幕末・明治維新略史

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福祉国家と福祉社会(2011.12.16)


 1)星野信也
 2)日本型福祉社会論
 3)武川正吾
 4)福祉国家と福祉社会


「福祉国家」の語は、1928年にスウェーデンの社会大臣グスタフ・メッレルが選挙パンフレットで用いたほか、英語圏ではイギリスのウィリアム・テンプルが『市民と聖職者』(1941年)のなかで言及している。(「福祉国家論」ウキペディア)新川敏光他 『比較政治経済学』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2004年、p.166。

1)星野信也
社会的公正へ向けた選別的普遍主義 ~見失われた社会保障理念の再構築~http://www008.upp.so-net.ne.jp/shshinya/Shakaitekikousei20031.pdf

「筆者は、1980 年に、共訳書「福祉国家と福祉社会」(Robson, 1976) で、書籍のタイトルにわが国ではじめて「福祉社会」という訳語を用いた.それは直訳なのだが、出版編集者からわが国にはなじんでいないという懸念が表明され、筆者が日本の社会事情に詳しい原著者をロンドンの自宅に訪ね、意見を求める機会があった.原著者は、福祉国家と福祉社会の対照に意味があるのでストレートな訳が望ましいとのべ、対照の趣旨として、福祉国家は歴史的に成立した政治制度を通してわれわれが操作可能(operational)なものだが、福祉社会は自主的、自立的な存在で、国家にも市民にも操作不可能であり、望ましくもない、ただ自主性の範囲で個人・集団が働きかけ、影響を及ぼしあうにとどまる、と説明された.」


2)日本型福祉社会論

 福祉国家に「先進国病」「イギリス病」との批判あり。1975社会保障長期計画懇談会「今後の社会保障のあり方について」で在宅福祉充実と地域福祉中心の観点から社会福祉見直しの問題提起。

★1979大平内閣「新経済社会7カ年計画」

(日本型福祉社会の実現目指す.個人の自助努力,家族・近隣の相互扶助連帯を重視)「わが国の所得水準が欧米先進諸国の水準にほぼ到達し、国民の意識も生活の質の向上を求めて大きく変化しつつある状況を踏まえ、経済成長の鈍化が予想される中で、今後急速に進行すると見られる人口の高齢化に対応しつつ、国民生活の充実を図っていくためには、わが国は、新しい福祉社会の実現を目指して、今後独自な道を選択しなければならない」。新しい福祉社会について「福祉は、個人の生き甲斐と暖かい人間関係を基礎としてはじめて成り立つものである.高度成長の中で、日本人は個人として、また職場においてその活力を十分に発揮してきたが、その反面、ともすれば、家庭や近隣社会の人間的なつながりを見失いがちであった.これからの国民福祉は、このような傾向を是正し、職場のほか、家庭や近隣社会における潤いのある人間関係の上にうちたてなければならない。」とされた。

★1980鈴木首相 増税なき財政再建。

★1982 中曽根首相の第2臨調第3次答申(医療費適正化、国民負担率抑制、活力ある福祉社会の実現。日本型福祉社会。家族や近隣、職場等において連帯と相互扶助が十分に行われるように必要な条件整備をおこなう)。いずれも自助と共助の強調。介護の社会化よりも家族介護を強調したと解される。

1980年代 福祉見直しには二つの視点があった。財政再建の視点から(臨調の増税なき財政再建、経済成長回復のためには小さい政府が良い、活力ある福祉社会即ち日本型福祉社会論)と、社会福祉の視点から(保育・介護など一般所得階層の福祉ニーズに対応するには、敬遠されがちな選別主義的サービス、措置制度では困難。供給を大量に増やせない。所得の大小とは関係なく保育ニード,介護ニードに応じて給付する普遍主義的サービスが必要)。


3)武川正吾

(武川正吾「福祉社会と社会保障」堀勝洋編『社会保障読本第三版』東洋経済を一部参照)

 ●1)福祉国家の量的限界 

 福祉国家は完全雇用と社会保障を重視する国家。1973年の石油危機に始まる先進国のスタグフレーション(インフレと失業率上昇)のもとで、経済成長は低下し景気対策も効果が無く税収が増えず財政赤字が累積した。福祉国家の財政危機である。サッチャーやレーガンは小さい政府を主張した。また福祉削減を指向した。しかし、このように福祉国家の危機にあっても福祉国家体制を止めることはできないことが明らかになった。(最近は、先進国の福祉国家は行き詰っているという見方が多い。)

 福祉国家には量的と質的限界がある。日本では量的限界として、国民負担率の上限設定という議論がある。小泉内閣の骨太の方針で、高齢化のピーク時でも潜在的国民負担(財政赤字+税金+社会保険料)を国民所得の50%程度に抑える方針である。ただし現在すでに47、8%である。国民負担率を抑えるというが、福祉抑制の結果として家族の介護負担や母親の就労困難など、別の負担が国民に生じることが考慮されていない。

 エスピン=アンデルセンは福祉国家を、アメリカの自由主義型、独仏の保守主義型、スウェーデン・北欧の社会民主主義型に分けた。(*類型論である。経済成長の高低にかかわらず型は変わらないという考え。段階論ならば経済成長とともに福祉が拡大すると考える)。イギリス、日本の位置づけは不明確。

 スウェーデンは高負担であるが、高負担は行き詰るという思想が先進国の主な潮流である。(なお財政赤字については、EUの経済通貨同盟は参加各国に毎年の財政赤字をGDP比3%以内に収めることを義務づけ、これを遵守出来ない場合、制裁金を課す。また、中期的に財政均衡を達成することも義務づける。)

●2)福祉国家の質的限界 

・画一主義 国民が豊かになりニーズが多様化してきたが、給付を個々の利用者のニーズに合わせることがむずかしい。官僚主義的合理主義のためにサービスが硬直的。たとえば、社会保険の強制加入、保育時間、福祉施設における生活時間や食事のメニューなど。 

・パターナリズム 国民の判断力を信用せず政府が決めるのが国民のためになるという発想。自己決定や自己責任の立場から批判される。たとえば、安全のための拘束。年金積立金の一元的運用。年金の2階部分は民営化が良いという意見がある。ただし、社会保障のような社会権に関わることは権力の排除は必要なく、権力のチェックが必要という意見もある。また医療、介護のように専門家の判断に依存せざるを得ないことも一つのパターナリズムである。これらは福祉国家に限らないこと。

●3)福祉社会の要請(福祉社会という言葉は1955年自民党政綱にも使われている。日本では1980年代から良く使われているが内容は不明確)

 福祉社会は福祉国家がもっていた諸機能を政府任せにしないで、国民の活動などを通した社会全体(家族・地域・企業・NGO・NPO・政府など)ではたしていこうという考え方のようである。丸尾の「福祉ミックス・モデル」と類似している。福祉国家の量的限界から、小さい政府の福祉社会が要請されるのは、アメリカ型を目指す新自由主義の立場に立つからだと思われる。また政府以外の組織は官僚制から比較的自由であり質的限界に対応しうることが期待できる。

●4)福祉社会の古さ 

 家族に過大な役割を期待する点。福祉多元主義であれば、福祉国家以前の社会に逆戻りしないかという点。大平内閣や中曽根内閣の日本型福祉社会

 これらは、家族による介護を推進するもので、介護の社会化には否定的な意見とみられた。

 今日問題とされる福祉社会は、福祉国家を不可欠な制度としていて、福祉国家以前の状況の単純な再現ではない。この意味では、福祉国家以前の福祉多元主義と、福祉国会後の福祉多元主義とでは違いがある。

●5)福祉社会の新しさ 

 「市場の失敗(市場機構は必ずしも最適な資源配分を実現できない)」に対して政府の役割が重視されたが、その政府も効率が悪いとか、選挙に勝つため財政赤字を生みやすいという「政府の失敗」が指摘された。そこで、第三の道として丸尾はインフォーマルセクター(家族、近隣、ボランティア、NPO等)を活性化させようとする。また福祉ミックスの視点から公的部門を縮小し市場部門の活用も図るという考えとなる。

・市場の復権 少なくとも画一主義やパターナリズムの問題から逃れうる度合いが大きい。武川は1950年代60年代の経済成長によって大衆の購買力が拡大し、市場による解決可能な領域が拡大したという。しかし理念として新自由主義的な福祉国家解体論を求める市場原理主義に近い。公的保障は減退させ、最低限保障以上の備えを求める人は、ハイリスク・ハイリターンの金融資産を運用し、リスクをとることが求められる。欧米では行政サービスの民営化・民間委託が推進されている(公的サービスの市場化)。

・ボランタリズムの復権 今日、政府によって供給される社会サービスの多くが民間非営利部門で発明されたように、柔軟性では政府よりも優れている。慈善の復活ではなく、管理社会への対抗原理としての意義があるという。しかし、それは権利、保障ではなく偶然に支配されるものではないのか。その内実として、地方行政において、NPOなど民間団体、企業、住民が自治体との「協働」を期待される。民間はいずれも公的サービスに対しては責任ある立場ではなく協力の立場として、行政から一定の位置づけを与えられる。村の予算が足りないので、村中、総ボランティアで村道の補修をやったりする動員も住民参加、ボランティア、協働といわれ始めた。

 スウェーデンでは、年金は国、医療は県(ランスティング)、福祉は市町村(コミューン)と機能分化したといわれる。日本も社会福祉では市町村という「地域」に福祉を位置づける(市町村地域福祉計画)。同時にボランタリズムは、自発的な社会参加を増やす場として身近な地域につながることになる。しかし、「問題を身近な親族・近隣・市町村で解決する」という補完性の原理との関連で、地域福祉計画の実施については行政の肩代わりとして「地域・ボランタリズム」が利用されてよいのか問題である。

●福祉社会の基盤としての社会保障

 市場やボランタリズムも万能ではない。社会保障制度が存在して初めて市場やボランタリズムが機能すると、武川は述べている。イギリスは1980年代以来、社会サービスの民営化を進めてきたが、形成されたのは準市場であり、社会保障給付や政府補助があってかろうじて成立している。また、英米では民間非営利団体は財源のかなりの部分を政府助成に頼っている。


4)福祉国家と福祉社会

 星野氏がいう「福祉社会」と武川氏のいう「福祉社会」では意味が違うことに注意したい。星野氏の場合は、福祉国家を支えたり、あるいは、規定する条件としての福祉社会である。それに対して、武川氏は福祉国家に代わるものとして、あるいは、国家を含んだ全体社会のあり方としての福祉社会である。その意味では両者ともに家族、近隣、諸団体等の民間の連帯や相互依存関係、最近なら共生のあり方を対象としている点では共通しているといえる。英国あたりで、石油危機以降、福祉の世界で福祉多元主義が主張され始めたが、両者ともその影響を受けていると思われる。また、「日本型福祉社会」となるとさらに使う人によって意味が違うようだ。

 その話以前に、福祉国家は戦後イギリスで社会民主主義の労働党が主導し、北欧の社会民主主義が力強く建設したものといえる。ということは、小さな政府を理想とする自由主義者は、もともと福祉国家などは認めていない。だから、福祉国家などというものは早く行き詰まって、小さな政府の国家になればいいと考える。しかし、自由主義もまったく福祉を考えないということもなく、新自由主義の場合なら「負の所得税」を推奨し、最低限の福祉政策をやる社会が福祉国家の後にくることを期待している。もともと福祉という言葉を前面に出さないから、福祉社会ともいわないが福祉社会というとすれば、それは新自由主義的な小さな政府を持った社会を意味する。「新自由主義の立場からも新社会主義の立場からも、ポスト福祉国家のオルターナティブとして地域(地方)に焦点が当てられ、それは一方での『小さな政府』をめざす『分権』『参加』、他方での『分権化され』『地域レベルの一般市民を含み込む』戦略として知られている。」(右田紀久恵「福祉国家のゆらぎと地域福祉」『自治型地域福祉の理論』ミネルヴァ書房、2005年、p.41)
 同じくマルクス主義者も、資本主義を温存するものとして福祉国家を支持しないのである。その人々は、はやく福祉国家が崩壊して次の段階がくればいいと願っている。そこで、福祉国家に何か問題があれば、すぐに「ポスト福祉国家」などという呼び名を用意して、もっと社会主義的な社会にしたいと考える。その場合には、福祉社会は資本主義温存ではなく、資本主義を否定し社会主義に衣替えした社会を意味することになると思われる。ただ、こうみただけでは、マルクス主義のはずなのにわが国に福祉国家を建設しよう、充実させようという人がいることを説明できない。おそらく、資本主義の最終段階として福祉国家を見据え、その次の段階の社会主義への移行を夢見るのではないだろうか。「ポスト福祉国家」などとあわてないで、まず、福祉国家を成熟させてそれから行き詰まりを実証し、社会主義への展望を切り開こうというのではないだろうか。
 保守主義者のうち伝統的な保守主義者は、弱者救済に力を入れるので、福祉国家や福祉社会という言い方に大きな抵抗はなさそうである(自由民主党は1955年の党の綱領で「福祉国家の完成を期する」と述べ、同じく党の政綱で「福祉社会の建設」をうたっていた)。ただ、現実に代表的な福祉国家の北欧が社会民主主義なので、社会民主主義と社会主義が区別できない保守主義者は、行き詰まりとかは関係なく福祉国家ではなく福祉社会という呼び方を好むと思われる。また、サッチャー的な新保守主義のもとでイギリス経済が成長を回復したのをみて、そのマネをしようと思った人は、日本でも公営事業の民営化を進めたり、市場原理を導入して経済の活性化に力を入れる。そこで「日本型福祉社会」でも、伝統的な家族や地域の共同体の助け合いを強調し、同時に「国家への依存を止めさせる」という意識で企業の福利厚生や個人の自助努力も促進しようとするといえる。
 最近は社会的から排除される人々が増えたがこれは従来とは異なった貧困の増加だという議論がされる。会社員や経営者だった人が突然、それまでの生活ができなくなった場合も多いといわれる。つまり、それまで経済を支える活躍をしていたような地位にいた人でも、突然そのような立場になるリスクは誰にでもあり、資本主義の維持は不安定化してきているともいわれる。自由主義者は、資本主義に問題などはなく社会的排除や貧困も経済成長によって解決できると考える。EUなど先進国では、福祉国家のセイフティ・ネットが機能していないということで、社会主義者などで「ポスト福祉国家」を強調する人もいる。

 また、資源国や新興国での貧困とも結びつけて、新自由主義的グローバリズをやめさせ、アメリカ中心の資本主義体制を打破しなければ問題は解決しないという意見もある。先進国では反福祉国家、資源国などでは反資本主義といえるかもしれない。こうした反資本主義の運動では、福祉社会も資本主義を温存させるものとして否定されるであろう。

 「ポスト福祉国家のオルターナティブとしてオータナティブとして地域を政策俎上に載せることへの批判もあいついでいる。コミュニティに作用する市場原理と福祉社会のポリティクスの視点からの「包摂の論理」であるとしての批判、「コミュニティの再発見」は新自由主義による公共領域の貧困化の埋め合わせにすぎないとする批判、英国のブレア政権の「第三の道」もコミュニタリアニズムに触発されたネオリベラリズムと旧来のリベラリズムのオータナティブにすぎないとする批判、さらにはコミュニティとは何よりも道徳的共同体であると批判的にみる等々が続出してきている。このような批判は、いずれも1980年以降前述したOECDの論議を境として活発化し,特に1990年代後半から厳しい論及が目立っようになっている。福祉国家の見直しとオータナティブとしての地域は,「福祉社会」構築という装いを保ちつつ,グローバルな市場と権力が浸透していると警鐘を鳴らしている。」(右田紀久恵『自治型の地域福祉の理論』ミネルヴァ書房、2005年、p.41)


 そこで、武川は、最近議論される福祉社会を描いているが、それは市場とボランタリズムを強調しているから自由主義か保守主義であるが、社会保障も堅持しようというのであるから自由主義ではなく、新保守主義を加味した保守主義の福祉社会だと思う。