幕末・明治維新略史

HOME > 保守と社民の政党

保守主義政党と社会民主主義政党(2011.10.31)

各国の社会保障、福祉国家の再編と解体の一つの背景として政党を考えたい。

(政党や政治思想は、資料の執筆者の立場によって意見が異なると思われる。ネットで調べた限りでの紹介である。)


フランス(フランス社会党、社会党、国民運動連合)
ドイツ(社会民主党、キリスト教民主同盟)
スウェーデン(社会民主党、穏健党)
イギリス(保守党、労働党、自由民主党)
アメリカ(共和党、民主党)

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
フランス
フランス社会党・社会党・社会民主党



「フランス社会党」

(ウキペディアから抜粋)2011.10.4



 フランスにおける社会主義政党の歴史は第三共和政が樹立された19世紀後半にまで遡る。1880年、労働党結成、「フランス社会主義労働者連盟」(1882年)、「革命的社会主義労働党」(1890年)、「革命的社会党」(1898年)などが結成され、独立派(無所属系)社会主義者(SI)のグループが活動しており、社会主義者は大まかに五つに分かれて対立していた。

 結果的には、一方で労働総同盟(1895年結成)を中心とする労働運動の政党離れ、他方で労働運動におけるアナキストとサンディカリストの影響力の拡大という結果を生んだ。

 1898年の保守派内閣への入閣の賛否で社会主義者は二分され、1901年にフランス国社会党(PSDF)とフランス社会党(PSF)に分かれた。しかし、1905年合同しフランス社会党(SFIO)となる。

 SFIOは、マルクス主義の革命路線を宣言したが、主導権は改良主義路線であった。1908年の党大会では革命路線と改良路線を謳ったが、それ以後は改良路線が定着した。

 大戦後の1919年総選挙では、社会主義の脅威を煽るクレマンソーの戦術によりSFIOは大敗し、その結果、ロシア革命にも影響されて左派が力を拡大し、翌1920年、左派はフランス共産党を結成した。しかし、コミンテルン加盟に反対する少数派の社会民主主義者はSFIOの名称を維持し、その後、順調に党勢を回復し、1932年には大政党になった。SFIOは急進社会党(社会主義政党ではない)の政権に閣外から協力しつつ中道の立場を守った。その後、共産党が社会ファシズム論(社民派主敵論)を捨てたため、1934年、社共両党の統一戦線が成立、さらに急進社会党をも巻きこむ人民戦線運動が展開された。

 1936年の総選挙でSFIOは第一党となり、人民戦線内閣が樹立され、ニューディール的な「購買力理論」に基づく銀行国有化政策などの恐慌対策を進めた。しかし、政権内部の対立で1937年6月に崩壊した。
 戦後、1945年の総選挙でSFIOは連立政権を実現したがそれはすぐに崩壊した。
 その後SFIOは、アルジェリア独立戦争をきっかけに政界に復帰したド・ゴールが内閣を組閣すると、1959年にSFIOは入閣し第五共和国憲法の制定にも協力した。このような党主流派の政策に不満なグループは離党し独立社会党(PSA)を結成した。しかしSFIO自体は急速に反ド・ゴールに傾き下野、急進党などと連携し、1965年の大統領選挙で共産党とともにミッテランを推し善戦した。そして1967年の総選挙では社共提携が功を奏して、SFIOは野党第一党の地位を占めた。
 しかし翌1968年、ド・ゴール体制への不満を背景に五月革命が爆発したが、SFIOは革命的情勢に即応できず大衆の支持を失った。SFIO内部では新たな社会党の結成に向かうべきであるとの議論が高まった。SFIOを中心にした民主社会左翼連盟(FGDS)を母体とした新たな社会党に移行することを決めた
 1969年、SFIOは他の勢力とともに新たな社会党(PS)へと統合・移行した。1971年6月、ミッテラン派(CIR)と合同、現在の「社会党」が成立した。
 1972年に、ユーロコミュニズム路線の共産党と左翼政府共同綱領を締結し、提携した。
 1974年、かつてSFIOから分離した統一社会党(PSU)が指導者ロカールにより社会党に再合流した。かれらは左翼キリスト教徒、非マルクス主義で、党内でもっとも保守的なメンバーであった。かれらは、フランスの社会主義は、市場経済を明確に受け入れたヨーロッパの社会民主主義路線を取るべきだと主張した。

 1978年総選挙で社会党は初めて共産党よりも多い議席を得た。しかし、党内ではミッテランは社共共闘路線で、ロカールは左翼政府共同綱領は非現実的だとして廃棄を要求し、両者は対立した。





「社会党」( Socialist Party)

(ウキペディアと英語版WIKIPEDIAより抜粋)2011.10.5



 現在の社会党はフランスの中道左派の社会民主主義政党である。中道右派の人民連合運動(Union for a Popular Movement)と二大政党をなしている。

 1981年の大統領選挙でミッテランが現職のジスカール・デスタンを破って当選して、「社共連合政権」が発足した。政権発足時より、国有化や積極的投資政策、労働時間の削減等の伝統的な社会主義政策を採ってきたが、インフレや国際情勢に押されて、1982年6月、一転、財政切りつめなどの緊縮政策に転換した。1982年に、ミッテラン大統領は、ヨーロッパ金融システムに残りヨーロッパ統合を支持し続けるか、それとも社会主義的改革を目指すか、重要な選択を迫られた。結局、前者を選び、自由市場経済を社会党が受け入れた。1984年に大統領とファビウス首相は社会主義的手段をあきらめ、共産党は連合政権から離脱した。
 1986年3月の総選挙の結果、社会党のミッテラン大統領と共和国連合のジャック・シラク首相の組み合わせで「保革共存」というねじれた第一次コアビタシオンが生まれた。 1988年の選挙でミッテランは国有化も民営化も提案せず、第一党に返り咲いた。ミッテランは党内右派のミシェル・ロカールを首相に指名。ロカールは、社会民主主義と混合経済を柱とする「新中道主義路線」を採用する。 ロカール退陣後、支持率が急降下。1993年3月の総選挙では歴史的な大敗北を喫し、共和国連合(RPR)のエドアール・バラデュールが首相に就任し、第二次コアビタシオンとなる。
 ド・ゴール派と非ド・ゴール派が中道右派で結集して2002年に「国民運動連合」(UMP)を結成し、中道色を強めて社会自由主義政党として位置づけられるようになり、社会民主主義の社会党と二大政党となった。
 2002年、社会党はフランス大統領選挙、国民議会総選挙と連敗し下野。2007年の大統領選挙ではUMPのニコラ・サルコジに敗北。サルコジ新大統領によるフィニョン内閣組閣でクシュネルが外務大臣として入閣するなど、党員や支持者中の有力者でサルコジに組する者も現れた。
 2008年党首選で左派のオブリーが前党首オランドの元事実婚妻ロワイヤルに勝利した。
 2010年地方選挙では、国民運動連合を中心とした右派が36%で、社会党を中心とする左派連合が54%の得票を得た。


「社会民主党」(英語版WIKIPEDIA)

 社会民主党はフランスの中道の社会民主主義的政党である。1973年にフランス民主社会主義者運動として発足した。社会党から分裂した.


「国民運動連合」(Union for a Popular Movement(UMP))

 中道右派の政党で、中道左派の社会党と二大政党をなしている。UMPは2002年に、シラク大統領の下にあったいくつかの中道右派の政党が合同して造られた。2007年からサルコジが党首を務めている。
 1980年代以降、経済自由主義と欧州建設でまとまった議会の右派が合体したものである。ド・ゴール主義、自由主義(共和主義)、キリスト教民主主義(国民主義)、急進派(社会自由主義者)が主立った構成員だった。シラク大統領を支持したが、2004年に党が独立性を見せた。シラク大統領はトルコのEU 加盟に前向きだったが、それに反対するサルコジ支持に傾いた。
構成
サルコジ派
(保守主義、自由保守主義、保守的自由主義)(改革派、自由主義、市場原理主義)(自由権、保守的自由主義、市場原理主義)(キリスト教民主主義、中道派)
シラク派
(新ド・ゴール主義、ド・ゴール後継派)(社会ド・ゴール主義、ド・ゴール左派)(急進派、社会自由主義中道派)
エコロジー派
ほか

サルコジ大統領 第五共和政第6代大統領(2007年5月)。前国民運動連合党首。フランスの大統領としては異色の新保守主義者、新自由主義者とされる。シラク政権のイラク戦争反対により冷え込んだ対米関係の改善と、フランス伝統の平等主義を捨て自由競争を重視する英米型の新自由主義経済政策路線を提唱している。モットーは「もっと働き、もっと稼ごう」。サルコジの政策は、米国と距離を置きフランス独自の外交政策を目指し国内経済に積極的に介入する保守派主流思想のド・ゴール主義とは一線を画している。(ウキペディア)

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
ドイツ
ドイツ社会民主党とドイツキリスト教民主同盟

「ドイツ社会民主党」(Social Democratic Party of Germany)
(英語版WIKIPEDIAより抜粋)2011.10.2

 ドイツ社会民主党(SPD)は社会民主主義の政党で、保守主義のCDU/CSUと二大政党となっている。SPDは、2005年から2009年まで、キリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟と連立政権だった。 
 (補足:1863年にドイツ社会主義労働者党が結成され、1890年にドイツ社会民主党と改称した。ルーマン『福祉国家の政治理論』訳書の資料から)。社会民主党は1875年に社会主義政党として成立した。その後、1925年のハイデルベルグ綱領と1959年のゴーデスベルグ綱領の間の差異を反映する変化を遂げた。ハイデルベルグ綱領は資本主義の生産手段の私的所有を社会的所有に変換することを求めた。それに対してゴーデスベルグ綱領は有権者の幅広い支持を受けて政治的地位を中道へ移動させることを目的にした。戦後、シューマッハの指導の下でSPDは、労働者階級と労働組合の利益を代表するもの社会主義政党として再生した。そして、ゴーデスベルグ綱領とともに、同党は社会主義労働者政党から社会民主主義政党へと進化した。
 現在は社会民主主義を目指している。同党の基盤によれば自由、正義、社会連帯が社会民主主義の基盤を造っている。調整された社会市場経済は強化され、その成果は公平に分配されるであろう。同時に、SPDは社会的不利益な人びとを福祉国家によって守っている。また、持続可能な財政政策を支持し、財政赤字のツケを将来の世代に回さないようにしている。社会政策では開かれた社会で市民的政治的権利を代表している。
 戦後、シューマッハの指導のときはSPDは社会市場経済とアデナウワーの西側世界の統合というやり方に反対していた。しかし、彼の死後、社会市場経済と西側陣営におけるドイツの地位を受け入れた。それは多くの有権者の支持を得るためであった。1990年代に党内の左派と穏健派は党と分裂して、のちに「左翼党」に合流した。

社会市場経済
 社会市場経済は戦後、西ドイツで採用された主要な経済モデルである。それはフライブルグ学派の流れのオルドリベラリズムの経済哲学を基礎にしている。これはアデナウワー政権の経済大臣だったエアハルトにより初めて用いられた。
 社会市場経済は、社会主義とレッセ・フェール経済自由主義の中間を行くもので、公正な競争を実現するために民間企業と政府による規制とを結びつけるもので、国家の介入によって、高度成長と低いインフレ、低い失業率、良い労働条件、社会的福祉、公的なサービスのバランスを維持するものである。社会市場経済では、労使交渉(collective bargaining)は国家レベルで雇用者の全国組織と全国的労働組合の間で行われ、一つの企業と一つの組合の間で行われるものではない。
 1960年代以降、社会市場経済は西ヨーロッパの主たる経済モデルであって、中道右派(主にキリスト教民主同盟)と中道左派(主に社会民主党)の両方から支持された。
 社会市場経済はいまでもドイツの政党間で共有されていて、ヨーロッパ連合憲章でも用いられていた。

Ordoliberalism(オルドリベラリズム)
 オルドリベラリズムは、自由市場が理論的な潜在的可能性、たとえば資源配分の効率性をもたらすということを確実にするように、国家に要求する自由主義の一つの学派である。W.オイケンなどドイツの経済学者によって1930-1950年に掛けて展開された。1950年に学術誌ORDOにかかわったことからオルドリベラリズムと名付けられた。戦後、ドイツの社会市場経済を促進した。彼ら自身は古典的自由主義と区別するために、当初、Neoliberals(new Liberals)と称していた。社会市場経済の概念はネオ・リベラリズムとは違って、国家が市場に関与する役割を促進するものである。
 もしも国家が競争をはぐくむ手段を講じなければ、独占企業や寡占企業は市場経済がもたらすものを壊すばかりでなく、良い政府も崩壊させると考えている。というのは、強い経済力は政治権力に転換されるからである。金融政策は中央銀行の責任であり、中央銀行は金融安定と低いインフレを守り、独立した地位によって政治的圧力から保護される。財政政策は、税収と政府支出の均衡を図るものだが、政府の主たる部分である。一方、マクロ経済政策は雇用者と労働組合が対象である。国家は経済的な過程に直接指示する代わりに、経済秩序を形成すべきだと考える。だから、ナチズムとケインズ主義とロシア社会主義は間違った例だとしている。
 オルドリベラリズムはORDOを中心に活動している。
 W.レプケは、オルドリベラリズムは資本主義に対立する自由保守主義だと考えた。このように、オルドリベラリズムはミーゼスやハイエクのような古典的自由主義とは違うと考えている。彼らの政治哲学によれば、アリストテレス、トックビル、ヘーゲル、スペングラー、K.マンハイム、ウエーバー、フッサールなどの影響を受けている。


「ドイツキリスト教民主同盟」(Christian Democratic Union)
(英語版WIKIPEDIAとウキペディアより抜粋)2011.10.1

 CDUはキリスト教民主主義で保守主義の中道右派の政党である。バーバリアンのキリスト教社会同盟とともにCDU/CSU を形成している。
 CDUはキリスト教民主主義を基礎に、人間のキリスト教的理解と神への責任を強調している。政治的カソリックやカソリック社会教育や政治的プロテスタンティズムや財政保守主義や国家保守主義などから政策が形成される。コール以来、自由経済の政策をとるが社会市場経済の主要な支持者である。
 CDUは1945年6月、米英仏ソの4大国に分割されたうちのソ連占領地区において、最初のキリスト教民主同盟の組織が結成され占領軍の認可を得た。ワイマール時代にブルジョワ政党の分裂がナチスの勢力拡大を許したという反省から、キリスト教の博愛主義を理念として諸政党の大合同が目指されたが、各地の組織はばらばらであった。
 西側ではアデナウワーのあと、エアハルトが首相になり、奇跡的な経済成長(エアハルトの奇跡)で有名になったが、指導力不足で1966年に退陣した。そして、社会民主党(SPD)との大連立政権ができた。SPDは1969年に、ブラントを首相とし自由民主党(FDP)と連立政権を造った。1982年に、SPDのシュミット首相政権が倒れて、CDUのコールが政権に就いた。(SPDは、1977年と1981年に疾病保険費用抑制法で社会支出を削減。コール政権も社会支出削減を進め80年代半ばに財政再建のめどがついた。ルーマン『福祉国家の政治理論』解説p.180)。コールは東西ドイツの統一をやった。1998年に選挙でSPDに敗れた。
 2005年の選挙ではCDU/CSUは、緑の党との連立に失敗し、SPDと再び大連立を組み、メルケルが首相になった。2009年の総選挙で、CDU/CSUはFDPとの中道右派連立政権を造った。


 メルケル首相 2005年総選挙では、メルケル率いるCDU/CSU連合はシュレーダー首相率いるドイツ社会民主党 (SPD) / 同盟90/緑の党連合に僅差で勝利した。しかし改選前より議席を22も減らしたために、10月にはCDU・CSU・SPDの3党による大連立を組むことで合意した。メルケルは第8代連邦首相に就任した。51歳での就任。中道左派の社民主義政党SPDと中道右派の保守政党CDU/CSUでは政策綱領が大きく異なっていることは否めず、メルケル政権の政治公約である雇用促進によるドイツ国内の雇用、年金制度の大幅な改革、健康保険制度改革や法人税率改革などの内政面の課題の帰趨は不透明な状態だった。2006年末、任期後半の目標として財政建て直し、家族政策(少子化対策)、労働・市場政策、健康保険制度改革。2009年の総選挙でキリスト教民主・社会同盟が勝利。SPDとの大連立を解消し、新たにFDPと連立政権を樹立。メルケル政権は、支持率60%を長らく維持していたが、2010年のギリシャ財政破綻問題で、ドイツが多額の財政支援を行わなくてはならなくなった事で、支持率が40%台程まで急落した。2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、ドイツ国内でも「脱原発」の機運が上昇。、地方議会選で緑の党が躍進するなど与党が相次いで敗北。5月には「2022年までに国内17基すべての原発を閉鎖する」という方針を示し、新たなエネルギー政策へと舵を切った。(ウキペディア)
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
スウェーデン

スウェーデンの社会民主党・穏健党

「社会民主党」(Swedish Social Democratic Party)
(英語版WIKIPEDIAより)2011.10.4

 Swedish Social Democratic Workers' Partyまたは the Workers' Partyまたはthe Social Democrats’またはthe Social Democrats' はスウェーデンでもっとも古い政党で、1889年に設立された。1917年に革命主義的な人びとが分裂して現在の左翼党を形成した。
 社会民主党の理論的基礎は修正マルクス主義(引用者注:19世紀後半に修正主義はベルンシュタインなどの民主社会主義者を指した。彼らは社会主義への移行を暴力革命ではなく資本主義体制の中での漸進的な平和的改良を強調する改良主義である)である。政策は民主社会主義または社会民主主義である。そして、累進課税による社会福祉給付を支持している。また、資本と労働の協調の制度化と政府が労使の問題に介入することを含む社会的コーポラティズムの経済を支持する。2008年に社会民主党は、グリーン党と左翼党と連立して赤・緑を発足させたが、2010年に解消した。
 1889年の結党以来、社会民主党は政界に強い影響を与えてきた。1880年代90年代の労働者階級の解放に影響されてきたように、もともと農民と労働者が組織された状態を基礎にしてきた。ハンソンは1928年に「人民の家」という超越的な理念を熱望し、「人民の家」は社会主義者の家として促進され、そこで同党は労働者の階級闘争と国有化という政策手段を放棄した。

自由主義
 自由主義は社会民主主義の目標に影響を与えたが、1949年から1969年に首相だったエルランダーが保障というものは「個人が自力では解決するのが難しいくらい大きな問題」に関わると述べた。1980年代になってネオ・リベラリズムが資本主義を強化するようになってきたときにも、社会民主党は、経済成長の維持と社会的な摩擦の抑制について資本との協力関係を維持できた。多くの党員にとって、マルクス主義はよりよい未来のために世界を変えることを強調するときに値打ちがあるという程度である。初代党首のブランティングは革命を口にしているだけよりは改良した方が労働者に役に立つと述べた。同党の社会主義的側面と自由主義的側面はブランティングのもっていた両面性から影響を受けている。
 スウェーデンは小国であることに加えて、20世紀初めには国際政治のなかではあまり重要でない周辺国だったので、独立を保ち、やがて現れた共産主義と資本主義の超大国の存在が社会民主主義を成熟させた。社会民主党は北欧諸国と理念、経験を共有し共同歩調を取っている。

修正主義
 20世紀の社会民主党の戦略では、「社会化」の再定義は「生産手段の共有」から「経済に対する民主的影響力の増加」ということに変わった。社会主義と自由主義との連携が始まると、社会民主党は社会主義を政治的経済的な民主主義の発達であると定義した。社会民主党は労働者階級を支え助けるためにほかの人びとの犠牲を強いることは考えていない、ということは1932年の同党の会議で確立している。
 ハンソンは、社会民主党ほど愛国者はいない。もっとも愛国的な行為はすべての人が家庭にいると感じるような国土を造ることだ。「人民の家」という超越的な理念を熱望することであると述べた(1928年)。「人民の家」は社会主義者の家として促進され、そこで同党は労働者の階級闘争と国有化という政策手段を放棄した。「人民の家」の基礎はコミュニティとtogethernessである。ハンソンは次のように述べた。「良い家」には平等と考察と協力と助け合いがある。これを国に当てはめれば、市民を尊敬される人と無視される人、支配者と依存者、富める人と貧しい人、もてる人と持たざる人、略奪者と略奪される人に分断している社会的経済的な壁を解体することを意味している。スウェーデン社会はまだ「人民の家」になっていない。たしかに形式的な平等、つまり参政権はあるが、社会的にみれば階級社会は残っていて、経済的にみれば少数の卓越者による独裁が残っている(1928年)。
(「人民の家」(Folkhemmet)(英語版WIKIPEDIAより)スウェーデンの社会民主党とスウェーデンの福祉国家の歴史において重要な役割を果たした政治的な概念。社会民主党が政権にあるときにしばしば言及された。また、「人民の家」は資本主義と社会主義の中間と見なされた。この用語はキーレンの共同形式の社会という発想から出ていて、それはビスマルクが基礎を造った安定と持続性の両立のように、国益に関して労使協調に基礎を置くものであった。そして、普遍的な保健ケアや失業給付のような社会主義者と協調した社会改良のためのものであった。ケインズ主義のウイッグフォスや社会協調主義のハンソンがキーレンから示唆をえたもので、のちに、エルランダーやパルメなどにより、1976年に政権を失うまで発展した。ハンソンによって1928年に、スウェーデンは「良い家」になるべきといわれたが、その内実は平等と相互理解であった。伝統的な階級社会は「人民の家」に変わるべきだといった。国有化が問題となり、また、同党が階級闘争という考えを捨てたとき、初期の社会民主党の基礎的な概念となった。同党は「機能的社会主義」と呼ばれる計画経済に適応し、企業は国有化されるのではなく規制によって管理された。また、政府は国民の福祉を増進するのに必要とされる管理を個人に行った。高度な教育も必要とされ、世界で初めて、大学までの授業料が無料となった。ミュルダールの影響。1930年代に社会工学は人民の家の重要な部分となった。ミュルダール夫妻『人口問題の危機』(1934年)は人口減少に対する根本的で進歩的な対策を提示した。この時期に公的部門の拡大が始まり、ウイッグフォスの経済政策、ミューラーの年金改革、ミュルダールの住宅政策が実行された。)

社会民主主義
 社会民主党は累進課税、公正な貿易、失業の抑制、「積極的労働市場政策」の推進者で、これらは戦後に発達したスウェーデン福祉国家の基礎である。「積極的労働市場政策」は1940年代と50年代にLOのエコノミストだったレーンとメイドナーのよって開発された。レーン・メイドナーのモデルは、賃金交渉を中央で行うもので、賃金水準を「正当な」水準に設定することと経済の能率と生産性を促進することを目的にしていた。
 レーン・メイドナー・モデルは生産性が高く効率的な企業で資本家に超過利潤を認めていたが、1970年代に労働者が利潤の分け前を要求し、国家部門の婦人労働者が賃金改善を求めた。メイドナーは効率的な企業では労働者が投資基金を管理するような提言を研究した。それは企業がより多くの雇用をうみ、高い賃金を支払い、そして企業所有者と管理職の富を増やすことを抑制したかったからである。資本家はこの提案は社会主義だと考え、1938年のサルチオバーデン協定の見直しに向けて反対運動を始めた。1980年代は社会民主党の凋落と産業のリストラの時期である。造船、パルプ、鉄鋼、機会などが再編された。1986年に社会民主党の平等主義と民主主義を代表していたパルメが暗殺された。スウェーデン資本は投資をEUなど他のヨーロッパ諸国へ移動させるということと、累進課税と平等主義的再分配は経済の異端だということで金融界首脳の間で合意ができた。社会民主主義の財政大臣だったフェルトはこう述べた。自分は高い限界税率を備えた累進課税を引き継いだがそれは負の遺産だった。これは正当で平等な社会を造るものとされていたが、実際は違った。ごまかす人や財産を操作する人や間違った野心家や新しい不正義を生み出した。資本家のサルチオバーデン協定からの離反や外国投資やネオ・リベラリズムの世界的な高まりのなかで、社会民主党はメイドナー改革を止めるべきだ、と述べた。1980年代に行われた社会民主党によるネオ・リベラリズムは、通貨の規制緩和や経済再編期の輸出促進、法人税と高所得者の減税、失業予防からインフレ予防への切り替えなどがあったが、国際的な不況や野放図な通貨投機、ビルトの中道右派政権によって、悪化され、それが1990年代初期の財政危機をうみだした。
 1994年に政権に返り咲いた社会民主党は、財政危機に対応した。通貨の安定化、福祉国家の縮小と公的サービスと財の民営化など、諸外国と同じようにM.フリードマンとネオ・リベラリズムに影響された政策を行った。
 しかし、福祉国家の諸側面は高レベルで機能した。社会民主党はネオ・リベラリズムによる変革の効果を点検して、税と支出を削減し、高所得者を増税し、食品課税を減税した。児童福祉を増やし公債支出を削減した。21世紀になってスウェーデンは強い経済と、政府移転後の高い平均的な生活の質、不平等は低く(ジニ係数は0.28)、他の欧米に比べて社会的移動性は高い。米国へ移住すればもっと高い給料を得て、税金も安いが、7時前に帰宅することはできないし、みんなが休暇の権利を持つこともできないし、保険や大学の学費にも高いお金を払わなければいけなくなる、と人びとは答える。


「穏健党」
(英語版WIKIPEDIA「穏健党」より)



 穏健党は1904年に創設され、当初は国家主義で保守主義の党だった。1970年代に伝統的な保守主義政党から国際的な自由保守主義(liberal conservatism)へ徐々に移行した。社会問題に関する自由主義的なスタンスは1964年のキリスト教民主合体(キリスト教左派ないし社会保守主義)に始まった。1991年から1994年のビルト内閣では減税、歳出削減、バウチャー学校制導入、電信やエネルギー市場の自由化、公有企業民営化などを行った。(つぎの社会民主党内閣でもさらなる規制緩和と民営化が行われた)。やがてリバタリアンのスタンスが支持を失い、党首はラインフェルトに替わった。2006年に穏健党は中央党、自由人民党、キリスト教民主などと連立政権を造った。党のイデオロギーは自由主義と保守主義の混合で自由保守主義にあたる。スウェーデンや多くの西欧では自由主義は、米国の現代的な自由主義ではなく古典的自由主義に近い。しかし、党は「1930年代以来の社会給付の多くを受け入れている」。また、暴力や性犯罪、勤勉、教育制度の平等などを主張し、同性婚の合法化やEU加盟を支持している。また、ややネオ・リベラルにちかい体質や労働法批判は変化し、スウェーデン・モデル維持や労働市場重視になった。



xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
イギリス

英国の保守党・労働党・自由民主党
(英語版WIKIPEDIAより抜粋)2011.10.6


「保守党」(Conservative Party)

 保守党は正式にはConservative and Unionist Partyと呼ぶ、中道右派の政党である。1834年にトーリー党から派生したので、今でもトーリー党と呼ばれている。19世紀には自由党と二大政党だった。1912年にLiberal Unionist Party と合体して、現在の党名に変わった。1920年代に自由党支持者が減少し、代わって労働党が二大政党になった。
 サッチャー時代には経済自由化が普及し、保守党は三大政党のうちでもっとも自由市場信奉でユーロに懐疑的となった。2010年にはいっそう自由主義的なキャメロンのもとで政権に返り咲いた。
 サッチャー首相は、新保守主義またはサッチャーリズムと呼ばれる政治イデオロギーを確立し、米国の社会的政治的な理念を取り入れた。社会主義政権が英国の長期的な衰退を招いたと考えた。その結果、経済自由主義政策を採り、公有化されていた産業の売却や労働組合の勢力の削減など自由市場政策を行った。そして、労働組合は山猫ストライキを支援したり賃金を人為的に高止まりさせ、不採算業種を野放しにした、と考えた。1979年から1982年の間に失業は二倍になったが、これはインフレ対策の結果であった。1979年には27%だったものが1983年はじめには4%まで下がった。1989年のコミュニティ・チャージ(人頭税)の導入で人気が低下した。
 キャメロン党首は保守党を若者、リベラルな有権者に魅力のあるものにしようとした。


「労働党」(Labour Party)

 労働党は中道左派の「民主社会主義」政党である。公式には発足以来、社会主義政党を指向していた。そして、通常は自らを民主社会党と称している。党内はイデオロギーは多様化していて、根っからの社会主義の人から穏健な社会民主主義者、そして最近は市場支持の傾向のある人までいる。過去には左翼から真の社会主義者の政策ではないと批判されてきた、それどころか資本主義など反社会主義的な政策を支持していると批判され、資本主義的労働者の党とすら呼ばれてきた。
 歴史的には、設立時の綱領のように社会主義を指向してきたので、主要産業の公有、経済への政府の介入、富の再分配、労働者の権利拡大、福祉国家、税方式の保健ケアと教育などを支持してきた。1980年代後半から今日まで自由市場政策を採用したので、労働党は社会民主的だとか第三の道と呼ばれ民主社会主義とはいわれなくなった。
 1992年の選挙用マニフェスト以降、社会主義ということばは用いなくなった。1995年には設立当初の綱領の4条項Clause Fourを廃棄した。新版では次のように記述している。労働党は「民主社会主義党」である。権力、富、機会を少数者ではなく多数者の手にわたし、同時に負うべき義務を果たす、と記している。
 トニー・ブレアは同党を中道路線に変えた。それは社会学者ギデンズによって政治的な第三の道と呼ばれた。ニュー・レイバーという流れはキノック党首時代から始まっていた。ブレアは最低賃金の確立、スコットランドとウエイルズと北アイルランドの分権、ロンドンの市政改革などをやった。転換点はブッシュ大統領のイラク政策に連携したときからだった。2010年の総選挙では過半数を取る政党がなかった。そして、自由民主党との連立政権ができなかったので野党となった。


「自由民主党」(Liberal Democrats)

 社会民主主義の政党で、憲法と選挙による社会改良、累進課税、資産課税、人権擁護、文化的自由主義、銀行改革、市民的自由を支持する。1988年に自由党と社会民主党が合体してできた。自由民主党の綱領は、自由民主党は公正で自由で開かれた社会を造り、自由と平等とコミュニティという基本的な価値のバランスを追求し、そして。だれも貧困、無知あるいはconformityにより苦しめられることはなくなる、と記された。
 2011年にクレッグ党首は「われわれは左でも右でもない。自由というラベルを維持する」と述べた。
 党内の社会自由主義者は、不利な生活をする人びとへのより大きな政府支出と富裕層への高率の課税を支持する。経済自由主義者は社会自由主義者とともに公民的政治的自由を共有し、「福祉国家」の必要性を認めている。しかし、社会自由主義者が市民に対して社会的経済的権利を与えるべきだと主張するのに対して、経済自由主義者は過剰な規制をとおして政府が自分の自由を高めてしまう能力を批判している。経済自由主義者はグラッドストーンやロイド・ジョージの思想に共鳴している。
 党内では、経済自由主義者であり同時に社会自由主義者である人もいる。
 社会自由主義は20世紀はじめのリベラル・リフォームと呼ばれる社会改良を果たした自由党の流れである。自由主義的な福祉改良の多くはロイド・ジョージにより行われた。かれらはしばしば、「福祉国家」の発展とNHSの発展に寄与したベヴァリッジと、社会自由主義的な経済学者ケインズに言及している。
 同党は英国で初めて同性婚を公式に認めた政党である。
2007年から党首になったクレッグは、同党はradicalな中道に属していると考えている。また、radicalな中道に属していたと考えるケインズやベヴァリッジ、ロイド・ジョージ、J.S.ミルなどを引用している。そして、自由主義は人民のイデオロギーだからradicalな中道だというのである。左翼は国家に、右翼は市場に、われわれは中道として人民に信頼を置いている、と述べた。


xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
アメリカ

アメリカの共和党・民主党

「共和党」
(英語版WIKIPEDIAより抜粋)2011.10.3

共和党にはいくつかの分派があるが団体を造っているわけではない。

伝統主義者
 保守主義の一つで新ヒューマニズムや英国ディストリビューテスト、本家ニュー・コンサバティズムまでさかのぼる。伝統主義者は文化と教育と地方主義、市民共同体、自然法、超越的信頼、そして有機的社会の更新を好み、妊娠中絶、フェミニズム、同性婚を拒む。

保守主義者
 保守主義者とは、もう少し自由主義的なほかの団体から区別するくらいしか共通点がないといってもいいほど多種多様であるという解説もある。保守主義者は左翼にたいしては団結する。

ネオ・コンサバティブ
 介入主義的外交政策を支持し、場合によっては、敵国に先制攻撃をしても良いという。多くのネオコンはもともと自由主義と見られていて、初期の民主党と提携していた。

パレオコンサバティブ
 伝統主義者である。銃所有権、覚醒剤戦争、州の権限、憲法主義であり、妊娠中絶や差別撤廃、同性婚に反対である。不法移民を許さず合法的移民にも規制をする。経済的には、ナショナリストで保護主義である。外交では、非介入主義である。かつては北米自由貿易協定とネオコンサバティズムに反対していた。

財政保守主義
 財政保守主義は、政府支出削減(特にエンタイトルメントとその他の社会プログラムに反対)、減税、均衡財政、赤字削減、国債のペイオフ、社会保障の個人口座化、自由貿易、経済の規制緩和などを主張している。多くは、サプライサイドの経済学であるが、赤字強硬派deficit hawkもいる。1930年以前の北東部の製造業支援派は高関税支持だったが、1945年以降は自由でオープンなマーケットを支持している。

社会保守主義
 伝統的な道徳の価値や社会的価値を支持し米国社会を維持し発展させようとする。性の基準に関してはもともとは伝統主義者と提携していた。妊娠中絶と同性婚に反対する。差別撤廃には懐疑的でクオータス(差別撤廃のための雇用・入学・昇進などに関する女性・少数派・弱者などの人数枠の設定)に戻すように主張する。軍事力強化を支持し、銃の規制に反対する。社会保守主義者は強い法の執行を支持し、しばしばリバタリアンに反対する。学校バウチャー制度については二つの意見に分かれる。ひとつは大きな政府による教育に反対する。もう一つは、大きな政府は社会的な争点について学校や教会の立場を左右できるという意見に反対する。社会保守主義者にはレーガン、ジョージ・ブッシュ、サラ・ペリンなどがいる。

穏健派
 GOPの中での穏健派は多様であり、財政は保守主義で社会的には自由主義という人も、社会は保守主義で財政は中道という人もいる。経済はほかの共和党員と同じで、均衡財政、減税、自由貿易、規制緩和、福祉改革などを支持する。それに対して、ゲイの権利、妊娠中絶の権利、銃規制、環境規制、教育への連邦補助、合法移民への規制緩和、非合法移民への強制の縮小、死刑廃絶、市民権法、覚醒剤の合法化、stem cell research、反戦政策などさまざまな支持者がいる。ブッシュ政権の海外への軍事介入を批判するものや同じく減税を批判するものもいる。赤字財政を支持する人や反対する人がいる。穏健派が共和党に及ぼす影響力は1990年代から小さくなってきている。

リバタリアン
 自由市場経済と最小限の社会的規制を主張する。政府の社会支出と規制と課税に反対する。ゲイの権利、妊娠中絶は個人的な問題だと考えるので、社会保守主義者とは意見が違う。しかし、ある人はそれは個人への暴力だと考える。財政保守主義と同様に、減税、歳出削減、規制緩和を主張する。政府の業務のアウトソーシングや民営化を求める。連邦所得税に反対し単一税率の所得税を支持する。

リベラル
 1930年代には、「リベラル」と「保守」はニュー・ディールに対する立場で区別された。その際に多くの共和党員はニュー・ディールに反対だったが、北東部の人びとはニュー・ディールの不効率性を批判したが、基本的な対策は支持した。歴史家は、ニクソン大統領は、口では保守主義だったが、その政策はリベラルだったと考えている。ブルムバーグニュー・ヨーク市長がリベラルな共和党員と考えられる。


「民主党」
(英語版WIKIPEDIAより抜粋)2011.10.3

 社会的にはリベラルで漸進的位置は米国の政治の中では中道左派である。
 1890年代以降、民主党はリベラルを指向しているが、古典的自由主義ではなく「社会自由主義」である。歴史的には農民、労働者、労働組合、宗教や人種の少数派を重視し、無規制のビジネスや金融に反対し、累進所得税を支持している。1930年代に、貧困者に対する福祉支出を支持した。産業勢力に理解があり、また、南部の保守主義勢力にも理解があるが1964年のジョンソン大統領の公民権法支持以降は停滞した。自由主義にもっとも影響力があるのは労働組合とアフリカ系米国人勢力でそれは1960年代から勢力を増した。1970年代からは環境保護主義者が新興勢力である。党の政策は近年は中道的な経済政策と社会的には進歩的な政策である。今日では、社会的自由、差別撤廃、均衡財政、政府の介入を伴う自由企業を主張している。クリントン政権など党の経済政策は「第三の道」と呼ばれている。党はかつては南東部で勢力があったが、いまは北東部(大西洋岸中央部とニューイングランド)、五大湖近辺、ハワイを含む太平洋岸などで勢力を持っている。大都市でも強い。
 社会自由主義と漸進指向は民主党支持者の大半の人の考えといえる。自由主義者の大部分は普遍的保健ケアとsingle-payer systemを支持する。軍事力よりも外交を優先し、同性婚の合法化、銃規制、環境保護、妊娠中絶の権利などを支持している。
■■