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          【 私の身の回りの出来事やエピソードなどを紹介します。】

     ―――――――― ( 2014 年 1 月 1 日 ・ 更新 )―――――――――




            とても悲しい、辛いご報告です。
   息子の山田啓史(新宿区議)が亡くなりました。
                (2012年11月8日 )


  とても悲しいご報告です。私たちの長男、山田啓史(新宿区議会議員)が亡くなりました。

  息子の 山田啓史 が11月5日午前10時23分に永眠しました。
   とてもとても信じがたい、認めがたい、悪夢のような出来事です。享年36歳でした。
  こんなに悲しいことことがあるのでしょうか。気が狂いそうです。痛惜の極みです。

  啓史は原因不明の発熱で6月20日から、これまでも職場(全国社会福祉協議会)での健康診断
 などで通っていた東京都済生会中央病院に入院し、治療を受けていました。精密検査の末に、よ
 うやく分かったことですが「血球貪食症候群」(けっきゅうどんしょくしょうこうぐん)という
 免疫過剰の大変な難病でした。私たちは聞いたこともない病名です。

  しかし、本人は、必ず良くなることを確信し、希望を失うことなく、強い意志を絶やさずに闘
 病生活を送っていました。足掛け5か月にも及びましたが、常に医師団の先生方を信頼していま
 した。

  私たち家族はそうした彼を激励し、夢を語り、必死になって支え続けてきたつもりです。
  病室における私たちの毎日の話題は、退院後に取り組むべき様々な活動に関することでした。
  いつも前向きのこと、これからのことを語り合いました。彼も好んで話題にしました。


  そんな彼が、まさかこんなことになるとは 〜 。 

  私たち家族は、私たちに出来ることは何もかも全部やったつもりでいますが、しかし、親とし
 て彼を助けてやれなかったということで、何がどうと言うことではありませんが、後悔ばかりし
 ています。打ちひしがれた時間ばっかりを送っています。

  残念です。残念で、残念でなりません。


   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


    「病名」「治療の経緯」「お別れの会」などについて
               (2012年11月11日)


  いろいろな方から啓史の死亡理由や「葬儀」や「お別れの会」などについてご照会をいただい
 ています。私たちは、無宗教なので葬儀は家族とごく限られた友人だけで彼を囲み、一人一人が
 最大限の思いを込めてお送りしました。

  葬儀とは別に、親しい友人たちが中心になって「山田啓史・お別れの会」を開いていただける
 ことになりました。

  その概略が決まりました。以下、彼の病状や闘病生活などとあわせてお知らせします。


 ● 病 名

   EBウィルス関連の「血球貪食症候群」(けっきゅうどんしょくしょうこうぐん)

      ※ EBウィルス関連の「血球貪食症候群」は、血液中の免疫活動が異常に活発になる病
      気です。外部から侵入してくる様々なバイキンのみならず体内にある良性の細胞まで攻
      撃してしまうために、逆に免疫力の低下を招くことになります。

       私たち人間は、誰でも生まれながらにしてこのEBウィルスを持っていますが、大半
      の人は幼児期に体内で調整機能が出来上がり、啓史のように成長してから発症する例は
      極めて少ないということです。

       現在、この病気に対する治療方法としては、患者の造血機能を、ステロイドや免疫抑
      制剤、抗癌剤、放射線で完全に破壊し、そこに「骨髄移植」や「臍帯血移植」によって
      患者に合致する他人の髄液を植え付け、全く新しい造血機能を作るというやり方が一般
      的に行われています。移植の前と後では血液型が変わることもあります。

       啓史の場合は「臍帯血移植」を実施しました。大体、一カ月後の髄液検査で「生着」
      しているかどうか判明しますが、啓史の移植は「生着」が確認され、成功でした。
       成否を判断する特徴的な指標である白血球の数は、移植時にはほぼゼロの状態でした
      が、一か月後の精密検査では健康な人の平均値以上の8000前後に増えていました。
       しかし、治療過程における放射線などの強力な「治療」の副作用によって落命するこ
      とになってしまいました。



 ● 病状と簡単な治療経過

  (1)6月初め   発熱。以後、微熱・高熱が断続的に続く。
  (2)6月9日  高熱状態のまま、開会冒頭の新宿区議会で代表質問。
          以後、19日の閉会まで新宿区議会定例会に出席。
  (3)6月14日 議会の常任委員会終了後、東京都済生会中央病院で診察。
  (4)6月20日 19日の区議会定例会閉会を待って同病院に入院。

  
(5)6月28日 病名は、EBウィルス関連の「血球貪食症候群」(けっきゅうどんしょく)
          と判明し、骨髄移植が必要なためにその準備に入る。
          当日、血液型が合致している可能性の高い弟と妹の血液型の詳細な検査。
          後日、二人とも啓史とは合致しないことが判明。

           ( 弟の耕史は「俺が兄貴の命を救ってやる」と豪語し、妹の潤子は「耕ちゃんよ
             りも私の方が入院休暇が取り易い」と主張。二人共、髄液提供に意欲的だった。
             一方、啓史は、あいつらと合わなくて良かったと強がりを言っていたが〜。
             私たち両親は、どちらか合致するようにひたすら願望していたが、残念ながら
             そうはならなかった。愕然とした思いだった。気力が一挙に喪失した感じがした。)


   (6)7月初め  主治医が骨髄バンクに照会。啓史と合致するドナーは全国に150人前後
          も登録していることが分かる。普通は10人もいれば多い方だという。
          医師が「啓史さんは典型的な日本人だね」とコメント。

  (7)8月末まで 移植の前治療として、ステロイド、免疫抑制剤、制ガン剤、放射線投与な
          どを行う。順次、軽目の治療に切り替えた。

  
(8)9月初め   再び高熱状態に陥り、病状が悪化したため、同種の治療を再度最初から行
          う。9月中旬位から肝臓や腎臓などに障害が出始めるが、本人はずっと元
          気一杯で食欲はまことに旺盛。ブログは絶えず更新。連日、父と退院後の
          様々な活動について活発に意見交換。

  (9)10月4日 臍帯血移植(さいたいけついしょく)を実施。

  (9)10月6日  この日から11月5日まで、ICU(集中治療室)で治療。
          私たち家族は日中、病院に待機し、面会時間の12時半、2時半、6時半
          からの3回、30分だけ面会し、啓史を激励する。

  
(10)11月5日 午前10時23分、家族に見守られながら逝去。
  (11)11月6日 病理解剖。



 ● 葬儀・お別れの会

 (1) 葬儀は、11月8日、近親者のみで執り行いました。 

 (2) 「お別れの会」は、友人・関係者の皆さんに11月25日(日)午後1時半(開場1時)
    からスクワール麹町(JR四ッ谷駅麹町口正面)で開いていただきます。
    会費制です。3000円をお願いしています。

      (ご香料・お供物などは固く辞退させていただきます。平服での参加をお願いいたします)



 ● 移植の結果

 (1)臍帯血移植一カ月後の精密検査で、移植髄液の「生着」 が確認され、移植は成功でした。
    死亡した後、移植は成功だったと主治医から説明を受けました。

    
しかし、治療過程で体内の様々な臓器に与えたダメージ(副作用)が死因につながりなり
    ました。移植は成功、それだけに尚更、悲しい思いをしています。


   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


    「山田啓史 お別れの会」 を開いていただきました。
      ●11月25日(日)13時半。スクワール麹町 「錦華の間」●
     約500人の方がご参列。有り難うございました。


   11月25日(日)午後1時半から、四ッ谷駅麹町口正面の「スクワール麹町・錦華の間」
   で「山田啓史・お別れの会」を開いていただきました。

   今回の「会」の企画・運営は、ごく一部を除いて啓史が共同代表を務めていたNPO仲間が
  全部やってくれました。また、いろいろな陰の役割は、新宿総支部の皆さんや私たちの知人が
   受け持ちました。

     この会場は、僅か1年9ヶ月前の11年2月27日に新宿区議会議員選挙に初めて挑戦する
  ための出陣式とも言える「山田啓史を励ます会」を盛大に開催したところです。

   今日は晴天に恵まれました。とても驚きましたが、「お別れの会」には、500人近い方々
   にご出席をいただきました。万一の事を考え、多めにということで400部余りもの「資料」
   を準備しましたが、それも足りなくなりました。


   受付は、NPOの皆さんの他に、区議会事務局の職員、新宿総支部の党員、私たちの知人が
   それぞれのセクションを担当し、最終的な整理はNPOの宮田有理子さんが綺麗にやってくれ
   ました。


    大まかな「会」の進行はこんな具合でした。

 ● まず、主催者を代表して啓史と共にNPO共同代表の松井信智さん、古池崇さんが開会挨拶
  や主催者挨拶をし、引き続いて「山田啓史の36年のあゆみ」と「病状報告」が紹介されま
  した。

 ● 主賓として、中山弘子新宿区長と宮坂俊文新宿区議会議長からご挨拶をいただきました。
  中山区長の娘さんは、以前からお聞きしていましたが、結婚されて現在は「山田圭子」さん
  になられていて、息子とは、よく似た音感になっています。区長の子どもさんですから、き
  っと素敵な娘さんだと思っています。
  宮坂議長は、何でも気軽に話し合える私の尊敬する友人です。

 ● 「献杯」の音頭は、江原栄昭・元中野区議(元新社会党東京都本部委員長)がやってくれま
    した。私の古くからの友人です。啓史に対しては、大変に期待を寄せてくれていました。

   その後は、いろいろな方々からご挨拶をいただきました。

 ● 保育園でゼロ歳(生後2か月)からずっと一緒だった兄弟のような小林夏矢子ちゃんは、わ
  ざわざニューヨークから駆けつけ、挨拶をしてくれました。デザイナーの仕事をしていて、
  啓史の一番最初の事前ポスターの原案を、ニューヨークの事務所で作り、送ったくれた方で
  す。「啓史と私は兄弟だ」と言っています。
  松本サラちゃん、李徳くんも遠くから参加し、惜別の挨拶をしくれました。

  「おしゃべり啓史」をずっと面倒見てくれた保育園の東山靖子先生、西村道子先生も出席し
  てくれました。とても可愛がってくれた柴田公亜子先生も、大変な中、わざわざ遠くからお
  出でになってくれました。

  母校・四谷第六小学校の校長先生や担任の先生を始め、かつて一緒に学び、遊んだ沢山の同
  級生・同窓生も、各地から駆けつけていただきました。

 ● 都立・新宿高校の卒業生も、何人も参加しました。
  挨拶は、仲が良かった元気いっぱいの渡辺昌夫さんが代表してやってくれました。
  渡辺君のご両親は私も若い頃からよく知っています。筋金入りの方です。

 ● 早稲田大学の関係者を代表し、栗林幹夫さんが送別の言葉を述べてくれました。
  今年3月まで大学院(MBA)でお世話になった方です。啓史が2010年から12年3月
  まて2年間学んだ早稲田大学・大学院(MBA)の「守口ゼミ」には、9人の研究者が所属
  していましたが、各分野で次の世代を担う逸材ばかりであり、啓史はそれぞれから強い影響
  を受けていたようです。私にもよくそんな話をしていました。
  守口ゼミのほとんどの方々や他のゼミの方も沢山も来てくれました。恩師の守口剛教授は学
  会で出張中ですが、弔電と生花をいただきました。多忙な中、大学院(MBA)関係者が、
  こんなに来られたことには驚きました。

 ● 今日の主催者で、啓史が共同代表を務めていたNPOを代表して、児玉知子さんが挨拶して
  くれました。とても感じのいい女性です。児玉さんは一年半前の区議選の時も、自分が候補
  者にでもなったような感じで、何回も選挙カーに乗り、啓史に対する支持を訴え続けました。
  全力投球でした。選挙事務所では、彼女の魅力と迫力で相当な票を獲得したのではないかと
  話していました。彼女を、都内の何処かの選挙区で立候補させたいと私に推薦する方もいた
  程でした。

 ● 10年間、啓史が福祉関係の仕事に携わっていた全国社会福祉協議会を代表して、楠 聖伸
  さんが挨拶してくれました。多くのことを教わった方だと聞いています。啓史は、仕事を通
  して障がい者問題に強い関心を抱いていました。
  楠さんとは、啓史が亡くなった後、何度もメールでやり取りをしましたが、言葉の端々にこ
  の人の人柄がにじみ出ていました。

 ● 最後に、福田実・新社会党東京都本部委員長からご挨拶をいただきました。
  啓史には、まだ党活動の実績はほとんどありませんが、多く方々から次世代を担う人材とし
  て期待されていました。その期待に応えることが出来ないままに亡くなりました。
  私もとても残念だと思っています。

 ● 「謝辞」は、私が述べました。

    私は、いまでも家で弔問客との会話や電話に出て啓史に関する話になると、すぐに胸が締
  め付けられる状態に襲われます。思うように言葉にならない状態が、ずっと続いているので
  す。今日も、謝辞を述べる際にきちんと言えるかどうか心配していましたが、案の定、最初
  に一言、二言何かを言ったら、もうあとは全くの「言語障害」に陥ってしまいました。
   ほとんど、自分の思いを言い表すことが出来ずに終わることになってしまいました。
    本当にみっともないことでした。


   会場には、最初からずっと啓史の好きだった音楽が流され、可愛い盛りだった子どもの頃
  からの何枚もの写真がスクリーンに映写されました。大体、弟の耕史、妹の潤子も一緒です。
   私たち両親や大好きだった二人のおばあちゃん(二人とも上品でとても美形でした。私た
  ちは「津軽小町」と「讃岐小町」と呼んでいました。3年前と4年前、105歳と97歳で
  相次いで亡くなりました)も時々登場しました。


      啓史が最近読んだ本を、参加者に持っていって貰いました。

    会場の一角に、啓史が最近一年位に読んだ60冊から70冊の専門書を陳列しました。
    啓史は大変な読書家でした。また、驚くほどの速読家でもありました。綺麗に読み終える
    ことを心がけていたのでしょうか、読み終わっても新本そのものでした。私はよく「本当に
  読んだのか」とからかいましたが、実際に読んでいて、それなりにアタマに入れていたこと
  は、彼の説明でよく分かりました。すごい能力です。こうした彼の能力には、私もとても感
  心するところがありました。

   私たち両親は、入院中も数十冊もの専門書や文庫版の小説本の購入を頼まれ、紀伊国屋や
  インターネットで買い集めて病室に運びました。専門書はみんな結構高価な本ばかりでした。
  「回復した後に本代を払って貰うぞ」と宣告していたのですが〜。

   啓史が愛読した本を会場の一角に陳列し、気に入ったものを皆さんに自由に持って行って
  もらいました。最終的には全部の本をお持ちいただきました。
   啓史が読んだこれらの本が、どこかで誰かの本棚に納まり、読み継がれていると思うと、
  私も少しは気が晴れます。皆さんに持って行って頂いて本当に良かったと思っています。


      私たち家族にとっては、決して忘れることのない
           いつまでも心に残る「お別れの会」になりました。


   私たちは強く辞退したのですが、大阪、京都、岡山、名古屋などからも何人もの知り合い
  が出席して下さいました。

   私の同級生の桑野邦夫さんは、小さい頃のやんちゃな啓史をよく知っていますが、今日、
  わざわざふるさとの青森県・津軽半島(半島の中ほどにある十三湖畔が私の出身地)から日
   帰りの強行軍で来てくれました。

   「お別れの会」では、数限りない方々から、心のこもった慰めの言葉をいただきました。
  これから生きていく私たちの最大の支えになります。感謝しています。


   盛大だった「山田啓史・お別れの会」は、こうして終わりました。

   私たち家族にとっては、いつまでも決して忘れることのない「つどい」になりました。
   短かった啓史の人生の最後を画する出来事のひとつとして、とても、とても心に残る「つ
  どい」でした。よく「涙が涸れる」といいますが、私はいつまでも涸れることはありません。
   とめどなく出てきます。

   仲間の皆さんが心を込めた今日の「つどい」は、啓史にも伝わった事だと思います。私た
  ちは、そう思っています。そう思うしかありませんし、そう思いたいのです。

   夜遅く、ふるさと津軽の実家に戻った桑野邦夫さんからは、「今日、行って良かった」と
  いうメールが届きました。随分疲れたでしょうに〜。また、涙が出てしまいました。


   私が、この会を開催するに当たって啓史の仲間の皆さんに希望したことは、何か失敗があ
  っても、運営などに少々ミスがあっても全然かまわないから、既製品のような集まりではな
  く、あなた方の率直な思いが伝わるような雰囲気を大事にし、出来るならば、あんまりしん
   みりしたものではなく、笑いがあり、拍手もあるような集まりにしてほしいということでし
  た。予定の2倍もの方々に来ていただいたために、窮屈な思いをさせましたが、ご参席の皆
  さんには、若い者たちが考えた、手作りの好ましい印象は持って貰えたと思っています。

   私自身は、来られた方々に満足に挨拶もできず、最初から最後まで、会場のあっちこっち
  を夢遊病者のように歩き回り、参会者と言葉を交わし、ずっと涙を流していました。


   今日の会については、啓史と関わりのある保育園・小中学校・高校・大学・大学院の主な
  関係者を初め、10年間務めた全国社会福祉協議会、そして最後の舞台になった新宿区議会
  ・新宿区役所には連絡しました。

   ただ、私の知り合いの地域居住者にはごく限られた数十人の方にしかお知らせしませんで
  した。高齢の方が多いために、この時期にわざわざお出かけいただくことを躊躇したからで
  す。ご連絡をしないで、失礼した方やあとで知ったと驚いて電話をしてくれる人も随分おり
  ますが、こうした事情ですので、どうかお許しいただきたいと思います。


  ● 重ねて、ご出席いただいた皆さんにお礼を申し上げます。
  ● 会を企画し実行してくれたNPOの皆さんにも心からお礼を申し上げます。


                               
      有る程の 菊拠げいれよ 棺の中

    この句は啓史の大好きだった夏目漱石が、奇しくも36歳で夭折した大塚楠緒子の死の報
  に接し、深い惜別の情をこめて詠んだ一句です。


   私は、この句を高校三年生の時に大先輩の浅沼稲次郎さんが演説中に倒れた際、悲しい思
  いを込めて自分の日記に引用しました。日記を書きながら、浅沼さんの母校の早稲田大学に
  入り、いずれ日本社会党に入党しようと強く決意したものでした。

   このとても思い出深い漱石の句を、事もあろうに、自分の愛すべき息子の逝去に直面し、
  絶望的な気持ちを抱きながらここに引用することになろうとは 〜 。

                              
(2012年11月26日)

   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


     (家族からのメッセージ)

   今日、お出で下さった方々に、啓史が亡くなってからこれまでに皆さんからいただいた
  「哀悼の言葉」を無差別に掲載した簡易な「印刷物」をお配りしました。
   私たち五人の家族も、今の思いをその中に書かせていただきました。家族の分だけ次に
  紹介させていただきます。

                   (2012年11月25日)



   弟・耕史夫妻からのメッセージ
         (彼が11月8日facebookに載せていたものです)


  兄貴へ時間が経つのが本当に遅く感じ、両親を初め私たちは、悲しみに押しつぶされたこの数
 日間でした。
  兄貴は、2年前に高熱を出して入院しました。
  今年の6月初めに再発、20日に入院。EBウイルス関連の「血球貪食症候群」という病気が
 原因でした。
  闘病生活は、足掛け5ヶ月にわたりました。
  詳しくは書きませんが、骨髄移植か臍帯血移植が必要な病気でした。最後の一ヶ月は人工呼吸
 器を付けました。強い薬を投与する為に麻酔で眠らされている状態でした。
  本当に辛く、苦痛連続の闘病生活でした。
  しかし、命を繋ぐために兄貴はよく頑張りました。結果的には、臍帯血移植は成功しました。
 が、重要な臓器に対する副作用が命取りになりました。それだけになお更、残念です。

  何を書いていいのか分かりませんが、今はただただ悲しくてたまりません。

  高校生の時に同じ部屋にいるのが嫌いでした。
  話さない長い期間がありました。
  成人してからも差しで飲みには行きませんでした。
  スーツに合う靴をくれと頼まれた時も、たったの2足しかあげませんでした。
  見舞いに行った時には、無菌室だったこともあり、息苦しくてなり直ぐ出てしまいました。
  全て全て、後悔でしかありません。

   大学の時、いつも馬鹿げたことをしている兄貴を見て軽蔑していました。その一方で兄貴はい
 い仲間と出会い、本当に精力的に勉強し、様々な資格を取り、社会人になった後も母校の大学院
 に通い、難関のMBAを習得し、今年3月には遂に卒業するという努力家でした。

  尊敬する父と対等に、時にはそれ以上に話し続ける兄貴を見て、心の底から初めてすごいと感
 じ、ますます慕う気持ちを持つようになりました。

  父の「こころざし」を受け継ぎ、まさにこれからという時でした。
  人間の寿命が初めから決まっていたとしたら、それは本当に儚く、虚しく感じます。
  あんなに頑張っていた兄貴が何故、と疑うことしか、いまは出来ません。いま、泣きながらこ
 の文章を打っています。兄貴に見られたら「おい、だせぇな こーじ!」と言われそうです。

  小さい頃に何でも独創的に自ら考え、教えてくれた兄貴、
  サッカーを教えてくれた兄貴、です。
  自分の身体を犠牲にしてもいいから兄貴を助けてやりたかった。
  もっともっと話をしたかった。

  逝く寸前、命を絶やす寸前、何度も父から「誇りに思っているよ!」と言われた兄貴。
  本当に素晴らしい兄貴だと思いました。
  僕もこれから何年かかってもいいから、いずれ父からその言葉を貰えるように、兄貴の分もし
 っかりと生きていきます。

  兄貴が書いた8月24日のブログに、
 「35歳で逝ったアンディ・フグ」という記事があります。
  次のような一文です。

 「フグは自分の病気を周囲に心配を掛けまいと、自分の病気を死の直前まで内緒にしていたそ
   うです。享年35歳、気がつけば今年で私の方が歳上になりました。
   強さや覚悟とは何か? 彼の生き方から、学ぶことが年々増えている気がします 」。
                                   
(ブログの一部を抜粋)

  兄貴、まさか自分の最期を分かっていて、最後まで周りに言わず、覚悟を決め、強さを貫いた
 のか? もしそうだとしたら、兄貴、それはカッコよすぎるだろ !

  皆さん、どうか、兄貴の死を悲しまないでください。
  その代わり、兄貴の事を忘れないでください1年に1回でいいから思い出してください。
  山田と言う苗字を見たら、「山田啓史」が居た事を感じてください。
  最後まで、病気に対して覚悟と強さを貫いた、兄貴・山田啓史を、皆さん、忘れないでくださ
 い。

  最後に、献身的だった東京都済生会中央病院の先生方、
  直後に連絡をくれた、お知り合いの皆さま、その他の多くの方々。
   本当に、本当に有り難うございました。

  葬儀は、本日、近親者のみで終わらせました。
  後日改めて、「山田啓史とお別れする会」(仮称)を開催します。
  確定次第、各責任者を通じて連絡をします。

  今頃、両親より早く逝った罪で、あの世では裁判が行われています。お父さん、お母さんをこ
 んなに悲しませ、泣かせた罪は地獄行きです!
   しかし、どうぞもし天国と地獄というのがあるのならば、「山田啓史は、天国に行ってもいい
 ね!」で「いいね!」を押して兄貴を天国に行かせてください!

  まさかこんな日が、こんな幸せで最高の家族に起こるとは思いませんでした。現実でない事を
 思いたいです。うそぴょ〜ん!」とひょっこり出てきそうな気がします。

   兄貴の弟で良かった!本当に良かった。
  心の底から尊敬している。
  またいつの日か会えたなら、兄貴の話を聞きたい。演説を聞きたい。
  そして、一緒に飲みたい。

  その日まで、ばいばい!     11月8日

                                弟  山 田 耕 史


  手術前に会った時、初めて私の目を見て話しをしてくれてとても嬉しかったです。
  これから啓ちゃんともっともっと仲良くなってこれまで以上に本当の「兄妹」のようになれる
 と思っていただけに残念でなりません。
                             弟の妻  山 田 千 鶴



  妹・潤子からのメッセージ

  この数ヶ月、お見舞いに行っていた中で、どれもくだらない内容だったけど、今までにないく
 らい話ができて良かったよ。
  啓ちゃんは薬の副作用でしんどかっただろうけど、私はああやって話ができる時間が持てて良
 かったと思ってる。

  お見舞いに来ている私たちよりもよく喋って、おちゃらけて、ピザ頼んだり、大盛りのゴーゴ
 ーカレーをドカ食いしたりして、啓ちゃんって相変わらずバカだなーとか思ってたけど、でもい
 つも帰り際に「潤子ちゃん、来てくれてありがとね」ってふざけた甘い声出しながらも、何か妙
 に私に対する感謝の気持ちが込められてるもんだから、ああ、啓ちゃんも本当は辛いんだろうな
 って感じてたよ。

  でもでも、絶対死なないと思ってた。だって啓ちゃんなんだもん。
  すぐムキになるしさ、つまんないことでも譲らないところがあるし、それより何より人並みは
 ずれた馬力があるからさ。きっとピストルで撃たれても大丈夫、お母さんをからかったりして、
 この恩を仇で返しながら 200歳くらいまで生きてくんだろうなとか思ってたんだよ。

  だから、亡くなる前日に啓ちゃんの心臓が止まって、お父さんもお母さんももうオロオロして
 て、私もものすごく怖かったけど「でも啓ちゃんなんだから。」って、心の中ではどこか思って
 た。だから、お医者さんから何とか蘇生したと聞いた時「ほらね、啓ちゃんなんだから。死ぬわ
 けないよ。」って思ったんだから。
  さすが啓ちゃん、やっぱり啓ちゃんって。ほんと信じてたんだよ。
  でもさ・・・家族はただ祈るだけだけど、だるくて痛くてしんどい思いをしてるのは啓ちゃん
 自身なんだよね。ごめんね。

  覚えてる?臍帯血移植の前に、私が「あのさ、死なないでよ?」って聞いたら、大丈夫って即
 答してくれると思ったのに、「・・・まあねえ、俺もそうなりたくはないんだけどねえ。」って
 言ったよね。この時、ああこの啓ちゃんでさえもこういう答えをするんだから、もう相当辛くて
 怖い思いをしてるんだなって感じたよ。

  どんなに辛い治療にも弱音を吐かないで耐えられる啓ちゃんだからって、どんな試練を与えら
 れてもいいわけじゃないもんね。ごめんね。

  一緒にもっとピザ食べたかったな。ゴーゴーカレー教えてくれてありがとう。でもしばらくは
 お店見れないよ。

  もっとしてあげられることなかったのかなあっていつも思うよ。
  まだまだやりたい事いっぱいあったよね。
  啓ちゃんのお友達から話を聞いたり、啓ちゃんの部屋を片付けたりして改めて感じたのは啓ち
 ゃんってほんとバカだけど、でも色んなことに挑戦して、いつでも目標を高く掲げてて、本当に
 努力の天才だったんだなってこと。

  私は啓ちゃんほど発揮できないかもしれないけど、形は違えど啓ちゃんができなかった分も一
 生懸命に、家族のためにも、そして自分のためにも、元気になって丁寧に生きて行こうと思うよ。
  だからずっと私たち皆んなを見守っていてね。

   啓ちゃんに手紙を書くなんて初めてだね。恥ずかしいなあ。
  まあ啓ちゃんのことだから、空からきっと「お前、なに泣いてんだよ、バーカ!」とか言って
 んだろうね。

  長い間、本当にお疲れ様でした。

  むくんじゃった分、天国でも筋トレがんばってね。
  あんまりおばあちゃんを困らせないでよ。楽しく過ごしてね。

                               妹  山 田 潤 子



   母からのメッセージ

  啓史の携帯に残されていた「発信履歴」は、奇しくも私宛のものが最後のメールでした。
  「生きています。明日予定通り移植、ご心配なく」でした。(2012年10月3日、21:38)

  入院後は、毎朝7時過ぎに「今朝の熱○○度 体調良好、・・・」のメールがあり、その音で
 「着ているよ」の父親の声が、私たちの1日の始まりでした。定期便の遅い日は、何か体調に変
 化があったのかと心配で、朝が明けない感じでした。

  集中治療室に入ったのが10月5日、その音が途絶えてもう2ヶ月近くになります。小さな箱
 に入った啓史の前に座ると「何処にいったの」と呼びかけては涙し、まだ満足に眠ることも出来
 ませんし、また、目が覚めるとすぐ、何をしていても啓史のことを思い、この現実を受入れるこ
 とのできない日々です。

  いまだ「おっ!よこちゃん!(私の事をそう呼んでいました)」と、玄関からぬーと入って来
 るのではといつも思っています。様々な思い出が蘇り、涙がこぼれます。

  私は母親として、啓史は幼い時から「手の掛かる子ども・・」の思いが強く、私たちの知らな
 かった息子の一面を皆様がお知らせ下さるととても嬉しく感じます。

  大人になっても「腕白・おしゃべり啓史」は健在で、寡黙な父親とは対照的で、たまに帰ると、
 ずーと、トイレに入ってまでも喋り続け、潤子をからかっては部屋中追っかけたり、私の髪の毛
 をぐちゃぐちゃにしたり、裸になって筋肉を得意げに見せたりしていました。とても騒々しくて、
 皆んなから煩がられていました。

  でも、もうその声も聞けません。もうその笑顔も見れません。
  本当に、本当に、辛く、淋しく、悲しいです。

  36年間、皆様にはお世話になりました。ありがとうございました。

                                母  山 田 淑 子



  父からのメッセージ

     これ以上の悲しみがこの世にあるだろうか。
     痛恨の極みだ。

     僅か36歳、余りにも短い人生だった。
     お前のこれからを、私は、もっともっと見たかった。

     啓ちゃん!
     お前と「親子」であったことを、
     私は、いつまでもずっとずっと、一番の誇りに思っているぞ!

                               父  山 田 敏 行




  次の二つは、啓史の幼児期(保育園時代)の記録です。

             (2012年11月25日)


 ●
[1歳の誕生日に保育園の連絡ノートに添付したもの]

   長男、啓史の出産は体力的に全く自信の無かった母が、結婚4年目にやっと決心した上での事
 でした。健康に自信が持てない者が、絶えず抱く不安からでしょうか、それは毎日の様に、よく
 飽きもせず、お産に関する本を読み、母体を守るためには注意して、食べたくない品でも良いと
 あらば、今から思うとこっけいな程、優等生そのもの生活を続けながら、それとは別に日々大き
 くなっていくお腹を眺めては、母親になる事への期待と恐れに息苦しいほどの10ヶ月だった様な
 気がします。

  予定日の三週間も前の明け方、破水し、慶應病院へ。ベットで身動き出来ない状態での4日目。
 産声と「男の子ですよ」と、助産婦さんより声がかけられるや、今までずーと我慢していたもの
 が一気に吹き出るかの、何とも言えない感情と共に涙が溢れ出てたまらなかった事を思い出して
 います、つい先日のようです。
   頭の大きい父に似た四角い顔をした口元の小さな可愛い赤ん坊でした。 そして父と母は「歴
 史を切り開いて行く様な大きな人になって欲しい」との思いで「啓史」と名付けました。
  彼が母の体に宿ったと判かった数日後に、我が家にドロボーが入るという出来事があって、そ
 のショックで「流産するのでは・・」と職場の同僚に心配される程にひ弱だった母も、今では「
 山田家の鬼!」と思われるほどに。出産は母の節目でもあった様です。


 ●[保育園卒園の時の文集から]

 「はやくしなさい!」の言葉がいきかい「いってきます」と、父・弟の三人揃って、家を出る毎
 日の日課も、後、数日でおしまいです。いよいよ、「おしゃべり啓史」の卒園ですね。1976
 年5月23日、予定日より三週間はやく生まれ、黄疸が強くて母乳が飲めず無事育つかと思う毎
 日が続きました。(中略)
  そして保育園探しの始まりです。ベビー室で面会のあった日、消え入りそうな母の声は不安と
 緊張でいっぱいでした。
  入園後すぐ二葉の特徴ある帽子をかぶって参加した運動会。先生に抱っこされ登場した姿に涙
 ぐむほどの感動を覚えました。逆三角の体型は、何処にいてもよく目に付き、おしゃべりは一番、
 夜のオムツ取れは一番ビリのモミジ組。ビューテイフルネームの歌を英語で習い、かさ子地蔵の
 おじいさん役を演じたタンポポ組。草花など四季折々の自然に対する関心を、親子で味わいさせ
 ていただいたスミレ組。年長さんに肩肘合わせようと目立ちたがり「口にチャック」といわれた
 年中組。そして『けいじ隊長』と呼ばれる程の腕白盛りの年長組。

  いろんな思い出を本当にありがとうございました。
  母親が働く事すら可能にする態勢が、まだまだ整っていない今の社会で、子を託して働く親の
 気持ちを確かにする基は、先生方と両親との安定した信頼関係が結ばれてこそと思います。

  二葉との出会い! 今しみじみと「いい保育園」にめぐり会えた事に感謝しています。
  文字通りの「いい保育園・二葉南元保育園」に。


   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


      「お別れの会」の後の主な出来事
          ( 11月26日 〜 12月31日 )


  ● 新宿区議会で「追悼演説」
(11月30日)

   新宿議会では、現職議員が亡くなった場合に、直近の議会・本会議場で「追悼のことば」
  を捧げて弔意を表すことが慣例になっています。
   啓史に対する「追悼演説」は、11月30日(金)午前10時から行われました。副議長
  の赤羽つや子議員が、全議員を代表して壇上に立ち、弔意を述べてくれました。
   啓史が座っていた本会議場の「35番」の議席には、弔花が飾られていました。

   私たち家族5人と知人代表・友人代表の各1人の7人は、傍聴席に座り、啓史の遺影を抱
  いて演説を聴きました。心がこもった演説でした。しかし、私は平野の真ん中で寒風に吹き
  つけられたように、とてもに虚しい、寂しい気持ちになり、胸が締め付けられました。

   私は40年にわたった現職時代に、一度も追悼演説を行ったことはありませんが、恐らく
  5回か6回は、こうした場を経験しています。しかし、自分が当事者として「追悼演説」の
  場に立ち会うことになるなどとは、夢にも思ったことはありませんでした。

   尚、赤羽副議長の「追悼演説」は、新宿区議会の中継録画で誰でも見ることが出来ます。
  次の通りです。「新宿区議会議会中継」 ⇒ 「初日」(左側の中あたり)⇒ 「映像」(右上。
  映像の一番上)。




  ● 新宿区議会の啓史の部屋の整理。やりきれない気持ちでした。

                                    
(12月2日)

   12月2日(日)の朝から、私がずっと使用し、引き続き啓史が使っていた新宿区議会の
  部屋の片付けを行いました。私は引退した時に、これまで収集した様々な資料を、啓史のた
  めに課題ごとにきちんとファイルし、使いやすいようにして彼に引き継ぎました。
   しかし、僅か一年半後に、こうして一人勃然と整理することになるとは夢想だにしません
  でした。
   さまざまな想いがこもった大半の資料はやむなく廃棄しました。それぞれ走馬灯のように
  思いが走る膨大な資料でした。終始、気が滅入り、やりきれない気持ちでした。



  ● 個人のための墓苑・東長寺の「千手堂」に納骨することにしました。
(12月16日)
       ●東長寺・東京都新宿区四谷四丁目34番地 (電話・03-3353-6874)
            曹洞宗。文禄3年(1594)、開創。平成19年(2007年)、千手堂建立。

   私たち夫婦は、無宗教なので、いわゆる菩提寺はありません。また、改まって自分たちを
  納骨する場所についてもこれまでは真剣に考えたことはありません。
   どこかに「散骨」して貰ってもいいけれども「山だったら櫻でも咲く気候のいいところが
  いいなぁ」とか「海だったら、万一の場合に泳ぎ着ける海岸に近いところがどうだろう?」
  などと冗談をいう位が、これまでのせいぜいの会話でした。

   啓史が亡くなって、「納骨」をどうするかが、取りあえずの課題になりました。当然のこ
  とながら、生前に啓史の遺志を確認したわけでもありませんので、単に私たちの気持ちだけ
  で彼の「終の棲家」を決めることには躊躇していました。

   私たちが住んでいるマンションの近くに「東長寺」という曹洞宗の寺があります。部屋の
  窓を開けると、お寺の堂屋の一部を見ることができるほどの近さです。この寺には、宗派に
  関係なく、また、古いしきたりや慣例にこだわることなく、地縁や血縁を超えて一人ひとり
  の人生観にたって選択することが出来る「個人のための墓」があります。言うならば、個々
  のお墓の集合体です。寺の正面にある「水の苑」(みずのにわ)が墓苑になっています。
   何年か前にNHKで紹介されたこともあり、新しい時代の葬り方として注目を集め、これ
  までに、生前の方々を含めて1万人以上の人たちの「墓苑」になっています。

   いろいろと考えた結果、啓史もこうした「墓苑」だったら納得してくれるだろうと判断し、
  ここに納めて貰うことにしました。ついでと言うことでもありませんが、私たち夫婦も死後
  は順次ここに納まることになり、12月16日に東長寺で3人分の「終の契り」を交わして
  きました。

   ここは無宗派の墓苑ですが、寺院ですので、契約者には存命者でも四文字の「戒名」をつ
  けることになっています。私たち3人は「俗名で結構です」と辞退したのですが、寺の担当
  者は「宗派は問いませんが、ここはお寺ですから戒名を授けることは最低限の行いです」と
  いうことでした。ただ、この寺の戒名は、依頼者が出す「カネ」の金額によって差別される
  という忌まわしさはなく、男女それぞれ一律だということであり、契約金額の中に全て含ま
  れているのだそうです。実にすっきりしています。その人に合った四文字と「信士」(男)、
  「信女」(女)の六文字になるようです。
   四文字の内、二文字だけは希望を聞いてくれるということなので、それぞれ「山敏」「山
  淑」「山啓」を入れて下さいと要望しました。文字の配列とか意味合いの是非とかがあると
  いうことなので、最終的に希望通りになるかどうか不明ですが、納骨の日までには決まるの
  だそうです。

   「契約書」には「会員番号」があり、山田敏行=11,564番、山田淑子=11,565
  番、山田啓史=11,566番になりました。要するに、3人並んで「千手堂」という墓苑
  に納まることになるということです。普通の墓所と同じように、お参りは自由にできるとい
  うことです。

   3人並んで納まることについて、「啓史はどう思うかなぁ〜」という懸念もありましたが、
  こればっかりは今更確認の仕様もないことですから、受け止めて貰うしかありません。
   「納骨の法要」は、来年2月早々に行うことにしています。




  ● 5千枚の名刺と1万枚の封筒の行方は 〜
 (12月20日)

   啓史は、入院中も絶えずブログを更新し、さまざまな本を読み、新宿区政の課題について
  関心を払っていました。私たち両親・弟妹は、彼の要請に応えて、依頼された本を購入した
  り、区役所の情報を集めたりして、彼に届けていました。病院からは、電話で自分の意思を
  伝えることが出来ないために、区役所の担当者には何度も「質問書」も提出していました。
  彼は、退院したら、やりたいことがいっぱいあったのです。
   退院後、すぐに活動できるようにということで、ちょうど手持ちが切れ掛かっていた「名
  刺」と「封筒」も新しいデザインで作製しました。
   名刺は5、000枚、封筒は10、000枚です。
   来年早々に配布する予定だった「区政報告チラシ」の原稿やレイアウトも出来ていて、い
  つでも印刷に出せる状態でした。

   しかし、新しく大量に作製した「名刺」も「封筒」も、本人は一枚も使うことはありませ
  んでした。名刺は、焼骨の際に、母親が「あの世で使うように〜」と言って100枚ほど棺
  の中に入れてあげました。
   また先日の「お別れの会」の際にお渡しした私からの「挨拶文」に500枚程添付して、
  皆さんにお配りしました。
   その後も参加できなかった方への「資料送付」の際に、同じように利用していますので、
  これまで、700枚以上使っています。これからも、100枚か200枚は使いそうですが、
  それでも4000枚前後は残ることになります。でも、心情的には簡単にゴミ扱いにするわ
  けにもいきません。

   一方の一万枚の封筒ですが、膨大な量なのでこちらは「廃棄物」として捨てるしかないと
  思っていました。しかし、これもなかなか捨て切れる物ではありません。
   こうした状況を見て、懇意にしている知人が再利用出来ないかと、心当たりのところを当
  たってくれました。秋田県内でボランティア活動をしている団体が、関係する施設の方々に
  小物などを送る際、手作りの小さな封筒を作っていることを聞き、啓史の封筒を見本で送っ
  て検討して貰った結果、ほとんど啓史の封筒だと分からない状態にして再利用してくれるこ
  とになりました。
   気になっていた啓史の封筒の行き先が決まり、しかも少しは役に立ちそうなので、本当に
  良かったと思っています。
   12月20日、知人は送料自己負担で1万枚もの封筒を秋田県まで送ってくれました。




  ● 皆さんからの「弔意」に対する対応
 (12月25日)

   11月25日に「お別れの会」を開いて貰いましたが、その後も連日、沢山の方々から様
   々な形で「弔意」をいただいています。「会」の際に資料が不足してお渡し出来なかった方
  へは、次の日にすぐにお送りしましたが、すぐに沢山増刷して、その後いただいた「弔意」
  に対しても毎日、御礼をかねて資料を送付しています。私たちのこれまでの日課のようなも
  のです。「お花」も切れることはありません。今も、最近皆さんからいただいたいっぱいの
  花たちが、啓史の遺骨や遺影を包み込むようにして咲いています。


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    啓史の「受戒会」と「納骨式」を行って貰いました。
       亡くなってからもうすぐ100カ日になります。

                
(2013年2月9日)

   午後2時半から四谷四丁目にある東長寺で啓史の「受戒会」と「納骨式」をやっていただ
  きました。出席した親族は、私たち両親と弟夫妻、妹、それに近所に住んでいる伯父夫妻と
  いとこの8人、それに大学や職場、NPOなどの友人代表が7人です。ごく限られた人です
  が、合わせて15人が参列しました。
   東長寺は道元が開いた曹洞宗の寺で、福井の永平寺と鶴見の総持寺が総本山です。

    今日のセレモニーに関しては、お寺と事前に話し合いをしました。そのひとつは戒名につ
  いてです。私たちは無宗教なので「本名」で結構ですと辞退したのですが、寺院に納骨する
  ことは仏教徒になることなので、仏教徒としての名前が必要であり、戒名の授与は必須のこ
  とだといわれたので、その通りにお願いしたという経緯がありました。

   今日、本堂で行われた「受戒」の儀式では、最初に僧侶から簡単な「受戒」についての説
  明を受けた後、お経が唱えられ、その読経の中を参会者全員で大きくて高い祭壇の上に置か
  れている啓史の霊前に向かって焼香しました。

   一連の儀式が終了した後、僧侶は啓史について、「直接会っていないけれども、これまで
  街なかでポスターなどをよく見る機会があった」「36歳の若さで落命したことは惜しみて
  も余りある」「政治の道を志半ばで終えざるを得なかった啓史さんの無念を思い、残された
  者たちがしっかりと彼の思いを引き継いで生きなければならない」といった趣旨の言葉があ
  りました。

   私たちは、お寺には啓史がどのような経歴を持ち、どのような仕事に携わっていたかとか、
  どういう状態で亡くなったかなどは全然話してはしていませんでしたが、僧侶は、私や啓史
  のことを知っていたようです。

   僧侶からの突然の「弔意」を私はとても嬉しい気持ち聞きました。心が締め付けられる感
  じでしたがとても清々しい思いに陥り、どっと涙が出るのを禁じ得ませんでした。

   私たち両親は、いずれ啓史と同じくこの寺に納骨して貰うことにしたので、今日、啓史と
  共に一緒に「生前戒名」を付けてもらいました。事前の打ち合わせの際に、戒名に入れる文
  字の希望を問われたので、本名が推定できるようにして欲しいということで「山啓」 「山敏」
  「山淑」を入れたものをお願いしていました。その際、寺の担当者の方は、「一字は入れら
  れるけれども二字はどうかなあ」とか「山の字は岳の字になる場合がある」とか話していま
  した。

   今日授けられた戒名は「真山啓道信士」(啓史)、「芳山淑心信女」(淑子)、「貞山敏政信
  士」(敏行)というものです。私たちの希望は幸い全部叶えられた戒名になりました。

   世間では、戒名は遺族が拠出するカネの額によってランクがあるといわれています。東長
  寺では全員が「信士」と「信女」に統一されていますので、すっきりしています。

   啓史が納骨された場所は、寺の地下一階にある「千手堂」というお堂です。地下二階にあ
  る別の堂屋(羅漢堂)とあわせるとこれまで1万人以上の方々から納骨の申し込みがあり、
    その数だけ位牌が並べられています。生存中の方々の位牌も随分沢山ありますが、亡くなっ
  た場合、位牌の裏側にそれぞれの遺骨の一部が納められることになっています。今日から私
  たち夫婦も啓史の位牌と共にここに仲間入りしました。

   全て終了した後、皆んなで新宿に移動し、伊勢丹前の「銀座アスター」で2時間余り会食
  し、啓史の話題を中心に懇談しました。


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      「納骨式」 前後の 私の 「行動日記」 から


  ● 2月8日(金曜日)●(納骨の前日) 

   明日はいよいよ啓史の「納骨式」。何かとても寂しい気持ちです。
   啓史が亡くなってから3か月が過ぎました。明日、午後2時半から四谷四丁目の東長寺の
  共同墓苑に「納骨」をします。私の「ピックアップ」に書きましたが、この寺は、無宗教の
  方々の納骨を受け入れて、将来にわたって寺とのさまざまなわずらわしい関係や金銭的なし
   がらみも全然ないので、啓史だけではなく私たち両親もいずれここに納骨して貰うことにし
  ました。

   今夜は啓史が自宅で過ごす最後の夜になるので、私たち両親と弟夫婦(耕史と千鶴)、妹
  (潤子)の家族5人でだけで「お別れの会」を行いました。夕食の直前に懇意にしているあ
  る方から「納骨」の前にもう一度行きたいと思っていたけれどもどうしても行くことが出来
  ないので、代わりにお線香をあげておいて欲しいという電話があったので、早速、啓史の霊
  前にそのことを告げて焼香しました。

   いよいよ明日、啓次の「遺骨」ともお別れになるのかと思うと、今夜は何となくとても寂
  しい気持ちでいっぱいです。


  ● 2月10日(日曜日)●(納骨の次の日)

   友人たちが献花してくれた特大の胡蝶蘭は、各枝に幾つかの花を残しました。

   昨日、啓史の納骨が終わったので寂しい思いをしながらもほっとしていますが、今日は、
  遺骨を置いていたリビングの一角を整理しました。
 
   「お別れの会」の際にNPOの仲間の皆さんからいただいた特大の胡蝶蘭は、啓史の遺骨
  を包み込むようにして咲いていましたが、二か月半たったいまでも各枝に幾つかの花を残し
   て、私たちの願いどおりに最後まで彼を見守ってくれました。

   大学院のゼミの仲間の皆さんや新宿区役所稲門会の先輩方、友人たちや地域の知人の方々
  が供えてくれたシクラメンや最近ご焼香に来てくれた方からいただいた幾つもの生花も、ま
   だ色とりどりに一杯咲いています。

   これらの花々は、遺骨は寺に納めたのでいなくなりましたが、啓史の写真の囲りに引き続
  き飾らせていただきました。今日、出かけていた妹の潤子が、もうすぐバレンタインデーな
   ので何種類かのチョコレートを買ってきて啓史の写真の前に置いていました。



   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


     啓史について書かれたある方のブログを発見。
                (2013年3月10日)

      啓史が亡くなったことについては、色々な方がホームページやブログなどでコメントしてい
     ただいています。私たちがそれら記述を確認しているのはごく僅かだと思います。
      時々、バソコンをいじっていると、全く知らなかった方が啓史のことについて述べているの
         に出会ったりします。その大半は大変に好意的なコメントです。それらと接すると、胸が熱く
     なり、言えようのない無念な思いがつのってきます。
      今日、後段で引用するようなブログを見つけました。簡潔な記述ですので紹介します。


    「6月26日、山田啓史君の当選を祝い励ます会に参加。オヤジの固い支持者を継承し順
  調なスタ−トがきれたと思う。単なる2世議員でなく優れた資質を有している。本人の努力に
  もよるがいずれ我が党のリ−ダ−になれる。10年後にはトップリ−ダ−にしたい」。

   これは元中野区議会議員で長い間、新社会党東京都本部委員長を務めた友人の江原栄昭さん
  のブログの一節です(11年6月26日の記載)。彼は啓史の将来に大変大きな期待を寄せて
   くれていました。この江原さんのブログは以前見たことがありますが、今日、これに呼応する
  形で書かれていたと思われる次のような記述を見つけました。

   「 〜 将来は江原栄昭氏が推すように山田啓史区議にリーダーとなって欲しい。ただ10
  年後では遅い。まだ議員になったばかりでも、将来の柱として育てないと党がもたない。新社
  会党のイメージを払拭する若さと器量を有して、弁も立つ。本当に期待している」。

   私たちの全く知らない方です。そうした方が、一年数ヶ月前、当選直後にもかかわらず啓史
  のことをこのように高く評価してくれていることには、率直にいって大変驚きました。

   暫くの間、花粉のうっとおしさも忘れてこの記述に見入っていました。じっと見入りながら、
  ごく短かい期間しか出来なかった啓史の各種の活動や死に至るまでの様々なことを思い浮かべ
  ていました。無念な思いがつのり、涙を禁じえませんでした。


   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


        最後に、改めて山田啓史の「プロフィール」を簡単にご紹介します。
            山 田 啓 史    36 年 の あ ゆ み


 ● 1976年5月・新宿区大京町で生まれる。

  父・山田敏行、母・淑子の長男として誕生。以来、幼・少年時代は父の活動する姿、母の働く
   姿を見てを過ごす。弟・耕史、妹・潤子の三人兄弟。大好きだった祖母(和気幸子)も同居し、
   今時珍しい賑やかな6人家族だった。

 ● 1976年9月・二葉南元保育園に入園。

  両親が共働きだったため、生後間もなく二葉南元保育園に入園。約6年間、古い歴史を誇る保
  育園で元気一杯に育つ。無類の話し好きでずっと「おしゃべり啓史」と言われた。あまりにも
   喋りすぎるので、口に絆創膏を張られたこともあった。

 ● 1983年4月・四谷第六小学校に入学。

  在学中、旧校舎・仮校舎・新校舎を経験。伸び伸びとした学校生活を送る。弟と共に各所でい
  たずらを繰り返し、仕事から帰った両親は、お詫び回りが日常的茶飯事になっていた。
  両親にいろいろなところに連れられて行った。三年生の時には弟と初めてヒロシマへ。

 ● 1988年7月・ピオネールキャンプ参加。

  ハバロフスクで開かれた伝統のあるキャンプで世界各地から集まった子どもたちと約一カ月間、
  一緒に過ごす。初めての外国は物珍しいことばかりだった。

 ● 1989年4月・四谷第二中学校に入学。

  よき友人や先生方に囲まれ、充実した3年間だった。この頃は大変な大食漢で「飲み込みが早
  い」と揶揄された。その後、残念ながら母校は廃校になる。

 ● 1992年4月・都立新宿高校に入学。

  伝統校らしからぬ自由すぎる校風の中で、校風以上に自由闊達な高校生活を過ごす。

 ● 1996年4月・早稲田大学に入学。

  教育学部・教育学科に在籍。在学中はライフセーバーなどの多くのライセンスを取り捲った。
  日赤では日常的に各種のボランティア活動に携わる。学生生活の中心は、大学よりもむしろ日
   赤活動のような状態だった。この頃から、福祉問題への関心を高める。

 ● 2000年4月・全国社会福祉協議会に就職。

  希望した働き先は、日赤か全国社会福祉協議会。どちらにするか大いに悩んだが、より多様な
   活動が出来る全国社会福祉協議会に決める。一年間、岡山県の重症心身症障がい児施設「旭川
  荘」に出向。得がたい貴重な体験を積む。その後、本部に戻って障がい者や児童福祉関係の全
  国組織と関わり、高齢者・障がい者・子育て関係の制度設計・政策立案に取り組んだ。

 ● 2008年8月・NPO法人を設立

  仲間とNPO法人を設立して共同代表に就任。同世代の多くの有能な友人たちと交わる。

 ● 2010年4月・早稲田大学大学院に入学。

  守口  剛教授が指導するゼミに所属。マーケテングマネージメントを専攻(MBA)。9人の
   多士済々なゼミのメンバーから大きな影響を受ける。

 ● 2010年5月・新宿区議選へ立候補決意。

   約一年後に迫った新宿区議選への立候補を決意する。以後、仕事と学業のかたわら、土曜・日
  曜日の全ての時間を投じて精力的に選挙準備を進める。

 ● 2011年4月・新宿区議会議員に初当選。

  学校時代の仲間やNPO・職場などの友人が連日、応援に駆けつけ、地域の支持者と新社会党
  が盤石に支えた闘いで初陣を飾ることができた。何とも楽しい選挙だった。
  早速、6月の初議会で代表質問に立ち、議会デビュー。以後、毎回の定例会で質問に立った。
  社会新宿区議会議員団に所属。

 ● 2012年3月・早稲田大学大学院(MBA)を卒業。

  各分野で次世代を担う可能性を有した9人と過ごした2年間の学究生活を終えた。触発される
  ことの多い実に有意義な時間だった。

 ● 2012年6月・最後の代表質問。

  6月9日の本会議で代表質問。19日まで定例会に参加。この間、高熱のために病院で検査を
  受け、議会終了後の20日に東京都済生会中央病院に入院。
  精密検査の結果、ようやく分かった病名は「血球貪食症候群」。免疫過剰の難病。骨髄移植か
  臍帯血移植をすることになり、以後、事前治療に入る。

 ● 2012年10月・臍帯血移植。

  10月4日、臍帯血移植を行う。6日から亡くなるまでICU(集中治療室)で治療。 

  ● 2012年11月5日 午前10時23分。

  11月5日午前10時23分、家族に見守られながら亡くなった。
  享年36歳、惜しみても惜しみ切れない夭折だった。
  臍帯血移植は成功だったが、事前治療による身体へのダメージ(副作用)が死因になった。





         (山田啓史の逝去に関する記述は、以上で終わりです)

      (今後、追記するようなことがあった場合には、冒頭に掲載します)



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       花に嵐のたとえもあるぞ
             さよならだけが人生だ 


                         晩唐の詩人・于武陵の「勧酒」(酒を勧む)より。

               勧君金屈巵・・・君に勧む金屈巵
               満酌不須辞・・・満酌辞するを須いず
               花發多風雨・・・花發けば風雨多く
               人生足別離・・・人生は別離に足る

              この杯を受けてくれ 
              どうぞ なみなみ 注がしておくれ
              花に嵐のたとえもあるぞ 
              さよならだけが人生だ    (井伏鱒二・訳詩)



       さよならだけが 人生ならば
             人生なんか いりません 


                                (名訳の誉れ高い上記の井伏鱒二の訳詩に接し、寺山修司が詠った作品)

          さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
          はるかな はるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう
          さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう

          やさしい やさしい夕焼けと ふたりの愛は何だろう
          さよならだけが人生ならば 建てた我が家はなんだろう
          さみしい さみしい平原に ともす灯
(あかり)は何だろう

          さよならだけが 人生ならば
          人生なんか いりません。




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      高田馬場流鏑馬が公開されます。
         新宿区の「無形民族文化財」

  高田馬場流鏑馬は、享保13年(1728)、八代将徳川吉宗が世継ぎの疱瘡(ほうそう)の
 平癒祈願のために奉納したことが始まりとされています。
  毎年一回、この時期に早稲田大学文学部近くの都立戸山公園で開催される神事です。
  詳細は以下の通りです。

    ●日 時・2012年10月8日(月・祝)14時から15時半
         (雨天の場合は馬場の状況で中止の場合がある)。
    ●会 場・都立戸山公園箱根山地区(早稲田大学文学部西側)
    ●主 催・「高田馬場流鏑馬保存会。
    ●その他・料金は無料(立見席のみ)。申し込みは不要。

                                            (2012年10月1日・記入)

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  「平成の大合併」、揺り戻しの動き。

  先日、クラス会を開いた時に生まれ育った市浦村が五所川原市と合併したことが話題になりま
 した。「何一ついいことはない」という嘆きと共に、どうせなら元の市浦村に戻ればいいという
 ことも話題になりました。一時的な流行病のように大半の自治体が合併に走りましたが、その後
 の状況はどこも似たようなもので、反省の声が多く聞かれます。
  以下に紹介するのは、ごく最近の熊本県での動きです。

  「平成の大合併」をした旧町が再び分離独立しようとする動きが熊本県菊池市で起きている。
 2005年に当時の菊池市と合併した3町村のうち、旧泗水(しすい)町の住民グループが9月
 20日、分離の要望書と住民の半数を超える署名を福村三男市長と市議会議長らに出した。  
  グループは「泗水をよくする会」(松岡一俊会長)。泗水町側が進め、合併協議会で合意した
 はずの市庁舎建設を白紙にしたことなどに反発。今年2月から集めた署名は6873人分で泗水
 地区(旧泗水町)の有権者の約57%に及んだ。意見書では、価値観などで受け入れがたい相違
 点があるとしており、泗水地区を分離し、独立させる議案を12月定例市議会に出し、可決する
 よう求めた。松岡会長は「努力もせずに白紙とした自治体は今後も信用できない」と話す。
  地方自治法では、旧町が分離独立するには市議会と県議会の議決がいる。総務省によると、平
 成の大合併でできた自治体から分離した例はないという。

                                                  (2012年9月25日・記入)

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      日食グラスをアフリカに届けよう。
             宮崎の「たちばな天文台」で募集、100万個が目標。

  今年5月の金環日食は、多くの人の感動を呼びましたが、この時使った「日食グラス」をアフ
 リカの子どもたちへ届けようという呼びかけが行われています。
  呼びかけ主は、宮崎県都城市の「たちばな天文台」です。
 
 中央アフリカのウガンダやケニアなど7か国で金環日食が観測できる来年11月3日(現地時
 間)に間に合わせて送ろうという取り組みです。掲げた目標は100万個。「日本中に広がった
 感動を今度はアフリカで」と願いを込めています。

  日食グラスの回収を発案したのは、同天文台台長を務める蓑部樹生(たつお)さん。知人の国際
 協力機構(JICA)職員から、中央アフリカでは前回の2010年1月15日の観測時、裸眼
 で太陽を眺めて目を傷めた人が多かったという話を聞いて決断したそうです。

  今年5月21日の金環日食と、6月6日の金星の太陽面通過に合わせ、日本国内で販売された
 日食グラスは推定で約3000万個。しかし、蓑部さんによると、国内で次に日食グラスを使っ
 た観測が期待できるのは16年3月9日の部分日食で、3年半も先になります。
  蓑部さんは「アフリカには内戦が続いている国もある。天体ショーを見ることで人々が平和な
 心を抱くきっかけになれば」と話しています。

  7月から同天文台など5か所に回収箱を置き、全国約200の天文台や個人が加盟する日本公
 開天文台協会にも協力を呼びかけています。私も、早速、机の引き出しの片隅に眠っていた日食
 グラスをたちばな天文台に郵送しました。

  たちばな天文台は、全国の博物館やプラネタリウムを備えた施設にも協力を要請し、来年3月
 まで回収を続ける予定です。その後、JICAや日本赤十字社に依頼し、現地に届ける計画です。
  郵送する場合の宛先は下記の通りです。

    〒889-4505 宮崎県都城市高崎町大牟田1461の22(電話・0986-62-4936)
            た ち ば な 天 文 台 
                  


                                                (2012年9月15日・記入)

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       2012年6月23日・糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた
         沖縄全戦没者追悼式において、
    金城美奈さん(首里高校3年)が読み上げた自作の詩
        
           げっとう
          月桃の花が白くきらめく頃・・・
           いしじ
          「礎に思いを重ねて」

      月桃(げっとう)の花が白くきらめく頃
      私はあの手紙と出逢った
      それは祖父の兄が家族に宛てた
      一通の手紙
      彼の人生で家族に送った 
      最後の手紙

      第三中学校から届いたその手紙には
      戦争のことは
      何一つ書かれていなくて
      勉学に励み
      家族を思いやる
      真っすぐな青年の心が記されていた

      黒い影とは対照的に 
      その手紙は温かく
      誠実さで溢れていて
      白い光で包まれているようだった

      この手紙と出会った後
      私は初めて彼の礎の前に立った

      礎に刻まれた
      その名前
      ぎらぎらと太陽に照りつけられた
      その名前
      指でなぞると一文字一文字が
      焼けるように熱くて
      あなたの思いの強さが伝わってくる
      私のこころに伝わってくる

      礎に刻まれた
      あなたの名前は
      とても小さくて
      とても窮屈そうで
      この文字では表せないほどの人生が
      あなたにはあった
      この文字では抱えきれないほどの未来が
      あなたには待っていた

      でも何もかもを奪われてしまった

      あなたが過ごしたあの島は
      地図に書かれたあの島は
      沖縄から遠くて離れていて
      広大な海に囲まれている

      あの遠い島から
      あの広い海から
      あなたはまだ戻らない
      あなたはまだ戻れない

      あの日から時は止まったまま 
      針は動かぬまま

      あなたと同じくらいの歳を迎えた今
      私は考えている
      戦争について
      平和について
      でも
      あなたと同じくらいの歳を迎えても
      私は考えられない

      遠い島で過ごすことを
      家族と離れて暮らすことを
      私は考えるのが怖い
      だけど
      辛い現実と向き合った
      あなたがいるから
      私は今安心して一日を迎えられる
      明日が来るのを待つことができる

      今年も時を刻む
      六月二十三日
      正午に手を合わせる私の肌を
      柔らかな風が
      そっと包み込み
      確かな思いが溢れ出す

      あの過ちを
      二度と起こしてはならない
      あの苦しみを
      二度と蘇らせてはならない

      人々の心に
      色をそえることができるなら
      暗く沈んだ色ではなくて
      明るく澄んだ色で彩りたい

      人々の未来に
      橋を架けることができるなら
      先の見えない不安定なものではなくて
      力強く進める丈夫なもので繋げたい

      そして
      人々の世界を
      一つの言葉で表すことができるなら
      戦争ではなくて
      平和であると断言したい

      六十七年前を生きた人々の後ろに
      私たちは続いている
      私たちにできることは
      あの日を二度と呼び戻さないこと
      私たちに必要なことは
      あの日を受け止めて語り継ぐこと

      礎に刻まれた人々の
      届けたかった思い
      叶えたかった願い

      私たちが届けよう
      私たちが叶えよう

      礎に思いを重ねて


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  津軽の学校で、修学旅行費用捻出のために
   しじみ貝を売ったりブタを飼ったりした話など。

  ほぼ一年ぶりに津軽の小中学校の同級生たちと新宿で会いました。毎年一回、東京近辺にいる
 人たちだけで今の時期にちょっとしたクラス会を開いていますが、その集まりです。
  これまではいつも日曜日に開いてきましたが、私を含めて大半は現役を引退したので、初めて
 ウィークディの開催になりました。今日は集まったのは6人。一人は用事があったために途中で
 帰りましたが、残った5人で適当に飲みながらも積もる話を延々としました。
 
  小中学校時代に修学旅行の費用を捻出するため、同級生が皆んで一緒になり、いろいろな「仕
 事」をしたことも話題になりました。私たちはとにかくさまざまなことをしたものでした。大和
 しじみで有名な十三湖でしじみ貝を取り、リヤカーに積んで村中を売って歩いたり、建築資材の
 「玉砂利」を学校の近くの海岸から集めて道路際に集積し、資材業者に売ったり、植林の苗木を
 育てている畑で、炎天下、草取りをしたりもしました。それらがどれくらいの「利益」になった
 のか、今は全然覚えていませんが、皆んで修学旅行にいこうということでよく働きました。
 
  また私たちの地域が大暴風に見舞われた際に、学校近くの川が海岸べりでせき止められ、その
 付近一帯が冠水したことがありましたが、嵐がやんだ後、クラスの皆んで(スコップか何かを持
 って)出かけて行って川口をふさいでいた障害物を除去して流水させ、地元の新聞に結構大きく
 報道されたこともありました。(ただ、これは「資金稼ぎ」ではなかったと思いますが〜)。
 
  学校で子豚を飼ってクラス全員で育て、大きくなってから売ったこともありました。ブタを飼
 うというとんでもない発想はどこから出たのか良く分かりません。恐らく誰かが冗談めかして提
 案したものだと思います。何とも奇抜な発想だと思いますが、やってみようということになり、
 クラスの皆んながかわるがわる当番をつとめて飼育に当たりました。数ヵ月後、大きくなって、
 業者のトラックに積まれて売られる時には、皆んなで泣いたものでした。それにしても学校の一
 角がブタの飼育場所になり、私たち子どもばかりでなく住民も一緒になって、毎日、ブタの餌を
 大きな鍋で煮炊きしていても、当時の先生たちは、全くおおらかにそれを容認していたのでした。
 何ともいい学校であり、素晴らしい先生、本当の教師ばかりでした。いまの東京や大阪の教育委
 員会の実態から見ると、まさに「別世界」の出来事です。
 
  皆んで稼いだそのカネで、当時の私たちには大都会に見えた「遥かなる青森市」や「一大保養
 地の浅虫温泉」まで全員で「修学旅行」に行きました。さぞ楽しかったのだと思いますが、私に
 はその時の記憶は全くと言っていいほどありません。鮮明に残っているのは、学校の授業そっち
 のけで行ったいろいろな「資金稼ぎ」の記憶だけです。
 
  今日の新聞に「優秀な子どもは、高校を一年早く卒業して大学に進める制度を作る」というこ
 とが報じられていました。しかし、それが一体何だ、と言うのでしょうか。
  こんなのに限って「優秀な官僚」になり、一般市民の気持ちとは全く相容れない「官僚政治」
 の立派な担い手になるのです。一年早く高校を卒業したなら、余りの一年は私たちのようにブタ
 の飼育にでも携わり、経済的に厳しい子どもたちの支援でもしたほうが、人格形成には遥かに役
 立つし、その子にとってもいい人生を歩む大きな動機になるとと私には思われます。
 
  今日のクラス会のもう一つの話題。去年、原発事故が起こるまで南相馬市(旧小高町)に住ん
 でいて幸せな生活を送っていた同級生の一人が今日の集まりに参加しました。彼は家族と共に、
 あの事故以来、町田市の子ども夫婦のところで避難生活を送っています。今日も一緒に酒を飲み
 ながら、「恐らく小高には帰れないだろう」と嘆いていました。「帰りたいけれども、帰りたく
 はない」とも言っていました。「原発は人間と共存できない」というこの事実を、再稼動を目論
 む推進論者たちにたたきつけてやりたい気持ちがします。
 
  今年、私たちの多くは古希を迎えます。5年前に青森県の五能線沿線の小さな温泉地で久しぶ
 りにクラス会を開きましたが、今年も区切りの年代なので是非、クラス会を開こうではないか、
 ということになり、津軽に残っている同級生と連絡を取り合いました。津軽の人たちが何人かで
 計画を練ることになる筈です。出来れば今年の9月の終わりか10月の初めくらいには、是非、
 皆さんにお会いしたいものだ思っています。

                              (2012年6月6日・記入)

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    私は、今期限り(来年4月末)で引退します。
              
(2011年1月1日)

  私は、今期限り(今年4月末)で引退します。ずっと以前から考え、決意していたことです。
  仲間の皆さんには、三年半前に行われた前回の新宿区議選の直後に「どういう事情があっても
 引退する」と伝えてあります。「後継者が決まらないから、もう一度だけ」ということのないよ
 うにするためです。私の決意に基づいて、三年余りにわたって私たちは後継者の選考をしてきま
 した。何人かの名前が挙がり、絞りきるのに随分苦労しましたが、最終的には、今年5月に開か
 れた新社会党新宿総支部定期大会で山田啓史を後継者として擁立することを正式に決定しました。

  後継者には、皆さんのご支援を得て議席を確保し、新宿区政の発展と区民の幸せのために、私
 以上の活動をしてほしいと思っています。
  私も後継者の活動を支援し、当選を目指して全力をあげて頑張る決意です。



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     12月9日の「漱石忌」に講演会を開催します。
  講師は漱石の孫の半藤末利子さん。申し込みを受付中。

  今年の12月9日午後1時半から、新宿区議会大会議室で「漱石山房の復元を進める新宿区議
 会議員の会」の主催で講演会を開きます。この会は、昨年秋に私が結成の呼びかけをしたもので
 すが、幸い38人全員の区議会議員が参加してくれています。
 
  講演会の講師は漱石の孫に当たる半藤末利子さん(エッセイスト)です。漱石の長女・筆子さ
 んの長女に当たる方です。電話でお願いしたら、快く引き受けてたので、ほっとしました。講演
 の演題は「漱石ゆかりの事など」(仮題)。半藤末利子さんは、最近、文芸春秋から『漱石の長
 襦袢』という本を出版しましたが、著者のサイン会も予定しています。
 
  講演会には、先着50人ぐらいの区民の皆さんを招待します。応募方法などの詳細は11月1
 5日号の『広報・しんじゅく』に掲載されていますが、申し込みは、区議会調査管理係へ電話で
 申し込み下さい。締め切りは12月4日。電話番号は5273−3534です。
 
  講演会を開催する開催する12月9日は漱石の命日(漱石忌)に当たります。講演会の後は、
 希望者で漱石が眠る雑司が谷霊園への墓参を行い、その後、交流会も企画しています。有意義な
 集まりにしたいと思っています。

                             (2011年11月15日・記入)

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     初心者の活動家を対象にした『まなぶ』という雑誌の編集者から、 
     「予算の実態とバラマキの問題点」といった趣旨の原稿を頼まれました。
     僅か1600字のスペースなので、何を削るか迷いましたが、
     雑誌の性格を考慮しながら、次のような小文を書いて送付しました
     『まなぶ』(10月号)の「時の動き」欄に掲載されます。



    母子加算より「アニメの殿堂」を優先
    バラマキ財政、ここに極まれり。

 
                    新宿区議会議員  山  田  敏 行

  日本の今年度予算は、本予算と相次ぐ4回の補正予算を合わせると102兆円の規模に膨れ上
 がりました。100兆円の大台に乗ったのは史上初めてですが、その財源の太宗を占めるのは公
 債、すなわち借金です。
  世界的な金融危機・景気後退に対して、先進各国は積極的な財政対策を講じております。日本
 も同様の危機意識から様々な施策を行って、こんなにも膨れ上がった予算になっています。
   しかし、未曾有の事態だからと言っても、目的や理念を喪失した無原則な「財政出動」は許さ
 れません。
  国の財政政策は、「財政規律」に則り、長期的視野にたって構築されるべきものです。「財政
 規律」とは、歳入と歳出が将来的にもそれなりにバランスが取れ、借金があったとしても世代間
 の負担の程度に極端な片寄りを生じさせないという財政上の考え方です。
  しかし、麻生政権下での財政運営をみていると、肝心な「財政規律」はどこかに吹っ飛んでし
 まった感があります。

 ■ 
財政状態はとっくに「倒産国家・日本」

  いま日本の国と自治体の債務残高は約800兆円です。国の予算の実に10年分にも当たりま
 す。国民一人当たりでは約600万円の借金を背負い込んでいることになります。
  この債務残高を国内総生産(GDP)と比較すると170%にもなります。どこの国でも適度
 な借金を抱えた財政運営を行っておりますが、その比率は、図表でも分かるように大体GDP比
 で50〜70%前後ですから、日本の借金が先進国の中でも突出していることは一目瞭然です。
  では何故、日本の財政はこんなに最悪の状態になってしまったのでしょうか。
 
 ■
 野放図な「公共事業」が財政破綻の原因。  

 財政破綻の最大の原因は「公共事業」に対する湯 水のような投資です。あっちにもこっちにも
 地方空港が建設されました。いま大半は赤字です。「車が通るよりも熊の方が多い」と揶揄され
 た道路も作られました。ダム建設もいまだに水利の必要性が見直されることもなく進められてい
 ます。
  こうした「公共事業」によって、大企業は莫大な利益を上げましたが、そのツケは未曾有の借
 金になって私たちに襲いかかっているのです。
  最近の例では、財政政策上は「希代の愚策」と言われた定額給付金の2兆数千億円が批判の標
 的になりました。また一旦凍結された道路建設の大半が、役人や道路族議員、大企業などの後押
 しによってまたぞろ復活し、高級役人の天下り先確保の匂いがプンプンする「ハコモノ行政」も
 依然としてはこびっています。
  日本をこんな借金大国にしながら、これまで誰一人として財政運営の責任を取った政治家はい
 ません。無原則にカネをばらまいて「後は野となれ山となれ」の財政野放図政治の連鎖には驚か
 されます。無責任政治の極みだと言わざるを得ません。

 ■
 財源を確保し、優先順位の厳格な執行を

  新しく発足したオバマ大統領は、富裕層への増税と庶民減税、医療保険の改善を目指していま
 す。ひとつの見識だと思います。
  財源は有限です。従って財政運営は、きちんと歳入を確保し、歳出は厳格な優先順位に基づい
 て実施されなければなりません。
  まず歳入面はどうでしょう。税負担の大原則は能応主義ですが、日本はここ数年、毎年のよう
 に高額所得者や超大企業に手厚い減税を行ってきました。逆に低所得者の税負担は強化されるば
 かりです。後期高齢者医療制度に象徴されるように、高齢者の負担も年々苛酷な程に強まってい
 ます。消費税率引き上げの動きも顕著ですが、応能主義の原則に基づいた抜本的な「税制改革」
 が不可欠です。
  一方、歳出面では、施策の優先順位の限りない厳格化が必要です。
  総額200億円の母子加算が廃止になりました。この額は定額給付金の僅かに100分の1で
 す。全く緊急性のない「アニメの殿堂」には117億円が措置されました。しかも補正予算でで
 す。本末転倒です。「なぜ命 の糧の母子加算を削るのか!」と叫びたい気持ちです。
  民主党は、選挙前に子ども手当や高校授業料無償化などの施策を打ち出しました。国民の目線
 に立った政策だと思いますが、四年後に消費税率をどうするかは不明です。また、最も肝心な軍
 事費の削減については何ら言及していません。不要不急の「公共事業」や軍事費など削減すべき
 予算にも大ナタを振るわないと、将来、大規模な消費税率の引き上げが私たちを直撃することに
 もなりかねません。これからも充分な監視が必要です。
                             
  (2011年8月1日・記入)
  
     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

         今日、太宰治 生誕100周年。 
     郷里の金木でマント姿の銅像除幕式。

   今も全国各地に多くのファンを持つ太宰治は、1909年6月19日に青森県金木町に生まれ
 ました。今日は生誕100周年に当たります。太宰は1948年6月13日、三鷹駅近くを流れ
 る玉川上水に身を投じ、奇しくも誕生日と同じ6月19日にその遺体が発見されています。

   ふるさとの金木町(五所川原市)では、生誕100周年を記念し、桜の名所として名高い芦野
 公園にマント姿で散歩する太宰の銅像を設置し、今日除幕式を行いました。35歳ごろの太宰治
 だということです。製作者は文化勲章受章者の彫刻家・中村晋也さんです。写真で作品を見まし
 たが、太宰治の雰囲気が彷彿とにじみ出たすばらしい作品です。今度、芦野公園に行ったら、是
 非、銅像の太宰治に会いたいと思っています。

   太宰誕生の地の金木町は、私が生まれた市浦村と共に五所川原市と合併しました。従って今は、
 太宰に関する催しの主催者は、太宰とは直接的に関係のない五所川原市ということになります。
 太宰が生きていたら、さぞ味気ない思いを持つのではないかと思いました。

  この銅像の製作に当たっては、市は全国から建立費用の協賛金を募っていましたが、私もその
 一助に思って「定額給付金」を寄付しました。「定額給付金」については、私は大反対だったの
 で、受け取りたくないという気持ちが強かったのですが、不受理ならまた「麻生の愚策」に悪用
 されるだけなので、どうせなら受け取って、少しは意味のある活動や事業の寄付しようというこ
 とで太宰の銅像建立に寄付したものです。 


   ※(私の好きな太宰治の作品・『津軽』の最終章より)

       「  〜 まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、
     以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかった。読者をだまし
     はしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、
     失敬」 (『津軽』より)
                              (2009年6月19日・記入)



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   優先的な施策は、オリンピック招致?  石原銀行支援?
   まず、「雇用確保」や「失業者救援」でしょう!

   私の知人の中にも、突然の解雇や派遣切りに合い、必死の思いで職探しに奔走している人が増
 えています。トヨタ自動車に象徴される超大手企業は、目の玉が飛び出る程の何兆円もの「内部
 留保」があるにも関わらず、それには全く手をつけずに、真面目に働く人たちを切り捨て、社宅
 や寮を追い出しています。

  こうした中で、いま自治体が果たすべき最大の任務は、厳しい労働情勢を受け止めて、「雇用
 確保」や「失業者の救援」を行うことです。新宿区では、今年度予算で約1万5千日分の臨時的
 な雇用確保を実施しますが、まだまだ不充分です。

  東京都はどうでしょうか。オリンピック招致や新銀行東京(石原銀行)支援には殊のほか熱心
 ですが、13兆円というカナダに匹敵するほど莫大な予算規模を持つ自治体にしては、いま最も
 期待されている肝心の「労働政策」は全く貧弱です。

  一方、驚くべき事ですが、都のオリンピック対策の積立金は4千億円、IOCへ提出する予算
 規模は、当初の2億8千万円から7億5千万円に跳ね上がっています。これらは全部私たちの税
 金ですが、全くのドンブリ勘定です。あたかもオリンピックなら何でも許されるという雰囲気で
 す。
  新宿区も3月末に相次いで2回、「オリンピック招致の雰囲気の盛り上げ」と称するイベント
 を行いました。吉本興業のタレントや金メダリストなどに支払った費用は何と約2千万円です。
 オリンピック開催を期待している人は沢山いるかも知れませんが、税金を湯水のように無駄づか
 いすることは許されません。私はこのイベントには反対しました。

  また、石原知事は新銀行東京にご執心ですが、全く存在価値のない銀行に1千4百億円の投資
 や4百億円の追加融資をすること自体、無意味なことです。

  いま、都民・区民が最も望んでいることは、オリンピック招致や石原銀行支援ではなく「雇用
 確保」や「雇用創出」、「失業者の救済」です。私は、そうした立場で今後も発言を続けていき
 ます。
                                (2009年4月1日・記入)


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    新宿区で約2千万円を使い、誘致イベント。
     私は税金の無駄遣いは止めろと主張しています。

  東京都の石原知事は2016年に東京へオリンピックを誘致することに執念を燃やしています
 が、このような動きを受けて、新宿区でも区長が先頭になって誘致のための雰囲気作りを行うた
 めの「実行委員会」を作り、3月に相次いで2つのイベントを行うことになりました。
 
  第一弾は、3月15日(日)に区立コズミックセンターで行う「新宿オリンピック・フェスタ
 2009」です。ここにはかつてのオリンピックのメダリストも呼ぶのだそうです。これに要す
 る費用の予定額は約1000万円です。メダリストを呼ぶための費用やスタッフ費用や吉本興業
 のタレントに対して支払う費用などです。全く税金の無駄遣いそのものです。

  第二弾は、3月28日(土)に新宿駅東口と歌舞伎町スネシティ広場で行う「新宿発オリンピ
 ック・パラリンピックを楽しもう!」というイベントです。これにかかる費用も1000万円弱
 です。トークショーやクイズ・ゲーム、体操、スタンプラリーなどを行うのだそうです。これが
 税金の無駄遣いの第二弾です。

  この二つのイベントに要する費用は約2千万円近くにもなりますが、基本的にはイベント費用
 の全ては東京都が負担することになっています。新宿区のカネではありませんが、都民・区民が
 支払った税金、すなわち、私たちが支払った税金であることには変わりはありません。都はこの
 ようなカネをばらまいて、23区や三多摩の市町村に「雰囲気を盛り上げるため」のイベントを
 やらせているのです。東京都は、今年度葉もちろんですが、来年度もやって欲しいようです。 
  景気が後退し、クピを切られて必死になって仕事を探している人がいっぱいいるというのに、 
 何でオリンピックだ、オリンピックだとはしゃいで、こんなイベントに税金を浪費しなければな
 らないのか、何で新宿区長が「石原の趣味」のようなこの事業に対して、そのお先棒を担がなけ
 ればならないのか、私は全く納得がいきません。

  オリンピック誘致のために、東京都は4千億円もの基金を積み上げています。もちろん私たち
 が支払った税金です。私は、新宿区の二つのイベントのカネは東京都から回ってくるとは言え、
 こんなもののために私たちの税金を使うのは大反対です。
(2009年2月12日・記入)


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   12月9日、漱石の命日に山房復元議員の会の結成総会。

  10月8日、「漱石山房の復元を進める新宿区議会議員の会」の結成に向けて各派代表の世話
 人会を開きました。この会には38人の区議会議員全員が参加の意思を表明しています。
 
  この日は規約の案文を検討し、改めて役員の陣容を確認しました。会長は熊谷澄子、副会長は
 下村治生、事務局長は山田敏行、世話人は久保合介、近藤なつ子、那須雅之、根本二郎の予定で
 す。合計7人で運営に当たります。また、これまで懸案になっていた発足総会は、漱石の命日に
 当たる12月9日(火)午後2時から区役所内の会議室で開催することにしました。当日の結成
 総会は、漱石の命日にちなみ、サブタイトルとして「区議会議員の漱石忌」と銘打つことも内定
 しました。

  どなたかの講師にお願いをして漱石関連の講演会を開くと共に、漱石の作品について語っても
 らう中山区長の挨拶もお願いすることにしています。当日終了後は、雑司が谷霊園にある漱石の
 墓に「墓参」し、その後、歌舞伎町かどこかの居酒屋で「漱石談議」を交わしてはどうかという
 提案も出ました。これからその方向で検討することにしています。
  全員の区議会議員の皆さんを対象にして「私の好きな漱石の作品」というのアンケート調査も
 行い、発足総会の場で報告することも考えています。アンケートの案文などについては私が案文
 を考えることにしています。楽しい催しになりそうです。 (2008年10月10日・記入)


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    西洋美術館で念願の「コロー展」を鑑賞。

  8月29日に前々から行こうと思っていた国立西洋美術館で開催中の「カミーユ・コロー展」
 を見に行ってきました。6月中旬から開かれている展示会ですが、なかなか行く機会がなく延び
 延びになっていました。今月末で終了ですので残り少なくなりましたが、今日は夜8時まで開館
 なので6時半頃から終了間際まで充分に鑑賞してきました。
 
  夜の時間帯なので空いている事を期待していましたが、最終日に近いこともあり、随分混んで
 いました。それでも昼の混みようとは大分違っていてそれなりにゆとりがあります。
  「コローのモナリザ」と言われ、ループル美術館でも人気のある作品の一つで代表作の「真珠
 の女」や風景画の傑作「モルトフォンテーヌの想い出」、それに高い評価を受けている「青い服
 の婦人」などをゆっくり見ることが出来ました。
  私は、これらの作品は何れも以前に見たことがあります。しかし、名画があっちにもこっちに
 も山のようにあるルーブル美術館で見るのとは違って、集中して見れるだけに絵から受ける印象
 も全然異なります。世界の人たちから評価され、愛されて続けている作品は、私のような素人が
 見ても、やはり、離れがたいすばらしさを感じます。
(2008年8月29日・記入)
 
             カミーユ・コロー《真珠の女》
              カミーユ・コロー 《真珠の女》


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   全ての区議会議員に呼びかけました。

      区が生んだ大文豪の「漱石山房」を復元しよう!

    夏目漱石の終焉の地である「漱石山房」を復元させようとする機運が高まっています。
   嬉しいことです。私は、区議会議員になった直後から、このことを主張してきましたが、
   今、何かすべきことはないかと考え、次のような一文を作り、各区議会議員に提案しまし
   た。ご参考までに掲載します。




          ご  検 討  の  お  願  い
           
「 漱 石 山 房 」 の 復 元 に 関 連 し て  

   近代日本文学界を代表する文豪の夏目漱石は、ご存じの通り、喜久井町で生まれ、最後にはま
 た、わが新宿に帰って早稲田南町でその偉大な生涯を閉じました。
   私たちは、このことを新宿区民の一人として大変誇りに思っています。
 
   漱石が多くの代表作を発表した終焉の地の「漱石山房」は、現在、区立漱石公園になっていま
 すが、ここにかつての「漱石山房」を復元させようという機運は、年と共に次第に高まってきて
 います。
   新宿区が漱石の研究者などと手を携え、さまざまな叡知を結集して完成にこぎつけた漱石公園
 のリニューアルも、「漱石山房」の復元へ向けての大変大きな第一歩だと思います。
 
   全国の漱石ファンは、多くの文士が集い、当時の文壇の中心的な存在であった「漱石山房」が、
 かつての姿で蘇ることを期待し、待ち望んでいますが、私たち新宿区議会議員も、漱石を生んだ
 自治体の議員として、「漱石山房」の復元に向けて、なにがしかの推進役を担ってはどうかと思
 います。

   そこで、(仮称)「漱石山房の復元を進める新宿区議会議員の会」の創設を提唱します。このよ
 うな「会」を創り、できる範囲で有効な活動を行い、「漱石山房」の復元に向けてその機運を高
 める一翼を担うことは、漱石の地元自治体の区議会議員として、大いに意義のあることだと考え
 ます。
   「会」の組織や運営方法については、現在、全く白紙ですが、任意の組織ですので、当たり前
 のことですが、参加するかしないかは議員個人の自由です。ただ、全国の人たちが注視している
 「漱石山房」の復元を願い、その実現に向けて取り組む地元の議員の集まりですので、できれば
 全議員の参加が理想的だと思っています。それが不可能な場合には、とりあえず、賛同する議員
 だけで「会」を発足させ、その後、順次、ご参加をお願いするということになるのではないかと
 思います。

   どのような組織にするか、どのような活動をするかなどは、これからみんなで相談して決める
 ことです。例えば、世話人のような方が何人かで「素案」のようなものをつくり、ある程度、煮
 詰まったところで発足総会を開いて確認するということではいかがと思っています。
   世話人は、各会派から一人出してもらうということも考えられます。

   ● いずれにしても、以上のようなことを考えていますので、是非、ご検討のうえ、7月
    上旬ぐらいまでにご意向をお聞かせいただければと思ってます。

              ( 2008 年 6 月 20 日 )   提案者・ 山 田 敏 行



  【 追記 】


   全区議会議員に対する私の上記のような「呼びかけ」に対して、38人全員
  が賛同の意を示してくれました。今後、具体的なことについては各会派選出の
  「世話人」で検討する予定です。
(7月15日)


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             若葉一丁目の居住、新宿区名誉区民の第一号 
       文化勲章受章者・冨永直樹さんの作品。

   新宿区名誉区民で文化勲章受賞者・富永直樹さんの作品です。生前、富永さんから新宿区に寄
 贈されたもので、「麗しき一日」という美しい作品です。(新宿区役所一階ロビーに展示)

         


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      (古い情報は、順次、消去しています。このコーナーは以上です)