第2章 文献史学によるヤマト王権説と河内王権説



大仙稜古墳(伝仁徳天皇稜)で、外堀は明治時代に造られたという説がある。

      目次
(1) 日本古代史に関する文献史料
(2) 文献史学によるヤマト王権説
(3) 河内王権説(王朝交替説)


(1) 日本古代史に関する文献史料

 考古学では近年になり多くの遺跡が発掘されており、古代の倭王権成立に関する研究が活発に進んでいる。しかし、文献史学ではそもそも史料がほとんどない四世紀の研究でもあり、活発に進んでいるとは言えない。
 その事情について熊谷公男氏は「大王から天皇へ」(講談社学術文庫 2008年刊)で次のように述べている。
 『津田左右吉(一八七三~一九六一)の記紀批判(「古事」「書紀」の史料批判)の成果を積極的に継承するところから出発した戦後の古代史学界では、記紀の史料的性格に批判的な見方が一般化し、その記述内容は否定的に評価されることか多くなった。(中略)
ところが、記紀の史料的性格に対する批判的評価が定着するにしたがって、記紀を敬遠する空気が古代史家の間に広がり、その研究対象が大化前代から奈良・平安時代へと大きくシフトするという現象を生み出した。このところの古代史学界では、大化前代の研究が決して盛んとはいえない状況がつづいているのである。
 一方、考古学界のこの時代に関する研究は、発掘調査の蓄積にともなって、情報量がかつてとは比べものにならないほど増大しており、研究者の増加とも相まって、研究が格段に進展していることは誰の目にも明らかである。そこでいま大化前代の古代史研究に必要なことは、考古学の古墳時代研究の新しい成果を努めて吸収しながら、記紀の史料性を再検討することであろう。』

 このような状況であり、文献史学による倭王権成立に関する研究はあまり進んでいないのが現状で、当然日本古代史に関する書物でも、列島の政治的統合を、いつ、どのように、一応であっても統合をしたのかに論及している文献史学での最近の書物は意外と少ない。このテーマに関しては、いわゆる通史と言われる書物では、最近では考古学者が執筆している場合が多い。手元にある「岩波講座 日本歴史 第1巻の古墳時代」と「講談社学術文庫 日本の歴史 ②」及び「岩波新書 シリーズ日本古代史 ②」はいずれも執筆者は考古学者である。しかしかつてのベストセラーである、中央公論社の「日本の歴史 第1巻」は縄文・弥生時代を含むのに、その著者は歴史学者の井上光貞氏であった。
 このような古代文献史学の現状なので、参考にした書物は最近故人となった人が著したものがある。これを執筆中の2016年3月には上田正昭氏もなくなったが、上田氏の書物を含めて、ほとんど絶筆となった論文も参照させていただいた。
まず、歴史学者の書いた倭王権成立に関する諸説の検討に入る前に、どのような文献史料があるのかを見ていく事にする。

 中国史料で倭が最初に書かれているのは、現在に伝わる最古の歴史書である「山海経」(せんがいきょう)である。ここでは「倭は燕に属す」と書かれてあり、燕とは現在の北京地方であるから、倭とは中国の北方と思われていたらしい。
 ついで後漢の王充(おうじゅう)の「論衡」(ろんこう)があり、周の時代に倭人がチヨウ草を献じたという記事がある。チョウ草とは香草の事で、粤(えつ)地の特産とされており、倭人とは南方の種族とみられている。ただし周の時代とは日本の縄文時代も含む時代であり、この倭人が日本列島の倭人を指すとは限らないと考えている。
 続いて中国の正史である「漢書」・「後漢書」・「三国志」という重要な文献になっていくので、私見での紹介ではなく、上田正昭氏が「私の日本古代史」(新潮選書 2012年刊)で紹介している文書を引用する。

 『後漢の班固が建初年間(76~84)に著した『漢書』の地理志には。有名な「楽浪海中倭人あり、分れて百余国となる」との記載がある。文にいう楽浪は、紀元前一〇八年に前漢の武帝が設けた楽浪郡の楽浪とされ、この倭人は北九州の人びととする説が有力だが、他方朝鮮半島南部の倭人と推定する考えもある。ただしこの記載が、『漢書』の燕地(えんち)の条にでてくる点はみのがせない。
 『漢書』のつぎに注目すべきは、『後漢書』東夷伝にみえる倭の条である。しかし『後漢書』の成立年代は、邪馬台国論争で有名ないわゆる「魏志倭人伝」(『魏書』東夷伝倭人の条)を収録する『三国志』よりも新しい。すなわち南朝宋の范曄(三九八-四四五)が編集した史書である。したがって『後漢書』のなかには、明らかに『三国志』を参考にしてしるされている個所がある。
 『後漢書』以前に、後漢のことをのべた史書がなかったわけではない。たとえば『続漢書』があったけれども、これは残念ながら散逸してしまい、その内容を詳しくたしかめることはできない。
 ところで『後漢書』東夷伝の倭の条には、「倭の奴国、奉貢朝賀す、使人みづから大夫(論議をつかさどる官)と称す、倭の極南界なり、光武賜ふに印綬を以つてす」とあり、また同光武帝本紀にも「東夷の倭の奴国王、使を遣はして奉献す」とある。ともに建武中元二年(五七)のできごととする。
 さらに『後漢書』には、「安帝の永初元年、倭国王帥升ら生口(奴隷的なあつかいをうける人々)百六十人を献じ、請見を願ふ」とし、安帝本紀にも、安帝の永初元年に、「倭国、使を遣はして奉献す」としるす。後漢の安帝の永初元年は、一〇七年に相当する。
 これらの『後漢書』の記事は、『三国志』の『魏書(『魏志』)』にはみえないもので、独自の伝承として注目すべきである。この場合の「倭の奴国」「倭国王」「倭国」はいずれも、北九州の地域を中心とするものであろう。
 だが、だからといって「倭」をすべて日本列島にかかわるものと解釈しうるかというと、かならずしもそうとは限らない。
 西晋の陳寿(232~297)が太康年間(280~289)に撰述した『三国志』の『魏志』東夷伝倭人の条には、倭・倭人・倭種のほか、倭国・倭王・大倭などの表現がある。そこで東夷伝にみえる倭・倭人のすべてを日本列島ないし列島内の種族と考えがちであったが、そのような見方にただちに従えないことは、つぎの例をみても明らかとなろう。
 『魏志』の東夷伝韓の条に、「韓は帯方の南、東西は海を以つて限りとなし、南は倭と接す」とある倭は、日本列島内の倭とは考えにくい。
 帯方とは、二〇四年のころに遼東へ進出した中国遼東の豪族である公孫氏が、楽浪郡の南部を帯方郡としたその帯方であり、韓は帯方の南で、東と西とは海をもって限りとし、南は倭と接続するとした倭であるから、この倭は朝鮮半島南部にあったことになろう。
 同弁辰の条に「トク盧国(朝鮮半島南部の国)倭と界を接す」とか、あるいは「国、鉄を出す、韓・ワイ・倭皆従つて之を取る」とかの倭もそうである。』

 以上で引用を終えるが、上田氏は中国の文献に現れる倭とか倭人とかを、ことごとく日本列島ないし列島内の種族としがたい例はほかにもあるとして、「魏志」東夷伝韓の条や同弁辰の条などいくつかの例を挙げて、この朝鮮半島の南部の海辺にいた倭の存在に注意して中国や朝鮮の文献や金石文を読むようにと指摘している。重要な指摘であり、朝鮮側史料である「三国史記」に多く登場する倭や倭兵を読み解くときはもちろんのこと、特に広開土王碑の碑文に登場する「倭」の実相を明かすには、この指摘は重要だと思っている。

 中国は3世紀末から混乱の時代になり、中国側の史料は4世紀には存在していないが、4世紀の金石文が二つ残っている。
 一つは今述べた広開土王碑の碑文であり、もう一つは天理市の石上神宮に保存されていた七支刀の銘文である。
 七支刀は、369年に百済と倭が軍事同盟を結んだときに贈られたものと考えられており、61文字が記されている。これは百済からの朝貢品か、それとも百済が倭に下した下賜品かで今も決着がついていない。なぜこのような議論になるかというと、「侯王」という文字がありこれが倭王の事ならば、当然、百済からの下賜品となるからである。しかし日本書紀には朝貢品と書かれてあり、日本では下賜品という解釈を採っていない。
 広開土王碑は高句麗の長寿王が414年に建立した広開土王の顕彰碑で、約1800字が刻まれている。この中で倭に関することが4か所書かれており、400年には高句麗軍は倭と戦争をして倭を破り、任那加羅まで追い詰めたと記されている。この戦争について、上田正昭氏は「倭の全てが日本列島内の倭か、なお吟味を要するとして、「ましてや倭=大和朝廷と即断することはできない」と先ほど引用した書物に書いている。
 この二つの金石文は、「空白の4世紀」を埋める貴重な同時代の史料であり、別に一章を割いて詳細に検討する。

 次の中国の正史に登場する倭は「宋書」である。「宋書」倭国伝では、有名な倭の五王は421年に倭王「讃」が朝献する記事から始まり、478年の倭王「武」の上表文の記事までが書かれている。倭の五王を「記・紀」に書かれている天皇のだれに比定するかで、その天皇の在位実年代が推測できるのであるが、残念なことに「武」を雄略天皇に比定するのは定説となっているが、それ以外は定説とされる学説はまだできていない。また「武」の有名な上表文では、武の先祖は「海北九五国を平らげた」と書いてあるが、雄略天皇の先祖では、実在しない神功皇后を除くと朝鮮出兵の説話を持つ人物はいない。にもかかわらず、雄略天皇は何を根拠にして、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と称し、中国の皇帝にたいして、その除正を要求したのか、私にとっては謎である。

 次の中国の正史は「隋書」であり、唐の魏徴(580~643)らにより書かれている。「隋書」倭国伝は、608年の遣隋使の訪問に対する答礼が、翌609年に行われた時のもので、答礼使の裴世清が実際に当時の倭国を見聞した記録である。貴重な同時代史であるが、日本書紀から得られる常識と異なる点がいくつかある。まず当時は推古天皇の時代で、当然王は女王のはずだが、裴世清が会見した王は男である。この問題は、外交は摂政である聖徳太子が担っていたと考えれば解決可能だろうが、まだ問題がある。問題となるところを岩波文庫版の現代語訳で以下引用する。
「都斯麻国(対馬)をへて、はるかに大海の中にある。また東にいって一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東にいって秦王国(厳島・周防、秦氏の居住地か)に至る。その住民は華夏(中国)に同じく、夷州(いまの台湾)とするが、疑わしく明らかにすることはできない。また十余国をへて海岸に達する。竹斯国から以東は、みな倭に附庸する。」
 この文章の中で、対馬と壱岐が倭の附庸国となっていない問題は既に序章で述べてある。
 もう一つの問題は、秦王国でその住民は華夏(中国)と同じだと書かれており、この時代は推古天皇の時代であり、北部九州はかつての奴国や伊都国は統合されて筑紫国という広大な国になっており、一国が中国人のコロニーであるとしたら、古代史を揺るがす大問題であるが、あまり問題となっていない。
また、筑紫国などは倭国と区別された附庸国となっていることも、岡田英弘しは「倭国」(中公新書)で、「まだ統一国家らしいものはなく、倭王が直接支配する、王都邪摩堆(やまと)の周辺の小さな地域だけが倭国であること、それ以外の諸国は倭国の附庸国にすぎない」と指摘していることも重要である。

 唐の時代に書かれた歴史書に、南北朝時代の南朝(宋・斉・梁・陳)の歴史を書いた『南史』と、北朝(魏・北斉・周・隋)の歴史を書いた『北史』がある。李大帥が編年体の南北朝通史の執筆を構想して編纂を開始し、その子の延寿が父の事業を引き継いで完成させた。659年に正史として公認されている。また、唐の太宗・李世民(598~649年)は、房玄齢を総監として未編纂の史書を作ることを命じ、『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』と『晋書』が編纂されており、李延寿は父の事業を完成させただけではなく、その時も編纂に参与している。
 次の中国の正史は「旧唐書」(くとうじょ)で、倭国と新たに登場した日本国との関係が謎となっていて、「倭国」の条と「日本国」の条が別々に立てられている。次の「新唐書」では、「倭国」の条は無くなり「日本」だけとなっている。

 日本側の文献史料は、「日本書紀」と「古事記」であり、総じて「記・紀」と呼ばれている書物である。壬申の乱で勝利した天武天皇が国史の編纂事業に着手したのは681年で、「古事記」全三巻は和銅五年(712年)に完成しており、「日本書紀」全三十巻は養老四年(720年)に完成した。「古事記」は神代から始まり推古朝で終わっており、「日本書紀」は同じく神代から始まり持統天皇で終わっている。いずれも壬申の乱後の、高揚した新しい国家意識が優先しているとして、その成立の事情から、史料として採用するときは、特に推古以前は慎重な取り扱いが求められている。
 金石文の中では重要な史料としては、埼玉県の稲荷山鉄剣と熊本県の江田船山鉄剣の銘文がある。いずれも雄略朝のころに書かれた同時代史料として貴重なものである。他の金石文史料として、隅田八幡神社人物画像鏡の銘があり、百済の武寧王と倭王権との関係などで注目される。

 朝鮮側の文献史料として現存しているのは「三国史記」と「三国遺事」である。「三国史記」は三国時代の正史として描かれた、新羅・高句麗・百済の歴史書で、金 富軾(きん ふしょく、(1075~1151年)が編纂し、成立は時代がかなり下った1145年になってからである。「三国遺事」は、「三国史記」が正史としての体裁にとらわれた為に、採りこぼしている故事・説話を拾い集めて、高麗の高僧一然(1206~1289年)が1280年ごろに書いた書物で、原史料は古くからあったはずだが、いずれも時代ががなり後になってから書かれた書物であり、史料として取り扱うにはこのことを念頭に置く必要がある。


(2) 古代文献史学によるヤマト王権説



上の写真は、初代天皇・崇神天皇陵とされる行燈山古墳

 前章で見てきたように考古学では、前方後円墳の成立をヤマト王権成立のメルクマールとしている。しかし、文献史学者の吉村武彦氏は、前方後円墳の築造が王権の成立を意味するのか理論的に問題があり、また王権の成立とは、首長が特殊な公権力による機構を通じた民衆の支配であるのに、考古学では機構を通じた民衆支配の側面があまりに軽視されていると指摘している。文献史学では従来から崇神天皇から大和王権の成立を考えており、吉村武彦氏も、崇神朝からのヤマト王権説を説いている。彼の説を著書「ヤマト王権」(岩波新書 2010年刊)を用いて、「岩波講座 日本通史第2巻 収録の『倭国と大和王権』(1993年刊)」も参照しながら、この説を理解していくことにする。
 文献史学では何故崇神天皇から大和政権の成立を考えているのかというと、初代天皇は神武ではなく、崇神天皇と考えているからである。この考えについて吉村氏は岩波新書の「ヤマト王権」で簡潔に説明しているので、その部分を引用する。

 『ヤマト王権の由来と伝承は、『古事記』と『日本書紀』に書かれている。しかし、「はじめに」でふれたように、最終的には八世紀に編纂された書物なので、史料批判が必要となる。最初に、初代の王の問題から述べてみたい。
 「記・紀」ともに、第一代は神武天皇と書かれている(ただし本書では、『日本書紀』の天皇の代数は、わかりやすくするために便宜的に使うだけで、実在を認めるものではない)。それにもかかわらず、あえて初代の王を問いただすのは、なぜか。実は「記・紀」の天皇史の始原には、謎が存在するからである。まずは、この天皇史の謎から解き明かしていきたい。
 「記・紀」には、不思議なことに「はじめてこの国を統治する天皇」という意味の「はつくにしらすスメラミコト」と名づけられた天皇が、二人も存在する。『日本書紀』には二人おり、第一代の神武に「始馭天下之天皇」と記し、第一〇代の崇神天皇に対しても「御肇国天皇」(ともに、はっくにしらすスメラミコトと読む)と記す。一方、『古事記』では、崇神だけに「初国知らしし御真木天皇」と記述する。つまり、「記・紀」ともに第一〇代天皇である崇神に対し、なぜか「初代の天皇」という呼び方をしている。それは、なぜなのか。
 天皇の歴史を書き記す史書において、一〇代目が「初代の天皇」とされていることは、いかにも理不尽であり、何か重大な自己矛盾が隠されていると思わざるをえない。ここであらためて、「記・紀」が後代の編纂物だということを思い起こしたい。「記・紀」の編纂の基礎史料である「帝紀」には、王位継承の事項が含まれている(後述)。当然ながらそこに、崇神を初代の王とする伝承が存在していたからこそ、「記・紀」の両書にそれが採用されたのであろう。それならば、ヤマト王権の成立を示す「初代の天皇」は、神武ではなく、第一〇代の崇神天皇であると考えた方が妥当であろう。』

 さらに付け加えるなら、神武には「始馭天下之天皇(はつくにしらすスメラミコト)」と記し、崇神には「御肇国天皇(はつくにしらすスメラミコト)」と記しており、統治の範囲が「天下」と「国」で違いある事を指摘している。天下という考え方は、夷(えびす)や蕃国(加耶や新羅)を支配下におさめた「治天下(天の下を治らしし)」の王という、国の支配より後になってから出てくる観念である事を指摘している。つまり初代天皇とされている神武のほうが、第10代とされている崇神より広い統治範囲となっており、当然、神武説話は、崇神の説話より後代に造られた説話であり、初代天皇は崇神という事になる。

 それでは、崇神天皇は実在していたのかが問題となるが、この崇神天皇にはそれ以前八代の「旧辞」として伝承された事績のない天皇(これを、欠史八代という)と異なり、治世に関するさまざまな伝承が書かれてあり、欠史八代の天皇名称は後代に似た名前の天皇がいるのと異なり、「ミマキイリヒコイニエ」という崇神の名前は、後代に似た名称の天皇は存在していないことから、欠史八代の天皇のように、後代になって創造された天皇ではなく実在性が高いと思われている。この崇神天皇はいつごろ実在していたのかにつき、引き続き「ヤマト王権」からの引用を続ける。

 『初代のヤマト王権の王は、すでに述べたように、崇神天皇である。また、実在した可能性がある最初の天皇としても、崇神があげられてきた。ところが、この崇神が実際に王位に就き、実在したことを証明する直接の史料はない。中国との外交は、三世紀の邪馬台国以降、五世紀の倭の五王の時代までは交流が途絶えていた。『魏志』『宋書』のような同時代的史料は、存在しないのである。 『古事記』によれば、崇神の没年干支は「戊寅年」で、西暦二五八年とされる。しかし、この没年干支が、正確な紀年であるという保証はない。残念ながら、今のところヤマト王権の成立時期を現わす確実な証拠はないのである。そのため、文献史料を離れ、考古学的資料から推測せざるをえない。つまり、崇神天皇陵から推測する方法である。
 今日、宮内庁からは、崇神陵古墳として、奈良盆地南部の柳本古墳群の行燈山(あんどんやま)古墳が比定されている。古墳の被葬者については疑問を呈する研究者もいるが、巨大な前方後円墳は王陵(天皇陵)と判断してまちがいなく、この比定は、ほぽ事実であろうと思われる。墳丘の長さは二四ニメートル、周濠を含めると約三六〇メートルという大きな前方後円墳である。その築造年代は、四世紀前半といわれる。古墳の築造が生前に行なわれたのか(寿陵)、没後であったのかは考古学的に決めがたいが、『書紀』の仁徳紀における天皇陵の造成記事をみると、寿陵の可能性がある。いずれにせよ、行燈山古墳の築造年代から考えると、ヤマト王権は四世紀前半ころには成立していたことになる。』
 
 このように吉村氏は、ヤマト王権の成立は四世紀前半と捉えているが、考古学がヤマト王権成立のメルクマークとしている箸墓古墳は、行燈山古墳のすぐ南側に位置しており、形も同じ前方後円墳であり、考古学のヤマト王権説とどこが違うのだろうか。
これまでの古墳研究の成果によれば、同じ古墳型の採用は、同一の儀礼を伴う葬制の継承を意味する。儀礼では、首長権の継承儀礼が付随するとされるので、王墓形式を同じくすることは、政治文化の共有を表明することになる。では、ほとんど隣同士と言ってもよい、箸墓古墳と行燈山古墳という二つの同型の古墳の成立時期の違いでもって、王権の成立時期を違えるのは、何故だろうか。
 考古学の「前方後円墳体制」の成立をもってするヤマト王権説と、吉村氏の説くヤマト王権説との違いとは何か、私には解りづらいのだが、吉村氏は以下の説明をしている。

 『このことからわかるようにヤマト王権は、前代の王ないし王権との間で、部分的な共通性・継承性をもちながら、成立したのである。すでに述べてきたように、倭国としての統合過程で、地域的特色をもつ弥生墳丘墓から、定型的な企画で前方後円墳が構築された。その発展のうえに、ヤマト王権が成立したことになる。その背景について、もう少し詳しく説明することにしたい。
 各地で、地域的特色をもちながら弥生墳丘墓が築造されるという墓制の歴史を前提にして、最終的に前方後円墳が奈良盆地を中心とする近畿地方で誕生した。ここで注目したいのは、前方後円墳を構成する諸要素が、近畿地域の弥生墓制を基にした発展型ではなかったという歴史的事実である。言葉をかえれば、前方後円墳には近畿地方を起源とする要素はほとんどなく、列島各地における弥生墳丘墓の総合化という性格をもっていたということである。墳丘の形態などの可視的部分でいえば、ほとんどが近畿以外の外部的要素から造られていたという(北條芳隆「前方後円墳と倭王権」)。
 具体的にいえば、吉備で発達した特殊器台と特殊壺という土器を古墳の周囲にめぐらせるなど、東瀬戸内の影響や、ほかにも山陰や北九州などの影響を受けて造られていた。倭国という諸国が統合されていくネットワークのなかで、各地域の墓制の影響を受け、最終的には前方後円墳という形を有して形成されたのである。
 このように、前方後円墳体制は倭国統合の象徴であり、統合された倭国の最終的な到達点であった。したがって、前方後円墳体制の形成は、何よりも倭国の統合プロセスのなかに位置づけられるべき問題であり、ヤマト王権の成立問題とは、原理的に離して考える必要がある。ヤマト王権の問題は、「古事記」「日本書紀」の世界観の問題であり、これまで述べてきたように「はつくにしらすスメラミコト」の問題から理解すべきであろう。時系列でいえば、前方後円墳体制を前提にして、そこからさらに発展した政治形態としてヤマト王権が形づくられたということになる。
 これまで述べてきた日本列島の政治的統合のプロセスを、時系列で位置づけると、
① 倭国としての統合の展開 (1世紀末から2世紀初頭)
② 近畿地方を中心とする定型的企画をもつ前方後円墳秩序の形成 (3世紀中葉~後半) 
③ ヤマト王権の成立 (4世紀前半)
という三段階を設定し、考察するのが妥当だろう。
 私は、ヤマト王権が②段階を前提として生まれたことを重視し、この歴史的ステージを「プレ・ヤマト王権」と評価することにしたい。』

 やはり私には解りづらい。私は第一章で、吉村氏が指摘する②の段階を、政治的な統合とはとらえずに、「日本民族の形成もしくはその文化の形成」の段階と位置付けており、そう理解すると解るのだが、吉村氏はどうも私の理解とは違うようだ。同型の古墳を採用するという事は、政治文化を共有していたとしても、必ずしも、政治的な統合を意味していないと私は考えているが、吉村氏は政治的な統合と考えているので解りづらい。
 氏は、考古学のヤマト王権説との違いの一つは、邪馬台国との関係だと、以下の主張をしている。
 『ところで、考古学では卑弥呼の墓を、最古級の前方後円墳である箸墓古墳にあてる説も少なくない。しかし、現在の知見では、直径が百余歩(約一四四メートル)の卑弥呼の墓と、当初から前方後円墳として造営された全長二七ハメートルの箸墓古墳とは規模が違う。また、卑弥呼を箸墓古墳の被葬者とし、前方後円墳の形成によってヤマト王権の成立を考える立場をとれば、ヤマト王権の初代の王は卑弥呼となる。ところが、ヤマト王権の初代の王が女性という伝承はまったくなく、こうしたヤマト王権の歴史は受け入れることができない。』

 三輪山の麓に生まれたヤマト王権の初代の王が卑弥呼であり、その王権が5世紀の「倭の五王」の王権に発展していったのであれば、当然「記・紀」に女王・卑弥呼が記載されていなければならないのに、「日本書紀」で神功皇后に比定して記載されている、という事は大和王朝には卑弥呼の伝承がなかったという事であり、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする考古学のヤマト王権説は成り立たないという。同感である。
 もう一つの理由は、纏向遺跡である。箸墓古墳が卑弥呼の墓であり纏向遺跡がその王宮とする説が考古学では優勢であるが、纏向遺跡は4世紀前半(考古学の土器の編年では、布留Ⅰ式期)になると、遺構の数が極端に減少するという(桜井市文化財協会「ヤマト王権はいかにして始まったか」)。この事実も、吉村氏が箸墓古墳や纏向遺跡の成立時期を、後に大和王朝につながるヤマト王権の成立時期としない理由である。

 しかし、吉村氏は纏向遺跡や箸墓古墳などがある地域を、『現在のところ、倭国統合の中心的地域として、妥当な場所である』と書いている。
 この文書は先ほど引用した②の段階を「プレ・ヤマト王権」としていることに対応した文書であろう。こう考えてみると、吉村氏は箸墓古墳や纏向遺跡を築いた勢力を「プレ・ヤマト王権」として、崇神王朝を開いた勢力をヤマト王権とする、二段階の倭国統合説を展開している。
 私には、古墳が大阪平野に移動する4世紀末か5世紀初めに歴史の断層があるという二段階なら理解できるが、何故、同じ三輪山の麓にある箸墓古墳と行燈山古墳の時代に歴史の断層があると考えるのか理解できない。これは私の理解不足かもしれないが、問題はほかにもある。
 「記・紀」が初代天皇を崇神天皇としており、当然、その事績は初代天皇らしく書かれているが、果たして、それが信頼できるのだろうか。初代天皇らしき事績が信頼できないならば、私には、何も崇神天皇陵の築造の年代を、ヤマト王権の成立年代としなくてもよいと思われるのだが。

 河内王権説の直木幸次郎氏は、「記・紀」に書かれている崇神の事績の大部分は史実ではないとしているので、氏の「大和王権と河内王権」(「直木幸次郎古代を語る 5巻」 吉川弘文堂 2009年刊)収録の『三 崇神天皇と三輪政権』から引用する。

 『このようにして私は古墳時代のはじめ、奈良盆地に三輪王権と仮称する強力な政権が成立し、ミマキイリヒコ(崇神)・イクメイリヒコ(垂仁)などが王として実在し君臨していることを認めるのであるが、イリヒコーイリヒメ系の人名の多くが三輪王権の王や王族であったと思われることを除くと、『記紀』の所伝の大部分はこの時期の史実ではないと考える。
 たとえば「日本書紀」の崇神紀・垂仁紀には、トヨスキイリヒメが天照大神を宮中より出して倭の笠縫邑にまつり、ヤマトヒメがさらにこれを伊勢に遷して伊勢神宮が成立する話があるが、実際には六世紀ごろに成立した伊勢神宮の起源を古くするために作られた物語にすぎない。また崇神紀にみえる四道将軍として大彦(おおびこ)命・武渟川別(たけぬなかわわけ)・吉備津彦(きびつひこ)・丹波道主(たにはのみちぬし)命の四人を、それぞれ北陸・東海・西道・丹波の四方面へ派遣したという伝えも、五八九年(崇峻二)に近江臣満(みつ)・宍人臣鴈(かり)・阿倍臣を東山・東海・北陸の三道へ遣わしたことなどを手本にして六世紀末以降に構想された物語であろう。
 「古事記」の崇神条には四道将軍の話はなく、大毘古命(大彦命)・建沼河別(武渟川別)・日子坐王(丹波道主命の父)の三人が、それぞれ高志道・東方十二道・旦波国(丹波国に同じ)に遣わされたことがみえるだけである。大彦命と武渟川別は親子で、阿倍氏の祖と伝えられているが、阿倍氏が朝廷で勢力をもってくるのは六世紀以後であることから考えて、「紀」より古い伝えと思われる「記」の所伝の成立も、六世紀をさかのぼることはあるまい。』

 私も直木氏の考え通りだと思う。何故ならば、「日本書紀」の四道将軍の話とは、「日本書紀」を読んでみると、実は話の九割以上が奈良盆地北の木津川流域での戦争の話になっているからである。この戦争とは、武埴安彦(たけはにやすひこ)とその妻が謀反を企てて、夫は山背(やましろ)から、妻は大阪から共に京を襲おうとした。そこで天皇は、四道将軍の大彦(おおびこ)命達の将軍を使わして、勝利した。この謀反を鎮圧した戦いは「日本書紀」に詳しく書かれているが、四道将軍はこの戦いの後、畿外で戦い、戦勝の報告をしたと簡単に書かれてあるのみで、その戦いの様子は書かれてはいない。

 要するに、四道将軍の日本列島征服物語と言われているものは、「日本書紀」をよく読むと、奈良盆地の北側の木津川流域での制圧戦争の伝承しか書かれてないのである。この伝承は武埴安彦(たけるはにやすひこ)その妻の反逆し、夫はやま山背(やましろ)より妻は大坂より京(みやこ)を襲わんとした物語で、妻との戦いは簡潔に殺したと書かれているが、夫の武埴安彦(たけるはにやすひこ)の軍との戦いは詳しく書かれている。武埴安彦(たけるはにやすひこ)は現在の木津川市で殺し、その軍勢を追って木津川を下り淀川の合流点あたりで、完全に敗北させたと記されている。このことは「古事記」の越・東方・丹波三道の遠征でも同様で、単なる奈良盆地北側の木津川流域の制圧戦争が書かれてあるのみで、三道での戦争は書かれてはいない。
 初代天皇の崇神(ミマキイリヒコ)と次の垂仁天皇(イクメイリヒコ)の二代は実在していたと考えられているが、四道将軍の話ばかりではなく、この木津川流域の戦いも崇神天皇の時代の話ではなく、後の時代の伝承が崇神紀に記されているという説もある。事実、崇神の次の垂仁紀に書かれている戦争の記録は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の伝承であり、サホは奈良盆地の北の奈良市佐保の地であり、この地は武埴安彦(たけるはにやすひこ)の反乱を平定したはずの木津川流域の南に隣接している。垂仁紀に記されている戦争は、崇神が平定したはずの木津川流域の南に隣接する奈良盆地内に反乱が起こったという奇妙な伝承で、やはり、崇神紀の戦争はもっと後の時代の伝承が紛れ込んだものと思われる。この二代にわたる「記・紀」の記録から、私はヤマト王権(直木氏は三輪王権とする)の統治範囲は、奈良盆地を中心とした狭い範囲内だったと考えている。

 「記・紀」共に崇神をハツクニシラススメラミコト(初代天皇)と記している段は、将軍派遣の次に書かれている。そこでは、四道将軍(日本書紀)または三道将軍(古事記)が凱旋し、さらに人民への課税制度を整えて、国中がやすらかになったので、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称されたと書かれてある。要するに一定の地域を初めて治めた人物という事である。一定の地域とは、「記・紀」共に律令時代の日本の範囲を想定していると思われている。ところが、「記・紀」共に、もっと広い範囲である「天下」という文字がある。
 神武天皇のところで書いたが、「天下」という考え方は、夷(えびす)や蕃国(加耶や新羅)を支配下におさめた「治天下(天の下を治らしし)」の王という意味であり、蕃国(加耶や新羅)も含んでいる。「書紀」では12年秋の条で「天下太平矣」(天の下大いに平らかなり)とあり、17年条では「船者天下之要用也」(船は天下の要用―むねつものーなり)と書いてある。「古事記」でも「ここに天下太平」と書いてあり、崇神天皇は蕃国(加耶や新羅)も含んだ初代天皇である、と書かれている事になる。その関係からか崇神65年条で任那国が朝貢したと書いてある。
 崇神天皇が蕃国(加耶や新羅)も含んで、「天下太平」にしたと云うことは考えられなく、「記・紀」は初代天皇として偉大な人物として述べているだけで、日本書紀が書かれた時代に崇神が初代天皇だという伝承があった事は事実としても、その統治範囲は四道将軍の処で書いた通りで、奈良盆地を中心とした狭い範囲内だったと考えている。

 崇神条の「旧辞」的な物語の中でも、信頼性が高いと思われるのは三輪山信仰の物語だと直木氏は述べており、私もそう思う。三輪山信仰の物語は崇神紀の最初に出てくる説話で、国に疫病がはやり、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった時の話である。要するに、三輪山の大物主大神を様々な人物に祀らせたが世の中は平穏にならなかったが、大物主大神の子孫のオオタタネコに祀らせたら、世の中が平穏になったという話である。ここで注目を引くのは、三輪山の神をその神の子孫に祀らせたら平穏になったというところで、逆に言うと、三輪山の神は天皇支配下の人民に災害をもたらす恐ろしい神と思われていたと言う事になる。
三輪山信仰は現在でも三輪山そのものが信仰の対象であり、「三輪明神 大神(おおみわ)神社」には神を拝む本殿がなく、代わりに鳥居の奥にある神聖な禁足地を拝む拝殿があり、祭神はもちろん大物主大神である。
「記・紀」の説話は、この神と天皇家の関係が良好でなかったが、天皇家外の人物に大物主大神を厚く祀ったら、世の中が平穏になったという物語と読める。

 この事情につき、直木氏は以下述べている。同じく「大和王権と河内王権」(吉川弘文館)から引用する。

 『それではなぜ大和の国つ神である三輪山の神が疫病を流行させて、三輪山山麓地帯を本拠とする天皇家を困らせるのであろうか。またその神を天皇が祭っても効験がないのはなぜだろうか。
 天皇と三輪山の神との関係がかならずしも円滑でなかったらしいことは。つぎの話からもうかがえる。崇神紀十年の条に、崇神の祖父孝元天皇の妹にあたるヤマトトトヒモモソヒメが大物主神の妻となったが、大物主神の本体が蛇であることを知って驚き、神は恥じて「大虚を践みて」三輪山に入り、モモソヒメはそれを仰ぎみて、急に尻餅をつくようにすわったところ、箸で陰を撞いて死んだというのである。三輪山の神と天皇家の女性との結婚は不幸な結果に終る。
 また雄略紀には、天皇が近臣に命じて三輪山の神をとらえさせた話(七年条)がある。この場合も神は蛇であったが、蛇の目の光がさかんなために、雄略はおそれて蛇を山に放させたという。ここでも三輪山の神と天皇とは対立の関係にある。天皇と三輪山の神とは、どうにも融和できないあいだがらの様である。三輪山の神は天皇の手厚い祭祀をうけることはあるが、その本質では天皇と対立する異質の神と考えざるをえない。それはなぜだろうか。』

 その答えは、吉村氏のヤマト王権説に立てば、崇神天皇が拓いたヤマト王権と、それ以前の箸墓古墳などを築いた「プレ・ヤマト王権」の対立があり、ヤマト王権による三輪山祭祀権の掌握という事になる。そう考えてみると、吉村氏が「ヤマト王権」の前に「プレ・ヤマト王権」を想定する事は理解できるのだが、その王権の王宮は「帥木の水垣の宮」であり、帥木とは磯城の事であり、「プレ・ヤマト王権」の王宮が想定される纏向遺跡の近くという事になって、王宮の所在地が近すぎるのと、それぞれの年代も近すぎるのが気になる点である。
 そもそも、プレ・ヤマト王権とヤマト王権は対立して互いに覇権を争ったのか、それとも、プレ・ヤマト王権が衰弱してヤマト王権に替わったのか、この書物だけではその関係が良く分からないが、吉村氏が書いた「岩波講座 日本通史第2巻 収録の『倭国と大和王権』 一 大和王権の成立(1993年刊)」を読むと、少なくとも両者には対立という関係はなかったと考えているようで、ヤマト王権がプレ・ヤマト王権を制圧したと言う考えではなさそうだ。
 この説は邪馬台国九州説でも成り立つ説であり、もちろん邪馬台国畿内大和説であっても、私が序章で述べた、卑弥呼の死後の邪馬台国連盟は4世紀になると瓦解していく考え方とも一致しており、十分に成り立つ。考古学で考えるヤマト王権説より説得力があるが、プレ・ヤマト王権は何故ヤマト王権に変質したのか、という事が解りづらく、結局は、邪馬台国畿内大和説を採らざるを得ないのではなかろうか。すると次章で述べるが、晩年になり邪馬台国九州説に転じた門脇貞二氏と同じ問題に、直面せざるを得ないだろう。

 もう一つの見解は河内王権説で、直木孝次朗氏は以下の見解を述べている。

 『またしても同じ疑問に立ちもどるが、解答は一つしかあるまい。天皇家の先祖は、外から大和の地に入り、それ以前から三輪山の神を祭っていた権力を打ち倒して、それに取ってかわったと考えるほかはない。新勢力が現われて三輪王権を滅ぼし、新政権を樹立して三輪山の祭祀権を奪ったのである。ではその新政権はいつ、どこから来たのか。私は五世紀代に、河内方面から進入したと推定する。以上に述べた三輪王権にかかわる三輪山の神の説話の原形は伊勢神宮や四道将軍に関する物語と同様、四世紀の三輪王権での話ではなく、新政権が三輪王権を滅ぼした五世紀以降の話なのである。その話が三輪王権のこととして、崇神の条にかけられたにすぎない。三輪山の神が天皇と対立の関係にあるのは、新政権が三輪山の神を奉ずる三輪王権を滅ぼしたからであって、三輪山山麓を基盤とする三輪王権が三輪山の神と対立していたのではないのである。          (中略)
 なお三輪山信仰は、三輪山の山中の祭祀遺跡から出土する遺物からいって、五世紀以降に存するもので、四世紀にはさかのぼらないとする考古学者の説があるが、三輪山の祭祀は山中でのみするとは限らない。山容をみることのできる山麓地帯で祭祀が行われることも十分ありうることで、現在発見されている遺物によって、四世紀の三輪山信仰を否定することはできないと思う。』

 この引用をもってこの節は終わり、続いて、直木氏が河内方面から大和に侵入してきたと言う「河内王権説」を検討する。


(3) 河内王権説(王朝交替説

    

誉田御廟山古墳(伝応神天皇稜)の写真と図面です。
左下の前方後円墳(二ツ塚古墳)と、下の円墳(古市丸山古墳)に注目。

 昭和初期(戦前)、津田左右吉(1873~1961)氏は、応神天皇以前の天皇は実在しなかったとして、「記・紀」は皇室の日本統治の正当性を高めるために高度な政治的な理由で編纂されたと表明して、有罪判決を受けた。しかし、戦後になると「記・紀」批判が自由に行えるようになり、1948年の江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説の発表があった。続いて1954年、水野祐氏が第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝の交替あったとする三王朝交替説を発表して、万世一系とされる天皇の系譜を否定し、井上光貞氏がこれに続いた。この様な歴史学の動向を受けて、直木孝次郎氏、岡田精司氏、上田正昭氏などによって河内王権説が発表された。この説は王朝交替説とも呼ばれており、応神・仁徳などの巨大古墳が大阪平野に登場するのは、大和王権から河内王権に王権が交替したことを示す、と言う説である。
 河内王権説でも直木孝次郎氏、岡田精司氏による、瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説や、上田正昭氏による三輪王権(崇神王朝)が滅んで河内王権(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野裕氏と井上光貞氏の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説とがある。この河内王権説を批判する論者に門脇禎二氏がいて、彼は河内平野の開発は新王朝の樹立などではなく、初期大和政権の河内地方への進出であったとしている。
 この間の歴史学の動向を、門脇貞二氏の『葛城と古代国家』(講談社学術文庫 2000年刊)収録の「河内王朝(政権)論批判」から、少々長くなるが引用して紹介する。

 『「河内王朝」「河内大王家」などということばを初めて耳にしたのは、わたくしの場合、日本史研究会の古代史部会における岡田精司氏の口頭発表のときであった。すでにそれ以前、日本古代の王統は、連綿とつづいたものではなく、 崇神天皇~推古天皇の間には古・中・新の三王朝があり、とくに応神天皇以来の中王朝は従来とは王統を異にし、九州を統一したあと、仁徳天皇のとき難波に遷都したという説が発表されていた(水野祐『増訂 日本古代王朝史論序説』一九五四年)。岡田氏の報告は、古代史学界の動向のうえではそうした所論につながったものであろうが、直接には、天皇家の始祖神話の原型は、難波の浜に太陽霊を迎えそれと一体になるかたちの族長就任儀礼―八十嶋(やそじま)祭の前身-にあったとし、難波の海が天皇家の聖地とみられた以上、その権力の所在は巨大な王陵のあった河内ではなかったか、とされたのであった。
 しかし、これとは別に、論文のかたちでいわゆる河内王朝論を印象づけられたのは、直木孝次郎氏が、応神朝は難波を本拠とした新王朝であった、とした一九六四年の見解である(直木孝次郎「応神王朝論序説」『難波宮址の研究』五、のち同『日本古代の氏族と天皇』に収録)。そこでは、「記・紀」は応神~武烈天皇を一政権と構想する政治思想で叙述しており、難波の地が八十嶋祭や国生み神話など神代の伝承に連なることや、とくに、部民を統率して王権に直属しその職掌を氏の名としていた連(むらじ)姓の諸氏族-大伴・物部・中臣氏などは、元来、大阪平野に本拠があって、朝廷内部に重用されるようになった、とする論点を加えていた。
 一方、前述の水野祐氏の応神朝を中王朝とする見解は、井上光貞氏『日本国家の起源』(一九六〇年)にも継承されていたが、江上波夫氏のいわゆる騎馬民族征服説においても、北九州を統一したかれらによる崇神王朝が、四世紀末~五世紀初めに畿内に侵入して、さらに応神王朝を樹立したとされたのである。(『シンポジウム日本国家の起源』(一九六四年)。こうした動向のあと、江上氏の騎馬民族征服説を批判・否定しながらも、上田正昭氏は、四世紀後半に三輪王朝から王権の交替した河内王朝が生まれた、とされたのである。それは、河内を拠点とする有力氏族から、対朝鮮関係の緊迫のもとで、新たにワケを称する大王(応神天皇=ホムダワケ)が出現し、新たな政治的身分秩序がととのえられてきたものとみられた(上田正昭『大和朝廷』一九六六年)。
 こうした経緯のあと、みずからの旧説を再論・補強し、倭国造は海に深い伝承をもっていることなどを明らかにした岡田氏は、畿内諸勢力の連合政権であったヤマト勢力(三輪の大王家)には、朝鮮問題を契機に分裂が生じ、河内の天皇家は、大阪湾沿岸の水軍を率いた勢力と連合して、「海の大王」として興り、南大和の内陸盆地の豪族群を圧倒し、新たに連合体の指導的位置にたつ大王の地位を占めるにいたった。そして、こうした動乱の終結に決定的な役割を果たしたのが、葛城氏の三輪王朝から河内がわへの寝返りにあった、とされたのである(岡田精司『古代王権の祭祀と神話』一九七〇年、同「古代の王朝交替」『古代の地方史3』一九七九年)。
 こうした河内新王朝の成立が、それ以前の王朝と比べて、河内政権(直木氏はとくにこう表現される)・河内王朝の在り方や人民に対する支配方式にいかなる変化が生じたかということになるが、河内王朝論者は、案外にその点を明確にしていない。しかし、そうした傾向のなかで、直木説・岡田説・上田説は、この点により配慮されており、従来の大臣に加えて、河内の渋江(しぶえ)郡のあたりに本拠をもつ物部氏と難波から河内南部に勢力を張っていた大伴氏などの伴造(とものみやつこ)を大連(おおむらじ)として朝廷機構の整備と軍事力を強化し、河内の豪族に連のほか直(あたい)の姓を与えるなどして氏姓制とそれをささえるトモ→部民制や、外延的には、五世紀後半から国造制をととのえていった、とされたのである。
以上のような経緯ののちに、河内王朝論は、しだいに日本古代国家成立史論のうえで一つの市民権をもつようになった、と思う。』

 ここで述べられている三輪王朝とは、三輪山の麓にある磯城や箸墓に古墳を残すヤマト王権の事であり、八十嶋祭りについては、若干の補足説明をする。八十嶋祭りとは古代から中世にかけて行われていた宮中行事で、天皇が即位し,大嘗祭 (だいじょうさい) の翌年,吉日を選び,勅使を摂津国難波津につかわし、スミノエノカミなどの神々を祀り、御代の安泰と国土の生成発展とを祈った祭りである。八十島とは、古代の大阪湾の前面には島になっている砂洲が多く在り、今日でも大阪には福島や堂島など島のつく地名が多く、これらを八十島と言っていた。「記・紀」の国生み神話はこの大阪湾の淡路島から始まっており、国生みと八十島の生成が似ており、八十嶋祭りと国生み神話が関係しているとして、八十嶋祭りと天皇家の始祖神話との関連を指摘して、特に岡田氏が注目している。
代表的な河内王権説と言えるのは、直木説・岡田説・上田説であり、三氏によりそれぞれ微妙な違いがある説なので、主として、直木氏の説を「直木孝次朗古代を語る 5巻 大和王権と河内王権」(吉川弘文館 2008年)を参照して、考察を進める。断りがない限り『』内の引用は同書が収録する論文です。なお、河内王朝や河内政権という言葉は、意味は同じであるが、私は河内王権という言葉に統一して述べていく。

 河内王権説について、私が紹介するより直木氏自身が、1979年の講演で簡潔に紹介している文書が、「大和王権と河内王権」の「序」に掲載されていたので、それを以下引用する。

 『それからもう一つこういう意見もあります。四世紀の末ないし五世紀の初めに、それほど大きな変化を認める必要はない、四世紀の政権が発達して河内方面に勢力を拡げてくるのだという考え方でございます。これは古くからある説ですが、いまもその説を唱えておられる方もいらっしゃいます。
そういう諸説が、今日まだ統一されずに、各説対立しているのが実情かと思います。
しかし、それにいたしましても、政権の系統は別として、新しい動きが四世紀末ごろから起こってきたという点については、ほとんどの学者が認めている。学説の対立は、その系統をどう見るかという点においての相違ではないかと思います。そういうふうに変革を認める理由、また私もその一人ですが、新しい政権が起こってくるのではないかと考える理由を、最初に若干申し上げておきたいと思います。
 一つは応神天皇、ホムダワケノスメラミコトといわれている、のちに八世紀になってから応神という名前をつけるわけですが、応神天皇の出生譚が非常に神秘的であります。応神は朝鮮に兵を進めたと伝えられている神功皇后のお腹に早くから入って、お腹にいる時から次の天皇であることが認められて胎中天皇と称せられたというようなことが『日本書紀』などに出ておりますが、そういうような非常に神秘的な生まれ方をしているというのは、多くの場合王朝を始める初代の人物に共通している物語であります。
 それから応神天皇を継いだ仁徳天皇についてはご承知のような聖君主伝説、聖天子伝説といわれる伝説があります。租税を三年間免除したとか、人民が喜んで天皇の御殿をこしらえたとか、淀川、あるいは大和川の治水をやったとか、ですね。それから応神天皇に関係しますが、海外に兵力を伸ばしていったというような話も初代の天皇についてしばしば物語られる物語であります。
 そういうようなことが応神、仁徳という二人の天皇に集中して語られているというのはこの二人の天皇から新しい政治が始まった。いわゆる治水伝説、租税免除の仁政物語そのものが事実かどうかは問題でありますが、そういうように伝えられているというのは、この二人の天皇が新しい政治を始めた王であるという考え方が古くから存したことの証拠ではないでしょうか。
 それからこのころの天皇の名前に「ワケ」というのがついてくる。応神天皇はホムダワケ、仁徳天皇はオオサザキノスメラミコトでワケがつきませんが、その次、履中天皇はイザホワケ、反正天皇はミズハワケというふうにワケがついてくる。こういう点も四世紀の政権と異なっている点ではないか。
 それから日本の神話には水辺または海の伝説の神話が多い。つまりイザナギ、イザナミノミコトというのは淡路島の近くに考えられているオゴロ島に天下ってそこでまず淡路島を生み、四国を生み、九州を生んだというような伝説は海と関係が深い。そしてイザナギ、イザナミというナギ、あるいはナミというような海と関係のある名前を持っていて、海人族、海で生活している人々の間に信じられていた神様ではないか。それが淡路島の島の神であり、大阪湾周辺にこの神を祭る社がいくつもあります。
 そういうようなことを考えますと大阪湾に臨む地域に古い政権が樹立された。それでそういう神話が天皇家の起源神話になっていったのではなかろうか。そういうような点から新しい政権が河内平野に樹立されてきたように私は考えているわけでございます。ただしその新政権は河内平野だけを基盤にしていたわけではないので、仁徳天皇が葛城襲津毘古(そつひこ)の娘磐之媛(いわのひめ)を妃として履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)の三皇子を生み、その皇子が次々に天皇になったという伝えに現われているように、葛城氏と深い関係を持っている。
 葛城氏というのは、磐之媛の父親が葛城襲津毘古ですが、ていねいに申しますと葛城長江襲津毘古という名前を持っています。長江というのはおそらく大和川を指すのではないかと思われます。大和川というのは葛城川が佐保川、泊瀬川などと一緒になった川です。ですから葛城氏というのは葛城地方から大和川に沿って勢力を伸ばして河内へ出てきている。その勢力と合一することによって新政権というものは非常に強大になっていったというように考えているわけでございます。
 しかしそれだけではなくて仁徳天皇の次に位に即く履中天皇はオオエノイザホワケという名前を持っております。オオエ(大江)というのはおそらく淀川、当時の言い方でしますと山代川のことだろうと思います。ですからオオエノイザホワケは淀川と関係の深い人物です。大和川と淀川とが一緒になって、いまの大阪の近く、東北のほうで合流して大阪湾に注ぐというのが昔の大和川の流れ方でありますが、五世紀の河内政権は淀川水系にも勢力を伸ばしている。和珥(わに)氏・春日氏ですね。この氏族は百済から渡来した博士・王仁(わに)の系統とは違う、いわゆる皇別氏族として「記・紀」にみえています。この氏族は大和盆地の東北部、いまの奈良市の市域に含まれる地域に本拠をもち、これと河内の新政権とが連絡を持って淀川流域にも勢力を伸ばす。春日氏などが、大和から平城山を越えて木津川へ出まして、木津川を下ってゆき、宇治川や桂川と合流して山代川つまり淀川になるのですが、仁徳天皇の兄弟にウジノワキイラツコというのがおりますが、ウジノワキイラツコというのは和珥氏の女性・宮主宅媛が応神との間に生んだ皇子でございます。
またこの宅媛の生んだ皇女にヤタノワカイラツメというのがいまして、これがまた仁徳天皇のお后になっている。こういうように河内政権は大和川、山代川にかけて勢力を持つのですが、そのほか大阪平野には古くから住吉神社が祀られております。この住吉大神がまた河内政権と密接な関係を持っている。住吉は古くは澄江とも書きました。いまは住吉と書きますが、本来は清らかな入江、澄んだ入江ということで、住吉の神は水の神様、海の神様にちがいない。上筒之男(うわつつのおの)、中筒之男(なかつつのおの)、底筒之男(そこつつのおの)という三柱の神様からなっておりますが、これはなにも難波にだけある神様ではなくて、瀬戸内海周辺に点々と祀られております。瀬戸内海の海人族の護り神であるわけです。それと密接な関係を持っております。瀬戸内海の海人族の護り神であるわけです。それと密接な関係を河内王朝が握っていたのでしょう。河内政権はそういう性格をもっていたのだろうと思っています。
この河内に成立した新政権というものが五世紀中葉ごろ允恭(いんぎょう)天皇の時代に大和に勢力を伸ばし、古い大和政権を打倒、併合する。そして五世紀の、おそらく後半に入りまして葛城氏を打倒する。河内政権は最初は連合しておりました葛城氏を打倒することによって、河内、大和を打って一丸とする大きな勢力基盤を作り上げて、そしてその上に雄略天皇が権力を振るったと私は推測しております。
 『記紀』によりますと、そのころ葛城氏の代表者はツブラノオオミ(円大使主)と伝えられておりますが、雄略に攻められてツブラノオオミが没落しております。葛城氏の勢力を圧倒することによって雄略政権というものが強大な力を持つようになった。そして倭王かという名前で宋の国に通交し、南朝から六国諸事安東大将軍という称号をもらう。従来の倭の国王の中で最も高い地位を南朝から認められている。それに相応するだけの地位を築き得たというふうに考えるわけでございます。
 その雄略天皇が東西に勢力を伸ばしてゆくことは井上光貞さんからより詳しくお話があるだろうと思いますが、昨年九月に発見されました稲荷山の鉄剣銘から考えまして、東は少なくとも埼玉県武蔵国までは雄略天皇の勢力が伸びていた。そして西は肥後の江田船山古墳から出てきております大刀の銘にやはり雄略を表わすと思われるワカタケル大王と判読できる文字があるところから考えまして、九州中部にまで勢力を伸ばしている。そういう大きな政治勢力が成立しています。ただこれを国家という名前でよんでいいかどうかは判断の分かれるところでございます。私はこの段階の最も強力な政権は、やはり日本列島の中では雄略政権であり、それを第二次大和政権というふうに考えております。河内政権の発展した第二次大和政権が最も強大な力を持っていたというふうに考えるわけでございますが、まだ連合政権という性格を持ち、専制的な権力、威力を発揮するところまで至ってなかったのではなかろうか。』

 ここで引用を終えますが、この後は吉備の勢力について述べており、「その吉備の首長はしばしば、伝説上の事ですけど、大和政権に協力しています。」と、「記・紀」に登場する吉備の将軍がヤマト政権に協力する事を伝説としているのは注目される。しかし、いつ吉備の首長が第二次大和王権として連合政権を構成したかについては、ここでは述べていない。

 河内王権を考えるうえで問題となるのは、四世紀末か五世紀初めに、王権の交替という大きな変化があったのかであるが、結論から言うと、王権の交替かどうかは別として、歴史の裂け目ともいうべき歴史の大変動を多くの人が認めている。
直木氏は応神以降の「ホンダワケ」などの「ワケ」のつく名称の天皇が続くのは、それ以前の崇神(ミマキイリヒコ)・垂仁(イクメイリヒコ)の時代の「イリ」のつく名前の王朝とで断絶があるとしている。それで応神王朝を「ワケ王朝」と言い崇神王朝を「イリ王朝」と呼ぶこともある。ただし応神天皇の実在が疑わしく、実は日本書紀には応神天皇稜についての記載がなく、伝説的な胎中天皇という出生説話でもあり、また、応神天皇と仁徳天皇の説話が似ていることから、応神天皇と仁徳天皇は本来同一の人格であったものが、三輪王朝と河内王朝を結びつけるために二つに分離されて応神天皇が作り出されたとする説があり、この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。水野祐氏は仁徳王朝としている。
 応神・仁徳一体説に関連して、冒頭の誉田山古墳(伝応神天皇稜)の写真と図面を見てほしい。左下の前方後円墳(二ツ塚古墳)は、誉田山古墳が築造される前からあった古墳で、なぜか誉田山古墳の形態を変えてまで保存されている。下の円墳(古市丸山古墳)からは、金銅製の鞍金具などの馬具(国宝、誉田八幡宮所蔵)が出土し、木製の鞍に金銅製の金具が綴じ付けてあり、古墳出土の鞍の中でも最優秀品と言われている。なぜこのように立派な副葬品が、大王墓ではなく、その陪塚からの出土なのか、本来は大王墓に副葬されるべきものではないのか、奇妙な事である。
 要するに、応神天皇稜は日本書紀に記載されて無いという事だけではなく、応神天皇稜とされている誉田山古墳は、本当に応神天皇稜としてよいのか疑問がある。実は応神陵だけではなく、仁徳陵も百舌古墳が本当に仁徳陵であるのかが疑われている。何故ならば、仁徳の子とされている履中天皇陵の方が、この二つの古墳よりも古い、という考古学からの指摘があるからである

 勿論、河内王権説の大前提としては、王墓とみられる古代古墳の設営地が奈良盆地から大阪平野へ地移動して、応神・仁徳稜とされる巨大古墳が5世紀になって築かれている事で、何故、王墓は奈良盆地から大阪平野へ移動したのかという問題意識があることは言うまでもない。
考古学上の変化は、この王墓の移動だけではなく、考古学者の白石太一郎氏は古墳文化について、「四世紀までと五世紀以降ではきわめて大きな違いがみられる」と指摘している。その違いとは一言でいえば、「倭の独自性の強い文化」から、「朝鮮半島の影響の強い文化」への劇的な変化である。事柄は古墳の埋葬施設や副葬品、生活用具など広範囲にわたっているが、とりわけ目を惹くのは、それまで全く見られなかった馬具が副葬されるようになり、武器・武具も「騎馬戦向きのものに大きく変化した」と言われるような副葬品にみられる変化である。
他にもこのような歴史の断層とよべる現象が各地の考古資料に残っており、直木氏は7世紀の宮廷の人々の意識には、「応神以前はそれ以後とは別な世界であると感じられていた」「現実の世は応神から始まり、それ以前は伝説の世であるという考えが、明確ではないにしろ意識されていた」と述べている。

 この様に4世紀末か5世紀初めごろに歴史の断層といえる、歴史の大変動があった事は今日の歴史学・考古学では認められているが、それが大和の王権から河内の王権への交替を意味するかについては、必ずしも王権の交替を意味していないとする説が主流と思われる。しかし歴史の断層と言える現象がある事は事実であり、これに関しては、朝鮮半島での高句麗との戦争における大敗北が原因ではないか、という鈴木靖民氏や溝口睦子氏の説があるが、この説の大前提として、高句麗と戦った「倭」とは大和の「倭」としなければならない。しかし私は、広開土王(好太王)碑文に出てくる高句麗と戦った「倭」とは、大和の「倭」であったとは、兵站ルートの長さと、戦闘期間の長さから言ってありえないと考えており、王権交替説が最も合理的にこの歴史の大変動を説明していると考えている。
 高句麗と戦った「倭」が何者であったにしても、この時期は、中国大陸の五胡十六国(316年の西晋の滅亡から439年の北魏による華北統一まで)の動乱と、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅三国による戦争という東アジアの大動乱の時期であり、この時期の日本列島にも、この大動乱の影響があって、歴史の断層と言える現象が起きたものと考えられる。

 それでは、大和王権から河内王権に交替して、社会の支配構造がどのように変化をしていったかについて次に述べる。
 直木氏は河内王権の支配の構造を、王権直属の部族(後の氏族)と、王権と連合していった部族(後の氏族)との二元構造だったとしている。例えれば、江戸幕府が歴代にわたり直属していた家臣を譜代大名として、後から幕府に参加してきた大名を外様大名としたのと似た構造とすれば理解しやすい。この二元構造が、後の5世紀末か6世紀初頭には、氏姓制度の二元性になって表れており、この二元性は氏(うじ)や姓(かばね)の制度ができる以前の5世紀から、それぞれの氏の前身たる部族が持っていた二元性であるという。
 氏姓制度の二元性とは、大連(おおむらじ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)グループと、大臣(おおおみ)・臣(おみ)・国造(くにのみやつこ)グループに分かれており、先ほどの例えでいえば、連・伴造グループは徳川時代の譜代大名に相当し、臣・国造グループは外様大名に相当する。また連・伴造グループは大友・物部・中臣など自分たちの職掌名を氏の名前としているのに対し、臣・国造グループは葛城・吉備・紀など地名を氏の名前としている特徴がある。このような二大グループは、河内王権が最初に大阪平野で政権を樹立したときに、それに付き従ってきた部族が王権直属の連グループを構成し、後から奈良盆地やその他の地域へ進出していったときに河内王権と連合していった部族は、臣グループになっていったという。
 したがって、臣グループは天皇家と同格の部族として通婚してお妃を出すが、連グループは大連といえども天皇家の家臣であって、天皇家とはほとんど通婚していない。このような二大グループは、氏姓制度が始まる以前の、河内王権ができた時から、それぞれの氏族の前身部族にあったグループ分けだという。

 説得力のある説であり、5世紀初頭のウジ(氏)の前身部族の段階からこのグループ分けがあったという説は、他に溝口睦子氏の「王権神話の二元構造説」があるが、一般的とは言えない。「日本書紀」ではよく諸家臣団を表すのに、「臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・百八十部(ももつあまりやとものお)」とその姓(かばね)で表している。この氏(うじ)と姓(かばね)で成り立つ「氏姓制度」とは、非常に厄介で難しい問題である。

 国造といっても、その全てが「在地首長」とは言えず、奈良盆地の倭(やまと)国造や葛城国造の例のように、明らかに中央政権から任命された官僚と思える者もいる。伴造に至ってはそもそも難解な制度(高校で日本史を教わったときは全く理解できなかった)であり、とりあえず、トモ部(伴部)という部民制の上に成り立つのが、伴造姓を持つ氏族と理解する。しかし、部民制について石母田正氏が説く「族制的身分制的編成原理による支配方式」とは、一言でいえばかなり原始的な支配原理という意味だろうが、その構造を理解するのが難しい。同様に理解しづらい問題で、何故、トモ部とされる人々がいたのかという事では、「岩波講座 日本通史第2巻(1993年刊)」に収録されていた狩野久氏の論文「部民制・国造制」で、部民制とはそもそも渡来してきた技術者の労働編成に際して採用されたものと書いてあり、トモ部とされている人々の、そもそもの由来は、5世紀初めから続々と日本列島へ来た渡来人だったと考えれば、トモー部民制と伴造が理解しやすいだけではなく、河内王権説にもつながるのではないかと考えている。
そうは言うものの、杖刀人や典曹人の例に見られる人制(ひとせい)と部民制の関係や、国造制と部民制が入り組んでいる例など、氏姓制度の二元性とは難解なテーマである。
 特に、部民制と伴造が難解なのは、国家の成立とその統治機構の問題であり、官僚制と軍事制度の形成過程の問題でもあるからだと思っている。そのためか諸説があり、この氏姓制度の二元性は、古代史を理解するための重要な勉強課題の一つである。諸説がある中で、前述した狩野久氏の「部民制・国造制」に書かれてあった、「倭王権は彼らに対してカバネの賜与を通して一定の政治編成を行ったに過ぎない」という見解をもとにして、さらに学んでいく事にする。
 官僚制と軍事制度は、国家の統治制度の根幹をなす制度であり、日本書紀という史料だけに頼るのではなく、倭の五王が自らが支配する諸首長(豪族)に、中国の将軍号・府官号などの除正を求めて、中国の府官制を取り入れた事も重要だと思っている。

 それでは、大伴・物部・中臣という連グループの代表氏族は、果たして大阪平野を本拠地としていたのだろうか。私たちが読む歴史書の中には、大伴・物部の本拠地として三輪山の麓を書いてある地図がるが、それは間違いなのだろうか。結論から言って、それは間違いと言える。
 この問題について、『Ⅱ 大和王権から河内王権 一 河内王権の成立と展開』から以下引用する

 『五世紀以降の有力豪族には葛城・春日・蘇我などのように、地名をウジの名とし、臣をカバネとする氏族と、大伴・物部・中臣・弓削などのように職掌に関係のある名称をウジとし、連をカバネとする氏族とがあったが、地名をウジとする豪族は、その土地を本拠とする豪族で、本来朝廷に対する独立性が強く、職掌名をウジとする豪族はその職掌をもって朝廷に仕えることで地位を保っており、朝廷への隷属性が強い。それは前者の豪族には葛城円大臣(ツブラノオオオミ)や平群真鳥(ヘグリノマトリ)のように朝廷に反抗した伝承があり、後者にはそうした伝承がないばかりでなく、天皇家との通婚の伝承も、前者の葛城氏や春日氏に多いのに対してほとんどないことにもあらわれている。天皇家とは身分が違うという意識があったのであろう。
 ここで注目されるのは、前者の豪族のウジの名となった地名には大和が多く、後者の豪族の本拠地には大阪平野が多いことである。その点はあとで詳しく述べる機会があるので、ここでは簡略にとどめるが、大伴氏は河内から和泉へかけての海よりの地、物部氏は大和川下流の河内中部、中臣氏は生駒山の西の山麓地帯と考えられる。これは河内政権が当初大阪平野の豪族によって構成されて成立したことを示し、大和政権の河内進出によるとは考えられない。大伴氏・物部氏の本拠地を大和とする説もあるが、大和の本拠地なるものは、河内政権が五世紀中葉以後、大和へ都を移したために設定した二次的な本拠地で、本来の本拠地は大阪平野にあったとすべきである。』

 以上述べており、大連であった大伴氏と物部氏について、直木氏の説をもっと詳しく紹介する。

 『これらの氏族の本拠地をいますこし詳しく述べると、大伴氏は、雄略紀九年の条に天皇が大伴大連室屋(むろや)に向かって、「汝大伴卿は、紀卿等と、同国近隣の人なり」といい、室屋は同族小弓宿禰の墓を和泉の田身輪(たむわ)邑(泉南郡岬町淡輪)に造ったという伝えと、欽明元年(五四○)に大伴大連金村が物部大連尾輿らに外交政策の失敗を弾劾されたとき、住吉宅に引退したという伝え(いずれも『書紀』)が注目される。また敏達紀十二年の条には、河内の石川に大伴村のあったことがみえる。いまの富田林市北大伴・南大伴の地であろう。これらの所伝からすれば、大伴氏の本拠は大阪平野、なかでも摂津から和泉にかけての海岸地帯であっと考えられる。
        (中略)
 同様に物部氏についても、いま天理市にある石上神宮の祭祀を物部氏が担当していることによって、奈良盆地に本拠があったとする意見も有力である。しかしこれも、物部氏の伝承をゆたかに残している『旧事本紀』に、物部氏の始祖饒速目尊(ニギハヤヒ)が天つ神の御祖の詔を受けて、「天磐船に乗りて、河内国の河上のイカルノミネ」に天降ったとある所伝、および用明二年(五八七)大連物部守屋が蘇我馬子との合戦に際し、武器庫のある石上神宮を捨てて河内の渋川郡にある阿都(八尾市跡部)の家に拠って蘇我軍に対抗し、執拗に防戦したという『書紀』の記事とから、大和川下流の渋川郡から若江郡へかけての地域を、本来の物部氏の根拠の地とみるべきである。『旧事本紀』にも、上述の文につづけて、「則ち、大倭国鳥見の白庭山に遷り坐す」とあって、河内から大和へ移動したことを語っている。』

 この様に河内王権は大阪平野の諸部族を直属の部下として、海の勢力の力も得ながら奈良盆地の勢力と対峙していったと思われる。その時の強力な連合軍となったのが、大和の勢力の中ではもっとも河内寄りの、奈良盆地西南にある葛城盆地を根拠地とする葛城氏であった。
河内王権を考える場合は、葛城氏は仁徳天皇の妃を出し、履中天皇・反正天皇の母となった人物の出身氏族であり、非常に重要な氏族であるだけではなく、葛城は重要な地域(国)であり、葛城国について詳しく研究したのは門脇氏なので、葛城については次章の「門脇貞二氏の地域王国説」で述べる。

 冒頭に紹介したが、河内王権説でも直木孝次郎氏、岡田精司氏による、瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説と、上田正昭氏による三輪王権(崇神王朝)が滅んで河内王権(応神王朝)に受け継がれたとする説があり、それとは異なる、水野裕氏と井上光貞氏の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説がある。
 直木氏と岡田氏の説を採ると、大阪平野に初期大和王権を打倒できるほどの勢力がいたことになるが、それを考古資料から説明するのは難しいのではないかと考えているが、かといって、水野氏と井上氏の九州勢力東遷説はもっと難しいと思う。九州勢力東遷説を採るなら、朝鮮半島の加耶の勢力が河内へ来たとするほうが、考古資料からは説得力があると考えている。騎馬民族征服王朝説も河内王権説の一つであるが、この説については、私はすでに江上説を検証した書物(「騎馬民族征服王朝は在った」イマジン出版社 2014年刊)を出しているので、いまこの様に執筆中の倭王権成立に関する諸説等の勉強を終えてから、別に稿を改めて私見を述べることにしたい。

 この様に河内王権説と言っても、多種多様であるが、初期大和王権から河内王権に王権が交替したという事では一致しており、考古資料からも、また当時の東アジア情勢からも説得力がある説だと考えている。さらに、氏姓制度の二元性は何故発生したのか、という観点からも説得力がある説だと考えている。他の説だと氏姓制度の二元性は何故あったのか、これを説明するのは難しく、構造的な二元性を否定するか、溝口睦子氏が説く四世紀末の高句麗との戦争の大敗北に、その発生の根拠を求めるしかないと考えている。
 卑弥呼死後の邪馬台国連盟という問題では、この説のいずれを採ったとしても、九州説でも畿内大和説のいずれであっても論理的な問題は生じない説となっていて、三世紀から六世紀へと矛盾なく歴史が説明できると考えられる。

 しかし、直木氏も上田氏も京都大学出身であり、京都学派の例にもれず邪馬台国畿内大和論者であり、当然書物でも自説を述べており、最新の書物を読んでみると、両氏とも「魏志」の背景や成り立ちに注目して、「魏志」東夷伝は当時の同時代史であり、かつ、西晋王朝の実質的な創始者といっても良い司馬懿(しばい)が遼東の公孫氏を滅ぼした事と、「魏志」との関係に注目を促していた。
 私もそのことは重要だと考えて、政治的理由による魏王朝による距離の誇張説を採用して、放射状読みでは、誇張されてはいない事になる伊都国からの距離との混在を序章で述べて、難問とされている邪馬台国九州説の距離問題の解決を試みた。私のような九州説論者にとっても、「魏志」倭人伝の読み方としては、両氏ともに貴重な示唆を挙げていた。

 次節として「門脇貞二氏の地域王国説」とするつもりだったが、かなり長文になりそうなので、これは章を改めて書くことにした。次章では、併せて、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説についても述べる。

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