第9日目その1 2001年6月3日(日) 晴れ 舞坂−新居−白須賀−二川−吉田−御油−赤坂


白砂亭より ホテル白砂亭の部屋からは今切口(写真左)を見ることができる(注:反対側にも客室がある)。弁天島の湖岸を歩いても堤防のようなものが邪魔をして切れ目は見えないようである。まずは朝風呂に入り、朝食は和洋バイキングで6時半からというのも嬉しい。それなら7時には出発できそうなものであるが、出発は8時10分となった。
開春桜より
 ちなみに白砂亭より少し舞坂よりのホテル開春桜の客室からも今切口や赤鳥居を見ることができる(写真右)。写真を撮ったときの倍率が違うので、今切口が遠く見えるが実際の距離感は同じくらいである。こちらは和室が中心で、家族向けといった感じ。

 東海道ウォークに話を戻す。新居宿に向かうのとは逆の方向に国道1号を歩き出す。昨日、舞坂宿に着いたのは日没を過ぎていたので、見付の石垣まで戻ってみることにした。国道の方が若干近道である。国道と旧道がクロスする手前で旧道に入った。見付石垣や一里塚跡などを再度確認し、舞坂宿内を歩いた。脇本陣の開館時間は9時である。まだ20分以上あり、今日も歩く距離がありそうなので見送ることにした。昨夜、すっかり暗くなってうまく写真の撮れなかった北雁下の広場には、あいにく地域の住民による清掃の日のようで、大勢集まっており、写真は諦めた。


新居宿
広重画-新居西浜名橋 今切の渡しの新居宿側の出入口は関所になっている。新居関所と呼ばれるが、正式には今切関所といい、慶長5年(1600年)に設置された。創設当初は今切口に近い場所にあったが、地震や津波などの災害により移転をしいられ、現在地は3度目の場所である。

 舞阪宿から弁天島は近いが、新居町駅までの道のりは意外とある。旧東海道を示す地図によっては、途中で現在の鉄道(写真右)の北側に一旦でるものもあるようだ。新居町駅手前の警察署の前では、スピード違反の取締りをしていた。

関所渡し船 新居町駅でJR東海のウォーキングきっぷのスタンプを押す。ここで本日1本目のジュースタイム。今日も暑くなりそうだ。駅から新居関所までは近い。関所近くの洲崎渡船場から今切渡船ならぬ関所渡しが行われているようだが、渡船場には誰もいなかった。事前に連絡が必要なようだ。行先は新居弁天渡船場で往復千円とパンフに書いてあった。渡し船はあきらめて新居関所へ向かった。

 新居関所は、資料館も併設しており入場料は300円。全国で唯一の現存する建物が残るところでもある。資料館では、関所に関することや、旅と宿場をテーマにしたものなどが展示されている。関所前の広場は関所遺構の調査中のようであった。

 新居関所に対し道の反対側を少し進んだところには、旅籠紀伊国屋資料館がある(入館料200円)。東海道ウォークとして歩いたときは、まだオープンしていなかったが、2001年10月に開館した。私は、2002年の1月に訪れた。旅籠なので本陣の造りとは異なり、大きな民宿といった感じである。紀伊国屋名物の鰻蒲焼の複製は、関所の資料館のものと同じようだ。蒲焼のたれを蓄えたカメは、実際には見え難いが、フラッシュ付で写真を撮ると良く分かる。

新居関所外観 新居関所面番所 旅籠紀伊国屋 紀伊国屋内かまど



本陣跡新居一里塚跡 関所や紀伊国屋を過ぎるとT字路となる道の突き当たりに本陣跡(写真左)、東海道は左折する(この周辺に本陣跡は計3ヶ所ある)。

 自分より30メートルほど前方に東海道を一人で歩いている人がいる。この道が東海道だから歩いているという人と他の人は見分けがつくものである。しかもJR東海のウォーキングマップを手にしている。しかし、その人は新居一里塚跡(写真右)をほとんど立ち止まることなく通り過ぎていった。まぁ、私も最近立てられたような問屋場跡などの石柱をいちいち写真撮ったりしてないし。私は、一里塚とかは写真を撮っているということもあるが、時速6キロで歩けるはずの自分が、この人に追いつくのは一時間後になるのであった。

松並木 東海道は一里塚跡を過ぎるとT(Y)字路を右へ。棒鼻跡を道なりに左に。国道1号に出たら右へ。少し進んだところで斜め右へ入る道を行く。この斜めに入る道の反対側には、源頼朝が水を汲み茶の湯に使用したと云われる風炉の井がある。
元町一里塚跡
 沿道には東海道の松並木が続く(写真左)。立場跡や明治天皇野立所跡などを過ぎると、湖西市に入る。

 火鎮神社を過ぎ、元町一里塚跡と高札場跡が並んである場所(写真右)は、元は白須賀(しらすか)宿だった場所である。この辺りから遠州灘まで約300メートルくらいである。この後、伊勢湾は通るものの太平洋からは遠ざかる。東海道という名だが、海に近い場所はそれほどない。


白須賀宿
広重画-白須賀 白須賀宿は、元は潮見坂下にあったが、宝永4年(1707年)の大地震による津波で壊滅的な被害を受け現在の位置に移った。白須賀とは「白い砂州の上に開けた集落」という意味である。
潮見坂
 東海道ルネッサンスなどの道標があるところを右折し、潮見坂(写真右:汐見坂と書くこともある)を登る。坂の途中で振り返ると遠州灘が見える。西から江戸へ向かう旅人にとって初めて太平洋が見える場所であり、昔から数々の紀行文に登場する。「うないの松」へは、蔵法寺へつながる小道を50mほど行ったところにあるようだ。

 坂の途中で新居から前を歩いていた人に追いつき、坂の上まで話しながら歩いた。50歳過ぎの女性で、今回が東海道を歩くのは初めてとのこと。ウォーキングきっぷを活用し、ちょっと歩いてみようかという感じらしいが、その歩くペースからは歩き慣れているとみた。

おんやど白須賀 坂を上りきると白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」(写真左)がある。入館無料で、開館時間は午前10時〜午後4時で、毎週月曜日と年末などは休みのようである。無料ではあるが、展示などはけっこう楽しめる。お茶も飲めるが、募金箱のようなものに心付を入れよう。
潮見坂上
 展示などを見た後、ここで冷たい麦茶を飲みながら休憩していると、先ほどのおばさんがやってきて(おんやど白須賀は立ち寄らずに一旦は先に進んでいた)、おにぎりと唐揚げをくれた。食べきれないのと荷を軽くしたいとのことらしいが、ありがたく頂いた。時刻は11時40分であったが、この時点では昼食が4時になるとは思っていなかったので、このおにぎりは貴重なスタミナ源であった。

 この潮見坂上からの眺望(写真右)もなかなか良い。潮見坂公園跡があるが、ここも整備してその名にふさわしい公園になったら良いと思うのだが(実際の跡地は中学校になっている場所のようだ)。
曲尺手
 道なりに進むと、白須賀宿となる。ここの町並みは、格子戸のある古い民家などがあり、旧道という感じがして良い。左の写真のように道を直角に曲げた曲尺手(かねんて:枡形ともいう)は、大名行列同士がかち合わないようにしたものである。先が見通せないので、格下側が休憩を装って寺などに非難するための時間が稼げるのである。城下町などでは防衛のために、このような造りになっているところもある。
火防樹
 歩いていると見知らぬ子供たちが「こんにちは」と声を掛けてくる。慣れていないとこちらが戸惑ってしまうが、このように教育されている町は全国に所々あるようだ。

 本陣跡は石碑と立て札だけだが、そこにはキャッチボールができるくらいの庭を持つ立派な家が建っている。火防樹(写真右)は火事の延焼を食い止めるために植えられたもので、昔はどの宿場にもあったが、現在静岡県内で残っているのはここだけのようだ。

 昔、白須賀宿の出口付近には猿馬場(さるがばんば)の立場があり、この付近の茶屋で「勝和餅」が売られていたそうだ。柏餅なのだが、豊臣秀吉が気に入り、戦に勝った帰りにも立ち寄り命名したと云われる。だが旅人の道中記では評判が悪かったようだ。
境川
 宿の出口で県道に合流。境川(写真左:境川は県境の割には小さな川)を越えると愛知県となる。昔で言うところの三河である。ついに愛知県まで歩いてやってきた。神奈川県民なので静岡は隣の県であるが、白須賀までは実に遠く、鶴見の自宅からは250キロ以上離れているので、「愛知県」という標識にはちょっとした感激があった。

細谷一里塚 道は一里山東の交差点で国道1号に合流するが、その手前で「おんやど白須賀」でおにぎりをいただいたおばさんに追いついた。彼女は、JR東海のウォーキングマップに従い、バスで新居町に戻るようだ。ただ、このバスを利用するには時間に気をつけなければならない。なにせ本数が少ないのである。一番近いJRの新所原駅へは、一里山の交差点から北に向かって3キロ以上はある。二川駅へは6キロ程度である。

 バスに乗るには、一里山東と一里山の交差点の間に位置する一里山のバス停を利用するのだが、話をしていたためか通り過ぎたようで、ご迷惑をお掛けしたかもしれない。そして、一里山(細谷)一里塚(写真右)も見逃してしまったのである。次の東海道ウォークの前日に立ち寄って写真を撮った。説明板には現存しているように書かれているが、東海道さんさくマップには、「今は塚も榎もないが、場所は市史跡として保護されている」となっている。道路の拡幅工事も行われているので、現存すると言えるのか賛否が分かれるところである。

 一里塚を過ぎると二川宿に向けて、両側に畑が広がる道をひたすら歩くのである。新幹線のカード下をくぐるまでは3キロ以上ある。西行きは下り坂なので楽ではあるが、冬季は遠州カラッ風が吹き荒れるそうだ。


8日目その2
天竜川〜弁天島へ
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9日目その2
二川宿〜赤坂へ