やまだ としゆき プロフィール ☆ 私の歩んできたささやかな歴史です ☆  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (2013年1月1日・更新) ● 1942年7月 − 青森県津軽地方で生まれる。 青森県北津軽郡市浦村に生まれる。津軽半島の中ほどにある十三湖畔が私のふるさ と。鎌倉時代は「十三湊」(とさみなと)として栄え、南の博多と並び称される日本 海交易の中心都市であった。ある日、大津波があり、栄華を誇った最北の史都は、一 夜にして壊滅したと言われている。謎めいた伝説に彩られた「十三湊」では、多くの 史家によって何年も前から今も、発掘が続けられている。 私の生家は小規模な農家。父を早く失い、苦節の境遇にあったが、豊かな自然と地 域の人間味溢れる周りの環境に育まれながら、思いで多い少年時代を過ごす。 市浦村の小学校、中学校で学び、中学三年の時に八戸市に転校、八戸市の県立高校 を卒業。浪人して早稲田大学に入学。 私の出身地の青森県北津軽郡市浦村は、2005年3月28日に津軽平野の中心地の五所 川原市や太宰治を生んだ金木町と合併し、新「五所川原市」になった。この日をもって、市 浦村は地図から消えてなくなった。 二度と市浦村が再生する事はないだろう。 何となく寂 しい思いがしている。 ![]() 私のふるさと・津軽半島の十三湖。この湖では高級な「やまとしじみ」がよく獲れる。湖に浮か ぶ右下の島は中ノ島。この島の右手で日本海とつながっている。島の上方はかつての十三湊の中心 地。鎌倉時代、南の九州博多などと並んで日本海交易の拠点だったところで国の史跡に指定されて いる。ずっと以前から発掘が続けられていて、中国などとの交流を裏付ける貴重な遺物が次々と発 掘されている。右上方の海岸線は七里長浜。上の方に三角型に見えるのは、「津軽富士」として地 域の人たちに親しまれている岩木山。山麓一帯は津軽平野。りんご畑が一面に広がっている。 ● 1967年4月 − 日本社会党入党。 鈴木茂三郎委員長や浅沼稲次郎委員長を先頭に「不戦平和・非武装中立」の旗を高 く掲げ、平和憲法を生かすために、また、働く者の権利拡大・地位向上のために奮闘 していた私の少年時代・青年時代の日本社会党は燦然と輝いていた。 中学校の頃、地元の学校で開かれた社会党の演説会では一番前の席で浅沼さんの話 を聞いた。いずれ社会党に入党したいというのが私の大きなユメだった。 ● 1969年3月 − 早稲田大学を卒業。 大学では、新進気鋭の教授の指導を受け、財政政策を専攻した。当時、大学を席巻 していた 「学費値上げ阻止闘争」 など学生運動にも参加した。ただ、実際はそれよ りも生活するためのアルバイトで大忙しだった。卒業後は少しの間だけ商事会社に勤 務した。 ● 1971年4月 − 最年少で区議に当選。 社会党新宿総支部の強い要請を受け、選挙直前に立候補を決意をした。みのべ都知 事の時代で、社会党が大きな影響力を持っていた。多くの方々の献身的な支えで、ま ったくの無名ながら戦前の予想に反し、上位当選を果たした。 当時、都知事選挙と区 議会議員選挙は同日に行われていたが、要するに「みのべ」と書いたついでに「やま だ」に投票したようなところがあった。28歳の時であった。新宿区議会では、一期 目も次の二期目も「最年少議員」だった。30歳の時に結婚した。 ![]() 初当然の頃、新宿区議会本会議場での「代表質問」のスナップ ● 1975年4月 − 区議選で再選 。 [ニ期目] 更に79年、83年、87年、91年、95年、99年、03年と三期目から九期目の各選挙で連 続して好成績で当選を果たした。 この間、区議会では様々な役職に就き、本会議や予算・決算委員会などで論陣を張 り、区政の改革につとめる。自治の骨組みをカタチ作る情報公開や定住対策、行政手 続など多くの条例や制度の制定を提言し、実現にこぎつけた。特に「住宅基本条例」 は、新宿区では唯一の「直接請求」によって制定されたものだが、この条例制定の先 頭にも立った。制定当時は、担当する特別委員会の委員長をつとめていた。 地域では、毎月手作りの新聞『こんにちは社会党です』を地元の四谷地区に配布。 また、随時、「やまびこ会・ニュース」を発行し、議会活動を細かく報告をすると共 に、定期的に法律、税務、教育等の日常生活全般に関わる相談活動や地域のさまざま な活動を精力的に担って、少しでも住みやすい地域社会を創るために奮闘する。 ● 1989年4月 − 四谷第六小学校PTA会長に就任。 子どもが通学していた四谷第六小学校で、当時、混乱していた学校改築紛争の問題 解決のために、強く要請されてPTA活動をする。紛争解決に努めると共に、改革の 意気に燃える何人かの保護者と一緒にユニークな活動を行う。役員と保護者の意思疎 通を図る目的で、私が毎月四回ぐらい、不定期に発行していた「四谷第六PTAニュ ース」は、東京都PTA広報紙コンクールで激賞され、「最優秀作品」に選ばれたこ ともあった。96年にようやく会長を退任。 ● 1989年6月 − 日本社会党新宿区議団 幹事長に就任。 当時、社会党には多くの先輩区議会議員がいたが、党議員団幹事長の重責を担うこ とになった。この年、私が代表を務める 四谷歴史研究会 から由緒ある四谷の歴史や 文化を紹介した安本直弘さんの『四谷散歩』を刊行し、大好評を博した。後に改訂版 も発行した。 ● 1996年3月 − 新社会党の結成に参加、中央執行委員に。 当時の村山首相(社会党委員長)が、自民党と連立政権を組織し、党の命ともいう べき自衛隊や安保容認など基本的な政策を放棄したため、私たちは全国の同志と共に 「新社会党」を結成した。日本社会党の基本政策を継承するためである。 私は、日本青年館で開かれた結成大会で名誉ある議長をつとめた。大会では中央執 行委員に選出され、自治体対策委員長を務めることになった。中央委員長は矢田部理 ・参議院議員、副委員長は小森龍邦・参議院議員、書記長は山口哲夫・参議院議員。 ● 1998年9月 − 勲章(藍綬褒章)の受章を辞退。 98年9月、強く薦められたが勲章(藍綬褒章・らんじゅほうしょう)の受賞を辞 退した。以後、すべての「勲章」や「類似の物」の受賞や推薦を辞退することを宣言 し、そのことをずっと守り通した。後日、友人たちが世間一般の「勲章受賞祝賀会」 に代わる祝賀会(「勲章の受賞辞退を祝う会」)を開いてくれた。 私の何よりの「勲章」は、日常的に住民からいただく信頼の言葉や選挙の際に皆さ んからの評価していただく貴重な一票。これは、28歳で初当選を果たして以来、ず っと変わらない私の気持ち。 (追記) 2014年10月には、再度、来年春に授与される「勲章」を受領する意向が あるかどうかの打診を受けた。私は1998年お話があった時に、「今後も勲章類は 一切お断りします、とお伝えしてあります」と説明し、丁重に辞退しました。 ● 1999年6月 − 社会新宿区議会議員団長に就任。 新宿区議会では、新社会党と社民党の両党が統一会派「社会新宿区議会議員団」を つくリ、護憲の立場を明確にしながら、議会活動をしている。 自治体の成熟度を測る尺度のひとつである情報公開や住民参加の分野で「新宿区を 日本一先進的な自治体にしたい」というのが私の活動の原点になっている。 ● 2007年4月 − 区議会議員選挙で 『十期目』 の当選を果たす。 07年4月に行われた区議会議員選挙では、50人中8番目で10回目の当選を果 たした。新宿区議会には11回当選の議員が一人いるので、10回当選の私は、2番 目に当選回数が多い議員になる。しかし、年齢的には何人も私より上の議員がいるた め、自分が古参の部類に入る議員だという気持ちは全然したことがない。今後も「新 人」のつもりで区政の前進のために大いに奮闘するつもり。 ちなみに、「議員バッチ」は10個あるが、今まで付けたことはない。 ● 2011年4月 − 議員を引退。後継者の山田啓史初当選。 4月30日の任期切れを最後に引退。初当選した28歳の時からちょうど40年間 新宿区議会議員を勤めたことになる。 4月24日に行われた新宿区議会議員選挙で、後継者の長男・山田啓史が初当選。 彼の友人たちが連日応援に駆けつけ、精力的に活動した。楽しい選挙だった。 ● 2012年11月 − 後継者の山田啓史・新宿区議が夭折。 私の後継者として多くの人たちから嘱望されていた長男の山田啓史は、2012年 11月5日、入院先の済生会中央病院で亡くなった。「血球貪食症候群」という免疫 過剰の難病だった。最新の医療施術を受け、闘病生活4か月余り、私たちは日夜、彼 を励まし、彼も絶対回復するという不屈の意思で病魔と闘ったが、遂に力尽きて「不 帰の客」になった。私たち家族とっては、辛く悲しい悪夢のような出来事だった。 いま私は、短い間だったけれども彼と親子であっことを最大の誇りに思って自らを 慰めているが、それにしても残念でならない。痛恨の極みである。 ● 2013年1月 − 現在、私はこんなことを 〜 。 所属する新社会党中央本部では、結党(1996年3月)以来、15年間にわたって 自治体委員長や社会保障委員長を勤めたが、2011年7月に開かれた第16回定期全 国大会で退任した。同時に東京都本部副委員長も辞任。その他、可能な限り幾つかの団 体等の役職も辞任した。 党関係では、現在、地元の新社会党新宿総支部の委員長の任に当たっている。 また、日本自治学会に所属し、平和憲法を生かす新宿の会・共同代表、四谷歴史研究 会・代表世話人などは引き続き務めている。 アムネスティ−・インターナショナル日本支部などの組織にも加入している。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ついでにもう少し紹介すると 〜 ________________________________ 【 やまだ としゆき ・ あれこれ 】  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 《 2011年7月1日現在 》 ● 好きな言葉、または、座右の銘にしている言葉(その1)。 「一人は万人のために、万人は一人のために〜」 「汗と涙の味方でありたい」 ● 好きな言葉、または、座右の銘にしている言葉(その2)。 「 青春とは 真の 青春とは 若き 肉体のなかに あるのではなく 若き 精神のなかにこそ ある 」 (サルエル・ウルマン)(新井満 訳) ● 好きな言葉、または、座右の銘にしている言葉(その3)。 (以下省略) われわれは、全員が過去を引き受けねばなりません。 過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目となります。 非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、 また、そうした危険に陥りやすいのです。 (ワァイツゼッカー・西ドイツ大統領) ● 子どもの頃、大きくなったら何になろうと思っていたか。 小説家になって「ベストセラーになるような小説をいっぱい書く」と当時は本気で思 っていた。 ● 政治関係の仕事をしたいと思った動機。 中学生の頃、学校の体育館で浅沼稲次郎さんの演説を聞いてから、特に政治に関心を 持つようになった。 (その時の浅沼さんの演説は今でも鮮明に私の心の中に生き続けている。 貴重 な私の財産 である。 今年は、 浅沼さんが不慮の死を遂げてから45年目に当たる ) ● 自分で日頃から、信念として心がけている事。 「平和憲法擁護」、「憲法を守り、生かし、花開かせる」 (憲法は私たちが最も誇るべき最大の財産。全世界にこの精神を広げていきたいもの。石に かじり付いても「護憲・平和」のために〜 ) ● 活動や仕事をする上で尊敬する人は誰か。 社会党の鈴木茂三郎、浅沼稲次郎。 (両氏とも日本社会党委員長を務め、多くの人たちから信頼された早稲田大学の偉大な先輩 ) ● こんな人は嫌いだというタイプの人は。 自己保身だけを考え、カネや地位のために信念をクルクルと変える人。こういう人 は結構多い。世の中を上手に渡り歩き、権力に媚びる人も嫌い。 ● 今まで読んだ本の中で、特に感動した本。 『後世への最大遺物』(内村鑑三)、 『罪と罰』(ドストエフスキー)、 『こころ』(夏目漱石)、 『人間の条件』(五味川純平) などなど。 ● 趣味とか、やりたいことなどはどうか。 古い歴史のある寺や美術館を訪ね、仏像や絵画を観ることを楽しみにしている。 (東大寺戒壇院の四天王像や三月堂の日光・月光菩薩、聖林寺の十一面観音、秋篠寺の技芸天 像などは、特に好きな仏像。世界の著名な美術館を見て歩くのが年来のユメ。しかし、まだ メトロポリタン美術館など行っていない美術館は幾つかある)。 ● 家族の状況は〜 。 淑子(妻)と長女の潤子(会社員・昨年3月に大学を卒業)の三人。啓史(長男・ 新宿区議)は近くで一人住まい。耕史(次男・会社員)は、一昨年5月に結婚し、 新宿区内に住んでいる。 私たちと30年以上も一緒に暮らし、生活全般に渡って大変世話になった和気幸子 (妻の母)は、2008年6月に「天寿」をまっとうし、96歳で他界。 (なお、八戸市に住んでいた私の母親も、09年8月12日に103歳の天寿を全うし一 世紀以上にわたる生涯を閉じた。104歳の誕生日直前だった。亡くなる数時間前まで 意識があり、元気だった。私はちょうど帰省中だったので、死に際に立ち会うことが出 来た。 1905年(明治38年)8月24日生まれだった)。 ● その他、いろいろなこと、なんでも。 ・身長172センチ、体重62キロ、血液型O型。 ・酒は好きなほう。たばこは、今は吸わない。 ・健康状態は、血圧と血糖値、尿酸値が少々高め。しかし、大体「良好」にしてい る。ただ、毎年も極度の「花粉症」に苦しんでいる。 ・運動は、時々、水泳、ジョギングなど。 ジョギングは、神宮外苑を大体3000メートルから5000メートル走る。 たまに練習中の著名なマラソン選手と一緒になったりするが、もちろん、ほんの 数メートル併走するだけで置いていかれる。 ・高校までは好きな野球をしていたが、2年の時に右腕を骨折して断念。それから まあまあ人並みに勉強を始めた。 ・スポーツの観戦は、なんと言ってもラグビー。紳士のスポーツとしての歴史を持 つが、組み合う、走る、投げる、蹴るという四要素で成り立つラグビーこそ「ス ポーツの華」「スポーツの中のスポーツだ」とひたすら信じている。 ・大相撲は、郷土出身の「初代・若ノ花」が大好きだった。テレビがない時代だっ たが、音声の悪いラジオを聞き、若ノ花と覇を競った当時の名力士、栃錦、鏡里、 東冨士、千代の山、吉葉山などの熱戦に一喜一憂した。 ・プロ野球は長嶋、王が引退した後は典型的な「アンチ巨人」。球団にスポーツ組 織としての魅力がない。一番大事にしなければならないプレヤーを「たかが選手 のブンザイで〜」などと言って侮辱した渡辺ナニガシ(読売新聞社主)などは特 別に嫌いだ。 ・映画はごく最近では、ゲバラの生涯を描いた『チェ 28歳の革命』を見た。 近年に見た映画では、『胡同のひまわり』『かもめ食堂』『それでもボクはやっ ていない』『たそがれ清兵衛』などが印象に残っている。 随分前の話になるが、テアトル新宿で『酔いどれ天使』『七人の侍』『隠し砦 の三悪人』『生きる』など黒澤明監督の代表作の上映会に参加し、何日間にわた って黒澤映画を鑑賞した。 ・津軽平野名産の真っ赤な「リンゴ」とふるさと十三湖の「しじみ」が大好物。 ・日本100名山の登頂は、未だに津軽の岩木山だけ。8合目までバスで行った。 ・この人生、やり直せるならば、「北の大地で農業を〜」。 |
(建設中のメモ)
2013年9月6日、新宿区議会本会議場で代表質問をする山田啓史区議。
これが区議会における彼の最後の姿だった。この時すでに39度以上の高熱
があった。9月20日、区議会定例会終了と同時に済生会中央病院に入院。
闘病生活四ヵ月後の11月5日残念ながら36歳の若さで亡くなった。