第7日目その1  2000年11月23日(木) 晴れ    韮崎−台ケ原−教来石−蔦木−富士見

 前回、韮崎宿までの歩きをアップしたのが2003年。10年以上、更新が滞ってしまいました。大変、申し訳ありませんでした。
 今更14年前のことを書いても、記憶も確かでなく、当時はフィルムカメラだったので枚数も少なく時間も明確ではありません。必ずしも2000年の状況を正確にお伝えできる訳ではありませんが、その後の補遺の旅で訪れたことも加えていますので、何かの参考になればと書かせていただきます。

 宿場間の距離もあるため、小見出しは宿場単位ではなく、少し細かく分けて記します。また、今昔マップon the webというサイトで明治期後半の地図との比較もできるようになった(甲州道中は蔦木宿辺りまで)ので、それも活用し、旧道を推察してみます。


韮崎宿 その2

 勤労感謝の日からの飛び石連休、有給休暇を利用し4連休とし、2泊3日で甲州街道最後の旅へ。蔦木近くに宿泊施設がないため、7日目は富士見まで、だらだらと登り続ける道を33キロの強行軍である。午前5時過ぎに自宅を出発し、普通列車で韮崎へ(早朝だと特急がない)。




2000年に辿ったルート
 甲州街道ウォークとして歩いた2000年には、七里岩の上にある平和観音を参拝し、眺望も期待し、しばらく七里岩の上の道を北上した。ただし、こちらは正規の甲州街道ルートではない。ちなみに、鉄道が七里岩の上を走るのは、長野県の入ってからだと勾配がきつくなり過ぎて、富士見峠を登れない(トンネルだと長くなりすぎる)ことに要因があるそうだ。七里岩の先端に当たる韮崎からだと何とか登れる勾配だとか。

 韮崎駅下車後、まずは穴観音で踏破祈願。正式には窟観音というようだ。曹洞宗の雲岸寺の境内にある。元は真言宗だったようで、弘法大師が作製したと伝承される観音像と大師像がある。また、千体仏(千体地蔵尊)は、千体あるのか数えてはいないが、かならず一体は参詣祈願者の目と目が会う仏があると信仰されている。自分に似ている仏様があるというなら探すのは大変だが、目くらいは合いそうな気がする。春分の日を含む2日間、大祭が開催される。

雲岸寺境内 観音堂 洞窟の通路 千体仏


 続いて、列車からも見える平和観音も参拝。平和観音は建立(開眼)50年を機に2011年にお色直しをしている。ちょっとふっくらしたような気もする。なお、韮崎駅ホームからでも位置関係は確認できるが、観音様は正面が富士山となる方向を向いている。その平和観音に向かう道筋にあった韮崎公民館前に、韮崎の追分道標があった。(現在、公民館は駅前のかつてイトーヨーカ堂があった所に移っている。道標は公民館跡地に再設置。) 元は、甲州道中と佐久往還の追分、今でいう本町交差点にあったものであり、「右 信州さくの群みち」「左 信州すわ上みち」「露顕石 元禄八乙亥年八月日」とある。

 2000年11月撮影  2011年12月撮影  富士山を仰ぐ  追分道標  公民館跡地


 平和観音付近から、そのまま北西へ進んだが、この道はまだ原路(蔦木道)ではない。途中、下から登ってくる道と韮崎中央公園陸上競技場手前で合流するが、それが原路のようだ。七里岩の上を歩いても期待するほどの眺望は望めない。延命寺を過ぎたところで左折し下り、新府トンネルを通り、桐沢橋近くで本来の甲州街道に合流した。


本来ルートの補遺
 本来のルートも、後日歩いたので紹介する。
 窟観音の参道付近に一里塚があったようだ。しばらく進むと道なりにはやや斜め左に曲がるが、一旦右へ入り直進するのが七里岩へ登る道である。この道が原路(はらみち)と云われている。甲州街道の旧道は国道20号方向に進み、国道と合流する付近に水神宮の碑と石祠がある。明治31年9月にこの辺りで釜無川が決壊し大きな被害を及ぼしたことの供養と安全を祈るものだろう。国道沿いの用水路を挟んで十六石なるものがある。少し離れたところにある大きな石が該当するのだろうが、なぜここにあるのだろうか? 説明板に理由が欲しい。信玄堤にある説明板には十六石のことを「16個の大きな石を御勅使(みだい)川の洪水流を釜無川にうまく合流させ、高岩に洪水をぶつけ減勢させた」としている。

 韮崎一里塚付近地  原路との分岐 水神宮   十六石


 国道に出てしばらく進むと富士見まで33kmの標識。そんなに遠いの?と思う反面、かつての宿場町ではないが宿泊地とした場所が道中の目標に値する地であることを嬉しく感じる。なお、現在は北杜まで10kmに置き換わっている。右斜めへの道が祖母石への旧道。見るたびにガソリンスタンドが変わっている。分岐に立つ石碑は水難供養塔である。

以前の道路標識  祖母石入口(2003年撮影) 2009年撮影 2013年撮影


 七里岩を間近に見ながら旧道を進む。道の脇に流れる水路、数十年前の都市部の住宅街なら下水というイメージだが、3本もあるということは田畑に利用される水路も含まれているのだろう。水の流れの音が暑い日には清涼感を与えてくれる。なまこ壁が残る町並みの旧道を歩く。

右手に七里岩  用水路? 祖母石の旧道  祖母石の旧道


 神明神社には金毘羅山や秋葉山を祀ったものがある。常夜燈には文政や明和とあり、200年前後の歴史がある。少し進むと右手に、お地蔵さんという感じではないが赤地蔵と呼ばれる「南無阿弥陀仏」と彫られた石仏がある。この付近に祖母石の一里塚があったと思われる。桐沢橋を渡るなら、「和食処佳幸」の看板付近の先を左に入った方が近道である。曲がらずにまっすぐ進むと、国道に合流する手前に石造物群がある。

神明神社 金毘羅山常夜燈 赤地蔵 石造物群



東岸ルート

 桐沢橋付近から上円井までの区間、文献により2つのルートに分かれる。釜無川の東岸、国道20号にほぼ沿ったルートは、山梨県歴史の道調査報告書に記載されているルートであり、分間延絵図もこちらを甲州道中としている。




 2000年に実際に歩いたのは、こちらのルート。正式に東岸ルートと呼ばれている訳ではなく、このページで便宜上付けた名称である。ほぼ国道沿いなので面白味はない。老婆石は、旧道から少し離れているので、別の日に訪れた。

 桐沢橋の先で旧道は国道に合流するようでしない。そのまま平行に続き、しばらくすると側道のような旧道は下っていく。これが本当に旧道なのかはよく分らない。旧道とは反対の国道の左側の川沿いの土手はサイクリングロードになっているが、流れ弾が当たる危険があったようなので、国道を防弾堤にした方が良さそうだ。(現在、射撃場は閉鎖されました。)

 国道に合流した後、しばらくは国道の歩道を進む。歴史の道調査報告書に書かれている「三ツ石」はバス停の名称以外のものは私は見つけられていない。穴山三軒屋のバス停付近から穴山駅方向へ向かう道を入り、左に曲がると旧道っぽい道がある。この道が国道に合流する付近から見ると旧道に見えるのであるが、本来の甲州道中であるかは不明。穴山橋を渡る手前に、橋の奥に旧道らしき道が残っている。

国道と平行に側道が続く 射撃場内? 川魚供養塔 旧道?合流地点振り返り 穴山橋からの釜無川


 姥婆石に近づくには、国道の右下に下った道から、さらに七里岩に近づく道を行く。高くなった土手のような道ではなく、次の道である。国道から見た後ろ姿だけでは気づきにくそうである。老婆があごを支えている姿に似ていることから「姥婆石」と命名され、字を変え村の名称になった。近くの七里岩には、いくつかの大きな穴が見られる。自然のものというより防空壕の跡のようだ。どうやって参拝するのだろうというところに鳥居があったりもする。これが九頭竜社なのだろう。写真の石祠には文化二年と彫られている。

姥婆石への道(国道から) 姥婆石の後ろ姿  姥婆石  七里岩に鳥居  石祠



西岸ルート

 今昔三道中独案内では、釜無川の西側の高台、ほぼ徳島堰に沿ったルートを甲州道中としている。NHKの「街道てくてく旅。」もこちらのルートを通っている。旧道の雰囲気を味わいたい人にはこちらがお薦め。ただし、東岸ルートに比べ2キロほど遠回り。一里塚があった記録もないので正規のルートとは言い難い。

 このルート、釜無川が増水した場合に通ることは想像できるが、甲州道中として公認されているものなのかはっきりしない。このページの作成が止まった一つの要因でもある。山梨県の歴史の道調査報告書によれば、七里岩の上を行く原路(逸見路)が、洪水に見舞われて通行不能になった時に、官道として使用されたとある。

 一方、今昔三道中独案内には、逸見道・蔦木道は地図に描かれているが、国道沿いルートは一切触れられていない。さも旧道はこちらのみという感じで「上祖母石を出ると国道と合流するが、旧道は南に曲がり釜無川に架かる桐沢橋の辺りを対岸に渡ったのである」と書かれている。

 今昔三道中独案内の地図によると、東岸の旧道が国道と合流する辺りから釜無川を渡っているが、これは100年前の地図を参照したルートではないだろうか。橋を渡り、T字路を右に進むと韮崎射撃場がある(2009年閉鎖)。この存在を知るまでは、どこで狩りをしているのかという音がよく聞こえたものだ。ここは土壁ではなく川に向け撃っていたようで、河原の鉛問題と民家に飛び込んだことで閉鎖に追い込まれたようだ。

 ここで掲載している地図は2000年頃のものを利用して作成している。射撃場の先で頭上を通る道など当時なかったが、わかる範囲で追加している。小桐橋を渡り車道としては右へ行くが、旧道は左へ。次は何処を曲がるのが正しいのか明確ではないが、2〜3本目の左へ曲がる道を入り、徳島堰沿いに出る。その後は、徳島堰沿いに進む。途中、舗装路は徳島堰から離れる。本来はまっすぐ未舗装路を進むはずだが、徳島堰自身が唐沢の下を通る構造になっているようだ。とりあえずどちらを進んでも同じところ(県道)で唐沢を渡る。

 唐沢を渡ると町名は円野町入戸野(まるのまちにっとの)。宝蔵寺のところで、旧道は徳島堰に沿って左へ。市民バスの入戸野バス停兼スクールバス待合所の横に石仏が祀られている。そのすぐ先の右側に黒松がある。昭和13年に碑も建てられており、名称(実際には称は旧字体)松(くろまつ)とある。かつては立派な松が植わっていたのだろう。

韮崎射撃場(閉鎖) 徳島堰沿い 徳島堰に沿って左へ 名称? 黒松


 再び県道に合流するところで、すぐに合流する道と、150mほど先で合流する道とに分かれる。左側の徳島堰沿いが旧道っぽい。戸沢橋の手前で徳島堰に沿い、円井逆断層の方の道へ入るのが旧道。逆断層も見に行ったが素人目には分りにくい。旧道は徳島堰が地下に潜った所の先を道なりに右へ進み、沢を徒歩で渡る。日によって流量が異なる。大きめの石が敷かれているが注意が必要。

 道なりにやや右へ曲がり県道に出る道の方が徳島堰に沿うのだが、何故か旧道は左に曲がり坂を登っていくことになっている。V字カーブで登り、道なりに左への道を進む。なまこ壁の残る家並みを進み、石祠のあるT字路は右へ曲がる。宇波刀(うわと)神社に行くなら、左への道を行く。今昔三道中独案内によると、T字路のところで旧道は今は民家が立ち並ぶ中を斜め右へ進むよう地図には描かれている。現在の道では、県道に合流する手前を左折し徳島堰に沿って進む。

戸沢橋より 円井逆断層方向へ 渡渉場 右へ


 今昔三道中独案内に、「宇波刀神社からの眺めは実に雄大で、信州姥捨山にも劣らざる地」とあるので行ってみた。神社は約1300年の歴史があり、現在の本殿も300年以上前に建立されたものだとか。眺望は七里岩を見下ろす感じではあるが、姥捨山に比べたら個人的には劣る気がする。

山門と本堂 七里岩を見下ろす 町並みを見下ろす


 この辺りは「かかしの里」とも云われ、風見鶏のような巨大オブジェの横を通るのが旧道。桜並木を過ぎると国道にぶつかる。旧道はまっすぐなのだろう。しかし、国道に横断歩道はないので、人は左の狭い方を通るか、右の2.3mの高さの所を通る。NHKの「街道てくてく旅。」で狭い方を通っているが、ここは徳島堰の上であるので旧道ではないはず。テレビ的に絵になるから通っただけと思われる。ここを潜る場合、出入口の高さが違う。北上ルートの場合はだんだん高くなるが、南下ルートの場合は、余裕と思い潜ると苦労するかも。

巨大案山子? 国道近くの桜並木 無理に通らなくても 普通に歩けます



上円井・武川

 宿場でも間の宿でもない。かつては「武川村」であったが、2004年に北杜市武川町になった。




 穴山橋を渡り、道なりに右に曲がったところで、旧道は斜め右へ入る。徳島堰と交わる地点に一里塚があったようだ。文献として書かれた物は見ていないが、天保国絵図に記載されている。特徴的な場所なので、全くの適当という訳でもないだろう。

 徳島堰のスタート地点も気になる。取り込み口まで一キロもないが、徳島堰沿いに最後まで進むことは出来ず行き止まりとなるので、途中で堰の左の道に出た方が良い。水は低い方へ流れるので、西岸ルートの所を通せるなんて、よく考えたものである。他の水路とクロスするところはサイホンの原理が使われている。今はコンクリートだが、江戸時代に造った技術は素晴らしい。

 推定一里塚からの旧道を進むと、右手の民家の敷地内に「明治天皇圓野御小休所」の碑がある。 国道と合流したところ(上円井交差点)で、国道を横断した先に続く道が旧道のように感じられるが、右折し国道沿いに進む。歴史の道調査報告書によれば、現在、道はないが、上円井交差点のところですぐに国道の右へ進み小武川を渡っている。約100年前の地図によれば、現在の国道を横断してから右に曲がっているようだ。ログハウス展示場の横はバス停兼待機所になっているが、旧道跡のような形状を残している。

旧道は斜め右へ 一里塚跡推定値 徳島堰取込口 明治天皇御小休所


 小武川を渡るとすぐに右への道に入るのが旧道。たいてい旧道へは、斜めに入るパターンが多いが、川を渡る位置が異なる関係からか、ここは直角に曲がる。道なりに左折後、そのまま道なりに進む。国道と合流する手前に六里塚があるが、甲府城から六里というしるしで、江戸期にあった本当の一里塚ではないと思われる。徳島堰と旧道の合流地点からは約二キロである。

 橋を渡ると北杜市 橋の直後を右折した道 黒沢橋 六里塚


 250mほど国道を進み、町の駅の所で斜め右への道が旧道。町の駅には特産品が販売されており、横にコンビニもある。2000年のウォークではトイレと自販機利用のみ。ちなみに当時は「村の駅」であった。武川町農産物直売センターが正式名称のようだ。再び国道に合流し、すぐに斜め右に入るのが旧道であるが、この道を進んでも現在は川を渡れない。

町の駅で左へ 牧原の家並み 旧道も残っているが 大武川橋


 大武川を渡った後、歴史の道調査報告書では、国道に沿ったルートを甲州道中としている。そして川を渡って少し進んだところに三吹の一里塚があったとしている。分間延絵図では万休院との位置関係から、同様に国道ルートを示しているように思われる。しかも、七里岩の上の原路は描かれているが、万休院近くには道も描かれていない。

 しかし、今昔三道中独案内では、大武川を渡り、すぐに左折し、万休院近くを通る高台ルートを通っている。増水時のルートだと思われるが、歩くにはこちらの道の方がお薦め。下の左から2番目の写真の所で、旧道は右折する。万休院に立ち寄るなら直進がよい。





 高台ルートは、上三吹の交差点で国道を横切り、その延長線上の道が旧道である。国道ルートで来ると、ここで右折することになる。民家が建ち並ぶ町を抜けると川沿いの道となる。休憩にはいいポイントである。七里塚の道標もある。六里塚からは1里の距離であるが、分間延絵図などに描かれている一里塚からは2kmほどの位置にあたる。

どちらが正規? 右へ 国道とクロス 七里塚 


 尾白川橋を渡ると白州町となる。右に曲がり七里岩を登る県道617号の途中「富士見三景花水坂」の碑がある。しかし、この場所が富士見のベストポイントとは思えない。鉄塔はともかく、近くの山に被り過ぎなのである。もう少し登った所の方が富士の中腹まで見えるようになる。駅までは遠く、日野春・長坂ともに5キロほどある。

 現在は古道の案内があるが、これは平成17年(2005年)に設置されたので、2000年当時は国道を進んだ。この古道、今昔三道中独案内ではルートとしてなく、国道を通っている。歴史の道調査報告書でも一旦川沿いを進むが途中から国道に合流している。真相は分らぬが、現代の道標に従うのが良いのだろう。尾白川橋近くの古道入口の台座は年期ものに見えるが正体がよく分らない。古道入口の近くで営業していた店、今は跡形もない。この古道に入り、すぐのところに道標がある。正面から見ると馬頭観音であるが、側面に「右かうふみち 左はらぢ通」「左りはらみち」と刻まれている。県道617号の原型が原路である。棒道とも呼ばれる。この道標、以前は倒れていることもあったが、今では整備され説明板もある。

古道入口(2004年) 古道入口(2014年) 古道入口の碑 馬頭観音兼道標


 川沿いを進み、途中で畑の中へ入って行くところが分りにくかったが、今は案内板の木札が建てられている。畑の中を通り、再び尾白川沿いに出て、庚申塔と馬頭観世音が数個まとめて置かれたところを通り、国道と旧道がクロスする台ケ原下交差点に出る。

旧道は斜め右へ 尾白川沿いの旧道  古道入口設置前 古道入口設置後




台ケ原宿 

 韮崎宿から四里。甲州道中の中で最も宿駅間が離れている。甲斐と信濃を結ぶ交通路の要衝であった。江戸期は本陣1軒、旅籠14軒の宿であった。ただし、宿内には脇本陣跡も存在する。

 台ケ原下の交差点で国道を横切り、その先の道が旧道であり、台ケ原宿となる。韮崎から久々の宿場である。東岸ルートでも4里の距離だ。西岸ルートだと18kmに及ぶ。本陣跡とか街道らしいものも久しぶり。

入口の看板 大きな案内板  ふれあい休憩所  日本の道百選石碑  石碑


 下の本陣跡の家、現在と形状が異なるが2004年に撮影したものである。台ケ原宿で一番有名な店は酒蔵の七賢だろう。私は酒は飲まないので店に入ったことはないが、南アルプスの水は酒造りに適しているのだろう。甲府のお土産で有名な信玄餅だが、一般的には桔梗屋の「桔梗信玄餅」の方が目にすることは多い。「信玄餅」の登録商法を持つのは台ケ原宿にある金精軒である。しかし、発売は桔梗屋の方が先で、金精軒が後発である。金精軒は「信玄最中」という商標を先に持っていたという経緯があるようだ。味は若干違う。どちらが美味しいかは人によって違うだろう。

秋葉山灯篭と本陣跡 銘酒 七賢 金精軒製菓 金精軒の信玄餅


 松坂屋旅館の向かい手前に一里塚跡の碑が2005年に設置された。「起点から四十三里十町余に当たる」と記されている。七里塚からは約2キロである。十町は約1.1キロであるが、七里塚を江戸から42番目、台ケ原を43番目とするのは疑問を感じる。つるや旅館は時代を感じさせる建物が残るが、創業は明治初期ということで江戸期の旅籠だったわけではなさそうだ。ちなみに松坂屋旅館は天保年間から営業しているようだ。日本の道百選に選ばれているだけあって、いい感じの道が続く。

台ケ原一里塚石碑 つるや旅館 旧館  つるや旅館 新館 夕暮れの七賢前  夕暮れの名道百選前



  一旦、国道に近づくが合流することなく、旧道は続く。地図の切れ目でもあるので、以降は7日目その2に記す。


ちょっと寄り道

わに塚の桜
 韮崎駅から3キロ強。バスで武田神社入口まで乗れば、徒歩5分程度。エドヒガンザクラの一本桜で、韮崎市指定の天然記念物。雪をかぶった山とのコラボが美しい。富士山との写真も撮れることがある(鉄塔が邪魔だが)。

バックは八ヶ岳 バックは茅ヶ岳 バックは南アルプス?



新府城跡と桃源郷
 桃の花はJR中央本線の車窓からも見ることができる。新府城跡へは新府駅から1キロ弱だが、階段が約250段ある。桃の花だけなら駅から近いところで十分であろう。桃と桜、同時に満開となる年もあるが、ズレる年もある。桃源郷としては、同じ山梨県の御坂(みさか)が有名だが、新府もなかなかのものである。

城跡(藤武神社)入口  城跡の桜 城跡からの桃源郷


 桃と菜の花 桃源郷  桃と富士山



実相寺の山高神代桜
 最も近い駅はJR日野春駅であるが、タクシー以外の交通機関はない。通常はタクシーも常駐していないと思われる。韮崎からバスを利用し樹齢2000年とも云われ、国の天然記念物に大正11年に指定されている。桜として第1号のようだ。日本三大桜の一つでもあるが、そろそろ返上してもいいのでは? 桜そのものは今でも見事な花を付けるが、枝ぶりは寂しい。
 実相寺からさらに西へ2.5kmほど行った眞原(さねはら)地区に750m続く桜のトンネルがあるようだ。

神代桜 神代桜 参道の枝垂桜



萬休院の松
 こちらも最寄り駅は日野春駅だが、4キロほどの距離がある。
 初代は本堂の火災の際に焼失し、2代目は樹齢450年以上と云われる。ツルが羽を広げた姿によく似ているので「舞鶴松」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されていたが、2006年に松くい虫の被害にあい、2008年3月に伐採された。 現在は3代目として樹齢100年の松が寄進され、植栽されている。2代目と比較すると天然記念物となるには、まだまだ先のようだ。
 下の写真は2003年10月と2009年3月に撮影したものである。

2代目
3代目



6日目
石和宿〜韮崎宿へ
甲州街道トップへ
7日目その2
台ケ原宿〜富士見へ