第2章 百済からの献上品か、それとも下賜品か
(1)「日本書紀」神功紀の記述の信憑性
百済からの献上品説は、「日本書紀」神功紀ではその様に記述されているから説かれているが、その記述の信ぴょう性を検証する。
「日本書紀」の第19巻は、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)となっており、天皇でもない気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)つまり、神功皇后に一巻を割いている。このように神功皇后は天皇並みの扱いを受けており、全く異例の皇后であり、その物語は「日本書紀」では重要な位置を占めている。なぜ重要かというと、「日本書紀」は朝鮮半島の歴史書と言われるほどに、倭と朝鮮半島のことが書かれており、その、そもそもの始まりが神功皇后紀に書かれてあるからである。
その始まりというのは、私に言わせれば全くのおとぎ話で、夫の仲哀天皇は神の指示である新羅出兵をしなかったので仲哀9年に亡くなり、その年の秋に神功皇后は新羅出兵をして、出兵の船は大魚に助けられ順風に乗って新羅の国土深くまで乗り上げ、新羅は降伏をした。この知らせを聞いた、高麗、百済の二国王も日本に降ったと「日本書紀」は記している。所謂、仲哀天皇九年条の三韓征討の物語である。
いまだに神功皇后実在説もあるが、仲哀天皇も神功皇后も実在していた人物ではないというのが今日の通説であり、三韓征討物語も全く架空のお話にしか過ぎないが、三韓征討物語の約半世紀後である、神功46年の卓淳(とくじゅん)国への使者の派遣から始まり、百済・新羅の朝貢の記事などの一連の記事は、干支を二運(120年)遅らせれば史実ではないかと言う説がある。この一連の記事とは、百済の人名や地名がある事から「百済記」に基づく記載と言われている、
「日本書紀」では「百済記」の引用だけではなく、「百済新撰」と「百済本記」を引用する記事が少なくない。これらは「百済三書」と総称されており、その成り立ちについて田中俊明氏は「古代日本と加耶」(山川出版社 2009年 刊)で以下の見解を示している。
『これらは百済滅亡後、百済人たちが本国から持ってきたそれぞれの家系や王系などをもとにしつつ、日本に亡命してきて、新たに日本の天皇に仕えるに当たり、歴史的に、いかに自らの家系が、天皇家に奉仕してきたかを虚実取り混ぜて記して、提出した』書物であると論じている。この見解は歴史学界の大勢であり、「百済三書」の成立は、異論もあるが百済滅亡後の「日本書紀」が編纂され始めた天武・持統朝の頃、というのが通説となっている。
その根拠は、「百済記」には百済滅亡前には存在していなかった、「天皇」という君主を表す言葉があり、しかも日本のことを指して「貴(かしこき)国」と記すなど、倭の朝廷に提出する意図で書かれた書物であることは明白だからだ。また、「百済新撰」も日本の君主の事を「天皇」(雄略天皇条5年7月)と書かれている箇所がある。「貴(かしこき)国」という表現から、大和朝廷に迎合的に書かれている書物と言える。
書かれた時期については異論もあるが、「百済三書」は亡命百済人が書いた書物と考ている。亡命百済人が書いた書物ということは、彼らが日本に亡命してきた時に携えてきた書物には、大切に保存されていた原本となる歴史史料はあっただろうが、亡命して大和朝廷に従える身となってから書かれているという事は、当然大和朝廷の意向への配慮は働いていると言える。特に「百済三書」の中では、「百済記」は最も古い年代の時に引用されており、その傾向が強いと思っている。
しかし、後世に作られた書物とは言え、その記す年代は朝鮮側の史料である「三国史記」と整合しており、干支を二運すれば正確で、「日本書紀」編纂に際して紀年のよりどころになったと言われており、神功皇后紀や応神・仁徳紀は干支を二運すればおよその実年代を得られると言う。
この神功皇后紀の中で、七支刀に関連する46年条から52年条までの記述の信ぴょう性を検証する。以下の記述では、「任那」と「加耶」という地名が混在しているが、両地域とも朝鮮半島南部の旧弁韓の地域の事で同じ地域の事であり、以前は「任那」と言っていたが、今日では「加耶」と表現するのが一般的となったので、同じ地域が違う表現で混在することになった。
その「百済記」の一連の物語の中に、大和朝廷が任那を支配したという、神功紀49年条の「任那七国平定記事」がある。この物語は今日では史実ではないとされているが、かつては「己巳(つちのとみ)の史実」とされていて、古代の日本は任那を植民地として支配したというのが不動の定説となっていた。しかし49年条は疑問だらけで、友好国の卓淳(とくじゅん)国も平定する話になっており、そもそも新羅を撃破して、何故任那七国が平定されることになるのか、おかしな処が沢山ある。しかも当時は馬韓の南部も百済の領域ではなかったのに、その南にある済州島を攻め取り百済に賜ったというありえない話である。
一連の物語は神功皇后46年(366年)春3月に斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳(とくじゅん)国に遣わした事から始まっている。そこで斯摩宿禰は卓淳王から二年前に百済王の使者の久氐(くてい)らが来て、日本へ行きたがっていることを知り、自分の従者と卓淳国の人を百済に遣わした。すると百済の時の王である、近肖古王は非常に喜んだというのが、一連の物語の始まりである。
卓淳(とくじゅん)国とは金官加耶(金海市)の西にある現在の昌原付近と想定されており、当然「魏志」倭人伝の記述から判断して倭とは交流があるはずなのに、卓淳王も倭への道を知らなかったというストーリーになっており、百済と倭の交渉の初めにしては物語の真実性が薄いが、百済は加耶諸国を媒介として「倭」と交渉をしたという物語だと一応は理解しておく。
続いて47年に百済は久氐(くてい)らを遣わして倭に朝貢したが、一緒に新羅も朝貢をした事が書かれている。倭に贈られた新羅の貢物は豪華なのに百済の貢物は貧弱だったのは、新羅が百済の貢物を奪って新羅の貢物と替えたからだという物語である。この新羅の行為は暴かれて、皇太后は千熊長彦を新羅へ派遣して、百済の貢物をけがし乱したことを責めたという物語である。この物語は、次の49年条の新羅征討の原因を述べているが、百済史料に依らなくては書けない人名・地名が無く、「百済記」に書かれてあった物語では無い可能性の指摘がある。新羅が百済の貢物を奪うというモチーフは、崇神二年是歳条や応神十四年是歳条などにある類型的なものなので、書紀の編者の述作の疑いが持たれている。しかし、貢物の替え物語は「書紀」編纂者の創作だろうが、「百済記」に書かれていた百済・「倭」外交の始まりの可能性は否定できないと考える。何故ならば、仲哀天皇9年の時に新羅を征討し百済も降ったことになっているのに、神功47年に百済が初めて朝貢するストーリーになっており、「日本書紀」自らが仲哀9年の三韓征討物語を否定しているからである。
続いて末松保和氏が「己巳(つちのとみ)の史実」としている、問題の49年条なので、講談社学術文庫の「全現代語訳 日本書紀」から引用する。
『四十九年三月、荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍とした。久氐(くてい)らと共に兵を整えて卓淳国に至り、まさに新羅を襲おうとした。そのときある人がいうのに、「兵が少なくては新羅を破ることはできぬ。沙白(さはく)・蓋盧(こうろ)を送って増兵を請え」と。木羅斤資(もくらこんし)・沙沙奴跪(ささなこ)に命じて、精兵を率いて沙白・蓋盧と一緒に遣わされた。ともに卓淳国に集まり、新羅を討ち破った。そして比自体(ひしほ)・南加羅(ありしひのから)・喙国(とくのくに)・安羅(あら)・多羅(たら)・卓淳(とくじゅん)・加羅(から)の七力国を平定した。兵を移して西方古奚津(こけいのつ)に至り、南蛮の耽羅(済州島)を亡ぼして百済に与えた。百済王の肖古と皇子の貴須(くいす)は、また兵を率いてやってきた。比利(ひり)・辟中(へちゅう)・布弥支(ほむき)・半古(はんこ)の四つの邑が自然に降服した。こうして百済王父子と荒田別・木羅斤資らは共に意流村(おるすき)で一緒になり、相見て喜んだ。礼を厚くして送った。
千熊長彦と百済王とは百済国に行き、辟支山(へきのむれ)に登って誓い、また古沙山(こさのむれ)に登り、共に磐石(いわ)の上に居り、百済王が誓いをたてていうのに、「もし草を敷いて座れば、草はいつか火に焼かれるかも知れない。木をとって座とすれば、いつか水のために流されるかも知れない。それで磐石の上に居て誓うことは、永遠に朽ちないということである。それだから今から後、千秋万歳に絶えることはないでしょう。常に西蕃と称えて、春秋に朝貢しましょう」と。千熊長彦をつれて都に至り、厚く礼遇した。そしてまた久氐(くてい)らをつき添わせて送った。』
戦後の朝鮮史研究に大きな影響を与えた末松保和氏は本条の記述を大筋で認めて「己巳(つちのとみ)の史実」とし、倭王権による「任那支配」が始まったとした。しかし、その後の研究で「任那支配」の倭王権の出先機関とされた「任那日本府」の存在は否定されるようになり、末松説も否定されていく。
「日本書紀」を読んでみると、「任那日本府」は一つの例外を除いて、全てが任那復興の欽明天皇紀に書かれている。しかも「日本府」の役人の言動については、任那復興という倭王権の方針と必ずしも一致していないことが書かれている。「任那日本府」による「任那支配」なるものは、幻想にしか過ぎないことは、皇国史観から離れて「日本書紀」を読んでみれば誰でも気づくと思う。それでは「任那日本府」とは何かと言うと、欽明紀以外に書かれている唯一の例外である、雄略紀8年条の「日本府行軍元帥等」が「任那日本府」の前身と理解すれば推測できると思う。雄略紀8年条では日本府の将軍は任那王の要請で新羅を助けて高句麗と戦っている。当時の倭王権と新羅は戦争状態直前だったと「日本書紀」は記しているのに、日本府の将軍は任那王の要請で新羅を助けている。この事から、「任那日本府」とは加耶に定住した倭人とその子孫(韓子)の集団の組織で、加耶諸国からも倭王権からも自立していた集団で、「府」と称されるほどの権力を持った組織と思われる。
末松氏とは異なり、神功紀49年条について徹底した史料批判を行い、4世紀後半に倭国の「任那支配」そのものが存在しないことを論証したのは山尾幸久氏であった(「古代の日朝関係」塙書房1989年)。その後、より具体的に朝鮮半島南部の歴史像を明らかにしたのは田中俊明氏で、今日では、49年条の任那七国平定とそれに続く西の地域の平定は否定されている。
百済側の史料として49年条を読んでみると、注目すべきなのは、任那七か国平定の後に『百済王の肖古と皇子の貴須(くいす)は、また兵を率いてやってきた』と書いてあることである。百済王は近肖古王であり皇子の貴須(近仇首王)と共に、任那の地へやってきたと言う記載の持つ、49年条における位置は重大である。
神功皇后49年つまり369年当時の百済の重要関心事は、北に隣接する高句麗の動向であった。高句麗は「魏志」高句麗伝に書かれてある国で、中国東北地方の今の集安市に都を置いていた。
313年に楽浪郡と帯方郡を滅ぼし(帯方郡を滅ぼしたのはもしかすると別の勢力かもしれない)、朝鮮半島北部にまで進出していたが、高句麗は朝鮮半島への関心よりは西方にある中国の遼東郡方面に関心を抱いていた。しかし、342年には遼東郡を支配していた中国の五胡十六国の一つである「前燕」に大敗を喫し、都を占領された上に王の母と妻までが捕らえられた。逃亡した高句麗の故国原王は翌年には謝罪をして、355年には「前燕」から楽浪公として冊封されている。「前燕」から「楽浪公」の冊封を受けるということは、楽浪郡領有の正当性を正式に認められ、考古資料から旧楽浪郡を実効統治していたと思われており、南に隣接する百済との緊張が高まっていくことになる。
朝鮮側史料である「三国史記」によると、概ね以下の百済・高句麗戦争が書かれている。
『369年9月に高句麗の故国原(ここくげん)王は2万の軍隊を率いて百済に侵入したが、百済王は太子近仇首(きんきゅうしゅ・神功紀の貴須王)を遣わして、高句麗を破る。しかし、371年に高句麗は再び大同江を渡り百済を攻撃するが、百済王は兵を伏せて破り、逆に王と太子(貴須王)は侵攻し平壌城を攻め、故国原王を戦死させる。』
このように369年から百済と高句麗が戦争状態になる時に、百済王が加耶の地へ赴き、加耶諸国と親交を深めることは十分に考えられることである。倭の加耶七か国平定とは、実は百済と加耶七か国との同盟ないしは和親の記録が、百済滅亡後、倭へ亡命して「百済記」を書いた時に、倭の任那七か国平定という内容に変化したのではなかろうか。
また、百済の将軍木羅斤資(もくらこんし)などと共に新羅と戦ったと書いてあるが、この年に倭と百済が共同して新羅を攻撃する事はあり得ない。当時の百済は高句麗と緊張関係にあり、新羅と戦争をするわけがない。事実、当時の百済が加耶諸国だけではなく、新羅とも和親外交を繰り広げていたことが「三国史記」に記されており、368年には、百済が新羅に遣使し良馬二匹を贈っている。「三国史記」新羅本記には数多くの倭の新羅侵攻の記録があるが、396年にはその記録がない。ただし、393年には倭人侵攻の記録がある。
そうすると、49年条で真実が書かれているとすると、「倭」と百済の同盟のみという事になるが、これについては、後程述べる。
倭の加耶七か国平定とは、実は百済と加耶七か国との同盟ないしは和親の史実を、「百済記」は、神功皇后の三韓征討という「日本書紀」の編纂方針に迎合して、倭の加耶七か国平定と記したのではなかろうか。一連の物語は矛盾だらけとは言え、そのように理解することにより、日本列島に最も近くて交流が深かった加耶が、新羅、百済・高句麗征討(三韓征討物語)の半世紀も後に平定されるという、神功皇后紀の矛盾が説明できる。
近肖古王の時代には、百済と加耶七か国との同盟ないしは強固な和親があったことは、「日本書紀」欽明天皇紀に、百済の聖明王は任那復興会議において、加耶諸国に対して近肖古王代には加耶諸国と和親関係にあったことが繰り返し述べた文章が記されている事から証明できる。欽明天皇紀の記述から、近肖古王の時代に、百済と加耶諸国が強固な和親関係が結ばれていたことは明らかであり、その由来を述べているのが49年条と考えてみた。以下に欽明紀に書かれてある百済の聖明王の言葉を抜粋する。
『昔、我が先祖の速古王(近肖古王)・貴首王(貴須王)の世に、安羅・加羅・卓淳の旱岐(王)らと初めて使を遣して相い通い、厚く親好を結んだ。そして互いに子弟となって恒(つね)に隆えることを冀(ねが)った』(二年四月条)。
『昔、我が先祖の速古王・貴首王とそのころの旱岐(かんき)らとが和親を結び兄弟の仲となった』(三年七月条)。
『任那の国と吾が百済とはいにしえより以来、子とも弟ともなることを約束した』(五年十一月条)。
これらの記述が「百済本記」によるものであることは定説であり、百済において近肖古王代に加耶諸国の旱岐(かんき・王の意味)との間に強固な和親関係が結ばれた、とする歴史認識が聖明王の当時には存在したことは間違いない。六世紀中葉の新羅の加耶への進出という事態に直面して、こうした歴史認識が百済の聖明王の言葉として語られているわけである。近肖古王とその王子が自ら加耶諸国へ出向き、加耶諸国との和親関係をより強固にすることは、当時の高句麗との緊張関係からして十分にあり得る事と言える。
以上述べてきたように「己巳(つちのとみ)の史実」とは、百済と加耶諸国の和親以外にあり得るとしたら、「倭」と百済の同盟のみという事になる。これは当時の百済の置かれていた高句麗との緊張関係から十分考えられるが、同盟した「倭」とは何者かが問われる。「三国史記」には実におびただしい倭の新羅侵攻の記事があるが、この倭とは朝鮮半島南岸にいた倭か北部九州の倭と推測されている。百済が同盟した「倭」も同様ではなかろうか。
同盟は在りうるとしても、神功皇后紀が記す『常に西蕃と称えて、春秋に朝貢しましょう』という百済の盟約はなかったとすべきだろう。
何故ならばこの三年後の五二年には、百済は七支刀を「倭」に贈っており、その七支刀には候王と刻まれており、倭王が候王ならば、倭に対して「常に西蕃と称えて」などと盟約することは考えられない。また盟約したという千熊長彦なる人物は「日本書紀」そのものがよくわかっていない人物としており、実在説もあるが、実在していたのか不明である。更には、四七年に新羅に対して「門罪使」として派遣されていた人物が、突然、盟約の当事者となっているのは不自然という指摘等から、49年条に記されている盟約の儀式はなかったという説もある。
盟約の内容とその儀式はともかくとして、「倭」と百済の間で何らかの盟約がなされたというのが、49年条(369年)に記されている史実と言える。
続いて神功皇后紀は50年と51年の倭と百済の交渉の記事があり、百済側の使者は久氐(くてい)で、倭の使者は千熊長彦となっているが、この両名ともよくわかっていない人物である。またこの2年間の記事は余りにも大和朝廷に迎合的に書かれており、百済の史料がなくても書ける内容であり、「日本書紀」の編者の述作という可能性もある。
しかし次の52年条は間違いなく「百済記」に記載されていたものである。
『52年秋九月十日、九氐(くてい)らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七支刀(ななつさやのたち)一口、七子鏡(ななこのかがみ)一面、及び種々の重宝を奉った。』
この記載は、百済側の史料がなければ書けないので、「百済記」の記事をもとにして書かれたものとしてよい。この七支刀が石上神宮に保存されていた七支刀とされている。その銘文から「倭」と百済の盟約を記念して作られたものは明らかであるが、問題は49年条に記されている「倭」と、七支刀に刻まれている「倭」を、無批判に畿内ヤマトの倭王権としても良いのか、ということである。
問題点はいくつかあるが、「倭」と百済の同盟の同盟の儀式を行っている場所が不自然である。49年条の記事で「倭」と百済の同盟の儀式、つまり今様に言うと「調印式」が百済で行われている事が、「畿内ヤマト」の倭と百済の同盟調印の場としては不自然な事である。49年条は新羅との戦争の後の加耶7か国平定の後の儀式としているが、新羅戦争と加耶7か国平定はなかったとすべきであり、そうすると、「倭」と百済同盟の調印儀式の記事のみとなり、その不自然さが浮き彫りになる。畿内の倭と百済が同盟するのに、その調印式が百済で行われるであろうか。両者の中間地点の九州で調印式が行われていれば不自然さはないが、余りにも百済の都に近いところで儀式が行われた、と「日本書紀」は記しているのは不自然であり、その「倭」とは畿内よりはもっと百済に近い地域の「倭」ではなかろうかという疑問が出てくる。
52年条は、369年に百済と「倭」の盟約が成立して、371年に百済から「倭」に七支刀が贈られたと理解すべきだが、その「倭」とは何者かが問題なのである。「三国史記」はその369年と371年に百済は高句麗との戦争に勝利したと書いている。おそらく対高句麗戦争と関係して七支刀は造られ「倭王」に贈られたのであろう。そしてその「倭王」とは無批判に畿内ヤマトの王権とできないならば、七支刀に刻まれている「倭王」とは、どの地域の「倭王」であっただろうかという問題がある。
次節では、何故、無批判に畿内ヤマトの倭王権とすべきではないのか、詳しく述べる。
(2)倭国への贈答品とすべきではなく、下賜品とすべき
七支刀は「日本書紀」が記すように倭国への献上品か、それとも韓国の学会が言うように下賜品かという問題は、単に日韓双方の民族感情の問題とすべきではない。確かに韓国からすれば、日帝36年の創氏改名などの屈辱の植民地支配の歴史も絡んできて、七支刀の銘文を読んでみれば献上品という解釈はできないのに、「日本書紀」に書いてあるから献上品だとされては、民族のプライドに関わる問題であることは理解できる。だが日本の側が単なる民族感情の問題に過ぎないとするのは、この問題を矮小化してしまう事になる。
この問題は大和王権の成立に深く関わる問題である。献上品あるいは、単なる贈呈品の場合は、畿内ヤマトの三輪山の辺にあった王権が大和王権に成長したという説を採れるが、下賜品説だとそうはいかなくなって、七支刀を贈られた倭王とは畿内のヤマト王権ではないという説が有力になり、大和王権成立の通説が揺らいでくるのである。
七支刀に刻まれている銘文は損傷で判読困難な文字が多く、定説とされる「釈文」は無いので、七支刀が保存されている石上神宮のHPが載せている「釈文」を紹介する。
(表面) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀
□辟百兵供供侯王□□□□作
(裏面) 先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世
□は判読できないほど剥落している箇所であり、文字は「釈文」する人により少し違う所があり、銘文は大変読みづらい状態にあったが、戦後、福山敏男氏は次のように「釈文」をして解釈した。この解釈が今日の判読の基となっている。
(表)泰和四年五月十一日丙午正陽造百練銕七支刀生辟百兵宜供供侯王::::作
泰和四年正(或は四か五か)月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。
(裏)先世以未有此刀百滋:世:奇生聖音故為倭王造伝不:
世先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。
表面の二字目は、右側のツクリは全く判明しないが偏は禾偏(のぎへん)であり、泰和四年で、東晋の太和四年(369年)とする事は1章で述べた。また2章で百済と「倭」が同盟した年は、「日本書紀」神功皇后46年条から、369年に「倭」と百済の盟約がなされたと述べてきた。この二つの解釈は日本では通説となっており問題はほとんどないが、「日本書紀」では七支刀は百済から倭への献上品と書かれているが、下賜品だとする説が出て、未だに決着がついていない。大きな問題は表面に侯王という文字が刻まれていることである。
侯王という文字の存在も大きいが、この論争では全体の文意の解釈が必要になるので、下賜(かし)品説による解釈を以下に載せる。
(表)「百錬の鉄で七支刀を造る。これによって世は兵事の不祥を避け、もろもろの侯王に幸いする」。
(裏)「先世以来、まだこの刀あらず。百済王の世子、奇しくも生まれながらにして聖徳あり。それ故百済は倭王のために造った。後世まで示し伝えなさい」
裏面の最後の4文字である「□□□世」を「永く後の世まで伝わるであろう」と解釈するのが福永氏の解釈であったが、何しろ判読しづらい文字が3文字連続しているので「後の世まで示し伝えなさい」と解釈することも可能であり、この場合は下賜品説となる。「□□□世」は「伝示後世」と書かかれてあるという説は多く、このように書かれてあるとすれば、「伝」は命令形の漢字とすべきで、「後の世まで示し伝えなさい」と解釈するほうが妥当であり、下賜品説が有利となると思う。しかし、熊谷公男氏は「大王から天皇へ」(講談社学術文庫)では、同じく「伝示後世」と釈文して、「後の世まで伝え示されたい」と解釈しており、下賜品説の解釈とはなっていなく、このように解釈する学者も多い。しかも、「□□□世」を「伝示後世」と読む事が通説となっているわけではない。
全体の文意から判断するのが困難だとすると、表面に刻まれている「侯王」とは裏面の「倭王」のこととして、「侯王たる倭王」が七支刀を百済から贈られた人物かどうかが、この論争のカギを握ることになる。
素直に読んでみれば「侯王たる倭王」が七支刀を百済から贈られた人物となると思う。ところが、日本の歴史学会では侯王とは、倭王のことではなく百済王のことで、表面の「侯王」の銘文は晋朝の立場で百済王の事を書いているという解釈を採り、七支刀が贈られた「倭王」と「侯王」は別人物だとする説がある。
この説は「侯王」という文字の存在などから、韓国や北朝鮮の学会から七支刀「下賜」説が現れて、日本の学会は「日本書紀」の記述から百済からの「献上」品としていたことから、論争になった経緯で説かれたものと思われる。「侯王」イコール「倭王」だとすると、「献上」品ではなく「下賜」品とするのが自然である。そこで日本の「献上」品説側から、「侯王」と書いてある表面と「倭王」と書いてある裏面とでは、銘文は別作成で、表面は東晋で作成された文面を使っているという説が出てきた。
この表・裏銘文別作成説は、表面と裏面の書体の違いと、百済の東晋入貢以前に東晋の年号を使用する事を不審とする立場等から、百済が表の銘文だけが入った原七支刀を東晋通交時に入手し、百済ではその模造品を作成して、裏に銘文を刻して倭国に贈ったという解釈である。書体の違いについては、かなり主観の入る事であり、もちろんそれを否定する説もある。また、百済の東晋入貢以前に東晋の年号を用いた事については、百済の官人に中国系百済人がいて彼らが東晋への関係を志向したのではないかという説がある(鈴木靖民「倭国と東アジア」・吉川弘文館2002年)。4世紀の高句麗には中国系の官人の存在が確認されているが、楽浪郡と帯方郡の滅亡により百済にも中国系の亡命官人がいたと思われる。このような中国系の人々がいたから、372年の東晋への入貢が可能になり、百済王は鎮東将軍楽浪太守に冊封されたのだと考えられる。
東晋への入貢以前から、百済では東晋への関係を志向する中国系の官人がいて東晋年号を奉じていたとしても不自然ではなく、表・裏銘文別作成説は根拠があまりに貧弱で、無理があると考える。
この様な論争経過があるにもかかわらず、「侯王」については黙して語らず、の書物が多い。最近刊行された通史での七支刀についての記述を調べてみた。まず、講談社学術文庫の通史である「日本の歴史」全26巻の第3巻の「大王から天皇へ」(熊谷公男著・2008年)での七支刀の扱い方を調べた。熊谷氏は「侯王」という文字の存在については触れてはいなかった。「侯王たる倭王」だとすると、倭王は畿内のヤマト王権の王とは言えなくなって来るが、倭王とは畿内のヤマト王権の王とみなしている記述であった。このような立場に立つと「侯王」という文字の存在に触れるわけにはいかないのだろう。しかし、七支刀は百済からの献上品では無いとして、両国の対等の国交樹立を記念して倭王に贈られた贈答品としている。
吉川弘文館の「日本の時代史」全30巻では、2巻の「倭国と東アジア」(2002年 刊)に七支刀について述べられているが、やはり献上品ではないとしながらも「侯王」については触れられていなかった。
直近の「岩波講座 日本歴史」全22巻では、第1巻「原始・古代1」(2013年刊)で七支刀の事を述べているが、「日本書紀」に記されている『百済による「献上」の表記をそのままに信頼することはできない。』としているのみで、やはり「侯王」については触れていなかった。
21世紀に刊行されたこの三つの通史はともに、「侯王」については黙したままで何も述べずに、七支刀に刻まれている倭王とは畿内のヤマト王権の王とみなしている記述であった。
七支刀が石上神宮に伝世されてきた以上は、「侯王」に触れると畿内のヤマト王権に贈呈されたものではないのでは、という疑問が出てくるので、無難な編纂姿勢だと思う。しかし、表面に刻まれている「侯王」に触れないままに、裏面の「倭王」を畿内のヤマト王権の王として良いのだろうか。
ヤマト王権の王が、百済王から「侯王」とされるほどの弱小勢力だったとすると、4世紀後半は、まだ奈良盆地の地方勢力でしかないとする地域王国説を説く門脇禎二氏のヤマト王権説が妥当である。しかし、百済が朝鮮半島に影響力を及ぼせない遠方の地域政権と軍事同盟を結ぶとは思えないので、侯王とはヤマト王権の倭王ではなく、どこかほかの地域の倭王という事になる。
侯王と倭王は同一人物とすると、裏面の倭王とは地域王権であるヤマト王権の倭王ではなく、例えば九州王朝の倭王であり、その倭王は朝鮮半島に影響力を持っているが、百済王にとっては侯王と呼べる存在だったという解釈が妥当となる。
門脇氏の地域王国説から導かれるこのような私の考えとは異なり、考古学のヤマト王権説では、3世紀後半にはヤマト王権は西日本全体に覇権を築いたか、少なくとも西日本一帯の有力首長と連携したヤマト王権が成立したと考えている。この王権が4世紀半ばには朝鮮半島南部にまで進出したと考えることも可能であろう。
私の考えとは異なるが、ヤマト王権は列島の大半を支配下に置き、朝鮮半島南部にまで進出していたとすると、ヤマト王権はかなりの大国としなければならない。七支刀には侯王と刻まれているが、馬韓地域の王にしか過ぎない百済王、ましてやその太子が、この大国の王を大名クラスの王を意味する侯王と刻むことは出来ないはずだが、刻まれている文字は侯王である。
侯王と倭王が同一人物だとすると、裏面に刻まれている倭王とは侯王とされるはずがないので、ヤマト王権の倭王ではないということになる。結論はヤマト王権地域王国説と同じで、いずれの説をとっても同盟を結んだ倭王は畿内のヤマト王権の倭王ではないことになる。
そうではないとすると、表・裏銘文別作成説を採らざるを得ないと思うが、この説は余りにも根拠が薄弱すぎる。この根拠の薄弱さからか、候王とは各下の王という身分秩序の意味ではなく、単なる吉祥語句に過ぎないという説(神保公子)もあるが、吉祥語句の意味があるとしても、「候王」という文字は、畿内ヤマトという百済に比べれば大国の王に使う語句としては不適切だと思われるので、吉祥語句説には無理がある。
現時点で、七支刀という貴重な金石文から得られることは「侯王」について黙り続けるのではなく、同盟をした「侯王」とされる倭王はヤマト王権(三輪王権)の王ではない、とする仮説の構築が必要だと思っている。それは必要なく、侯王と倭王が同一人物でないと考えるならば、「侯王」について黙り続けるのではなく、少なくとも「侯王」とは何者であるか、その実体を明らかにすべきであろう。
百済と同盟をした倭王とは、畿内ヤマト王権の倭王ではないという推測は、七支刀が現存する石上神宮からも推測することができる。石上神宮は物部氏の神社と言える神社であり、なぜそこに保存されていたのであろうか。献上品である天皇氏の大切な宝なら、例えば正倉院などの朝廷の蔵に保存してあるはずだが、ところが、一豪族にしか過ぎない物部氏の神社に保存されていた。やはり、献上品という大切なものではなく、下賜品クラスの物でしかないのではなかろうか。
しかも物部氏は河内王権説にたつならば、五世紀になってから、三輪山の辺を根拠地とするヤマト王権に代わって、畿内の主導権を握った王権とともに大和に入ってきた豪族と思われている。その物部氏の神社に保存されていたということは、七支刀は応神・仁徳朝と言う河内王権の前身である倭王に下賜されたのではなかろうか。この考え方に立つと、畿内のヤマト王権(三輪王権)に下賜ないしは献上されたものでもなく、全く別の地域の倭王に贈られた品物が石上神宮の七支刀ということになる。
逆に言うと、七支刀の下賜品説に立つと、王朝交代説・つまり河内王権説が有力になってくると言える。
この様なことも想定出来るのが、七支刀の下賜品説であるが、全体の文意からしても、表面の侯王という文字の存在からしても下賜品とすべきと考えている。しかし、日本学会ではこの論争を避けて、候王という文字の存在に目をつむり、畿内ヤマトの倭王に贈られた単なる贈答品としている。私はこのような状態を「日本書紀」の呪縛だと考えている。
下賜品だとすると、七支刀は畿内ヤマト王権に贈られたのではないということになるが、どの地域の倭王に贈られたのであろうか。
この問題は、次章で述べる。
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