2章 マンション建替え運動の始まり

(1) 1988年に建替え「有志の会」が発足

 諏訪2丁目管理組合の歴史では、お祭りにしろ、芝生の管理にしろ、住民有志の運動が先行して
行われることが多かったが、建替え運動も例外ではなかった。建替え運動が始まったのは、1988年
(昭和63)年の集会所の増築が完成したのを契機として住民有志の運動として始まった。
この増築は多摩市の補助金をいただいての分譲団地集会場増築の第1号で、多摩市の基準に
満たない面積にたいして多摩市が補助金を出す制度で、諏訪2丁目が長年要望していた。
 この「有志の会」の運動の前には、理事会が主導して、居室増築の計画が有り、建築協定を
改正して増築を進めようとしたが、頓挫していた。ところが、1988(昭和63)年5月に結成された
この「有志の会」の運動は広がりを見せて、自分たちでチラシを作り住民に配りだした。

 当初理事会は建替えに慎重であったが、「有志の会」は7月に「建替え検討準備委員会」を結成し、
理事会は9月にこの会を追認して、10月には理事会の諮問機関と位置づけた。諮問内容は、
①長期修繕計画 ②増築計画 ③建替え計画の比較・検討・調査であり、建替えの検討を諮問したわけではなかった。
 「有志の会」が母体である建替え検討準備委員会は、人数も多く、精力的に会議を重ね、早速、4ヶ月後の1989年(平成元)年2月には理事会に答申を出してきた。答申内容は①建替えについて検討の必要が大であること。
②建替え検討委員会の設置を要望するというものであった。当時、「有志の会」が母体の建替え検討準備委員会には、理事は誰も入っていなかった記憶がある。

 理事会ではこの答申を尊重し、同年5月の総会で「建替え検討委員会」の設置を提案し、決議された。「有志の会」から理事会の諮問機関である「建替え検討準備委員会」になり、「有志の会」結成から1年後の1989(平成元)年には総会で決議され、準備という言葉が削除された委員会になった。またこの年の理事長は「有志の会」のリーダーが就任した。この「建替え検討委員会」は同年12月には、建替事業の基本計画試案と模型を作成し、組合員に公表し、説明会を開催し、1月には委員会が単独でアンケート調査を実施している。
 私がこの当時のことで不思議に思うのは、基本計画試案や模型を委員会で単独では作れないので、
住宅都市整備公団に委託して作ったはずだが、その費用をどのように捻出したのかである。

 「有志の会」が結成されてから、2年後となる1990(平成2)年5月の総会で、「建替え検討委員会」は、「建替え推進委員会」と名称変更し、建替え事業を管理組合の業務と位置づけて、予算に調査委託費を計上した。
また「有志の会」のリーダーであった理事長はこの1年で退任し、抽選で選出されてきた理事が理事長になった。
9月には建替え検討の調査を「住宅都市整備公団」に業務委託し、「住・都公団」は、3ヵ月後の12月には試案をまとめ、説明会を開催した。この試案は前年「建替え検討委員会」が公表した試案とほとんど同じものであった記憶がある。
つまり、理事会としては「住・都公団」との付き合いは1990(平成2年)春からであったが、「有志の会」を母体とする「建替え検討委員会」はかなり早くから、「住・都公団」と接触していたことをうかがわせ、これを理事会と総会が追認したといえる。この案は等価交換方式で、組合員の経済的負担なしで、従来と同じ居住面積が入手できる案だった。

 年が明けて1991(平成3)年2月には、建替えについてのパンフレットを作成してアンケート調査を行い、5月の総会には、「建替え推進の決議」を行い、建替え委員会を設置してその規約を制定している。管理組合として本格的に建替え運動を開始したと年と言える。「有志の会」から始まり「建替え検討準備委員会」・「建替え検討委員会」・「建替え推進委員会」となり、3年後にして「建替え推進の決議」を行い、「建替え委員会」が設置された。

(2)1991年の建替え委員会設置と、その後の紆余曲折

 管理組合として本格的に建替え運動に取り組むのは、この年からであったが、今日から考えると、
実はまだ建替え運動の前史にしか過ぎなかった。大きな問題は二つあった。一つは都市計画の問題で、都市計画法第11条の「一団地の住宅施設」で、諏訪2丁目は建ぺい率10パーセント・容積率50パーセントで、しかも住宅の戸数制限もかけられていたのである。この変更がない限り、実質的に建替えは不可能という問題があった。
二つ目の問題は、翌1992年からのバブル崩壊で、経済的に等価交換が難しくなってきたことであった。

 前者については、1991(平成3)年10月に組合員の署名をつけて、都市計画「一団地の住宅施設」の見直しを求める要望を東京都と多摩市に行った。この要請行動は7年後の1998(平成10)年に都の「多摩ニュータウンにおける集合住宅の建替えに係わる指針」として結実して、地区計画による解決の道を開いた。
要請行動は都庁の一室で行われ、正面には多摩都市整備本部長と都市計画局のナンバー2である技官がおり、部屋の横側にはそれぞれの部下が勢揃いしていた。要望書は多摩都市整備本部長に手渡したが、今から考えると都市計画局に手渡すべきだったと思う。実はこの問題はこの2局だけではなく、住宅局も関係する問題だった。
弱小部局である多摩都市整備本部には、住宅局と都市計画局と言う巨大部局にリーダーシップをとれる立場ではなかったと思う。

 1994年秋に管理組合は建設省に「一団地の住宅施設」問題で陳情行動をしており、その場には建設省から、多摩市と伴に東京都の住宅局も呼び出されていた。都営住宅局と皮肉られることもあった住宅局は、これで住宅政策である諏訪2丁目の建替え問題に直面することになったと思う。この要請行動後に、東京都は諏訪2丁目の要望の解決のために、住宅局を含めた関係3局を横断したプロジェクトチームを作り、3年を要して指針をまとめた。もっと重要なことは、この時に建設省から諏訪2丁目の建替え事業には、国の補助制度である「優良建築物等整備事業」が適用可能であり、東京都と多摩市にこの制度を適用させる考えがないかと迫った事だった。東京都住宅局は適用可能と言う返事だったが、多摩市の都市計画課長は返答に窮してしまった。
 無理もないことで、この補助制度は補助金の半分は国が持つが、残り半分は都と市が折半する制度であり、多摩市もかなりの財源が必要となり、一課長が返答できることではなかった。これには後日談があり、この課長は後に助役になり、多摩市にこの補助制度が導入できる道を切り拓いた。それで、諏訪2丁目はこの「優良建築物等整備事業」補助金を使って、建替え事業を進めることが出来た。この助役は市議会本会議場で答弁中に倒れて、そのまま帰らぬ人となり、諏訪2丁目建替え事業着手の時には亡き人となっていた。ご冥福をお祈り致します。

 後者のバブル崩壊は、これまで建替え運動を推進してきた人達の相次ぐ転出という事態を引き起こした。
つまり、やっと理事会は重い腰を上げたら、神輿の担ぎ手がいなくなっていた。建替えの第1次案を作った「住・都公団」も、その案での実施に経済的な理由で、引っ込みだした。つまり、総会での建替え推進という大方針とそのための組織=建替え委員会ができたが、前方に暗雲が広がりだしていた。

 管理組合は総会決議である建替え推進を進めるために、翌1992(平成4)年の総会で、建替え担当理事を置くことを決め、初代の担当理事には、抽選で選出されてきた湯口氏が担当した。しかし第1次案を作った「住・都」公団の腰は重く、コンサルタントのなり手がいなくなっていった。公団の腰は重かったが、多摩市は管理組合同様に建替えには前向きであり、諏訪2丁目の建替え計画に対応するために、この年度に「多摩ニュータウン諏訪永山地区の活性化に関する調査」を行っており、
翌年1993(平成5)年3月には報告書をまとめた。この報告書の参考資料として、公団に依頼して作った諏訪2丁目の建替え原案が紹介されており、多摩市としても諏訪2丁目の建替えに関心をよせていたことがわかる。
 バブル崩壊で等価交換による建替えは不可能となり、公団が建替え事業から撤退していったので、1994(平成6)年から竹中工務店にコンサルタントを依頼して、最初から出直し、第2次プランを作った。しかし、竹中工務店のプランは超高層ビル3棟が中心であり、組合員には不評だった。竹中工務店は1997(平成9)年までコンサルタントを務めていた。
バブル崩壊後の厳しい経済環境の中だったが、建替え委員会や住民集会などで、組合員が建替え事業とは何であるかを学んでいった時期でもあった。

(3)1998年・コンサルタントを公団に委託する

 竹中工務店はコンサルタントを自ら撤退したのではなく、管理組合の都合からであった。法的な問題をクリアし、建替え事業を円滑に進めることを考慮し、コンサルタントを1998(平成10)年に住・都公団に戻したのだった。当時は建替えとは、施工者が一旦敷地を全面買収する等価交換方式のことしか念頭になく、公的な団体である公団なら安心だ、という思いがあったと思う。
 まさか、現在工事しているように、自分たちが施工者になるとは思ってもいなかった。またこの1998(平成10)年4月には画期的なことがあった。1991年に署名付きの要望書で都市計画「一団地の住宅施設」見直しを要求していたことに答えて、東京都は「多摩ニュータウンにおける集合住宅の建替えに係わる指針」を発表したのだった。この指針ができたことで、多摩ニュータウンの「一団地の住宅施設」を見直すことが出来ることになり、建替え事業は現実的なものになっていた。

 住・都公団は3年を要して2000(平成12)年度に建替え基本計画(素案)をまとめ、2001(平成13)年3月にその提案書が示された。
管理組合は同年5月の総会で、「建て替え基本計画(素案)に基づく推進決議」をした。この案は全員合意を前提としていた。
しかし、住・都公団は都市基盤整備公団に名称変更が行われており、翌2001(平成13)年には、民営化されて、住宅建設事業ができなくなっていた。つまりデベロッパーの仕事ができなくなったので、諏訪2丁目の建替え事業を担えなくなった。
またしても、公団は撤退していった。しかし、この基本計画(素案)に基づいて事業をすすめる民間デベロッパーは現れず、基本計画(素案)から、実施計画へと進めなくなっていた。総会決議では実施計画へ進めるとなっていたが、決議が棚ざらしに陥った状態が、その後3年間続いた。

 2001年3月に提案された基本計画(素案)では、敷地の売却を考えており、土地の売却ゾーンがありました。
また権利者のゾーンには、全一致の方針から、建替え反対者のために、建て替えを見送るゾーンが有り、しかも、建替えゾーンには、容積率を低くした環境重視ゾーンと、経済性重視の資金重視ゾーンが有り複雑でした。
住民要望を丁寧に吸い上げていくと、このような複雑なものに、ならざるを得なかったと思われます。

 2001年3月に提案された、基本計画(素案)からの抜粋を以下掲載します。

各ゾーンの配置の考え方

①建替えを見送るゾーンの位置
今回の建替え事業の実施後も比較的環境の変イヒが少なく居住の継続が可能で、かつ、
将来には建替えゾーンと同じように建替えが可能なだけの権利が留保されること
を条件に検討した結果、4番地の南側にまとめて配置することにしました。

②建替えゾーンの位置
諏訪2丁目住宅でこれまで培われてきたコミュニティを継続できるように2番地
の北側と4番地にまとめて配置します。
建替え後の住宅に対して異なる考え方をお持ちの方長のために「環境重視ゾーン」
と「資金重視ゾーン」を設けます。
2番地・4番地のそれぞれに選択ができるように、それぞれの番地にそれぞれの
ゾーンを設けます。

③売却ゾーンの位置
今後の経済状況の変化による土地の売却価格の変動や、建替えを希望される戸数の
変化などを考えると、売却ゾーンの面積は今後も変わることが予想されます。
以上の状況を考慮し、敷地面積の変更にも対応しやすい位置である2番地南側に
まとめて配置することとしました。




 以上のように複雑な案で、しかも基本計画としながら(素案)となっており、3年間棚になったのもやむを得ないだろう。
 ついに、2003(平成15)年には、「駐車場会計から建替え準備金会計に交付することを停止する決議」をおこなった。
この制度は毎年2000万円を駐車場会計から修繕積立金会計に交付していたものを、1998(平成10)年から交付先を
修繕積立金会計から建替え準備金会計へ変更して、建替えの調査資金にしていた制度であった。
しかし、運動の行き詰まり状況で、資金が不要になっていた。

 この頃までの建替え運動の特徴は、総会での「建替え決議」による建替えではなく、「全員合意」による建替えであった。
2000年に作成した基本計画(素案)は全員合意を前提として、建替えを望まない組合員に配慮した存地ゾーンと、
建て替えたい組合員のための、建替えゾーンに分割した、いわば2段階建替え計画だった。
また管理組合は、91年と95年に建替えのパンフレットを発行しているが、いずれも建替え事業は全員合意としている。
組合員は全員合意という困難な事業にもかかわらず、毎年多額の調査委託費計上を、さほどの議論もなく総会で
承認していた。また、何度アンケートをとっても組合員の総意は建替え推進であった。
管理組合としては総会決議である建替え基本計画(素案)は、総会決議で廃案としなければならないので、
3年間も棚ざらし状態になっていた基本計画を廃案として、新たに基本計画を作るべきと判断した。
このあたりまでが、建替え運動の前史といえる。

 管理組合の建替え運動は行き詰まっていたが、2002(平成14)年12月には区分所有法が大改正されて、
全員一致ではなくても、管理組合総会での「建替え決議」で、団地の一括建て替えができるようになっていた。
このような社会情勢の変化を受けて、2004(平成16)年の総会で、公団案の基本計画を廃止して、
3年をめどに新たな基本計画を作成すると決定して、建替え運動が再出発した。
また、2004(平成16)年1月に国のマンション標準管理規約が大改正されたことを受けて、同年から規約検討委員会は
「建替え決議」を可能とするために、管理組合規約を全面改正する作業にとりかかった。

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