第3章 百済からの献上品か、それとも下賜品か

 七支刀は「日本書紀」が記すように倭国への献上品か、それとも韓国の学会が言うように下賜品かという問題は、単に日韓双方の民族感情の問題とすべきではない。確かに韓国からすれば、日帝36年の創氏改名などの屈辱の植民地支配の歴史も絡んできて、七支刀の銘文を読んでみれば献上品という解釈はできないのに、「日本書紀」に書いてあるから献上品だとされては、民族のプライドに関わる問題であることは理解できる。だが日本の側が単なる民族感情の問題に過ぎないとするのは、この問題を矮小化してしまう事になる。
 この問題は大和王権の成立に深く関わる問題である。献上品あるいは、単なる贈呈品の場合は、畿内ヤマトの三輪山の辺にあった王権が大和王権に成長したという説を採れるが、下賜品説だとそうはいかなくなって、七支刀を贈られた倭王とは畿内のヤマト王権ではないという説が有力になり、ヤマト王権成立の通説が揺らいでくるのである。

 七支刀に刻まれている銘文は損傷で判読困難な文字が多く、定説とされる「釈文」は無いので、七支刀が保存されている石上神宮のHPが載せている「釈文」を紹介する。

(表面) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀
□辟百兵供供侯王□□□□作
(裏面) 先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世

 □は判読できないほど剥落している箇所であり、文字は「釈文」する人により少し違う所があり、銘文は大変読みづらい状態にあったが、戦後、福山敏男氏は次のように「釈文」をして解釈した。この解釈が今日の判読の基となっている。

(表)泰和四年五月十一日丙午正陽造百練銕七支刀生辟百兵宜供供侯王::::作
泰和四年正(或は四か五か)月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。
(裏)先世以未有此刀百滋:世:奇生聖音故為倭王造伝不:
世先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。

 表面の二字目は、右側のツクリは全く判明しないが偏は禾偏(のぎへん)であり、泰和四年で、東晋の太和四年(369年)とする事は1章で述べた。また2章で百済と倭が同盟した年は、「日本書紀」神功皇后46年条から、369年に倭と百済の盟約がなされたと述べてきた。この二つの解釈は日本では通説となっており問題はほとんどないが、「日本書紀」では七支刀は百済から倭への献上品と書かれているが、下賜品だとする説が出て、未だに決着がついていない。大きな問題は表面に侯王という文字が刻まれていることである。
侯王という文字の存在も大きいが、この論争では全体の文意の解釈が必要になるので、下賜(かし)品説による解釈を以下に載せる。

(表)「百錬の鉄で七支刀を造る。これによって世は兵事の不祥を避け、もろもろの侯王に幸いする」。
(裏)「先世以来、まだこの刀あらず。百済王の世子、奇しくも生まれながらにして聖徳あり。それ故百済は倭王のために造った。後世まで示し伝えなさい」

 裏面の最後の4文字である「□□□世」を「永く後の世まで伝わるであろう」と解釈するのが福永氏の解釈であったが、何しろ判読しづらい文字が3文字連続しているので「後の世まで示し伝えなさい」と解釈することも可能であり、この場合は下賜品説となる。「□□□世」は「伝示後世」と書かかれてあるという説も多く、このように書かれてあるとすれば、「伝」は命令形の漢字とすべきで、「後の世まで示し伝えなさい」と解釈するほうが妥当であり、下賜品説が有利となると思う。しかし、熊谷公男氏は「大王から天皇へ」(講談社学術文庫)では、同じく「伝示後世」と釈文して、「後の世まで伝え示されたい」と解釈しており、下賜品説の解釈とはなっていない。しかも、「□□□世」を「伝示後世」と読む事が通説となっているわけではない。
 全体の文意から判断するのが困難だとすると、表面に刻まれている「侯王」とは裏面の「倭王」のこととして、「侯王たる倭王」が七支刀を百済から贈られた人物かどうかが、この論争のカギを握ることになる。

 素直に読んでみれば「侯王たる倭王」が七支刀を百済から贈られた人物となると思う。ところが、日本の歴史学会では侯王とは、倭王のことではなく百済王のことで、表面の「侯王」の銘文は晋朝の立場で百済王の事を書いているという解釈を採り、七支刀が贈られた「倭王」と「侯王」は別人物だとする説がある。
 この説は「侯王」という文字の存在などから、韓国や北朝鮮の学会から七支刀「下賜」説が現れて、日本の学会は「日本書紀」の記述から百済からの「献上」品としていたことから、論争になった経緯で説かれたものと思われる。「侯王」イコール「倭王」だとすると、「献上」品ではなく「下賜」品とするのが自然である。そこで日本の「献上」品説側から、「侯王」と書いてある表面と「倭王」と書いてある裏面とでは、銘文は別作成で、表面は東晋で作成された文面を使っているという説が出てきた。
 この表・裏銘文別作成説は、表面と裏面の書体の違いと、百済の東晋入貢以前に東晋の年号を使用する事を不審とする立場等から、百済が表の銘文だけが入った原七支刀を東晋通交時に入手し、百済ではその模造品を作成して、裏に銘文を刻して倭国に贈ったという解釈である。書体の違いについては、かなり主観の入る事であり、もちろんそれを否定する説もある。また、百済の東晋入貢以前に東晋の年号を用いた事については、百済の官人に中国系百済人がいて彼らが東晋への関係を志向したのではないかという説がある(鈴木靖民「倭国と東アジア」・吉川弘文館2002年)。4世紀の高句麗には中国系の官人の存在が確認されているが、楽浪郡と帯方郡の滅亡により百済にも中国系の亡命官人がいたと思われる。このような中国系の人々がいたから、372年の東晋への入貢が可能になり、百済王は鎮東将軍楽浪太守に冊封されたのだと考えられる。
 東晋への入貢以前から、百済では東晋への関係を志向する中国系の官人がいて東晋年号を奉じていたとしても不自然ではなく、表・裏銘文別作成説は根拠があまりに貧弱で、無理があると考える。

 この様な論争経過があるにもかかわらず、「侯王」については黙して語らず、の書物が多い。最近刊行された通史での七支刀についての記述を調べてみた。まず、講談社学術文庫の通史である「日本の歴史」全26巻の第3巻の「大王から天皇へ」(熊谷公男著・2008年)での七支刀の扱い方を調べた。熊谷氏は「侯王」という文字の存在については触れてはいなかった。「侯王たる倭王」だとすると、倭王は畿内のヤマト王権の王とは言えなくなって来るが、倭王とは畿内のヤマト王権の王とみなしている記述であった。このような立場に立つと「侯王」という文字の存在に触れるわけにはいかないのだろう。しかし、七支刀は百済からの献上品では無いとして、両国の対等の国交樹立を記念して倭王に贈られた贈答品としている。
 吉川弘文館の「日本の時代史」全30巻では、2巻の「倭国と東アジア」(2002年 刊)に七支刀について述べられているが、やはり献上品ではないとしながらも「侯王」については触れられていなかった。
 直近の「岩波講座 日本歴史」全22巻では、第1巻「原始・古代1」(2013年刊)で七支刀の事を述べているが、「日本書紀」に記されている『百済による「献上」の表記をそのままに信頼することはできない。』としているのみで、やはり「侯王」については触れていなかった。
 21世紀に刊行されたこの三つの通史はともに、「侯王」については黙したままで何も述べずに、七支刀に刻まれている倭王とは畿内のヤマト王権の王とみなしている記述であった。

 七支刀が石上神宮に伝世されてきた以上は、「侯王」に触れると畿内のヤマト王権に贈呈されたものではないのでは、という疑問が出てくるので、無難な編纂姿勢だと思う。しかし、表面に刻まれている「侯王」に触れないままに、裏面の「倭王」を畿内のヤマト王権の王として良いのだろうか。
 ヤマト王権の王が、百済王から「侯王」とされるほどの弱小勢力だったとすると、4世紀後半は河内と奈良盆地北部の勢力を合わせた地方勢力でしかないとする地域王国説を説く門脇禎二氏のヤマト王権説が妥当である。しかし、百済が朝鮮半島に影響力を及ぼせない遠方の地域政権と軍事同盟を結ぶとは思えないので、侯王とはヤマト王権の倭王ではなく、どこかほかの地域の倭王という事になる。
 侯王と倭王は同一人物とするので、裏面の倭王とは地域王権であるヤマト王権の倭王ではなく、例えば九州王朝の倭王であり、その倭王は朝鮮半島に影響力を持っているが、百済王にとっては侯王と呼べる存在だったという解釈が妥当となる。

 門脇氏の地域王国説から導かれるこのような私の考えとは異なり、考古学のヤマト王権説では、3世紀後半にはヤマト王権は西日本全体に覇権を築いたか、少なくとも西日本一帯の有力首長と連携したヤマト王権が成立したと考えている。この王権が4世紀前半には朝鮮半島南部にまで進出したと考えることも可能であろう。
私の考えとは異なるが、ヤマト王権は列島の大半を支配下に置き、朝鮮半島南部にまで進出していたとすると、ヤマト王権はかなりの大国としなければならない。七支刀には侯王と刻まれているが、馬韓地域の王にしか過ぎない百済王、ましてやその太子が、この大国の王を大名クラスの王を意味する侯王と刻むことは出来ないはずだが、刻まれている文字は侯王である。
 侯王と倭王が同一人物だとすると、裏面に刻まれている倭王とは侯王とされるはずがないので、ヤマト王権の倭王ではないということになる。結論はヤマト王権地域王国説と同じで、いずれの説をとっても同盟を結んだ倭王は畿内のヤマト王権の倭王ではないことになる。

 そうではないとすると、表・裏銘文別作成説を採らざるを得ないと思うが、この説は余りにも根拠が薄弱すぎる。
 
 現時点で、七支刀という貴重な金石文から得られることは「侯王」について黙り続けるのではなく、同盟をした「侯王」とされる倭王はヤマト王権(三輪王権)の王ではない、とする仮説の構築が必要だと思っている。それは必要なく、侯王と倭王が同一人物でないと考えるならば、「侯王」について黙り続けるのではなく、少なくとも「侯王」とは何者であるか、その実体を明らかにすべきであろう。

 百済と同盟をした倭王とは、畿内ヤマト王権の倭王ではないという推測は、七支刀が現存する石上神宮からも推測することができる。石上神宮は物部氏の神社と言える神社であり、なぜそこに保存されていたのであろうか。献上品である天皇氏の大切な宝なら、例えば正倉院などの朝廷の蔵に保存してあるはずだが、ところが、一豪族にしか過ぎない物部氏の神社に保存されていた。やはり、献上品という大切なものではなく、下賜品クラスの物でしかないのではなかろうか。
 しかも物部氏は河内王権説にたつならば、五世紀になってから、三輪山の辺を根拠地とするヤマト王権に代わって、畿内の主導権を握った王権とともに大和に入ってきた豪族と思われている。その物部氏の神社に保存されていたということは、七支刀は応神・仁徳朝と言う河内王権の前身である倭王に下賜されたのではなかろうか。この考え方に立つと、畿内のヤマト王権(三輪王権)に下賜ないしは献上されたものでもなく、全く別の地域の倭王に贈られた品物が石上神宮の七支刀ということになる。
 逆に言うと、七支刀の下賜品説に立つと、王朝交代説・つまり河内王権説が有力になってくると言える。

 この様なことも想定出来るのが、七支刀の下賜品説であるが、全体の文意からしても、表面の侯王という文字の存在からしても下賜品とすべきと考えている。そうすると、七支刀は畿内ヤマト王権に贈られたのではないということになり、どの地域の倭王に贈られたのであろうか。
 この問題は、次章で述べる。

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