第8日目その2 2001年6月2日(土) 晴れ 袋井−見附−天竜川−浜松−舞阪−弁天島


見附〜天竜川
宮之一色一里塚跡 磐田駅前から東海道は天竜川に向けて北西に進む。途中、交通量の多い道と合流した後、宮之一色一里塚跡がある。道路右側の方が石碑(写真左)もあり説明板もきれいである。(道路左側の説明板
豊田町森下付近
 1キロ強進むと道が分かれる(写真右)。旧道は左の道を行くが、天竜川を渡るだけならそのまま交通量の多い道を行ったほうが近い。旧道を行くと次にどこで曲ったらよいか判りづらい。東海道ルネサンスの道標があった後、信号のある交差点を右に曲がった。

 道なりに進むと国道などの大きな交差店を越えるが、その左手に天竜川に掛かる橋が見える。道路を横断し、バスパスからの道をくぐり、そのまま北へ進む。

天竜川渡船場跡 天竜川の渡船は道筋から見ると遠回りとなっている。一時期は、遠回りをしないで道筋を結ぶ長森から渡っており、長森が間の宿として栄えた。しかし、万治3年(1660年)に池田の渡船衆が、池田に渡船場を作って仕事を始めると、東海道も長森から池田まで延びた。それからは池田が間の宿として栄えることになった。池田の渡し風景館ただし、江戸時代を遥かに遡る延長5年(927年)頃から池田で渡船が行われていたそうである。渡船場が上中下と3ヶ所あるのは、水位によって使い分けていたからである。

 道の左手には細い道がいくつもあり、天竜川渡船場跡(写真左)や、さらにまっすぐ進むと池田の渡し歴史風景館(写真右)がある。ここから堤防を越え、天竜川を見渡し、渡し舟は出ていなそうなので河原の道で橋の方へ戻っていった。

 天竜川は中山道や甲州街道が通る諏訪湖から流れてくる川であり、山と海の物産交換に貴重な役割を果たした。

天竜川橋新天竜川橋 いよいよ現代の東海道の難所といわれている天竜川を橋で渡る。時刻は午後2時30分。天竜川橋(写真左)は歩行者用のスペースなどなくきわめて危険である。新天竜川橋(写真右)も車道との境にガードレールは無いが天竜川橋よりスペース的にはまだましであると判断し、こちらを渡った。風も強く感じられ、白線からこちらにはみ出してくるトラックもあり、今までの橋で一番長く感じられた。(現在、この二つの橋の間に新たな橋が建設中である。今度こそ、歩道が整備されることを期待しよう。)

 橋を渡り終えてから旧道に向かうには、すぐに左折し、堤防上の歩道のない道を行く。右手に舟橋跡と天竜川木橋跡の碑があるところで六所神社への道を下る。

安間一里塚跡馬込一里塚跡 六所神社の正面に伸びる道が東海道である。天竜川の治水に功績を残した金原明善の生家と記念館を過ぎ、右からの道と合流したところに安間一里塚跡(写真左)がある。こんな金網越しでは気づかない。地元の人に聞き、ようやく見つけた。この合流してきた道を少し戻ったところに姫街道の道標がある。(2001年12月、ここから姫街道を歩きました)

 浜松に向かって道なりに進む。途中、短距離だが松並木もある。浜松アリーナを過ぎて数分のところの大きな交差点は、地下道を利用する。ここから国道152号となる。

 馬込一里塚跡(写真右)も参考にしていた本(講談社+α文庫:完全東海道五十三次ガイド)に描かれている位置が違っていたので、しばらく、いや、かなりの時間をかけて探してしまった。


ちょっと寄り道:中田島砂丘

中田島砂丘マップ 東海道ウォークを開始する前、旧道のルートがはっきり分かっていなかったとき、国道1号の近くだと浜松付近は駅の近くを通らないのではないかと思っていた。実際の旧道は、現在の浜松駅付近を通っているのだが、国道1号は繁華街を避けてか、天竜川を過ぎると海の方へ向かう。国道は海からは1キロほど離れているが、その南に中田島砂丘がある。

 浜松駅からは4〜5キロ離れているが、東海道ウォークとは別に訪れたことがあるので紹介する。遠州灘に面する中田島砂丘は、日本三大砂丘のひとつで、その大きさは東西4キロ、南北600メートルにもおよぶ。遠州の風と砂が造り出す風紋も有名だが、自分が見たときはイマイチであった。また、ウミガメの産卵などでも有名で、産卵の時期は初夏から秋にかけてである。



浜松宿
広重画−浜松浜松城 浜松城は古くは曳馬野(ひくまの)城といったが、徳川家康が元亀元年(1570年)に増改築して居城とし、約16年間過ごした。城下町でもあり、本陣は6軒もあったが戦災で焼失した。

 馬込橋を渡ると浜松宿の入口のようだ。時刻は午後4時半である。歩く前の予定では2時前に着き、浜松で鰻を食べようと思っていたのだが、袋井から見附で距離の割に時間を使いすぎた。今日は舞坂宿より先の弁天島にホテルを予約しているので、ここは先を急ぐことにした。右の写真の浜松城は、2001年12月に姫街道を歩いたときに撮ったものである。

 静岡県内では静岡より都市化している大きな街であるが、東海道400周年も手伝ってか、本陣跡や高札場跡などの立て札(写真左下)も点々と設置されている。右の写真のように懐かしい感じのレコード屋や床屋(美容院?)も見かけた。
梅屋本陣跡
 旧東海道の道筋は、国道152号を西へ進んだ後、連尺町の交差点で左折し、国道257号を進む。この辺りに浜松宿当時の跡地を示す立て札が多い。現在の地名も伝馬町や旅籠町などがある。

 東海道本線が見えてくる成子坂付近の交差点を右折。200メートルほどで、左斜めへの道(下写真左)へ入る。東海道本線をくぐり、国道257号に合流する。この辺りからはかつて八丁畷と呼ばれていたようだ。

 国道が右に曲がる手前左手のガソリンスタンド近くに若林一里塚跡(下写真)がある。国道が曲がるところには、道の両側には藤原秀衡(ひでひら)にまつわる二つ御堂(みどう:下写真)がある。浜松から舞阪、思ったより距離がある。ここから舞阪まで、まだ8キロ以上もあるので、今夜宿泊するホテルに遅れる旨の連絡を入れた。

 高塚から篠原にかけては間の宿だったのか、高札場跡や本陣跡などがある。高塚町から篠原町に替わる辺りで、道は国道とは分かれ、道なりの右側の道へと入る。篠原には、江戸から67番目の一里塚跡(写真下右端)がある。坪井町、馬郡町を経て舞阪に入る。

菅原町交差点 若林一里塚跡 二つ御堂 篠原一里塚跡



舞坂宿
広重画−舞坂 地名は象嶋、廻沢、舞沢、前沢、前坂、舞坂と変わり、明治22年(1889年)の市町村制施行により舞阪となった。舞坂は古くから宿が置かれていたが、舞坂宿に対し家康は公用以外の伝馬、荷物運搬夫の使役を禁じたり、今切渡船の運営権を認めなかった。
舞阪の松並木
 舞阪の松並木(写真右)に到着したのは、既に午後7時を過ぎていた。松並木は、道の両側に約700メートル続く。沿道には、東海道五十三次の各宿場の銅板や十二支の石造などがあり、舞坂橋跡もある。

 松並木が終ると国道1号を斜めに横断して真直ぐに進む道が旧道である。江戸時代中期に構築された見付石垣や舞坂一里塚跡(下写真)も確認できたが、すっかり暮れてしまったので、翌日の朝、歩き直しに訪れた。

 脇本陣は平成9年(1997年)に復元され、資料館になっている。東海道ウォークとして歩いたときは、閉館後であり、翌日訪れたときは開館前であったので見学はできなかったが、次回の東海道ウォークで赤坂に向かう前に訪れることができた。

見付石垣 舞坂一里塚跡 本陣跡 脇本陣 脇本陣・上段の間


常夜塔
魚あら定食 2001年6月2日に戻る。夕食は「魚あら」で食べたいと思っていたのだが、暗いのと持っていた本に書かれている位置が違っていたので中々見つけることができなかった。街道が突き当たったところを左折してすぐのところにある。午後8時が近づいていたが、まだ営業中であった。公式な営業時間は、11時30分〜14時、16時30分〜19時30分のようだ。ちょっと贅沢に、うなぎ・刺身・天ぷらがセットになった魚あら定食(写真左)を食べた。

 昔、浜名湖の南は陸でつながっていた。明応7年(1498年)の地震と津波により今切が生じ、海水が流れ込み、淡水湖だった浜名湖は汽水湖に変わった。さらに永正7年(1511年)の大津波でその間が広がった。それ以降、、対岸の新居宿への一里(4キロ)は船で渡った。雁木(がんげ)とは、階段状になった船着場で、現在も残されている北雁木は、大名や役人用であった。

 東海道を進むのに、今は渡船がないので陸路を行く。今夜の宿泊先である弁天島へ向け歩いていく。


弁天島

浮見堂 弁天橋を渡ると弁天島である。ホテルに入る前に弁天島駅でJR東海のウォーキングスタンプを押そうとして立ち寄ったが、盗難にあったようでスタンプがなくなっていた。

 弁天島の北側で有名なのは、左写真の浮見堂である。夕日のスポットとして有名らしいが、浮見堂そのものは、老朽化が感じられる。

 今夜の宿泊は、弁天島駅前にあるホテル白砂(はくさ)亭(下写真:外観、眺望、室内)である。到着は午後8時25分であった。部屋はツインのシングルユース。ここはシングルの部屋は無いようだ。ツインを一人で利用しても、1泊朝食(和洋バイキング)付で7000円(税別)である。土曜日でも他の日でも同じようだ。ツインと同じ広さの和室を一人で利用しても同じ値段のようだが、前日に予約したため、この日は満室であった。部屋からはライトアップされた赤鳥居が見えた。



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