評価されているかということにあるのではなくて,その目的自体に対する一般人の無関心という点にあるのである.個性の自由な発展が,幸福の主要な要素のひとつであるということが痛感されているならば,‥‥それ自体がこれ(文明,知識,教育,教養)の総てのものの必須の要素であり条件である,ということが痛感されているならば,自由の軽視される危険は存在せず,また自由と社会による統制との境界を調整することについても,特別の困難を」生じない.しかるに,「一般の考え方によると,個人の自発性が固有の価値を持ち,あるいはそれ自体のゆえになんらかの尊敬に値するものであるとは,ほとんど認められていない.」(pp.115-116) ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは「人間の目的,すなわち,永遠または不滅なる理性の命令の指示したものであって,曖昧なまた移ろいやすい欲望の示唆したものではないところの,真正なる目的は,人間の諸能力を最高度にまたもっとも調和的に発展せしめて,完全にして矛盾なきひとつの全体たらしめることにある.」「それゆえに,あらゆる人間が絶えず努力の標的とし,また特にその同胞たちを教化しようと欲する人々が常に目を注いでいなくてはならない」目的は,「能力と発展との個性である.」そして,この目的のためには,二つの条件,すなわち「自由と状況の多様性と」が必要である,といっている.慣習は慣習的な環境と慣習的な性格とに向きように作られている.それらの慣習が妥当なもので,彼に適合するものであるとしても,「ただ慣習であるがゆえに慣習に従うということは,人間独自の天賦である資質のいかなるものをも,自己のうちに育成したり発展させたりしないのである.知覚,判断,識別する感情,心的活動,さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は,自ら選択を行うことによってのみ,練磨されるのである.」自分の生活の計画を<自ら選ばず>,世間または自分の属する世間の一部に選んでもらうのは,サルのような模倣の能力以外にはいかなる能力をも必要としない.人間性は,模型に従って作り上げられ,あらかじめ指定された仕事を正確にやらされる機械ではなくて,自らを生命体としている内的諸力の傾向にしたがって,あらゆる方向に伸び広がらねばならない樹木のようなものである.(pp.116-120)



●J.S.ミル『功利主義論』1861中央公論世界の名著 伊原吉之助訳

功利または最大幸福の原理を道徳的行為の基礎として受け入れる信条に従えば、行為は幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っている。幸福とは快楽を、苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、快楽の喪失を意味する。 すべての望ましいものは、その中に含まれた快楽のために、または快楽を増し苦痛を防ぐ手段として望ましい。

 「ある種の快楽はほかの快楽よりもいっそう望ましく、いっそう価値があるという事実を認めても、功利の原理とは少しも衝突しないのである。」 「2つの快楽のうち、両方を経験した人が全部、またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。」 「満足した豚であるより、不満足な人間である方がよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。」(p.467?)

功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく関係者全体の幸福である。だから、他人の善のためならば、自分の最大の善でも犠牲にする力が人間にあることを認めるが、犠牲それ自体は認めず、幸福の総量を増やさない犠牲は無駄だということになる。 そして、功利主義倫理の極致はイエスのいう、己の欲するところを人に施し、己のごとく隣人を愛せ、ということである。 この場合に、動機は行為者の価値を大きく左右するが、行為の道徳性とは無関係である。(p.478-479)

同胞と一体化したいという欲求は、強力な自然的心情で、人間本性の原理である。社会の連帯が進み社会が健全に成長すれば、だれもが他人の福祉に強い関心を持つようになり、自分の感情と他人の善を同一視するようになる。実際に抱く感情の多くは共有できなくとも、真の目的は調和すると感じる傾向がある。この一体感への確信が「最大幸福道徳の究極的な強制力となるものである。(pp.493-)