七支刀の二つの謎
「金官加耶における倭王」とその東遷
目次
「はじめに」と第1章はこのページにありますが、第2章以降は色が変わっている各行をクリックして開いてください。
はじめに 問題の所在
第1章 年代は東晋の太和四年(369年)で良いのか
第2章 百済からの献上品か、それとも下賜品か
(1) 「日本書紀」神功紀の記述とその信ぴょう性
(2) 単なる贈答品とすべきではなく、下賜品である
第3章 刻まれている「候王たる倭王」の正体
(1) 畿内ヤマトの倭王でないなら、どの地域の倭王か
(2) 任那加羅の「倭王」が河内に東遷した
* 広開土王碑の「倭」とは、「任那加羅の倭」である
* 七支刀の「倭王」とは、任那加羅(金官加耶)の倭王である
下は七支刀の写真です
はじめに 問題の所在
七支刀は刃から6本の枝が出た奇抜な形をした剣で、朝鮮半島と日本との関係を記す現存最古の文字史とされており、広開土王(好太王)碑とともに4世紀の倭に関する貴重な史料と言われている。奈良県天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されていて、明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した。
その主身に金象嵌の文字が表面に34(5)字、裏面に27文字が刻まれているが、鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もあるため、銘文の解釈・判読を巡って今も研究が続いている。
刀に刻まれている銘文を、熊谷公男氏の「大王から天皇へ」(講談社学術文庫 2008年刊)から、引用する。なお、銘文に対する読解は「釈文」という形で示されるが、この熊谷氏が上げている「釈文」も含めて定説とされている「釈文」はない。
(表)秦和四年五月十六日丙午正陽 造百練鉄七支刀
□辟百兵 宜供供侯王 □□□□□
(裏)先世以来未有此刀 百済王 世子奇生聖音
故為倭王旨造 伝示後世
□は判読できないほど剥落している箇所であり、文字は「釈文」する人により少し違う所があり、銘文は大変読みづらい状態にあったが、戦後、福山敏男氏は次のように判読している。
(表)泰和四年五月十一日丙午正陽造百練銕七支刀生辟百兵宜供供侯王::::作
泰和四年正(或は四か五か)月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。
(裏)先世以未有此刀百滋:世:奇生聖音故為倭王造伝不:
世先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。
先程、「釈文」を引用した熊谷公男氏は、だいたいつぎのような意味であろうとしている。
(表)「泰和(太和)四年五月十六日丙午(ひのえうま)の正午に、よく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀は多くの災厄を避けることができ。侯王が持つにふさわしい・・・・・・。」
(裏)「先世以来、このような立派な刀はなかったが、百済王の世子(太子)奇生(貴須王か)が、倭王のためにわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい」
七支刀をめぐる大きな論点は、その制作年代である泰□四年の解釈である。菅政友氏は泰始四年と読んだが、1950年代になり福山氏は、中国東晋の太和四年(369年)あるいは三国魏の太和四年(230年)を候補にあげていた。その後、東晋太和四年が日本書紀で七支刀が書かれている神功紀五二年条(干支二運下げた年代371年)と近似値を示すことから、東晋太和四年説となった。熊谷氏は福山氏の説を採り「泰和(太和)四年五月十六日丙午(ひのえうま)の正午」という解釈を採っており、これが日本での通説と言える。なお、表面の5字目は1字ではなく2字が刻まれているとして、五月ではなく十一月と読む説も有力である。
ところが、369年としてみると銘文の日干支と当てはまらなくなる。その年のカレンダーで16日であっても11日としても丙午となる干支の日付がないという問題がある。東晋太和四年説にはこの問題があるので、1960年代になり北朝鮮の金錫亨(キムソクヒョン)氏は泰□四年とは百済の独自な年号とする説を打ち出した。1980年代になり宮崎市定氏は、管政友が読んだ泰始四年だと五月十六日が丙午にあたるので、泰和四年ではなく泰始四年とよみ、その年代を南北朝期の劉宋の468年とする説を打ち出した。
この干支の日付が当てはまらないという事への反論としては、日付は吉祥句にすぎないとする論があり、現在ではやや渾沌とした状況にある。その上韓国では今日でも百済独自年号説が有り、ホン・ソンファ建国大教授とチョ・ギョンチョル延世大講師らから、泰□四年は百済の逸年号〈史書に伝えられていない年号〉で、百済の腆支王(チョンジワン)の時である408年製作とする説も登場しており、熊谷氏が解釈している東晋の太和四年説が日本では通説となっているが、論争が定まったとは言えない。
次に問題となるのが、この刀が、百済王から倭王に献上されたものなのか、反対に百済王から下賜(かし)されたものなのかという論争である。戦後も日本書紀に書かれてある通りに解釈して、百済王から倭王に献上されたものと解釈していたが、この解釈に対して1960年代になり北朝鮮の金錫亨(キムソクヒョン)氏から献上品ではなく百済王からの下賜品であるという反論が出てきたのである。
この論争では、全体の文意と、侯王と倭王をという用語の解釈が必要であるので、下賜(かし)説による解釈を以下に載せる。
表「百錬の鉄で七支刀を造る。これによって世は兵事の不祥を避け、もろもろの侯王に幸いする」。
裏「先世以来、まだこの刀あらず。百済王の世子、奇しくも生まれながらにして聖徳あり。それ故百済は倭王のために造った。後世まで示し伝えなさい」
北朝鮮の金錫亨(キムソクヒョン)氏や上田正昭氏は、この銘文を素直に読むと、上位者(百済王)から下位者(倭王)への命令的文書の形式をとっていることを指摘しており、特に、表面の侯王とは百済王の下位者を意味している事に注目すべきである。少なくとも日本書紀に書かれてある通りで倭王への献上品だとすると、表面に刻まれた侯王は倭王では無いということになり、侯王とは謎の王となってしまうのである。勿論これには侯王とは東晋の皇帝から見た倭王のことだ等とする反論はあるが、文書全体から解釈していくと下賜説はかなり説得力があるが、日本では侯王という文字は無視されているとしか思えない。
七支刀をめぐっては、このように未決着の議論があるが、七支刀の銘文が初期の日韓関係史をひも解く鍵を握っているだけではなく、ヤマト王権成立の謎をひも解く重要な史料である。
泰和(太和)四年が369年だとすると倭の五王の活躍前代に倭と百済はすでに緊密な関係を取り結んでいたことになるが、百済王からの下賜説に立つと、倭王とは畿内のヤマト王権とは言えなくなってくる。何故ならば、畿内のヤマト王権が百済と同盟するとすれば、この王権は畿内から北部九州を統属していた強力な王権とすべきで、このような強力な王権が百済王の下位に位置しいていたとは思えないからである。七支刀に書かれている王とは、畿内ヤマトの王権ではなく、例えば北部九州の「倭王」という存在を想定しなければ、下賜品説は成り立たないと言える。
下賜品説に対しては最近の日本では単なる贈呈品という解釈で、侯王という文字の存在を棚上げする傾向があるが、やはり、侯王とは畿内の倭王のことを指しているのかハッキリとさせねば、諸説があるヤマト王権成立の謎に迫れない。
そもそも七支刀に関しては解読が定かでない文字が有り、銘文の「釈文」が定まらない等の多くの謎があるが、この小論では、その贈られた年代と、献上品か下賜品かという論争の、二点の謎を解明していく。
第1章 東晋太和四年(369年)で良いのか
未だに定説の定まらない、七支刀の釈文の解釈に画期的な役割を果たしたのは、戦後の1950年代はじめの福山敏男・榧本(かやもと)杜人の両氏の研究であった。この研究により、銘文の年を「秦和」と読み、東晋の太和四年(369年)と考えるようになり、今日に至っている。
しかし、福山氏らの釈文の解釈には時代の限界があった。「任那日本府」問題である。当時は末松保和氏の「任那興亡史」(吉川弘文館、1949年)が説く4世紀末の「任那日本府」の成立が広く信じられており、4世紀末には「大和朝廷」は朝鮮半島南部の旧弁韓地域と馬韓の南部(栄山江流域:「日本書紀」が任那四県割譲と記している地域)を、「任那」として支配していたと信じられていた。「大和朝廷」の「任那日本府」による、朝鮮半島南部支配が不動の定説とされていた時代であった。しかも、七支刀に直接関わる文献史料は「日本書紀」神功皇后紀52年条のみで、百済側には七支刀に直接関わる史料は残されていない。このような時代であり、定説とされていた「任那興亡史」の影響下で、福山氏らは朝鮮半島南部を支配したとする「日本書紀」の歴史像に、批判的見地に立つことはなく、銘文にある「倭」とは大和朝廷のこととしていた。。
しかし、こんな状況下で画期的な影響を与えたのは、朝鮮民主主義人民共和国の歴史家である金錫亨(キムソクヒョン)氏の一連の研究である。
金錫亨氏は、倭王権による朝鮮支配とその象徴的意味をもつ「任那日本府」の実在を否定し、逆に朝鮮三国から列島に移住した人びとが、列島内に本国に従属する分国を建国していたとして、「日本書紀」の歴史像を一八〇度転換させた。七支刀に関しては、その冒頭の「泰和」の年号は百済の年号で五世紀代のものとし、七支刀は上位にある百済王から下位にある倭王に下賜されたもので、そのことは銘文が「下行文書」の形式をもつこと、銘文中の「候王」は百済王の下位にあった倭王に対する用語であることなどを指摘している「三韓三国の日本列島内分国について」(初出『歴史科学』 一、一九六三年。鄭晉和訳『歴史評論』 一六五・一六八・一六九号、一九六四年)。
南部朝鮮地域を倭王権が四世紀後半期以後に一貫して政治的・軍事的に支配し、ここに「任那日本府」を置いたとする「日本書紀」の日朝関係史に関する歴史像についての金氏の批判は正当であり、日本の一九七〇年代以降の研究がこれを示している。そうした研究進展の一つの、しかも重要な契機に、金氏の問題提起があったと言える。だが三国分国論は列島に関する文献的・考古学的諸事実と矛盾するところが多く、一つの仮説ではあるが認めがたいと思っている。
しかし、「日本書紀」の歴史像を一八〇度転換させた意義は大きく、朝鮮半島から倭を見ていくという視点は重要であった。特に七支刀を贈った百済の側から解釈していく視点は、日本の学会に欠落していた視点であった。また、冒頭の「泰和」の年号は百済の独自年号で五世紀代のものとする論は、太和四年の十六日でも十一日でも丙牛(ひのえうま)とされる日干支が存在しないにも関わらず、鮮明に十六日か十一日と刻まれている問題を抱えている東晋太和四年説に対抗する説として、いまだに朝鮮半島側の歴史認識として強いという。
*泰和四年五月十六日丙午正陽
この段落は七支刀の制作年代を示す重要な部分だが、従来から多様な学説が有り、現在でも各種の見解が並立している。
問題は2字目が「和」かそれとも「始」かということと、丙午(ひのえうま)という日付干支が刻まれていることである。五月か十一月かということと、十六日か十一日かかという事は、どちらであっても制作年代を推定する上では重要な問題とは思わない。
読み取りにくい銘文を読み取る作業が必要となるが、現在では村山正雄「石上神宮七支刀銘文図録」(吉川弘文館、1996年)によって、1字毎の鮮明な写真について観察することができる。その上1981年にNHK大阪支局取材班の撮影したX線写真も収録されており、従来は知られていなかった文字と、それまで不明確だったいくつかの文字についての貴重な指摘も行われている。五月を十一月と読む説はX線写真で十の文字が発見されたことによる。
「村山図録」のX線写真によって、1字目を「泰」と読むのは確定したと言って良いと思う。「奉」と読む説もあったが、上の方の横棒は縦棒を横切っているのに、下の方の横棒は縦棒を横切っていないので、「泰」と刻まれていることが証明されたのである。菅正友以来「秦」と読んでおり、1字目は「泰」で確定したと言える。
2字目は「村山図録」の写真を見ても、不鮮明な編がわかるだけで、判断できないが、少なくとも女編とは読み取れず、「始」ではないといえる。禾偏(のぎへん)と読み取れるので「和」を支持する。菅正友氏と宮崎市定氏は「泰始四年」と読んだが、「泰和四年」と読むべきと考える。しかし、泰始四年という年号は、西晋武帝の泰始四年(269年)と、劉宋の468年が考えられるのに対して、泰和という年号は13世紀の北朝金王朝の泰和(1201~08年)以外に見当たらないという問題がある。
しかし、栗原朋信氏により、東晋の太和という年号が泰和と記されていることが明らかにされている。正史である「晋書」の原資料となった「晋陽秋」には「泰和六年閏十月」とある例や、天子の言行を史官が記録した「晋起居注」に「海西泰和六年三月庚牛」という日付がある例などを示している。また神保公子氏は「泰」と「太」の仮借(かしゃく)は一般的に行われているとして、その事例を紹介している。(「七支刀研究の歩み」『日本歴史』三〇一号、1973年)このような研究の結果、冒頭の年号を泰和四年と読み、東晋の太和四年と見ることは妥当な解釈と言える。
一方そうではない解釈として、百済の独自年号説があるが、それは無理があると思われる。この事は武寧王の墓誌からも判明できる。武寧王の墓は盗掘されていないまま発掘されて、多くの貴重なものが出土した。王の墓誌も出土して、韓国の古墳の絶対年代を探る尺度として極めて貴重なものである。この墓誌に書かれていた年は干支で書かれてあった。墓誌に書かれてあったのは以下の通り。
「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
斯麻(しま)王とは武寧王のことであり、崩御年は癸卯(みずのとう)年と干支で書かれており、百済の独自年号は書かれていない。王の墓誌に独自年号がないということは、百済には独自の年号制度がなかったということであろう。現存する百済の年代を示す金石文は全て干支をもって記されており、百済には元号を新たに定めたという「建元(けんげん)」の史料はない。
中国には、百済では「六甲(干支のこと)に随いてもって年を標(あらわ)す」と記している書物(『翰苑(かんえん)』蛮夷部の百済の項)もあり、百済では独自な年号制度はなかったとすべきである。
したがって、七支刀に刻まれている年号は百済での独自年号ではなく、やはり中国の年号とすべきである。
中国の年号としては、長年の研究の成果からして、冒頭に書かれている年号は泰和四年と読み、東晋の太和四年(369年)とすることが最も妥当な解釈と言える。日付の干支が合わないという問題は、「丙午正陽」という日付も時刻も正確な日付や時刻として捉えるのではなく、吉日の縁起の良い時刻に造ったという吉祥語句として捉えるべきと考える。
従って七支刀がつくられた年代は、東晋の太和四年(369年)として間違いなく、謎の4世紀の貴重な史料として取り扱うべきだと考えている。
しかし、日本の歴史ではいまだに末松保和氏の「任那興亡史」の影響が強く、神功皇后紀49年条の任那七国平定の記述と任那日本府による任那支配を、未だに史実と考えている人がいる等、「日本書紀」に依拠して謎の4世紀を解明しようとする傾向が残っているが、もっと七支刀に書かれてあることに注目して謎の四世紀を解明すべきだと思っている。
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献上品か下賜品か