1章 多摩ニュータウン初入居の混乱期を乗り越えて
 

(1)1971年の団地への初入居からの混乱

 諏訪2丁目住宅は、多摩ニュータウンの最初の入居であり、管理組合の第1回
総会は千代田区九段で行われており、大勢のマスコミの取材があったと聞いている。
 私が諏訪2丁目へ引っ越してきたのは、1980年(昭和55年)の3月だった。
翌年の管理組合の総会だと思うが、5月に中諏訪小学校の体育館で開催され、
委任状の取り扱いをめぐって、混乱していた。原因は議長委任となっていることを
理由に、議長が委任状すべての議決権を自分の意思で行使した為だった。
これでは当然混乱する。後に、議長は会場の多数意見に従って議決権を行使する
というルールになりましたが、当時は管理組合設立からの、なれない区分所有という
形態などで、混乱がまだ続いていた。これは30年史によると、昭和55年の理事長
が途中で辞任していることからも伺える。
 初入居は1971(昭和46)年で、約10年が経過してこの頃には入居以来の
様々な混乱は収束していったと思われるが、この混乱の余波はその後も10年
ぐらいは続いたように記憶している。
ある年の総会が北諏訪小学校の体育館で行われた時は、昼から始まった総会が
終わったのは、夜の9時を過ぎていた。30年史の役員一覧から推測して、1984年
(昭和59)年の総会だと推測するが、混乱の原因は後で理事から聞いたことだが、
総会に提出された議案の一部が理事会でかろうじて過半数を得て提案された議案
だったという。理事会で意見が対立しているものを総会に提案すれば、総会は当然
揉める。しかし、議長が自らの意思で議決権を行使するとか、とにかく多数決で決め
れば、それで良いというか、やむなしという考えが、当時あったようだ。民主主義の
ルールとは最後は多数決だが、そこに至るまでの議論の積み重ねが大切だという
考えは、当時はあまりなかったようだ。

 何故、このような乱暴な多数決の論理が横行したかというと、入居以来の、駐車場
増設か、緑を大切にするのかという、団地を二分する世論の対立が有り、
お互いに相互不信があり、議論を難しくしており、最後は多数決に頼らざるを得ない
事情があったと思われる。 諏訪2丁目入居以来の難問の一つは、駐車場問題
だった。なにしろ、640戸に60台程度の駐車場しかないので、マイカー時代を
迎えていた当時の団地としては明らかに不足していた。
 もうひとつの難問は、砂嵐だった。とにかく入居当時は、植栽の工事がまだ終了
していない状態での入居で、おまけに周辺は、宅地造成中のむき出しの砂山で、
風が吹けばものすごい砂塵が舞ったという。そこで、入居した人達はせっせと植樹
をした。今の旧東永山小学校グラウンドのり面の梅林は、当時の諏訪永山地区の
初期入居者が植樹したものだという。諏訪2丁目内もせっせと植樹をしているのに、
駐車場増設のためには、入居した時から植えていた植栽を伐採しなければならな
いという難問があったから、緑重視か駐車場かで対立してしまう。団地を二分する
世論の対決とならざるを得なかったのだろう。

 駐車場問題の解決のために、駐車場のラインを引き直して、一台あたりの幅を
狭くして台数増を図ったと聞いているが、焼け石に水だった。
駐車場問題については、30年史で、岡治男さんがカークラブ等について書いて
いるが、そこで述べられていないことで、1977(昭和52)年に外周道路脇に
公団が205台分の駐車場を新設したが、これには重要な前史があることを書く。
実は、この土地は公団が住宅建設を予定していた土地だったが、諏訪2丁目の
住民が勝手にブルトーザを入れて整地をして、駐車場にしていたものだった。
実は同じようなことが愛宕団地でも行われており、東京都の土地を不法占拠して
駐車場として、つい10数年前まで利用していた。当時の駐車場問題は深刻で、
行政は、住民が公の土地を不法占拠して駐車場にして、駐車場料金を徴収
していることを、黙認せざるを得なかった。
諏訪2丁目はこの不法占拠を解く条件として、住宅ではなく駐車場を建設する
ことと、諏訪2丁目住宅管理組合の専用の駐車台数を確保することについて、
公団と管理組合とで文書での確認をしている。その際、諏訪2丁目住宅管理組合の
専用台数を決めるのは、第1回目の抽選で駐車場を確保した者の住所が2番地と
4番地であれば、それは管理組合員専用とする取り決めだったために、とにかく
多くの人が駐車場抽選会に参加するように、管理組合は住民に呼びかけたと聞いている。
 このように苦労をして確保した駐車場なので、私が理事になったときは、
理事は強制的に公団の駐車場へ移るように指導された。

 私が入居した1980(昭和55)年には、団地外に公団の112台分の駐車場が確保
できていても、まだまだ駐車場は不足しており、内周道路にラインを引いて駐車場に
していた。しかし警察署の指導でそれは撤去して、駐車場の増設に踏み切っていったのは
30年史によると1981(昭和56)年の総会決議からで、私が記憶する大きな増設は、
おそらく1985(昭和60)年の16号棟と17号棟の法面南側にある空き地に大きな駐車場
を作った工事だった。しかし、その工事以降は樹木の伐採を伴わなければ、駐車場は増設
できず、歴代の理事は粘り強く駐車場の増設に取り組んで行った。この粘り強く組合員と
議論を重ねる経験が、重要な問題は各種委員会で議論を尽くしてから、理事会は結論を
出すという、2丁目の住民自治の形成に役立ったと思う。

 入居当初は混乱があったものの、駐車場が足りなければ自分たちで解決をする。
あるいは、植栽の緑が不足しておれば自分たちで植樹をするなどと、役所に要望して
役所で何とかしてもらうという発想ではなく、アメリカ西部の入植・開拓民のように、
自主・自立の発想でなければ、当時は、物事は解決しなかったようだ。
 行政にお願いするのではなく、自分たちで物事を解決していくと言う態度は、
諏訪2丁目だけではなく、初期入居の諏訪永山地区の特徴とも思える。永山地区は
入居して困ったのは尾根幹線道路の騒音だった。永山4―3街区南にある道路は、
住民は最初は工事用道路と思って入居したが、実はこの道路が幅員43m以上ある
尾根幹線道路の一部であることがわかってきた。そしてその道路に一般車が通行しだして、
尾根幹線反対運動が起こった。公団永山自治会などの住民がとった行動は、1973年
(昭和48)年11月に道路をバリケード封鎖するという実力行動だった。更に、1979年
(昭和54)年10月の道路の強制着工時には、家庭の主婦ら約150名が、座り込み
による工事実力阻止行動に出て、強制着工する公団と衝突して,負傷者までが出たと
報道している当時の新聞を、多摩市史が掲載している。
 このような、諏訪2丁目だけではないニュータウン住民の実力行動を、多摩市は黙認
していた。実は多摩市自身も、ニュータウン建設のヒズミを痛感していて、国や東京都
を相手に実力行使をしていた。

(2)ニュータウン建設と、多摩村の歴史・風土

 ニュータウン建設という、土地の強制収容を伴う事業を受け入れることは、当時の
多摩村住民にとり苦渋の選択だった。しかも、学校建設などの市の財政負担は膨大で、
解決の見通しが立たないまま入居が始まり、初入居の昭和46年以降は、多摩市は
新住法26条協議に応じないという、多摩市の実力行使(ボイコット)で、住宅建設を
ストップさせていた。多摩町時代からの国と東京都への要望に対して、回答がないまま
に入居が始まり、多摩市は26条協議の場への出席を拒む戦術に出たのだった。
いわば多摩市は団体交渉決裂を理由に、ニュータウン建設に対して無期限ストライキ
に突入していった。法的には、これで住宅建設はストップする。住宅が建設されれば、
多摩市は毎年いくつもの学校を建設せざるを得ないが、そんなお金が多摩市にある
はずもなかったのだった。

 3年後の1974(昭和49)年10月に「住宅建設と地元市の行財政に関する要綱」
が制定され財政問題に見通しができたので、多摩市は26条協議のボイコットを解き、
住宅建設が再開されることになった。実に3年間にわたり多摩市の実力行使により
ニュータウンの住宅建設がストップしたのだった。この「行財政要綱」がなかったら、
多摩市はとっくに財政破綻していたはずだが、多摩市の実力行使がなければ、
国も東京都も動かなかっただろう。
 このように、入居してきた新住民だけではなく、多摩市自身も国や東京都に頼る
のではなく、自主・自立路線で、ニュータウン初入居時期の混乱期を乗り切っていた。
そして、ニュータウン新住民の実力行動を、見守っていた多摩村の旧住民の存在もあった。

 これは、南多摩郡多摩村の歴史・風土と関係するのではないかと思う。自由民権運動
について、親しくしていた多摩村の人に聞いたことがあるが、「壮士」のことは村では話し
てはならないタブーだと言っていた。「壮士」とは、「三多摩壮士」と呼ばれており、
自由民権運動の担い手である活動家のことである。多摩市史では、多摩村と自由民権
運動についてはあまり書かれてはいないが、隣接している村同様に、当然深い関わりが
あったと思われる。武相困民党のことなどが解かり始めたのは、1960年代のことで、
それまでは、厳しい弾圧が有ったことであり、語られることのない歴史だった。
 1884(明治17)年、武相困民党の数千人が八王子南の御殿峠に武装集結して
八王子を目指した。町田の自由党員である細野喜代四郎は、この時の様子をフランス革命
のバスチューユ襲撃を連想したと記録している。この1884年は秩父困民党の武装蜂起が有り、
加波山事件(死刑7名)名古屋事件(死刑3名)等、自由党急進派の事件が各地で相次いだ
年であった。三多摩の自由民権運動急進派は、例えば1988(明治21)年10月8日の
大隈重信暗殺計画に加わり、三多摩壮士が爆弾搬送役を担うなど、相当に過激なものであった。
それだけに、武相困民党や自由民権運動急進派への弾圧が凄まじかったので、
三多摩各地の村では「壮士」のことは語ってはならないことになっていた。
 自由民権運動に身を投じて、没落していった三多摩の豪農・「壮士」は数多いが、
近年まで、語られることはなく、近年になってその歴史の発掘・調査が行われている。

 三多摩とりわけ南多摩郡が、自由民権運動の全国的拠点であったことは有名な事実で、
1897(明治30)年の新自由党結党大会には、南多摩郡から670人が参加しており、そのうち多摩村
からの参加者は47人であった。(「三多摩の壮士」昭和48年武蔵書房刊 佐藤孝太郎著より)
 これは、隣の鶴川村と稲城村からの参加者がいずれも30人であった事と比較してかなり多い人数で、
多摩村でも自由民権運動が盛んであったことが伺える。多摩村でも「壮士」が活動し、自主・自立の
風土が育っていたと思われ、このような風土が、多摩市が国や東京都を相手に、重要な会議を3年間
に渡ってボイコットするという実力行使を生み、また、ニュータウン新住民の実力行動を、村の人が
容認する「下地」となっていたと推測する。

(3)管理組合の自主管理への動き

 諏訪2丁目住宅管理組合の特徴として、早くから、組合の管理費を使ってお祭りを行っていることがある。
これは今でこそ区分所有法の改正の結果、合法だが、当時は管理費を住宅の管理とは関係のない
お祭りに使用することは、違法な支出に当たるのだが、誰も違法意識はなく当然な支出と考えていた。
国は諏訪2丁目が行っていたことを後追い的に合法とし、今では、むしろこのようなコミュニティー活動
に管理費を使うことを奨励している。いわば、諏訪2丁目住宅管理組合は今日のマンション管理組合
活動の先駆者だったとも言える。
 この夏祭り最初は、入居3年目の1973(昭和48)年に多摩市自治連の盆踊りに住民有志が参加
したことから始まり、翌年から管理組合が主体となって実行委員会を作り実施するようになった。
最初の自治連主催の夏祭りに参加した時に作った、住民有志のテントは最後の夏祭りまで使用
されていた。また、団地の餅つきも同じ年より行われている。このように、諏訪2丁目の管理組合は、
住民有志が先導的に動き、設立当初から自治会的な活動を重視して、住民のコミュニティー活動
に積極的だった。
 自主管理の前史として、お祭りと同じ年の1973(昭和48)年からの、住民有志による芝生の
雑草手抜き作業が有り、それが、住民総出の芝刈り作業になっていったことがある。
初めて管理組合が芝刈り機を購入したのは、1977(昭和52)年で、入居から7年目であった。
また、植栽業者を管理会社を通さず、直接契約することも早くから始まっている。

 本格的自主管理は、入居から14年目の1984(昭和59)年7月からだった。先に述べた、
夜9時過ぎまで総会を開いた年である。当初の自主管理はスムースとは言えなかった。
原因の一つは、事務局長が理事を兼任していたことであった。理事会が雇用主であり、
事務局長は被雇用人であるのに、これを一人の人格が担うのは所詮無理なことで、
これはその後是正された。
 この年に規約は一部改正されていたが、本格的な自主管理のための規約改正にむけ、
規約改正委員会が公募され、私は委員になった。当時は公募の委員が10数人集まっていた。
また、会計原則に、公団の子会社である団地サービスは、それまで単式簿記の会計をとって
いたのを改め、複式簿記が導入された。

 会計での不正を防ぐためには当然の導入であったが、事務局員は複式簿記になれず、
事務局長の退職の一因にもなった。管理組合会計を複式簿記にすることは、今でこそ国が
勧める標準となっているが、当時としては可画期的だったと思われる。当時は公団の子会社
だけではなく、ほとんどの管理会社が単式簿記であった。理由は予算主義から来たのだろうが、
いくつかの管理組合や管理会社で不正があったりして、今では複式簿記が標準となっている。
しかし、収支計算書と貸借対照表及び財産目録からなっている私たちの決算書は、今日では、
まだ不十分である。収支計算書は企業会計の損益計算書に替わりうるものではなく、
正味財産増減計算書を作成して、そこでの正味財産と貸借対照表の正味財産が一致しなければ
ならない。しかし今だに、私たちが30年近く前に導入した正味財産増減計算書がない決算書
形式を多くの管理組合が行っており、正味財産増減計算書の作り方すら知らない管理会社がある。

 自主管理になり管理組合役員の負担が増えてきたので、1988(昭和63)年から、
それまでの理事8人監事2人の体制から、理事12人監事2人に増員して、理事会の継続性を
維持するために役員任期2年・半数交代制にした。この半数交代制は、当時としては画期的であり、
今ではこの半数交代制を取る管理組合が増えてきた。
 自主管理に移行した当時は、芝刈りは二日がかりで行っていたが、雨で中止の日もあり、
役員の負担は重く年2回が限度だった。年間の芝刈り回数を増やすために、芝刈り機を増やし、
1日で芝刈り作業が終了することが出来るようになり、年間3回の芝刈りにしたのは自主管理移行
7年目の1990(平成2)年であった。また、この年から夏祭りの盆踊りのヤグラを今までは業者に
発注して作っていたのを、鉄の組立式やぐらを購入して、自分たちで作るようになった。更に、夏祭り
の子供神輿は樽みこしだったのを、民間企業の寄付で組立式の神輿を寄贈してもらい、
自分たちで神輿を作製したのは、前年の1989(平成元)年だった。

 このように自主管理に移行当初は多少の混乱はあったものの、団地は落ち着いた成長を遂げていったが、
理事会は様々な難問の処理で大変だった。私が初めて理事になったのは、自主管理に移行して3年目の
1986(昭和61)年だったが、当時から理事会は月2回行われていて、議題が多く会議が終わるのはいつも
夜11時過ぎだった。このような状態はその後5~6年続いたと記憶している。

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